金原氏は
▼「戒壇の大御本尊は弘安二年十月期の図顕としては、その相貌が不自然。むしろ弘安三年三月以降同年八月以前の相貌である。
日禅授与の御本尊が弘安三年五月九日御図顕であるから、この御本尊を元に造られたものであろう。(趣意)」
と主張している。
当該書の前半の主たる論旨は全てその結論へ向けて構成されている。
その中で、
一、書体を拝して の項の 「経の書体」
二、図顕形式 の項の 「釈提桓因大王」 「大迦葉尊者」 の件は、既に
金原明彦著『日蓮と本尊伝承』を破す
戒壇の大御本尊の御相貌に関する邪難について 漆畑正善師
において破折粉砕済みである。
さらに、
金原氏が意気込んで章題とした
▼ 首題が(日禅師御本尊と)「完全に一致した」!
との主張は、
金原明彦著「日蓮と本尊伝承」
▼「戒壇の大御本尊と日禅師授与本尊の首題が完全一致」
に反証す
においてこれまた 「完全に粉砕した」!
そこで、本稿では、残る、「列衆(十界の諸尊)」 「図顕讃文」 「明王(梵字愛染・不動)」 「腰書」 について反証していこう。
各項に入る前に、大前提としてこの命題を考察したい。
その前提に立った上で、ここからが本稿の真の結論なのだが、金原氏は
▼「戒壇の大御本尊は弘安二年十月期の図顕としては、その近い時期の真筆御本尊には見られない相貌であり不自然。
むしろ弘安三年三月以降同年八月以前の相貌と近似する。
日禅授与の御本尊が弘安三年五月九日御図顕であるから、この御本尊を元に造られたものであろう。(趣意)」
と主張しているが、前提としている概念が果たして正当なものであろうか。
金原氏は▼「戒壇の大御本尊が弘安二年十月十二日に建立されたのであれば、その前後の真筆御本尊と似ていなければおかしい。」との先入観から論法を展開している。
しかし、この弘安二年十月の大聖人の出世の本懐である御本尊は、一期御化導の究極である御本尊である。
広宣流布の暁に、本門寺本堂に戒壇本尊として御安置され、日本国の天皇(あるいはその時の国主)のみならず、全世界から国王も大統領も参詣して頭を垂れ、さらには大梵天王、帝釈天王を筆頭に天界の諸天たちも降り下って来て礼拝する大曼荼羅である。
その他の一機一縁の御本尊とは根本的に意義が異なる御本尊である。
その大御本尊が、なぜその他の御本尊と似ていなければならないのか。
似ていなければならない必然性はどこにあるというのか。
金原氏の論には、まずもってこの大前提の説明がされていない。
特別な大御本尊であるが故に他の御真筆本尊と違っていて何がおかしい。ということである。
金原氏にはこの点について明快にお答えいただきたいものである。
以上の検証からの結論。
本稿のテーマである、「列衆(十界の諸尊)」 「図顕讃文」 「明王(梵字愛染・不動)」 「腰書」について、金原氏の主観を元とした細々(こまごま)とした指摘の一切は、全く意味を成さないとして一蹴する。
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以下、金原氏の主張を挙げて、そこの矛盾を突いていく。
26頁
在座する列衆の出入り、及びその書顕名称にも当然、年代的特徴を見ることができる。
そこで、二三一頁と二三三頁のあいだに挿入した弘安期の在座データ表をもとにその特徴を分析すると、やはり、大石寺板曼荼羅における全体の形式は、弘安三年三月以降のそれに類似していることがわかる。
特に、弘安三年三月から五月の間に位置する【88】【92】【93】の三幅とは完全に一致している。
(中略)
讃文の表記は「二十余年」と「三十余年」との違いに大別されるが、文永から弘安にわたって揺れが見られるため、これのみによって書顕時期を判断することは出来ない。
弘安期にも混在があり、弘安元年から弘安二年七月までは「三十余年」が主流のようであるが、その間も、弘安元年十月に一幅、弘安二年二月に一幅、「二十余年」が存す。弘安二年十月から十一月の三幅は「二十余年」であるが、その後、弘安三年二月には混在があり、以降、弘安三年五月までの十三幅は「二十余年」となる。
複雑なため、先の「在座データ表」を参照されたい。
ただ、当板曼荼羅に「二十余年」とあるのは、全体の書顕形式との関連から見ると、板曼荼羅と書顕形式の一致している弘安三年三月から同年五月の間に顕わされた文字曼荼羅が全て「二十余年」であるのと附合している。
また、弘安三年八月以降はもっぱら「三十余年」が用いられていることを勘案すれば、当板曼荼羅が弘安三年三月以降同年八月以前の相貌であると判断される。
ただし、大石寺板曼荼羅の讃文の配置は宗祖らしからぬもので、「経」字の踏張りヒゲと判形との空間に無理に押しこんだ感があり、闊達な常の書法とは趣を異にしている。
本尊相貌の外に(四大天の外に)大きく余白を取って授与書き・腰書きを記している例は、大石寺板曼荼羅の他にはない。讃文や授与書き・腰書きは、全て四大天の内側、あるいは極稀に一体となって書顕され、例えば、「長文の腰書きを認められた「※1万年救護本尊」等に見られる無作闊達な書法こそ宗祖の特徴である。」(「※1」氏の主観に過ぎない)しかも板曼荼羅のそれは、常の「授与書き」や「脇書き」ではなく、いわゆる「造立縁起」と言われるべきもので、「※2右為現当二世造立如件」がそれを示している。これは、大石寺板曼荼羅が料板に直書きされたものではなく、別に用意された紙幅を模写し、下部に「造立縁起」を加えたと見る方が自然である。」(※2これまた氏の主観に過ぎない) 「※3また、板曼荼羅の図顕年月とされる「弘安二年十月十二日」には太歳が記されていない。年号の明記された宗祖文字曼荼羅で「太歳」がないものは一体も確認されておらず、大きな不審点である。」(※3逆に戒壇の大御本尊の唯一性を裏付ける証言)
「※1大石寺板曼荼羅の形式・相貌は、弘安三年三月から八月までの間に見られるもので、現存するものでは弘安三年四月から同五月までの宗祖文字曼荼羅に完全に一致している。従って、「弘安二年十月十二日」の図顕年月は不審といわざるを得ない。」(※1弘安二年の戒壇の大御本尊の御相貌を大聖人故あって弘安三年四月から五月までの期間に再度御顕示されたとも言える)
しかも、「※2下段の腰書きは曼荼羅相貌の外に大きく余白を設けて配置されていて、自在闊達な常の書法に似ず、技巧的な意図が感じられる。これは、宗祖が板に直接書されたものでないことを物語っているようだ。」(※2氏の主観と憶測に過ぎない)
また、「※3明王も宗祖の書体とはかなり趣を異にしている。」(※3ここも戒壇の大御本尊の特別性、唯一性を顕しているとも言える)
よって、「※4結論的には、弘安三年三月頃から同五月頃の間に顕された宗祖文字曼荼羅の相貌を模して第三者によって造立された可能性が高いといえる。(※4まさに氏の我田引水の結論。)