浅井の書いた「基礎教学書」に以下の文がある。

▼ 「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、戒壇建立の手続きである。
「勅宣」とは天皇の詔勅。
「御教書」とは当時幕府の令書、今日では閣議の決定・国会の議決がこれに当ろう。
すなわち「勅宣・御教書」とは、国会意志の公式表明ということである。(170)

↑ ここが浅井の根本的な誤り。謗法の根源と言える。

まず、三大秘法抄の当該箇所を少々広く引文してみる。

■ 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如(し)かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。
(中略)
戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。
時を待つべきのみ。
事の戒法と申すは是なり。
三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。

此の戒法立ちて後、延暦寺(えんりゃくじ)の戒壇は迹門の理戒なれば益(やく)あるまじき処に、叡山の座主(ざす)始まって第三・第四の慈覚・智証、存外に本師伝教・義真に背きて、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなづり、戯論(けろん)と謗ぜし故に、思ひの外に延暦寺の戒、清浄無染(しょうじょうむぜん)の中道の妙戒なりしが、徒に土泥(どでい)となりぬる事云ひても余りあり、歎きても何かはせん。
彼の摩黎(まり)山の瓦礫(がりゃく)となり、栴檀林(せんだんりん)の??
棘(いばら)となるにも過ぎたるなるべし。
夫一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや。
此の法門は理を案じて義をつまびらかにせよ。
此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決(くけつ)せし相承(そうじょう)なり
今日蓮が所行は霊鷲山(りょうじゅせん)の稟承に介爾(けに)計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。
(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)

↑浅井は二重に過ちを重ねている。

1 大聖人様は 「事の戒壇」を 延暦寺の迹門の戒壇と相対してお考えになられている。
が、延暦寺 迹門の戒壇は 天皇の勅許を頂き成立したが、決して「国家意思の表明」でもなければ、当然「国立」でもない。
一宗門が成した事業である。

2、そもそも、三大秘法の深義は、大聖人様の「己心の大事」であり、口決相承でのみ伝わっている ということである。
その深義のほんの「少し」を大聖人様はこの御抄で在家信徒の太田金吾に述べられその概要を後代へ託されただけであって、その深義そのものはまさに唯授一人・血脈相承によってのみ伝持されているのである。
その証拠が引文中の赤い個所である。
血脈相承を受けていない、浅井如きの在家信者が、そもそも云々すべき問題ではないのである。

つまり、浅井は自らの分を弁えぬ、大慢心の者 ただそれだけの事である。

参考

■「勅宣並びに御教書を申し下して」の御文を

▼浅井 
「「勅宣」とは天皇の詔勅。
「御教書」とは当時幕府の令書、今日では閣議の決定・国会の議決がこれに当ろう。」

などと解釈された御歴代はいません。
国立戒壇の語を使われた四上人も、こんな解釈はされていません。

こう解釈するのは、浅井と田中智学(田中は「御教書」を帝国議会と解釈)だけです。

浅井の↑の解釈は、田中智学のそれこそ模倣で、「帝国議会」を「国会の議決」に変えただけという、何ともお粗末な解釈なのです。