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「法華経が東北に有縁」 という伝がある。

法華経にはその根拠となる箇所があるものなのか?という探究心が涌き検索している。
その中で、大変ありがたくまた感動的な御経文に出会えた。
あまりの有り難さに、信心の歓喜を以って、信心で意訳して拝させていただきたい。

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妙法蓮華経 並び解結(609上-01)

仏説観普賢菩薩行法経

此の大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。
此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり。


   ★ → 有名な御言葉。
末法、白法隠没 であるから、この■「大乗経典」とは、末法に出現する法華経 である。
それは即ち、末法の教主 上行再誕の日蓮大聖人様が御建立された三大秘法=戒壇の大御本尊様である。
その点を踏まえて観心からこの文の意を拝すれば、

三大秘法の御本尊は、一切諸仏の真の能生の根源である。
そして、この御本尊を受持する者は、まさに久遠元初の御本仏様を受け持ち、日々の生活がそのまま即身成仏への修行となる。

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■ 当に知るべし、是の人は即ち是れ諸仏の所使なり。諸仏世尊の衣に覆われ、諸仏如来の真実の法の子なり。汝大乗を行じて、法種を断たざれ。
汝今、諦かに東方の諸仏を観じたてまつれ。


   ★ → その三大秘法の御本尊を受持信行する者は、諸仏の使いである。諸仏に常に護られ、真の法華経の行者・地涌の菩薩の眷属である。

  ■「汝大乗を行じて、法種を断たざれ。」 

   ★ → 一往は、在世の修行者に法華経の弘通を勧め、再往は、滅後末法においての三大秘法の弘通者はいよいよ折伏を行じて、広宣流布していくであろう。との意か。

  ■「汝今、諦かに東方の諸仏を観じたてまつれ。」 

   ★ 
→ これまさに、戒壇の大御本尊様  そしてその分身散体された各末寺の御本尊様、そして各家庭の御本尊様が東方に出現することの予言ではあるまいか!
しかも、■「汝今」 とあるから、それは釈尊在世の聴聞の衆 という意味。
これこそ仏教の究極の真理である、能生の根源 東方に出現するであろう末法の仏=久遠元初の御本仏様を命深くに渇仰し観じなさい。
これは、在世の衆生も法華経を縁にして久遠下種を覚知して即身成仏する、いう意にも通じるか。

※ 諦 ものの真実をよく見る。見きわめられた道理。真理。真実。

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■ 是の語を説きたもう時、行者即ち、東方の一切無量の世界を見る。地の平かなること掌の如し。諸の堆阜、嶽陵、?棘無く、瑠璃をもって地と為し、黄金をもって側を間てたり。十方世界も、亦復是の如し。

是の事を見已って、即ち宝樹を見ん。
宝樹高妙にして五千由旬なり。其の樹常に黄金、白銀を出して七宝荘厳せり。

   ★ → ■ 「宝樹」 とは 「宝塔」 と同義であって、まさに戒壇の大御本尊様のことではあるまいか。
   ★ → ■ 「七宝」 とは 戒壇の大御本尊様のこと。

日蓮大聖人 ■ 七宝は即ち頭上の七穴、七穴は即ち末法の要法南無妙法蓮華経是なり。(講聞書 1835)

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■ 樹下に自然に宝の師子座有り。其の師子座の高さ、二千由旬ならん。其の座の上に亦、百宝の光明を出さん。
是の如く諸樹及び余の宝座、一一の宝座に、皆百宝の光明有らん。是の如く諸樹及び余の宝座、一一の宝座に、皆自然の五百の白象有らん。
象の上に皆、普賢菩薩有さん。爾の時に行者、諸の普賢を礼して、是の言を作せ。

  ■ 樹下に自然に宝の師子座有り。
   ★ → これはまさに、大聖人様以下、御歴代御法主上人の猊座のことではありますまいか!

  ■ 諸樹及び余の宝座、一一の宝座に、皆百宝の光明有らん。
   
   ★ → これまた、各末寺の姿を現しているのでは!?

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■ 我何の罪有ってか、但宝地、宝座及宝樹を見て、諸仏を見たてまつらざる。
是の語を作し已りなば、一一の座の上に、一りの世尊有さん。
端厳微妙にして、宝座に坐したまえり。諸仏を見たてまつり已って、心大いに歓喜して、復更に大乗経典を誦習せん。


   ★ → 生身の御仏である御本尊様の御前で、生身の仏様と拝することができない自身の罪障を深く反省懺悔し、そしてまた自身の信心の弱さを深く羞じ、慙愧して、一心欲見仏 不自惜身命 の信心に立った時、御本尊様が本当に、心の底から生身の御仏に拝することができる。
その御姿は真に尊く、ありがたく、懐かしく、
歓喜して、ただただありがたさいっぱいで、更に自行化他の唱題行に励ませていただく。

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■ 大乗の力の故に、空中に声有って、讃歎して言わく、
善哉善哉、善男子、汝大乗を行ずる功徳の因縁に、能く諸仏を見たてまつる。
今、諸仏世尊を見たてまつることを得たりと雖も、而も釈迦牟尼仏、分身の諸仏及び多宝仏塔を見たてまつること能わず。
空中の声を聞き已って、復勤めて大乗経典を誦習せん。
大乗方等経を誦習するを以ての故に、即ち夢中に於て、釈迦牟尼仏、諸の大衆と耆闍崛山に在して、法華経を説き、一実の義を演べたもうを見ん。
教え已りなば懺悔し、渇仰して見たてまつらんと欲し、合掌胡跪して、耆闍崛山に向って、是の言を作せ。


   ★ → その時、仏様と境地冥合して、仏様の御心を感じ拝することができるようになる。
でも、まだまだ、真の久遠元初の御本仏と境地冥合・感応道交・師弟不二して即身成仏の深い境界にはなっていない。
そこで、いよいよ、更にまた、自行化他の唱題行に励む。
懸命に自行化他の唱題行に励むその功徳によって、ほんの一瞬、束の間、御本尊様がそのまま虚空会の儀式と拝することができる。
しかし、その大歓喜の虚空会の儀式はほどなくして感じなくなってしまい、永続して感じ続けることができない。
そこで、常に自ら虚空会の儀式に往詣できることを心より願い、求め、渇仰して、きちんと威儀を正し姿勢を正して心をこめて合掌し、御本尊様に向って唱題しながら、こう願いなさい。

※ 胡跪 長者に対するインドの礼法であり、右膝を地に付け、左膝を立てて、臀を上げて身体を端正にすること。
→ 意訳すれば、心から御本尊様を敬い、恭しく姿勢を正して正座することであろう。

耆闍崛山 = 霊鷲山 = 御本尊様

■ 御義口伝(1770)   第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山の事
 御義口伝に云はく、霊山一会儼然未散(げんねんみさん)の文なり。時とは感応(かんのう)末法の時なり、我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり、霊鷲山(りょうじゅせん)とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づるなり。秘すべし秘すべし。仍って事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり。されば倶とは不変真如の理なり、出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり、出とは三千なり云云。又云はく、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然(おんねん)の曼陀羅を顕はす文なり。其の故は時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云。

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■ 如来世雄は、常に世間に在す。我を愍念したもうが故に、我が為に身を現じたまえ。
是の語を作し已って、耆闍崛山を見みるに、七宝荘厳して、無数の比丘、声聞、大衆あり。
宝樹行列して、宝地平正なり。復妙宝師子の座を敷けり。
釈迦牟尼仏、眉間の光を放ちたもう。其の光、遍く十方世界を照し、復十方無量の世界を過ぐ。
此の光の至る処の、十方分身の釈迦牟尼仏、一時に雲集して、広く妙法を説きたもうこと妙法華経の如し。
一一の分身の仏、身は紫金の色なり。身量無辺にして、師子座に坐したまえり。百億無量の諸大菩薩を以て眷属と為り。
一一の菩薩、行、普賢に同じ。此の如く十方無量の諸仏、菩薩の香属も亦復是の如し。

   ★ → 「大聖人様!久遠元初の御本仏様!どうか私のような濁悪不浄の凡愚の身にもその御姿を拝させてください!」
このように一心に渇仰して唱題に励む時、まさに御本尊様が、久遠から常住され、不断に続いている虚空会の儀式であり、そこに自らも列座していることを観じ拝すことができる。
その無始無終の常寂光土にして、尊極無比の安住の霊山浄土に自らも参集でしている。
その壮大・広大無辺に広がる荘厳さは例えようもない。真の安心立命の境地を感得するのである。

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■ 大衆雲集し已って、釈迦牟尼仏を見たてまつれば、挙身の毛孔より金色の光を放ちたもう。一一の光の中に百億の化仏有す。諸の分身の仏、眉間の白毫大人相の光を放ちたもう。其の光、釈迦牟尼仏の頂に流入す。此の相を見る時、分身の諸仏一切の毛孔より金色の光を出したもう。一一の光の中に、復恒河沙微塵数の化仏有す。
爾の時に普賢菩薩、復眉間の大人相の光を放って、行者の心に入れん。既に心に入り已りなば、行者、自ら過去無数百千の仏の所にして、大乗経典を受持し、読誦せしことを憶し、自ら故(もと)の身を見ること、了了分明ならん。宿命通の如く、等しくして異ること有ること無けん。豁然として大悟し、旋陀羅尼、百千万億の諸の陀羅尼門を得ん。三昧より起って、面り一切の分身の諸仏、衆の宝樹の下に、師子の牀に坐したまえるを見たてまつらん。

   ★ → そうして、いよいよ自身が久遠の過去からこの虚空会の儀式に例坐して常住不滅の常寂光土の御本尊様の御許において御本仏の末弟子であったことを悟り、大歓喜の境地に入ることを得るのである。

御義口伝 
■ 始めて我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。(御義口伝・1801)

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