参照 駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能の一覧表


さ、駄犬の引文の矛盾を刻もう


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文証を出そう。 
■宝塔の中より梵音声を出して証明して云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて云く■

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● なんだ、これは?
なんでも、似たような語句があれば、並べればいいってもんんじゃない。

当該箇所全文を挙げよう

開目抄   文永九年二月  五一歳 532

 而るを後八年の法華経に忽(たちま)ちに悔(く)い還(かえ)して、二乗作仏すべしと、仏陀(ぶつだ)とかせ給はんに、人天大会、信仰をなすべしや。用ゆべからざる上、先後の経々に疑網(ぎもう)をなし、五十余年の説教皆虚妄(こもう)の説となりなん。されば四十余年未顕真実(みけんしんじつ)等の経文はあらませしが、天魔の仏陀(ぶつだ)と現じて、後八年の経をばとかせ給ふかと疑網(ぎもう)するところに、げに(実)げにしげに劫国名号(こうこくみょうごう)と申して、二乗成仏の国をさだめ、劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給へば、教主釈尊の御語(ことば)すでに二言になりぬ。自語相違と申すはこれなり。外道が仏陀を大妄語の者と咲(わら)ひしことこれなり。
 人天大会けを(興)さめてありし程に、爾(そ)の時に東方宝浄世界の多宝如来、高さ五百由旬(ゆじゅん)、広さ二百五十由旬(ゆじゅん)の大七宝(しっぽう)塔に乗じて、教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて、との(左宣)べかうの(左宣)べ、さまざまに宣べさせ給ひしかども、不審猶(なお)は(晴)るべしとも見へず、も(持)てあつか(扱)いてをはせし時、仏前に大地より涌現(ゆげん)して虚空(こくう)にのぼり給ふ。例せば、暗夜に満月の東山より出づるがごとし。七宝の塔大虚(おおぞら)にかゝらせ給ひて、大地にもつかず、大虚にも付かせ給わず。天中に懸(か)かりて、宝塔の中より梵音声(ぼんのんじょう)を出(い)だして証明して云はく「爾(そ)の時に宝塔の中より大音声(おんじょう)を出だして歎(ほ)めて言はく、善(よ)きかな善きかな、釈迦牟尼(むに)世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたまふ。是くの如し是くの如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是真実なり」等云云。


● 一体、この御文から、なんで、

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法華経が、他の教典と違う所がある。 
法華経は、仏の声そのものなのである。「梵音声」なのである。
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これを証明する、文証と成り得るんだ?

ほんと、ばっかじゃないの?

この御文は、
釈尊が「四十余年未顕真実」と宣言したところ、多くの大衆が、信じがたく、疑網を生じていたところ、多宝塔が出現し、その中の多宝如来が、梵音声を放ち、「この法華経は真実である。」と、証明した、という箇所ではないか。

そもそも、梵音声の定義は、

● 2014.8.29  『 「梵音声 法華に限る!」と フライング 駄犬またもや 堕つる首かも  』

で明証したごとく

梵音声 とは、仏の三十二相の中の、一相である、仏の衆生を教化する「声」である。
音声が明了に遠くまで聞こえ、清浄で聞く人を喜ばせる相。』


であり、
■ 此等の梵音声一切経と成りて一切衆生を利益す。



とある。

当該文も、多宝如来が、仏の梵音声で、「釈尊の説いた妙法蓮華経は皆な是れ真実。」と、証明した。ということであり、

それが特に

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法華経が、他の教典と違う所がある。 
法華経は、仏の声そのものなのである。「梵音声」なのである。
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駄犬のこの痴論の根拠になどなっていないではないか。

ただ、梵音声 という、語句があるから駄犬が食いついただけで、全く「証明」になっていない。

『皆な是れ真実』  である。   呵々大笑!


御金言 自分の都合に 曲げて引き     大馬鹿者!