浅井の 『国立戒壇』義を破す その一部
三大秘法抄 三大秘法を論ずる段
『問ふ、寿量品は専ら末法悪世(あくせ)に限る経文顕然(けんねん)なる上は私に難勢を加ふべからず。
然りと雖も※1 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如(し)かず。
汝が志無二なれば少し之を言はん。
寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初(そのかみ)より以来(このかた)、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。
寿量品に云はく「如来秘密神通之力」等云云。疏(しょ)の九に云はく「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。
又昔より説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す。
仏三世に於て等しく三身有り、諸教の中に於て之を秘して伝へず」等云云。
題目とは二意有り。
所謂正像と末法となり。
正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止(や)みぬ。
像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。
是理行の題目なり。
末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。
名体宗用教の五重玄の五字なり。
戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、※2 勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。
時を待つべきのみ。
事の戒法と申すは是なり。
三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。
※3 此の戒法立ちて後、延暦寺(えんりゃくじ)の戒壇は迹門の理戒なれば益(やく)あるまじき処に、叡山の座主(ざす)始まって第三・第四の慈覚・智証、存外に本師伝教・義真に背きて、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなづり、戯論(けろん)と謗ぜし故に、思ひの外に※4 延暦寺の戒、清浄無染(しょうじょうむぜん)の中道の妙戒なりしが、徒に土泥(どでい)となりぬる事云ひても余りあり、歎きても何かはせん。
彼の摩黎(まり)山の瓦礫(がりゃく)となり、栴檀林(せんだんりん)の時凵iいばら)となるにも過ぎたるなるべし。
夫一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや。
此の法門は理を案じて義をつまびらかにせよ。
※5 此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決(くけつ)せし相承(そうじょう)なり。
今日蓮が所行は霊鷲山(りょうじゅせん)の稟承に介爾(けに)計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。』
※3 ※4 の御文から拝察するに大聖人は、本門戒壇と迹門戒壇と相対して述べられている。
この迹門の戒壇は、「勅宣」のみで建立され、「御教書」は出されていない。
そもそも、「御教書」とは為政者が出すもの。
比叡山迹門の戒壇建立事には、為政者は天皇であって、天皇以外の国を動かすような為政者がおらず、当然「御教書」など存在しなかった。
ということは、大聖人様は、当時の鎌倉時代における国家体制・政治形態に準えた形で、事相における戒壇建立の在り様を一往の手順として示されただけで、未来永久に、どのような国家体制・政治形態になろうが、何が何でも「勅宣」と「御教書」を必要とされたわけではないことが、迹門戒壇の建立の手順から分るというもの。
参考までにウィキペディアで検索して必要箇所を撰掲する。
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御教書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)とは平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の家司が主の意思を奉じて発給した古文書の形態。
概要
形式論的には綸旨・院宣・令旨と同じ形態である。
下文が訴訟の判決、裁許状など効力が永久的になる正式文書であるのに対し、御教書は通達や緊急の命令などで、文書としての格は劣るものとされた。
歴史
現存する最古の御教書は、永久4年(1116年)10月12日に藤原忠実により発給された文書である。
室町時代にはいると、御教書は下文・下知状を駆逐して幕府が発給する最上格の文書形式となる。
しかし、それに伴って現れた私信である直状形式の御内書などが次第に広く用いられるようになり、御教書はやがて使われなくなる。
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↑ どうであろうか?
「御教書」とは 恒常的・永久的・絶対的・普遍的・・・要素など全くなく、日本史のある一時代に存在した、為政者の命令書の一部に過ぎないのである。
こういう鎌倉時代の政治体制から大聖人様が「勅宣」並びに「御教書」という文言を用いられたという状況も知らずに、”広宣流布達成の時代にまで絶対不可欠!”と固執する浅井昭衛こそ、法門未熟の虚け者と謗られても致し方ないのである。
しかも、※2 勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者「か」
と、疑問形で示されている。
決して断定しておられないのである。
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「か」 の用法 意味
文末用法。(の場合)
疑問を表す。
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者
物ごと。また場所。
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つまり、当該御文を現代訳すれば以下のごとくなろう。
★ 『事相における『事の戒壇』とは、天皇の詔勅(※現代・現時点での天皇には実質的な国家の統治実権はなく勅宣とは形式的なものである。)と、鎌倉時代の鎌倉幕府為政者発する指令書の一形態(室町時代以降、現在には存在しない)が発令された時、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきことであろうか。』
このような文証を根拠に執拗に「国立戒壇」を叫ぶ浅井昭衛はいかに滑稽なことか。
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更に、御歴代上人方で、この「勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、」の箇所を解釈して”「国立」にせよ。”とか”「国教」にせよ。”との御指南は一つとして存在しない。
この箇所から「国立による戒壇建立」を言い出したのは、ただ一人、身延脱落僧の田中智学のみなのである。
浅井昭衛のいう「国立戒壇」論とは、所詮大謗法者・田中智学の”狂学”を基にしている邪論なのである。
つまりは、※1 ※5 に明らかなごとく、三大秘法の深義は唯授一人・血脈相承を承けられた、御法主上人しか相伝・伝持されていないのである。
(この点については別項で論じた)