参照 駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能の一覧表

ほい、次行こう〜〜!

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樋田氏の間違いはどこから始まっているのか。 
「法華経(妙法蓮華経)」をただの教典、ただの文字だと思っている所から間違っているのだ。
法華経が、他の教典と違う所がある。 
法華経は、仏の声そのものなのである。「梵音声」なのである。

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当方が、「法華経をただの経典、ただの文字」 だ、などと、いつどこで書いた?
これも、名誉毀損事項に加えるか?

はっきり明示せよ。

出来なければ、謝罪せよ。



その上で言うが、

梵音声 とは、単純に 仏の三十二相の中の、一相である、仏の衆生を教化する「声」である。
音声が明了に遠くまで聞こえ、清浄で聞く人を喜ばせる相。

法華経だけが、梵音声 ではない。


■ 此等の梵音声一切経と成りて一切衆生を利益す。

当該箇所全文

別名 梵音声書
 
 仏には三十二相そなはり給ふ。一々の相皆百福荘厳なり。肉髻(にくけい)・白毫(びゃくごう)なんど申すは菓(このみ)の如し。因位の華の功徳等と成りて三十二相を備へ給ふ。乃至無見頂相と申すは、釈迦仏の御身は丈六なり。竹杖外道(ちくじょうげどう)は釈尊の御長(みたけ)をはからず、御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず。応持菩薩も御頂を見たてまつらず。大梵天王も御頂を見たてまつらず。これはいかなるゆへ(故)ぞとたづぬれば、父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬し奉りしゆへに此の相を感得せり。
 乃至梵音声(ぼんのんじょう)と申すは仏の第一の相なり。小王・大王・転輪王等此の相を一分備へたるゆへに、此の王の一言に国も破れ国も治まるなり。宣旨と申すは梵音声の一分なり。万民の万言、一王の一言に及ばず。三墳五典(さんぷんごてん)なんど申すは小王の御言なり。此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事、仏の大梵天王帝釈等をしたがへ給ふ事もこの梵音声なり。
此等の梵音声一切経と成りて一切衆生を利益す。
其の中に法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして此の音声を文字と成し給ふ。仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはか(変)はれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひまいら(相進)せたりとおぼしめすべし。(四条金吾殿御返事 文永九年 五一歳 621 )

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■ 0636
    木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳  
 仏に三十二相有り、皆色法(しきほう)なり。最下の千輻輪(せんぷくりん)より終はり無見頂相(むけんちょうそう)に至るまでの三十一相は、可見有対色(かけんうたいしき)なれば書きつべし作りつべし。梵音声(ぼんのうじょう)の一相は、不可見無対色(ふかけんむたいしき)なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法(しんぽう)かけたり。

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● 仏には三十二相あり、梵音声 だけは、不可見無対色(見ることができず、複数同時に存在してもぶつかり合わない)ので、どうやっても、木でも作れないし、紙にも描けない。(趣意)という意義。

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■ 仏には必ず三十二相あり。其の相と申すは梵音声(ぼんのんじょう)・無見頂相(むけんちょうそう)・肉髻相(にくけいそう)・白毫相(びゃくごうそう)・乃至千輻輪相(せんぷくりんそう)等なり。(法蓮抄 建治元年四月  五四歳 812)

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● 同義。 仏には三十二相あって、その内の一つが 梵音声 である。と云う義。

以下の、駄犬が引文してきた御書は、次回に、その迷引の理由を徹底的に砕く。
楽しみにしてなさい。


「梵音声 法華に限る!」と フライング 駄犬またもや 堕つる首かも