久しぶりに復帰できそうです  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月11日(火)14時30分32秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

激忙の件もひと段落つき、書き込み再開です。
留守の間ずいぶんとにぎやかのようでしたね。
内容はほとんど読んでないんですけど。(読む時間のゆとりがありませんでした)

さて、やまいぬ。さんへ。
お仕事で忙しいということで私へのご返答をされなかったと記憶しておりますが、こうして↓頻繁に書き込みをされているところをみると、お時間が取れる状況になられたと拝察します。
では、やまいぬ。さんへの私からの反論および破折に対する再反論をお待ちしておりますので、よろしくお願い致します。
皆さんに見やすいように近日中にいままでの往還をHP上にUPしておきますね。

そうそう、この間にまた一人勧誡が決定しました。

 

樋田さんへ。(^^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月12日(水)02時11分26秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

あなたが実に12時間に亙って書いた長文、正直云って「12時間」と知った段階で
ウンザリして読む気にもなかなかなれないのですが(^^;、珍しく“Word”に取って、
気が向けばぼつぼつ書いていますから、のんびりお待ちください。(^^)
(なにせあなた、平日の昼間から深夜にかけて、もし1番目の書き込みを書くのに小1時間
かかったとしたら、実に13時間ですよ? (^o^) 「題目挙げるでもなく折伏するでもなく、
ワシャそんな暇人に付き合うんかい?」と思いますよ。(^o^) )

 

やまいぬ。さんへ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月12日(水)13時43分24秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

HPに今までの経緯をUPしました。

http://toyoda.tv/yamainu.htm

残念ながらこのままではどうみてもやまいぬ。さんの反論不能状態であることは否めないでしょう。急ぎ急ぎ再反論を企てるべきでしょう。

その内容の一部を転載します。

※ いやはや、大変な投稿数である。これだけの時間的余裕があって、尚且つ、「返答は明日以降」などと書置きがあるにも拘らず、当方へ反論できていないとすれば、これは明らかに「反論不能状態」といって間違いないであろう。

そこで、当方は以下の反論を促す投稿をした。

久しぶりに復帰できそうです  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月11日(火)14時30分32秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp



※ これに対しての弁明が↓である。

樋田さんへ。(^^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月12日(水)02時11分26秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp



※ そもそも、当方へ執拗に、まさに絡むが如き様相で問難してきたのは、やまいぬ。氏、当の本人である。

しかも、冒頭に既述の如く、当初当方は他の者との対論に忙殺されており、やまいぬ。氏には取り合っていなかったのであるが、その問難に対してしても今回ここで明確に破折しており、これに対し上記の如く、他へ対してしてはかくも膨大な投稿をしているにも拘らず、当方へ再反論しないのは、如何なる理由を述べてみても、これはまさに「反論不能」であることに変わりはない。

ついでにこのやまいぬ。氏の「弁明文」に反論しておく。

1、この程度の反論文を書くのに当方は12時間も13時間も必要としない。自分の能力と程度と生活状態を元に、なんら客観的根拠なく他を推し量ることは慎んだほうがよかろう。(自分の程度が知れると言うものである。)当方は毎日の勤行はもちろん、その他、2時間唱題をする合間に論述しているのである。やまいぬ君程度の稚拙な邪難を粉砕するのにそれほどの労力は要らない。

2、平日どう過ごそうが、貴公の価値基準で云々すべきではなかろう。当方は平日よりむしろ土日のほうが現場折伏で多忙である。

3、■「仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。」との仰せの如く、真に仏道を究める為には時間は大切であり、当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯にあることは大変ありがたいことである。やまいぬ君こそ、いつもあくせくしているようであるが、自らの境涯を大きく転換して悠々とされたら如何か。

4、やまいぬ君等の邪宗・邪義・謗法を打ち砕く行為そのものが「折伏」である。そういう折伏もしないでテレビでサッカー観戦などしている者をこそ「暇人」と呼ぶのである。(やまいぬ君の投稿内に多くサッカー観戦が見受けられるので苦言を一言。そういう姿を「一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。」とのお叱りを受ける姿である。よくよく戒めるべきであろう。)

5、今回のテーマはまさに「“正法”の定義」であり、当方は「やまいぬ君ら創価学会が広めているものは「正法」ではない。」と明確な文証を以って断定しているのである。やまいぬ君らの立場からすれば斯く言う当方は“謗法”に当たる訳だから、やまいぬ君はまさに不自惜身命の精神で“破折”しなくては大聖人の門下とは言えないであろう。「気が向けばぼつぼつ書いていますから、のんびりお待ちください。」などと呑気なことを言っているのは、まさに懈怠謗法で、堕獄必定である。

以上、やまいぬ。君が反論不能状態となった経緯全貌をUPし、末永くここに留めておく。

―――――――――――
以上です。
やまいぬ。さん、ほかにあれだけ大量の投稿をしている状況で、「のんびり」などとは言ってられないのでは?

やはり、明確な文証を引いての精緻な反論はあなたには無理ですかね?
どんなものでしょう。

 

樋田さんへ。(^o^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月12日(水)23時31分57秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

>そこで、当方は以下の反論を促す投稿をした。
>久しぶりに復帰できそうです
はー。これで促しているのですか。(^^)

>その問難に対してしても今回ここで明確に破折しており、
以前、当方からの極めて簡単な問いに返答をと書いた際、「そちらの指示に従う謂れはない」
というようにあなたが書いた件ですね?
自分では「謂れはない」と書き、他者には「早く書け」?(^o^)

樋田さん、あなたは分裂症ですか? それともただの「ジコチュー」ですか?(^o^)


>当方へ再反論しないのは、
気乗りはしないが返答すると書いた筈ですが?(^o^)

「やまいぬ。氏へ。返答と破折1  投稿者:管理人(樋田昌志)
投稿日: 6月26日(月)11時41分37秒」
「やまいぬ。氏へ。返答と破折12  投稿者:管理人(樋田昌志)
投稿日: 6月26日(月)23時18分47秒」

>1、この程度の反論文を書くのに当方は12時間も13時間も必要としない。
ほう。(^o^)

>2、当方は平日よりむしろ土日のほうが現場折伏で多忙である。
そうですか。(^o^)

>3、当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯に
>あることは大変ありがたいことである。

蓮祖曰く、
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。
一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」
あなたは蓮祖門下ではないのですか?(^o^)
時間があれば勿論のこと、多忙な時のたとえ5分・10分なりとも広布前進のために
使ってきたからこそ、創価学会は世界190ヶ国に広まりました。
法華講さんに出来ないのはこれです。(^o^)
2年半後が楽しみですね。(^o^)

>やまいぬ君こそ、いつもあくせくしているようであるが、自らの境涯を大きく転換して
>悠々とされたら如何か。
少なくとも広宣流布の責任を感じるならば、すでに転換しているその境涯を感謝しつつ、
なおさら広宣流布に使うものですよ、樋田さん?(^o^)
それとも時間が出来てラクになってボーッとしておるのが信心だと、御書のどこかに
ありますか?(^o^)

4、折伏もしないでテレビでサッカー観戦、云々。
えー、朝方3時にあなたは折伏に出かけるのでしょうか?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
迷惑も甚だしいですね。(^o^)
私にはあなたのように、趣味の音楽の世界に楽しんでいる暇はありません。(^o^)(^o^)
朝方3時からライブを始める訳ではないでしょう?(^o^)
つまりまだ活動も激励も折伏もできる時間に、あなたは趣味の音楽を楽しんで
いるのではないですか?
朝方3時の、ひとのサッカー観戦に、子供じみた詰まらん難癖つけたばっかりに、
墓穴を掘られましたね?(^o^)
「一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。」
そのままあなたに差し上げましょう。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

5、足掛け12時間も掛けて書かれているものだというだけで、正直馬鹿馬鹿しくて
まだ全部は眼を通してもおりませんが(^^;、ぼつぼつ書いております。

12時間どころか1,2分で書いたものに対して「答えなければならない謂れはない」と
ご自分で書いたのでしょう? 自分の都合でコロコロ態度を変えなさるな、気色の悪い。(^o^)

 

やまいぬ。さんへ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月13日(木)01時47分34秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

一読噴飯ものの返答なので堪え切れず一筆。

> DATE:  7月12日(水)23時31分57秒
> TITLE: 樋田さんへ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>

>● >そこで、当方は以下の反論を促す投稿をした。
> >久しぶりに復帰できそうです
>▼ はー。これで促しているのですか。(^^)
>
●貴公は教義的には全くの反論不能ですね。
しかも、相当お疲れのようで日本語もろくに読めないようですね。
まことにお可哀想な境遇らしい。

こういう言辞→●「さて、やまいぬ。さんへ。
お仕事で忙しいということで私へのご返答をされなかったと記憶しておりますが、こうして↓頻繁に書き込みをされているところをみると、お時間が取れる状況になられたと拝察します。
では、やまいぬ。さんへの私からの反論および破折に対する再反論をお待ちしておりますので、よろしくお願い致します。」
を「催促」と一般的には言うのだが、このような婉曲的な表現では貴公には理解できないかな?
かなり語学に疎い教育環境であったらしい。ご推察申し上げます。
―――――――――――
> >●その問難に対してしても今回ここで明確に破折しており、
> ▼以前、当方からの極めて簡単な問いに返答をと書いた際、「そちらの指示に従う謂れはない」
> というようにあなたが書いた件ですね?
> 自分では「謂れはない」と書き、他者には「早く書け」?(^o^)
>
> 樋田さん、あなたは分裂症ですか? それともただの「ジコチュー」ですか?(^o^)


▼「さ、私からの上記、一瞬で終わる簡単極まる問いへのご返答、お待ちします。(^o^) 」
▼「まぁこうやって、基本中の基本みたいなことを「確認する」ようにやり取りするのも悪く
ありません。じっくり考えて、また答えてくださいね。(^^)」
▼で、今夜は結婚した知人のお祝いのために呑み会。仕切り役を仰せ付かった者としては
まともに帰宅できるかどうかも怪しいので(^^;、返事は明日以降。
▼「返答は明日以降。(^^)」

これらはみな貴公の発言ですね。
貴公が待っているというからそれに返答した。それに当然、再反論されるのが筋でしょう。
しかも、自らも「返答する」と明言している。
それに他者に対しては膨大な量を書き込んでいて、当方からの詰問には返答できないのは、どう見ても反論不能状態でしょう。

まっ、いずれにせよ、教義的には無理ですか?
こんな小事に拘ってくだを巻いているより、お得意の「サクッ」とどうですか?やはり貴公には難しくて「サクッ」とできませんか?
―――――――――――
>
> >●当方へ再反論しないのは、
> ▼気乗りはしないが返答すると書いた筈ですが?(^o^)

●それはそれは。では「サクッ」とさっぱりお願いしますね。
しっかりした文証に依ってですよ。
楽しみですね。
かつてあれほどしつこく訊いて来た内容ではないですか。
もうこれで、ギブアップですか?
もう少し粘って欲しいですね。
>
―――――――――――
> 「やまいぬ。氏へ。返答と破折1  投稿者:管理人(樋田昌志)
> 投稿日: 6月26日(月)11時41分37秒」
> 「やまいぬ。氏へ。返答と破折12  投稿者:管理人(樋田昌志)
> 投稿日: 6月26日(月)23時18分47秒」
>
> >●1、この程度の反論文を書くのに当方は12時間も13時間も必要としない。
> ▼ほう。(^o^)
>
> >2、当方は平日よりむしろ土日のほうが現場折伏で多忙である。
> そうですか。(^o^)
>
> >●3、当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯に
> >あることは大変ありがたいことである。
>
> ▼蓮祖曰く、
> 「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。
> 一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」
> あなたは蓮祖門下ではないのですか?(^o^)

●ここですね。噴飯モノの珍回答は。
本当に日本語がよく読めないのかと心配です。
●「当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯にあることは大変ありがたいことである。」
とは仏道修行に昼夜時間を目一杯割けることを心から感謝している言辞であり、まさに■ 「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」との御聖訓を少しでも身で行じることができることのありがたさを表現しているのですがね。
ここは誤読を恥じ、謝罪すべきではないのですかね。
―――――――――――
> ▼時間があれば勿論のこと、多忙な時のたとえ5分・10分なりとも広布前進のために
> 使ってきたからこそ、創価学会は世界190ヶ国に広まりました。
> 法華講さんに出来ないのはこれです。(^o^)
> 2年半後が楽しみですね。(^o^)

●ここなどはまさに頭破七分とでも言うべき論理飛躍・支離滅裂な文章展開です。
前半の文意と後半が繋がっていないですね。大丈夫ですか?

で、創価学会がそうやって広めているものは「正法」ではない。との指摘を教義的に覆して見せてください。
でなければ創価学会がしていることなど世界中に魔をひろめているだけであり、全く人類にとって迷惑行為ということを貴公は否定できないということになり、自らの活動を正当化できないということになりますが。
>
―――――――――――
> >●やまいぬ君こそ、いつもあくせくしているようであるが、自らの境涯を大きく転換して
> >悠々とされたら如何か。
> ▼少なくとも広宣流布の責任を感じるならば、すでに転換しているその境涯を感謝しつつ、
> なおさら広宣流布に使うものですよ、樋田さん?(^o^)
> それとも時間が出来てラクになってボーッとしておるのが信心だと、御書のどこかに
> ありますか?(^o^)

●ここも貴公が母国語が読めない悲哀ですね。(って日本人ですよね?)
貴公のような邪義・邪説・謗法思想を粉砕することが「広宣流布」に貢献するのですがね。
しかも、貴公などの謗法者に限らず、ほぼ一日中「広宣流布」のためになにかしらの活動をしていますが。
「時間が出来てラクになってボーッとして」などいませんが?
どこをどう読んだらそういう妄想が沸くのでしょうかね。
やはり、「悠々」この一言が読めない悲しさですかね。
広宣流布へのご奉公・生活・世界悉檀へと繋がる作品を製作する・・・それら全てを「悠々」と行っているのであって、生活に汲々としているらしい貴公も、創価学会などという魔団体から離れて正しい修行をがんばって境涯を開いたら如何ですか。という文意が篭められているが、やはり読めないようですね。
>
―――――――――――
> ●4、折伏もしないでテレビでサッカー観戦、云々。
> ▼えー、朝方3時にあなたは折伏に出かけるのでしょうか?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 迷惑も甚だしいですね。(^o^)

●は?実に意味不明な返答ですね。
▼「飯も喰わずに寝て、3時過ぎには起きてブラジル戦観て、準備してそのまま仕事。
様々返答は明日夜!(^o^) 」

これは貴公の書き込みですね。
貴公にとっての”謗法者”である当方への”破折”を後回しにしてブラジル戦など観ていていいんですか?ということですよ。
外を走り回って他家へ出かけることだけが「折伏」ではないでしょう。
そんな意味でしか「折伏」を理解できないですか?
浅識・短見ですね。

それこそ、「謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀」ではないですか。
自分の懈怠謗法の様が見えませんか?
まっ、所詮一般的には謗法者には自らの謗法行為など自覚できないものですが。
創価学会の大謗法を見抜けない人に自分の懈怠謗法が見抜ける道理もありませんが。
だからこそ指摘してあげただけですよ。
―――――――――――
> ▼私にはあなたのように、趣味の音楽の世界に楽しんでいる暇はありません。(^o^)(^o^)
> 朝方3時からライブを始める訳ではないでしょう?(^o^)
> つまりまだ活動も激励も折伏もできる時間に、あなたは趣味の音楽を楽しんで
> いるのではないですか?

●さて、最近、いつ私が「趣味の音楽を楽しんで」いるというんでしょうかね。
知りもしないのに推測でものを言ってはいけませんね。
しかもサッカー観戦には少なくとも2時間は必要ですね。
破折すべき相手がいるのに2時間も他事へ費やす。これまさに「謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀」ではないですか。
また、サッカーを一人観ていることがどう折伏に繋がりますかね。
音楽を創る事はその縁によって常に下種に繋がります。
そういう四悉檀に開いた折伏の相を領解できていない未熟さがまたもや露呈しましたね。
―――――――――――
>▼ 朝方3時の、ひとのサッカー観戦に、子供じみた詰まらん難癖つけたばっかりに、
> 墓穴を掘られましたね?(^o^)
> 「一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。」
> そのままあなたに差し上げましょう。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●残念ながら、教義的に未熟な故にそのまま返せないようですね。ちょっと惨めですね。
―――――――――――
> ▼5、足掛け12時間も掛けて書かれているものだというだけで、正直馬鹿馬鹿しくて
> まだ全部は眼を通してもおりませんが(^^;、ぼつぼつ書いております。

●では、その少しずつでもUPしてみたら如何ですかな。
かつてあれほど当方へ執拗に纏わりついてきた方にしては随分と腰が退けてしまいましたね。
―――――――――――
> ▼12時間どころか1,2分で書いたものに対して「答えなければならない謂れはない」と
> ご自分で書いたのでしょう? 自分の都合でコロコロ態度を変えなさるな、気色の悪い。(^o^)

●あれ?ここもそうですね。あれほど執拗に纏わりついてきた割には急に逃げ腰ではないですか。
やはり貴公には教義的な明晰な反論は不得手のようですかね。
今回のように、下らない教義的な内容のない反論は得意のようですが。
いずれにせよ、このようなことを書いている時間があるのならもっと本質論をきちんと文証を以って反論してみてくださいな。
そして、もちろん本当に反論不能とならば、これはやはり潔く謝罪して脱会すべきでしょう。

では、明晰で、教学的に理路整然とした切れ味鋭い名反論を期待していますよ。
頑張ってくださいね。

 

樋田さんへ。(^o^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月14日(金)00時14分43秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

長々とお書きになった昨夜のあなたの書き込みの如きは、私にとってどうでも
いいのですが(^^;、ひとつ面白い視点があったのでそれについて少々。(^^)

>サッカー観戦が「遊戯雑談」云々。
一言に「サッカー観戦」と云いますが、何を求めて、何を考えて観ているかは、それこそ
ひとそれぞれで、あなたの邪推などどうでもいいことと考えます。(^^)

別に熱烈なサッカー・ファンでもありませんが、W杯に限らず、世界のサッカーを
割と真剣に観ています。
サッカーというスポーツは、本当に多くのものを教えてくれ、伝えてもくれる。
いま読んでいる「三国志」に勝るとも劣らないほどに、想像だに出来ないほどの
努力を重ねた一流の人間が、どういう思いで、どう闘い、どう勝ち、負けるのか、
瞬間瞬間に多くの教訓を無言で伝えてくれる。
何故勝ったのか、何故負けたのか。誰がどのように覇気を高め、誰が手を抜き、誰が
油断し、みながどう変化して勝敗は決したのか?
広宣流布の闘いも無論、仕事も、すべての人間の組織的活動に関して、学ぶべきことは
多い。単なるナショナリズムで一喜一憂しているわけではありません。(^^)
ハイレベルな1つのゲームが伝えることは、まさに1冊の名著に匹敵する。

私がHDDに撮ってまで毎週必ず観るプログラム、今夜は棋士の羽生義治。
先ほど録画したものを観ました。
将棋そのものと同様に、棋士の生き方・考え方も、本当に興味深くて、いつも非常に
魅力的です。そして今夜も学ぶべきこと、考えることは非常に多かった。

このサイトにも書いているパシリ2号・73などには、どうやら一切は「外道」の2字で
片付けられるようで、ありとあらゆることから学ぼうとするのは「無用」らしい。(^o^)

「天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、花の盛なるを見て池の深きことを知る」
等云云。妙楽云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」等云云。 天晴れぬれば
地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか。」

「天台云く「金光明経に云く、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば
即ち是れ仏法なり」等云云。」

「爾前の経の心心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと
申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則草木なり。 爾前の経経の心は、
心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、
花こそ心よと申す法門なり。 此れをもつてしろしめせ。白米は白米にはあらず、
すなはち命なり。」

一粒の米を見ても、考えること、感じること、学ぶことは山ほどある。
音楽ひとつにしても、ただ「楽しいなぁ(^o^)」と聴いているか、ビリビリするような感受性で
音楽家の篭めた分厚い、膨大な思いを感じ取れるかで決定的に変わる。
ひとがそれをどう見るかなど、どうでもいい。
要は「学ぼう」「高みを目指そう」という「心」ひとつがあるか否かで一切は決まる。

>それこそ、「謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀」ではないですか。
>自分の懈怠謗法の様が見えませんか?
>まっ、所詮一般的には謗法者には自らの謗法行為など自覚できないものですが。

この3行、芸者挙げてヤニさがった顔しておる、前・唯授一人血脈相承その他の
坊主どもの眼の前で、堂々と仰ってくださいな。(^o^)

 

ああ、  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月14日(金)00時19分15秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

繰り返しますが、正直気乗りはしないものの、当然ちゃんと返答書きますよ。(^o^)
「早う返答してください」と書いて、別にあなたも「謂れはない」と書いたのですから、
こっちがのんびりしておっても、のんびり待っていらっしゃればいいんです。(^o^)

 

あー、それとね。(^o^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月15日(土)01時27分1秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

樋田さんとのやり取り、どなたに振る必要もなし。(^o^)

えー、非常にカッタルかったのですが、まずは読んでみました。(^^;
問いに対するアンサーも、書きながら大笑い出来るものもありますので、やり始めると
なかなか楽しんでおりますが――なにせ長い。なんせ「足掛け12時間」ですから。(^o^)
そんな具合ですので、時間を見つけてチョロチョロやれば、数日もあればup出来るでしょう。
大したことはありませんが、なかなか楽しい資料も見つけましたので、楽しんで頂ければ
結構です。(^o^)

 

暫くでした  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 9月19日(火)11時22分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

17日の行事に向けて、非常にタイトな生活をしていまして、皆様への破折論文が書けずに歯痒い想いでした。
またお待ちしていた方々には申し訳ございませんでした。
これからもまだまだ忙しい仕事が続くので一遍にたくさんは書けませんが、少しづつ反駁し、破折していきましょう。

まずは、やまいぬ。さん。
反論が遅くなり申し訳ありませんでしたね。
が、しかし、貴公の反論にかかった時間からすれば、それほどでもないような気もしますが。
http://toyoda.tv/yamainu.htm
http://toyoda.tv/yamainu2.htm

↑から、    ↓この日付まで。
―――――――――――
DATE:  8月26日(土)17時40分50秒
> TITLE: さてと。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
―――――――――――
時間にあまり余裕が無いので、ポイントだけを突きましょう。
全文を通読していないので、後半の内容と重複するかもしれませんが、その点はご了承下さい。
―――――――――――
> >@「内証」とはそもそも何か?
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> なんとも見事なモノ信仰ですね。自慢の「お肉牙」はお忘れですか?(^o^)
> ついでに宗門が「金科玉条」のように誇りたがる
※@唯授一人血脈相承の基たる「二箇相承書」と
> 「御本尊七箇相承」の真筆でも出して頂きたいところですし、云々

―――――――――――
●※@「御真筆でなければ信用でいない。」というのであれば、貴公ら創価学会が自らに血脈が通う根拠としてよく用いる、「生死一大事血脈抄」の御真筆は今どこか?

@あるのなら即明示してください。
Aないのであればその内容は貴公は信用しない、ということになり、創価学会の血脈の主張を貴公は否定することになるが、それでいいのか。

この矛盾に明確に返答してください。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 9月20日(水)08時10分9秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

▼※A興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)
―――――――――――
●ほとんど 狂人の戯言、ですね。
細かい破折をする前に、既に戒壇の大御本尊については仏哲の記述によって貴公の駄推など、完摧されている。
後半でそれについて正当且つ論理的な反駁がされているのならば、その箇所に来た時点で再破折するとして、今は、再掲・加筆してこの戯けた酔言に鉄槌を下しておきましょう。
―――――――――――
●以下は「池田大作監修」の仏哲の記述です。
さて、この義と貴公の主張(=要するに「戒壇の大御本尊の存在自体が疑わしい」ということであろう)は真っ向から対立するのですが、いつ貴公が言うように変わったのでしょうか?
それとも貴公がただの我見でものを言っているのでしょうか?
池田氏の考え方は間違っていたのでしょうか?
貴公の説を取ると、池田さんは完全に間違っていたことを辞典という普遍性が重要視される書物で公言していたことになりますね。
これは大変なことになってきましたね。
―――――――――――
ほんもんかいだんのごほんぞん
【本門戒壇の御本尊】
ほんもんかいだんのだいごほんぞん
【本門戒壇の大御本尊】

末法の御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、末法尽未来際にいたる一切衆生のために、弘安二年(二一七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大更茶羅のことである。
本門の本尊ともいい、また三大秘法総在の本尊ともいう。
この大御本尊は第二祖日興上人に付属され、現在にいたるまで六有数十年にわたって、代々の御法主上人猊下によって厳護され、法灯連綿として日蓮正宗総本山大石寺に伝承されてきた。
現在、正本堂(※もちろん現在では奉安堂であることは言うまでもない)に安定されている本尊である。
戒壇の大御本尊は、昭和三十年十一月までは御宝蔵に厳護され、昭和四十七年十月七日に、総本山大石寺に完成した正本堂へ、奉安殿から御遷座されて、今日に至っている。
つぎにこの御本尊について述べるにあたり、はじめに本門戒壇について明かし、ついで本門の本尊について述べることとする。

一 本門戒壇について
一般に戒壇とは、戒を授ける壇をいうが、日蓮大聖人の仏法では、本門戒壇とは本門の本尊を安置し信心修行に励む場所をいう。
本門の戒壇には義と事がある。
義の戒壇とは、本門の本尊所住の処は、いずれの地であっても授戒の増場としての内容が整っていて、その義が戒壇にあたるから、義の戒壇という。
事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が安置されるところである。
大聖人の仏法では、戒壇とは、全世界の人々の懺悔滅罪の道場であり、全人類が平和を祈願する根本道場を指しており、大御本尊に唱題し、帰命する所をいう三大秘法抄に、本門の事の戒壇について
■「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」とある。

また南条殿御返事には
■「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」とある。

つぎに本門戒壇建立の地について述べるならば
三大秘法抄の
■「霊山浄土に似たらん景勝の地」とは、日本の富士山をさす。
日蓮大聖人の
身延相承書には
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と明白に遺言されている。
また本門戒壇の大御本尊の授与書には
■「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」とあり、
また日興上人より日日上人への譲り状たる日興跡条々の事には
■「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊日日に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし」とあり、
百六箇抄には
■「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とあり、
また同抄には
■「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」とある。
嫡嫡相承の曼荼羅とは大聖人弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊であり、本門戒壇の大御本尊を正式に御安置すべき本門戒壇は富士大石寺に建立すべきことを決定されているのである。
産湯相承事には
■「叡山の頂に腰をかけて近江湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉ると思うて…日蓮は富士山自然の名号なり、富士は部名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」とある。
しかして、日蓮正宗においては、第二祖日興上人以来、身延相承書の
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の遺訓を堅く守って、広宣流布に邁進してきたのである。
さらに本門戒壇建立の時期について、日蓮大聖人は三大秘法抄並びに身延相承書に
■「時を待つべきのみ」
といわれ、本門戒壇建立を滅後に遺付された。
土木殿御返事には
■「日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か……但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか」といわれ、
諸法実相抄には
■「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」とある。
すなわち、本門戒壇建立の時代的・社会的背景として、日蓮大聖人が指摘している条件は、正しい宗教の基盤が確立し、その広大で豊かな宗教の土壌のうえに、政治、経済、教育、文化等の諸活動が展開される時代のことである。
したがって、本門戒壇の建立というのは、そうした宗教革命、信仰者個々人の生命の変革を根底にした、総体革命の進行をその背景とするのである。

二 本門の本尊について
本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大曼荼羅のことであり、一閻浮提総与の御本尊のことである。
この本尊こそが、日蓮大聖人の出世の本懐であり、全人類を即身成仏させえる大御本尊である。
また本門の本尊に法の本尊と人の本尊がある。
法の本尊とは、事の一念三千・無作本有の南無妙法蓮華経である。
人の本尊とは、久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・日蓮大聖人である。
この人法の本尊はその名が異なるけれども、その体は一であり、人即法、自受用身即一念三千である。
また法即人、一念三千即日受用身である。
これすなわち正中の正、妙中の妙なのであり、本門の本尊こそ行入所修の明鏡である。
観心本尊抄に「観心の本尊」が明かされているが、これは「本門の本尊」と同義である。
「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に建立された本門戒壇の大御本尊である。
日寛上人の観心本尊抄文段上の首文には、本門の本尊について、つぎのように説かれている。
■「夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり、此の本尊に人有り法有り、人は謂く久遠元初の境智冥合、自受用報身、法は謂く久遠名字の本地難思境智の妙法なり、法に即して是れ人、人に即して是れ法、人法名殊なれども其の体恒に一なり、其の体一なりと雖も而も人法宛然なり、応に知るべし当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ、是れ則ち諸仏諸経の能生の根源にして諸仏諸経の帰趣せらるる処なり、故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳・十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざる莫し、譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し、故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり、妙楽の所謂『正境に緑すれば功徳猶多し』とは是れなり、此れ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行入所修の明鏡なり、故に宗祖云く『此の書は日蓮が身に当て一期の大事なり』等云云」と。
このように日蓮大聖人の仏法の根本は弘安二年十月十二日建立の本門戒壇の大御本尊である。
しかして現在まで日蓮正宗総本山大石寺に清純に伝承され、昭和四十七年に完成した正本堂にご安置されている御本尊である。
日蓮大聖人は御一代の間に、いくつかの御本尊をしたためられ、信心に励む在家出家の弟子檀那に授けられている。
その御本尊を一機一縁の御本尊といい、日蓮大聖入滅後、第二祖日興上人は本門寺建立の時には本門戒壇の大御本尊のもとに結集されるべきであると命ぜられている。
―――――――――――
●では、池田さんのこの記述を貴公は否定している訳だが、

@いつから
A何を根拠として

貴公が主張するようなことに変貌したのか、正確な文証を挙げて証明してみてくださいな。
そして池田さんの説が完全に間違っていたと立証してみてください。
弟子として。
池田さん怒りませんかね?

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 9月25日(月)11時56分56秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

昨日は一日で、当方の関係で、2世帯、それも含め支部では3世帯のご本尊下付がなされました。
全て学会脱会者です。

関係者皆様に感謝申し上げます。

では、やまいぬ君の駄問に鉄槌の続き。
―――――――――――
> 例の河辺メモによれば、当時の唯授一人血脈相承はその筆跡を「偽者」呼ばわりしたよう
> ですし、宗門にとっては唯一無二の拠り所である「モノ信仰」の中心を否定するメモをバラし
> ながら河辺氏はその後、東京の大寺院に「栄転」していますが?(^o^) )

●今更ながらやまいぬ君の愚盲さに呆れる。
―――――――――――
『河辺メモ』

 「A面談 帝国H
一、戒旦之本尊之件
 戒壇の御本尊のは偽物である。
 種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師頃の筆だ。
 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
 ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが賣(売)に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安三年の御本尊)」昭和五十三年二月(河辺メモの日付)
―――――――――――
【疑難】

「日禅授与の本尊(※弘安三年御筆)の題目と花押を模写し、その他は時師(※第六世日時上人)か有師(※第九世日有上人)の頃の筆だ」
大御本尊が、日時上人・日有上人の時代(足利時代=室町時代)以降の偽作
―――――――――――
【破折】

大綱

■日達上人

■「大御本尊は楠の板で、その時分は鉋(かんな)がなかった、鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。
だから、あの御本尊は手斧削(けず)りである。それを見れば、すぐわかる。
それを知らないで、『漆を塗ってあるから、あれは足利時代にできた』とか、最近は『徳川時代にできた』などと、とんでもないことを言う。ところが、あれは、後ろを見ると、みんな、削った跡がちゃんと残っている。
それを見ても明らかに鎌倉時代である」(昭和四十七年九月十二日)

■「その御本尊様は、もう六百八十年も前にできた板御本尊でございまして、これは、当時、鉋(かんな)というものがなかった、鎌倉時代でございますから。あの板御本尊様は、明らかに鉋では造ってないのであります。
みんな手斧(ちょうな)、手斧といっても戦国時代あるいは室町時代にできた丁飽(ちょうな)でなくて、もっと古い、まさかりみたいな手斧で削られておるのでございます。
それが歴然としてあの板御本尊に残っておるのでございます。
それを見ても鎌倉時代、大聖人の時代にお造りになった御本尊様である、ということがはっきりしておるのでございます」(昭和四十七年十一月二十日)

大御本尊が鎌倉時代(大聖人御在世)に建立されたことを証明。
大御本尊が日時上人・日有上人以降の後世の偽作であるなどということはありえない。
このことを熟知されていた、当時・教学部長であられた日顕上人が、「後世の偽作」などと言われる可能性はない。
―――――――――――
■日顕上人
 「この際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違している、ということである。よく拝すれば、中尊の七字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに違いが存し、また御署名花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形(そんぎょう)の位置等にも歴然たる相異が存する。そして、もちろん模写の形跡は存在しない。
 したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。」(平成十一年九月十八日)
―――――――――――
綱目

1、メモ中の大御本尊に対する疑難は、二点。

@戒壇大御本尊の、題目から花押(かおう)に至る中央首題の部分は、弘安三年(五月)の日禅師授与の御本尊から模写したもので日禅師授与の御本尊には模写の形跡が残っている。
Aその他の文字は、第六世日時上人・第九世日有上人の時代(足利時代=室町時代)に書かれている以上二点が「筆跡鑑定の結果解った」。
―――――――――――
@二幅の中央首題は全く違う

 第一点目、大石寺理事・小川只道尊師。(小川尊師は、御開扉における御鍵取り(御厨子の扉を開く役)を十数年にわたって務め、戒壇大御本尊を間近で拝し奉ってこられた。また、御霊宝虫払大法会において、御本尊掛け役をやはり十数年にわたって務められ、日禅師授与の御本尊も間近で拝してこられた)。

 「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
 ですが、幾度も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに『経』の字の違いはハッキリわかります。
 また、ことに違うのは、『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね。
大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。
また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は【日】文字の上に御花押の上部が重なっていますし、花押全体の形態もかなり違っています.
これらの違いは、御虫払の時に気をつけて拝していただけば、一目で判るはずです。
 もちろん、日禅師授与の御本尊に「模写の形跡」など、私が拝してきた限りでは見当たりませんでしたよ。」

二幅の御本尊の中央首題部分は、「筆跡鑑定」するまでもなく、拝しただけで判るほどハッキリした違いが存する。

 当時、宗門の中枢にあられ、また長年にわたって御本尊を御調べになってきた阿部教学部長(現・日顕上人猊下)が、このような発言をされる可能性は皆無。
―――――――――――
2、メモ中の疑難・批判は不心得者の言

【河辺メモ】中に記された大御本尊に対する疑難は、宗外の謗法者か、もしくは宗内の一部の不心得者(おそらく、こちらであろう)が新たに言い始めた妄説を、お二人のどちらかが話題として提起したもの、と捉えるべきが当然である。
 また、次下に、「G(「猊下」の頭文字=日達上人のこと)は話にならない」
云々と、日達上人への批判が記されているのも、後に正信会と名乗る一部の輩が当時、ロにしていた批判内容と酷似(こくじ)していることから、やはり、一部の不心得者の発言を面談の中で取り上げたもの、と見るべきであろう。

『河辺メモ』は、河辺慈篤尊師の個人的なメモ書きであり、主語・述語等も省(はぶ)かれていることから、安易に他人が速断することはできないのに、学会では、悪意をもって、これを宗門誹謗の材料とした。
―――――――――――
正信会の大黒喜道が編纂(へんさん)した『日興門流上代事典』(興風談所発行)という書籍の「本門戒壇大本尊」の項目

 「弘安二年(一二七九)十月十二日に書顕(しょけん)されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅(まんだら)下部には『右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日』と記されている。現在は板曼荼羅として大石寺に厳護(げんご)されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。
(中略)
 富谷日震『本宗史綱』二四五は『重須日浄記』に拠(よ)って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は東京・法道院所蔵にて昭和四五年に大石寺に奉納された弘安三年五月九日書顕の宗祖本尊(脇書『比丘日禅授与之/[日興上人加筆]少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也』興全一四一)が、その相貌と言い大きさと言い、当本尊と酷似(こくじ)しており、注意される。」

河辺メモに記される、大御本尊が日禅授与の本尊の模写であるという疑難と、全く同一の内容。

 これは近年発行の書ではあるが、正信会の書籍に、正式に活字としてこのような邪義が載(の)っていることからすれば、当時(昭和五十三年頃)からこのような疑難をもつ者がいたであろうことは想像に難くない。

『事典』の編纂者・大黒喜道に問い質(ただ)した。
「すでに昭和五十年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御本尊』の遠景写真、及び『日禅授与の御本尊』と『戒壇の大御本尊』が酷似しているとの説があった。これについて編者(大黒)は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載せたにすぎない」

この編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、日禅授与の御本尊の写真を提供したのも、正信会関係者であると推定できる。

「戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊との関係」を云々していたのは、後に正信会となる、宗内の一部の僧侶であったことが、もはや確実。
―――――――――――
3、学会自らが戒壇の大御本尊を否定する発言。

 『会則』を変更。
教団の所依(しょえ)の本尊
従来
「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
→「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」に変更した。

 「大石寺安置の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊」との部分を削除。
学会が本門戒壇の大御本尊を否定。
会員の目を欺(あざむ)くために「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」と抽象的表現。
やがて完全に大石寺安置の大御本尊から離れ、ついには新本尊を策定するための準備であることは明らか。

学会側こそ「大御本尊否定」の大悪業を進めていることを知るべき。
―――――――――――
4、学会邪義 2

 宗門は、これらの事実の発覚に驚き、最初、
「これは、日顕上人が、当時外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難が多く来ていたことから、教学部長として河邊尊師に説明されたもの」と説明、
翌日出された河邊(尊師)による「お詫びと証言」では、「宗内において生じる妄説の可能性」などと説明している。
 最初に「外部からの疑難」と言いながら、翌日には「宗内からの疑難」と言い直すあたり、真実を隠蔽(いんぺい)しようとする動揺が窺(うかが)える。
 しかしながら、当時、宗外においても宗内においても、このような疑難はどこにも呈されておらず、このようなことを言い出せるのは、宗門の教学部長として、御宝蔵に所蔵されている御本尊をはじめとして大御本尊に至るまで、宗内の御本尊を自由に鑑定できる立場にあった日顕(上人)しかいない。
 すなわち、この「河邊メモ」について、どのように言い訳しようとも、日顕(上人)が「戒壇の大御本尊は偽物」と断定していたことは動かしようのない事実なのである。
―――――――――――
【破折】

1、「河邊メモ」は盗人による盗品

 「河邊メモ」は、故・河邊慈篤尊師の個人的なメモ。それが何ゆえに学会の手許(てもと)にあるのか――なんと、盗人の手によって河邊尊師のもとより盗み取られ、それを入手経路を隠したまま創価学会が悪用しているのである。

 盗品の内容を、持ち主である河邊尊師の許可もなく公開して御法主上人誹謗に使うとは、創価学会という宗教団体がいかに薄汚ない教団であるかがわかろう。

「メモ」とは、所詮、個人の覚え書きであって、万人が理解することを前提とした公式書類でもなければ、手紙でもない。当人のための覚え書き。文中に、主語や目的語が省かれていたり、肝要な部分が省かれて記述されていることすらある。それ故、時の経過の中で、本人でさえメモの内容が理解できなくなることも多々ある。
 そうした覚え書きとしての記述を、あたかも公式書類であるかのごとく扱い、しかも、自らの主観をもとに勝手に主語を挿入して読み解くなど、メモの解読どころか創作の域に踏み込んでいる。
 「大御本尊偽作疑難」は、河邊尊師から盗み取ったメモをもとに、創価学会が自分の主観で勝手に創作した疑難。
―――――――――――
2、「宗外」と「宗内」について

 学会怪文書『同盟通信』がこれを公開したのが、平成十一年七月七日のこと。
 これに対し、宗門側は翌々日の七月九日に「宗内各位」宛てに、
 「当時(昭和五十三年)は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります」と解説。
翌日の七月十日にも、「河邊尊師からのお詫びと証言」を、「宗内各位」宛てに発している。
 「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折についての話を伺ったもの」

 学会は、これらの記述中、「宗外」と「宗内」の語に拘泥(こうでい)して「矛盾だ」といっているのであるが、これは矛盾でも何でもない。

 宗門から出された最初の文書
「以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたことあり」と、けっして、疑難を外部だけに限定した表現でないことは、「も」の一文字から窺える。

 翌日付けの文書
「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても……」と、ここでは、「当時の裁判や以前からの疑難」(宗外)と「宗内においての妄説」とを併記しているのである。

 創価学会が「矛盾だ」とした箇処は、文字の上では顕然(けんねん)ではないが、いずれも「宗外」「宗内」を含んでいるのであって、矛盾などどこにもない。

 これらの文書は、宗内の信徒が学会怪文書に惑(まど)わされ、あたかも御法主上人が戒壇の大御本尊を否定されたかのように誤解することのなきよう、急報として出されたもの。
元となった疑難が宗内からであったか、宗外からであったかを問題にしたものではない。
―――――――――――
以上、簡潔に問題の経緯をUPした。
やまいぬ君、これらに詳細に反論・検証してみたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。4  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月10日(火)10時09分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ほんの少し時間がとれるので、続き行きますか。
しかし、このやまいぬ。君という愚者は、のっけから既に自分が首を落とされているのにも、それに気がつかないで、その転がっている首がパクパク愚難をしているような醜態を自覚できないとは。
まことに三宝誹謗・ニセ本尊崇拝による愚癡の衆生の見本というべきであろう。
>
―――――――――――
> これから始まる長いやり取りの冒頭で、奇しくも樋田さんが、斯くも見事に宗門・法華講の
> 「モノ信仰」を書いてしまったことは、信仰者、なかんずく蓮祖仏法を信仰する者として
> あなたや法華講が致命的な欠落を持っていることを見事に露呈してくださいました。(^o^)
> 残念ながらこの時点で、ある意味「勝負あり」です。(^^)
> 興味深いので少々書きましょう。

●またもや、馬鹿丸出しの愚難である。
このやまいぬ。君、書くことが悉く大聖人の御法門から甚だしく逸脱しているので、その一々にお相手しなければならず、当方としても手間のかかるのである。
が、所詮、今までの数行の中に、この謗法者の邪信の本質は顕著に露呈しているので、根幹部分に於いては、もう終わっているようなものである。
この愚者の言を借りれば、まさに

> 残念ながらこの時点で、ある意味「勝負あり」です。(^^)

ということである。
それでも、
> 興味深いので少々書きましょう。

ということか。
―――――――――――
まず、この愚人が用いる「モノ信仰」について。

1、貴公ら創価学会が販売しているニセ本尊は、「モノ」ではないのか?
2、「モノ」でなければ、一体「何」か?
3、貴公ら創価学会員が会館で拝むものは「モノ」ではないのか?
4、合掌礼拝する行為は「信仰」ではないのか?
5.そうでなければ、その行為は一体何ものか。

やまいぬ。君などの愚問はこれらの詰問で十分なのだが、自分の首が切り落とされているのにも気がつけない物怪のようであるから、更に詳しく破折しよう。

    草木成仏口決   文永九年二月二〇日  五一歳
■草木成仏とは非情の成仏なり。
「非情」とはやまいぬ。君のいうところの「モノ」である。やまいぬ。君はその非情が成仏するという法華経の深い法門が全く分かっていないのである。
だから、自分の浅識も省みず「モノ信仰」などと偉そうに揶揄できるのである。実に恥ずかしい醜面である。

■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。
ここは今回の本題ではないが、この草木成仏という大事の御法門が全く領解できていないから、創価学会では、塔婆を否定したり、開眼を否定したりするのである。この大聖人様の仰せからして、創価学会のものどもがいかに愚か者であるか明白である。

■口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。
ここが、まさに曼荼羅御本尊を我々が「仏」として拝する道理と文証である。

■法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし。
一身即三身・三身即一身の法義がほんの少しでも理解できていれば、「モノ信仰」などとはとても恥ずかしくて言えた物ではない。

■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり、
ここに、元非情である曼荼羅御本尊を信仰することにより我等が成仏できる原理・道理を拝するのである。

■一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。
究極の御文証である。
御仏の御一念に法界一切が納まり、また、御仏の御一念が法界一切へ遍く、その全てがそのまま大曼荼羅御本尊と顕れ給うた紛れも無い御文証である。
これを「モノ信仰」と哂うやまいぬ。君
まさに「習いそこない」の愚者であるが故に、とんでもない見当違いをしているだけである。
実に哀れ、惨めな生まれ育ちである。

■此等の法門は知る人すくなきなり。所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢へて忘失する事なかれ。
まさに、ニセ本尊などを拝んでいるとこのような、大聖人様の仏法の基本中の基本が全く分からなくなり、堕獄一直線となるのである。
戒壇の大御本尊を「モノ信仰」と軽侮するやまいぬ。君、後生をよくよく畏れるべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。4(飛び火2)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)12時25分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君、予想通りの食いつきである。
所詮、道理の通った文証と論では反論できない謗法者の哀れな足掻きである。
―――――――――――
> DATE: 10月31日(火)03時58分41秒
> TITLE: 樋田くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> しっかし樋田くんよ。3ヶ月以上も本論にすら入れずに、出してきたのが「日因」だ?
> (^o^)(^o^)(^o^) 腐り果てたねぇ、かつての「法華講きっての論客」・樋田くんよ?(^o^)
> で、その日因って、何世帯折伏したんだね?(^o^) どれだけ広宣流布を進めたんだね?
> (^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「如説修行」のひとでも「法華経の行者」でもない人間なら、その妄言など無用だわ。(^o^)
―――――――――――
●これもまさに一読噴飯ものである。
通常の感覚と経験を有している「大人」の発言とはどう贔屓目に見てあげても思えないほどの幼稚さである。
やはり、「正境」である、戒壇の大御本尊に縁できないものは斯様に智慧が衰え、道理を失い、癡さが増すと言う、よき現証である。
―――――――――――
1、日寛上人
■本尊書写豈化他に非ずや。

御法主上人の御本尊書写はそのまま化他=折伏行ではないか。
一体に僧俗が如何程に化他行に励んでも肝心の法体である御本尊様を流布しなくては大聖人様の御法門の肝心、三大秘法は成就しない。
その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、その至尊のお振る舞いあっての我々の「折伏」である。
法体のない者は一体何を広めているというのか。
そういうところが分からない迷妄が「本尊にまどへり」の愚相なのである。
―――――――――――
2、■涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」

やまいぬ。君はこのような僧俗の役目の筋目という御法門を知らないただの暗愚者である。
「甚深の義」とは突き詰めて拝すればまさに戒壇の大御本尊様であり、その御内証である。
その最大深秘の御大事の御法門を過たず未来永劫に伝持される尊いお役目のお立場の方が日興上人を首とした御歴代上人である。
およそやまいぬ。君ほどの無知蒙昧で、邪魂醜悪の者の知ること能わざる清浄な世界である。
翻って、その尊い僧団を守護・外護し奉る役目が檀越=つまり在家信徒である。
やまいぬ。君は単に「折伏」「広宣流布」の語を極めて浅薄にしか読めない愚者である。

以上の1、2、から拝せることは、「折伏」にも「広宣流布」にも総別の縦分け・筋目があるということである。
我々が励む「折伏」・「広宣流布」とは、別して御法主上人にのみに伝持され、流布される三大秘法の御法体を世に広く流布する、総じての辺における立場である。
この筋目に盲目で惑乱しているから思い上がって驕慢になっているのである。
十四誹謗の不信・浅識・憍慢・軽善・憎善・嫉善・恨善などをそのまま地でいっている、哀れそのものの生き物である。
無間地獄必定である。
―――――――――――
3、<正邪は法門によって判定>

■法門をもて邪正をただすべし(『唱法華題目抄』)
-----------------------
●貴公ら、池田学会では会員数が多いことをもって、自らを「広布の団体」と自讃し、正義の証のごとく主張している。しかし、広宣流布の長い道程にあって、一時的に人数が増えたからといって、それが正義の証明になるはずがない。正邪の判定はあくまでも法門によって行われるべきである。

■汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ(『聖愚問答抄』)
-----------------------
●「正理」とは何か。それは三大秘法総在の御本尊に帰着する。そして、御本尊即御本仏の御内証は唯授一人の血脈として歴代上人に伝持されているのである。

■堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず(中略)信心無二にして筋目を違えず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり(第9世日有上人『有師談諸聞書』/『富士宗学要集』第2巻146頁)
―――――――――――
4、<唯授一人の血脈を根本とする僧俗異体同心が広布の要諦>

■1 日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』)
-----------------------
●ここでいう「異体同心」とは、『生死一大事血脈抄』↓に仰せのように、僧俗一体となっての異体同心である。"僧侶不要"を唱える在家団体・創価学会が会員同士でいかに仲良くしても血脈は通わないのである。従って、大聖人が仰せの広布も実現できないのである。

■総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(『生死一大事血脈抄』)
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●↑「生死一大事の血脈」は「弟子檀那」が「異体同心」であるところに成り立つ。いかに数が多くても、「檀那」である在家だけで仲良くやっても、「異体同心」とはならない。よって、「弟子」である御僧侶を蔑ろにし、"僧侶不要"を唱える池田学会に、生死一大事の血脈が通わないことは明らか。

■只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ(『生死一大事血脈抄』)
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●「釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて」とあるように、生死一大事の血脈は、釈尊から上行菩薩への別付属に由来する。

■宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
-----------------------
●「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている。

★広布拡大乃至達成の条件である「異体同心」(1●)とは、唯授一人の血脈を根本とした僧俗一体の異体同心である。
―――――――――――
5、やまいぬ。君の幼稚な自己矛盾。

1、やまいぬ。君ら創価学会はその日寛上人の御本尊を担ぎ出したのであるから、やまいぬ。君の言をそのまま踏襲するとこうなる。
▼「> で、その日寛(上人)って、何世帯折伏したんだね?(^o^) どれだけ広宣流布を進めたんだね?」
日寛上人が
@何世帯折伏したか、
Aどれだけ広宣流布を進めたのか、
数字を出して立証しなければ、日因上人を否定する根拠とはならない。
のみならず、日寛上人を▼「 「如説修行」のひとでも「法華経の行者」でもない人間なら、その妄言など無用だわ。(^o^)」と痛罵することになり、大謗法である。
更にその妄言など無用と悪罵した方の御本尊を担ぎ出して写真撮影して散々に好き勝手に改竄を加えて販売しているニセ本尊を拝んでいる・・という最大の矛盾となる。
はい、ではやまいぬ。君、@Aの具体的な立証をして見せたまえ。(絶対に無理だがね。呵々)

2、やまいぬ。君の立論は、やまいぬ。君が自負する、多くの「折伏」をし「広宣流布」を進めた創価学会の啓蒙書、折伏経典の主張に全く相反する。
■『日因上人御消息』
「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」
との主意と、折伏経典にある以下の主張は大同である。

▼【折伏教典】(折伏教典三二三)
「富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。そこで、もし、このようにたしかなご真筆の御本尊を拝した場合は、大石寺の御法主上人の御手元に移し、改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御下げ渡し願えば良いのである。また信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。
それ(興尊が集めた大聖人御真筆本尊)にもれた一部のものが、ある人々に移り伝わって今日、ご真筆として勝手に信仰の対象とされているのである。ただし、これはちょうど電灯にたとえて考えてみると、(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである。御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。」

もし、やまいぬ。君が日因上人の御指南を、「折伏」と「広宣流布」の数、ということにおいて否定しているであるなら、その「折伏」と「広宣流布」を殊に推し進めた創価学会の主張は認めなければならないはずである。
では、上記折伏経典の主張によると、如何なる状況であったとしても、貴公が「私は堂々とそのみやげ本尊を買うよ。」との思い込みは、まさに大謗法であるが、この矛盾について、論理明快に説明できるであろうか?(無理である。)
がしかし、挑戦してみるのもまた一興であろう。

一回の投稿が余り長くてもいけないので、では続きは後ほど。

しかも貴公の要求どおり、かつての幼論についても摧破を再開しますので。ご心配なく。(いやむしろその方が心配であろう。)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。6(飛び火3)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)13時35分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●いよいよ、苦しい足掻きである。
哀れを誘う。

> で、「大事至極の秘曲」とは何だね?(^o^) まさか書くだけ書いて、「法主しか知らん」とか
> 逃げまいな?(^o^)

●実に醜悪傲慢な根性の持ち主である。
この世の全てをやまいぬ。君は知り尽くしているとでもいうのであろうか?
また知らなくては全てを信じれないとでもいうのだろうか。
「大事至極の秘曲」とはまさに御法主上人しか知らないのである。
それは別に「逃げ」でもなんでもなく、それが厳然とした事実・真実そのままである。
貴公の論法だと、法華経の神力品で上行菩薩が結要付嘱されたその正体は鎌倉時代まさに大聖人様しか知っておられないが、そのことを疑う謗法者と同じ穴のムジナである。
貴公の根性と生まれ育ちの因縁はその程度なのである。

繰り返しになるが、愚盲で醜怪な妄弁者は、癡であるが故に、反復学習が必要である。
やまいぬ。君の愚問は折伏経典の以下の箇所へも向けられていることになり、それは戸田氏へも唾を吐きかかけている忘恩・不知恩の畜生以下の生き物の所業である。(名は体を表す、との言葉通りである)

折伏経典

☆大石寺の御法主上人の御手元に移し、改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御下げ渡し願えば良いのである。
☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

→ここにいう、「感得」「相伝」とはどういうことか?
やまいぬ。君の論法でいくと、戸田会長に向かって、こう言っている事になる。

> で、「感得とか相伝」とは何だね?(^o^) まさか書くだけ書いて、「法主しか知らん」とか
> 逃げまいな?(^o^)

やまいぬ。君、実に愚かな駄犬である。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。7(飛び火4)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)15時17分51秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君流にいうと、”さあ、飯も食ったし、続き行きますか。(^o^)”
―――――――――――
> しかも、
> 「もしこの世界に蓮祖真筆本尊も、今までの誰が書写した本尊もなく」
> とわざわざ書いた部分は無視。(^o^)
> いいかい? 寛師の言葉とか並べておるが、その前提として
> 「もしこの世界に蓮祖真筆本尊も、今までの誰が書写した本尊もなく」
> ではないのだよ。蓮祖御図顕の本尊は存在する。学会下付の寛師書写本尊のようにね。
> (^o^) 前提を違えておる状態で寛師の言葉など、きみの主張の役にも立っておらん。(^o^)
―――――――――――
●書けば書くほどに幼稚である。
どのような条件・前提を設定してみても、詰まる所、やまいぬ。君は身延のみやげものを「本尊=根本尊崇の対象」として認めるということである。
謗法物は、あくまで謗法物以外のなにものでもないものであって、当宗からすれば、身延のみやげもの掛け軸は謗法払いの対象物でしかない。
それをさも尤もらしく前提を設定したところで、どこまでいっても”本尊”とはなりえないのである。

やまいぬ。君、折伏経典に依って戸田氏や小平教学部長から、再”折伏”して頂きたまえ。呵々

☆富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。

☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

☆三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。

☆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。8(飛び火5)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)15時31分22秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

謗法の害毒によて智慧の回らない愚者は↓こういうところからまた執拗に絡んでくるので、一言。
―――――――――――
> >もしくはやまいぬ。君、この件でむきになって絡んでくるのならば、とりあえずそれに
> >お相手することから始めましょうか。

> 阿呆。(^o^) ちみには3ヶ月前の膨大な宿題が残っておるわ。(^o^)
> もうなかったことにして逃亡の準備か?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> あんまり笑わせるな、坊や。(^o^)
>
> にほんごの不自由なつむらくんの心配など無用。そんなはぐらかし方などするな。
> みっともない。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> さ、暇が出来たのなら、
> 「書けた分だけ」とっとと返答してもらおうか?(^o^)
―――――――――――
●ま、所詮このレベルの言葉使いしか出来ない生活環境と脳内環境と境涯の方である、ということの証明である。

では、これから、やまいぬ。君、お待ちかねの、駄論粉砕に取り掛かりますかね。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。9  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)19時00分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●改めて愚者丸出しの恥論である。
―――――――――――
> まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。
>
> 『「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」とも云へり。いかが心得べきや。』
> どうぞ。(^^)
―――――――――――
●やまいぬ。君は戒壇の大御本尊を「モノ」として否定する立場である。
それはこの↓愚劣な発言に明白である。

▼興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

そして、「モノ」を否定する立場でいながら、しかし完全な「モノ」である創価学会販売のニセ本尊を平然と拝んでいる。
まさに身口意の行動に一貫性がない、頭破七分そのままの状態である。
剰え、いよいよ他に拝む「モノ」がなければ「身延のみやげ掛け軸」という「モノ」を”本尊”として”昇格”させるつもりである。
他に拝む「モノ」があるうちは、身延のみやげ掛け軸は一体どのような”お立場”なのか。全く説明できていない。(出来るわけもない。)
しかも身延のみやげ掛け軸はあくまで「モノ」であることには終始一貫変化はない。
まさに、論理破綻の頭破七分の狂態である。
まさに「諸宗は本尊にまどへり」の生きた標本である。
(斯様な頭破七分者が社会にうろうろしておると物騒でしょうがない。)

であるから、この愚問↓を発する前提からして的外れの痴態であり、実に滑稽千万である。

> まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。

その上で、この頭破七分の狂人に、大聖人様が”御本尊”という色心不二の御尊体(この愚者に言わせれば「モノ」である)を如何に大事にお考えになられていたか示そう。

■御祝として餅・酒・鳥目一貫文送り給び候ひ畢んぬ。是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。

大聖人様御自ら”御本尊”へ信行されていたお姿であり、やまいぬ。君というこの頭破七分の狂人に言わせれば、大聖人様自体も「モノ」信仰の似非信者ということになろう。
まことに馬鹿丸出しの痴犬である。

■一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。

信を失った愚者相手は実に骨が折れるものである。
「一閻浮提第一の御本尊」とは一体何であるのか。「モノ」として現実にこの世に存在しない「御本尊」などあるのか。
まさに痴犬のたわごとである。

■先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。
■日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく「師子奮迅之力」とは是なり。
■又此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。
■日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 ■あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。

■妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。
 此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。

類文繁多であり、あくまで御本尊が根本であり、その御本尊を広めることこそ広宣流布である。当たり前である。
因みに創価学会販売のニセ本尊をどんなに広めても「広宣流布」とはならない。
くどいようだが、貴公のレベルに合わせて説けば、折伏経典にあるとおりである。
曰く
☆富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。

☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

☆三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。

☆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

今の創価学会が販売しているニセ本尊はまさにここで痛烈に呵責されている通りの情けない謗法物である。
それは身延のみやげ掛け軸も同様である。
やまいぬ。君、謗法の毒気その心中深く入ったが故に、哀れ哀れ、ニセモノの謗法掛け軸同士を仲良く”本尊”と見違えているのである。
まっ、創価学会販売のニセ本尊をニセと見破れないものが身延みやげ掛け軸を謗法を見破れないのは至極当然の結果というべきであろう。

■臭きを溷厠に忘る。

と大聖人様が呵責された謗法者そのままの迷妄ぶりである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)22時31分54秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●またまた恥論大爆発である。
>
> 「モノ」ある故に正しい、というのであれば、あなた方宗門・法華講などは身延にすら
> 勝てませんし、蓮祖所縁であることが正しいなら、あなた方は身延をはじめ、蓮祖所縁の
> 寺々にすら勝てません。なにせ蓮祖ご自身は、大石ヶ原など踏まれてさえいませんからね。
> (^o^) 750年も経って、ロクに広宣流布を進められない宗門がどんな優れた「モノ」を
> 持っていても、すべて「猫に小判」です。
―――――――――――
●しかし、ここまで愚かだと反論するのも馬鹿馬鹿しくなるが、この程度が創価学会の邪義の中堅クラスであろうから、労を惜しまずいきますか。

1、戒壇の大御本尊様こそ根源

日寛上人

■教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり。

■今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。

 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。
(中略)
 四には末法万年の総貫首の所栖なるが故に。謂わく、血脈抄に云わく「日興を付弟と定め畢んぬ、而して予が入滅の導師として寿量品を始め奉るべし、万年已後未来までの総貫首の証拠なり」等云々。
(中略)
 学者応に知るべし、独尊の金言偽り無く、三師の相承虚しからずんば富士山の下に戒壇を建立して本門寺と名づけ、一閻浮提の諸寺・諸山、本山と仰ぐべきなり。天台の所謂「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討ぬ」とは是れなり。

●普通に素直な心で拝すれば分かることであるから詳細な解釈は省略するが、やまいぬ。君ら謗法者は、この「広宣流布の根源」であられる戒壇の大御本尊様を不信し、誹謗し、軽侮し、愚弄するが故に、思い上がって憍慢になり、真の功徳である成仏の境涯など全く得られないのである。
―――――――――――
2、広宣流布の定義

再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。
真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。
戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。
つまり、ここを分かりやすく言えば、戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。
そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。
創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、国が滅ぶ元である。
やまいぬ。君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。
まさに■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」の醜態を地でいく勇ましさである。
であるから実に愚かであるにも拘らず、驕慢であり、生意気なことを平然と言ってのけるのである。
こういう者を無慙の人というのである。
日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて今から心の準備などをして置くべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。11(飛び火分)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)13時12分42秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さて、やはりまたもや予想通りの食いつきですね。
―――――――――――
> DATE: 10月31日(火)22時28分40秒
> TITLE: さあて。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> >やまいぬ。君、予想通りの食いつきである。

> 樋田くん、予想通りの逃亡だね。(^o^)(←やまいぬ。君、こういうオウム返ししか出来ないのは、相当に知性が緩い証拠だよ。)
>
> 他の話題で煙幕張って、3ヶ月以上逃亡しっ放しの返答不能を誤魔化そうとする。
> くだらん。あまりに見え透いて幼稚だよ。(^o^)
>
> その上でまず書く。
> 文証とはそもそも「絶対尊崇の対象」たる蓮祖・興師の言を以ってせえ。
> 広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ
> 途中の坊主の言葉を用いたいなら、その人間がまさしく蓮祖仰せの「如説修行」の
> 「法華経の行者」と証明したからにせんか。(^o^)
―――――――――――
●頭が余り良くないようなので、何度も教えなくてはならないらしい。
どうも「広宣流布」の意義や700年間の時代背景、衆生の機根等に全く暝い、ただの無知な幼児のようであるから、そこから教育しないとこの頑迷さは治らないようである。
―――――――――――
一、広宣流布云々について。

1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。

2、そんな中でも日蓮正宗僧俗による数多くの法難史が存在する。
千葉法難・金沢法難・讃岐法難・仙台法難・尾張法難・伊那法難・八戸法難・・・
弘教に励んでこられた証拠である。

3、■一、堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。

■信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり

創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)

まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。
―――――――――――
二、戒壇の大御本尊様こそが唯一広宣流布の根源

日寛上人
■問う、文底深秘の大法、その体如何。
  答う、則ちこれ天台未弘の大法・三大秘法の随一 ・本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記二十七三十に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を 以て閻浮提に広宣流布せしめん」等云云。故にこの本尊は広布の根源なり。

■又云わく「何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや」と云々。
 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。

●謗法者やまいぬ。君は■「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討(たず)ぬ」という、仏教を学ぶ者が当然として身につく道理と、報恩の境涯が全く開かれていないのである。
そういう者を”真の愚者”というのである。
幾ら口先で偉そうなことばかり言っていても全く駄目である。

1、日蓮正宗の単なる派生団体、創価学会が誕生するずっと以前から広宣流布の根源であられる御戒壇様を厳然と護持されてきたのはどこでしょう?
2、君などが生まれるずっと以前から御戒壇様を厳然と護持されてきたのは誰でしょう?
 君らには到底望むことも、覗くことも出来ない即身成仏の境涯を得る事のできる、その根本の御法体の御戒壇様が厳然と今奉安堂にましますことが日蓮正宗700年の御法主上人と宗門が正しかった何よりの現証。
■「現証に如かず」である。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」

●戒壇の大御本尊を求めないやまいぬ。痴犬は、かく日寛上人に
浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。
―――――――――――
三、文証の引き方

このやまいぬ。君という駄犬は、御書と日興上人の御指南しか信用しないという立場で、しかも日寛上人の御指南も当然用いないという大馬鹿さ加減、大炸裂の痴犬であるが、以下の矛盾に気がつかないとすれば、もはや常人の域を逸脱している狂気の世界の住人である。

このやまいぬ。君ら狂気の駄犬の矛盾に満ち満ちた言い分はこうであろう。(学会員の心中を説明するとこうなるか。)

★日寛(上人)が言うことは「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」であるから、全くあてにならないし、信用していないが、日寛(上人)が信じていた戒壇本尊というニセ物を書写した本尊の中で、

1、淨円寺の住職だった大行阿闇梨本證坊日證授与の本尊だけが何故か特に気に入って、
2、きっとこの本尊だけが宇宙本源の法を顕しているような気がするので、
3、それを写真に撮って、
4、画像をパソコンへ取り込んで、
5、でもこの『本證坊日證』という個人宛の授与書きは、全世界の学会員に販売するにはちょっと具合が悪いので、
6、そこの文字はザックリ削り落として、
7、他も全体に古くて痛んでいたから、コントラストや白黒のレベルを調整したり、
8、シミなどの部分は漂白するように白く補正して、
9、字も外人にもうけがいいように見栄え良く伸ばしたり書き加えたりして
10、大いに修正・加筆・補正を加え、
11、安く仕上げる為には、和紙だの表具だの言っていたら儲からんから、
12、一枚多色刷りで掛け軸状にみせかた本尊だから、
13、実にありがたくて、
14、功徳もバンバン出るというし、
15、最初はちょっと気味が悪かったけれども、
16、みんな平気な顔して拝んでるし、
17、きっと『みんなで拝めば怖くない』だから、自分も拝んでいる。

↑この中学生が読んでも容易に理解できる噴飯ものの大矛盾に気がつかないとすれば、まさに頭破七分で正気を失っている姿である。
更に、やまいぬ。君は、身延のみやげ掛け軸でさえ条件付で”御本尊”なり得ると言うのであるから、もはや馬鹿につける薬なし。馬鹿は死ななきゃ治らない、的に重症である。(因みにこの件を知り合いの学会員に詰問したら、はっきり身延のみやげ掛け軸は謗法だ。と言下に即答したが?同じ学会員同士でこうも真反対に見解が違う状態が、まさに■「諸宗は本尊にまどへり」であり、もはや創価学会が邪宗と成り果てた証左である。)

やまいぬ。君、もし日寛上人だけが他の御歴代上人と別格と言いたいのならば、貴公の理屈である、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」でないことを具体的な数値を示して立証して見せたまえ。
頭のよくない駄犬には本当に苦労させられる。もう少し頭のいい学会員なら、さすがにやまいぬ。君のような稚拙な理屈は振り回さないがね。
さすがに恥ずかしくて。それが分からないところが痴犬の痴犬たる所以か。実に謗法の害毒恐ろしいものがある。
自分が糞臭いということに気がつかないで平然と市中を闊歩しているようなものである。

■臭きを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。

とのご叱責の通りのぶざまさである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。12  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)15時17分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さあ、飯も食ったし次いくか。(-。-)y-゜゜゜(←これがやまいぬ。君流かね。相手の境涯に合わせないとね。余裕かましているように繕っているが、その実、内心相当に瞋恚の炎を燃やしているようである。)

> >1、日寛上人
> >■本尊書写豈化他に非ずや。
> >御法主上人の御本尊書写はそのまま化他=折伏行ではないか。

> 蓮祖曰く、
>
> 「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」
>
> 端的だ。(^o^) 御本尊に脚生えて、勝手に歩いて折伏する訳ではない。(^o^)

●馬鹿さ加減が実に鮮明だ。
やまいぬ。君に問う。
1、ここに仰せの「法」とは何か?
「蓮祖の仏法」では失格、落第、譲って言って40点だ。予め釘を刺しておく。
もちろん「蓮祖の精神」でも同様である。
さ、頑張れ。

2、「御本尊」 でもまだまだ50点だ。
さ、頑張れ。(身延みやげ物でも”御本尊”に昇格させることができる”つわもの”だから、この返答は楽しみである)
―――――――――――
> >御法主上人の御本尊書写はそのまま化他=折伏行ではないか。

> 書写がそのまま化他?(^o^) 何の戯言だ?(^o^)

●はいここで、やまいぬ。君、思いっきり日寛上人の御指南へ唾を吐きました。

■「本尊書写豈化他に非ずや。」

とは紛うことなき日寛上人の御指南である。
かたや、日寛上人御書写の御本尊は持ち上げ、かたや日寛上人の御指南は思いっきり下す。
この悩乱極まりない姿を頭破七分者といって仏教においては極悪人の”登録商標”である。
やまいぬ。君ほどの程度ではきっと読み仮名がなくて読めなかったようであるから、ふってあげましょう。

■「本尊(ほんぞん)書写(しょしゃ)豈(あに)化他(けた)に非(あら)ずや。」

池田大作監修の「仏哲」から

【化他】
自行に対する語。@修行に約する場合。化他とは他人に仏法の利益を受けさせるための化導をいい、末法今時においては折伏行や、信心指導などがこの化他である。

とあるからして、化他=折伏行であることは池田大作さんも認めているところである。
―――――――――――
> では法主が書写し続けて750年、いったいどれほど広宣流布は進んだのかね?
> 時間ばかりを浪費して、学会による大折伏戦以前、ただの田舎のボロ寺と化して
> おったのは何故かね?(^o^) 法主は本尊書写していたんだろう?
> どうして化他行、つまり折伏は進まなかったのかね?(^o^)
> 言い訳抜きで説明してもらおうか。(^o^)
―――――――――――
●言い訳も何も、御書にある通りである。

■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。」

やまいぬ。君の如き、頑迷固陋にして、邪心深き者がまだまだ多きが故に、真の大正法は広まり難いのである。
自分がその邪宗徒に成り下がって三大秘法の流布を妨げている一類であるのに、その三大秘法の本源、戒壇の大御本尊を軽侮、揶揄、不信して「広宣流布は何故進まなかった?」などと訊くとは、実に滑稽極まりない痴態である。思わず大笑いである。
自分が殺人犯であるにも拘らず、警察署に行って、自分が殺めた人のことを取り上げ、「何故あの人の命を助けられなかったんだ!?」と怒鳴っているような狂態である。
またそのみっともなさに気づかないところが頭破七分で無慙極まりない。
貴公のような機根で生まれついたその自らの悪因縁と悪宿業を深く見つめなおすがよい。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。13(飛ぶ火分)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)16時31分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●はい、由緒正しい、血統正しい正統な御本尊様へ有難い唱題をさせていただき、はい、次。
―――――――――――
> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは”御本尊” になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま”コピー”した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。14  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)16時52分51秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >その至尊のお振る舞いあっての我々の「折伏」である。

> ほう。では阿部日顕の如き、海外から「花和尚」と嘲われてばかりの「お振る舞い」ばかりで
> 法華講の折伏は進まぬと、こういう訳か?(^o^)
> なるほど蓮祖もこう仰せだ。
>
> 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、
> はかなきを畜といふ。」
>
> さすがは「阿部日犬」よのお。(^o^)
> そりゃ芸者挙げて宴会やるわ、高級温泉旅館で散財するわ、これじゃ折伏だ、広宣流布だなど
> 夢のまた夢だわなぁ?(^o^)(^o^)
―――――――――――
1、「花和尚」とはどこの国のどういうメディアでどういう番組として放送されたのか。
さ、やまいぬ。君、明示していただきましょうか?(当方は現地でどのような性格の番組構成であったか確認済み)

2、「芸者挙げて宴会」とはいつの、どの会を指しているのか、これも明示していただきましょう。(手痛い反撃は覚悟してくださいね)

3、「高級温泉旅館で散財」について。これも具体的且つ客観性のある証言及び数字を明示して、いつ、どこで、どのような、「散在」があったのか、証明して見せてくださいませ。

以上、完全に証明してから、揶揄したまえ。
また、その立証に成功しなかった場合は、この板上で公式に謝罪し、脱会せよ。いいですね。

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。15  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)17時11分52秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

更に、貴公は以下の御文の通りの謗法罪を犯しているので、大変な法罰を受けるであろう。

●御僧侶を軽善するその報いは実に深いものがある。
■「(法華経)八の巻に云はく「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は当に世々に牙歯疎き欠け・醜き脣平める鼻・手脚繚戻し、眼目角らいに、身体臭穢・悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文。」

【通解 法華経、普賢菩薩勧発品第二十八にはこのように説かれている。

三大秘法である本門戒壇の大御本尊を受持信行する者(御法主上人は勿論のこと、戒壇の大御本尊と御法主上人に連なる全ての僧俗。)の過罪悪業、十悪、五逆罪、謗法等などの罪をあげつらう者は、たとえその内容が真実であっても、ましてやただの悪口、虚偽、捏造、誤解であった場合はなお更のこと、その誹謗した者は、現世において皮膚や肉が白くなり腐る癩病の一種やそれに類する医学で治療できない重病などに罹るであろう。

また、御法主上人をはじめ本門戒壇の大御本尊を受持信行する者を軽蔑し、嘲笑する者は、来世以降、生まれてくる度に、歯が部分的に欠損していたり途中で欠けたり、唇が醜く、鼻も低く醜悪。手足がねじ曲がり自由に伸びない状態となり、瞳の方角が偏り、正常にものを見る事が出来ない姿となり、身体は醜く汚く臭く、悪性のできもの、腫れ物が多発し、血の中に膿が混じったり、また膿の血が染み出してきたり、腹部に濁水が充満し腫れ上がり、酷い喘息などで息が詰まり呼吸困難になったりする。その他諸々の悪重病に侵され続けるであろう。」

痴犬は、今のままでは間違いなくこういう惨めな姿を未来永劫に繰り返し繰り返し現じ続けるであろう。
一刻も早くその誹謗を止め、心より反省懺悔して御法主上人に許しを乞わないと、取り返しがつかないことになる。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。16  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)21時13分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●正統な三宝の坐す所属寺院での先祖供養に大感激して帰ってきて、さあ、再開するか。
―――――――――――
> >法体のない者は一体何を広めているというのか。
>
> 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解て、
> 妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
> 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり。」
>
> >法体のない者
> ? 蓮祖全面否定ときた。(^o^) きみは何の宗教を信仰しておるのだね?(^o^)

●いよいよ、始まってきたようだ。この謗法者の浅識・無知蒙昧ぶりが。
大聖人の御文中の「法華経」「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」とは、全て一大秘法へ究竟される、という御文の拝し方の初門すら、領解できていない幼学者である。まさに身延読みと同様である。まっ、身延のみやげ掛け軸をも”本尊”にしてしまう位だから、当然といえば当然か。
ここに仰せの「妙法蓮華経」とは当然の如く一大秘法に究竟される。つまりは戒壇の大御本尊である。
もし、ここをただの「妙法蓮華経」のみと解して読めば、では、世の中で身延あたりでも唱えている題目がまさに大聖人様の「肝要」である「生死一大事の血脈」ということになってしまう。
更に言えば、ただ、自分が仏と信じて題目を唱えている全ての宗派を是認することとなる。
さ、では以下の命題を解いてもらおうか。

@法体もなく、ただ題目を唱える宗派は正しいのか。
はい。→では、身延でも、久遠実成の釈尊と法華経を尊崇して題目を唱えているが、これは正しいことになるがいいのか。
いいえ。→では、数ある題目を唱える宗派でどこがどういう理由で正しいのか。

A顕正会は正しいのか?
はい→では顕正会の流布は広宣流布と認めるか。
いいえ→創価学会とどこがどのように違うのか。

これらを文証を以って論理明確に答えてみたまえ。
できなければ自らの邪解を認め、謝罪して脱会。いいね。頑張れよう。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。17  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)04時57分40秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●御住職とともに折伏をさせていただき、まさに僧俗一致、僧俗和合でまた一人、入信に導かせていただいた。
まことに有難い極みです。

では、こっちの”創賊”の掃除を始めますか。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> ついでだ。唯授一人血脈相承のこの言葉に反しておること、どう説明するのか楽しみに
> 待とうか。(^o^)
>
> 「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて
> 御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如き
> ものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は
永劫にも動揺すべきものにあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は
> 絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はゞ其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・
> 猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の
血液活溌に運行す、其は世間にて云へば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を
> 乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の
> 清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも
> 踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり
> 此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の
> 邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて我等元の儘の粗凡夫の
> 色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり、悲しむべき事どもなり」
> (「有師化儀抄註解」『富士宗学要集』第一巻所収)

●どうも本物の馬鹿のようである。
これは、まさに唯授一人の血脈を示された箇所である。
信心がなく、その上古文が読めぬ馬鹿者には、細かく解説しなくてはならないようだ。

概して学会の馬鹿者たちは、学会活動を闇雲に、盲目的に、盲従して、真剣にしていることが”信心強盛”だと、ただ思い込んでいる者が多い。
大きな間違いである。
一概に”信心”といっても、”何”を”どのように”信じるか、によって、正信、邪信に分かれるのである。
「信」とは、まさに「正中が正」をひたぶるに信じてこそ、はじめて「正信」といえるのであり、それ以外の何をどう強く信じても、全て邪信、堕獄の元である。
では、この世の中で、正中が正とは何か。
戒壇の大御本尊に尽きるのである。
このことを素直に信じていた時代の創価学会の”信心”はそれなりに正しかったが、この一点を失った今の創価学会の”信心”など、最高から最低へ一転した、まさに邪信中の邪信、極悪中の極悪、社会の一大汚物の集団行為と成り果てたのである。

では本論。

■「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、

→戒壇の大御本尊への信心と、その御内証を伝える唯授一人・血脈相承の別しての血脈、及び、その別しての血脈を信じるところにのみ流れ通う総じての血脈と、そこに流れる功徳の法水、とはつまりは同じことである。

■信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、

→戒壇の大御本尊を信じる信心、またその御内証である唯授一人・血脈相承を信じる信心は、信じる側である信行者側の問題である。
この心が清純なところ、始めて久遠の御本仏様(=戒壇の大御本尊)よりの、功徳の源泉である法水を受けることが出来る。

■其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、

→この御本仏様(戒壇の大御本尊)よりの法水が我々信徒へ流れ通う有様は、まさに人体に血液が循環するような仕組みである。
つまり、
心臓=御本仏(戒壇の大御本尊)
→大動脈(別しての血脈である、唯授一人の血脈相承)
→各血管(各末寺)
→毛細血管(信徒組織)
→各細胞(我々各信徒)

であるから、この戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承を根本に、この流れ通う筋目を信じる「信心」があってこそ、始めて我等へ功徳の法水が伝わり流れてくるが故に、ここのところを、総じての辺における「血脈相承」という。
であるから、この筋目次第を信じる「信心」は未来永劫に動き揺れてはいけない。かき乱し混乱させてもいけない。(←この動揺・撹乱している姿はまさに今の創価学会のざま、である)

■若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、

→この戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承、そしてそれが各末寺へ、そこから信徒へ、との筋目次第を信じる「信心」が乱れ動けば、功徳の法水は流れ通ってこない。→功徳がない。(これも今の創価学会のざま、である。)

■爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、

→そのように、既に上記のような正統な「信心」を失った者共が、あえて「私たちは正しいのよ!大聖人直結!功徳バンバンよ!」などとほざいている姿は、それは濁った血脈法水であり、正しい仏法というものは既に断絶している。→つまり真の功徳はない。(→まさにまさに、今の創価学会のざま、である)

■信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、

→この戒壇の大御本尊・唯授一人の血脈相承・各末寺への尊信、という「信心」が確立しているところには、代を幾つ重ねても、いつの世になっても正統な御本仏よりの血脈が流れ通い、仏法の真の功徳である法水が豊かに流れ伝わり、即身成仏という大果報に浴することができる。

■其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・

→その姿は、例えば世間では家訓を忠実に守る家系が血統正しい家柄として栄えるが如くであり、

■仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、

→仏法においては、大聖人様以来からの正嫡の正師であられる御法主上人、またその御法主上人の意を忠実に汲まれる末寺の御住職の御心に違背しない者こそが正しい血脈であり、法水も清らかで潤沢に流れるのである。

■仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり

→根本の大師匠であられる御本仏日蓮大聖人及び御開山日興上人以来連綿と伝持されてきた戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承とその意を体する御尊師への信心を微塵も踏み違えない時、末の一信徒である我々の俗悪で不浄な心も、真実の善でありまた真実清浄の南無妙法蓮華経の色身となることができる。つまり即身成仏できるのである。

■此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、

→この極悪不浄の凡愚の身が、即身成仏の大果報を得る、という、大転換、大果報も、ただただ、偏に、戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承とその意を体する御尊師への素直な信心と篤い修行によるところが肝要・最も大切なところである。

■若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六n)

→もしこの戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承とその意を体する御尊師への素直な信心と篤い修行、という肝心要の点を尊重せず従わず、不善で不浄な、邪まな信心、正しい信心に迷う、ものどもと成り果てて御本仏の御心に叶わず違背するときは、功徳の源泉である法水の通路=
心臓=御本仏(戒壇の大御本尊)
→大動脈(別しての血脈である、唯授一人の血脈相承)
→各血管(各末寺)
→毛細血管(信徒組織)
→各細胞(我々各信徒)
は、むやみやたらに、むなしく詰まってしまって、我々はただの元のままの三毒強盛の不幸の塊である粗凡夫そのままの色心でしかなくなり、即身成仏という大果報の血脈を授かる資格は消滅してしまう。(←まさに、まさに今の創価学会のざま、そのものである)
―――――――――――
また、上記の解釈と同様の意義として、同じ日亨上人はこう仰せである。

■「貫主上人は本仏の代官にもあり・又本仏の義にもあり・口づから命を発したる仁なれば、御前に復命せんこと亦勿論なり」

■「富士派に於ては古往今来化儀化法秋毫も乱れず、殊に宗旨の本源基礎確立して宗祖以来歴世之れを紹隆し始終一貫未だ曽て微塵も異義を雑へたる事あらざるは実に是れ宗祖の正統血脈相承を紹継せる現証にして祖書経巻を解決するに純潔正確宗祖の正意本懐を顕彰し各派に独歩超出せる所以の者も亦之れ血脈相承あるが故なり。」

■「相承に経巻あり血脈あり、就中血脈相承を最とする所以は経巻相承と云ひ師資相承と称するも皆血脈相承に附随含有せらる、故に富士派に於て血脈相承と云ふは主要なるを以てのゆへにして敢て師資経巻の相承なきに非ず、総て此れ等の相承は宗祖より歴世之れを招隆せらるるなり、」

さ、やまいぬ。君?これらへ全て、文証的確、論理明晰に、反駁してみたまえ。
それが出来なければ、自分の邪解、邪信を認め、やはりこの板上で公式に謝罪し、脱会したまえ。いいな。

随分と生意気なことを言っていたわりには、こちらが本気で破折を開始した途端に遁走か?
まっ、当方も随分と貴公を待たせた訳だから、貴公の言い訳もじっくり待つとするか。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。18  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)08時06分22秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●少し精神に異常をきたした痴犬が朝から何やら偏執的に書き込んでいるようだが、↓創価学会の害毒によって人格が斯く破戒されるという、よき標本であろう。法華講・創価学会員双方、よくよくこのような痴犬の言動を観察していくと間違った宗教の恐ろしさを痛感する上でよき資料となろう。

では、現場での活動前に一題。
―――――――――――
> では蓮祖の「仏意」とは何か? 「一閻浮提」の一切衆生救済である。

●はい、50点。これでは留年である。
ではその、”「一閻浮提」の一切衆生救済”のために何を留めおかれたのか?
>
―――――――――――
> 「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき
> 先序のためなり。」

●いきなり何を持ち出すかと思えば。
この御文の、「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」とは何か。
ただの題目なのか?
では、身延や立正佼成会・霊友会の題目でもいいのか?
先にも破折したが、やまいぬ。痴犬は、大聖人様の本義が三大秘法であることすら全然分かってない、もはや初学者を通り越して、門外漢である。殆ど外道である。大聖人の仏法を云々するには相当に無理がある。実力もないのに無理なことをするから怪我をするのである。

三大秘法とは何か?

やまいぬ。君はこの宿題を解いてこなければ次の授業には着いて来れないであろう。
はい、すぐにカバン持って家へ帰って出直してきなさい。(あ、」そうか、今、家に篭ってシコシコ、馬鹿の癖に的外れな反論文でも書いているかもね。(^^♪)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。19  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)08時19分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●もう一題できそうか。

> 「世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す。是れ偏に身の為に之を述べず。君の為、仏の為、
> 神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。」

●だから何?
大聖人が平の左衛門への呵責をして、大聖人が「「一閻浮提」の一切衆生救済」のために留めおかれた「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」=究竟するところ戒壇の大御本尊の一大秘法を国家として打ち立てなければならぬ。と仰せであって、なんら戒壇の大御本尊を否定する文証とは全くなっていないが?
やまいぬ。君、少し精神に問題が生じてきているのではないか?
でなければ、実力がないのに御文をつつきまわし漁っても、法門の筋目が全く見えないものだから、このように論理の筋道がずれた的外れな引文しかできないのだよ。

やはり、やまいぬ。君レベルではこの板で何かを言いたければ相当に自己学習してからでないと無理そうだがね。
ま、とにかく頑張れ。応援しとるよ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。20  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時20分4秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さあ、今日も現場での創価学会員折伏に励ませて頂き、小憩の後、やまいぬ。君摧破を再開しましょうか。

> 「日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを、たすけんがために申す 法門なり。」

●またもや全く論法の筋道から外れて別の意趣で説かれた御文を持ち出して得々としているとは。
まことに馬鹿者の見本である。
この御文は大聖人様の御本仏としての、あふれんばかりの大慈悲心を御表示なされた箇所であって、何を顕示されるかを御教示される文脈ではないのである。
その上で、では、その「たすけんがために申す 法門」の根本の法とは?
三大秘法→畢竟、一大秘法=戒壇の大御本尊である。

■三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。

大聖人様の出世の本懐とは、まさにこの三大秘法ご御法体を顕現なされることである。
再三叩き込むが、この御法体とは究竟するところ戒壇の大御本尊である。
その戒壇の大御本尊なき創価学会が今更何ができるというのか?
とんだお笑い種である。
やまいぬ。君など、その迷走する走狗の代表選手である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。21  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時26分54秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●次。

> 「凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり」

●当たり前である。が、今時において「法華経」とは何を指すか?
さ、やまいぬ。君、明確に文証を引き、しかも御書に説かれる他の全ての御教示と矛盾しないような解釈をして見せてくれたまえ。
ただ「南無妙法蓮華経」では30点。落第。
「御本尊」でもまだ50点、留年否、落第かな。
もちろん「蓮祖の一切衆生救済の大精神」だなどでは、退学、である。
さ、頑張れ!(-。-)y-゜゜゜

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。22  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時32分52秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ほい、次。

> 「其の時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」

●はい、その上行菩薩は釈尊から一体何を授かったのでしょう?
そしてそのたったお一人で授かった”何か”をどのような形で「一閻浮提の一切衆生にさづく」のでしょう。
よ〜く考えて返答するように。
脇が甘いとすかさず呵責の蹴りが跳びますよ。
さ、頑張れ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。23  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時41分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●しかし、よくまあ、次々と、自分の邪説が暴かれるような御文を引いてくるものである。
ことの本質がまるで分かっていない証拠である。

> 「而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でての後の星の光、
> 巧匠の後に拙を知るなるべし。 此の時には正像の寺堂の仏像僧等の霊験は皆きへうせて、
> 但此の大法のみ一閻浮提に流布すべし」

●一体、やまいぬ。君は何を論証したいのか。ただ闇雲に御文を乱引しているだけのぶざまな幼さである。
ま、しかし、折角この駄犬が引いたのだから、呵責しておきましょう。
「此の大法」とは何か?
はい、上記の如く大聖人一生の御化導の次第に即し説明してみなさい。
無理なら無理で、素直に謝罪し脱会届けを当方へ提出しなさい。
では、これもまた頑張りたまえ。(-。-)y-゜゜゜

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。24  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)23時09分18秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ほい、その次。

> 等々。
> しかして阿部日顕は対話すら拒否し、世界1000万学会員を問答無用で破門。(^o^)
> この瞬間、蓮祖仏法の根底から逸脱し、信心の上ではまさに「唯授一人血脈相承」・
> 法主たる資格を喪失したのは阿部日顕だわ。(^o^)

●ほとほと、「あ〜あ」だよね。
ここまで馬鹿だと、貴公の日常生活が如何程であろうかと心配になってくる。
いつも頑迷で、頑固極まりなく、ピント外れな理屈をこねて周りから顰蹙されていることであろう。
惨めなものである。
その根拠となる文証
■「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意に随って自然に薩般若海(さばにゃかい)に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん。」

やまいぬ。君のような、根本の戒壇の大御本尊を不信して、三大秘法を蔑ろにして、自らの機根中心に、あたかも随他意の教えを信じているような邪信徒は、三毒が強盛となり、貪り深く、怒りっぽく、道理が理解できない愚かで頑迷な人格、などが形成され、世間法に於いても大いに歪み、ねじれ、ひずんで来て、他の人々との間に軋轢が多く生じ苦海に沈む、もしくは沈んでいることであろう。(意識できるかできないかに拘らず)

では、呵責。
@「阿部日顕は対話すら拒否し、世界1000万学会員を問答無用で破門。」との証拠を、時系軸に沿って証明してみせよ。
その際、客観的な文書等、証拠資料になり得るに十分耐えられる文献等を明示すること。
個人的かつ感情的な妄言は不可。憶測、伝聞も不可。である。
さ、これも頑張れ。自分で言い出したことである。証明責任は貴公にある。
楽しみに待っている。
もはや、やまいぬ。君、学会活動どころではないぞ。(-。-)y-゜゜゜

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。25  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 4日(土)08時21分21秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

おっ、なかなか頑張ってレポート提出してきたではないか。
感心、感心、
では、採点いきますかね。
―――――――――――
> DATE: 11月 4日(土)03時34分48秒
> TITLE: さあて。(^o^) 01
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 何でもいいが樋田くん、「激忙」なる見慣れないにほんごで表現したきみの多忙とは、
> 仕事ではなくアルバム作成とライブなのかね?(^o^)
>
> おいおい、ひとがTVで僅か90分ほどサッカーを観戦しておるのを、「破折を忘れた遊戯雑談」
> だの、「破折が最優先」だのと書いた坊やが、3ヶ月以上返答不能の理由がこれかね?(^o^)
>
> 「途中まででも書けているなら出せ」だとかひとには平気で要求し、本人はその1.5倍以上の
> 期間平気で逃亡するわ、その3ヶ月以上は自分の趣味と遊びの「遊戯雑談」の極みだわ、
> 人様に云うことと自分の実践がデタラメ極まりないこの一貫性のなさ。(^o^)
> 他人に厳しく自分に大甘。(^o^) 面白い経営者だな、樋田くん?(^o^)

●ここでも、のっけから蹴躓き、である。
曲がりなりにも販売するもの作るのは”仕事”であって、「遊戯雑談」にはあたらない。
駄犬がサッカー観戦しても、それは何の生産活動にもならない。
それが為に、破折を疎かにする様であれば、それはまさに、「「遊戯雑談」の極み」である。
こういう簡単な道理が分からないほど愚癡が進んでいる、という証拠である。
―――――――――――
> >当然のように売れていくセカンドアルバム。

●↑これは一体誰の言なのか。
当方が言ってもいないことを、当方の言として引き合いに出し、それを元に何を言ってみても、まさに的外れのパンチを繰り出しスリップダウンして尻餅をついたの図、である。
以下、その駄犬がスリップダウンした詳細図をとくと記録に残しておこう。

―――――――――――
> そりゃどうも。(^o^)  ついでにこういうのはどうかね?
>
> 「Def Tech、インディーズでの新記録を樹立!!
>
> Def Techの2ndミニ・アルバム『Lokahi Lani』が初登場2位にランクイン。最高位1位、
> 累積売上100万枚を突破したデビューミニ・アルバム『Def Tech』に続いて2作連続での
> TOP3入りを果たした。
> 今週はそのデビューミニ・アルバム『Def Tech』もTOP5入り(今週5位)し、Def Techの
> アルバムがTOP5内に2作同時ランクイン。インディーズ・アーティストによるTOP5内2作
> 同時ランクインは、史上初の快挙となった。
> また、今回、同作は初動で28.8万枚を売上げ、6年ぶりにインディーズ・アルバムの初動
> 売上記録を更新。これまでは99年にHi-STANDARDがアルバム『MAKING THE ROAD』で
> 記録した25.6万枚が最高だった」
>
> 多分「売れる」ってこういうことだよねぇ?(^^)
> 無論学会のおじさん・おばさんは彼らの名前さえ知らぬ。(^o^)
> 別に隠しもしなかったが、メンバーだと改まって公表もされていなかったため、青年部でも
> 知らなかった人間は山ほどいる。(メジャー・デヴューして相当経ってから知ったひとも多い)
> ウチの男子部員のうち2人が、彼らとしょっちゅう会っていたせいもあり、幸いにして私は
> 随分早い段階で彼らのインディーズ・アルバムを聴いていたが。
>
> で、
> >当然のように売れていくセカンドアルバム。
> は何万枚?(^o^) (だって「何千枚?」とは訊けないよねぇ?(^o^) )
>
> ついでに彼らは
> >当然のように売れていく
> などとは絶対に云わない。(^o^)
>
―――――――――――
●ないものをあるがの如く錯覚し思い込んで、ご丁寧にここまで書くとは。
さすが、身延のみやげ掛け軸を”御本尊”へ昇格させるだけの馬鹿さ加減である。
―――――――――――
> ちなみに、私はあなたの作る(演奏する)ような音楽という奴は大嫌いだ。
> ジャンルが、ではない。無論好みはそれぞれだが。
> さらについでに、歳喰った人間が作り歌えば「おとなの音楽」なのでもない。(^^)
>
> さて、はじめるか。(^^)
―――――――――――
●何かを世に発表できない者はえてして”ただの批評家”で終わるものである。
貴公も、内容の良し悪しはともかく、人が曲がりなりにも購入してくださるものを創作し発表してみたらいかがか?
まっ、所詮、一人で飯作る傍らでパソコンに向かい、ピントのずれた妄執の痴文をシコシコ書いているようでは無理か?
やまいぬ。は所詮、やまいぬ。であろう。

では、生きのいいネタを料理する方が読者も楽しかろうから、最新の駄犬の駄文から処理していこう。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。26  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 4日(土)09時24分30秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。」

> >●やまいぬ。君は戒壇の大御本尊を「モノ」として否定する立場である。以下。(←と、簡単に略さず載せましょう。)
それはこの↓愚劣な発言に明白である。

▼興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

そして、「モノ」を否定する立場でいながら、しかし完全な「モノ」である創価学会販売のニセ本尊を平然と拝んでいる。
まさに身口意の行動に一貫性がない、頭破七分そのままの状態である。
剰え、いよいよ他に拝む「モノ」がなければ「身延のみやげ掛け軸」という「モノ」を”本尊”として”昇格”させるつもりである。
他に拝む「モノ」があるうちは、身延のみやげ掛け軸は一体どのような”お立場”なのか。全く説明できていない。(出来るわけもない。)
しかも身延のみやげ掛け軸はあくまで「モノ」であることには終始一貫変化はない。
まさに、論理破綻の頭破七分の狂態である。
まさに「諸宗は本尊にまどへり」の生きた標本である。
(斯様な頭破七分者が社会にうろうろしておると物騒でしょうがない。)

であるから、この愚問↓を発する前提からして的外れの痴態であり、実に滑稽千万である。

> まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。

その上で、この頭破七分の狂人に、大聖人様が”御本尊”という色心不二の御尊体(この愚者に言わせれば「モノ」である)を如何に大事にお考えになられていたか示そう。
―――――――――――
> アタマは大丈夫かね?(^o^)
> 何度も書いた。「戒壇本尊一物信仰」を否定しておる。論旨を捻じ曲げるな、樋田くん。(^o^)

●「戒壇本尊一物信仰」?ここが馬鹿の本領発揮である。
―――――――――――
■問ふ、成仏は法華に限ると云ふ証如何。答ふ、経に云はく「唯一乗の法のみ有って二も無く亦三も無し」文。

@一乗の法である法華経は戒壇の大御本尊へ究竟する。それ以外に成仏の法があると思うこと自体が最早外道である。
―――――――――――
■無量義は一法より無量の義を出生す

A一切の大聖人御真筆の御本尊及び御歴代上人書写の御本尊及び御法主上人御印可の御本尊の、衆生救済の御本尊としての義は全て戒壇の大御本尊より出生し給うのである。(ただし他宗他門に亘る御本尊は血脈相伝がない為に現時点では除かれる。)
―――――――――――
■百千枝葉同じく一根に趣くが如し

Bまた、一切の大聖人御真筆の御本尊及び御歴代上人書写の御本尊及び御法主上人御印可の御本尊の御本尊としての御義は全て戒壇の大御本尊へ帰入する。(同上)

以上、戒壇の大御本尊こそが一切の根源であられる。このことを信じれない者は堕獄が待っているのみ。
やまいぬ。君にはその絶対信がとれないだけである。

■夫法華経の第七神力品に云はく「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。釈に云はく「経中の要説、要は四事に在り」等云云。
 問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

ここに仰せの「実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」とはまさに戒壇の大御本尊の御事である。
駄犬はそれ以外に求めているようであるが、そこが馬鹿者の馬鹿者たるところである。
大聖人様御一生に御顕示された御本尊中、「本門戒壇」との銘があらせられるのは戒壇の大御本尊だけである。
戒壇の大御本尊が坐さなければ「本門戒壇」の義が成就されず、結果三大秘法が成就しないこととなる。
そのような不完全なことを御本仏が為される訳がないのである。
因みに、後方で、痴犬は何やら、「戒壇の義は未来に成就する」ような趣旨のことを書いているようであるが、ここも馬鹿者の標本である。
もし、そうであるならば大聖人様は「三大秘法中の二大秘法のみしか為し得なかった未熟の仏」、とうことになってしまう。
また、広宣流布の暁に建立する本門寺の戒壇堂に安置する御本尊が未定、ということにもなってしまう。
そんな道理は有り得ない。
大聖人御存生のその御時に三大秘法をそのまま一大秘法として戒壇の大御本尊として御顕示なされたのである。

また、御書中に戒壇の大御本尊の御事をそのままお示しでない、との痴難も見受けられるが、これも馬鹿の真骨頂の箇所である。
もし、大聖人御化導の全てが御書にあるのならば、
例えば、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたまでが存して、どなたからがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになられているのか?
等々、全て御書に記されていなければならなくなる。
七百年来やまいぬ。君のような駄犬の愚問など山のように出尽くしている。
御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」文。また云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」如説修行抄筆記・日寛上人

との仰せの如くである。

さて、飯にするか。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。27  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 4日(土)17時36分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さ、帰宅したので、次いくか。

> しかもきみはなんと書いたのだね?
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> 見事な「モノ」信仰である。(^o^) そしてこれらの「モノ」あらば正しいと、蓮祖の文証挙げて
> 証明しなさいと問われて、一体なんだね、この返答は?(^o^)

●ここも悩乱して文脈が理解できなくなった駄犬そのままの醜態である。
当方が書いた趣意は、
「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」
との意味である。
それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は
@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。
Aその延長線上として、現に存在する「物体」としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)
Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。
概ね、以上の妄執に取り付かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

さて、正統、血脈正しい御本尊様に向かって、夕の勤行させていただきましょうか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。28  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)02時09分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下も既に指摘してる通り、やまいぬ。君の、浅薄な邪難の既に二手先、三手先を破折していることが理解できていないので、斯様な陳腐な反駁となっているのである。
自分が上段回し蹴りで既に吹っ飛ばされて意識を失って病院行きになっているのに、自分が一瞬で蹴り倒されていることすら自覚できぬまま、病院のベッドでまだ試合をしているような夢を見てうわ言を言っているだけのことである。
実に謗法の愚者が生意気を言うと惨めなものである。
―――――――――――
> >■御祝として餅・酒・鳥目一貫文送り給び候ひ畢んぬ。是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。
> >大聖人様御自ら”御本尊”へ信行されていたお姿であり、

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> おいおい、かつて「法華講きっての論客」と噂された樋田くんのこの転落ぶり、笑わずに
> おられようか。(^o^)(^o^)
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> と、これらの「モノ」ある故に正しいが如き見事な「モノ」信仰披瀝のあと突然これだ。(^o^)
―――――――――――
●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

再掲

当方が書いた趣意は、

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

さて、正統な血脈正しい日蓮正宗の御本尊様の御前で、丑寅勤行をさせていただく準備に入ろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。29  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)04時27分12秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●丑寅勤行の後、一題ぐらいこなしますか。

> いいかね。蓮祖は「若童」誕生のお祝いにと心づくしの品を送られた。これが
> >大聖人様御自ら”御本尊”へ信行されていたお姿
> そりゃ結構だ。我らとてお供えもする。何故か? それが「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法
> 事の一念三千の南無――曼荼羅」であるからだよ。
> が、それが坊や主張の「真筆本尊」「興師書写本尊」「真筆御書」あらば正しい証明になど
> まったく成っておらん。(^o^) 奇妙奇天烈。(^o^) やり直しだよ、坊や。(^o^)

●これも、これまでと同様の的外れ、自分の邪信に気づかずに、見当違いな痴難をしている箇所なので、捨て置くとして、
▼「それが「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」であるからだよ。」
について、更に二手先くらいの破折をしておこうか。

@大聖人御図顕の御本尊にも、究竟・未究竟の相違があられる。

■弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

一切の大聖人様御図顕の御本尊は、戒壇の大御本尊から開会せられるのである。
つまり、大聖人御図顕の御本尊ならなんでも無闇に尊信できるということではない。
ここの筋目が見えない盲目者がやまいぬ。君ほか、沖浦妄執はじめ多くの創価学会員たちである。

Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)
まことに馬鹿である。だから身延のみやげ掛け軸も”御本尊”様に格上げされてしまうのである。
白帯の未熟者が、目隠しをしたまま、空手の試合に臨むようなものである。まさに、一撃。である。
で、
もう、そうなれば、自分が馬鹿にしきっている富士大石寺の御歴代上人が、書写された御本尊をあえてわざわざ拝む必要などなくなってしまう。
やまいぬ。君は日達上人御書写の御本尊を拝んでいるそうであるが(違っていたら訂正するが)、やまいぬ。君の理屈で行けば、個人折伏の世帯数でその人の偉さが決まるそうであるから、そこいらの学会婦人部より日達上人の方が劣るのだそうである。
その自分が「劣る」と蔑如している人が書いた御本尊より、そこいらの学会婦人部が書いた御本尊の方が尊いはずであり、まさかさすがにそこいらの学会婦人部は書かないから、立正安国会が出している御本尊の写真集などのどれでもいいから一枚を近くのコンビニでコピーでもしてきたものの方がよほど有難い、ということになる。

また、会館などでは間違いなく日寛上人の御本尊を創価学会の誰かが改竄したニセ本尊を拝んでいるはずだが、これなども、やまいぬ。君によれば、そこいらの学会婦人部の方が折伏の成果でもし、日寛上人より多いならば、優れている、偉い、尊い(趣意)となるそうであり、であるならば、わざわざ日寛上人の御本尊を担ぎ出す必要もなかろう。
何故、創価学会が日寛上人の御本尊を持ち出したのか、やまいぬ。君説では説明不能である。(これはたまたま脱落坊主がいたお寺に創価学会員に受けがいい日寛上人の御書写の御本尊が格護されており、それに飛びついた、ただそれだけの理由である。)

更にいえば、結局は誰かが書写など回りくどいことなどせず、ネットから大聖人御真筆の御本尊の写真をプリントアウトでもして、それを拝めば済む話である。わざわざ身延のみやげ掛け軸を買うまでもなかろう。
さらには自分らが否定している大聖人以来の唯授一人・血脈相承の二十六代目の日寛上人が書写された御本尊をわざわざ拝むこともなかろう。
まさに、■「諸宗は本尊にまどへり」の狂乱の態である。
因みに「諸宗」=邪宗のことである。
やまいぬ。君や沖浦耄碌などが吐く邪説は、今や創価学会そのものが、■「諸宗は本尊にまどへり」の「邪宗」それ自体に成り果てている証拠である。

実に大笑いである。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。30  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)20時54分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●飯も喰ったし、一題こなすか。(-。-)y-゜゜゜(←やまいぬ。君流)
>
> >■一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。等々。
> >「一閻浮提第一の御本尊」とは一体何であるのか。「モノ」として現実にこの世に存在しない
> >「御本尊」などあるのか。
―――――――――――
●↑いくら都合が悪い、あるいは耳障りだからといっても、略さずいきましょう。
当方の破折全文
―――――――――――
■一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。

信を失った愚者相手は実に骨が折れるものである。
「一閻浮提第一の御本尊」とは一体何であるのか。「モノ」として現実にこの世に存在しない「御本尊」などあるのか。
まさに痴犬のたわごとである。
―――――――――――
> 阿呆。(^o^) 坊やはなんと書いたのだね?
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> 蓮祖御図顕の南無――曼荼羅とは書いておらぬわ。(^o^)
> そりゃ書けぬ筈だわなぁ? 学会下付の寛師書写本尊もまた「蓮祖御図顕の南無――  曼荼羅」に変わりがないものなぁ?(^o^)
> 宗門と学会の差別化を意図して
>学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
と「これらのモノがあるから正しい」が如き主張するのに、それでは都合は悪いわなぁ?
>
> (^o^) それでトチ狂って、お祝い云々?(^o^)(^o^)
>
> どうするんだね、坊や?(^o^) 最初からやり直しだよ。(^o^)
―――――――――――
●ここも、今までと同様である。やはり、二手先、三手先の破折が見えなかったようである。
何度も言うが、馬鹿にはやはり反復学習が必要である。
やまいぬ。君の妄見の枢要は、要するに大聖人様御図顕の曼荼羅状のものであれば何でも”御本尊”になりうる。という恥論に尽きる。
これは、沖浦醜人も同様である。
まことに、まことに馬鹿丸出しの狂態である。
本尊観については、既に池田大作監修の仏哲に詳しいので少々長い引用であるが、これにどう反論するか面白いので掲載しておこう。
つまりは「末法唯一の本尊は(中略)弘安二年(一二七九年)十月十二日御図顕の三大秘法の大御本尊」と断言している。
因みに、こと信仰の根幹である”本尊観”、あるいは”本尊の定義”がたかだか20数年で変貌するということは、創価学会がまさに■「諸宗は本尊にまどへり」との迷走謗法状態になった証拠である。
何故なら、以下の仏哲に説かれるが如くの”末法唯一の本尊”である戒壇の大御本尊はこの2、30年で全く何の変化もなく、創価学会がかつて信じてたままのお姿を現じておあられる。
つまり、簡単である。創価学会が、池田大作さんの変貌に伴い、その邪法邪師の言に惑わされて、”法”を忘れ、”人”に目をくらまし、根本の戒壇の大御本尊への信を失っただけの話である。
もともと、戒壇の大御本尊を大して信じていなかった者共がこぞって今、創価学会に残っている、とも言えよう。
まことに無慙な醜態である。

では、その検証の為にも、本来普遍的でなければならない「辞典」としての記述を再確認してみよう。
かつての曲がりなりにも正しい日蓮正宗の信仰を(表向きでは)貫いていた正しい”本尊観”が見て取れよう。
また逆に今、やまいぬ。君や沖浦汚臭老人や陰性の如くの邪信に成り下がったざまの、邪教に転落した創価学会員の惨めさを際立たせ、一層哀れさを誘う。
では池田大作監修 仏哲 から。
―――――――――――
本尊

 日蓮正宗の本尊 末法唯一の本尊は、日蓮大聖人の出世の本懐であり、全世界民衆の依処であって、末法万年尽未来際にわたり、いっさいの衆生を救う根源の当体である。
弘安二年(一二七九年)十月十二日御図顕の三大秘法の大御本尊がこれであり、その十号は、本門寿量品の肝心 文底秘沈の大法本地難思境智冥合 久遠元初自受用報身如来の御当体 十界本有常住 事の一念三千 人法一箇独一本門戒壇の大御本尊と申し上げる。
この大御本尊は、第二祖日興上人に付属され、以後、代々の上人(猊下)に嫡嫡付法されて、奉安殿に厳護されている。
昭和四十七年の正本堂建立の暁に、正本堂に安置される大御本尊である。
三大秘法の本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を合すれば一大秘法で、本門の本尊に帰するのである。
本門の本尊を開けば、人と法になる。すなわち人の本尊と法の本尊であるが、これは二つであって二つでなく一つのものである。
ゆえに人法一箇といわれる所以である。

@人の本尊については関目抄に五重相対をとおして述べられている。
文底秘沈抄(富要三巻七六頁)には
■「久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
とあり、久遠元初の自受用報身如来が、末法に日蓮大聖人と再誕されたのである。
本門の本尊でいうならば、中央首題の南無妙法蓮華経の七字の下に書かれている日蓮が人の本尊に当たる。

A法の本尊については観心本尊抄に五重三段を立てて述べられている。
文底秘沈抄(富要三巻七一頁)に
■「事の一念三千・無作本有・南無妙法蓮華経の御本尊是れなり」
とあり、文底の事の一念三千が三大秘法の南無妙法蓮華経である。
本門の本尊でいうならば中央首題の七文字が、法の本尊に当たる。

B人法一箇とは釈迦仏法の人が劣って法が勝れている本尊観に比して天地雲泥の差のある本尊観である。
文底秘沈抄(富要三巻八三頁)に
■「前に明す所の人法の本尊は其の名殊なりと雖も其の体是れ一なり、所謂人即是れ法・自受用身即一念三千なり法即是れ人・一念三千即自受用身なり、是れ則ち正中の正・妙中の妙なり、即ち是れ行人所修の明鏡なり」
とある。すなわち人に即してこれ法のゆえに事の一念三千の大曼荼羅をもって主師親となす。
法に即してこれ人のゆえに久遠元初の自受用身即日蓮大聖人をもって主師親となす。
人法の名は異なれどもその体は一である。
―――――――――――
ほんもんかいだんのごほんぞん
【本門戒壇の御本尊】
ほんもんかいだんのだいごほんぞん
【本門戒壇の大御本尊】

末法の御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、末法尽未来際にいたる一切衆生のために、弘安二年(二一七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大更茶羅のことである。
本門の本尊ともいい、また三大秘法総在の本尊ともいう。
この大御本尊は第二祖日興上人に付属され、現在にいたるまで六有数十年にわたって、代々の御法主上人猊下によって厳護され、法灯連綿として日蓮正宗総本山大石寺に伝承されてきた。
現在、正本堂(※もちろん現在では奉安堂であることは言うまでもない)に安定されている本尊である。
戒壇の大御本尊は、昭和三十年十一月までは御宝蔵に厳護され、昭和四十七年十月七日に、総本山大石寺に完成した正本堂へ、奉安殿から御遷座されて、今日に至っている。
つぎにこの御本尊について述べるにあたり、はじめに本門戒壇について明かし、ついで本門の本尊について述べることとする。

一 本門戒壇について
一般に戒壇とは、戒を授ける壇をいうが、日蓮大聖人の仏法では、本門戒壇とは本門の本尊を安置し信心修行に励む場所をいう。
本門の戒壇には義と事がある。
義の戒壇とは、本門の本尊所住の処は、いずれの地であっても授戒の増場としての内容が整っていて、その義が戒壇にあたるから、義の戒壇という。
事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が安置されるところである。
大聖人の仏法では、戒壇とは、全世界の人々の懺悔滅罪の道場であり、全人類が平和を祈願する根本道場を指しており、大御本尊に唱題し、帰命する所をいう三大秘法抄に、本門の事の戒壇について
■「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」とある。

また南条殿御返事には
■「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」とある。

つぎに本門戒壇建立の地について述べるならば
三大秘法抄の
■「霊山浄土に似たらん景勝の地」とは、日本の富士山をさす。
日蓮大聖人の
身延相承書には
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と明白に遺言されている。
また本門戒壇の大御本尊の授与書には
■「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」とあり、
また日興上人より日日上人への譲り状たる日興跡条々の事には
■「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊日日に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし」とあり、
百六箇抄には
■「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とあり、
また同抄には
■「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」とある。
嫡嫡相承の曼荼羅とは大聖人弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊であり、本門戒壇の大御本尊を正式に御安置すべき本門戒壇は富士大石寺に建立すべきことを決定されているのである。
産湯相承事には
■「叡山の頂に腰をかけて近江湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉ると思うて…日蓮は富士山自然の名号なり、富士は部名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」とある。
しかして、日蓮正宗においては、第二祖日興上人以来、身延相承書の
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の遺訓を堅く守って、広宣流布に邁進してきたのである。
さらに本門戒壇建立の時期について、日蓮大聖人は三大秘法抄並びに身延相承書に
■「時を待つべきのみ」
といわれ、本門戒壇建立を滅後に遺付された。
土木殿御返事には
■「日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か……但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか」といわれ、
諸法実相抄には
■「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」とある。
すなわち、本門戒壇建立の時代的・社会的背景として、日蓮大聖人が指摘している条件は、正しい宗教の基盤が確立し、その広大で豊かな宗教の土壌のうえに、政治、経済、教育、文化等の諸活動が展開される時代のことである。
したがって、本門戒壇の建立というのは、そうした宗教革命、信仰者個々人の生命の変革を根底にした、総体革命の進行をその背景とするのである。

二 本門の本尊について
本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大曼荼羅のことであり、一閻浮提総与の御本尊のことである。
この本尊こそが、日蓮大聖人の出世の本懐であり、全人類を即身成仏させえる大御本尊である。
また本門の本尊に法の本尊と人の本尊がある。
法の本尊とは、事の一念三千・無作本有の南無妙法蓮華経である。
人の本尊とは、久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・日蓮大聖人である。
この人法の本尊はその名が異なるけれども、その体は一であり、人即法、自受用身即一念三千である。
また法即人、一念三千即日受用身である。
これすなわち正中の正、妙中の妙なのであり、本門の本尊こそ行入所修の明鏡である。
観心本尊抄に「観心の本尊」が明かされているが、これは「本門の本尊」と同義である。
「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に建立された本門戒壇の大御本尊である。
日寛上人の観心本尊抄文段上の首文には、本門の本尊について、つぎのように説かれている。
■「夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり、此の本尊に人有り法有り、人は謂く久遠元初の境智冥合、自受用報身、法は謂く久遠名字の本地難思境智の妙法なり、法に即して是れ人、人に即して是れ法、人法名殊なれども其の体恒に一なり、其の体一なりと雖も而も人法宛然なり、応に知るべし当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ、是れ則ち諸仏諸経の能生の根源にして諸仏諸経の帰趣せらるる処なり、故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳・十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざる莫し、譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し、故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり、妙楽の所謂『正境に緑すれば功徳猶多し』とは是れなり、此れ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行入所修の明鏡なり、故に宗祖云く『此の書は日蓮が身に当て一期の大事なり』等云云」と。
このように日蓮大聖人の仏法の根本は弘安二年十月十二日建立の本門戒壇の大御本尊である。
しかして現在まで日蓮正宗総本山大石寺に清純に伝承され、昭和四十七年に完成した正本堂にご安置されている御本尊である。
日蓮大聖人は御一代の間に、いくつかの御本尊をしたためられ、信心に励む在家出家の弟子檀那に授けられている。
その御本尊を一機一縁の御本尊といい、日蓮大聖入滅後、第二祖日興上人は本門寺建立の時には本門戒壇の大御本尊のもとに結集されるべきであると命ぜられている。
―――――――――――
さて、ゆっくり屋上の露天ジャグジーにでも入ってくるか。(-。-)y-゜゜゜
やまいぬ。君、古いネタはもう根本に於いては破折仕切って飽きてきたので、これら最新の破折に対しての苦しい弁明が聞きたいものである。
頑張れよ。
以下、貴公の一手前の古呆けた内容をいくら弄って見てもつまらん。
貴公が再反論不能で沈黙を続けていれば、しかたないから、悉く完全に微塵切りにして差し上げるがね。
しかし、あまりにも低劣すぎて正直当方の勉強にならん。
読者もつまらんであろう。
さ、最新の足掻きを見せてくれたまえ。
生きのいいネタでないと当方も食指がなかなか伸びん。
さ、さ、地域のイベントも終わったことであろうし、頑張って飯の支度しながらキーを叩き給え。
この板へ挑戦したからには当然それだけの労力は覚悟していたはずである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。31  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)23時06分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さあて、ゆったり風呂にも入ったことだし、次。
―――――――――――
> ■先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる
> 人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。
> ■日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく「師子奮迅之力」とは是なり。
> ■又此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。
> ■日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 ■あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。
> ■妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。
>  此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。
>
> >類文繁多であり、あくまで御本尊が根本であり、その御本尊を広めることこそ広宣流布である。
> >当たり前である。
―――――――――――
> その通り、当たり前だよ、坊や。(^o^) しかしこれすべて、坊やが最初に書いた、
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
ある故に正しい文証になどなっておらぬわ。(^o^)
> 戒壇本尊すら御図顕前の文証並べてどーするんだね?(^o^)(^o^)
> 当然ながらきみがズラズラ挙げたこの中に、いあたの1箇所とて「戒壇本尊」の
> 4文字なし。(^o^)(^o^)
> まして「什宝」? 「真筆本尊」? 「興師書写本尊」? 「真筆の御書」?(^o^)
> だーから何度も書いておろう? 「モノ」信仰だと。(^o^)
>
> しっかし小学生以下のくだらんはぐらかしだ。(^^) 坊やはこう書いたのだよ。
>
> >創価学会などに何の什宝がありますかね?
> >大聖人様の御真筆御本尊が格護されてますかね?
> >日興上人の御本尊様は?
> >御真筆の御書は?
> >創価学会になど大聖人様の仏法を示す什宝など何もないではないですか。
>
> これらの「モノ」あらば正しいことを証明せえと問えば、草木成仏だとか「お前らの御本尊も
> モノだろう」とか、長々と論旨を捻じ曲げて得体の知れぬ「反論」のつもり。(^o^)
> 当たり前だ、寛師書写本尊も「物体」だ。しかし「特定の物体あるから正しい」など
> 我らは主張せぬし蓮祖の御聖訓にもそのような主張はない。(^o^)
> しかも先に坊やが挙げた「文証」は、見事にどれも、坊やの主張の「文証」には
> なっておらん。(^o^)(^o^)(^o^)
> 3ヶ月以上の遊戯雑談の結果がこれかね、坊や?(^o^) さっさとしてもらおうか。(^o^)
―――――――――――
●ここも、やまいぬ。君こそが的を外して空回りしているので、再度(再々度)忍耐強く躾けますか。
本当に躾けの成っていない氏育ちの悪い駄犬には苦労させられるわ。

再掲(再々掲)
―――――――――――
●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

再掲

当方が書いた趣意は、

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。
―――――――――――
●もはや再掲文だけで事足りる。
とりあえず、次行きますか。

因みに沖浦痴老人、予想通りの食いつき。
沖浦恥老人の言いがかりは全く根拠のない伝聞であり、質問文形式であろうがなかろうが、いずれにせよ、斯様に執拗に中傷文を投稿゚すればするほど、当方にとって裁判上に有利な証拠が積み重なることとなる。
ここで、再々度の(既に数度以上に及ぶか)警告をする。
根拠もなくしかも事実無根の内容をこのような再三再四の警告を無視して繰り返し投稿を続ければ、やはり法的手段に訴えざるをえない。
相当量の証拠が固まった時点で、当方も法律関係者と相談し、しかるべき処置をとることになろう。
沖浦老耄におかれてはその点十分に心しておくべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。32  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)23時46分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●”死人に口なし”とはよく言ったものである。
亡くなった故人の言動を後の者が自分に都合よく切り貼りして、自己正当化を図る。
やまいぬ。痴犬はその代表格(というのはちょっと褒め過ぎか。(ーー;))であろう。

> >戸田先生云々。
↑この段も一応全文掲載してから先に進みましょうか。

再掲
●因みに創価学会販売のニセ本尊をどんなに広めても「広宣流布」とはならない。
くどいようだが、貴公のレベルに合わせて説けば、折伏経典にあるとおりである。
曰く
☆富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。

☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

☆三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。

☆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。
―――――――――――
> 坊や達が都合のいいときにだけお名前を挙げる戸田先生はな、僧俗和合を目指す上で、
言葉の上でははっきりと「ダブル・スタンダード」とも取れるなさり方をされた。
> 何故か? そうでもせねば坊主どもは学会と和合しようなどとしなかったからだよ。
>
> それが牧口・戸田両先生への登山停止であり、戸田先生は2度も停止されておる。
> 折伏・広宣流布に邁進する学会を、教義上確たる理由もなく登山停止。
> ――ただの権威主義である。
> それに対して戸田先生はなんと仰ったか?
>
> 「一、折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ。」
> 「一、神本仏迹論なんて言う坊主は化物坊主だ。」
> 「一、化物坊主と寸鉄居士の大喝でおこった坊主があるげな。寸鉄居士その坊主を呼んで曰く
> 「第六天坊主」と。」
> 「一、日興上人の御遺戒置文を守って居られる方は御坊様、守らん僧侶は坊主、邪宗の僧は
> 高等乞食というんだ、よくおぼえておけ。」
> 「御僧侶を坊主と言った覚えなく、坊主を僧侶と呼んだおぼえはない」
> 「一、宗会の決議では我等の会長が登山止めだそうな、物騒な世の中になったものだ。
>
> 一、 忠義を尽して謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、おほめはなくて「登山まかりならん」と
> おしかりさ。弟子共一同「俺達も一緒に登らんわい、フン」だってさ。
> 一、 何が「フン」だい。決ってるじゃないか、日本全国の信者の声だってさ、嘘もよい加減にしろ、
> 折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること許(ばか)りを知っとる坊主の学会に対するやきもち
> だからさ。
> 一、寸鉄居士会長に御伺いをたてたら「あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを」とニヤリさ。
> 一、こらこら騒ぐな「ニヤリ」を説明してやるからな、
> 如説修行抄に仰せあり
> 「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定せり。されば此の
> 経を聴聞し始めん日より思い定むべし」。三類の悪人の仕業の中に「遠離塔寺(おんりとうじ)」
> と言って寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。
> さて、我等が会長に折伏の大将として一大名誉を贈ったのさ、「遠離塔寺」と云う仏様からの
> 勲章なんだ。
> 一、 寸鉄居士ニヤリとして曰く、宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ。」
>
> 見事である。(^o^)
>
> ここまでボロクソ云われておるものを、2006年の今ごろになってなお、戸田先生の指導なり
> 「折伏教典」なりにしがみつく法華講よ、惨めだなぁ?(^o^)
―――――――――――
●なるほど。戸田氏の発言の二面性に関しての貴公の立論の根拠そのものは貴公の推論に過ぎぬから、貴公の妄執であると談じられてもそれを覆す文献的証拠を出すことはできまい。が故に、全くそのまま採用するわけにはいかないが、戸田氏がかく発言したことは事実である。
丁度良かった。であるから(←御宗門や御僧侶を闇雲に批判した言動も見受けられる、という事実)戸田氏の臨終の相は貴公ら創価学会が(かつては当方も)信じ込んでいる”伝説”とは随分に違うようである。

以下、その体験記事を掲載する。
―――――――――――
【対談】

けっして触れたくなかった真実

 創価学会はいつから誤っていたのか!?

 創価学会が今日のような大謗法団体となってしまった原因について、これまで様々な分析がなされてきた。その大半は、第三代会長・池田大作の無信心・大慢心に起因する、との見方であるが、はたして、それが全てといえるだろうか。
■「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)
との御金言もあるように、真に清浄なる源から突如として濁流が流れ出す、ということは考え難い。やはり池田の大謗法を生む要因は、それ以前から学会の中に伏在していた、と見るべきであろう。この対談は、今まで触れられなかった、二代会長当時の誤りについて言及したものである。


話し手
    元・創価学会広報部副部長 小川頼宣氏

    元・聖教新聞社職員      原島昭氏
※原島昭氏は、創価学会理事長・公明党初代委員長を歴任した原島宏治氏の長男で、元・学会教学部長だった嵩氏の兄)
―――――――――――
戸田会長の忠誠≠ニ、行き過ぎた宗門批判
強信者≠ニいえど仏法の裁きは厳然
―――――――――――
小川  いろいろお伺いする前に私の想いを申し上げておきたいのですが、私は戸田城聖会長を心から尊敬しています。それは牧口氏や池田大作と違って、戸田会長は、戒壇の大御本尊を唯一絶対と信奉し、代々の御法主上人を大聖人と仰いで忠誠を尽くしたからです。

原島  そうですか。

小川  ところが、どうしても引っ掛かる点があって、いつかはハッキリさせなければいけない、と思ってきました。
 それは、戸田会長の数多くの論述の中で、ただ一つ「創価学会の歴史と確信」と題する論文の中に、日蓮正宗宗門を揶揄し批判した内容があること。
 また、当時の『聖教新聞』の「寸鉄」欄に、宗門御僧侶方に対する酷い悪口が、それこそ口を極めて書いてある。
 たとえば、学会がこれだけ折伏したのに宗門は大事にしてくれない、という感情から書き殴ったと思われるものの中には、「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」から始まって「化物坊主」「第六天坊主」などという書き方がしてあります。
 それから、学会で御書全集の発刊を発願した時に、諸般の事情で宗門を挙げて協力してもらえなかったことについては、
 「御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね」
などと揶揄していますし、昭和二十七年のいわゆる狸祭り事件≠ニ呼ばれる騒動で、いかに謗法行為を憎んだからといっても、すでに反省悔悟している某御僧侶に対し、総本山内で大勢の学会員が暴行に及び、後日、その行為について、宗門から厳しく処分があったところ、「寸鉄」では、
 「忠義を尽くして謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子一同『俺達も一緒に登らんわい、フン』だってさ」
 「宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ」
などと不遜極まりないことを書いています。
 また、その翌年の「寸鉄」では、
 「坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか」
等、さらに口汚ない悪口誹謗がなされています。
 これらは、記名記事ではないものの、学会の中では「戸田会長が執筆した」というのが通説となっていますし、仮にそうでないとしても、こんな内容を機関紙に連日のように載せていた、責任者としての失は免れないと思います。

原島  そうですね。じつは昭和二十五年頃の学会の座談会で、「歌を忘れたカナリア」という童謡を歌っていたことがあるんです。それは、辻武寿理事が幹部会で皆に歌わせ、戸田先生も認めたことから始まったそうですが、歌を忘れたカナリアというのは、折伏を忘れた日蓮正宗の御僧侶と法華講のことを指している、とのことでした。
 いくら学会が大折伏をしている、といっても、これは信心の姿勢から言えば傲り、驕慢ですよね。
 それから、先程の「ゴシュ」と「ゴショ」というのは、戸田先生が好んで用いていた洒落ですね。私の家には、戸田先生から戴いた「御書会も御酒会も同じ法の友 霊山までも飲みに行かなむ」という色紙もあります。このことから見て、先程の「寸鉄」を書いたのは、やはり戸田先生なのでしょうね。

小川  ですから私は、戸田会長の信心は、根本のところでは立派であったと思うんですが、同時に見過ごすことのできない瑕瑾もあった、というのが事実だと思います。
 おそらく、それは、戸田会長が心底から敬愛した牧口常三郎氏の獄死に対する無念の想いと、講義の最中でもウイスキーをガブ呑みしていた程の酷いアルコールの影響が相俟って、時折に宗門誹謗の言動が飛び出してしまったのではないか、と考えます。

原島  なるほど。
―――――――――――
「師匠が地獄の相で死んで」と池田
真の追善供養は正邪を峻別してこそ
―――――――――――
小川  それから、これを述べることは私としても本当に断腸の思いですが、仏法の因果を覆い隠すわけにはいかないので、お話します。
 池田大作が三代会長に就任した翌日、原島嵩氏に
 「君は、私の弟子になるか!弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へついて行くというのが弟子だ!」(『前進』昭和五十二年五月号)
と語った、というのは有名な話ですが、私はこの内容に引っ掛かりました。
 というのは、池田大作が語ったのは、単に「師匠が地獄に堕ちても疑わずについて行く」という、一般論的なものではなく、「師匠が地獄の相で死んでいったとしても」という、極めて具体的な表現です。
 原島嵩氏も、この衝撃的な表現が印象に残ったからこそ、そのように記録したと思うんですが、私は、これは池田の実体験に基づく発言ではないか、と感じたわけです。
 そして、いろいろ調べていったところ、原島さんのお父さんである原島宏治氏(※故人。学会理事長・公明党初代委員長を歴任)が戸田会長の臨終の相を拝見しており、それによると、口が大きく開いてしまっていた、と……。

原島  ……。

小川  このことは関係者も固く口を閉ざしていますし、私も数年前に知って以来、途方に暮れて、口外せずにきました。しかし、大聖人は、
 ■「此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候。悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだん(賛嘆)し、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物の口をあけずしてや(病)まするがごとし」 (御書一四八二)
と仰せられています。いたたまれない思いではありますが、このことをどこかで明らかにしなければ、学会初期からの宗門誹謗が、あたかも正しい信仰として罷り通ってしまい、かえって、いつまでも戸田会長の苦を増長させることになって、真の追善供養にならない、と思うのです。

原島  そのとおりですね。私もそう思います。……父がそのように述べていた、ということは知りませんでしたが、じつは、私も見ているんです。
 戸田先生の葬儀において、斎場でいよいよ最後のお別れということになり、棺の蓋が開けられた時に拝見しました。他にも私の前後に、棺の傍らでお別れの対面をした本部職員が数人いました。
 それは、大聖人様が仰せられているような成仏の相や、私の身内が亡くなった時の色白で半眼半口で柔らかな相とは、全く違う、苦悶の相でした。口が大きく開いて、色も黒くなっており――。
 私は、それで当時の創価学会の在り方に疑問を持ち、もう、心からは従えなくなったんです。

小川  やっぱり、そうでしたか。
 私は、池田が原島嵩氏に話した内容からみて、この戸田会長の臨終を池田がどう捉えたか、というと、池田は、戸田会長の信心の瑕瑾に気付くのではなく、むしろ、「あれほど信心一筋に頑張ってきた師匠でも地獄の相で死んでいった、地獄も仏も無かったのだ」と受け止めたのだろうと思います。
 つまり、この瞬間に、池田大作の中にわずか残っていたかもしれない信心のカケラも、根本的に吹き飛んでしまった。
 だからこそ、池田は、御本尊模刻・血脈否定・戒壇大御本尊蔑視・宗門誹謗等々といった大謗法を、恐れ気もなく犯し、自身の天下盗り≠ニいう野望に突っ走ることができたのに違いありません。

原島  そのとおりだと思いますね。

小川  ■「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)
との御金言もありますが、私はこの際、創価学会の謗法化の原因を全て明らかにして、二度と再び同じことを起こさない、その指標とすることが大切だと思います。
 そのために、明らかにしたくないことも、あえて明らかにせざるをえない、というのは、やむをえないことだと考えます。
 そして、戸田会長の大きな遺徳は遺徳として、その恩を被っている者が、今度は正しい日蓮正宗の信心をもって仏祖三宝に御奉公していく、その功徳が全て戸田会長に巡っていくものと信じます。

原島  そうですね。それが『報恩抄』にも示される報恩と追善供養の在り方だと思います。
 私としても、戸田先生は父母が長年、師と仰いだ方です。これまで一言も他人に洩らさずに来た、戸田先生の臨終について述べるのは、身を切られるように辛いものがありますが、令法久住のために、また戸田先生に対する真の追善供養のためになるなら、きっと先生も喜んで許してくださるものと信じています。

小川  ともあれ、創価学会ができた昭和初期の頃は、まだ本宗信徒の中に正しい信心の在り方というものが徹底しておらず、そのため、時として、宗門軽視や在家中心主義を叫ぶ法華講員も出てきたようです。
 それは今日で見れば異端ですが、そうした中の突出した一人として牧口常三郎氏が現われ、また、その思想的影響を、そのまま全てとはいいませんが、かなり戸田会長も受けていたのだと思います。
 したがって今日の私達は、過去に創価学会で教えていたことなどに一切捉われることなく、あくまでも、日興上人の御遺誡置文や日有上人の化儀抄に示される、本宗の正しい信心の在り方を一から学び、身に付けていくことが大切でしょうね。
―――――――――――
この偽らざる真相について如何思われるだろうか。
創価学会戸田第二代会長においては、宗門外護・発展の為の様々な功績があったことは動かしがたい歴史である。しかしその反面上記の如くの御僧侶軽視の思想や問題発言があったこともまた否めない事実でもある。
・・・ともあれ、その後、御法主上人と多くの御僧侶に追善供養された功徳によって、必ずや救われたと信ずるものである。【対談】
―――――――――――
●ちなみにこの折伏経典の引用は「貴公のレベルに合わせて説けば、」との前置きでのことであり、もし、それを受け入れないとするならば別にそれはそれでかまわないのである。
所詮折伏経典は正統な文証足りえないからである。
では、「創価学会販売のニセ本尊をどんなに広めても「広宣流布」とはならない。」理由を、次回更に深く掘り起こして呵責しよう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。33  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)09時05分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さて、朝飯前に一題行くか。(^^♪

> DATE: 11月 4日(土)03時34分48秒
> TITLE: さあて。(^o^) 01
> NAME: やまいぬ。  MAIL:


> ついでだから教えてあげようか?(^^)
> 戸田先生と堀日亨上人が仲がよかった(というかウマが合った)というのは有名な話だが、
> こういう話もある。
>
>※1 「代々の猊下にも色々な癖があり、癖というものは変わるものではありません。いまの
> 御隠尊猊下・日亨上人は、ガタガタと金づちの音がして、建築さえあそばしていれば、
> ご機嫌がよろしいといわれる凡夫の姿でありますから、一向に差し支えないのであります。」
>
> ※2〜稀代の大碩学・堀日亨上人と戸田先生は、互いに豪放磊落な方だという。
> かつ教学研鑚のために最重要な御書編纂にあたって、学会からの申し出に宗門からただ一人
> その任にあたるなど、学会との僧俗和合を大事にしてくださった堀日亨上人を戸田先生も
> 敬愛しておったことは充分に窺い知れる。
> しかし、こと現実の広宣流布においては、本来率先して如説修行に励み、蓮祖のお心を
> 戴して折伏弘教・広宣流布の先頭に立つべき法主である堀日亨上人が、ではその側面に関して
> どうであったか? 戸田先生はまったく評価していないことが伺える。
> 短い言葉の中に、
> 「供養して伽藍を整備しておればそれで満足か? 広宣流布はどうしたんだ!
> あなたは何故動かない? 何故宗門を動かさない?」
> という折伏の大闘将・戸田先生の心がひしひしと感じられる。〜※2

●長々と書いている割には、内容がない。
@※1の確たる”出典”を明示していただこうか?
A※2のやまいぬ。君個人の”感想”など、教義的な対論の遡上では全く論外の話である。
B仮に※1の内容が戸田氏の事実の言と貴公が証明したとしても、※2の解釈は貴公の歪んだ見方から生じた一方的なものであり、全くの客観性がない。落第、もしくは課題提出やり直し、である。
実に脇の甘いことを平然と書いてこれるものである。
さすが身延のみやげ掛け軸が”御本尊さま”に見えるという僻眼の持ち主の為せる業である。呵々 (-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。34  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)10時12分57秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >身延みやげ掛け軸を謗法を見破れないのは

ここも、略さず行きましょう。多少長くなっても、それが読者にとっても分かり易いのではないか?
それとも読者に分かり易いのは、やまいぬ。君にとっては何か困ることでもあるのか?
―――――――――――
この段の当方の破折文

●「今の創価学会が販売しているニセ本尊はまさにここで痛烈に呵責されている通りの情けない謗法物である。
それは身延のみやげ掛け軸も同様である。
やまいぬ。君、謗法の毒気その心中深く入ったが故に、哀れ哀れ、ニセモノの謗法掛け軸同士を仲良く”本尊”と見違えているのである。
まっ、創価学会販売のニセ本尊をニセと見破れないものが身延みやげ掛け軸を謗法を見破れないのは至極当然の結果というべきであろう。

■臭きを溷厠に忘る。

と大聖人様が呵責された謗法者そのままの迷妄ぶりである。 」
―――――――――――
> はい、「身延の信行」ではなく「身延みやげ掛け軸」こそが謗法であること、蓮祖・興師の文証
> 挙げて証明しなさい。(^o^) きみには出来まいが。(^o^)

●では、いよいよ正統な御文証を以って、やまいぬ。君の”身延のみやげ掛け軸信仰”(もちろん創価学会販売のニセ本尊への信仰も同様であるが)の邪信を斬り倒しますかね。

結論

つまりは、身延のみやげ掛け軸にも創価学会販売のニセ本尊にも正統な草木成仏の”開眼”の義が全くない。
成仏の本義がない「モノ」を本尊と崇めば、それは謗法行為である。またその似非本尊様の「モノ」は謗法物である。
当たり前の道理である。
―――――――――――
文証

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。(四条金吾釈迦仏供養事建治二年七月一五日 五五歳 993

●大聖人様が”開眼の意義”を仰せである。
―――――――――――
■形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

●邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。
”開眼の義”を否定する輩どもも同様である。
―――――――――――
■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

●「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。
―――――――――――
まずはこの位にしておきますか。
これに対してのやまいぬ。君の反駁のレベルを見てから次の段階の呵責に行きましょう。
ただし、釘を刺しておくが、
御文を拝する時の、権実相対の付文の辺と、その御文から大聖人様が仰せ遊ばされようとされる元意の辺の筋目があることをよく領解した上で反論しないと、手酷い反撃に遭うことになるから、十分お気をつけて。

では、頑張って、反論してみたまえ。
―――――――――――
因みに、今思いついたが、「戸田氏はダブルスタンダード(=仲間内と部外者、国内向けと外国向けなどのように、対象によって異なった価値判断の基準を使い分けること。)だった。」というやまいぬ。君説。
ここで、やまいぬ。君ら本尊に迷う創価学会員を呵責する為に引用したのは「折伏経典」の「本尊論」である。
では戸田氏はこと”本尊”に関しても、本音と建前があった、ということだな?
こと、根本として尊仰する対象である”本尊”に、表の意義と裏の意義があった。戸田氏はそう解釈し、またその表の面だけを「折伏経典」に書いた。ということだな?
ではやまいぬ。君に説明願おうか。

@折伏経典にある以下の内容が戸田氏のダブルスタンダードの表の面だとすれば、その裏の意義をここに挙げてみせよ。
Aまたそれはどの文献にいつ掲載されたのか。立証せよ。
この@Aを明確に証明できなければ、「本尊に関して戸田氏に本音と建前があった」などとするのはやまいぬ。君のただの妄断であって、全く採用するに足らない恥論である。
そういう根拠なく痴論を吐く行為は謗法であるから、ここに公式に謝罪し脱会届けを提出したまえ。

☆ 富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。
☆ 信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。
☆ 三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。
☆ 御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

さてさて、謗法者の浅はかな、かつ根深い妄執とは斯くも無慙で無残で無惨なものである。 (心になんら恥を知らず、乱暴な恥論を展開し、しかも手酷く呵責されて惨めな醜態を晒す。等の意)

さ、ぼちぼち、やまいぬ。君、脱会届けと公式謝罪文の準備を始めたら如何か?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。35  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)13時19分7秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 


> >1、戒壇の大御本尊様こそ根源
> >寛師云々。
>

↑ここも、同様である。当方の投稿は貴公のような軽薄な内容ではないのだから、貴公自身が熟読玩味するためにも、全文載せたまえ。
馬鹿は馬鹿なりきに”読書百遍、意自ずから通ず”という謙虚さに徹しなければいかんな。

✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
●またまた恥論大爆発である。
>
> 「モノ」ある故に正しい、というのであれば、あなた方宗門・法華講などは身延にすら
> 勝てませんし、蓮祖所縁であることが正しいなら、あなた方は身延をはじめ、蓮祖所縁の
> 寺々にすら勝てません。なにせ蓮祖ご自身は、大石ヶ原など踏まれてさえいませんからね。
> (^o^) 750年も経って、ロクに広宣流布を進められない宗門がどんな優れた「モノ」を
> 持っていても、すべて「猫に小判」です。
―――――――――――
●しかし、ここまで愚かだと反論するのも馬鹿馬鹿しくなるが、この程度が創価学会の邪義の中堅クラスであろうから、労を惜しまずいきますか。

1、戒壇の大御本尊様こそ根源

日寛上人

■教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり。

■今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。

 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。
(中略)
 四には末法万年の総貫首の所栖なるが故に。謂わく、血脈抄に云わく「日興を付弟と定め畢んぬ、而して予が入滅の導師として寿量品を始め奉るべし、万年已後未来までの総貫首の証拠なり」等云々。
(中略)
 学者応に知るべし、独尊の金言偽り無く、三師の相承虚しからずんば富士山の下に戒壇を建立して本門寺と名づけ、一閻浮提の諸寺・諸山、本山と仰ぐべきなり。天台の所謂「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討ぬ」とは是れなり。

●普通に素直な心で拝すれば分かることであるから詳細な解釈は省略するが、やまいぬ。君ら謗法者は、この「広宣流布の根源」であられる戒壇の大御本尊様を不信し、誹謗し、軽侮し、愚弄するが故に、思い上がって憍慢になり、真の功徳である成仏の境涯など全く得られないのである。
―――――――――――
2、広宣流布の定義

再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。
真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。
戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。
つまり、ここを分かりやすく言えば、戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。
そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。
創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、国が滅ぶ元である。
やまいぬ。君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。
まさに■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」の醜態を地でいく勇ましさである。
であるから実に愚かであるにも拘らず、驕慢であり、生意気なことを平然と言ってのけるのである。
こういう者を無慙の人というのである。
日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて今から心の準備などをして置くべきであろう。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽

> あのねぇ樋田くん? 久遠元初の三宝とは絶対信の対象だよねぇ?
> その絶対信の対象たる蓮祖・興師の文引っ張らないでどうするのだね、坊や?(^o^)
> 何度も書く。文証挙げたいなら蓮祖・興師の御文を挙げんか。(^o^)
>
> 上記した堀日亨上人と同じだ。
> 寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?
> 「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を
> 顕された蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。
> 「戒壇の大御本尊様こそ根源」だと主張したいのだろう?
> ならば蓮祖・興師の言で充分可能だわなぁ? はいどーぞ。(^o^)
―――――――――――
●こうしてみると、やまいぬ。君が如何にまっとうな反論に窮しているか手に取るように分かる。

まず、やまいぬ。君の妄執を要約してみよう。

@やまいぬ。君は日寛上人を「現実に広宣流布を大して進めなかった、蓮祖の思いを実現できなかった人間」として激しく軽侮している。
Aそれは、大石寺の日目上人以下全ての御歴代上人に対しても同様に軽侮している。
B文証としては大聖人、日興上人しか認めない。
C「戒壇の大御本尊こそ根源」との義を認めない。(←大聖人御図顕の曼荼羅の格好をしていれば何でも”御本尊”としていい。との考え)

・・・あれ?、なんだ、纏めてみると、やまいぬ。君の邪執など、所詮これだけの、この程度のものである。
やはり本物の”馬鹿”である。(-。-)y-゜゜゜

やまいぬ。君は@であるからBについて ←既にこの子供じみた矛盾については大いに哂ってあるので、再掲する。
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文証の引き方

このやまいぬ。君という駄犬は、御書と日興上人の御指南しか信用しないという立場で、しかも日寛上人の御指南も当然用いないという大馬鹿さ加減、大炸裂の痴犬であるが、以下の矛盾に気がつかないとすれば、もはや常人の域を逸脱している狂気の世界の住人である。

このやまいぬ。君ら狂気の駄犬の矛盾に満ち満ちた言い分はこうであろう。(学会員の心中を説明するとこうなるか。)

★日寛(上人)が言うことは「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」であるから、全くあてにならないし、信用していないが、日寛(上人)が信じていた戒壇本尊というニセ物を書写した本尊の中で、

1、淨円寺の住職だった大行阿闇梨本證坊日證授与の本尊だけが何故か特に気に入って、
2、きっとこの本尊だけが宇宙本源の法を顕しているような気がするので、
3、それを写真に撮って、
4、画像をパソコンへ取り込んで、
5、でもこの『本證坊日證』という個人宛の授与書きは、全世界の学会員に販売するにはちょっと具合が悪いので、
6、そこの文字はザックリ削り落として、
7、他も全体に古くて痛んでいたから、コントラストや白黒のレベルを調整したり、
8、シミなどの部分は漂白するように白く補正して、
9、字も外人にもうけがいいように見栄え良く伸ばしたり書き加えたりして
10、大いに修正・加筆・補正を加え、
11、安く仕上げる為には、和紙だの表具だの言っていたら儲からんから、
12、一枚多色刷りで掛け軸状にみせかた本尊だから、
13、実にありがたくて、
14、功徳もバンバン出るというし、
15、最初はちょっと気味が悪かったけれども、
16、みんな平気な顔して拝んでるし、
17、きっと『みんなで拝めば怖くない』だから、自分も拝んでいる。

↑この中学生が読んでも容易に理解できる噴飯ものの大矛盾に気がつかないとすれば、まさに頭破七分で正気を失っている姿である。
更に、やまいぬ。君は、身延のみやげ掛け軸でさえ条件付で”御本尊”なり得ると言うのであるから、もはや馬鹿につける薬なし。馬鹿は死ななきゃ治らない、的に重症である。(因みにこの件を知り合いの学会員に詰問したら、はっきり「身延のみやげ掛け軸は謗法だ。」と言下に即答したが?同じ学会員同士でこうも真反対に見解が違う状態が、まさに■「諸宗は本尊にまどへり」であり、もはや創価学会が邪宗と成り果てた証左である。)
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
●次に、Cについても既にお笑い済みである。(-。-)y-゜゜゜
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Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)
まことに馬鹿である。
だから身延のみやげ掛け軸も”御本尊”様に格上げされてしまうのである。
白帯の未熟者が、目隠しをしたまま、空手の試合に臨むようなものである。まさに、一撃。である。
で、
もう、そうなれば、自分が馬鹿にしきっている富士大石寺の御歴代上人が、書写された御本尊をあえてわざわざ拝む必要などなくなってしまう。
やまいぬ。君は日達上人御書写の御本尊を拝んでいるそうであるが(違っていたら訂正するが)、やまいぬ。君の理屈で行けば、個人折伏の世帯数でその人の偉さが決まるそうであるから、そこいらの学会婦人部より日達上人の方が劣るのだそうである。
その自分が「劣る」と蔑如している人が書いた御本尊より、そこいらの学会婦人部が書いた御本尊の方が尊いはずであり、まさかさすがにそこいらの学会婦人部は書かないから、立正安国会が出している御本尊の写真集などのどれでもいいから一枚を近くのコンビニでコピーでもしてきたものの方がよほど有難い、ということになる。

また、会館などでは間違いなく日寛上人の御本尊を創価学会の誰かが改竄したニセ本尊を拝んでいるはずだが、これなども、やまいぬ。君によれば、そこいらの学会婦人部の方が折伏の成果でもし、日寛上人より多いならば、優れている、偉い、尊い(趣意)となるそうであり、であるならば、わざわざ日寛上人の御本尊を担ぎ出す必要もなかろう。
何故、創価学会が日寛上人の御本尊を持ち出したのか、やまいぬ。君説では説明不能である。(これはたまたま脱落坊主がいたお寺に創価学会員に受けがいい日寛上人の御書写の御本尊が格護されており、それに飛びついた、ただそれだけの理由である。)

更にいえば、結局は誰かが書写など回りくどいことなどせず、ネットから大聖人御真筆の御本尊の写真をプリントアウトでもして、それを拝めば済む話である。わざわざ身延のみやげ掛け軸を買うまでもなかろう。
さらには自分らが否定している大聖人以来の唯授一人・血脈相承の二十六代目の日寛上人が書写された御本尊をわざわざ拝むこともなかろう。
まさに、■「諸宗は本尊にまどへり」の狂乱の態である。
因みに「諸宗」=邪宗のことである。
やまいぬ。君や沖浦耄碌などが吐く邪説は、今や創価学会そのものが、■「諸宗は本尊にまどへり」の「邪宗」それ自体に成り果てている証拠である。

実に大笑いである。(-。-)y-゜゜゜
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●更に哂い足りないので追加しよう。

@誰でも作れる”御本尊さま”

→「自分は折伏もしてるし、信心がある」と思える人なら、ネットでも写真集からでも”大聖人の御本尊”の画像を、コンビニエンス・ストアでコピーし、そのままでもよし、掛け軸状にするもよし、適当にぶら下がる格好にし、(いや、別にもはやぶら下げる必要もないか。)自分で拝むもよし、近所へ配って歩くもよし、店で並べて売ってもよし。ということか?やまいぬ。君?(-。-)y-゜゜゜
そもそもその写真集や”大聖人の御本尊”の画像を映し出したパソコンのモニターそのものを拝めばいい訳だから、わざわざコンビニでコピーすることもないか。そうか。そうか。(-。-)y-゜゜゜

その場合、大体年間何所帯くらいが”御本尊さま”製造が許される基準か?
10所帯くらい?まだだめ?因みにやまいぬ。君はニセ本尊を年間、どのくらいばら撒いてるの?
何故、やまいぬ。君は”御本尊さま”を作らないの?
あっ、そうか、別に今あるからその必要がないって、言い訳ね。
沖浦痴犬も同様のこと言ってたな。
所詮同じ謗法の穴のムジナ、ですな。
作る資格はあるけど、遠慮してあえて作らない。とこういうことで良い訳ね?
あるいは、作れる資格はあるけど、作る必要が今は感じられないから作らない。こういうことでもあるわけね?(-。-)y-゜゜゜
実に馬鹿である。馬鹿、としか他に言いようがない。言葉が見つからない。
馬鹿であるやまいぬ。君や沖浦老耄、陰性らは別にこの馬鹿さ加減が理解できなくても結構ですよ。
所詮馬鹿には無理だから。
これを読む他の方が貴公らの言い分が如何に馬鹿げているか気づいてくれればそれで十分だから。
貴公らの役目は自分のその馬鹿さ加減で人の目を覚ます役割であるから、これからも十分馬鹿でいてくれたまえ。
馬鹿が治ったら、役目を果たせなくなってしまうからね。
一切の事物にはそれなりにの役割があるのだからね。
―――――――――――
A重ねコピーした本尊の功徳は?

もともとの写真集やモニター上の画像を拝むのと、それをプリントした画像とどっちが功徳あるの?
どっちも同じ?沖浦老醜はこういうよね。
であるならばわざわざ自分らが軽蔑している”腐れ外道”の大石寺の御歴代上人(←沖浦老耄の言)の書写御本尊を拝む必要は無いんじゃないの?
世の中には大聖人御真筆の画像がたくさん出回っているのだから、それを拝んだ方が筋が通っているでしょ?
自分らが尊敬している大聖人が書いた”御本尊の画像”を拝まないで、自分らが軽蔑しきっている人の書いた”御本尊”を拝む・・・・。
実に矛盾極まりない。
あっ、別にやまいぬ。君や沖浦老人。陰性に理解してもらわなくて結構ですよ。

また、このコピー本尊を繰り返しコピーすると、画像が劣化するが、功徳は変わらないのでしょうか?
それとも、二分の一、三分の一と、次第に薄まっていくのでしょうか。
何回くらいの重ねコピーまで功徳があるのでしょうか?

やまいぬ。君、馬鹿なりきに説明してくれ。

ただし、御書には
■所詮文字と云ふ事は、何なるものと心得此くの如く立てられ候や。文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。
とあり、先の御開眼の御文を併せ拝するとき、大聖人御真筆御本尊を幾ら複製しても、それは御本尊としては不可であることと、唯授一人・血脈相承の御法主上人しか御本尊を書写できないことは明白なのである。

やまいぬ。君ら謗法者どもはこれを完全否定するのであるから、では、大聖人・日興上人の御文証のみで、
@御本尊は誰が書いても、作っても曼荼羅状であれば、いい。問題ない。と。また、
A御本尊の御開眼は不要である。と 証明してみたまえ。
できなければ、やまいぬ。君、沖浦君、陰性、こぞって連帯責任で、公式謝罪し、脱会。よろしいね?

さ、頑張れよ〜。(-。-)y-゜゜゜

次回、やまいぬ。君らの幼稚極まりない”本尊義”を更に思いっきり哂ってあげよう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。36  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)15時20分42秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●やまいぬ。君らの惑える本尊観を更に哂う。

@TVに映る本尊でもいいのか?

御本尊をビデオカメラなどで撮(と)り、画面に映った御本尊を拝んでも功徳はあるのか?
また、その場合、テレビそれ自体が御本尊になってしまうのか。
それとも、画面だけ?
御本尊の映像が通過した各部品はどうなんでしょ?(-。-)y-゜゜゜

Aワープロ本尊じゃダメなのか?

やまいぬ。君らは概ね 「御本尊は、書き示されている内容だけが大事なのであって、特別な血脈だとか、開眼だとかは必要ないし、誰が書いてもよい」というが、それなら、ワープロの文字や、やまいぬ。君らの手書き文字で、自由に本尊を作ってもよいのか?
その場合、大聖人様一期御化導中のどの御本尊を真似ればいいのか?
その理由は?
いけないというのなら、何故?
これらを大聖人様・日興上人のお言葉だけで明快な説明を。さ、頑張れ。やまいぬ。君?(-。-)y-゜゜゜

B大聖人の御遺命はどうするのか?

 大聖人の御遺命として、広布の事相における「事(じ)の戒壇建立」があるが、やまいぬ。君ら創価学会はそれをどのようにして実現するのか。
また、■『三大秘法抄』に「三国並に一閻浮提(いちえんぶだい)の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏(ふみ)給うべき戒壇なり」とあるが、学会の広布実現のときには、世界中の学会員を「事の戒壇」のもとへ連れてくるのか。
では、それはどこのどの場所で、そこの本尊は何?
また、それが正しいと大聖人様・日興上人のお言葉だけで立証してくれたまえ。

さ、さ、さ。以上の立証に成功しなかったら、やはりここはもう、謝罪&脱会コース、ですな。
準備はいいかね?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。37  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)15時58分17秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●稚拙極まりない恥論であるが、目の前にある限り摧破するのみである。
しかし、返す返すも恥ずかしい内容である。
やまいぬ。君って一体どの程度の教育を受けてこられたのか?
どんな家庭環境で育ったのか?
どんな教育環境だったのか?
そもそもの知的水準は如何程なのか?
こんな程度で今一体、どのような生活をされておるのか?
これから先一体、どうなってしまうのか?
職場や周りの方々にどう思われているのか?

余計な心配をしたくなるような、甚だ低水準な投稿内容で、聊か困惑する。
老婆心ながら忠告するが、このままいったらまともな社会生活や家庭生活そして精神生活は不可能だろう。
一刻も早く、身延のみやげ掛け軸も”御本尊さま”に成り得る、だなんて妄執を捨てて、日蓮正宗に帰伏した方が身の為である。

では、本題。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
> DATE: 11月 4日(土)03時39分19秒
> TITLE: さあて。(^o^) 02
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
●おお、ここでは少しは当方の該文に触れているな。感心感心。
だが、内容はあまりにお粗末である。
―――――――――――
> >2、広宣流布の定義
>
> >再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に
> >売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。云々。

↑だから略すな。探すのが面倒ではないか。馬鹿者。云々の続き↓

●真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
―――――――――――
> 泣き言はいいのだよ。(^o^)
> そんな暇あらば、750年の時間の間に、学会も、無論蓮祖在世当時からの邪宗なども
> 足許にも及ばぬほどの拡大をしておればいい。
> 泣き言云う暇あらばとっとと学会を超えなさい。情けなくないのかね、坊や達は?(^o^)

●別に「泣き言」など言っておらぬが?
これは創価学会への”呵責”であって天地が逆さになっても「泣き言」ではない。
これが「泣き言」に聞こえるとはよほど精神に異常をきたしているようである。
妄執深くして、あるべきものをある姿で捉えられない、といういい標本である。
えてして邪宗教に深く染まったものはこのような傾向にある。
そして自ら怒りや怨念を増していくのである。哀れなものである。
日蓮正宗の布教の歴史については既に詳細に呵責済みである。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
再掲
(なお、「日寛上人の御指南は用いない」とのやまいぬ。君の馬鹿さ加減は、再三呵責してきたように、個人折伏の世帯数でその人間の発言の要否を決する、などという馬鹿げた判断基準等については、詳細に哂ってあるので、これに明確に大聖人と日興上人の御指南だけで反論に成功しない限り不採用である。)

一、広宣流布云々について。

1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。

2、そんな中でも日蓮正宗僧俗による数多くの法難史が存在する。
千葉法難・金沢法難・讃岐法難・仙台法難・尾張法難・伊那法難・八戸法難・・・
弘教に励んでこられた証拠である。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
ここで、別箇所から挿入

■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。」

やまいぬ。君の如き、頑迷固陋にして、邪心深き者がまだまだ多きが故に、真の大正法は広まり難いのである。
自分がその邪宗徒に成り下がって三大秘法の流布を妨げている一類であるのに、その三大秘法の本源、戒壇の大御本尊を軽侮、揶揄、不信して「広宣流布は何故進まなかった?」などと訊くとは、実に滑稽極まりない痴態である。思わず大笑いである。
自分が殺人犯であるにも拘らず、警察署に行って、自分が殺めた人のことを取り上げ、「何故あの人の命を助けられなかったんだ!?」と怒鳴っているような狂態である。
またそのみっともなさに気づかないところが頭破七分で無慙極まりない。
貴公のような機根で生まれついたその自らの悪因縁と悪宿業を深く見つめなおすがよい。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽

3、■一、堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。

■信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり

創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)

まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。
―――――――――――
二、戒壇の大御本尊様こそが唯一広宣流布の根源

日寛上人
■問う、文底深秘の大法、その体如何。
  答う、則ちこれ天台未弘の大法・三大秘法の随一 ・本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記二十七三十に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を 以て閻浮提に広宣流布せしめん」等云云。故にこの本尊は広布の根源なり。

■又云わく「何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや」と云々。
 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。

●謗法者やまいぬ。君は■「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討(たず)ぬ」という、仏教を学ぶ者が当然として身につく道理と、報恩の境涯が全く開かれていないのである。
そういう者を”真の愚者”というのである。
幾ら口先で偉そうなことばかり言っていても全く駄目である。

1、日蓮正宗の単なる派生団体、創価学会が誕生するずっと以前から広宣流布の根源であられる御戒壇様を厳然と護持されてきたのはどこでしょう?
2、君などが生まれるずっと以前から御戒壇様を厳然と護持されてきたのは誰でしょう?
 君らには到底望むことも、覗くことも出来ない即身成仏の境涯を得る事のできる、その根本の御法体の御戒壇様が厳然と今奉安堂にましますことが日蓮正宗700年の御法主上人と宗門が正しかった何よりの現証。
■「現証に如かず」である。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」

●戒壇の大御本尊を求めないやまいぬ。痴犬は、かく日寛上人に
浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
●次のやまいぬ。君の恥論が面白いので、今回はここで、早めに終止。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。38  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)18時05分14秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ(※だから途中で切るな。っつうの。全文出されると都合が悪いのか?)一切が収斂されるのである。

> はい、嘘でした。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「大覚世尊仏眼を以て末法を鑑知し、此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に、一大秘法を
> 留め置きたもう。
> 所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏、高さ五百由旬広さ二百五十由旬の
> 大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く、十方分身の諸仏は高さ五百由旬の
> 宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星の如く列坐したまひ、四百万億那由陀の大地に
> 三仏二会に充満したもうの儀式は、華厳寂場の華蔵世界にも勝れ真言両界の千二百余尊にも
> 超えたり。一切世間の眼なり。
> 此の大会に於て六難九易を挙げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諫暁せしむ。」
>
> 邪宗充満の中で困難に耐え、それを超え、現実にこの国で、世界で、広宣流布を進めてきたのは
> 学会である。750年、邪宗に負けて負けて負け続けておる宗門・法華講如きではない。(^o^)
> その現証を以ってその正しさを証明した、「留め置かれた一大秘法」とは何か?
> 戒壇本尊などという一物ではない、「南無――の7字」であり、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」
> である。(^o^)

●思わず大笑いの箇所である。
やまいぬ。君が真剣に御文を引文するとき、必ず笑いが出る。それほど的外れで空滑りで頓珍漢である。
引文した御文が自分の所感の証明に全く為っていない。
それに気がつかないところが如何に法門に暗いかが如実に明らかである。
恐らくは「一大秘法」と文字検索かけてヒットした御文に無理無理に自説を絡めようとするから、このような何の脈絡もないみっともない引文の仕方となるのである。実に浅学丸出しである。

@この御文は大聖人様が末法に御出現あって、一大秘法の大本尊を建立されるという意義である。
それはこの御文のすぐ前段の
■今末法に入って二百二十余年、五濁強盛にして三災頻りに起こり、衆・見の二濁国中に充満し、逆・謗の二輩
四海に散在す。専ら一闡提の輩を仰いで棟梁と恃怙み、謗法の者を尊重して国師と為す。孔丘の孝経之を提げて
父母の頭を打ち、釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す。不孝の国は此の国なり。勝母の閭は他境に求め
じ、故に青天眼を瞋らして此の国を睨み、黄地は憤りを含んで大地を震ふ。去ぬる正嘉元年の大地動、文永元年
の大彗星、此等の災夭は仏滅後二千二百二十余年の間、月氏・漢土・日本の内に未だ出現せざる所の大難なり。
彼の弗舎蜜多羅王の五天の寺塔を焼失し、漢土の会昌天子の九国の僧尼を還俗せしめしに超過すること百千の
倍、大謗法の輩国中に充満し一天に弥るに依って起こる所の夭災なり。大般涅槃経に云はく「末法に入って不孝・
謗法の者は大地微塵の如し」=取意=。法滅尽経に「法滅尽の時は狗犬の僧尼恒河の沙の如し」等云云取意。今親り此の
国を見聞するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救せん。

をそのまま拝すればその容易に知れるところである。

Aであるから、この御文が▼「邪宗充満の中で困難に耐え、それを超え、現実にこの国で、世界で、広宣流布を進めてきたのは学会である。」との驕り高ぶった妄執の正当化を裏付ける御文とは何ら為り得ない。

B一時期、創価学会が戒壇の大御本尊へ参詣し、各末寺の御住職から御本尊を受け流布していた、確かに「広宣流布」を推進していた、と言える時代もあった。
がそれも、一大秘法の根源の御当体であられる戒壇の大御本尊を侮蔑し、不信し、更には三宝をことごとく破戒している今となっては、その功徳も功績も全て灰燼に帰したといえよう。
もし、今の創価学会の行為が正しいのなら、破門以前の行動は全て謗法であった、ということになる。
逆に過去の創価学会の行為が正しいのなら、今の行動は完全な謗法行為である。
どちらを是認しても結局は創価学会の存在そのものの否定という大自己矛盾に逢着するのである。
いづれにせよ、この御文がやまいぬ。君が言わんとする内容を正しいと証明してくれる御文ではない。
こういう引文の仕方を妄引・乱引・盲引、とでも言うのである。実に恥ずかしい浅ましさである。

C▼「750年、邪宗に負けて負けて負け続けておる宗門・法華講如きではない。(^o^)」などは、既に詳細に摧破済み。
馬鹿の精一杯の反論を待つばかりである。

D一度入信し大きな功績を残しその後退転する者など別に珍しいことではない。
かつての五老僧然り、波木井実長然りである。
創価学会が、またそうだっただけである。別にかつて三大秘法を流布し「広宣流布」に貢献したからといって、今それと全く正反対のことをしておれば、結局はただの謗法者・謗法団体・地獄行き、である。

Eであるから、▼「その現証を以ってその正しさを証明した」というのは全く不可である。
もし、この言が正しいとするならば、五老僧も、波木井実長も大聖人様と同時代に▼「邪宗充満の中で困難に耐え、それを超え、現実にこの国で、」法を広めていたのであるから、絶対に正しい、という論法になってしまう。
実に粗雑な論の進め方で、やまいぬ。君が如何に知的水準が低いかを露骨に顕している。

Fさ、妄執のとどめである。
▼「留め置かれた一大秘法」とは何か?> 戒壇本尊などという一物ではない、「南無――の7字」であり、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」> である。(^o^)
思わずこっちが(~o~)こうなってしまうような大笑いの箇所である。

1、まず、この引文した御文がこのやまいぬ。君説の証明に為っていない。
いきなり、やまいぬ。君が何の脈絡もなく自説を吼えただけである。
こういうことを正当な論証とは言わない。やまいぬ。君の精神的未熟さが露呈しただけである。

2、一大秘法≠戒壇の大御本尊、と証明するなんら根拠を提示できていない。

3、一大秘法とはそのまま三大秘法に開かれるのであるから、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目が整足していなければならないはずのところ、「南無――の7字」あるいは、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」では、この三秘に開くことが出来ない。
本門の戒壇とはどこにどうあるべきなのか。全く明確に為っていない。

以下の大聖人様の仰せから、本門戒壇とは明確な場所を指しておられることは明白である。

■但し此の本門の戒を弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なる
べし。抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。

三大秘法抄

■問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

■戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さ
ん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。

■夫一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや。此の法門は理を案じて義をつまびらかにせよ。

■    日蓮一期弘法付嘱書   弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此
の状を守るべきなり。
  弘安五年=壬午=九月 日                       日  蓮 花 押
                              血脈の次第 日蓮日興

■下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。

●かたや天皇家へ御安置される紫宸殿御本尊が現存し、またかたや「本門戒壇」と明確に銘打たれた御本尊が現に坐すということは、まさに三大秘法抄・百六箇抄・日蓮一期弘法付嘱書等に説き置かれた「富士山本門寺の本堂」に御安置される御本尊は大聖人様一期御化導中、戒壇の大御本尊様しか有り得ない。

●一閻浮提総与の御本尊とは戒壇の大御本尊以外なく、もし富士山本門寺の本堂の中心に戒壇の大御本尊以外の御本尊を奉掲するとしたら、例えば、「沙門民部日向に之を授与す」等の授与書きの入った一機一縁の御本尊であり、一切衆生を末法万年救済すべき一閻浮提総与の義に欠けることになってしまう。

●既に言い尽くされているが■「余は二十七年なり=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる」との御意もあられる。

■    上行所伝三大秘法口決
             ┌虚空不動戒
一 本門寿量の大戒────┼無作の円戒と名づく
             └本門寿量の大戒壇と名づく
             ┌虚空不動定
一 本門寿量の本尊────┼本門無作の大定
             └本門無作の事の一念三千
             ┌虚空不動慧
一 本門寿量の妙法蓮華経─┼自受用の本分と名づく
             └無作の円慧

●また、この上行所伝三大秘法口決からすれば、やまいぬ。君の浅薄な見解では、本門寿量の大戒の義が全く見出されず、百歩譲って言っても、二大秘法の不完全な法と為ってしまう。
あっ、やまいぬ。君らには理解できなくてもいいですよ。所詮無理だと思うから。
ここを読む清浄な信心の方がたの参考に為ればそれで十分である。

●以上、あらあらやまいぬ。君の邪妄を粉砕した。
こうして、やまいぬ。君や沖浦君らの浅薄極まりない邪妄と引き並べてみると、如何に創価学会の猛毒が人間の思考を壊し、馬鹿丸出しの愚行や愚言を平気で行える低劣な人格に貶めるかが顕著であろう。

さて、正統な血脈正しい御本尊へ勤行させていただきましょう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。39  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)00時13分22秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●本物の馬鹿にはやはり反復学習が必要である。
―――――――――――
> DATE: 11月 6日(月)22時55分17秒
> TITLE: 樋田坊さぁ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> なんでもエエが、3連休明けの超多忙な筈の月曜日に、午前中から熱心に
> ネットの書き込みかね? 世間を舐めとるね。まぁ見てて御覧、坊やの会社も
> 長くはない。道理を外れて仏法はないよ。
>
> でね、平日から足掛け8時間も書き込んでおるのはいいが、どうでもいいけど
> 坊やは3ヶ月半前の、
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」
> という坊やの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問いにいまだ
> 返答不能なんだわ。
>
> だらだら書き込んで、ヒマな坊やが時間を浪費するのにこっちまで付き合わせる前に、
> 3ヵ月半前の「本論」に入る以前のたった1問、まず返答せんかいな。(^o^)
>
> それとも次々と書き込んで、前のはなかったことにでもするつもりかね?(^o^)
>
> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)
>
> 上記問いへの返答あった場合、こちらからの返答は明日夜。
>
―――――――――――
●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

再編集しつつ再掲

当方が書いた趣意は、

●「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを▼「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。
大石寺に宗祖大聖人以来の数々の”重宝”が厳護されているのは、大石寺が正しい歴史を有している「傍証」である。との意が読めず、ただ闇雲に「文証を挙げろ」と吼え憑いているだけの駄犬の遠吠えである。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。
あくせく働かなくてはやっていけない身の上で、わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、怨念で呪詛する前に、自分の腐り果てた悪因縁を深く見つめなおしたら如何か。
―――――――――――
■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり
仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺
に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                             東京 法道院。

―――――――――――
さ、明日の夜の駄犬の足掻きに足掻いた返答とやらを楽しみに待つか。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。40  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)12時15分0秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、
> >事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。

> その本門・事の戒壇は永く存在もせず、学会の折伏により拡大したことによってやっと達師が
> それと規定した「正本堂」は阿部日顕が破壊した。(^o^) オシマイだな、坊や。(^o^)
―――――――――――
●繰り返すが本当に馬鹿、である。
「正本堂」という建物それ自体が「本門・事の戒壇」ではない。
本門の本尊=戒壇の大御本尊坐すところ、そここそがいついかなる場所でも「事の戒壇」である。
でなければ三大秘法が成立しない。
一口に「事の戒壇」と言っても、三大秘法を開いたところの「(”理”に相対する意味での)”事”の戒壇」と、広宣流布の暁に建立される本門寺の本堂に建立される「”事”相における戒壇」と二意あるのである。

以下日寛上人の仰せは全てこの三大秘法の”本門の戒壇”のとしての「事の戒壇」の意義を仰せ下さっている。
まさに、本門の本尊=戒壇の大御本尊所従の所、いつ如何なる場所でも「事の戒壇」との意である。
物覚えの悪い駄犬には繰り返し念を押しておくが、大聖人一期の御化導中に「本門戒壇」の銘があられる御本尊は弘安二年の戒壇の大御本尊しかおわさないのである。

■「本尊」の二字は正しくこれ本門の本尊なり。所住の処は本門の戒壇なり。

■「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。

■若し一大秘法というは即ちこれ本門の本尊なり。この本尊所住の処を本門の戒壇と名づけ、この本尊を信じて妙法を唱うるを本門の題目と名づく。

■この本門の本尊をまた「三大秘法総在の御本尊」と名づくるなり。

■所修は即ち本門の本尊なり。能修は本門の題目なり。所住は本門の戒壇なり。是くの如き三事総在するは、別して本門の本尊なり。

■「法華」の二字は所信の体、即ちこれ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。「題目」の二字は能唱の行、即ちこれ本門寿量文底下種の題目なり。所住の処は即ちこれ久遠元初の本門の戒壇なり。

■豈本尊と戒壇、人法の本尊は体一互融に非ずや。

■本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり。
―――――――――――
因みに、駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜

更に、その上で以下の日達上人の訓諭の意義は、

■正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。

つまり「正本堂」は将来、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄等に説かれている「広宣流布達成の”事相”における戒壇」の意義を含んだ、現時に於ける「理に対したところの「事の戒壇」」である。との意である。
現にこの昭和47年頃、広宣流布が達成した訳ではないので、ここの「事の戒壇」との意義は「広宣流布達成の”事相”における戒壇」とは成り得ないのである。
であるから、以下にその意義と分かる御指南が続くのである。
(因みに、顕正会の痴犬あたりは、この前半部分だけを教え込まれて、「日達上人が御遺命を曲げた」などとほざいているが、後半を読めば、日達上人の御指南が如何に大聖人様・日興上人の御意の通りであるかが明白である。)

つまり、正本堂は、広宣流布の暁に建立される「事相の戒壇」である本門寺本堂となるであろう殿堂である。(これは、当時の時代的な”勢い”からすれば広宣流布達成もそうは遠くないであろう、との期待感が内外に強かったという背景がある)
しかし、今はまだ広宣流布が達成してはいない、謗法者が多数いる時代であるから、広宣流布の暁における、
■「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇」という、戒壇の大御本尊を公にする奉安形式ではなく、未だ蔵に格護申し上げるという奉安形式を用いる、との意である。

しかし、創価学会の大退転によって、広宣流布はかなり遠のいてしまった。
しかも、正本堂は「創価学会が広宣流布を成し遂げたんだ。」という今となっては全くの虚夢であることへの深い執着・妄執のシンボルとなってしまっている。
かつての五老僧、波木井実長等と同じく、昔は正信に励んだが今は全くの謗法団体となってしまった創価学会を正当化する”物的証拠”が如くの存在になっている現況から鑑み、全国の学会の儚い妄執を根源から打ち砕くには正本堂解体が最善の御判断である。

■一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

この御指南の如くに、大石寺の諸堂に関してはその全ての管理運営は代々の御法主上人の御裁断による。
これに何か問題でも?謗法の極悪人やまいぬ。君?(-。-)y-゜゜゜

このように日々夜々、三宝誹謗の大悪業を積む貴公こそ、”オシマイだな、坊や。(^o^)”である。(-。-)y-゜゜゜
因みに概して実力のない者ほど、強がって、相手を「坊や」などと下し、虚勢を張って見せるものである。
まさに、
■「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」(御書・十法界明因果抄 209n)

※【通解】修羅界の者は、いつもいつも人に勝ちたいという思いが強く、それがかなわなければ、人を馬鹿にし、軽蔑し、自分を驕る高ぶる事、まさにトンビが空高く飛んで地上を見下ろすようである。しかも、いつも表面上は、思いやりとか、義理人情とか、礼儀礼節とか、知恵だとか、信用。信頼、誠実などなどをまことしやかに述べて、そういった世間通例の倫理観程度を人にも説き、自分も行なうふりをし、しかし実際はへつらい曲がった心で、常に他に勝ちたいとの生活をする。)

との御指弾通りの修羅道を行く者である。全然「人間革命」してないようである。
やはり、

■「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。」

『境若し邪なる則は智行も随って邪なり。』
ニセ本尊や血脈の通わなくなった本尊の元で、いくら信行に励んでみても、『智行も随って邪なり。』結局、堕地獄行きの邪行である。といういい見本がやまいぬ。君である。
よくよく反省慙愧すべきである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。41  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)14時31分36秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、 (※略すな。馬鹿者。全文掲載すると当方と駄犬とに余りに論理の構築に落差があり、惨めさが際立ってしまうからか。(-。-)y-゜゜゜)
→事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。

> >> 壊しておいて何を抜かすか。(^o^)

●まさに、馬鹿の駄目押し。馬鹿の祭典。馬鹿花盛り状態である。
事の戒壇義については既に詳細に破折済み。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。42  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)14時57分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の
> >大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を
> >増やしているだけであり、(略すな。馬鹿)→国が滅ぶ元である。

> はい、またここでも「参詣出来る人間と出来ない人間の差別化」である。(^o^)

●本当にこれ程馬鹿だとは思わなかった。こんな馬鹿を相手にしていると思うと、情けない。時間も勿体無い。
が、しかし、この程度の馬鹿の集まりが今創価学会に残留し、ネットで悪言を垂れてる連中だろうから、それらへの破折の為にも辛抱して頑張るか。

▼「参詣出来る人間と出来ない人間の差別化」?
ほんと〜〜〜に馬鹿である。
結局正法を受持しているか否かは、三大秘法随一の戒壇の大御本尊への信仰に尽きるのである。
およそ仏法とは師弟相対してその即身成仏の大功徳を得るのであり、それは大聖人の仏法でも当然の規範である。
であるから「戒壇の大御本尊への信仰」とは師弟相対して始めて成り立つのである。
師に許されない「信仰」など有り得ない。
駄犬などは全く論外であるが、仮に戒壇の大御本尊を慕う者がいても、師がその信行をお認めに為らなければ即身成仏の大果報は成じない。このけじめを端的に顕わすのが、「戒壇の大御本尊への参詣が許されているかいないか」である。
現時では謗法者は戒壇の大御本尊への参詣は許されないのである。
立正佼成会や霊友会の会員が戒壇の大御本尊への参詣が許されるはずもない。
駄犬ら創価学会もこれらの邪宗と全く同様の似非新興仏教邪宗団体に堕落したのである。
それを、
▼「参詣出来る人間と出来ない人間の差別化」?だって?(-。-)y-゜゜゜
実に大馬鹿である。

では駄犬は「南無妙法蓮華経」を唱える謗法者の数も「広宣流布」の頭数のうちに入れるのか?
はい、かいいえでどうぞ。
はい→謗法与同ではないか?
いいえ→同じ南無妙法蓮華経を唱えている同士の”差別化”ではないか?
・・・実に馬鹿である。(-。-)y-゜゜゜

因みに、霊友会の本尊と駄犬らの本尊とどこがどう違うのか、自分らの正当性を▼「蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)」(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。43  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)16時00分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> じゃあ一生参詣できない遠方の法華講と、何度も(無理やりでも)参詣しておる法華講とは
> 当然違うのだよな? 蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)

■参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし。

戒壇の大御本尊こそ人法一箇、大聖人様であらせられる。
その大聖人様御自ら「参詣せよ。待っておるぞ。」と仰せであるにも拘らず、参詣しようとしない者こそ大慢心の大謗法者である。
全く信心を捨てきった堕落したざまである。
その上で、諸般の事情により参詣できない状況の方があるのも当然である。
その方々にこそ、「義の戒壇」の意義が成じるのである。

参詣の姿に大きく分けると以下の4段階があるであろう。

1、参詣を許されない謗法者。
2、何か重大な咎により、一時的に参詣が許されない者。
3、参詣できる立場にあるのに、あまり積極的にしようとしない者。
4、大いに喜びを持って参詣させていただく者。

このうち2〜4の者には参詣しない時でも「義の戒壇」の意義が成じるのである。

■初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ちこれ義理、事の戒壇に当るなり。(中略)故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」(取意)等云云。

また、1の者であるが、現に日蓮正宗があり、戒壇の大御本尊様が現に坐し、入門、もしくは帰伏すれば参詣できるのに、しようとしないのは、根性が毒気深入で大謗法であるからである。
特に創価学会の者どもは「人」に捉われて「法」を見失っているからである。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し

戒壇の大御本尊を求めない国中の大馬鹿者達、なかんずく創価学会員への痛烈なお言葉である。
【浅ましい】=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。

因みに駄犬は▼「蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)」と馬鹿の一つ覚えを繰り返すが、歴代上人の御指南は全て”御文証”である。

■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

【池田大作指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

再掲
更に駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。44  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)23時21分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●まあ、しかし、駄論が延々と続くものである。
謗法者の特徴として、頭破七分になってくると、精神に偏りが生じて、このように偏執的になってくる、というよき見本である。
沖浦醜耄なども同様である。
―――――――――――
> >日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて
> >今から心の準備などをして置くべきであろう。

> きみらこそ今から、「タイガー・バーム・ガーデン」でも観ておきなさい。(^o^)

●いよいよ、教義的内容のない空返しになってきたようである。

■「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。」(開目抄・新編・572n)
 何度言ってもお分かりの悪いおてっぺんにもう一度。
法華経とは末法今時、煎ずるところ御戒壇様である。
戒壇の御本尊様は厳然と奉安堂におわします。
そこに拝みに行かないのは、駄犬ら自らの意思。
当方はさっさと脱会して、以後最低でも毎月1回は必ず御登山させていただいている。
誰が法華経=御戒壇様をすてたんだ?駄犬ら自身だろう。地獄にまっ逆さまに堕ちるのは駄犬やまいぬ。君らである。
―――――――――――
■「法華経を捨てヽ但観(かん)を正(しょう)とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為(しょい)なることを。」(立正観抄・新編・766n)

 大御本尊から離れて、「本門戒壇・板御本尊、なんだ! 寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です! 」と嘯き、「己心にこそ法は有る」だの、「宇宙に遍満する法に冥合する」だの戯けた事をほざいている池田大作は、正にこの通り。それに追随する無知蒙昧な輩も同罪。

■「僅(わず)かに法華経に結縁しぬるをも翻(ひるがえ)し、又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に、師弟倶(とも)に謗法の者となる。」(唱法華題目抄・新編・224n)

 偶々(たまたま)大御本尊様に結縁したのに、もう退転し、今、大御本尊様を拝して修行する日蓮正宗僧俗を怨嫉し、憎悪し、悪口讒謗している池田大作はじめ君らは謗法者だと。
謗法の者は間違いなく地獄に堕ちるのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。45  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)23時53分0秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

また、謗法者はその地獄の苦を甘く考えているようだから、少し御文を拝そうか。

まず八大地獄それぞれの苦を御文に拝そう。

1、一番軽い等活地獄
■此の中の罪人はたがいに害心をいだく。若したまたま相見れば犬と猿とのあえるがごとし。各鉄の爪をもて互ひにつかみさく。血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり。或は獄卒手に鉄杖を取りて頭より足にいたるまで皆打ちくだく。身体くだけて沙のごとし。或は利刀をもて分々に肉をさく。然れども又よみがへりよみがへりするなり。

2、第二に黒繩地獄
■獄卒、罪人をとらえて熱鉄の地にふせて、熱鉄の繩をもて身にすみうて、熱鉄の斧をもて繩に随ってきりさきけづる。又鋸を以てひく。又左右に大なる鉄の山あり。山の上に鉄の幢を立て鉄の繩をはり、罪人に鉄の山ををゝせて繩の上よりわたす。繩より落ちてくだけ、或は鉄のかなえに堕とし入れてにらる。此の苦は上の等活地獄の苦よりも十倍なり。

3、第三に衆合地獄
■多くの鉄の山二つづつ相向かへり。牛頭・馬頭等の獄卒、手に棒を取って罪人を駈って山の間に入らしむ。此の時両の山迫り来たりて合はせ押す。身体くだけて血流れて地にみつ。又種々の苦あり。

4、第四に叫喚地獄
■獄卒悪声出だして弓箭をもて罪人をいる。又鉄の棒を以て頭を打ちて、熱鉄の地をはしらしむ。或は熱鉄のいりだなにうちかへしうちかへし此の罪人をあぶる。或は口を開けてわける銅のゆを入るれば、五臓やけて下より直に出ず。

5、第五に大叫喚地獄
■其の苦の相は上の四つの地獄の諸の苦に十倍して重くこれをうく。

6、第六に焦熱地獄
■此の地獄に種々の苦あり。若し此の地獄の豆計りの火を閻浮提にをけらんに、一時にやけ尽きなん。況んや罪人の身の軟らかなることわたのごとくなるをや。此の地獄の人は前の五つの地獄の火を見る事雪の如し。譬へば人間の火の薪の火よりも鉄銅の火の熱きが如し。

7、第七に大焦熱地獄
■前の六つの地獄の一切の諸苦に十倍して重く受くるなり。其の寿命は半中劫なり。

■当世に上の七大地獄の業を造らざるものをば未だ見ず、又をとにもきかず。而るに我が身よりはじめて一切衆生七大地獄に堕つべしとをもえる者一人もなし。設ひ言には堕つべきよしをさえづれども、心には堕つべしともをもはず。

ここだよ。やまいぬ。君。まさか自分が地獄に堕ちるなどとは夢にも思っていないが、貴公の積んでいる悪業は間違いなく地獄へ堕ちる業因である。

8、第八に大阿鼻地獄とは、又は無間地獄と申すなり。
■地獄の極苦は且く之を略す。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦、一千倍勝れたり。此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事、他化自在天の楽しみの如し。此の地獄の香のくさゝを人かぐならば、四天下・欲界・六天の天人皆しゝなん。されども出山・没山と申す山、此の地獄の臭き気ををさえて、人間へ来たらせざる故に、此の世界の者死せずと見へぬ。若し仏此の地獄の苦を具に説かせ給はゞ、人聴きて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみへたり。

■謗法の者この地獄に堕つべし。

戒壇の大御本尊を否定し=仏宝・法宝を誹謗、御歴代上人を悪罵誹謗し=僧宝を誹謗、まさに三宝を誹謗するが故に、駄犬ら創価学会員は確実にこの第八の無間地獄に堕ちること必定である。

重ねて警告する。よくよく後生を考え、今生を慎みたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。46  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)07時49分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●やまいぬ。君、いよいよ内容が薄くなってきたようですね。
まずは最新のネタから料理しますか。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
> DATE: 11月 7日(火)23時46分1秒
> TITLE: 樋田くんよ。(^o^)(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 昨日は遂に午前中から足掛け14時間かね?(^o^)
> 世間が3連休のあとの超多忙であろう筈の月曜に、坊やはいったいなにを
> しておるのだね?
> そして今日も昼間っからせっせと書き込みかね?

●自分が忙しいからといって人までそうである。と何の根拠もなく盲断する。すでに妄見である。
世の中、全ての人がやまいぬ。君と同様に連休明けだからといって忙しい訳ではないのである。
自分の価値基準や狭い了見や経験則が全て。とでも思い上がっているのだろうか。
実に馬鹿である。
こういう子供でも分かる道理がもはや駄犬には理解できない、盲目になっている。
これ、既に謗法の害毒の現証である。

■「仏法と申すは道理なり。」

道理が分からない、ということは既に正しい仏法を行じていない証拠なのである。
まさに、
■「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。」

『境若し邪なる則は智行も随って邪なり。』
ニセ本尊や血脈の切れた本尊の元でいくら”信行”に励んでも、『智行も随って邪なり。』斯様にやまいぬ。君のように、貪り(名利を求める功名心などが盛んになってくることも含まれる。沖浦君などが好例である。)・瞋(いかり)←やまいぬ。君の”畜生言葉”に如実に顕れていよう・そして愚癡=馬鹿・愚か・道理が分からない。等の三毒が強盛となって結局、堕地獄行きの邪行である。
まっ、身延のみやげ掛け軸も”御本尊さま”に格上げできるほどの盲目者であるから、やまいぬ。君の信仰姿勢全てが邪信・邪行であることは当然である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。47  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)09時55分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ここも、全く御聖意を拝せない盲目者の成れの果てである。

> 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
> とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ」
>
> 蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)
> 「学会活動どころではないな」
> どころか、きみは「仕事どころではなくなっておる」ではないか。(^o^)(^o^)
>
> 「還着於本人」、恐るべき現証だ。(^o^)(^o^)

●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。

では以下の御文との整合性はどうとるのか?
まずは、その言い訳が見ものである。
といっても、もはや反論できるだけの気力も知力も失せたか?(-。-)y-゜゜゜
今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの醜態を晒しているだけである。

■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書

■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論

■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄

■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄

■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
持妙法華問答抄

■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。

■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。

■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。

■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。

■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事

■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを
もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

少し、難しい課題だが、頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。48  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)11時09分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> でだ。
>
> それだけの時間かけて、きみはいまだに3ヵ月半前の「本論」以前の1問に返答できて
> おらんのだ。(^o^)
>
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」
> というきみの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問い、云々。
> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)」

●聞き分けのない小児である。(あっ、それ以前に”畜生界”であったか。(-。-)y-゜゜゜)
以下が、既述の破折文だが、駄犬にはどうも理解できなかったようであるので解説しますか。
実に世話の焼ける知能の低さである。
―――――――――――
再掲

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
―――――――――――
●ここである。

1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。
日興上人は明白に
■本門寺重宝たるべきなり
■万年の重宝たるべきものなり
と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。

重宝=貴重な宝物
貴重=とうとびおもんじること。非常に大切にすること。 得がたいものであるさま。
一方「正」とは「一に止まる」と言う意であるから、これらを併せ考察するに

「重宝」とは極めて得がたい宝物であり、それは他の数多のものにはない、つまり、数多の中からの「一つしかない」という意味において「正」しい宝物であり、尊び、重んじるべきもの。という意義である。
「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。
―――――――――――
そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。
あくせく働かなくてはやっていけない身の上で、わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、怨念で呪詛する前に、自分の腐り果てた悪因縁を深く見つめなおしたら如何か。
―――――――――――
■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり
仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺
に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                             東京 法道院。
―――――――――――
2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、
ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が為されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、”蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)”との文言からすれば
”日興上人仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)”と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

これを明晰に返答してごらん?
もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHPであるが当方は実名である。
今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。
教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。
もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。
もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
心して、責任ある返答をしたまえよ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。49  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)13時16分37秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下、既に摧破し尽くしている。
駄犬の精一杯の足掻いたいい訳文、あるいは馬鹿の一つ覚えの、当方の破折を聞いていない振りで同じことの繰り返し文、が返答されるのを待つばかりである。
ただHPにアップする時の記録の為にここに残して置こう。
>
> >当方が書いた趣意は、
> >●「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。
> >正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて
> >伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
>
> 云い方変えただけではないか。(^o^)
> 解かっておるよ、きみと違って読解力はある。(^o^)(^o^)
> 「特定のモノがある」、坊やの加えた部分で云えば「その信心・環境・資格・条件等」があるから
> 正しい、という主張、蓮祖・興師の文証を以って証明せよと、3ヵ月半前に書いたものを、
> きみはいまだにただの一文も挙げられておらんのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●既に摧破した。
ただ、これほど、道理が見えない野犬なのに”きみと違って読解力はある。(^o^)(^o^)”との言は、少し驕慢に過ぎるのではないかね。
慢心強い者は成仏しない、と「蓮祖・興師の文証」にはあるのだが、如何か?
―――――――――――
> いったいいつまでかかるんだね、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
>
> ダラッダラ時間かけて、ダラッダラと長々書いてご苦労なことよなぁ? それで3ヵ月半前の
> 返答したつもりかね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●ここは単なる悪口にすぎない。教義的な反論にも為っていない。
―――――――――――>
> >その傍証としては

> (^o^)(^o^)(^o^) 「傍証」? なんだって? いまさら「傍証」だ?(^o^)
> きみの考えた「傍証」など誰が書けと云うたのだね?(^o^)(^o^)(^o^)
> あんまり笑わせるなよ、ボクちゃん。(^o^)
> こっちが3ヶ月前にボクちゃんに出せと云ったのは、蓮祖・興師の文証だ。(^o^)
>
●ここは先ほど摧破し尽くした。
―――――――――――>
> >との意味である。

> きみがしがみつく「希望」や「願望」など訊いてはおらんよ。(^o^)

●ここなどはほとんど意味不明状態である。
―――――――――――>
> >当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。

> 文証一つ挙げられずにかね?(^o^)

●ここは大いに注目すべき箇所である。
当方は駄犬の妄執の悉くを既に膨大な文証を引いて破折し尽くしている。
もしや、駄犬は目が不自由なのか?
信仰上の「盲目」だけかと思っていたが・・・
―――――――――――
> >やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折って >あるのである。

> きみの首は公共の面前で、3ヵ月半前から野晒しにされて転がっておるよ、樋田昌志くん。(^o^)

●ここも、何の根拠も出せず、その悔しさにただの強がって悪口に過ぎない。
―――――――――――>
> >■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺
> >重宝たるべきなり、 同上。(※総本山に格護されている。との意)
> >■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)
> >少鋪公日禅は日興第一の弟子なり 仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と
> >蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉りて
>万年の重宝たるべきものなり。        東京 法道院。
>
> >更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
> >また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
>
> だーからきみにはどっかいりょくがないと云うのだよ。(^o^)
> 当たり前だ。なんでわざわざ粗末にする必要があるのだね?(^o^)
> 「大事にせよ」と、「それらがあるから正しい」は、全く別物だわ。(^o^)(^o^)(^o^)
> やぱりにほんごからやり直しかね? 論客と云われた(のかなぁ?)樋田昌志くんよ?(^o^)

●ここもポイント。
繰り返しになって聡明な読者には恐縮だが、この駄犬は「道理」が分からない低脳者に成り果てたようなので、世話が焼けるのです。
日興上人は、お示しになられたそのものが尊く「正しい」から「大事にせよ」と仰せになった、ということは小児でも理解できる理屈である。
もし、そうでないとするならば、日興上人は正しくもないものを大事にせよ、と仰ったことになり、甚だ不自然極まる。

●ここで、こういう道理が既に理解できなくなった者をして大聖人がどのように呵責しておられるか拝そう。

■癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。

この御文はまさに、駄犬のような愚悪な者を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。
「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」
あるいは、
「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」」
このように言う者どもは一闡提人である。→(一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。池田大作監修・仏哲から)
まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。
これ、まさにやまいぬ。駄犬のそのままの姿である。
―――――――――――>
> 苦しいなぁ、樋田くん?(^o^) 法華講やめたら?(^o^)(^o^)(^o^)
> さ、とっとと「什宝あるから正しい」を、蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)

●ここについてもやはり大聖人様は既にかく仰せである。

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。

まさに駄犬はこれである。
既に文証も提示し、道理としても理路整然であり、その道理が見えないのは自分の愚癡によるにも拘らず、
▼蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)
を馬鹿の一つ覚えの如く繰り返す。
馬鹿が馬鹿の一つ覚えしか出来ないのはけだし当然か。(-。-)y-゜゜゜
しかし、これは”邪宗の者”の習性である、と大聖人は御指弾されているのであるから、やまいぬ。君の言動は自らが「邪宗の徒」であるとまさに証明しているようなものである。
謗法者の謗法者たる振る舞いである。
実に分かり易い”サンプル”採取ができた、と言えよう。
―――――――――――
> 当然脱講届はもう出したろうな、樋田昌志くん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●ここは、当方からの詰問に反論不能であるが、その醜態を覆い隠す為に、当方が提示している「謝罪&脱会」という条件をそのまま意趣返しし、以って自分の優位性を強引に演出しようとしているところである。
人の二番煎じしか出来ない、自分では何も独自に生み出せない、創造性に欠けた、惨めな境涯がよく看取できる箇所である。
更に、当方の実名をフルネームで呼称したり、(^o^) を連打するところなど、内心の怒りが仄見えて、微笑ましくもある。
いすれにせよ、やまいぬ。君の境涯の低さが良く顕れた箇所として、秀逸な箇所である。
創価学会員の愚行の標本としては、いい出来、である。
―――――――――――>
> >わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、

> やさしいだろう?(^o^)

●悔し紛れの捨て台詞、といったところか。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> >さ、明日の夜の駄犬の足掻きに足掻いた返答とやらを楽しみに待つか。

> 昨日は足掛け14時間、今日も昼間の、フツーのひとはフツーに仕事をしておる時間から、
> 足掻きに足掻いておる「泥舟・法華講」よ、無慚極まるな?(^o^)
>
> さ、早うしなさい。(^o^)

●ここも、一言。世の中には雇用する側と雇用される側がある。
雇用される側の論理で雇用する側の行動原理は理解できまい。
貴公の想像を超える世界なのだよ。

他は、ただの反論不能の悔しさの余りのやはり悪口に過ぎない。
甚だ無残・無慙・無惨 である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。50 祝 50回記念!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時30分19秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●やまいぬ。君とうとう、錯乱状態のようである。
既に詳細に破折されきっている内容を、聞かない・見ない振りをして、痴言を繰り返している様は、実に滑稽である。
いよいよ創価学会の猛毒が如何に人間の理性・知性を溶解させるか、そのまさによき”標本”である。
―――――――――――
> DATE: 11月 9日(木)01時27分56秒
> TITLE: さあ、皆さん!(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 「いよいよ樋田昌志くんが物に狂う」を御覧ください。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

→自分ではもはや反論不能となり、何とか賛同者を呼びかける様は哀れである。
まるで、既に一撃で倒されて見るも無惨な姿なのに、見ている周りの者に向かって「奴のあの蹴り、カッコ悪かったでよね?ね?そうでしょ?」などと同情やら、憐憫を求めている姿、と言えよう。
ここもやはり創価学会の害毒の醜悪さが良く出ている箇所である。
―――――――――――
> 一昨日の足掛け14時間、昨日の午前中から深夜まで、今日は遂に朝の7時台からこの必死の
> 書き込み。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 次に10時前、11時台、等々。
> 夜間の仕事でもない限り、フツーの人間のバリバリの仕事時間ではないか。(^o^)
> しかも最後は23時台かね?(^o^)
> 止めようのない無慚な修羅で燃え立って、仕事そっちのけで焼かれておる惨状、
> 見るに忍びないね。(^o^)

→既に破折済み。
再掲で事足りる。

●ここも、一言。世の中には雇用する側と雇用される側がある。
雇用される側の論理で雇用する側の行動原理は理解できまい。
貴公の想像を超える世界なのだよ。

更に、こういう教義的な内容と全く関係ないことで懸命に相手を貶めようとするところも、創価学会員の大きな特徴である。
自分が一撃で倒されていることをはぐらかす為に、「あいつ、俺と比べて練習時間がたくさんあるから、卑怯っすよね?ね?」と、上記と同様、周りの同意を求めている空寂しい醜態である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。51  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時54分25秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

そうそう、更に、もう一点。
やまいぬ。君は自分の能力や境涯で他人の状態を邪推する、極めて視野狭窄な痴れ者である。
当方の投稿の時間と回数に随分と御執心のようだが、終日駄犬の粉砕文を書いている訳でもない。
投稿と投稿の合間には信心も仕事もこなしているのである。
ここなども、やはり時間から時間まで拘束されて働かなくてはならない被雇用者の思考習性の悲しい性が露呈したといえよう。
しかも、駄犬程度の破折文をものするに、さほどの時間は必要ない。
実に快調に書き綴っているのである。
自身が辛苦呻吟して、ない邪知を搾り出して、毎回投稿している低境涯と同様に考えていただいては少々迷惑である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。52  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時57分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >まずは最新のネタから料理しますか。

> そうやって3ヵ月半前の長文のこちらの問いから逃亡するのかね?(^o^)
> まぁなかったことにでもしたいのだろう。(^o^)(^o^)

→ここも既にその理由は明示してある。

再掲
●では、生きのいいネタを料理する方が読者も楽しかろうから、最新の駄犬の駄文から処理していこう。(-。-)y-゜゜゜ 』

→過去の古びた駄論を破折する前に、今現在のコール&レスポンスの早いやり取りを閲覧したほうが読者の皆様にとっては興味をそそられ、内容も理解し易いであろう。との意図である。
また、今時の破折の中に、かつての邪論への粉砕理論が当然含まれるが故に、手間が省ける、というメリットもある。
だが、やまいぬ。君、心配しなくてよい。
この貴公の最後の2・3回の投稿を閲するに、もう既に貴公は完全に教義的な反論不能状態であり、最早これ以上、最新のレスを破折する必要はなくなっている。
ただ詰みきっている将棋の盤面を貴公が理解できないだけのことである。
貴公はそうやって諦めきれずにいつまでも、負けている盤面を執拗に眺めては、「ここはこう打てば逃げられるよね?ね?」と足掻いていればよろしい。当方は流石にそんな初心者を相手にいつまでも付き合っていられるほど、暇人ではないし、その行為は無価値である。価値を創造しないのである。創価的ではないのである。(ーー;)
故に、過去の邪論粉砕に着手するので、こちらの方も楽しみに(戦々恐々として)待っていればよろしい。

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。53  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時58分56秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >世の中、全ての人がやまいぬ。君と同様に連休明けだからといって忙しい訳では
> >ないのである。

> 挙げてやった。
>
> 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
> とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」

→ここも一言。久遠の御本仏・日蓮大聖人の御言葉を拝するのに、「挙げてやった」?
もう、この言葉使いに貴公の信心の無さが露呈している。
大聖人様を真に尊い御方である、との心が身に染まっていれば、仮初にも発せられる言ではない。
信の無い者が幾ら「蓮祖の仏法云々」と声高に叫んでみても、全くの徒労である。
不信の者が地獄に行く文証は類文繁多であるので、これを省く。
信のないやまいぬ。君など既に試合開始以前に失格である。
まさに顔を洗って出直してきなさい。との見本である。
ここなども創価学会の信心の無さを証明して余りある箇所である。
とかく謗法者とういうものは書くほどに醜悪な根性の馬脚を現すので、実に面白いものである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。54  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)11時50分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「仕事もまた信心」と捉えて、真剣勝負で全力で闘いなさいとの意だ。
> 朝7時台にはじまって、次に10時前、11時台、等々。
> 夜間の仕事でもない限り、フツーの人間のバリバリの仕事時間だ。(^o^)
> いいかね? 周囲にバレるか否かではないのだよ。少なくとも民間企業のトップがこんな
> おちゃらけた仕事振りで、どうして長く発展などするかね? 坊や自身、よほどの馬鹿で
> なければ、客観的に考えればそれくらいのことは解かるだろう。
> だから云ってやった。「長くはない」と。
> 坊やが挙げた通り、
> >■「仏法と申すは道理なり。」
> >道理が分からない、ということは既に正しい仏法を行じていない証拠なのである。
> の姿そのものだよ。(^o^) 自分の言葉で自己否定してどうするのだね、坊や?(^o^)

●どうも、というか、やはりというか、当方が引文した御文の御意が理解できなかったようである。
当然予測していたが。
ここは、教義的に少々複雑な内容となるので詳細にいきますか。
まず、破折文の再掲。

●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。

では以下の御文との整合性はどうとるのか?
まずは、その言い訳が見ものである。
といっても、もはや反論できるだけの気力も知力も失せたか?(-。-)y-゜゜゜
今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの醜態を晒しているだけである。

■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書

■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論

■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄

■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄

■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
持妙法華問答抄

■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。

■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。

■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。

■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。

■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事

■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを
もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

少し、難しい課題だが、頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜ 』以上。

→やはり、御文だけでは理解できないようである。
以前当方と一戦を交えた創価学会員の中には、御文を挙げればそれで自身がどう破折されるか既に先を読んで、沈黙するか、話題を変えたりした者もおり、それなりに楽しかったものだが、この駄犬はどうもそのような二手・三手先を読む知性は持ち合わせていないようである。
実に世話が焼けるが、ある意味、”一般向けのサンプル”としては有用かも知れない。
ではいきますか。
この
■「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」 とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」
との御文を以って、「ただ仕事を懸命にこなすことをそのまま「法華経」の修行である。」と浅薄に捉えるところに錯誤があるのである。
もしそのように捉えると、上掲の御文の御心と大きな矛盾を生じてしまう。(詳細は略す)

この御書の全文をよくよく拝すれば、それは駄犬らが捉えるような軽薄な意味ではないことが知れるのである。
短い御書なのでまずは全文掲載させていただこう。

    檀越某御返事   弘安元年四月一一日  五七歳
 御文(おんふみ)うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。
 日蓮流罪して先々(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば用ひて候はんには百千万億倍のさいわ(幸)いなり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山(せっせん)童子の跡ををひ、不軽(ふきょう)菩薩の身になり候はん。いたずらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。をいじに(老死)ヽや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はヾや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかひ、今度心み候ばや。事々さてをき候ぬ。各々の御身の事は此より申しはからうべし。さでをはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給ふにては候らめ。あなかしこあなかしこ。
 御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背(いはい)せず」は此なり。かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。恐々謹言。
 四月十一日               日 蓮 花押

まず、大聖人様へある俗弟子の方がお手紙を差し上げた。その御返答が当御書である。
このある檀越の方には何か、のっぴきならない、切羽詰った問題が発生していたことが御文から拝される。
そこで、ここでは大聖人様が御自らの御難について仰せになられ、法華経故の難に遭ってこそ生死の縛を離れられるのであり、このことこそが今生の人界に生を受けた者の本当の意義ある生き方である。と御身に準えて御教示下さるのである。
その御意は上掲の全ての御文と同義であらせられる。
その上で、そのような法華経流布の為に一身を投げ打って難に遭う姿そのものがそのまま四六時中法華経を行じている行体であることを仰せ下さり、ここに末法での法華経の信心の心構えを暗に御教示なされ、その決意を促されておられる、と拝するのである。
そのような決意、心構えを心中深く抱いて、その上で今の自分の仕事に取り組むとき、その仕事に拘束されている時間全部も法華経を修行していることに為るのである、とお示し下さっているのである。
であるから、その全体の流れを見ずにただ「仕事に精を出すのが法華経の修行だ」などと浅はかに怪釈することは全く御聖意に通じてない浅識なのである。

因みに当方が目指す姿勢は、
■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。
であり、この中の「国主等」の御言葉の中に先ほどの「御みやづかい(仕官)」が含まれることは当然である。

さ、やまいぬ。君、駄犬なりに精一杯頭使って、以上の論証に反駁を試みたらいかがか?
もし、それが出来ないならば、自分の浅識謗法によって当方を故無く誹謗中傷したのであるから、当然、公式に謝罪し脱会するのが筋であろう?
さ、頑張りたまえ。
当方は姑息な「期限」など設定しないから、安心して反論文を書きたまえ。
貴公の足掻き振りは貴公の浅はかな心根が手に取るように分かり易く、実にいい標本採取となるので、楽しみなのである。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。55  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月11日(土)22時03分19秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下ざっと通読しても、何ら得るものがない。
道理が分からなくなった駄犬の精一杯の強がりが羅列されているだけである。

■「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与断苦の法を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て苦を捨てんと欲す」

→「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与断苦の法(末法の法華経=究竟するところ戒壇の大御本尊)を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て(=ニセ本尊でも身延のみやげ掛け軸でも何でも”ご本尊さま”に祭り上げられる迷妄)苦を捨てんと欲す」

との状態である。

であるから、ざっと読み進め、目新しい迷妄が見出された箇所がきたら、ポイントを破折することにしよう。
―――――――――――
>
> >今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの
> >醜態を晒しているだけである。

> 大口は、反論出来てからにしなさい、坊や。(^o^)
>
> ダラッダラ知っている御聖訓並べておるが、坊やの3ヵ月半前からの返答不能とは
> 何の関係もない。(^o^) 意味を解かってから並べなさい。(^o^)
>
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」
> というきみの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問い、云々。
> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)」
>
> >以下が、既述の破折文だが、云々。
> >再掲

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^) だーから「什宝だかの特定のモノあらば正しい」の坊やの主張の
> 文証になっていない御書を「再掲」して何の意味があるのだね、坊や?
> いよいよ狂ったかね?(^o^)
>
> >更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
> >また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
> >※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
> >●ここである。
> >1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。
>
>
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 「傍証」に続いて今度は「あるまいか」?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 何度同じことを書かせるのだね? 坊やの希望的観測や願望など、3ヵ月半前から
> 誰も訊いてはおらんのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >日興上人は明白に
> >■本門寺重宝たるべきなり
> >■万年の重宝たるべきものなり
> >と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。
>
> あーあ…。幼稚園児以下のどっかいりょくの樋田昌志くんよ。(^o^)
> 「重宝がある」「大事にせえ」と、「それらがあるからその宗派は正しい」は、まったく
> 問題が違うのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」のだろうよ?
> 3ヵ月半前の坊やのその主張、さっさと蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか、クズ坊。(^o^)
>
> >「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、
> >その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。

> では身延その他、蓮祖真筆本尊を厳護している多宗派の寺は正しいんだな?(^o^)(^o^)
> と書けば、「いや違う」とまたダラダラ言い訳するのも眼に見えておる。(^o^)
>
> 「モノあらば正しい」と主張し、蓮祖・興師の文証何一つ挙げられず、「他宗派にだって
> モノはあるぜ」と問えば、「それは違う」と全く別のことをどうせ並べる。(^o^)
>
>
> 坊やの「モノ信仰」はね、それを書いた3ヶ月半前に、すでに破綻しておるのだよ。(^o^)
> だから書いてやったろう?
> 「本論に入る前のこのやり取りで、すでに“勝負”あった」と。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やのつまらぬ「傍証」も「あるまいか」も基より無用。(^o^)
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」とそのものズバリ仰った、蓮祖・興師の文証
挙げてみんか、坊や。(^o^)
> それとも「久遠元初の三宝」、蓮祖・興師では不足だとでもいうのかね?(^o^)(^o^)
―――――――――――
●この辺で一区切りつけようか。

大聖人は駄犬のような道理が分からない、しかも執拗に無闇に文証を問う謗難者にかくのごとく鮮やかに返されている。

■問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、併ら法華経に依ると云ふ証拠如何。
答ふ、予反詰して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。

駄犬にこの意を領することは難しかろうから簡単に説明すると、

問者が問う。
天台大師の「一念三千・一心三観・己心証得の妙観」は法華経に依拠する、法華経を根拠とする、とは、その証拠や文証とはどこにあるのか?
大聖人が、(その愚問に直接返答されずに)反対に詰問される。
では、訊くが法華経を依拠としない、根拠としない、との文証はあるのか?
(そして道理を御説きに為る。)
この摩訶止観は天台大師の己心の中での観念観法の修行の法門を説くのである。(であるから、法華経の文上に直接の文証はないのは理の当然である。との意味が篭められている)

さて、今回の駄犬の妄難。「重宝(もしくは什宝)があれば正しい。という大聖人・日興上人の文証を挙げよ」であるが、
この邪問について、当方では道理に基づき、詳細に説明した。
だが駄犬は、もはや道理が理解できる知性を失っている状態である。
そこで、当方は駄犬にその邪問自体が稚拙かつ暴難である旨を突く為に、反詰しているのである。
ここで、編集し再掲する。
―――――――――――
※ さて、次に駄犬に課題を出しておくが、
ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が成されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、
"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" との文言からすれば
”日興上人の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

追加

『更に、重宝の中の重宝、秘法中の秘法こそ、まさに戒壇の大御本尊である。
重宝云々と言っても、戒壇の大御本尊の存在に尽きるのである。
その戒壇の大御本尊を伝持されていない創価学会などは、広宣流布の暁に建立せねばならない「本門寺の本堂の事の戒壇」の更に中央須弥壇に一体何を安置できるのか?
駄犬が「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と問うその底意は、「創価学会こそが正しい」と主張したいのであり、そのこと自体は戒壇の大御本尊の一事を以って、既に打ち砕かれている。
正しい・正しくない、でいったら、まさにこの一時に尽きるのであり、戒壇の大御本尊が御相伝される大石寺は最強の現証としてまさに”正しい”のであり、戒壇の大御本尊の相伝のない創価学会などはまさに”正しくない=邪な団体”、ということ明白なのである。

■道理・証文、現証に如かず

である。

更にまた、「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と執拗に偏執的に問う、道理が理解できない愚癡の駄犬に、
反詰して曰く、「では重宝が伝持・相伝されていないことが正しくない、とする文証を挙げてみよ」となり、また更に踏み込んで「創価学会が正しい、という文証を大聖人・日興上人の文証のみで挙げてみよ」
仏法を少しく学んだ者は皆口々に言う「ニセ本尊などを世界中にばら撒いている創価学会に正義など微塵もないのである。
のみならず、個々の衆生を国を世界を破滅させる諸悪の根源中の根源、汚物の中の汚物である。」と。

大聖人の反駁の方程式をそのまま準えさせていただけばかくのごとくとなり、駄犬の妄執・妄難など一撃である。』

これを明晰に返答してごらん?
もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHPであるが当方は実名である。
今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。
教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。
もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。
もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
心して、責任ある返答をしたまえよ。
―――――――――――
●何度もその謗法の害毒で破戒されきった頭に教え込むが、「仏法と申すは道理なり」で、「道理」が分からない者こそ、正しい仏道修行をしていない証左なのである。
やまいぬ。君の野卑で理性を欠いた(欠き切った)言動がそのまま謗法による人格破壊の良き(悪き)現証そのものである。
やまいぬ。君当人には自らの人格破壊の現証は当然意識できるものではないだろうが、この双方の投稿のほぼ全文は末永くHP上で閲覧できるよう保存されるので、世の有識具眼の方々が「正しい」宗教を選択する資料として大いに参考にして頂こうではないか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。56  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月11日(土)22時45分53秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●更にここから以下も同様に全く得るべき価値がない、品性の欠けた、ただの感情的な罵声が続くのみである。
ここも、創価学会の害毒による人格破壊のよきサンプルとなるので、このままHP上に保存しておきましょう。
―――――――――――
> >そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、
> >今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
> >こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、
>
> 阿呆よ。(^o^)
> 「あるかないか」をいつ・誰が問うた?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 3ヵ月半も経って、いまさらなにをトチ狂ったことを書いてはぐらかしておるのだね、坊や?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 「あるから正しい」という坊やの主張、蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか。(^o^)
>
> まったく手の焼けるクズ坊よ。(^o^)
> それでもかつての「論客」かね?(どうやら私の勘違いであったようだ。(^o^) )
>
>
> >しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性が
> >ねじ腐り果てているだけのことである。

> 3ヵ月半も、たった一つの文証も挙げられぬ徒輩の泣き言がこれか。(^o^)
> 根拠なき云いたい放題など無用だと、何度書けば解かるのだね、ボクちゃん?(^o^)
>
> >2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 阿呆よ。坊やはな、3ヵ月半も前の、「本論」に入る以前のいっとう最初の問いに返答不能で
> 逃げて逃げて逃げ廻っておるのだわ。(^o^)
>
> 確か沖浦先輩の問いに返答もせず、その理由として「一つのやり取りが片付くまで
> 他に返答せず」たる旨のこと書いておったな?(^o^)
> そうやって片端から逃げ廻り、この書き込みの冒頭でも
> >まずは最新のネタから料理しますか。
> と格好つけて、3ヵ月半前からの膨大な問いに返答不能であることをはぐらかし、
> 薄っぺらな意地と体面だけは保とうとする。
> それでも自分が返答不能であることは自分で理解しておるようで、修羅に焼かれて
> 朝の7時台からせっせと書き込み。(^o^)
>
> 坊やはね、筋というものが全く通っていないのだよ。
> 新しい質問をして、そのやり取りで自分の体面を保とうとする以前に、実に3ヵ月半も
> 前の問いに返答せんか。(^o^)
>
> 坊やの「新しい問い」などという資格なし。早うせんか。(^o^)
―――――――――――
→ここは既述のごとく、駄犬が大聖人が愚者・愚問に対して「反詰」されてその迷妄を突く、という原理を知らないだけの無知から来る妄言である。
―――――――――――
>
> >また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という
> >道理にならないか?

> まだ云ってるよ。(^o^)(^o^)(^o^) 今度は「ならないか」?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 苦しいなぁ、坊や?(^o^)(^o^)
> 「什宝あるから正しい」との、蓮祖・興師の文証出しなさい。(^o^)(^o^)
>
> >できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
> ひとに対しては、「新しい問い」に返答出来ねば謝罪・脱会で、自分自身は3ヵ月半
> 返答不能でも脱講届も出さぬのか?(^o^)(^o^)(^o^)
> 甘い、甘い。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やはね、ひとに厳しく、自分には大甘なのだよ。(^o^)
>
> >今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。

> 法的に証明して御覧、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・
> >謝罪をすべきであろう。
> >もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。

> 3ヵ月半の反論不能、そのまま坊やにお返しする。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> さぁ、いよいよ樋田昌志くんは狂ってきたね。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> インターネットサイト上で、自分で自分の名前を明かしておきながら、HN使っておる
> 人間に対して3ヵ月半反論不能状態に陥り、その腹いせに相手の身元を詮索・特定
> しようなど、狂乱の極みだわ、樋田昌志くん。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> やれるものならやって御覧?(^o^) 「個人情報保護法」違反で坊やと坊やの会社がどうなるか、
> そこまで覚悟が出来ているならやって御覧? 受けて立ってあげるぜ、坊や。(^o^)
―――――――――――
→ここは、何を錯乱したか、法の筋道に惑乱して取り乱している見苦しい場面である。

もし「名誉毀損」という罪科を構成したのならば、その人物を特定する作業など当たり前であり、しかもそれは当方が為す作業ではなく、関係当局が「捜査」する事案である。
「名誉毀損」という罪状の嫌疑ある人物を特定する「捜査」を、『「個人情報保護法」違反』という法令で拘束できる訳が無かろう。
本当に馬鹿である。低脳である。
法令の優先順位による多重構成の仕組みが全く理解できていないようである。

■人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。

この御文からして、駄犬の駄文を見れば、駄犬の心根や貧福等は実に露骨に露呈している。
こういうところもやはり「道理に暗い」という、創価学会の謗法の害毒の現証の顕れであり、駄犬の本質的欠陥の一部であり、日常の一々にこういった物事の正常な認識から筋がズレた、外れた行動が頻発しているのであろう。
実にはた迷惑な、独善的で物騒な人物として周りでは認知されていることであろう。
それが大謗法の創価学会を信奉するが故に生じた生命の歪み、濁りであると早めに気がつき、改めないと、今に取り返しのつかない不幸な現証の連続の中で生きていかなくてはならなくなるであろう。(というか、現時でこれほどひずんでいるのであるから、主に人間関係に於いて、本人の知らないところで相当に冷淡な評価が為されていることであろう。
が故に、あくせく働けど働けど、大きな成果に繋がらないのではあるまいか。
法華経誹謗の罰の中に、「他人に酷使され、貧相で貧乏である」(趣意)との現証が説かれているが、駄犬などまさにこの様を今現じているのであろうか。
実に見苦しい醜態である。
駄犬のいう「創価学会の広宣流布」どころの話ではない。
よくよく慎むべきであり、戒めるべきである)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。57  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月12日(日)10時45分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用