■ 日亨上人 御指南 富要 7−381
富士派に於ては古往今来(※こおうこんらい=昔から今に至るまで、昔からずっとということ。)化儀・化法、秋毫(※しゅうごう=わずか。いささか。毫末。)も乱れず、
殊(こと)に宗旨の本源・基礎、確立して、宗祖以来、歴世、之れを紹隆(※しょうりゅう=先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。)し、始終一貫、未(いま)だ曽(かつ)て微塵(みじん)も異義を雑(まじ)へたる事あらざるは、実に是(こ)れ宗祖の正統『血脈相承』を紹継(※しょうけい=権利や義務をうけつぐこと。)せる現証にして、祖書・経巻を解決するに、純潔・正確、宗祖の正意・本懐を顕彰(※けんしょう=明らかにあらわすこと。)し、各派に独歩(※どっぽ=他に並ぶものがないほどすぐれていること。)・超出(※ちょうしゅつ=抜きん出ること。)せる所以(ゆえん)の者も、亦(また)之れ『血脈相承』あるが故なり。
若し経巻のみを見て、以(もっ)て仏法の本旨を解決するを得ば、法然にまれ、弘法にまれ、其の他、禅・律・真言・浄土等、各宗派の祖師等も、宣示顕説の法華経を読みて、其の本旨を解決悟了すべきに、然(しか)らずして、却(かえっ)て己義を立て、僻解(※へきげ=かたよった解釈))を生ぜしは、要するに『血脈相承』なきの現証にして、顕本徒、亦此れと同一般なり、
斯くの如く事実現証の抹殺すべからざるに於ては、顕本の所謂「経巻相承」なる者は、到底宗祖の正意を得たる者に非ず、
抑(そもそ)も顕本は単に経巻相承の下(もと)に宗義を立つるが故に、異端百出・曲解続起し、弥(いよい)よ邪岐(じゃき)に迷ふ、固(もと)より当然のみ、
蓋(けだ)し顕本の所謂「経巻相承」なるものは、私に云ふ所の「経巻相承」なる事は、日什が宗祖滅後数十年の後、始めて日什的法義を唱導せるを以ても之れを知るを得べし、
故に宗旨の根帯は宗祖の本懐に基(もとず)くに非ずして、日什が僻案(※へきあん=かたよっている考え。)附会(※ふかい=こじつけて関係をつけること。)の曲義を根本とす、
換言すれば顕本は根幹・枝葉・果(※華果か)、共に宗祖の本懐より生じたるには非ず、唯、名を借り、祖書を盗用せるに過ぎず、
是れを以て其(その)末流の輩、異解を生じ、己々の私義を主張し、現今の紊乱(※びんらん=秩序・風紀などが乱れること。)を致す、豈(あ)に怪(あやし)むに足らんや。
蓋(けだ)し相承に経巻あり血脈あり、就中(なかんずく)『血脈相承』を最とする所以(ゆえん)は、経巻相承と云ひ、師資相承と称するも皆、『血脈相承』に附随・含有せらる、
故に富士派に於て『血脈相承』と云ふは主要なるを以てのゆへにして、敢て師資・経巻の相承なきに非ず、
総(すべ)て此れ等の相承は宗祖より歴世之れを招隆せらるるなり、
彼の顕本の所謂「経巻相承」なる自己勝手に名称せるものとは其の轍(てつ)を異にせるなり。
而(しか)して富士派は『血脈相承』ある故に、師弟、相資(あいたす)け、法統一系、連綿紹隆し、『血脈相承』ある故に経巻の正意を誤らず、微塵の異解なく、宗旨の本源確立し、宗門の基礎、鞏固(※きょうこ=強固)に、万古に渉(わた)って変ぜず、各宗派に卓絶し、鎮(とこしな)へに法威を輝(かがやか)す所以は、則(すなわ)ち宗祖正統『血脈相承』を特有せるを以てなり、
然るに日什の濁流を汲(く)むの徒、之れを羨望(せんぼう)するの余り、終(つい)に嫉妬・貪婪(どんらん)の邪心を起し、非望(※ひぼう=身のほどをわきまえない(けしからぬ)望み。)を覬覦(※きゆ=身分不相応なことをうかがい望むこと。)す、
恰(あたか)も、将門が擬宮を猿島に造り、皇室を窺(うかが)うの反逆と何ぞ異ならん。
倩(つらつ)ら、阿部師の論旨と、本多の論旨とを対照し、孰(いず)れか宗祖の本懐に適(かな)ふや否やは、正確なる道理・文証・現証に依るに加(←誤記 ※如(し)く(※及ぶ。匹敵する。)はなし、
蓋(けだ)し、法論当日、満場大多数の聴衆が、阿部師の論旨に感動・賛成を表し、拍手喝采せるは、正(まさ)に是れ、同師の論旨が此(この)三者の方軌(※道理・文証・現証)に依て弁ぜられ、本多の論旨、顕本の所立が邪にして、富士派の法義が正なりと判定せるに外ならざるべし、
依て読者も亦、此の正確なる標準に憑(よ)り、此書を看(み)ば、両者の邪正・是非を知ること、掌中の菴羅菓(あんらか)を見るよりも容易に明かならん、(※菴羅果(マンゴーの実)は見分けにくいが手に取って見れば区別することとができるという譬え)
故に予輩・編者は、喋々(※ちょうちょう=口数の多いこと。しきりにしゃべること。)冗言(※じょうげん=むだなことば。よけいなことば。むだぐち。贅言(ぜいげん)。)をなさず、
余は有識具眼者の判定に一任せんのみ、之れを結論となすと爾(し)か云ふ。