『原殿御返事』
日興上人が原殿に宛てた書状
末尾に「正応元年戊子十二月十六日 日興」とあり、1288年の書状として伝わる。
日興上人の御真筆は、現在所在不明とする記述がある。
以下は、『日蓮大聖人御書全集[新版]』の公開本文を底本に、仮名づかいなどを読みやすく整えた翻刻。
版によって「南部孫三郎/南部弥三郎」「富士の塔/福士の塔」などの異同があるので、異文のある箇所は後で触れる。
本文 1
日亨上人 1 身延離山史 1
本文 2
本文 3
日亨上人 2
本文 4
本文 現代語語訳
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一般に立像仏の執著が余りにも強いので此に対する方便として久成の釈尊を掲げられたのである、
当時は一般に、立像の仏像に対する執着があまりにも強かった。
原殿御返事 本文 1
御札、委細に拝見仕り候い畢んぬ。
そもそもこのことの根源は、去ぬる十一月の比、南部孫三郎殿、この御経聴聞せんがため入堂候のところに、この殿の入道殿の仰せと候いて、念仏無間地獄の由、聴かしめ給うべく候なり。
この国に守護の善神無しということ、云わるべからずと承り候いしあいだ、これこそ存外の次第に覚え候え。
入道殿の御心替わらせ給い候かと、はっと推せられ候いて、殊にいたく、
「この国をば念仏・真言・禅・律の大謗法の故、大小の守護の善神捨て去るあいだ、その跡のほくらには大鬼神入り替わって、国土に飢饉・疫病・蒙古国の三災、連々として国土滅亡する」
の由、故日蓮聖人、勘文をば関東三代に仰せ含められ候い畢んぬ。
この旨こそ日蓮阿闍梨の存するところの法門にて候え。
これを国のため、世のため、一切衆生のための故、日蓮阿闍梨、仏の御使いとして大慈悲をもって身命を惜しまず申され候いき」
と談じて候いしかば、孫三郎殿、
「念仏無間のことは深く信仰仕り候い畢んぬ。
守護の善神、この国を捨去すということは不審いまだ晴れず候。
その故は、鎌倉に御座しまし候御弟子は、諸神この国を守り給う、もっとも参詣すべく候と。
身延山の御弟子は、堅固に守護神この国に無き由を仰せ立てらるる条、日蓮阿闍梨は入滅し候、誰に値ってか実否を定むべく候」
と、委しく不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め給うべきこと候。
「師匠は入滅候と申せども、その遺状候なり。
立正安国論これなり。私にても候わず、三代に披露し給い候」
と申して候いしかども、なお御心中不明に候いて御帰り候い畢んぬ。
これと申し候は、
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日亨上人 1 身延離山史 112
此の原殿と云ふは弟子分帳の南部弥六郎で清長と云つた人であらう、
正応元年十二月五日の警状〈九、離山の道程 の下に出す〉。
後更(ごさら)に御状があつたが其は伝はつて無い、
其の御返事が此で頗る長文である
今の引文の下の幾分は前に(イ 伝燈抄の文)引いたから爰には省略するが、其は此の文と連関してをるから繰り返して御覧を願ふ事にする、
引文の初の南部孫三郎の「孫」の字は或は「弥」かも知れぬ草書では形態が似てるから古写本が誤つたかも知れぬ、
弟子分帳にある「弥三郎」あたりかも知れぬ、
但し今から考へて見れば波木井の謗法と云ふ事が余りにも浅薄である、
念仏無間が理解せられて居ぬ此の特使が漸く興師の弁明で少し判然したけれども、安国論の神天上の法門は此御状の如くには理解せずに帰つた事に成つてをる、
何と云ふ愚物であらう
併し波木井一門が全部日円入道や孫三郎の如き没分暁漢(わからずや)では無い筈である、
此の宛主の原弥六郎達は確実に大聖人の正義が明つていた、
其が却つて入道と信仰上には意気が投合しないで此度も自己と同然な愚漢(しれもの)を撰んで使者に立てたであらう、
併し其裏面には民部阿が居て愚漢(しれもの)の頭を更に煩はしく迷はした形である、
斯うした事は何れの時代でもあつて能く信仰の破綻となるのである、
法義検討の上に従浅至深的に到達し尽した信仰なら間違は無いが、宗義以外に何かの因縁で入信した信徒には自然間違は有り勝である、
道徳と信仰との径庭(けいてい=大きな隔たり)もあるが、
第一階の普通道徳、各国共通人類の実行方面から、
第二階の宗教道徳、
第三階の宗門特殊の信行となる、
此階梯を實践(じっせん)躬行(きゅうこう=自分自身で実際に行うこと)せずに波木井入道は大信者と自ら納まつた形であるので、
本尊問題出づるや到底了解出来ぬのは、尤の事で、
大聖人の新仏教の外廓とも云ふべき破邪段の念仏無間も神天上も判然して居なかつた、
其は信徒の罪でない能化者の罪である、教訓が行届かなかつたのである、とも云へん事はない、
さやうに決する時は波木井の謗罪は第一に大聖人様、第二には直接の指導者日興上人に帰せねばならぬ事になる
最後の日円状に「怨み進らする仔細の候間」と云つて興師の要求を拒絶した、其「仔細」と云ふのは他に文書の徴すべきを見ないけれども、本状の始終を以て考へるに、初に念仏無間、次に神天上、念仏に関する謗法供養、神社への供養、果ては立像仏問題、此れが一々に非違なり謗法なり師敵対なりと教訓せらるる、程の重大事ならば、何故に大聖人も亦白蓮の御房も入信已来三十年に垂(なりな)んとする間に懇切の教訓を下し給はざりしぞと深く怨んだのではあるまいか、
此も一理あるやうであるが教化は機根次第領解次第である、
低級な頑固な信徒には大慈大悲の仏世尊でも徹底的の理解は与へられぬ、
盲者の物を正視し得ぬのは盲者の罪で日月の罪でない、
道に迷ふ者ありとも其は道を作りし者の罪でないと大聖も仰せられてる、
何うせ本項で終る理ではないが、余り道草を食ふやうでも能(よ)くない
御文が長いから中間の分は前の伝燈抄に譲つて急ぎませう、
又次の文中「入道殿御微力」より「御安置候べし」迄の二百二十余字は(三)のチに引けるも切離し難き文の故に重引しました。
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【現代語訳】
この「原殿」とは、『弟子分帳』に記されている南部弥六郎、清長という人であろう。
正応元年十二月五日付の警告の書状については、後の「離山の道程」の項で取り上げる。
その後、さらに原殿から書状があったが、それは伝わっていない。
その返書が、このかなり長い書状である。
今回引用した文章に続く部分は、以前にも一部を引用したので、ここでは省略する。
ただし、今回の文章とつながっているので、前の引用をもう一度読み返していただきたい。
引用の初めにある「南部孫三郎」の「孫」は、あるいは「弥」かもしれない。
草書では形が似ているので、古写本で書き誤った可能性がある。
『弟子分帳』にある「弥三郎」あたりかもしれない。
さて、今から考えてみると、波木井の謗法に対する認識は、あまりにも浅かった。
「念仏無間」の意味さえ理解していなかったこの特使は、日興上人の説明によってようやく少し分かったものの、『立正安国論』の「神天上」の法門については、この返書にあるように、理解しないまま帰ってしまった。
何という愚かな人物であろうか。
しかし、波木井一門が、全員、日円入道や孫三郎のような道理の分からない人物だったはずはない。
この書状の宛先である原弥六郎たちは、大聖人の正しい教えを確かに理解していた。
そのため、かえって入道とは信仰の面で意見が合わず、入道は今回も、自分と同じように理解の乏しい人物を選んで使者にしたのであろう。
そして、その背後には民部阿闍梨がいて、そうした人々を一層煩わせ、迷わせていたのである。
こうしたことは、どの時代にもあり、しばしば信仰が崩れる原因となる。
教えの内容を検討し、浅い理解から深い理解へと進んで、十分に納得した信仰なら間違いはない。
しかし、教義以外の何らかの縁で入信した信徒には、自然と間違いが生じやすい。
また、一般的な道徳と信仰との間には隔たりがある。
まず第一段階として、どの国の人々にも共通する日常の道徳があり、
第二段階に宗教上の道徳、
第三段階に宗門固有の信仰と実践がある。
波木井入道は、これらの段階を実際に踏んで身につけることなく、自分は立派な信者だと思い込んでいた。
そのため、本尊の問題が持ち上がると、どうしても理解できなかったのであり、それも無理のないことであった。
そもそも、大聖人の新しい仏教の外郭ともいうべき、誤った教えを破折する段階の「念仏無間」や「神天上」さえ、明確には理解していなかったのである。
これについては、「信徒の責任ではなく、教え導く側の責任である。
十分に指導が行き届いていなかったのだ」と言えないこともない。
しかし、そう結論づけると、波木井の謗法の責任を、第一には大聖人、第二には直接の指導者である日興上人に帰さなければならなくなる。
最後の日円入道の書状には、「怨み進らする仔細の候間」とあり、日興上人の要求を拒んでいる。
その「仔細」、つまり恨みに思う理由については、ほかに確かめられる文書がない。
しかし、この返書全体から考えると、
まず念仏無間、
次に神天上、
念仏にかかわる謗法への供養、
神社への供養、
最後には立像仏の問題まで、一つ一つ「誤りである」「謗法である」「師への敵対である」と指摘された。
入道は、「それほど重大なことならば、なぜ大聖人も白蓮の御房も、入信してから三十年にもなろうとする間に、懇切に教えてくださらなかったのか」と、深く恨んだのではないだろうか。
これにも一理あるように見える。
しかし、教化は、教えを受ける人の資質や、理解し受け入れる力によって左右される。
理解が浅く、かたくなな信徒には、大慈大悲の仏であっても、徹底した理解を得させることはできない。
目の見えない人が物を正しく見られないのは、その人の側の問題であって、日月の責任ではない。
道に迷う人がいても、それは道を作った人の責任ではない、と大聖人も仰せになっている。
この問題は、この項だけで論じ終えられるものではない。
しかし、あまり脇道にそれるのもよくない。
御文も長いので、中間部分については前の『伝燈抄』に譲り、先へ進むことにしよう。
なお、次の引用文中の「入道殿御微力」から「御安置候べし」までの二百二十余字は、すでに「(三)のチ」で引用している。
しかし、前後から切り離しにくい文章なので、重ねて引用した。
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本文 2
この殿、三島の社に参詣渡らせ給うべしと承り候いしあいだ、夜半に出で候いて、越後坊をもって、
「いかに、この法門、安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破り給うべき、御存知ばし渡らせおわしまさず候か」
と申して、永く留め進らせし事を入道殿聞こしめされ候いて、民部阿闍梨に問わせ給い候いけるほどに、御返事申され候いけることは、
「守護の善神、この国を去ると申すことは、安国論の一篇にて候えども、白蓮阿闍梨、外典読みに片方を読んで至極を知らざる者にて候。
法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会すべく、もっとも参詣すべし」
と申され候いけるによって、入道殿深くこの旨を御信仰のあいだ、日興参入して問答申すところに、案のごとく少しも違わず
「民部阿闍梨の教えなり」
と仰せ候いしを、白蓮、このことははや天魔の所為なりと存じ候いて、少しも恐れ進らせず、
「いかに、謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神を、御弟子の民部阿闍梨、参詣するごとに来会すべしと候は、師弟敵対、七逆罪に候わずや。
かようにだに候わば、彼の阿闍梨は日興の帰依し奉り候えば、その科、日興遁れ難く覚え候。
今より以後、かかる不法の学頭をば擯出すべく候」
と申す。
やがてその次に富士の塔供養の奉加に入らせおわしまし候。
もっての外の僻事に候。
総じて、この二十余年の間、持斎の法師、御影をだに指さざりつるに、御信心、いかようにも弱く成らせ給いたることの候にこそ候いぬれ。
これと申すは、彼の民部阿闍梨、世間の欲心深くして、へつらい諂曲したる僧、聖人の御法門立つるまでは思い寄らず、大いに破らんずる仁よと、この二、三年見つめて候いて、さりながら折々は法門説法の曲がりけることを、謂れ無き由を申し候いつれども、あえて用いず候。
今年の大師講にも、啓白の祈願に
「天長地久・御願円満。左右大臣・文武百官、各願成就」
とし給い候いしを、
「この祈りは当時は致すべからず」
と再三申し候いしに、
「いかでか国恩をば知り給わざるべく候」
とて制止を破り給い候いしあいだ、日興は今年、問答講仕らず候いき。
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本文 3
これのみならず、日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主・久遠実成の如来の画像は、一、二人書き奉り候えども、いまだ木像をば誰も造り奉らず候に、入道殿御微力をもって形のごとく造立し奉らんと思しめし立ち候に、御用途も候わざるに、
「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに、それほどの仏を作らせ給え」
と教訓し進らせ給いて、固くその旨を御存知候を、日興が申すようは、
「せめて故聖人安置の仏にて候わば、さも候いなん。
それもその仏は上行等の脇士も無く、始成の仏に候いき。
その上、それは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。
何の欲しさに、第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。
御力かなわずんば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。
いかに聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主の木像をば、最前には破らせ給うべき」
と強いて申して候いしを、軽しめたりと思しめしけるやらん。
日興は、かく申し候こそ聖人の御弟子として、その跡に帰依し進らせて候甲斐に、重んじ進らせたる高名と存じ候は、聖人や入り替わらせ給いて候いけん。
いやしくも諂曲せず、かつ経文のごとく、聖人の仰せのように諫め進らせぬる者かなと、自讃してこそ存じ候え。
総じてこのことは三つの子細にて候。
一には安国論の正意破れ候いぬ。
二には久遠実成の釈迦如来の木像、最前に破れ候。
三には謗法の施、始めて施され候いぬ。
このことどもは入道殿の御失にては渡らせ給い候わず。
ひとえに諂曲したる法師の過に候えば、思しめしなおさせ給いて、
「今より以後、安国論のごとく、聖人の御存知、在世二十年のように信じ進らせ候べし」
と改心の御状をあそばして、御影の御宝前に進らせ給え」
と申し候を、御信用候わぬ上、軽しめたりとや思しめし候いつらん。
「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」
と仰せの由承り候いしあいだ、さては法華経の御信心、逆に成り候いぬ。
日蓮聖人の御法門は、三界の衆生のためには、釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を捨てて、阿弥陀仏を憑み奉るによって五逆罪の人と成りて、無間地獄に堕つべきなりと申す法門にて候わずや。
何をもって聖人を信仰し進らせたりとは知るべく候。
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日亨上人 2 身延離山史 117
引文を二段に仕切つてをいた、
前段の方は遂に本尊問題にまで進んで来たけれども終極の問題ではない、
一般に立像仏の執著が余りにも強いので此に対する方便として久成の釈尊を掲げられたのである、
始成無常の小乗教の単己一体仏の立像仏を暫く破排して久成教主釈尊が聖人の本懐法華本門の妙法五字七字に即する本仏と仮定せられて此が宗門の目的、人本尊との様に仰せられた、
本書には四菩薩脇士の事を云つて無いが五人所破事や門徒存知の追加には四菩薩を添加して本化的に改めよとは興師御自身の御説と成つてをる、
此には五老側の追随もあつたのであるけども、立像仏の余炎は中々消えなかつた、
日円入道も興師御離山後に長門殿から五十貫文の費用を借り受けて身延沢に第二転の立像仏を造立した、
朗師も罪造りをしたものである、
斯様な事であるから大聖の秘々中の秘たる本懐は顕はれやうは無い、
此が支那より日本に流れ来れる偶像仏教の余波である、
否余波どころでは無い其潮流の最中(まんなか)に浮きつ沈みつする通仏教の思潮である、
現代から殊に吾門徒の信仰から考へて見ると開山上人の波木井老に対する言動は誠に歯痒いやうであるけれども、其時代では致し方もあるまい、
立像仏の再建を止(とど)むる為に久成仏を持出し其が出来上るまでは御筆の漫荼羅を暫用せよなんどは嘸(さぞ)かし御意苦しい事であつたらうが、波木井一族の中に対しては其すら能くこそ云へた全く自分の力でない大聖人の御冥加であると自讃せられてをる。
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【現代語訳】
引用文は二つの段に分けておいた。
前半では、ついに本尊の問題にまで話が進んでいる。
しかし、そこで述べられているのは、究極の本尊の問題ではない。
当時は一般に、立像の仏像に対する執着があまりにも強かった。
そのため、それに対処する方便として、久遠実成の釈尊を示されたのである。
まず、今世で初めて成仏し、その生命にも限りがあるとする、小乗教の単独の仏を表した立像を、ひとまず退けた。
そして、久遠実成の教主釈尊を、大聖人の本懐である法華本門の妙法五字・七字に即した本仏と、仮に位置づけ、それが宗門の目指す人本尊であるかのように仰せになったのである。
この『原殿御返事』には、四菩薩を脇士とすることは述べられていない。
しかし、『五人所破事』や『門徒存知』の追加には、四菩薩を加え、本化の菩薩を伴う形に改めよとする、日興上人ご自身の説が示されている。
この点では、五老僧側にも同様の動きがあった。
それでも、立像仏を求める思いは、なかなか消えなかった。
日円入道も、日興上人が身延を離れられた後、長門殿から五十貫文の費用を借り、身延沢に再び立像仏を造立した。
日朗も、罪を作るようなことをしたものである。
このような状況では、大聖人の、秘密の中でも最も深い秘密である本懐が、明らかになるはずもない。
これは、中国から日本へ伝わってきた偶像仏教の影響である。
いや、単に影響が残っていたという程度ではない。
一般の仏教思想そのものが、その大きな流れのただ中にあって、浮き沈みしていたのである。
現代、とりわけ私たちの門流の信仰から見ると、開山日興上人の波木井入道に対する言動は、まことにもどかしく感じられる。
しかし、当時としては、ほかに方法がなかったのであろう。
立像仏の再建を思いとどまらせるために久遠実成の仏を示し、それが完成するまでは大聖人御筆の曼荼羅を一時的に用いるようにと言うことなどは、言い出しにくく、ご苦心のいることであったろう。
しかし、波木井一族を相手にしては、それだけのことでも、よく言うことができた。
それは全く自分の力ではなく、大聖人の目に見えないお力添えによるものである、と、ご自身の行動を振り返って称えておられる。
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本文 4
日興が波木井の上下の御ためには初発心の御師にて候事は、二代・三代の末は知らず候、いまだ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候え。
身延山を罷り出で候こと、面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち返し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わんことこそ詮にて候え。
さりともと思い奉るに、御弟子ことごとく師敵対せられ候いぬ。
日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当たって覚え候えば、本意忘るることなく候。
また君達はいずれも正義を御存知候えば悦び入り候。
ことさら御わたり候えば、入道殿、不宜に落ちはてさせ給い候わじと覚え候。
なお民部阿闍梨の邪見、奇異に覚え候。
安房へ下向の時も、入道殿に参り候いて、外典の僻事なること再三申しける由、承り候。
聖人の安国論も外典にて書かせ渡らせ給い候。
文永八年の申状も外典にて書して候ぞかし。
その上、法華経と申すは漢土第一の外典の達者が書かれて候あいだ、一切経の中に文詞の次第、めでたしとこそ申し候え。
今、この法門を立て候わんにも、構えて外筆の仁を一人も出だし進らせんとこそ思い進らすることにて候いつれ。
内外の才覚なくしては、国も安からず、法も立ち難しとこそありげに候。
総じて民部阿闍梨の存知、自然と御覧じ顕さるべし。
殊に去ぬる卯月朔日より、諸岡入道の門下に候小家に籠居して、画工を招き寄せ曼荼羅を書いて、同八日、仏生日と号して、民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出だすのみならず、酒を興ずるあいだ、入道その心中を知って妻子を喚び出だして酒を勧むるあいだ、酔狂の余りに一声を挙げたること、所従・眷属の嘲弄、口惜しとも申すばかりなし。
日蓮の御恥、何事かこれに過ぎんや。
このことは世にもって隠れ無し、人皆知るところなり。
このことをば、しばらく入道殿に隠し進らせて候えども、かくのごとき等のこと出来し候えば、彼の阿闍梨の、聖人の御法門継ぎ候まじき子細顕然のことに候えば、日興、彼の阿闍梨を捨て候ことを知らせ進らせんために申し候なり。
同行に憚って、いかでか聖人の御義をば隠し候べきと。
彼の阿闍梨の説法には、定めて
「一字も問いたる児どもの、日向を破するは」
とのたまい候わんずらん。
もとより日蓮聖人に背き進らする師どもをば捨てぬが、かえって失にて候と申す法門なりと、御存知わたらせ給うべきか。
何より、御影のこのほどの御照覧、いかん。
見参にあらざれば心中を尽くし難く候。恐々謹言。
十二月十六日 日興 花押
進上 原殿御返報
追って申し候。
涅槃経の第三・第九の二巻、御所にて談じて候いしを、愚書に取り具して持ち来って候。
聖人の御経にてわたらせ給い候あいだ、たしかに送り進らせ候。
兼ねてまた御堂の北の棚に四十九院の大衆の送られ候いし時の申し状の候いし、御覧候いて便宜に付し給うべくや候らん。
見るべきこと等候。
毎事、後信の時を期し候。恐々。
※「正応元年戊子」は1288年に当たる。
版によっては、年紀を本文末に置くか、日付を「正応元年戊子十二月十六日」とまとめて記している。
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原殿御返事 現代語訳
お手紙を詳しく拝見しました。
そもそもこの問題の発端は、去る十一月ごろ、南部孫三郎殿が法華経を聴聞するために入堂された際、波木井入道殿の仰せとして、
「念仏が無間地獄に堕ちる理由を聞かせてほしい。
この国に守護の善神がいないとは言えないのではないか」
と尋ねられたことです。
これは思いもよらないことでした。
入道殿のお心が変わってしまわれたのではないかと、はっと推察しました。
そこで私は、
「念仏・真言・禅・律という大謗法のために、大小の守護善神がこの国を去り、その祠には大鬼神が入り替わって、飢饉・疫病・蒙古襲来という災いが相次ぎ、国が滅びようとしていることを、故日蓮聖人は立正安国論に記し、鎌倉幕府三代の執権に説き聞かせられたのだ」
と強く申し上げました。
「これこそ日蓮阿闍梨の法門です。
国と世と一切衆生のため、仏の使いとして大慈悲をもって命を惜しまず説かれたのです。」
すると孫三郎殿は、
「念仏無間ということは深く信じています。
しかし、守護善神がこの国を去ったという点は、まだ疑問が晴れません。
鎌倉にいる弟子は諸神がこの国を守るから神社に参詣すべきだと言い、身延山の弟子は守護神はいないと言う。
日蓮阿闍梨は亡くなられた今、誰に会って正邪を決めればよいのでしょう」
と詳しく尋ねられました。
そこで私は、
「二人の弟子の違いを定める手掛かりはあります。
師匠は亡くなられたとはいえ、その遺された文書があります。
立正安国論です。
これは私的なものではなく、三代の執権に公に示されたものです」
と答えました。
しかし孫三郎殿は、なお心中が定まらないまま帰られました。
その後、孫三郎殿が三島社に参詣されると聞き、私は夜中に越後坊を遣わして、
「この法門は立正安国論の正意であり、日蓮聖人の大願なのに、どうしてそれを破られるのですか」
と伝え、参詣を思いとどまらせました。
これを聞いた入道殿は民部阿闍梨に尋ねました。日向は、
「守護善神が国を去るというのは安国論の一節にすぎない。
白蓮阿闍梨(日興)は外典を片端から読むだけで、究極の意味を知らない。
法華経を持つ者が参詣すれば諸神も社に集まるのだから、参詣してよい」
と答えたそうです。
入道殿がその説を深く信じたため、日興が参上して話し合うと、案の定、日向の教えだったと分かりました。
私はこれを天魔の仕業と考え、恐れずに申し上げました。
「謗法の国を捨てて戻らないと仰せの守護神が、民部阿闍梨の参詣のたびに集まるというのは、師に敵対する七逆罪ではありませんか。
日興がその阿闍梨に従えば、日興もその罪を免れません。
今後、このような不法の学頭は追放すべきです」 と。
そのすぐ後、入道殿は富士の塔供養に寄進されました。
これは甚だしい誤りです。
二十余年の間、持斎の法師の姿さえ見なかったのに、入道殿の信心が弱くなってしまったのでしょう。
民部阿闍梨は世俗的な欲が深く、へつらい、道理を曲げる僧で、大聖人の法門を立てるどころか、破壊する人だと、私はこの二、三年見てきました。
説法の誤りをたびたび指摘しても、聞き入れませんでした。
今年の大師講でも、日向は祈願として
「天皇の御代が長く続き、願いが成就し、左右の大臣や文武百官それぞれの願いがかなうように」
と述べました。
私は
「今はその祈りをしてはならない」
と何度も申し上げましたが、日向は
「どうして国の恩を知らないのか」
と制止を破りました。
そのため、日興は今年、問答講を行いませんでした。
それだけではありません。
日蓮聖人御出世の本懐に関わる、南無妙法蓮華経の教主である久遠実成の如来の画像は、一、二人が書き奉ったことはあっても、木像はまだ誰も造っていませんでした。入道殿が力の及ぶ範囲で造立しようと思い立たれたのに、日向は
「大国阿闍梨が持ち去った仏の代わりに、同じほどの仏を作られよ」
と勧めたのです。
私は、
「せめて故聖人が安置されていた仏なら、まだよいでしょう。
しかし、その仏には上行菩薩などの脇士もなく、始成の仏でした。
そのうえ大国阿闍梨が持ち去っています。
なぜ今、同じような始成無常の仏が欲しいのでしょう。
造立する力がかなわないのであれば、御子孫の中に造立する人が現れるまでは、聖人が文字でお書きになったものを安置なさるべきです。
どうして大聖人御出世の本懐に関わる木像を、真っ先に退けるようなことをなさるのですか」
と強く申し上げました。
入道殿は、それを軽んじられたと受け取られたのでしょう。
私は、このように申し上げることこそ、大聖人の弟子としてその跡を継ぐ者が、入道殿を真に重んじることだと考えています。
大聖人が私の身に入られたかのように、へつらうことなく、経文と大聖人の仰せのとおりに諫められたのだと、自らを誉めているところです。
この問題には三つの点があります。
第一に、立正安国論の正意を破ったこと。
第二に、久遠実成の釈迦如来の木像を、日興の諫めに反して造立しようとしたこと。
第三に、謗法への布施を初めて行ったことです。
これらは入道殿自身の過ちというより、へつらい、道理を曲げた法師の過ちです。
考えを改め、
「今後は安国論のとおり、大聖人の御在世中と同じように信じます」
と誓う書状をしたため、御影の前に供えてくださいと申し上げました。
しかし信用されなかったばかりか、私が入道殿を軽んじたと思われたようです。
「私は民部阿闍梨を師匠にした」
と言われたと聞きました。
これでは法華経の信心が逆になっています。
日蓮聖人の法門は、三界の衆生にとって釈迦如来こそ初めて発心させた本師であるのに、その釈迦如来を捨てて阿弥陀仏を頼るため、五逆罪の者となって無間地獄に堕ちる、というものではありませんか。
何をもって聖人を信仰していると言えるのでしょう。
日興が波木井一族の上下の人々にとって初発心の師であることは、二代三代の後ならともかく、今のところ一族の誰も忘れてはいないと思っています。
身延の山を去ることは、面目なく、残念で、言葉に尽くせません。
しかしよく考えれば、どこであっても大聖人の教義を受け継ぎ、世に立てることこそ肝要です。
それでも思い悩みましたが、大聖人の弟子たちは皆、師に敵対してしまいました。
日興一人が本師の正義を保ち、本懐を成し遂げるべき者に当たると自覚していますから、その本意を忘れません。
あなた方も正義をご存じなので、心強く思います。
身延に行かれれば、入道殿も悪い方向に落ちきることはないでしょう。
それにしても、民部阿闍梨の考えは不思議です。
安房へ下る時にも入道殿のところへ行き、外典を読むのは誤りだと繰り返し言ったと聞いています。
しかし大聖人の立正安国論も外典を用いて書かれ、文永八年の申状も外典を用いて書かれています。
法華経も、中国第一の外典の達人が訳したため、一切経の中でも文章や言葉が優れていると言われるのです。
今、この法門を立てるにも、外典に通じた人を一人は出したいと考えていました。
仏典にも仏典以外の学問にも通じていなければ、国を安らかにし、法を立てることは難しいのです。
民部阿闍梨の考えは、自然と明らかになるでしょう。
特に、去る四月一日から、日向は諸岡入道の屋敷内の小家にこもり、絵師を呼んで曼荼羅を書かせました。
そして八日を仏の誕生日と称し、入道の室内で一昼夜説法をして布施を集めただけでなく、酒宴をしました。
入道はその様子を見て日向の心中を推し量って妻子を呼び、酒を勧めました。
日向は酔って大声を上げ、一族に嘲笑されました。
これほど日蓮の名を辱めることがあるでしょうか。
このことは世間に隠れておらず、皆が知っています。
私はしばらく入道殿には隠していましたが、こうしたことが起きた以上、日向が大聖人の法門を継げないことは明らかです。
日興が日向を捨てたことを知らせるために申し上げています。
同じ修行をした仲間だからと遠慮して、大聖人の教えを隠すことはできません。
日向は説法で、
「一字でも私に教わった子どもが、日向を破折するのか」
などと言うでしょう。
しかし、もとより日蓮聖人に背く師を捨てないことこそ、かえって過ちになるというのがこの法門です。
そのことを、あなたにも知っておいていただきたい。
何よりも、御影がこの一連のことをどうご覧になっているか、気にかかります。
お会いしなければ、心の内を十分に申し上げることはできません。
恐れながら申し上げます。
十二月十六日 日興 花押
原殿へ
追伸。
涅槃経の第三巻と第九巻は、あなたのもとで講義した際に、私の書物と一緒に持って来てしまいました。
大聖人の御経ですので、確かにお送りします。
また、御堂の北の棚に、四十九院の大衆が送ってきたときの申状があったと思います。
ご覧になり、都合のよい折にお送りいただけないでしょうか。
確認したいことがあります。
ほかのことは、次のお手紙の機会にします。
恐れながら申し上げます。
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## 異同について
「南部孫三郎」は、別の翻刻では「南部弥三郎」となっている。
また、供養の対象は、公開本文では「富士の塔」、別の翻刻では「福士の塔」と読まれている。
本文の伝本・刊本を直接対校できないため、ここでは底本を明示したうえで、異読があることを付記しました。