問難

▼ 原殿御返事に日興上人が仏像造立は大聖人の本懐とあるではないか

▼ 御伝土代に「釈尊本仏 日蓮大聖人 上行再誕」とあるではないか。

▼ 三時弘経次第 に 
 本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。
 富士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。 とあって 日蓮聖人は上行菩薩 教主は 久成の釈迦仏 とあるではないか。

▼「十界漫荼羅本尊は将来広宣流布の時に建立する「戒壇」の示し書きである。
日亨上人は釈迦本仏論に対してもここまで明確に断じられている。

▼ 日蓮大聖人がご在世当時に一部の信徒(富木常忍や四条金吾など)に対して「釈迦如来立像」などの造立を許可・容認された。
だから現代でも仏像を造立・安置して拝んでもよい

▼ 大聖人が一体仏を随身されていた 仏像を本尊としていいのでは?

▼ 日興上人の仰せに云く、末法は濁乱也、三類の強敵之有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り

▼ 執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ

▼ 一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩薩の像は宝冠形なり。

▼ 一、民部阿闍梨も同じく四脇士を造り副う、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり

観心本尊抄

▼ 天台・伝教は之を宣(の)べて本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之を残したまふ。

▼ 万年救護本尊の讃文

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼ 日道上人述『御伝土代』にこのように書かれているではないか。
つまり、釈尊が本仏であって、日蓮大聖人は上行再誕の立場。

■�@ 日蓮聖人云わく、本地は寂光地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり。久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。

■�A 本門教主は久遠実成無作三身寿命無量阿僧祇劫常住不滅我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数の本仏なり。

↑ 

1、そもそも冒頭に 

■ 日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。

とある。
これはこの書が、日蓮大聖人の内証深秘の久遠元初の本仏のいう辺を示すものではなく、外用浅近の末法上行再誕の辺において御一期の次第を表すという標示である。

H君はこの、内証深秘 と 外用浅近 の二重構造が認知できないだけのこと。

大聖人の内証が釈尊を凌駕する本仏である真蹟文証


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2、さらに、当該文�@�Aは

五老が申状に「天台沙門」と名乗ったことへの破折の文である。
つまり、本迹相対の辺における破折文である。

当該段
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。

地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く。
天台宗者(は)智��禅師の所立迹門行者の所判なり、
既に上行菩薩の血脈を汚す。争か下方大士の相承と云はん、
本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり、
迹門の教主を尋れば大通以来三千塵点始成の迹仏なり、
教は是れ法華経の前十四品迹門なり、
弘通の時を云へば像法の御使なり、
付嘱を云へば四巻法師品にして迹門の付嘱を禀け給ふ、※因薬王菩薩告八万大士乃至薬王在々処々と云云、勧持品にして本門弘経を申し給ふと云へども、涌出品にして止善男子と止められ給ふ、上行菩薩をめしいだされ候、
その機を論ずれば此の菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。
(※ 参考 妙法蓮華経法師品第十
爾の時に世尊、薬王菩薩に因(よ)せて、八万の大士に告げたまわく、)

日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。

本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。

法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり何ぞ日蓮聖人の弟子となつて拙くも天台の沙門と号せんや。文句に云く迹門は二乗鈍根の菩薩を以て怨嫉となし本門は菩薩の中の近成を楽う者を以て怨嫉とす、御書に云く本迹の教主を論すれば猿と帝釈とのごとし、迹は池中の月本は天月なり、其機を論すれば畜生に同し、又云く逆臣が旗をば官兵指すことなし、干食の祭りには火を禁ずるぞかし、小善返つて大悪と成り親の讎返って怨敵となる、薬変じて毒となる云云。

分かり易く現代文に訳してみる。

**「天台沙門」と名乗る申状は大謗法であること**

地涌千界の根源を忘れ、天台・四明の末流の前にひざまずいている。
天台宗とは、智��禅師が立てられた教えであり、迹門の行者としての判釈に基づくものである。
すでに上行菩薩の血脈を汚しているのに、どうして地涌の大士の相承を受けた者といえようか。
天台の本地は薬王菩薩であり、この世に現れたお姿が天台智者大師である。

迹門の教主を尋ねれば、大通智勝仏以来の三千塵点劫の因縁を持ちながら、この世で初めて成仏した姿を示す迹仏である。
その教えは、法華経の前半十四品である迹門である。
弘通の時代からいえば、像法の時代の使者である。
付嘱についていえば、法華経第四巻の法師品で迹門の付嘱を受けた。
「薬王菩薩を通して八万の大士に告げる」などと説かれ、また「薬王よ、いたるところで」などと説かれるのが、それである。

勧持品では、本門を弘めることを願い出たが、涌出品では、「やめなさい、善男子よ」と制止された。
そして、上行菩薩が召し出されたのである。

その菩薩の境地を論ずれば、爾前・迹門の立場では、見思・塵沙・無明の三惑をすでに断じた菩薩であっても、本門の立場では、「徳が薄く、煩悩の汚れが重い」「貧しく身分が低い」「小法を好む」「子供たちは幼い」といわれる、見思惑さえ断じていない凡夫である。
本門寿量品に対して怨嫉するという過ちがある。

日蓮聖人は、次のように仰せられている。

「本地は寂光にあり、地涌の大士である上行菩薩は、六万恒河沙の菩薩の上首であり、久遠実成の釈尊に最初に結縁し、初めて仏道を志す心を起こさせていただいた、第一の御弟子である。」
本門の教主は、久遠実成の無作三身であり、その寿命は無量阿僧祇劫に及び、常に存在して滅びることのない仏である。
「私がもと菩薩の道を行じて成就した寿命は、今もまだ尽きていない。さらに、その倍にも及ぶ」と説かれる本仏である。
法についていえば、妙法蓮華経の涌出品・寿量品などの本門十四品に説かれる、根本の極めて深遠な法、諸仏が内に悟られた法、八万の教えの肝心、一切諸仏の眼目である南無妙法蓮華経である。
弘通についていえば、後の五百歳、すなわち末法一万年の導師である。
どうして日蓮聖人の弟子となりながら、愚かにも「天台の沙門」と名乗るのであろうか。
『法華文句』には、次のようにある。
「迹門では、二乗と理解の鈍い菩薩が怨嫉する者とされ、本門では、菩薩のなかで、仏が近い過去に成仏したという立場に執着する者が、怨嫉する者とされる。」
御書には、次のようにある。
「本門と迹門の教主を比較すれば、猿と帝釈とのような違いがある。迹門は池の水に映った月、本門は空にある月である。その機根を論ずれば、畜生に等しい。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここまで全段を読めば、小学生でも分かるであろう。
つまり、本迹相対における表現である。

H君、少しは初歩教学を研鑽したまえ。

■ 諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 三時弘経次第


一仏法流布の次第
一正法千年流布 小乗 権大乗
一像法千年流布 法華 迹門
一末法万年流布 法華 本門

今マ末法に入つて本門を立てゝ国土を治む可き次第。
 桓武天皇と伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てゝ像法を利益し国土を護持する事之を図す。

 迹門の寺 付属の弟子は 薬王菩薩 伝教大師。
 比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
 垂迹神 天照太神 八幡大菩薩 桓武天皇。

 今マ日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てゝ末法を利益し国土を治む可き之を図す。

 本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。
 富士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
 垂迹神 天照太神 八幡大菩薩 当御代

 天照太神の勅に曰く、葦原千五百秋の瑞穂の国は是レ子孫の王たる可き地なり、宜しく就て治む可し。
 孝経に云はく、先王正直の徳を行ふときんぱ四方の衆国皆法則に順従するなり。


 編者曰く本山蔵一紙の古写本(筆者不明)に依つて之を写す、猶開山上人御正筆中に此と同義の本迹法門あり、今其の要文を録す。


 日興上人正筆「本門弘通事」の中に在り。
 迹門比叡山    (本ハ)日枝山  吾山(山) 御社
 本門富士山  蓮花山  大日山

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現代語訳

### 仏法が流布する次第

- 正法一千年には、小乗教と権大乗教が流布する。
- 像法一千年には、法華経の迹門が流布する。
- 末法万年には、法華経の本門が流布する。
いま末法に入って、本門を打ち立てて国土を治めるべき次第は、次のとおりである。

桓武天皇と伝教大師とは、迹化の教えを付嘱された師と檀那の関係にある。
爾前の教えを破り、法華経迹門を打ち立てて、像法の人々を利益し、国土を守護する。このありさまを図に示す。

- **迹門の寺**――付嘱を受けた弟子は、薬王菩薩・伝教大師。
- **比叡山**――始成正覚の釈迦仏。迹化・垂迹の師檀の関係。像法に当たる。
- **垂迹の神**――天照太神・八幡大菩薩。檀那は桓武天皇。

いま日蓮聖人は、末法における本化・垂迹の師檀の関係に立ち、迹門を破って本門を打ち立て、末法の人々を利益し、国土を治めるべき次第を図に示す。

- **本門の寺**――付嘱を受けた弟子は、上行菩薩・日蓮聖人。
- **富士山**――久遠実成の釈迦仏。本化・垂迹の師檀の関係。末法に当たる。
- **垂迹の神**――天照太神・八幡大菩薩。檀那は当代の天皇。

天照太神の勅には、次のようにある。
> 葦原の千五百秋の瑞穂の国は、わが子孫が王となるべき地である。そこに赴いて治めよ。

『孝経』には、次のようにある。
> 先王が正直の徳を実践するときには、四方の諸国は皆、その法則に従う。

### 編者の注

本山に所蔵されていた一紙の古写本(筆者不明)に基づいて、これを書き写した。なお、開山上人の御正筆の中にも、これと同じ趣旨の本門についての一節があるので、ここにその要文を記録する。
これは日興上人の御正筆「本門弘通事」の中にある。

- 迹門――比叡山・日枝山・吾山・御社
- 本門――富士山・蓮花山・大日山

この最後の二行は、迹門・本門に関わる山や社の名を対照的に記した箇所と読めます。
なお、本文は古写本による転写で、編者自身が筆者不明と記しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これまた簡単。
これは国主 天皇であったり時の為政者 つまり北条政権などへ奏上した文。

まさに題号にあるがごとく 正法 像法 末法 それぞれの時にどのような仏法を広めるべきか、広めなければならないのか、を国主に説く文書。
つまりは、権実相対 本迹相対の辺を説き示した内容である。

末法今時は、法華本門を広めるべき時である、という意義。
それ以上の種脱相対の法門を仏法の教養がさほぞ深くない国主にあからさまに説けば却って不審を起してしまうが故に、あえて表示されてないだけの話。
今法華経本門を標榜しているのは日蓮門下しかいない。
その中でも正系門家は富士門流しかいない。
文底下種の仏法の奥義は国主が富士大石寺に入門した後に徐々に教えていけばいいことである。

この方式は現時の折伏でも活用している。
一般の仏教に無知な人々を折伏する時、直ちに日蓮大聖人が本仏と説く必要はない。
まずは四十余年未顕真実で権宗への執着を断ち、正しい法華経を正しく相伝しているのは上行再誕の日蓮大聖人しかいない。
そしての日蓮大聖人の出世の本懐である究極の奥義が戒壇の大御本尊である。
その戒壇の大御本尊はたった一人、日興上人に相伝されて連綿と現時にまで伝持されている。
それが日蓮正宗である。
他にこのような正統の仏教は存在していない。

このような流れで折伏している。

取捨宜しきに従って一向に執する事なかれ である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

▼「十界漫荼羅本尊は将来広宣流布の時に建立する「戒壇」の示し書きである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根拠

日代から日印への返状」

宰相阿闍梨御返事

�@ 仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ヶの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり、御本尊図は是なり、只今造立過無くんば私の戒壇建立せらるべく候か、若し然らば三中の戒壇尚以て勅裁無し六角の当院甚だ謂れ無き者なり、

訳

仏像の造立について言えば、本門寺が建立された時のことである。
まだ幕府や朝廷からの勅裁(公式な許可)がない状態で、国主が帰伏された時、本堂(戒壇堂) 御影堂 垂迹堂の三箇の大事は一度に成就させられるべき本意である。
本尊の図はこれである。
いまもし本堂に安置する仏像を造立することが誤りでないとがするならば、誰でも自由勝手に私的な戒壇を建立しても良いのであろうか。(そんな訳はないのである。)
もしそうであるならば、三箇が成就してこそ許される戒壇建立の勅裁が未だないのに、日尊師の六角妙法寺に仏像が建立されるというのは甚だ道理に合わないものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

破折

● そもそも大聖人は、このような法門は全く説かれていない。

三位日順師は 「本門心底抄」に

�A 本門の戒壇其れ豈立たざらんや。仏像を安置するの時、本尊の図は其の為めなり。戒壇の方面は地形に随うべし、国主信伏し造立の時至らば智臣大徳宜しく群議を成ずべし、兼日の治定は後難を招くに在り、寸尺高下註記すること能わず等云云

と記すが、「摧邪立正抄」には

�B  法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山を卜して(※選び定めて)居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ、是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり (富要2-43)

と述べている。

�Aと�Bでは戒壇の本尊に関しての別の見解を示している。

ここから何を読み取るか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日代師と日順師の関係

日代師と三位日順師は、ともに日興上人の門下で、重須で活動した同門の僧。
役割の異なる同門。

人物 主な位置づけ 役職
日代 日興上人の後、重須本門寺の住持を継ぎ、のちに西山本門寺を開いた僧 住持
三位日順 重須談所の第二代学頭として、教学・講学を担った僧。
もとの師は初代学頭の寂仙房日澄で、日澄とともに日興門下に入った。
学頭

文献上のつながりもあり。
『五人所破抄』は末尾に「嘉暦三〔1328〕年七月草案す 日順」とあり、日亨上人の編者注には、**重須本門寺所蔵の「日代上人写本」**が挙げられてる。
つまり、日順が草案した書を日代が書写したと伝えられている。

日興上人の膝下で教育された二人が、�@�Aとほぼ同様の教義を語り、一方の日順師が�Bという�@�Aを覆す教義を示しているということは、
日代師に�Bと同義の文が発見されていないとしても、日順師も日代師も●「未来の造仏へ事寄せて、現時の造仏を制止」という志向であったということが推定できるのではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただし一方ではこういう見解もある。

堀日亨上人 富士宗門史

三位日順が本門心底抄に「本門の戒壇豈(あに)建たざらんや、佛像を安置すること本尊の圖(図)のごとし」について

日亨上人は日順師の�Aの言には痛烈に批判している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また、富要集2−34 本門心底抄の�Aの文の頭注に
「仏像安置と云々、順師未だ興師の真意を演暢せず。後人此文に滞ること勿れ」
と付している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
�Bの言に対しての
日亨上人の論評は見当たらない。
日亨上人が日順師のこの相矛盾する記述に対してどのよう考えられていたかは分からない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また一方では日寛上人の見解もある。

日寛上人・六巻抄・末法相応抄

問う、三位日順の心底抄に云わく、戒壇の方面は地形に依る可し、安置の仏像は本尊の図の如し云云。
 又日代師日印に酬うる書簡に云わく、仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅許有らず、国主御帰依の時三箇の大事一度に成就せしむべきの由の御本意なり、御本尊の図は其の為めなり、只今仏像造立過無くんば私の戒壇又建立せらる可く候か云云。此等の師の意豈仏像造立を広布の時に約するに非ずや。

 答う、亦是れ当時の造立を制せんが為めに且く事を広布の時に寄するか。
 応に知るべし、開山上人御弟子衆に対するの日仍お容預進退有り、是れ宗門最初の故に宜しく信者を将護すべき故なり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは、�Aと�Bの両文を付き合わせたときの矛盾を解消できる説と言える。
つまり、日順師は内心は�Bの心であったが、造仏強執の一機に対して�Aを説き、「未来造仏に事寄せて、現時から広宣流布の時までの造仏を制止された」ということである。

六巻抄を富要集に収録した日亨上人がこの日寛上人の説を知らないはずがなく、日順師を批判した見解からすれば矛盾するが、これをどう解釈すればいいのかは分からない。

ただし、H君はこう述べている。

▼「大変恐縮ですが、堀日亨氏は僕の中で『高僧』ですね^_^」

高僧として尊敬する、という意であろう。

とすれば、日亨上人の見解である日順師の本尊の図の如しとの見解はまことに幼稚、拙劣な解釈という意見に素直に承服すべきであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

因みに日亨上人は釈迦本仏論に対してもここまで明確に断じられている。

■ 興尊の御主張は、宗祖大聖人を末法応時の御本仏として絶対に他仏を容れざる所にあり、
これが五老僧たちおよび全宗徒の大聖人即上行菩薩に留まり、末法の本僧に甘んじて、
その上に久遠実成の釈迦一大円仏を奉持するのと正反対に対立するがゆえに、
五老門下一同の大曼荼羅軽視すなわち釈迦円仏付属の思行と全然趣を異にすることは、
その御筆物に御行動に遺憾なく顕われたるのみならず、
富士全門下僧俗の規範として残された門徒存知事に明らかにせられて、
本尊奉安に護持に厳密謹重の御扱いをなされた。(詳伝 289)

H君が尊敬する日亨上人は日興上人は完全な釈迦本仏否定者であったと断言されていることを重く受け止めるべきであろう。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

問難

▼ 日蓮大聖人がご在世当時に一部の信徒(富木常忍や四条金吾など)に対して「釈迦如来立像」などの造立を許可・容認された。
だから現代でも仏像を造立・安置して拝んでもよい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●  大聖人ご自身が御本尊として顕わされたのは「南無妙法蓮華経」を中心とする曼荼羅であり、仏像ではない。

■ あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。(中略)宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ
(阿仏房御書 文永一二年三月一三日 五四歳 793)

↑十界文字漫荼羅こそが出世の本懐と言われているのに釈迦像造立を末法万年の正規の本尊として認められるわけがない。 

■ 先日のまぼ(守)り暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。
(中略)
此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。
(中略)
 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。
(中略)
あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。(経王殿御返事 文永一〇年八月一五日  五二歳 685)

■ 日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、
唯(ただ)御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり。(富士一跡門徒存知事 1876)

■  本尊問答抄   弘安元年九月  五七歳 1274

問うて云はく、末代悪世(あくせ)の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。
答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。
問うて云はく、何れの経文、何れの人師の釈にか出でたるや。
答へて云はく、
法華経の第四法師品に云はく
「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦(じゅ)し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応(まさ)に七宝の塔を起(た)てヽ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。復舎利を安(やす)んずることを須(もち)ひず。所以(ゆえん)は何(いかん)。此の中には已に如来の全身有(ましま)す」等云云。

涅槃経の第四如来性品に云はく
「復次に迦葉、諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法也。是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す。法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云。

天台大師の法華三昧に云はく
「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安んずべからず。唯法華経一部を置け」等云云。

末文

此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提(えんぶだい)の内にいまだひろめたる人候はず。
漢土の天台・日本の伝教はほヾ(粗)し(知)ろしめして、いさヽかもひろ(弘)めさせ給はず。
当時こそひろまらせ給ふべき時にあたりて候へ。
経には上行・無辺行等こそい(出)でてひろめさせ給ふべしと見えて候へども、いまだ見えさせ給はず。
日蓮は其の人には候はねどもほヾ心(得)へて候へば、地涌の菩薩のいでさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後(きょうめつどご)のほこさき(矛先)に当たり候なり。
願はくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕(つかまつ)り候。
其の旨をし(知)らせまい(進)らせむがために御本尊を書きをく(送)りまいらせ候に、他事をすてヽ此の御本尊の御前にして一向に後世をもいの(祈)らせ給ひ候へ。

冒頭の■「法華経の題目を以て本尊とすべし。」とは文末に説かれる「御本尊」つまりは宗祖御図顕の十界文字曼荼羅のことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1. 段階的・妥協的な指導に過ぎない

大聖人が一部の信徒に仏像の造立や所持を許されたのは、それまで長年親しんできた念仏や旧仏教の執着から徐々に離れさせ、法華経・正法へと導くための「脱権入実」という過渡的な配慮。
つまり権実相対による暫時の方便の側面がある。

さらに実教に帰依したとしても次は「仏像への執着」を持っていた信徒に対して、法華経の教主である釈尊像としてならばやはり暫時の方便として許された。

最初から「念仏の阿弥陀本尊を捨てて十界曼荼羅だけを拝め」と言っても受け入れられない信徒の機根(理解度や信仰心)に合わせ、段階的に真の信仰へと導くための「許容」であって、「恒久的に仏像を造立・礼拝すべきである」と定めたものではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2. 「末法の正しい本尊」は大曼荼羅(文字の御本尊)である

大聖人が『観心本尊抄』や『法華取要抄』等で明かされた通り、末法における境智冥合のまことの本尊は「十界互具・百界千如」を具足した「文字の大曼荼羅」である。

* **木像や画などの仏の像の限界:**

木像や画の仏像は「釈迦一仏」などの単一の姿しか表せず、久遠元初の三身相即や十界具足という「末法の法華経の真理(南無妙法蓮華経)」を全うして表現することができない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3. 日蓮大聖人の「出世本懐」は戒壇の大御本尊である

大聖人の生涯における究極の目的(出世の本懐)は、弘安2年(1279年)10月12日に建立された「本門戒壇の大御本尊(生身の御本仏の当体)」である。

* 信徒への個別の御書(御消息)で仏像について言及されているものは、大聖人の教えの「展開過程(過渡期)」における指導。
* 弘安2年に出世本懐である「大御本尊」が顕わされた以上、それ以前の個別の許容(過渡的な指導)はすべて大御本尊への信仰へと昇華・入文(にゅうもん)されるべきものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4. 彫刻や画像の仏像は熟脱仏法の残滓。

大聖人は『薬王品得意抄』や『木絵二像開眼の事』などで木像・絵像について言及されているが、そこでの本質は「妙法蓮華経の法力・仏力によって初めて木絵二像に仏の魂魄が流入し顕現し生身の仏となる(開眼)」ということ。

* つまり、単なる「仏像」そのものに価値があるのではなく、「妙法蓮華経(御本尊)」という根本の法が開眼の源泉。
* 末法において妙法蓮華経の当体である「曼荼羅御本尊」が確立した現在、妙法を離れて単なる仏像を拝むことは、かえって像法過時の本尊への逆行し本尊の迷乱となる。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

問難

▼ 大聖人が一体仏を随身されていた 仏像を本尊としていいのでは?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1. 随身仏は「墓所・陵墓の傍ら」に置くべき御遺言

■ 一、御所持仏教の事
    御遺言に云はく
   仏は釈迦立像 墓所の傍(かたわら)に立て置くべし云云。(宗祖御遷化記録 弘安5年10月16日 執筆 日興上人 正筆)

�@ もしこの一体仏が末法の「信仰の根本たる本尊」であるならば、大聖人の御入滅後に「墓所に立て置く」などの処置をされるはずがない。
これは、その仏像が末法一切衆生が帰依礼拝すべき「本尊」ではないことを大聖人ご自身が示された明確な証拠。

�A 大聖人御入滅の砌 一期の大事の時に際して この随身仏を退けて、十界文字漫荼羅を奉掲させた、との伝承も仏像を廃し漫荼羅御本尊を信行の御本意とされていたとの表れではないか。

以下の文献に明確に反証している。

参照文献

一、池上御入滅の時御遺告の一巻。
御所持仏教の事仏は【釈迦立像】墓所の傍に立て置くべし云云。
経は注法華経と名く。
六人香華当番の時披見すべきなり、
自余の聖教の事は沙汰の限りに非ず云云、仍て御遺言に任せ記録すること件の如し。
弘安五年十月十六日 執筆 日興。

此の事一体の仏大聖の御本意ならば墓所の傍に棄て置かれんや、
又造立過無くんば大聖の時、此の仏に四菩薩十大弟子を何ぞ造り副へられざるや、
御終焉の時彼の仏を閣いて件の曼荼羅を尋ね出され懸け奉る事顕然なり衆中勿論なり、
惣じて此くの如きの事等御書の始末を能々了見有るべく候か、二代の聖跡数通の遺誡是虚しからんや、
(日印師の質問に日代師が返答)(富要5-50)

現代語訳

この件について、釈迦一体の仏像を本尊とすることが大聖人の御本意であったならば、その仏像を墓所の傍らに置くよう遺言なさるでしょうか。
また、仏像を造立することに問題がないのであれば、なぜ大聖人は御在世中に、この仏像に四菩薩や十大弟子を添えて造立なさらなかったのでしょうか。
御入滅の際には、その仏像をさしおいて、※例の曼荼羅を探し出して掲げられたことは明白であり、いうまでもありません。
そもそも、このような事柄については、御書の前後や全体の趣旨をよくよくお考えになるべきでしょう。
大聖人・日興上人の二代にわたる御事跡と、幾通もの書状に残された御遺誡が、どうして意味のないものでありましょうか。決して、むなしく扱ってよいものではありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※ 伝承上は、鎌倉・比企谷妙本寺所蔵の、弘安三年三月御図顕「臨滅度時の御本尊」に当たるとされている。
ただし、日代のこの文章だけから、その一幅に特定できるわけではない。

『御本尊集』の解説として紹介されている内容でも、
- 御臨終時に曼荼羅を掲げたことの根拠に、日代の書状などを挙げる。
- それが現在の妙本寺所蔵本であることの根拠には、別に『本化別頭仏祖統紀』『高祖年譜攷異』を挙げている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3. 「随身」と「帰命の対象(本尊)」の厳格な区別

身につけたり身近に置いたりする「随身の品(持仏・念持仏)」と、末法全衆生が生命を賭して帰命・礼拝すべき「本尊」とは意味合いが全く異なる。

大聖人が教主釈尊を敬い、個人的な縁や持ち物として一体仏を携えられていたこと(随身)をもって、「故に像木の本尊を立てるべきだ」と結論づけるのは、「随身仏」と「本尊」の格の違い・用途の違いを混同した謬見。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4. 法華経文底・末法相応の本尊は「戒壇の大御本尊(曼荼羅)」

大聖人が図顕された御本尊は「文字曼荼羅」であり、その極理は弘安2年10月12日に出世の本懐として建立された「本門戒壇の大御本尊」に帰結する。
形像(仏像)への執着は、脱益の釈迦仏法の形式にとらわれたものであり、末法相応の下種仏法を弁えない解釈である。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

問難

以下の日興上人の言(と日尊師が伝えている)についてはどう考えるか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

久成釈迦造立有無の事
日興上人の仰せに云く、末法は濁乱也、三類の強敵之有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶う可から不、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべし。

『日尊実録(尊師実録)』- 日興上人の自筆文書ではなく、日尊を介して伝えられた仰せ。

尊師実録は日尊師の言や教義を弟子の日大が記録した書。
日尊師は釈迦像造立した造像志向があった人物。
日大師も造像家であった。
造仏志向であった日尊師の言をこれまた造仏家であった日大が聞き取った内容であるから、そこには造仏偏向思想が混入していても不思議ではない。
造仏思想がある日尊師が自身の主観で理解した内容とも考えられる。
さらにそこに日大の主観が盛り込まれた可能性も否定できない。
本人が実際に言ってもいないことを聞いた側が自分の主観で聞き取るので事実と違う内容に受け取る、ということは往々にしてありえることである。

日大が造仏家であった証拠 
参照 日大直兼問答 宗全2-431 直兼は天台宗僧侶 不動院直兼
「日大、尋ねて云く、去去年、本門の釈迦を造立す云云。印契は、教主・脇士等、合掌を皆造立す云云。如何。
直兼云く、尤も然るべし。」

反証

富士一跡門徒存知事(1876)
一、五人一同に云はく、本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉るべしとて既に立てたり、随って弟子檀那等の中にも造立供養の御書之在り云云。
而る間盛んに堂舎を造りて、或は一体を安置し、或は普賢(ふげん)文殊(もんじゅ)を脇士(きょうじ)とす。
仍って聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又堂舎の廊(ほそどの)に之を捨て置く。

  日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、
唯(ただ)御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり。

この御文がまさに日興上人のお考えであり、造仏否定である。
もし将来において造仏志向であるならば、この文にその意を表されているはずである。

また当該文をそのまま受け取るとして、このような解釈もある。

日寛上人 末法相応抄

問う、日尊実録に云わく
「日興上人仰せに云わく、末法は濁乱なり三類の強敵之れ有り、爾るに木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華灯明の供養も称うべからず、
広宣流布の時まで大曼荼羅を安置し奉るべし」云々。
若し此の文に准ぜば、広宣流布の時には両尊等を造るべきや。

答う、広布の時と雖も何ぞ之れを造立せん。
故に此の文亦事を三類の強敵等に寄せて広宣流布の時に譲る、而も其の意、実には当時の造立を制止するなり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問難

『五人所破抄』

執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ 云云

### 原文 > 又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云。

> > 日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、
所以に小乗三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、
此の外の一躰の形像豈頭陀の応身に非ずや、

凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず
倩聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、
図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり、
今に当つては迹化の教主・既に益無し況や??婆和の拙仏をや、

次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、
執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし
敢て一仏を用ゆること勿れ
云云。

### 現代語訳

また五人がそろって言うには、 「先師(日蓮大聖人)が所持していた釈尊像は、恐れ多くも弘長年間に流罪となった昔、大聖人が刻まれたものである。
そして弘安五年に亡くなられた時にも、身近に置かれていた。
どうしてこれについて、軽々しくあれこれ言えようか」云々。

日興が言うには、
「諸仏の姿かたちは同じように見えても、印相によってその違いを見分ける。
如来の本仏と迹仏の違いは見きわめにくいが、眷属によって知ることができる。
たとえば、小乗の三蔵教の教主には迦葉・阿難が脇士として付き、伽耶で初めて成仏した迹仏には普賢・文殊が左右に付き従う。
これらの眷属を伴わず、一体だけで表された像は、どうして頭陀の姿をした応身仏ではないと言えようか。
そもそも円頓の教えを学ぶ者は、広く大切な骨組みを心得るべきで、細かな事柄にこだわるべきではない。
よく大聖人がこの世に出られた本懐をたずねれば、それは、すでに時を過ぎた権教・実教の教化を改め、上行菩薩から伝えられた仏法と戒法を弘めるためである。
大聖人が図顕された本尊こそ、正法・像法の二千年間を通じて、全世界の中にまだ存在しなかった大曼荼羅である。
今の時代には、迹化の教主にはすでに利益がない。
まして、**??婆和(たたばわ)の拙仏(小児のように幼く、拙い仏)**には、なおさら利益がない。

次に、大聖人が釈尊像を身近に所持していたという世間の非難について言えば、それは、継子が一時だけ受ける愛情のようなもの、
または月が出るまでの短い間に見える蛍の光のようなものにすぎない。

その像に執着し、なお帰依したいという者がいるなら、四菩薩を加えるべきであり、釈尊一仏だけを用いてはならない」云々。

**「??婆和」について** この語は「小乗の仏」という意味そのものではなく、「小児」の意とする注釈があります。
ここでは「拙仏」と続くため、「小児のように幼く、拙い仏」といった侮蔑的な表現として訳しました。
ただし、富士宗学系の注釈には「小乗仏」と解するものもあり、これは語の直訳というより、文脈に即した教判上の解釈です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

反論

上記全文を読めば日興上人の御心が如実に理解できるではないか。
太字、下線をした通りで、大聖人の御本意は曼荼羅正意、造仏禁止である。
それでもどうしてもその一体仏に執着すると言うのであれば、仕方がないから、暫時四菩薩を加えよ。
という文意である。
むしろ一体仏に執着してしまう自身の機根の未熟さ、過去世からの因縁の拙さ、そして教学の未熟さを恥ずべきであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問難 以下の文については?

一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩薩の像は宝冠形なり。

一、民部阿闍梨も同じく四脇士を造り副う、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

反論

## 『富士一跡門徒存知事』追加八箇条

### 原文

**追加 八箇条。**

近年以来、日興所立の義を盗み取り、己が義と為す輩出来する由緒、条々の事。

**一、**寂仙坊日澄、始めて盗み取りて己義と為す。彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり。仍って甲斐国下山郷の地頭、左衛門四郎光長は聖人の御弟子、遷化の後、民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり。而るに去ぬる永仁年中、新堂を造立し、一体仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已わって自義と為し候処に、正安二年、民部阿闍梨、彼の新堂並びに一体仏を開眼供養す。爰に日澄、本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ、日興に帰伏して弟子と為る。此の仁、盗み取りて自義と為すと雖も、後、改悔帰伏の者なり。

**一、**去ぬる永仁年中、越後国に摩訶一と云う者有り。天台宗の学匠なり。日興が義を盗み取りて、盛んに越後国に弘通するの由、之を聞く。

**一、**去ぬる正安年中以来、浄法房天目と云う者有り。聖人に値い奉る。日興が義を盗み取りて鎌倉に於て之を弘通す。また、祖師を蔑如して添加する義も之有り。

**一、**弁阿闍梨の弟子、輔房日高、去ぬる嘉元年中以来、日興が義を盗み取りて、下総国に於て盛んに弘通す。

**一、**伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一体仏なり。而るに去ぬる年月、日興が義を盗み取りて、四脇士を造り副う。彼の菩薩の像は宝冠形なり。

**一、**民部阿闍梨、同じく四脇士を造り副う。彼の菩薩像は比丘形にして衲衣を著す。また近年以来、諸神に詣づる事を留むる由、聞くなり。

**一、**甲斐国に肥前房日伝と云う者有り。寂日房の向背の弟子なり。日興が義を盗み取りて、甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す。又、四脇士を造り副う。彼の菩薩の像は身皆金色、剃髪の比丘形なり。また神詣でを留むる由、之を聞く。

**一、**諸方に聖人の御書、之を読む由の事。
此の書札の抄、別状に有り。之を見るべし。

### 現代語訳

**追加の八箇条。**

近ごろ、日興が立てた教義を取り入れながら、自分の教義であるかのように説く者たちが現れている。その経緯を、以下に一つずつ記す。

**一、寂仙房日澄のこと。**
日澄は、初めて日興の教義を取り入れ、それを自分の教義として説いた者である。日澄は民部阿闍梨の弟子だった。甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は大聖人の弟子であり、大聖人の入滅後は民部阿闍梨を師として帰依していた。
ところが永仁年間、新しい堂を建てて釈迦仏の像一体を安置する際、日澄は日興のもとを訪れ、日興の教義を非難した。その教えを聞いた後、日澄はそれを自分の教義として説いたという。正安二年、民部阿闍梨がその新堂と釈迦仏像の開眼供養を行った。そこで日澄は師である民部阿闍梨と永久に義絶し、日興に帰依して弟子となった。日澄は当初、日興の教義を自分のものとして説いたが、後に考えを改めて帰依した者である。

**一、越後国の摩訶一のこと。**
永仁年間、越後国に摩訶一という者がいた。天台宗の学僧である。日興の教義を取り入れ、越後国で盛んに弘めていると聞いている。

**一、浄法房天目のこと。**
正安年間以降、浄法房天目という者がいる。大聖人にお会いしたことのある人物である。日興の教義を取り入れて鎌倉で弘めている。また、祖師をないがしろにし、何かを付け加えるような教義もある。
※「祖師を蔑如して添加する義」は、原文だけでは何を付け加えることを指すのか明記されていません。

**一、輔房日高のこと。**
弁阿闍梨(日昭)の弟子である輔房日高は、嘉元年間以降、日興の教義を取り入れ、下総国で盛んに弘めている。

**一、伊予阿闍梨の真間の堂のこと。**
伊予阿闍梨(日頂)の下総国・真間の堂には、釈迦仏の像一体が安置されている。ところが、いつのころからか、日興の教義を取り入れて四菩薩を脇士として造り添えた。その菩薩像は、宝冠を着けた姿である。

**一、民部阿闍梨のこと。**
民部阿闍梨(日向)も、同じく四菩薩を脇士として造り添えた。その菩薩像は、僧の姿で袈裟を着けている。また、近ごろは諸神への参詣を禁じていると聞いている。

**一、肥前房日伝のこと。**
甲斐国に肥前房日伝という者がいる。寂日房(日華)に背いた弟子である。日興の教義を取り入れ、甲斐国で盛んに弘めている。また、四菩薩を脇士として造り添えている。その菩薩像は、全身が金色で、髪を剃った僧の姿である。さらに、神社への参詣を禁じていると聞いている。

**一、各地で大聖人の御書が読まれていること。**
その書状の抜粋については、別の書状に記してあるので、それを見るべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この段を全文読めば、日興上人が何を言わんとしているのか自ずと分かるというもの。

つまり、日興上人の教義を直接あるいは間接的に聞いた者達が、所々自義に取り入れている、というだけのこと。

その文脈の上で、一体仏だけを造立し安置していた者達が、四菩薩を添加するようになった。と事実を列挙している箇所である。
だからといって日興上人がそのことを推奨していないことは、先述の通り。
一体仏執着の者へ四菩薩添加の教えは、、機根の未熟な、大聖人の真の仏法を理解できない、法門未熟なもの達への暫時の方便の化導である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問難 「仏像」とあるではないか

観心本尊抄

> 此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏猶文殊・薬王等にも之を付属し給わず。何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して、八品を説いて之を付属し給う。
>
> 其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処し給う。迹仏・迹土を表する故なり。
>
> 是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し。八年の間にも但八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども、未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。

### 現代語訳

この法華経本門の肝心である「南無妙法蓮華経」の五字については、仏は文殊菩薩や薬王菩薩などにもこれを付嘱されなかった。
まして、それ以外の者に付嘱されるはずがない。
ただ地涌の菩薩たちを召し出し、法華経の後半八品を説いて、この五字を付嘱されたのである。

その本尊の姿は、根本の師である釈尊の娑婆世界の上空に宝塔があり、その塔の中では「妙法蓮華経」が中心に掲げられ、その左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並ぶ。
釈尊の脇士として上行菩薩などの地涌の四菩薩が位置し、文殊菩薩や弥勒菩薩などは四菩薩の眷属として末座にいる。
迹化の菩薩や他方の大小の菩薩たちは、地上の人々が雲上の楼閣や公卿を仰ぎ見るように、地上に位置する。
また、十方の諸仏も地上におられる。
それは、迹仏・迹土を表しているからである。

このような本尊は、釈尊の在世五十余年の間にはなかった。
法華経を説いた八年間でも、ただ後半八品に限って説かれた。
正法・像法の二千年間には、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士とし、権大乗や涅槃経・法華経迹門などに説かれる釈尊は、文殊・普賢などを脇士としてきた。
正法・像法時代にこれらの仏は造像・描画されたが、まだ寿量品に明かされる仏は現れていない。

末法に入って初めて、このような仏の像が出現するのであろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正法・像法には仏像はたくさん作られてきたが、このような十界文字漫荼羅本尊=仏=仏像はなかった。
と仰せ。
文脈から見て、冒頭から説明してきた十界曼荼羅御本尊がそのまま仏であり仏像ということである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問難 ここに「本門の本尊と四菩薩」とあるではないか。

天台・伝教は之を宣(の)べて本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之を残したまふ。所詮、一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。日蓮此の事先(ま)づ之を知りぬ。(721)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

反論

まさに三大秘法の文

本尊 ・本門の本尊と四菩薩
戒壇 ・戒壇
題目 ・南無妙法蓮華経の五字

証拠

今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。日蓮此の事先(ま)づ之を知りぬ。

と仰せの日蓮大聖人が「本門の本尊」として仏像を中心にして四菩薩を並べる本尊式を御生涯にわたって一切作っていない。
大聖人が佐渡以降顕発されたのは全て十界文字曼荼羅(時期によって十界すべてが列座されていないとしても)
となれば、「本門の本尊と四菩薩」とはそのまま十界文字曼荼羅本尊を指すことは明白。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問難 

## 万年救護本尊の讃文

通称「万年救護本尊」は、文永十一年(一二七四)十二月、甲斐国波木井郷の山中で図顕されたと伝わる曼荼羅です。その讃文は、次のように伝えられています。

### 原文

> 大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年
> 雖爾月漢日三ヶ国之間未有此大本尊
> 或知不弘之 或不知之
> 我慈父以仏智隠留之 為末代残之
> 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

### 書き下し

大覚世尊御入滅の後、二千二百二十余年を経歴す。
然りと雖も、月・漢・日の三箇国の間、未だ此の大本尊有らず。
或いは之を知って弘めず、或いは之を知らず。
我が慈父、仏智を以て之を隠し留め、末代の為に之を残す。
後の五百歳の時、上行菩薩、世に出現して始めて之を弘宣す。

### 現代語訳

釈尊が入滅されてから、二千二百二十余年が経った。
しかし、インド・中国・日本の三つの国には、これまでこの大本尊は存在しなかった。
ある者はこれを知っていても弘めず、ある者はこれを知らなかった。
私たちの慈父である仏は、仏の智慧によってこれを隠し留め、末法のために残された。
後の五百歳、すなわち末法の時代に、上行菩薩が世に現れて、初めてこれを弘めるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

反論

「我が慈父教主釈尊」 などという記述は枚挙に暇ない。
しかし、大聖人こそが釈尊より根本の末法の仏であるとの文証もまた多数存在する。
以下は全て真蹟もしくは身延曾存に依った。

■ 教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭(こうべ)を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。(下山御消息 建治三年六月 五六歳 1159 真筆 小湊 誕生寺 他30箇所)

明らかに釈尊より末法の法華経の行者が上位にある旨を明かされている。

■ 是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合はせ両眼を仏の御顔にあて、頭(こうべ)を低(た)れて他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ飢ゑて食を思ふがごとく、間(ひま)無く供養し奉る功徳よりも、戯論(けろん)に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃(ほ)め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。
これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり。十号と申すは仏の十の御名(みな)なり。十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかヽれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。(法蓮抄 建治元年四月 五四歳 813 真蹟 京都本圀寺 他三箇所 身延曾存)  

■ 然(しか)る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室(あんしつ)を見るに、法華読誦(どくじゅ)の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌(がっしょう)して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽(たちま)ちに息(や)む。(忘持経事  建治二年三月三〇日  五五歳 957 真蹟 中山法華経寺 内)

この「教主釈尊」とは大聖人御図顕の十界曼荼羅御本尊である。
釈尊像ではない。
教主釈尊=十界文字曼荼羅御本尊=即日蓮大聖人

■ 此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生(じゅんじしょう)に仏にな(成)したてまつるべし。(兄弟抄 建治二年四月 五五歳 987 真蹟 大石寺他五箇所 内)

日蓮大聖人が釈迦に「申して」仏にさせる。
もし、日蓮大聖人が釈尊の弟子・遣いならば、「申して」ではなく、「祈念して」とか、「祈願して」とかとの表現にならなければ、非礼であろう。
つまり、日蓮大聖人が教主本仏で釈尊が垂迹仏であることの標示。


■ 此の四大菩薩は釈尊成道の始め、寂滅(じゃくめつ)道場の砌(みぎり)にも来たらず、如来入滅の終はり抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)にも至らず。加之(しかのみならず)、霊山八年の間に、進んでは迹門の序正の儀式に文殊・弥勒等の発起影向(ほっきようごう)の諸の聖衆にも列(つら)ならず、退いては本門流通の座席に観音・妙音(みょうおん)等の発誓弘経(ほっせいぐきょう)の大士にも交はらず。但此の一大秘法を持して本処(ほんじょ)に隠居するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮仏専ら末世の時に限って此等の大士に付嘱せし故なり。(曽谷入道殿許御書 文永一二年三月一〇日  五四歳 783 真蹟 中山法華経寺) 

上行菩薩はこのように、もし釈尊の弟子であるとすれば、実に非礼な行動をとっていたことになる。
釈尊の師であるがゆえに許される行動ともいえる。

■ 
阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。(十章抄 文永八年五月 五〇歳 466 真蹟 中山法華経寺)

久遠実成の釈尊の 「我本行菩薩行」 の時の修行を示すことができるということは、まさに日蓮大聖人が釈尊の御師であった証左。
それは下種名字の妙法 南無妙法蓮華経 であったということ。

十章抄 真蹟 阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。

高橋入道殿御返事 真蹟 
法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。

上野殿母尼御前御返事 真蹟 釈迦・多宝・十方の諸仏のて(手)づからみづ(自)から来たり給ひて、昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。

真言諸宗違目 真蹟 日蓮は日本国の人の為には賢父(けんぷ)なり、聖親(せいしん)なり、導師なり。

崇峻天皇御書 身延曾存 
録内 日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。

諌暁八幡抄 身延曾存 録内 月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝(まさ)れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。

十章抄 真蹟 阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。

十章抄 真蹟 法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏并(なら)びに十方の諸仏の功徳を備へたり。譬へば如意宝珠の金銀等の財を備へたるが如し。

国府尼御前御書 真蹟 釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりとと(説)かれて候。まこと(実)しからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。()

法蓮抄 真蹟 而るに法華経の末代の行者を心にもをもはず、色にもそねまず、只たわぶ(戯)れての(罵)りて候が、上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫、仏を罵詈(めり)し奉るにすぎて候ととかれて候。()

法蓮抄 真蹟 心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃(ほ)め供養せん功徳は、

松野殿御消息 真蹟 一劫が間教主釈尊を供養し奉るよりも、末代の浅智なる法華経の行者の、上下万人にあだまれて餓死すべき比丘(びく)等を供養せん功徳は勝るべし

■ 富木尼御前御書  真蹟 日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

原殿御返事

此れのみならず、日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。

これについては日亨上人が身延離山史で解説している。

H君が「高僧」と仰ぐ学匠の御言葉をじっくり拝するがいい。
そして自身の法門未熟な様をよくよく見つめ直すべきである。