<浅井会長>
理論書の三証の項(P.294〜295)で
「 現世における現象にはさまざまな現れ方があるので、浅薄に見てはならない 」
「ただし、現証といっても、臨終の証拠をのぞいて、現世の生活現証には種々の要素が加
わるので、表面的あるいは一時的な見方をしてはならない」
そして P.296 には
「所詮、正しい道理と文証に裏付けられぬ現証はごまかしにすぎない」
故に
「但し法門をもて邪正をただすべし、利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄)
参照 折伏理論書
此の上記の部位は浅井会長の云う通りかと思います。
「現証には正しい道理と文証の三証が揃えばこそ、初めて仏法上の功徳」
と浅井会長自身が述べているのですから。
ならば顕正会が「功徳」と述べるには
「顕正会が正しいという道理・文証」 がまずは立証されねばいけません。
この「現証が出るから顕正会は正しい」と言い切る顕正会員を多く見ますが、
顕正会でも誉れ高い日淳上人はこの「現証がでるから正しい」という論を徹底して愚論と
し破折しております。次頁は日淳上人の仰せになります。
<日淳上人全集より>
■ 宗教の利益はその根本に尊崇し奉る本尊の正邪により、且つその説かれる教法の正邪によつて分かるるのである。
本尊と教法が正法である時、利益は期せずして現ずるは理の当然であつてその利益は又正しいのである。
若し教法が不純であり邪法であるならば仮令(たとい)利益をいふもそは必ず不純であり邪道の利である。
故に宗教に入るには唯その利益を見て決するは冒険この上なしといはなければならぬ。
故に宗教選択の道は利益を先とせず法の邪正をもつてなさねばならない。
日蓮大聖人は
■「但し法門の邪正をもつてただすべし、 利根と通力とにはよるべからず」
と仰せられてあるが此れが宗教選択の要道である。
利根とは人間の智慧才覚に任せていふその言葉によるを指し、通力とは不思議なる力のみを以て神仏を計ることである。
此等は共に斥(しりぞ)けなければならないのである。
どうでしょうか───
「宗教に入るには唯その利益を見て決するは冒険この上なしといはなければならぬ」
なのです。
「良い事があるから(顕正会で)頑張ろう」 「良い事があるから本物」
などと言って宗教の正邪を判ずるは日淳上人に御叱りを受けるものと思います。
あくまでも
「宗教選択の道は利益を先とせず法の邪正をもつてなさねばならない」のです。