真光誕生の矛盾を突く

真光以前から、これとよく似た行法が多数存在
何より重要なのが、岡田茂吉の世界救世教の「浄霊」
岡田光玉自身が、真光立教前に世界救世教へ入信していた
▼「オ・シ・ズ・マ・リがある」
「岡田光玉だけがこの能力を誰にでも授けることができた」
▼「釈尊やイエスも手かざしを行った」
真光側が証明すべきなのは、単に ▼「他にも似た行法がある」 ということではありません。

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崇教真光は、

▼「真光の業は神から初めて授けられた特別な救済法であり、岡田光玉だけが、その力を誰にでも授けられた」

と説明しています。
しかし、日蓮宗現代宗教研究所の『現代宗教研究』第23号は、真光以前から、これとよく似た行法が多数存在したことを具体的に挙げています。

第一に、● 真の道教団の「真手」、 ● 聖幸教の「まな手」という、患部に直接手を当てる療法がありました。
第二に、● 伯家神道・● 吐普加美神道系・ ● 松下祖神道系には、患部へ息を吹きかける「真息吹」系の行法がありました。
第三に、● 大本の出口王仁三郎には「御手代」を用いた治療があり、● 黒住宗忠にも陽気を吹きかける治療がありました。
● レイキ ● 中国の外気功も、手を通じて見えない力を相手に送る

という点でよく似ています。

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そして何より重要なのが、岡田茂吉の世界救世教の「浄霊」です。
世界救世教では、岡田光玉が真光を始める以前から、
・おひかりを首に掛ける
・相手に手のひらを向ける
・手を通して神の光を送る
・魂の曇りを浄める
・その結果、病気や不幸が改善すると説く
・所定の手続きを経た一般信者も浄霊を行える

という実践が存在しました。
これは真光の、

・御み霊を首に掛ける
・相手に手のひらを向ける
・神の光を送る
・霊・心・体を浄める
・病気や霊障の改善を説く
・研修を受けた一般信者も手かざしを行える

という構造と、驚くほど一致しています。
しかも岡田光玉自身が、真光立教前に世界救世教へ入信していたと報告されています。
そうであるならば、問われるべきは次の点です。

● 「世界救世教の浄霊を知っていた岡田光玉が、それと極めてよく似た手かざしを始めたのに、なぜ真光の業だけを、先行宗教と無関係な神からの独創的な業だといえるのですか」


真光側は、

▼「オ・シ・ズ・マ・リがある」
▼「身体に一番から二十番までの急所が定められている」
▼「急所ごとの想念も神示で示された」

と違いを説明しています。

しかし、それらは
● 手かざしという行法の起源の違いではなく、既存の手かざしに真光独自の手順と名称を付け加えた違いにすぎません。

● 自動車に独自の部品を付け加たとしても、自動車そのものを初めて発明したことにはなりません。

同様に、既に存在した手かざしへ「オ・シ・ズ・マ・リ」と「二十の急所」を追加しても、掌から神の光を送るという基本構造まで独創した証明にはなりません。

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また、

▼「岡田光玉だけがこの能力を誰にでも授けることができた」

という説明にも問題があります。

○ 世界救世教では、岡田光玉の立教以前から、岡田茂吉だけの能力ではなく、おひかりを拝受した一般信者が浄霊を行っていました。
○ 天理教でも「おさづけの理」を授け、
○ レイキでも伝授を受けた一般人が施術します。

したがって、

▼「一般人にも能力を授けられることが岡田光玉だけの特質だ」

という説明は、歴史的な先行例と矛盾します。

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さらに真光は、

▼「釈尊やイエスも手かざしを行った」

と説明します。

○ イエスには病人へ手を置いたという記述がありますが、御み霊を掛けて、離れた位置から掌の光を送ったとは書かれていません。
○ 釈尊についても、説法・看護・投薬・摩頂・放光の記述はありますが、真光式の手かざしをしたという経典上の証拠は確認できません。

異なる宗教の「手を使う行為」を、すべて真光の手かざしの前身であるかのように扱うのは、論理の飛躍です。

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以上から、真光側が証明すべきなのは、単に ▼「他にも似た行法がある」 ということではありません。

一、岡田光玉の手かざしが、世界救世教の浄霊から影響を受けていないという根拠。

二、一般信者への伝授が、世界救世教などに先行して真光だけに与えられたという根拠。

三、御み霊を通して手のひらから神の光が実際に出ているという、教団内部の体験談以外の客観的証拠。

四、釈尊が真光式の手かざしを行ったと明記する経典名・巻数・原文。

五、「オ・シ・ズ・マ・リ」と二十の急所が、先行行法の再構成ではなく神から授けられたことを、岡田光玉本人の申告以外で証明する資料。

これらが示されない限り、最も自然な歴史的評価は、

●「真光の業は、全く前例のない神授の奇跡ではなく、世界救世教の浄霊を中心として、古神道系霊術・鎮魂法・治病法などの要素を取り込み、真光独自の名称と手順で再構成したものではないか」

ということになります。
私は最初から「パクリだ」と決めつけているのではありません。
むしろ真光側が

▼「先行宗教とは無関係な、主神から直接授けられた特別な業だ」

と主張するならば、これほど明白な先行例との一致を、具体的な史料によって説明していただきたいのです。

相手に最も強く迫れるのは、この一問です。

●> 岡田光玉は世界救世教で

「おひかりを掛け、掌から神の光を送り、魂を浄め、一般信者にも許される浄霊」

を知っていました。

その後、ほぼ同じ構造の 「御み霊と手かざし」 を始めています。
これを影響・継承ではなく、主神から独立して授けられた全く新しい業だとする客観的根拠は何ですか。

▼ 「似ていても神示によるものだ」

と答えられた場合は、

●> その神示が本当に神から下ったという証拠は岡田光玉本人の申告以外にありますか。
既に知っていた浄霊を神示として語り直した可能性と、どう区別できますか。

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「レイキ(Reiki・霊気)」とは、手を身体に当てたり、少し離してかざしたりして、生命エネルギーを流し、心身を整えるとされる民間療法・霊的療法です。
日本で大正時代に臼井甕男(うすい・みかお)が始めた「臼井霊気療法」が起源で、のちに海外へ広まり、“Reiki”として日本へ逆輸入されました。

真光の「手かざし」とレイキは、
● 手を当てる、または手をかざす
● 目に見えない力・エネルギーが流れると説明する
● 痛みや気分が改善したという体験談を重視する

という点で非常によく似ています。

ただし違いもあり、

真光は 「神の光によって霊的な曇りや毒を浄める」 という宗教的教義を持つのに対し、
レイキは一般に 「宇宙的な生命エネルギーによる癒やし」 と説明され、宗教ではないと称することが多いです。

医学的には、レイキ特有のエネルギーが存在し、病気を治療するという確かな科学的証拠はありません。
楽になったと感じること自体はあり得ますが、それは安心感、休息、施術者との交流、期待による作用などでも説明できます。

真光の手かざしだけが独自の奇跡なのではなく、レイキをはじめ、昔から世界各地に似た 「手当て療法」が存在するという比較例 として挙げたものです。