顕正会早勝ち問答


本来は顕正会ニセ本尊から追求するのが重要ですが、最近の顕正会員はとにかく▼「宗門は御遺命違背だぁ〜!」と聞き分けがないので、それを黙らせるために、浅井昭衛の矛盾に満ち満ちた過去を簡潔に暴くポイントをまとめました。
現場の顕正会破折にご活用ください。
なお、これは顕正会教学部と激しい応酬を交わしている時に作っていたので、随所に「顕正会教学部」に対しての呼び掛けがが入っており、煩わしい感はありますが、その点はご了承ください。


妙信講 正本堂御供養矛盾
正本堂への御供養は生涯に二度とない大福運
池田と同調
昭和44年御開扉の矛盾
当時妙信講が御開扉を受けていたこと自体が矛盾
昭和44年3月正本堂への御供養を宗務院に渡したその矛盾
袱紗の矛盾
「国立戒壇」の呼称を否定 半年後御開扉を受けている
浅井昭衛 戒壇の事と義 正しく解釈
浅井父子の暴力体質
御遺命ついに曲がらず
正本堂は立派に完成
正本堂へ御開扉申請
国立戒壇の正義ほぼ認める
御遺命守護完結
御遺命守護完結 公約反故
国立戒壇は国費か否か

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● 「正本堂は御遺命違背」 という訳ですよね?
その正本堂の意義について日達上人が最初に仰せになったのは昭和40.2.16 ですよね?
ここは宜しいですか?
で、その御指南について浅井先生は、以下のように言っているのはもちろんご存知ですよね?
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▼ 国立戒壇が突如として否定された。しかもそれは総本山の日達上人の発言によってである。
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において
同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。
正本堂が、大聖人御遺命の「本門戒壇」に当るとすれば、その外に将来国立戒壇が建てられるということはなくなる。
まさに
この説法は、国立戒壇の事実上の否定を目的としたものであった。(冨士昭和五二年八月号
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顕正会の理屈で言えば、「国立戒壇を否定」 ということは、完全な御遺命破壊ですよね?
これつまり大謗法ということですよね?
ではその直後、昭和40年5月、浅井先生父子は、妙信講員全員に大々的にその「御遺命破壊の正本堂」への御供養を勧募してますよね?
その事実はもちろん御存知ですよね?
これって完全に謗法与同ではないですか?
浅井先生もどっぷり、がっつり謗法への供養を煽ったということですよ。
自分が謗法与同していたくせに、後になって日達上人や宗門を激しく批判するのは、ただ自分が破門されたその悔しさと、自己を正当化したいだけ。
人間としても非常に醜い振る舞いだと、日蓮正宗からだけでなく、世間の良識有る人から見てもそう思われますね。
こんな卑怯で卑劣な人、およそ正しい仏道修行している者の振る舞いでは有り得ませんよ。
まずこの点について誰もが納得できる顕正会としての正式な回答は出せますか?
教学部さんたちに訊いてもらえますか?
よろしくお願いいたします。

先生をこれほど誹謗している私のこの上記の言は、まさに顕正会からしたら「法華経の敵」ですよね?

■ 法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。(曽谷殿御返事 建治二年八月二日 五五歳 1040)

と大聖人様は仰せですから、絶対に見過ごしてはいけないはずですよね?
では、反論なり弁解をどうぞよろしくお願いします。
まずはこの点をきちんとしてから次へ進みましょうよ。

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▼ 浅井先生の過去の激闘を知らない方は御遺命違背が当然の中で、唯一、国立戒壇を叫ぶ顕正会の悪口しか聞かされていないんですね。

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● ここですがね。皆さん方が実は浅井先生の過去の闇歴史を隠蔽され、改竄されて聞かされているだけなんですよ。

前回の続きですが、昭和40年5月に浅井父子は大々的に妙信講講員に「御遺命破壊の正本堂」への御供養を勧募した件ですが、これが本当に酷い話なんですね。

昭和40年5月に大日蓮に、
 正本堂建立御供養趣意書 発表されました。
そこには、こうあるんですが、もちろん知ってますよね?

▼ 戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式におおせくだされたのであります。
かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります。

どうですか?顕正会的に言えばこれは「完全な御遺命破壊の言」ですよね?
浅井先生はこの正本堂建立御供養趣意書を読んでその意を受けて妙信講へ御供養を勧募したんです。
完全な謗法与同ではないですか。
この時、宗門を一言も諌めていないんですよ。
諌めるどころか、以下のように大歓喜で御供養を推進しているんですよね。
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▼ 「富士」昭和40年6月号 浅井昭衛 企画室長 P8 
今回総本山に於て御法主上人税下の御思召によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。
戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。
この宗門全体の重大な慶事に、妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。
(中略) P9 
その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる。
御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。
その深い意義は凡夫の我々のみだりに窺う所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。
いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を徐々におあらわしになる。
私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。
先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。
全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。(拍手)P10 

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どうです?
凄いじゃありませんか。
この中で、▼ 御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる。
とは、浅井先生に依れば、「本来広宣流布の暁までは秘蔵厳護しなければならない戒壇の大御本尊様」なんですから、
「戒壇の大御本尊が大衆の中に御出ましになる。」ということはつまり、正本堂完成を以って、広宣流布は達成するんだ。ということを浅井先生は認めていた、そう認識していた、ということではないですか。
どうします?これ?

しかも、▼千載一遇のお山への御奉ですよ。
千年に一度あるかないか、いうような大チャンス!といって煽っているんですよ。
辞書を調べると、「千載一遇 = 二度と来ないかもしれないほど恵まれた状態。」ともありました。
もう完全にアウトですね。
浅井先生は、正本堂を広宣流布達成の大殿堂だと、完全に認識していたんですよ。
さあ、どうします?
先生自身が「御遺命破壊の賛同者、立役者」じゃないですか。
そんな自分がよく日達上人や宗門のこと批判できますね?
実に、唾棄すべき卑しい、卑怯な人間ということですよ。
これについて、顕正会教学部として正式は反論をして欲しいですね。
もし、だんまりを決め込むならば、何度でも書きますが、
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先生をこれほど誹謗している私のこの上記の言は、まさに顕正会からしたら「法華経の敵」ですよね?
■ 法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。(曽谷殿御返事 建治二年八月二日 五五歳 1040)
と大聖人様は仰せですから、絶対に見過ごしてはいけないはずですよね?
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ということになりますので、よろしくお願いします。
法論条件についてはあれほど能弁だったのにこういう本質的な教義にはまさかだんまりではないですよね?
しかも現場で正当で精緻な法論ができるのだったら、文書でも当然できるはずですよね。
むしろ文書対論の方がノイズが入らず、正当で精密な法論ができますよね。
では、教学部でも誰でもいいですが、顕正会からの正式な反論をお待ちしてます。

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あなたがた顕正会員は、浅井先生が都合よく作りあげた、自己弁護、自己正当化、自己美化するためだけの「浅井先生自慢の自叙伝」しか知らないんですよ。
どんな企業でも政治家でも、あるいは宗教でも、その創業者・創始者の伝記など、相当の量の自己都合で歪曲された歴史であることは史実が証明してますね。

「試練と忍従の歴史」 だの 「御遺命守護の戦い」 などその代表的な偏向書籍ですよ。

では、浅井さんに隠蔽されていない、真実の歴史をまた一つ明らかにしてその矛盾を突いていきましょう。
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▼ いよいよ正本堂建立御供養  千載一遇のご奉公に歓喜の参加

この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。(冨士昭和四〇年六月号)

▼ すでに広宣流布の時は来ております。浅井昭衛(冨士40.8)

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「正本堂への御供養が生涯に二度とはない大福運」 とはまさに正本堂を御遺命の戒壇と完全に認めているから出てくる言辞ですよね。
しかも、その二ヵ月後に 浅井先生のたまわく「すでに広宣流布の時は来ております」 ですと!
何度も何度も言ってあげますが、この時、浅井先生は「正本堂が御遺命違背」だなんて毛筋ほども思っていなかった証拠ですよ。

さ、これも教学部から顕正会正式反論をよろしく!
法論約定制定の時に必死に抵抗したように、饒舌に語ってくれたまえ。

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御遺命守護の戦い P3
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▼「戸田先生も我々も一時『国立戒壇』といってきました。どこを捜しても御書には『国立戒壇』ということばは無いのです。いまの評論家どもは「創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』と云いますが、私は何をいうかと云いたい。そんなことは御書にはありません。彼等はなにもその本義を知らないのです。猊下が正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります」 (聖教新聞40・9・22)

この中にあるように、この誑惑をなすに当って池田大作は猊座の権威を利用したのであった。
悲しいかな時の管長・細井日達上人は、この悪義を摧きもせず、かえって迎合し、正本堂を御遺命の戒壇と承認したのであった。
この承認を取りつけた池田は、誑惑を愧じるどころか、声を大にして自らの偉業を誇った。(御遺命守護)

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↑これなんかも、実に自己美化の戯言ですね。
この池田の発言が聖教新聞に掲載されたのは昭和40年9月22日
しかし浅井さんは、
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▼ いよいよ正本堂建立御供養  千載一遇のご奉公に歓喜の参加
この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。(冨士昭和四〇年六月号)
▼ すでに広宣流布の時は来ております。浅井昭衛(冨士40.8)

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このように浅井さんは、その3ヶ月前の6月には ▼ 正本堂への御供養は生涯に二度とない大福運 だの、
一ヶ月前の8月には ▼ すでに広宣流布の時は来ている 
だの言っているんですよ。

池田と同調しているじゃないですか。
池田と同意してるんですよ。

それを後になってなんですか。
こういうのを卑劣漢 卑怯者 というんですよ。
これも、教学部さんたちの正当な反論が是非聞いてみたいところですね。
こういうことにきちんと反論できなければ、結局、今までこちらが提示した厳格な法論規定で法論を運営したら、こういう事実を丹念に暴かれてしまい、それに反論できないことが怖くて、精密な法論から逃げたいためだけに、必死になって饒舌に足掻いて足掻いて道理が通らないことを言い立てて逃げまくっていた。と誰が見ても判断されますよ。
さ、これからが本番です。
教学部さん、頑張りましょう!
反論できなければ現場の顕正会員にも疑念が広がりますよ。

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昭和44年 昭和39年以来5年ぶりの登山参詣がやっと許される

その時 浅井先生は大化城のある部屋の扉を閉鎖させて S44/1/7 大化城指導会 を行ったんですよね?
浅井先生大獅子吼 ▼「正本堂が御遺命の戒壇とはとんでもないことである」 (試練と忍従の歴史 P73 P75 P76

ここでよく考えれば矛盾に気付くはずですが、いかがですか?
浅井さんに言わせれば、昭和40年2月16日に日達上人は御遺命破壊の御指南をされたんですよね?

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根拠↓
▼ 国立戒壇が突如として否定された。しかもそれは総本山の日達上人の発言によってである。
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において
同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。
正本堂が、大聖人御遺命の「本門戒壇」に当るとすれば、その外に将来国立戒壇が建てられるということはなくなる。
まさに
この説法は、国立戒壇の事実上の否定を目的としたものであった。(冨士昭和五二年八月号
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ということは浅井さんの言い分では 「日達上人は御遺命破壊の大謗法の法主」 ということになりますね?
ならば、その法主が導師をされる御開扉に参加することは完全な謗法与同ではないですか。
浅井先生はじめ同時に御開扉に参加した妙信講全員、大謗法与同の大罪をおかした。ということになりますね。

さ、この点はどう反論しますか?
教学部の鮮やかな反論を楽しみにしていますよ。

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御開扉の大きな矛盾点

軽々しい御開扉は、広宣流布するまでは不敬なんですよね?

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証拠

平成20年4月23日日如上人への誡告書

本門戒壇の大御本尊は、広布の日まで秘蔵すべき秘仏にてまします
▼内拝は強信者にのみ特別許されたものであるから、まだ許される辺もあろう。
▼戒壇の大御本尊が本来秘蔵し奉るべき秘仏であられることは分明
である。
 まして今日宗門が強行している「御開扉」なるものは、中古に始まった「遠き広布を待ちかねて」の内拝でもなければ、荒水漬勇居士が憂えた大正時代のそれでもない。
まさしく今日の「御開扉」こそ、大御本尊に対し奉る許されざる冒涜(ぼうとく)であり、危害を招くものであれば、速かに上代に立ち還って秘蔵し奉らなくてはいけない。
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この次期、それはそれは大勢の学会員が御開扉受けてましたね。
妙信講員もそうです。
さて、その人々が全て強信者だったんですかね?
違うでしょ?
事実当時の御開扉参詣者から創価学会も妙信講も相当な数の退転者が出ていることでしょう。
妙信講では、当時御開扉受けていた者で一人も退転していないなどと断言でき、またその証拠を提示できますか?
つまり、浅井さんが認める「強信者の内拝」ではないことが当時も行われていた、と言うことになるわけですね。
となれば、当時妙信講が御開扉を受けていた事実は、今の浅井さんが主張する、「戒壇の大御本尊は広宣流布の暁まで秘蔵厳護すべき」との主張と真っ向から矛盾するのですが、いかがですか?

これも顕正会の責任ある立場として教学部さん、明解に反論してくださいましな。

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昭和44.3.8   昭和四十年十月に受け取り拒否されたご供養を宗門に渡しましたよね。(試練と忍従の歴史 P58)

ここで「試練と忍従の歴史」では苦しい言い訳を言ってますが、再掲しますが、正本堂が御遺命破壊の殿堂であることは、すでに昭和40年2月16日で明白になったんですよね?
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文証

▼ 国立戒壇が突如として否定された。しかもそれは総本山の日達上人の発言によってである。
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において
同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。
正本堂が、大聖人御遺命の「本門戒壇」に当るとすれば、その外に将来国立戒壇が建てられるということはなくなる。
まさに
この説法は、国立戒壇の事実上の否定を目的としたものであった。(冨士昭和五二年八月号
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大変な矛盾ですよね? 
この浅井さんの主張ならば ”正本堂は御遺命破壊の誑惑の殿堂”であるならば、なぜその供養をしたんですかね?
謗法与同の大重罪ではないですか?

しかも、この昭和44年までに、今の顕正会が常に追及してくる以下の発言が宗門から多数されているんですよ。

藤本栄道宗務院庶務部長(当時)云く
 「私共は子供の頃から広宣流布とか戒壇建立とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如く考えておったものでありますが、それが私共の時代に、先づもって戒壇建立の実現を見ることができるということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」 (大日蓮42・11月号)

椎名法英宗務支院長(当時)云く
 「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」 (同前)

菅野慈雲宗全議員(当時)云く
 「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、二祖日興上人より代々の御法主上人の御祈願せられて来た重大なる念願であります」 (同前)

これらの発言に対して、後に浅井さんはこう論評している。

▼なんたる無道心の諂いであろうか。高僧にしてこの有様である。七百万学会員はもとより池田の言葉を信じ切っている。かくて日蓮正宗において「国立戒壇」の四文字は禁句となり、正本堂は御遺命の戒壇となり了(おわ)ったのである。
 これまさしく大事の御遺命の破壊である。(御遺命守護の戦い)

さ〜〜て〜? これは大矛盾ですよね?

いいですかぁ〜?
ここまで、正本堂の御遺命破壊が明白になったにも関わらず、浅井さんは、その御遺命破壊の正本堂への御供養を宗務院に渡しているんですよ〜〜!

完全に御遺命破壊の大謗法への大謗法与同ですね!

さ、顕正会教学部ぅ〜〜、よろしく反論お願いしますよ〜〜。

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昭和44年8月  
★ 浅井甚兵衛 会長
▼浅井先生は(中略)さる昭和四十年十月今から四年前に行われた正本堂建立御供養に対し、今回その志をめでられて猊下より袱紗(ふくさ)を賜ったことを発表した。
▼「我々はこの袱紗を通して猊下の御意を益々強く確信し、この九月を戦いぬいていこう」と呼びかけた。
胸を熱くしてじっと聞いていた一同は、ここで割れんばかりの拍手を送った。 (昭和44年8月号 冨士
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もちろんこの事実は知ってますよね?
いやはやとんでもない大矛盾ではないですか。
”正本堂は御遺命破壊の誑惑の殿堂”であるならば、その供養をしてしかも袱紗をもらって喜んでいるなど謗法与同の大重罪ではないですか?

さて、これに対しても教学部の苦しい反論が見てみたいですね。

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● 昭和45年10.25 妙信講 総登山 御開扉を受けた(冨士45年11月)

その約半年前、昭和45年5.3に  日達上人は「国立戒壇の名称を使用しない」と御指南
もしこれが”御遺命破壊”というならば、その猊下の元で御開扉を受けるのは謗法与同ではないか? 

さ、これについても顕正会教学部 反論してみなさいよ?

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● 昭和46年11.15 浅井昭衛は 『「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う』 を発表した。

この中で浅井先生は、戒壇の「事」と「義」について概ね正しい解釈をなされている。
今、「「事の戒壇」とは広宣流布の暁の戒壇のみを言うのであって、それ以前は「義の戒壇」である!」と目を剥いて声高に叫ぶ愚かな顕正会員達、よくよく浅井先生の御指導を拝し給え。

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▼ 申すまでもなく、猊下がたまたま仰せになられた「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。
従来宗門に於ては、一天広布の暁に事相に立てられる国立戒壇を「事の戒壇」とし、その実現こそ宗門のいのちをかけた悲願であった。
だが、諸々の法相は所対によって異ると、さればいま猊下の仰せ給う「事の戒壇」とは、この広布の時の「事相」に約し給うものでなく、所住の法体の「事」に約し給うたものである。
即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処(いずこ)・何方(いずかた)にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである。
従って、曾っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御意であられる。

此のことは、昨年四月二十七日の大客殿に於ける御説法に明かである。
即ち
■「この御本尊在すところは事の戒壇で、この御本尊が事の御本尊である。
事の御本尊である故に、この御本尊在すところは事の戒壇でございます。
だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」
と。猊下の御意は以て明か
である。

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凄いじゃないか、おい。
全く(ほぼ)この通りで御座いますよ。

さて、では顕正会教学部の君たち、今の君らが主張する 「事」と「義」 の怪釈と、浅井大先生の解釈がなぜ違うのか、道理を以って説明して見せよ。

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浅井父子の我見・慢心の塊で、独善的、偏執的、暴力体質の歴史を示す。
顕正会教学部よ、以下の文章に反論してみよ。

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大日蓮昭和49年12月号P28  『大日蓮』昭和49年12月号28n

猊下は、後世の誠証のために、又浅井父子らの妄動をあきらめさせるためにも、動かし難い形で、はっきりさせた方がよいとの深いお考えの上で訓諭をもって正本堂の意義を明確にお定めになったのです。


 ところが、(昭和47年)四月二十八日の訓諭を賜わった後においてもなお、浅井父子は己義に妄執して宗門を乱しつづけました。
そこで、五月五日に至り、宗務当局は猊下の御指南を受け、浅井父子に対し、創価学会との公場対決の申し入れを撤回することを併せ、今後、猊下の訓諭に対して反対したりせぬこと、教義について異義あらば、指導教師を通じて宗務院に文書をもって申し出ること等、文書をもって翻意をうながしたのであります。
しかしながら、浅井父子はこれを無視した上、かえって訓諭を其向から否定する態度に出ました。
 ついには、講員を組織的に動員し「富士」三月号、同五月号、ならびに「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」等の文書を、宗内の僧俗に配布し、猊下の訓諭に敵対し、宗内ならびに創価学会を誹謗中傷するという暴挙に出たのであります。

 そこで、宗務当局としては、やむなく宗制宗親にもとずいて書面により通告を発し、浅井父子の責任を問うと共に書面到達後、一週間以内に書面にて、宗務院に対し、弁疎するよう申し渡しました。

 これに対し、浅井父子より、六月二十二日付で宗務院に対し回答がありましたが、その内容は、依然として自らの非を改めないのみか、恐れ多くもこの期に及んで、まだ猊下の訓諭を猊下の本意でないと断じているものでありました。
そして、訓諭をあくまで違法と断じ、七月七日までの日限を限ってその訂正を求め、もし訂正しないならば
「妙信講は非常手段を以ってしても断じて御遺命を守り奉る。‥…‥さればその時、妙信講も死るべし(※ママ)同時に猊下の御本意を覆う学会の暗雲もなし阿諛の御当局も除かる」と宗務院を脅迫し、訂正を強要してきたのであります。


 更に、七月一日、直接猊下に対し

「男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」 

「もし妙信講一死を賭して立つ時、流血の惨を見ること必至であります」 

「この時、妙信講もたおれ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の好策もなし」 

但し一方の命を以って供養にかえ」
等々

の脅迫文を送り、猊下より松本日仁をとおして訓諭は、まったく猊下の本意である旨(資料5)伝えられるや、七月四日には、重ねて

「この上は、大事出来して一国の耳目驚動の時」云々

「さればその時小輩等早く霊山に詣で」云々

との最後通告文を送って来ました。

 これらの一連の文面を総合するならば、

自分達′の主張を通せ、さもなくば、非常手段に訴える。その時は流血の惨事がある。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分達も死ぬ″

ということであります。

 折から、妙信講員の中より、浅井父子や青年部幹部が、そのようなことを口にしているので心配であるとの通知も再三ありました。

 これは、もはや議論ではなく脅迫です。
何とか猊下の権威をかりて、自分達の偏見を通そうとし続け、それがかなわぬと見るや、今度は、脅迫にきたわけであります。
これは全く狂気の沙汰としかいいようがありません。
ロでは、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行なっていることは、自らの偏見を通すためには手段を選ばぬ.という、卑劣きわまりないものであります。

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昭和47年10月 浅井父子はこのように明言している。

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 ★「御遺命ついに曲がらず   本部長 浅井昭衛
(中略)
また、不信・謗法の来賓数千も大御本尊の御座所をついに踏み奉らず。
御遺命の正義。本宗七百年の伝統は辛じて此処に死守せられた。

(中略)
而して一国広宣流布は未だおわらず、御遺命の事の戒壇は未だ立たず、御遺命の正義守護せらるれば、いよいよその達成に身を捨てるべきである。」 (冨士 昭和47年10月号P3


★ 御遺命の正義は守られました。妙信講の御奉公はついに貫き通されました。(中略)御遺命の正義が貫かれたならば他に求める何ものもない。(浅井 甚兵衛会長)(同P6


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● つまり、正本堂は御遺命違背ではない。ということではないか。
今、顕正会は”正本堂は御遺命違背の誑惑の殿堂”とバカの一つ覚えのように喚き叫ぶ。
上記の浅井父子の御指導を真っ向から否定するのか?
師敵対こういではないか。どう説明するんだ。
はい、教学部、きとんと反論できますかな? 

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冨士 昭和47年11月号で浅井会長はこう言ってる。

★ 正本堂は立派に完成いたしました。
冨士 昭和47.11 P6


おい、「正本堂は立派に完成いたしました。」だよ!
どうすんですか?
正本堂は御遺命違背でもなんでもなかった。ということを浅井父子は完全に認めていたということではないか!
はい、教学部さん、きちんと反論。いいね。

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顕正会教学部よ くどくどしく女々しい自己正当化・自己弁護の駄文を書いている暇があるなら、以下の大師匠浅井昭衛の大矛盾を論旨明解に弁明してみせよ。

● 昭和47年5月十一日 浅井父子は指導教師をとおして、宗務院に登山の申し入れをしている。


▼「御遷座の翌年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。」
『日蓮大聖人の仏法 改訂版』 255ページ

● さらに翌年昭和48年4月9日 またもや浅井父子はねちっこく再び文書をもって、正本堂での御開扉をさせるよう宗務院に申し入れている。

▼妙信講の御登山御内拝について昨年五月十一日、書状を以て妙縁寺住職を経て正式に願い出ましたが、その後一年を経んとして未だお許しもなく、而もその折「国立戒壇を主張する間は許されず」との意向が妙縁寺住職を経て伝えられております。
「御遺命守護の戦い」(「冨士」250号)164ページ

↑これ「御遺命破壊の正本堂」での御開扉をなぜ申請するのか?
まさに大謗法与同ではないか。
今の主張と真反対の行動ではないか。
浅井昭衛はまさに 自己矛盾・支離滅裂・二枚舌・誑惑のペテン師ではないか。

また、
「国立戒壇」を否定する宗門は謗法なのではないのか?
そこへなぜ登山を申請するのか?これまた大謗法与同ではないか。

さらに、↑御開扉矛盾
浅井昭衛は後に以下のように主張している。
 日如上人勧告書
本門戒壇の大御本尊は、広布の日まで秘蔵すべき秘仏にてまします
▼内拝は強信者にのみ特別許されたものであるから、まだ許される辺もあろう。
↑自分たちだけが強信者だというのか?当時創価学会員が大勢登山していた。なぜその時に諌めなかったのか?
戒壇の大御本尊が本来秘蔵し奉るべき秘仏であられることは分明

今日の「御開扉」こそ、大御本尊に対し奉る許されざる冒涜(ぼうとく)であり、危害を招くものであれば、速かに上代に立ち還って秘蔵し奉らなくてはいけない。

秘蔵厳護しなければならないはずの戒壇の大御本尊への御開扉をなぜ求めたのか?
大矛盾ではないか。

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顕正新聞 平成4年11月5日に以下のごとくある。

見出し
阿部管長 国立戒壇の正義ほぼ認める
残るは大御本尊への不敬解消の一事


▼ 浅昭昭衛発言
阿部管長の発言こそ、まさに宗門において二十有余年にわたって否定され続けてきた
国立戒壇の正義を、ほぼ認めたものである、これは極めて重大なこと

▼ 戒壇の大御本尊様への不敬解消さえ成れば、顕正会は他に求める何もなのもない 写真


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● さて、日顕上人は国立戒壇の正義をほぼ認めたのならば、今更、何を騒いでいるのか?
全く矛盾しているではないか。

しかも、この後平成10年4月5日に御遺命守護の戦いは完結している。

「国立戒壇の正義は認められ」、しかも「御遺命守護の戦いは完結」しているのに、一体に今何を騒ぎ喚いているのか?

今の顕正会のこの馬鹿馬鹿しい行動の意味を論理的に説明してみせよ。顕正会教学部殿?

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平成10年4月5日16時 戒壇の大御本尊は正本堂より奉安堂に御遷座された。
それについて浅井昭衛は以下のごとく発言している。

▼「御本仏日蓮大聖人の尊前において、本日ここに、御遺命守護の完結を、報告し奉るものであります。
(中略)大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御あそばされました。
(中略)いまついに御本仏の御威徳により、誑惑(おうわく)は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります。
(中略)すでに不敬は解消し、またいかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。
いまや後顧の憂いは全くなし」(浅井昭衛・御遺命守護完結奉告式奉告文抜粋/顕正新聞 H10.4.15号)

還御@ A 正本堂の誑惑は解消


▼「顕正会は、今の宗門には、もう求めるもの何ものもない。
不敬さえ解消されればそれでよい。
いかなる大地震にも大御本尊様が御安泰であれば、もう後顧の憂いはない」(顕正新聞 H10.5.5号

● はて?この時に「正本堂の御遺命違背の誑惑」は完全に解消したはず。
では、なぜ今になってぐずぐず言っているのか?
正本堂自体が既にこの世に存在しないのに、一体何が問題なのか。

ほれ、顕正会教学部さん、きちんと説明してごらんなさい。

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更にこの件について追求する。

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平成10年4月5日16時 戒壇の大御本尊は正本堂より奉安堂に御遷座された。
それについて浅井昭衛は以下のごとく発言している。

▼「御本仏日蓮大聖人の尊前において、本日ここに、御遺命守護の完結を、報告し奉るものであります。
(中略)大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御あそばされました。
(中略)いまついに御本仏の御威徳により、誑惑(おうわく)は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります。
(中略)すでに不敬は解消し、またいかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。
いまや後顧の憂いは全くなし」(浅井昭衛・御遺命守護完結奉告式奉告文抜粋/顕正新聞 H10.4.15号)

還御@ A 正本堂の誑惑は解消


▼「顕正会は、今の宗門には、もう求めるもの何ものもない。
不敬さえ解消されればそれでよい。
いかなる大地震にも大御本尊様が御安泰であれば、もう後顧の憂いはない」(顕正新聞 H10.5.5号

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● かつて浅井昭衛は、御遺命守護の戦いが完結したら顕正会員に以下のごとくの公約をしていた。

一、日蓮正宗信徒に復帰できる。(←以下の条項が実現するということは、顕正会員が日蓮正宗信徒になれることが大前提である)

二、幹部は常住御本尊がいただける

▼御遺命守護完結の暁には、この御奉公を以って、班長以上の幹部で強盛の信心を貫いてきた人に、常住御本尊のお下げ渡しが頂けるよう、私は妙信講の講頭として、必ず時の御法主上人に御願い申し上げる所存であります。 (冨士535月号P7  冨士551月号P38 )

三、一般会員は御形木御本尊が下附される(冨士平成元年4月号P6

▼やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜る資格を得るのである。
(これは“折伏理論書”の平成元年発行版66ページにも表示されているが、浅井は姑息にもその後の改訂版ではこっそり削除されている。)

四、戒壇の大御本尊様への御内拝が許される(「学会・宗門 抗争の根本原因」 P451

いま顕正会も、御遺命守護の御奉公のゆえに登山を妨害されてすでに歳久しい。
しかしこの重大な御奉公を命かけて成し遂げたとき、必ず大聖人様の御意に叶って登山が叶うことを、私は確信しております。
その時こそ、全顕正会員ともに手を携え、晴れて、涙の中に、戒壇の大御本尊様にお目通りをさせて頂こうではありませんか。
(大拍手)」
(『「学会・宗門」抗争の根本原因』 451ページ)顕正新聞 平成3年7月5日

五、天母山頂上で初代講頭先生の遺影を抱き鏡割りをする

六、松本日仁尊能化の満山供養を願い出る (『顕正新聞』平成1年6月25日号

▼私は念願しております。やがて御遺命守護完結の暁には、何よりもまず時の御法主上人に松本尊能化の濱斥処分を取り消して頂き、総本山で猊下の大導師のもと満山供養をして頂きたいと。---このことを、何より先に時の猊下に御願い申し上げる所存であります。

七、顕正寺を御法主上人へ御供養

▼「ゆえに、このお寺は誰のものでもない。日蓮大聖人のものであり、御遺命守護完結のその日まで、私達がお預かりしているに過ぎないのであります。よって
御遺命守護完結のその日には、この顕正寺は時の御法主上人猊下に御供養申し上げる」(顕正新聞・昭和五十三年三月十五日号) 
等々。

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● これらについてただ一つも守られていない。実現していない。
浅井昭衛が大嘘つき・ペテン師・二枚舌・大悪党・・・などなどでないことを顕正会教学部君 証明あるいは弁解して見せなよ。
このままでは大師匠の面子丸潰れですよ。

はい、頑張りましょう!


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「国立戒壇」について追求する

浅井昭衛はこの「国立」という定義についてブレブレである。

まずかつてこう言っていた。

▼「まさに『本門の戒壇』とは、一個人・一団体・一宗門が私的に建てるべきものでなく、一国の総意に基づき、国家的・公的に立てられるべき性質を有しているのである。
ゆえに日蓮正宗においては、七百年来この時の来るを待ち、私的に建てることは考えることさえしなかったのである。
 そして日蓮正宗においては、この「本門の戒壇」のかかる特質に鑑み、これを端的に「国立戒壇」と呼び、宗門唯一の宿願としてきたのである」
(「富士」168号 A) 昭和52年8月号

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ところがその後、これに矛盾する発言をし変節している。

▼「私も、広宣流布の時の本門戒壇建立に際しては、国費だけでなく全国民の自発的な御供養があって当然だと思う」(顕正新聞 平成二年一月十五日号)1990年


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さらにこの発言より半年後、また変節した。
 
▼「『国立戒壇』とは、国費によって立てる戒壇の意ではない。」(なぜ学会員は功徳を失ったか 188頁)初版発行 1990年8月


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字句の意味 辞書から

国立 = 国家が設立し、維持・管理すること。


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では顕正会教学部さんにお伺いします。

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○ 次に示す中に、国費および国家の運営と無関係なものはありますか。

 国立競技場・ 国立博物館・ 国立国会図書館

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○ 国費とは無関係でありながら「国立」と称している施設などはありますか。

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○ 顕正会でいう 「国立戒壇」 とは、「国費」とは無関係なのでしょうか、
それとも、「国費」から拠出されるものなのでしょうか。
その場合、何割位「国費」から捻出されれば「国立」と呼んでいいのでしょうか?
また、その算出の教学的な根拠を御書を示して証明してください。

さらに質問です。
広宣流布暁の事の戒壇(事相における戒壇)は 
国費で建てるのですか?それとも
国費とは関係ないのですか?

顕正会教学部の答え 想定

 ▼ 国費で立てる → 浅井先生が云っていることと違う師敵対行為ですね。(文証・なぜ学会員は功徳を失ったか)

 ▼ 国費とは関係ない → 浅井先生が云っていることと違う師敵対行為ですね。(文証・「富士」168号 A 顕正新聞 平成二年一月十五日号)

さあ、どうしましょ。まさに絵に描いたような「矛盾」ですね。

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まとめ

「国立」 とは 「国家が設立し、維持・管理すること。」 である。
それが日本語として万民が認識している常識である。

もし、浅井の主張する「国立戒壇」の「国立」がこの定義と違うのであれば、それはもはや日本語の「国立」ではなく、浅井教の浅井語としての妄想的・独断的な「国立」という語句の偏向定義であり、それを強引に使用すれば、まさに徒に世間に誤解を与え、正当な広宣流布の妨げとなる。

浅井昭衛は、御書の一文一句に捉われ、「国立」という皮相的な概念に執着するあまり、実質運営面での「国費」という観点において、全く矛盾破綻を犯しており、上記のごとく支離滅裂で定見のない状態に陥っているのである。
こんな見識の浅い者が、本来、唯授一人・血脈相承で御法主上人にのみ伝持されている三大秘法の深義を云々することすらおこがましい。小賢しい。
思い上がった慢心者の典型である。

さて、顕正会教学部さんたち?
これほど師匠を悪罵されてるんだから、少しは反論してみたらいかが?

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