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【元妙信講問題について】 

昭和50年8月1日発行  

発行者 浜中和道  

発行所 日蓮正宗妙縁寺  東京都墨田区吾妻橋2丁目2番地10号

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抜粋


■ 四十五年の「確認書」問題について

 とにかく浅井らが、余り学会学会とさわぐので五月三日を前後して、創価学会の代表者が、浅井父子を説得するため、数回にわたり会談しました。
この会談の趣旨は、信者同志の立場で話し合い、誤解を解くというところにありました。
故に、その過程において、猊下や宗門が正本堂や戒壇について、最終的な結論を下したことは一度もありません。
この会談の間に、あのように大騒ぎされた言論問題が、ウソのようにおさまってしまいました。
意図的にしかけられた騒ぎの結末というものはおおむねこのようなものですが、元妙信講としては思惑がはずれ、今騒いでも効果がなくなったと考えたのでしょうか。
次第に妥協する色をみせてきました。

 その結果、九月十一日に、学会を代表して和泉理事長、森田、秋谷副会長、妙信講を代表して、浅井父子の合計五名の名前で、猊下に報告書が提出されました。

 その内容は「御報告」という標題で「お互い信者の間で話し合いの結果、誤解がとけ、相互に友好的な理解と合意に達したので御報告を申し上げます」として

「一、正本堂は三大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとほ現時において断定しない」というものであり、同時に「今後、異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することをお誓い申し上げます」との猊下に対する誓いでありました。

 この報告の趣旨は、正本堂が、御遺命の戒壇であるか否かについては、信者の間で、その時点において、断定しない″ということであり、決して、浅井父子のいうように「御遺命の戒壇でない」ということを確認したものではありません。
ましてや、信者の猊下に対する御報告という体裁から見て、猊下のお立場を拘束するものでないことは、火を見るよりも明らかであります。

そもそも正本堂の意義は、信徒同志で論争して決定するものではなく、猊下が重々の秘伝と御内証にもとずいて決定されるぺきものであります。
このことを認め合って、お互い信者同志で勝手な主張をしない、というのが合意の内容だったのです。
 このことは、去る昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会での御説法の趣旨をふまえ、ひいては後に出された訓諭の趣旨にも合っています。

 ところが、浅井らは、これを今日では「確認書」云々と、あたかも学会が浅井らの言い分に従ったかの如く歪曲した宣伝をし、講員をあざむいております。
そして、いち早く約束を破り、講中に対して、勝った勝ったと国立戒壇を公言しました。
その上、昭和四十六年頃より、再び世間にあやしげな学会批判勢力のしゅん動が見られるや、これと歩を合せる如く、

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」 
「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」

等の文書を宗内に配布し、誤った主張を繰り返しはじめたのであります。

昭和四十七年二月頃より、再び宗務院に対し、傍若無人にも

正本堂は御遺命の戒壇ではない、安母山に建てる国立戒壇こそ御遺命の戒壇であることを宗門声明として公式に出せ〃

と迫っておりました。
折からその時の秋には正本堂落慶を迎えんとした重大な時期にあたり、しかも世間にはこれを妨げんとするかの如く、さまざまな敵対勢力が暗躍を開始しはじめた時でした。浅井父子は卑劣にも又しても苦境に立った宗門、学会に対してゆさぷりをかけて来たのです。

宗務院としては、もちろん、かかる無体な要求に応じるわけではありませんが周囲の事情にかんがみ、できるかぎり、騒ぎをおこさずにおさめたいとの配慮から、必要以上と思われるくらい鄭重に彼らの言い分を聞いて応答し、かつ条理を尽した説得を何度も行いました。

 ところが、浅井父子はこれをどう勘違いしたのか、宗務当局の説得行為の内容を例によって歪曲して公表するという暴挙に出、その上で強硬に

答えはイエスかノーかだ、四月十日までまつから、それまでにはっ きりした公式表明を発表せよ、さもなくば非常の手段をとる〃と脅迫してきました。

宗務院としてはこうなった以上、むしろ猊下の御指南を仰いで宗門の公式決定を天下に公表することこそ彼らの妄動と思惑を止める唯一の方法であると判断するに至りました。

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■ 猊下、訓諭を発布

 かくて、三月二十六日、総本山大客殿における教師指導会の席上、猊下御臨席のもとで、阿部教学部長より昭和四十年二月十六日第一回正本堂建設委員会における猊下の御説法の解釈という形式で正本堂の意義について見解を公表され(資料2・3)、これを受けられて猊下が私がかねて思っていたところとピッタリである″ (資料4)と御認可されました。

宗務院はこの趣旨をまとめ、その時の話の内容を記載した文書とともに、浅井父子への回答として送りましたが、果して浅井父子はいきり立ち、

「実力行使だ、公場対決だ」

と騒ぎ始めました。

これを御覧になって猊下は、後世の誠証のために、又浅井父子らの妄動をあきらめさせるためにも、動かし難い形で、はっきりさせた方がよいとの深いお考えの上で訓諭をもって正本堂の意義を明確にお定めになったのです。

 ところが、四月二十八日の訓諭を賜わった後においてもなお、浅井父子は己義に妄執して宗門を乱しつづけました。
そこで、五月五日に至り、宗務当局は猊下の御指南を受け、浅井父子に対し、創価学会との公場対決の申し入れを撤回することを併せ、今後、猊下の訓諭に対して反対したりせぬこと、教義について異義あらば、指導教師を通じて宗務院に文書をもって申し出ること等、文書をもって翻意をうながしたのであります。
しかしながら、浅井父子はこれを無視した上、かえって訓諭を其向から否定する態度に出ました。
 ついには、講員を組織的に動員し「富士」三月号、同五月号、ならびに「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」等の文書を、宗内の僧俗に配布し、猊下の訓諭に敵対し、宗内ならびに創価学会を誹謗中傷するという暴挙に出たのであります。

 そこで、宗務当局としては、やむなく宗制宗親にもとずいて書面により通告を発し、浅井父子の責任を問うと共に書面到達後、一週間以内に書面にて、宗務院に対し、弁疎するよう申し渡しました。

 これに対し、浅井父子より、六月二十二日付で宗務院に対し回答がありましたが、その内容は、依然として自らの非を改めないのみか、恐れ多くもこの期に及んで、まだ猊下の訓諭を猊下の本意でないと断じているものでありました。
そして、訓諭をあくまで違法と断じ、七月七日までの日限を限ってその訂正を求め、もし訂正しないならば「妙信講は非常手段を以ってしても断じて御遺命を守り奉る。‥…‥さればその時、妙信講も死るべし(※ママ)同時に猊下の御本意を覆う学会の暗雲もなし阿諛の御当局も除かる」と宗務院を脅迫し、訂正を強要してきたのであります。

 更に、七月一日、直接猊下に対し

「男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」 

「もし妙信講一死を賭して立つ時、流血の惨を見ること必至であります」 

「この時、妙信講もたおれ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の好策もなし」 

但し一方の命を以って供養にかえ」
等々

の脅迫文を送り、猊下より松本日仁をとおして訓諭は、まったく猊下の本意である旨(資料5)伝えられるや、七月四日には、重ねて

「この上は、大事出来して一国の耳目驚動の時」云々

「さればその時小輩等早く霊山に詣で」云々

との最後通告文を送って来ました。

 これらの一連の文面を総合するならば、

自分達′の主張を通せ、さもなくば、非常手段に訴える。その時は流血の惨事がある。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分達も死ぬ″

ということであります。

 折から、妙信講員の中より、浅井父子や青年部幹部が、そのようなことを口にしているので心配であるとの通知も再三ありました。

 これは、もはや議論ではなく脅迫です。
何とか猊下の権威をかりて、自分達の偏見を通そうとし続け、それがかなわぬと見るや、今度は、脅迫にきたわけであります。
これは全く狂気の沙汰としかいいようがありません。
ロでは、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行なっていることは、自らの偏見を通すためには手段を選ばぬ.という、卑劣きわまりないものであります。

「智者に我義やぶられずば用いじとなり」とは、日蓮大聖人の御金言でありますが、非常手段や流血の惨を用いて、己義を通せとは御書のどこにもいわれておりません。
一体このような手段に訴えることを、大聖人がお喜びになるはずがありましょうか。

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■ 妙縁寺のお目通りについて

 宗務当局としては、こうした経緯は予想していたことであり、そうかとい一って彼らの横暴をこれ以上許すことは、末法万年、令法久住のためにならずと判断し、断固たる処置も止むを得ないと決意を固めていたのです。

 そうしたところ、総講頭より、「歴史的な行事である正本堂の落慶を血で汚すようなことは何としても避けた方が宗門のためによろしいのではないか、又、将来のためにも、できるかぎりの説得の努力を尽しておくことが必要ではないでしょうか。彼らが最終的に猊下にお目通りして御真意を確かめれば納得する可能性があるものなら、おそれ多いことであるが、何とか包容してあげることはできないものでしょうか」との意向があり、それに対して猊下は、「私が会って説得してみよう」と深い御慈悲を示され、七月六日の妙緑寺の御下向となったのであります。

宗務院関係者としては、自らの非力のため解決し切らないうちに危険をおかされる仕事にもったいなくも猊下直々に御手をわずらわせる結果に立ち至ったことに対し、深く責任を感じ、総監並びに教学部長が猊下宛に辞職願いを出したのです。

 このようないきさつの後に、七月六日、猊下は妙縁寺に御下向になり浅井父子に目通りを許されました。
猊下は御一身を賭しても宗内の不祥事を何とか未然に防ごうという御決意と気迫に満ちておられました。
前夜、辞世の句を側の者にお示しになり、

私はいつ死のうとよい。その覚悟は法主の座についたときからできている。
どんなに脅そうと、そんなことでは動くものではないことを浅井にわからせてやるのだ″

とおおせでありました。

その上で、

しかしながら、思いつめて狂気のようになった者達を思い止らせるためには、ある程度包容してやらなくてはならない″

ともおおせでありました。

又、

私は法主として信者を信じたい。
浅井はわからず屋だが、御本尊を受けている以上、胸の底のどこかに、令法久住、宗門を思う気持があるはずだ。
私が誠心誠意話せばわかってくれるだろうと確信する″

と、まことに海のようにひろいお心でのぞまれたのであります。

猊下の浅井父子に対する説得は、午前八時四十四分から同九時四十五分の間、妙緑寺二階の部屋で行なわれました。
この時、お伴をしたのは、藤本庶務部長、早瀬義孔理事、光久諦顕御仲居であり、当時指導教師であった松本日仁が同席しました。
この時に藤本庶務部長が将来の為に記録をとりましたが、これによりますと対談の要旨は次の通りであります。

 まず猊下は席につかれるなり、

「昨日と先日、お手紙を拝見しました。
大変激越な血の雨の降るようなことだが、それだけほ思い止まってほしい。
それでは宗門を破滅に追い込むことになります。
そうなっではあなた方の意思だって通らないことになります。
お互いに傷つき宗門の恥を天下にさらし、結局はあなた方の主義主張が通らない。
だからそれを取りやめてほしいとお廉いに来ました。
あなたは死を賭して卞和の啼泣、伍子胥の悲傷といわれるが、、卞和、伍子胥は人をあやめてはいない。
自分は殺されても主義主張は通したということです。
あなた方は間違っています」

と厳然とさとされたのであります。
更に

「法論のことは後にして、とにかく血の雨を降らすようなことは第一に取止めてほしい」

と重ねて申されたのであります。

これに対し、浅井父子はこもごも訓諭がどうの確認書がどうのとこれまでの主張をくりかえすばかりでしたが、猊下は

「殺生とか刺し違えるとかは大聖人の仏法ではない。
刀杖執持ということは涅槃経にあるが大聖人のお心ではない。
釈迦以前の仏教はその罪を斬るといえども、能忍以後はその施を止むと仰せられているではないか」

等々、法門の上から、又世間の道理の上から、辛抱強く浅井父子を諄々と説得されたのであります。
それにもかかわらず、浅井父子は聞こうともせず、

逆賊、奸賊はのぞかねばならぬ。刺客となり、刺し違える〃

などと口走り、

大聖人は、由比ケ浜で首を刎ねよなどと申されているではないか。
三島由起夫だって主義主張のために生命を投げ出した〃

などと非常識な言葉を続ける始末でした。

 さすがに猊下も色をなされ、

「私が止めてくれと言っても聞けないのか」 

「訓諭は私が出した。
私の責任だ、あなたがそういうなら私を殺してほしい。
私が責任をもってやっていることだ」 

「(悪いというなら)私が悪いので、他の誰の貴任でもない。
皆をせめる前に私を責め、皆を打擲する前に私を打擲しなさい」


と語気するどく言い放たれ、松本に命じて筆と紙を取り寄せられ、

つゆ深き法の園の草むらのついの住みかに身は帰るらむ 妙観″

と辞世の句をしたためられて浅井に渡された上で、


「これは私が昨夜作ったものだ、下着も全部取り換えて来ました。
さあ、私を突くなりどうでもしなさい」


と浅井父子を見すえられたのであります。

さすがに浅井父子もシュンとしてうなだれ黙り込んでしまいました。

 そして、しばらくたって、ぼそぼそと

返す言葉もありません。では、今後私共はどうしたらよいでしょうか〃

とつぶやくように言ったのであります。

猊下はすかさず、

「暴力は絶対にいけない。言論でやればよいではないか。
私も松本さんも以前は国立戒壇等とたしかに言っている。
しかし後に考えて調べた結果間違っていたことがわかった。
ただ広宣流布のときに建立ということは当然である。
今の正本堂は、(まだ広宣流布の達成ではないので)その意義を含むというのだ」

とたたみかけて説得に努められました。

 ここに至って浅井父子も当初の気狂いじみた様子は失せて話し合い、妥協しようという色がうかがえました。
ただ講中に対する手前もあってか、或いほ脅しが通じないとみて作戦を変えたか、ねちねちとしつこくくいさがり続けました。

訓諭の後段にふれ、

「これでは正本堂落慶がそのまま最終の御遺命の戒壇達成になるように受け取れるが、この点だけは承服できない、確認書にも反する、」

などと繰り返し繰り返し言い張りました。

実は、四十五年の確認書なるものは学会と妙信講と、当時の時点において信者間で正本堂の意義を勝手に断定しないという趣旨のものであり、いよいよ正本堂落慶間近に、猊下がその意義を宣揚されることを拘束するものでないことを猊下も私共も知っておりましたし、訓諭の後段も今ただちに御遺命の戒壇達成というのではなく広宣流布の暁にはという文言で明らかなとおり、将来への展望であること論を待ちません。

 しかし、浅井昭衛は、しつこく、あたかもただちに御遺命の戒壇であるかのごとく取れるから間違っている旨を主張し、猊下がそうではないと云われると、これにひっかけて、いつの間にか別の建物を建てるという彼等の主張を猊下は認めたかの如く我田引水しようとしたり、くどくどと云いつづけ、そのうちに折角猊下の一喝で鼻柱を折ったのに次第に気をとりなおして、元のような狂暴性にもどりかける気配も見られました。
そこで猊下は、この空気を察知せちれ、ひとまず浅井を包容せられ、

「とにかく、誤解を招いたのは表現が充分でなかった。
誤解のないよう、改めて解釈を出して八月号の大日蓮に載せるからそれを読んでほい」

と念を押されました。

浅井は一応、これを了承したものの、なお未練がましく

建物そのものが御遺命の究極のものでないと云ってほしい〃

等と迫まりましたが、さすがに猊下は

「未来のことはわからないではないか。
とにかく、私の責任で訓諭は出したし、あの一言を入れたのも私の責任だ」

と厳しくしりぞけられたのであります。

 浅井父子は、これ以上深追いすると逆効果と思ったようで、話題をかえ、
「落慶式に外部を入れるのはけしからん」
か、総監、教学部長に対する私怨をあれこれ述べ立てました。
そして、結局九時四十五分に至り、浅井父子は今後猊下の御指南に従うと納得しましたので、無事面談を終り、浅井父子は退出したわけであります。

ところが、午前十時三十分頃、浅井昭衛より松本に電話があり、

「自分達はもう『富士』等の配布など行動をやめるから、そのかわりに聖教新聞に連載中の阿倍論文(国立戒壇の誤りについて)の掲載を中止していただきたい旨、猊下に言上してほしい」

と言ってきました。
たしかに、この論文は、宗内より学会に依頼して連載中でしたが、浅井らが騒ぐことを止めるのならこれ以上の連載は不必要になりましたので、猊下は了承され、早瀬理事に命じて学会本部北条副会長に電話でその旨依頼されました。

ところが、再び松本を通じて「もう一度お目通り願いたい、総監、教学部長を辞職させてほしい」と言っ て来たのです。
この件を聞かれて、猊下はいささか憤然とされて、
「もう時間がないし、必要もないから会わない。
人事に関することは信者が口出しすることはもっての他である。聞けない。」

と仰せになったのです。

ところが猊下の返事を伝えたすぐあとに、浅井昭衝から、又しても電話が入り、

「今日の夕方、青年部二百何十人に集合をかけた。
今まで厳たる訂正あるまで戟うと、死ぬ決意でやってきた。
これを止めるにあたって、あからさまに今日の模様を発表することはできない。
そこで、聖教の阿部論文の停止と、違約の責任をとって総監と教学部長が辞職した、ということが発表できれば皆を押えられるが、それができないとなると集ったものがおさまらない。
ただ、大日蓮八月号の 解釈を待つというだけではどうも皆を納得させることはむずかしい」


といってきました。
猊下のお決めになる人事権にまで干渉し、その上、ハッタリでおどしをかけて来るとは、何という思い上がりでしょう。
宗務院としては、はっきりこれを拒否しました。

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■ お目通りの内容を歪曲

 さて、この様な経過で、ひとまず流血の惨はさけられたわけですが、その後の浅井父子の動きをみるに、日がたつにつれて、猊下の御説得にやすやすと屈したことを後悔してきたらしく、又、余り大きな譲歩をしたことで講中の体面がたもてないと考えたのか、例によって少しつつ事実を歪曲し、あたかも猊下が全面的に浅井らの云い分を正しいと認められたかの如く宣伝していました。

猊下も、浅井の男らしくない態度を非常に不愉快に思っておられましたが、大事の前ゆえ我慢せられ、とにかく、訓諭の解釈を出すため準備されました。
もちろん訓諭を否定するような内容のものではなく、正本堂は、今ただちに御遺命の戒壇達成とは云えないが、それは未来、広宣流布達成の暁にそうなるという点をはっきり強調するというのが解釈の趣旨でありました。

 そして、早速、これを大日蓮に掲載すべく手配をいたし、あとでとやかく云われぬよう念のため浅井に見せた方がよいとのことで七月十九日、総本山に呼んでコピーを手渡しました。(資料6)

ところが、翌日、浅井昭衛より電話があり、おそれ多くも猊下の御名で公表される解釈文について、

「これでは気に入らない。
正本堂とは別に戒壇堂の建物を建てるという明文を入れよ」

ととんでもない干渉をする訂正を要求してきたのであります。

七月六日に話し合った上での約束とまったく違背しますし、第一、訓諭の内容上まったくことなった解釈になってしまいます。
こんなこと受け入れられようはずがありません。

 猊下はさすがにあきれ果てられ、

「とんでもないことだ」

と言下にしりぞけられましたが、浅井のひょう変ぶりに不審をいだき、何かあるのではないかとしばらく様子をみていましたところ、果たして、宗門のことを心配する元講員から、

「浅井は"大日蓮八月号に訓諭を訂正した猊下の御文を載せる。それを武器に、一斉に行動を起こし、学会を一挙に打撃して葬り去る。
八月号の大日蓮を是非読め"と幹部に指示している」

という情報が入ったのであります。

又、「富士」八月号において、妙緑寺御下向の際の内容を歪曲し、あたかも、猊下がウソの訓諭を公表し、全信徒をあざむいたかのごとき記事を掲載したのであります。
猊下の御身を賭してなされた真心の御指南まで浅井はこうして変えたのです。
されば解釈を出してくれれば自分達はおとなしく引きさがるというのは、まったくの嘘であったか〃と、はっきりわかった次第であります。

ことここに至って、猊下は深くお考えになり、

「こういうことでは、もはや解釈など出せない。
浅井の云うとおりのものは勿論、こちらで書いたものを出しても文句をつけて騒ぎになることは必定である。
しかし、せっかくここまで来て騒ぎを起こすのも残念である。
そうかといって、これ以上、私が説得しても、浅井の方で私を利用して野心を遂げること以外考えていない以上、深入りをすることは危険なだけであり、かえって衆内を混乱させる。
最後の手段として、浅井が学会学会と云っているから、学会に説得を頼む以外ない。
それでだめならいよいよ覚悟を決めよう。
とにかく、救ってあげようとこれだけ手をつくしてあげたのだから、私も悔いはない」

と御決意になり、その旨指示されました。

内事部においては、浅井のデマ宣伝をはっきりさせるため、大日蓮紙上に、浅井らが
「富士」八月号で主張していることが誤りであることを掲載しました。

その結果、猊下は八月十二日、再び妙縁寺で浅井父子にお目通りを許され、最後の説得をされても聞き入れないことを確認した上で学会と話し合うようにさとされたのであります。

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■ 訓諭

 さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はこゝに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を露わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。

 日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。

 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるぺき大殿堂なり。

但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。

 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うぺし。
 宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。

 右訓諭す。
I
昭和四十七年四月二十八日

日蓮正宗管長 細井日達

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資料2

第一回正本堂建設委員会
                     昭和四十年二月十六日
                       於総本山大講堂会議室



 第第一回正本堂建設委員会
  猊下御言葉の要旨拝考

          昭和四十七年三月二十六日
          宗務院教学部

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 今回池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います。

 つきましては、皆さまの種々なご意見、建設の工程におけるご意見等うかがい、また各方面からの意見を取り入れたいと思っております。

 そこで委員会を設けて、より多くの意見を入れて、歴史上未曽有なる正本堂の建設を行なっていきたいと考えております。

 今回初めて、お集り願った委員会はこのメンバーで構成することになりました。

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→  池田会長の正本堂寄進に対する受納の意を顕わすと共に、委員会設立の趣旨及び構成に触れられ、似て起序とされている。

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 さて正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。過日来いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。

 いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります。

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→  冒頭、正本堂についての重大問題は安置の本尊にあることを述べられ、以下後段において戒壇の大御本尊を安置することを発表せられるのである。

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 大聖人より日興上人への二箇の相承に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。

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→   この段は、二箇相承の中の一期弘法抄を引かれて、大聖人の御遺訓は、戒壇建立が目的であることを示されている。
次下にその戒壇の相が説かれるのである。

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 これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。

 堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。

 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄には「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。

 また同じ百六箇抄の付文に「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」と、こう明らかにされておるのでございます。

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→   この段は表面に未来の本門寺建立の時の戒壇の相を述べられると共に、文の内意に正本堂の関連的意義が示されている。
則ち小乗迹門の戒壇が寺域に特別の戒壇堂を設けるに対し、末法流布の大法は受持則持戒の本義により本尊安置の堂則ち本堂が戒壇である意を百六箇抄の引文と共に示されたのである。
 この未来の本門寺とは現在の大石寺にあたり、大石寺が未来の本門寺となるのである。
四十四世日宣上人も
 「今此の多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」
と述べられている。
従って当然大石寺の正本堂が広宣流布の時に三秘抄、一期弘法抄の戒壇となる。
 勿論、正本堂は現代における本門事の戒壇である。
則ち本門戒壇の御本尊の法体の事、並びにその威光功徳の彰灼として民衆即身成仏の根本道場であるに約して事の戒壇といわれる。
また正本堂の規模の広大と、そのしかる所以である現在の流行の広布の相は明らかに一期弘法抄、三大秘法抄め戒壇としての意表に通ずるものと云えよう。

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 したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。

 また当時は大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。

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→  前段が未来の本門寺建立における戒壇相を述べられたのに対し、この段ではその基本の相より推すところ現在の時において本門戒壇の本尊を大石寺の本堂に安置することがふさわしいことを示されるのである。
ゆえに大聖人御在世の御本尊安置、又二祖日興上人薫住の身延を挙げて故事とされ、中間の時代には謗法不信の徒の多く、かつ広布の暁の公開を待つこころより宝蔵に安置し奉ったことを言外にこめられ、今日の流行の広布の時機においては信心願求の徒が多いから正本堂を建立し、その「本堂」なる名称に一期弘法抄、百六箇抄の文の意義を含め戒壇の御本尊を安置するとの御意志が拝せられる。

 更に検えれば前段の文に小乗迹門の戒壇例に対して本門の戒壇は即ち本堂であると示されている。
故にこの段の「現在では…」の文は文脈上過去(小乗迹門の戒壇)に対する現在(本門の戒壇)と受けとられ、次の文の「大石寺の本堂」とは三大秘法抄、一期弘法抄にいわれる本門戒壇を合意せられている。

 けだし創価学会の大折伏は七百数十万世帯に及び、戒壇の御本尊参詣の徒は日夜踵を接し為に奉安殿も狭隘を告げ、流行の広布の相まさに顕著となる。
此の時正本堂建立寄進の議あり、そこで現在正本堂に安置すべき本尊としては戒壇の大本尊がもっともふさわしいことを判定されたのである。

 これに関して現時における事の戒壇とは本門戒壇本尊の所住の処即ち事の戒壇の意である。
その事壇と一期弘法抄、三大秘法抄の事壇とは意義において当然相通じている。
三大秘法抄に「今日蓮が所行乃至事の三大事」と仰せたまう大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊がおわしますところ法体の事の戒壇であり、一期弘法抄、三大秘法抄等は事相の事の戒壇である。
法体の事なくして広布の暁の事相の事壇はありえない。

また事相の事壇がいかに高広厳飾を極めつゝもその根本は法体の事に由来する外の何物でもない。
いま戒壇の本尊の御威光益々光顕して数百万の民衆の正法帰依と不惜身命の信行あってまさに事相の戒壇の実現を望むの感ある時、正本堂の建立寄進となる。
従って正本堂はまさに一期弘法抄の戒壇の意義を含んで未来の広布にのぞむ現時の本門事の戒壇というべきである。

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 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます。 

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→  この段は戒壇の御本尊が一閻浮提総与の本尊ではあるが、まだ謗法の人が多いので未来の広宣流布の暁を待って公開中し上げる。
従って現在、御本尊安置の建物を正本堂とはいってもその須弥壇は蔵という形式になることを示されるのである。

 そして「まだ謗法の人が多いので広宣流布の暁をまって公開申し上げる」のお言葉は正本堂に関して御本尊の公開を云われたのであり、正本堂に一期弘法抄の戒壇の意義が含まれているからこそ、かく仰せられたものと思われる。

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正本堂の建立地につきましては「大御本尊は客殿の奥深く安置する」という御相伝があります。

 以前に前会長戸田先生とお話したさいに、正本堂は御影堂の後ろに建立したいということが話にのぼりまして、もしなんだったら地下道を造ってもいいではないかと、戸田先生がいわれております。その話は事実上具体化されませんでした。

 本日池田先生は、客殿の裏の線と、御影堂の裏の線とが一致する点がある。そこに正本堂を建立したいといわれておりました。これは以上の意味からも、まことにけっこうなことであると思います。

 客殿の前には勅使門がございます。今日勅使門と申しますと、誤解する人がおり、さまざまな批判をしていますが、これは国主といって、民主時代でありますので、その中心になる人が通る門のことです。民主主義の時代であっても、一国の中心人物はとうぜん決まるはずで、その人が開く門のことです。

 その客殿の前の不開門=勅使門=それから客殿、その奥が正本堂と、理想的な建設となるのでございます。

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→   この段は宗門古来の相伝と正本堂建立の位置が現在時における理想の形をとることを述べられたのである。
現在の門の形は間もなくもっと立派に直すこともあろうが、宗門古来の相伝によりしかも現在の仏法興隆を示す一連の建築という意味で理想的と申されたのである。
しかし、再往「勅使門」と「理想的な建設」の語は正本堂が未来の一期弘法抄の戒壇となるべき見地から仰せられたものと拝されよう。

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 それから北山にある棟札の件は、いわゆる「法華本門寺根源 垂迹堂 御影堂」の三堂の棟札のことがありますが、この形式は本宗ではとりません。

 日精上人は家中抄で「国主御帰依の時は両堂を再建して額を本門寺と打つ」といわれておりますが、このことは日有上人のころより、御影堂の左(向かって左)に御本尊堂を造られたことが、文献にうかがえます。

 さらにその後の本尊堂(旧御宝蔵)の改築の時と、日精上人の御影堂改築の時の移動により、現在は位置がずれているのでありますが、それからしても、日精上人の両堂建立のお考えも同じであることがわかります。

 しかし、じっさいには将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたならば、天母山になんらかの建物を造ってもよいと思われます。

 今回は要するに、この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を造っていただきたいと思うのでございます。

 もしこの建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての恥にもなりますので、全力をあげて建設にあたっていただきたいと念願いたします。

                                                                  「取意」 (文責在速記者)

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→ 最後の段であるが、三堂の棟札の形式は本宗でとらないこと、御影堂、御本尊堂の両堂建立の先師のお考えを示され、これに準じて更に大きく正本堂落成の後、天母山に何らかの建物を作ることもよいかと推されている。
この意味は天母山に戒壇を建立するのではないという意味であり天母山戒壇建立と取るのは誤りである。
従ってある見解として
 事の戒壇は天母山に立つべし
と主張するのは京都要法寺方面の或る時代の思想の亜流であり、本宗本来の法義ではない。
天母山でなく、天生原の本義よりし、且つ戒壇の本尊おわします総本山の位置を考えるとき、広布の暁の戒壇とは正本堂のことであり、天母山にとらわれてはならない。

 さて最後に世界的建築となる正本堂の建設に努力すべく各要員を激励して結びとされたのである。
                                                                                 以 上

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資料3 

 正本堂に関する
  御法主上人猊下の御指南

         昭和四十七年三月二十六日

「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である」

(解釈)
 正本堂は広宣流布の暁に一期弘法抄に仰せの本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。
 但し現在ほまだ謗法の人が多い故に安置の本門戒壇の大御本尊は公開しない。
この本門戒壇の大御本尊安置のところはすなわち事の戒壇である。
                    以 上
   昭和四十七年三月二十六日

               日蓮正宗宗務院

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資料4


 容御法主上人御説法
  正本堂の意義に就て

         昭和四十七年三月二十六日

 唯今、教学部長から「正本堂は一期弘捻抄の意義を含む現時に於ける事の戒壇である」と、定義を公表致しました。
これについて、もう少し詳しく私の見解を述べてみたいと思うのでございます。

 その解釈は、「正本堂は広宣流布の暁に、一期弘法抄に於ける本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。
現在は未だ謗法の人が多い故に、安置の本門戒壇の大御本尊は、公開しない。
この本門戒壇の大御本尊安置の処は即ち、事の戒壇である」

 これは先程、昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。
 このなかの「一期弘法抄の意義を含む」という事について、もう少し述べたいと思うのでこざいます。

 先ず、この解釈に当って二方面から考えてみたいと思います。

 第一は、世間儀典的。
 第二は、出世間内感的。

 大体儀典的というのは、儀式礼典と考えて下さればいいんです。

 先ず、一期弘法抄に、
「国主此の法を立てら.るれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せになっており、

 また、三大秘法抄には、
「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、云云」と、こう説かれております。

 これを先ず、第一の世間儀典的に考えますと、この国主とは誰を指すかということが問題になってきておるのであります。

 勿論、大聖人様の時代、また大聖人様の御書において、国主とは京都の天皇も指しておりますし、或いはまた、鎌倉幕府の北条家を指しておる場合もございます。

 で、今、この国主と申して、三秘抄並びに一期弘法抄の国主或いは王という言葉は、直ちに日本の天皇陛下と断定することが出来るでありましょうか。
なかなかそう断定できないはずであります。

 ある人は、三秘抄に「勅宣並に御教書を」という言葉があるから天皇″だと、こう即座に考える人があります。
 しかし、本来、この勅宣という言葉は日本だけの言葉ではなく、即ち中国か来た言葉で、中国の皇帝に対して、皆、勅宣という言葉を使うのでありまして、この勅宣という言葉があるからして、日本の天皇だと断定することはできないのであります。

 また、大聖人様は「仏勅」とこう申します。
仏の言葉を仏勒と申しております。
或は関目抄に宝塔品の三箇の大衆唱慕のところに第一勅宣という言葉をお使いになっております。
仏の言葉をもっても勅宣という。
必ずしも勅宣という言葉は、日本の天皇陛下だけだと、こう断定するのは、ちょっと早すぎるのではないかと思います。

 又、三秘抄の王という言葉をもって、日本の天皇と断定しているのは、結局は明治時代、勿論大正、昭和の初めにかけてもですけれども、国立戒壇という考えの上から、こういう言葉が出たものと思います。

ところが、我が宗では真実をいうと、古来から広宣流布の時の国主は転輪聖王である。しかも転輪聖王の内の最高の金輪聖王である。金の転輪聖王である。こう相伝しておるのでございます。
 皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔からそういうことを相伝しておる。しかし、明治時代以後、それを忘却しておる人が多くなったのでございます。それ故に、直ちに明治時代に於ては、国立という観念から、この一期弘法抄や三秘抄に於ける王は天皇だと、こう断定してしまったのであります。
 この考えは、日本が世界を統一するんだという考えのもとから天皇が転輪聖王だという考えが起ったものではないかと思われるのであります。ところが、御書を拝しますと、王というのは一国の王というのではなく、より高次元の意味で使われております。
 北条家に対しては、「僅か小島の主に恐れては閻魔法王の責めを如何せん」という御書もございます。
 で、この島の長がどうして一閻浮提広布の時の転輪聖王といえましょうか。なかなか簡単には云えないと思うのであります。

 これについて、先程さしあげたー堀猊下が、日恭上人伝補という、日恭上人の伝を少し書いております。それにこういうことが出ております。
 ▲「印度の世界創造説は全世界中の各史に勝れて優大な結構であり、又其に伴ふて世界に間出す転輪聖王の時代と世界と徳力と威力宝力と眷属との説が又頗る雄大であって、其中に期待する大王は未だ吾等の知る世界の歴史には出現しておらぬ」
広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。
 ▲「但僅に彼の阿育王が世界の四分の一を領せる鉄輪王に擬してあるばかりである。仏教では此の四輪王の徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ばぬ程の雄大さであるが小膽、躁急の吾人はこれを待ちかねて至って小規模に満足せんとしてをる。(乃至)金輪王には自然の大威徳あって往かず戦はず居ながらにして全須弥界四州の国王人民が信伏する。」
と、こう出ております。だから、実際に広宣流布した暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配者だと、即座に決定するということは難しい。もっと大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。

 日寛上人は観心本尊抄文段に
「一には法体の折伏(中略)蓮祖の修行是なり」(歴全五―四〇八)
 と示されている。大聖人の修行と化導は本門三大秘法を顕わされるためであり、この最高の法体の弘通は外道・小乗・権大乗・迹門、並びに応仏迹中の本門までの一切を、おのずから破折することに当たるのであり、そこに五段の相対が説かれる所以がある。更に観心本尊抄の
「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(新編六六一)
 の文の摂受とは、国王の折伏を化儀の折伏と判じ、この化儀の折伏に対して法体の折伏をしばらく摂受に属して示されたものと日寛上人は判定された。故に観心本尊抄で一往摂受に約すとはいっても、末法万年化導の折伏の大本は、大聖人の法体の折伏にましますことを知らなければならない。
 次に化儀の折伏に関し、大聖人の金言中にもしばしば拝される国主や国王の解釈については、法蓮抄に
「夫人中には転輪聖王第一なり。此の輪王出現し給ふべき前相として、大海の中に優曇華と申す大木生ひて華さき実なる。金輪王出現して四天の山海を平らかになす」(新編八一一)
 と示されるように、転輪聖王の絶大な人格の出現と、その徳によって世界全体を靡き伏させる折伏が完遂されることに当たるであろう。このような意義における四菩薩の興起が、正法を受持する因縁の上に、必ず現われることを確信すべきである。
 所詮法体の折伏とは、大聖人建立の本門三大秘法であり、化儀の折伏とはこの本尊・戒壇・題目の正義を広く日本ないし世界に受持せしめ、不受余経一偈の信心を確立せしめることである。そして一期弘法付嘱書に説かれる戒壇の実現に向かって邁進し、完遂しきっていく行業が化儀の折伏というべきである。



 で教行証御書の終りの方に、三行目に
 「已に地涌の大菩薩、上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漢土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の前兆の優曇華に値えるなるべし」
こう説かれております。大聖人様が出現して、いよいよ広宣流布になる時は、この金輪王が出現するんだ。その為に、大聖人様がこうしておられるのは、金輪聖王の主手右舷のためのお祝いの、優曇華の華に値えるが如くであるということをおっしゃっております。だからこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪女王が出現するのである。そして戒壇を建立する。その時には法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主日目上人の出現、ということは、本宗の伝統的相伝であります。これを皆な忘れて、簡単に三秘抄或いは一期弘法抄の時の王様は天皇だということをいわれ、それで又、国立戒壇ということをいっておる。それを今、そういう考えを改めて、昔の仏教の精神に返らなければならないと思うのであります。

 で、更にここで今度は第二番目の出世間の内感的に考えていくと王ということばはどうであるかと、こう考えていきます。
 そうすると御義口伝に、一番最後の厳王品のところには、この「王とは中道なり」と仰せになっております。ここに於て仏の言葉を仏勅と申し、勅宣と申されておる。仏を賢王と申される故であります。
 で、三秘抄・一期弘法抄の戒壇建立について、もし、世間儀典的な考えを以てするならば、広宣流布が完成した時には転輪聖王が出現して建立するという事になる訳で、その金輪聖王は誰かといえば、
 御義口伝に、化城喩品の処に、
 ▲「御義口伝に云く、本地身の仏とは此文を習うなり、祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是を祖と云うなり、此の三如是より外に転輪聖王之れ無きなり、転輪とは生住異滅なり、聖王とは心法なり、此の三如是は三世の諸仏の父母なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三世の諸仏の父母にして、其祖転輪聖王なり。金銀銅鉄とは金は生・銀は白骨にして死なり、銅は老の相・鉄は病なり、此れ即ち開示悟入の四仏知見なり、三世常恒に生死・生死とめぐるを転輪聖王と云うなり。此の転輪聖王出現の時の輪宝とは我等が吐く所の言語音声なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経なり。爰を以て平等大慧とは云うなり。」
と、こう仰せになっております。即ち結局は金銀銅鉄の輪王は、我等大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経を唱え奉る者の当体である、というべきであります。
 故に出世間内感的に於ける戒壇建立の相を論ずるならば、三秘抄の王法仏法等のお言葉は、大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経の信心を離れて存在しないのであります。
 我等、弟子檀那の末法に南無妙法蓮華経と修行する行者の己心にある有徳王、覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を其のまま以て末法濁悪の未来に移さん時、と申されたと拝すべきであります。

 三秘抄に有徳王・覚徳比丘とあれば、じゃ有徳王か覚徳比丘という人物はいつ出て来たか、又そういう人があるのかといわれる時に、有徳王・覚徳比丘は涅槃経におけるところの釈尊己心の世界の人物である。しからば今、末法に於いて、我々大聖人の弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱える、我々の己心においての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己心にあると考えなければならないのであります。
 これ実に我々行者の昔の己心の姿を顕わされていると拝すべきであって、その己心の上に勅宣並に御教書がありうるのであります。
 即ち、広宣流布の流溢への展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきであります。

 故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すぺきであります。

 又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一重加えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義に別けられて説かれておるのでありますが、詮ずるに六義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本門戒壇の大御本尊は六義の正主である。
本門戒壇の大御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せられたのに過ぎない。

たとえば、曽谷殿御返事(二千一頁)に、
「法華経は五味の主の如し」
と仰せになっております。
乳味、酪味、生蘇味等のその五味の主であると申されておる。
これは、五味は一代聖教で一代聖教は法華経を説き表すので、一代聖教を説く主眼は法華経である。
故に法華経ほ五味の中ではなく、五味の主体であるとの意味でこざいます。

 今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の処を事の戒壇と申すは、六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇であるからであります。
 「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第でこざいます。

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資料5

 松本日仁を通し浅井に伝えるよう手渡された猊下の御言葉

          ・昭和四十七年七月一日

一、貴殿の宗務院の通告に対する回答を拝見した。
ここに至る経過をつぶさにかえりみるとき、誠に残念であり悲Lみの念を禁じ得ない。
私にとって何よりも気がかりなことは貴殿の行動の根底に私の真意に対する誤解が根ざしているのではないかと思われる点である。
この点を明確にした上であらためて貴殿の冷静なる情慮を期することが私の責務と考える。

一、訓諭は私の真意であり法主としての私の信念から出たものである。
妙信講の意見を含めていろいろな人の意見も充分考慮したが、これは私の本心からの決定である。
この決定は日蓮大聖人の御遺命にいささかも違背するものではないと信ずる。
私も不自惜身命の決意で御遺命の実現に全力をあげている。

一、幸いにして私の見解はほとんどすべての宗門僧俗により支持されている。
現に学会も過去の言を改め、すでに広宣流布は達成したとか、正本堂が現在ただちに御遺命の戒壇実現であるということをいっておらず、私の訓諭に従っている。
もちろん支持の多少によって私の信念がゆらぐものでもなく、たとえ大多数が反対しても、私は私の信念を表明することにやぶさかではない。

一、教義についていろいろと意見のあるのは自由である。
私は貴殿が私の意見に従うようにとはいわない。
しかし、自分の解釈を押しつけるために非常手段に訴えるという態度は、信仰者として、また大事な一万講員の責任者としてとるべきではない。
それは信仰の本質にもとり、大聖人の御本意ではない。
又、訓諭は法主という立場上、宗門の公式見解となる。
従って宗門としてはこの線に従って運営されるべきであり、これを妨げることは統制を乱すことになる。
この点をよくよく理解され自重されることを望む。

一、貴殿のやっていることは私を守ろうとしてくれる誠意からかもしれないが、今、私を真に守ってくれるのは、訓諭に従ってくれることである。
現在、周囲には三類の強敵が競い抱こっており、これと戦うには大同団結こそ不可欠である。
もしこうした私の心も受けずに逸脱した挙に出ることに固執するならばそれは私にとってまことに忍びがたいところである。
どうか自重され冷静な判断をされるようお願いしたい。
 私は貴殿の良識を信じている。

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資料6

 「昭和四十七年四月二十八日」
   の訓諭について

        昭和四十七年七月十二日

注・昭和四十七年七月十九日、猊下が浅井に手渡された訓諭についての解釈文


正本堂は今や完成間近に迫っている。
正本堂建立の趣旨は正しく広宣流布達成の願望のもとにその工を進めて来たのである。

 然し広宣流布は仏勅の「我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提」であるから、一閻浮提に広宣流布するのは甚遠広大で、相当の長年月を要することであろう。
或いは近き将来急速に達成するかも知れないか、我々の凡智に於ては機知することは出来ない、ただ仏智に依る外はない。

我が戒壇の大御本尊は本門事の戒壇の根源なる故に、戒壇の大御本尊まします所ほ事の戒壇である。
即ち戒壇の大御本尊が御宝蔵に安置せられていた時は、御宝蔵が本門事の戒壇であったのである。
終戦後創価学会により信徒の増加を来し広宣流布へ一歩前進せるにより、昭和三十年十一月二十三日戒壇の大御本尊が奉安殿に安置せられて、奉安殿が本門事の戒壇となったのである。

 さらに本宗の信徒が、驚異的に倍増し広宣流布の達成へ一路邁進し続けているが、正本堂建立完成の時は戒壇の大御本尊を安置し奉るのであるから、正本堂は現時に於ける本門事の戒壇となるのである。

 しかし、一期弘法付嘱書、三大秘法抄の事の戒壇は甚探微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのであろう。

 我が大日蓮華山大石寺が建立せられてより本門寺の戒壇建立を実現せんとすることは、本宗緇素の大願であったのである。
 正本堂は今ただちに本門寺の事の戒壇ではないとしても、少なくとも大石寺建立後六百八十二年にして、信徒は日本国内のみならず世界の各国に同志を得てその数は、にわかに教えることは出来ない。
即ちそれだけ広宣流布せられ流行中に於ける相当の広宣流布達成とも云えるのである。
故に正本堂は一期弘法付嘱書、三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なりと申す所以である。

 正本堂は未来広宣流布達成の暁の本門寺の戒壇を願望したところの大殿堂ではあるが、未だ広宣流布達成とは申されないほど謗法の徒が多い、故に安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉ると申したのである。

 正本堂が完成し戒壇の大御本尊ここにましまさば、此の処即ち本門事の戒壇であれば、現時の人々は此処に於て懺悔滅罪し、即身成仏の本懐を遂げ、さらに一歩を進め謗法を折伏して一閻浮提に広宣流布の流溢することを僧俗一結して今日より新たに決心すべきである。

       昭和四十七年七月十二日



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