次も臭犬がまた墓穴を掘った箇所なので、少々面白いかも知れない。
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●> >”そのものズバリと書いている文証”しか受け入れないとする
>
▼> 幼稚。(^o^) 「文証」とは何かね?
>
> 「文証とは、文献上の証拠をいい、その教えが仏の教説である経典を根拠として
> いるかどうかで正邪を判定することです。『涅槃経』には、「若し仏の所説に
> 随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあり、大聖人は、「経文に明らかならんを
> 用いよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄 新編389)と文証の重要性を
> 説かれ、文証のないものを用いてはならないと示されています。」
> (日蓮正宗入門)
>
> おいおい、おたくら宗門でさえこのように云うておるが?(^o^)
> 「文証とは、文献上の証拠」、つまり問われたことの「返答」が内容として書かれても
> いないものなど「証拠」足り得ないのだよ。(^o^)
> 「証拠」でもない頓珍漢な当てずっぽうを引っ張って、何が文証だね?(^o^)
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→では、この「日蓮正宗入門」の当該箇所を引用してみよう。

「日蓮大聖人の仏法を理解するために

三 証

三証とは、日蓮大聖人が宗教の正邪を見極めるために用いられた判定基準のことで、文証(証文)・理証(道理)・現証(実証)の三つをいいます。

■1「文証とは、文献上の証拠をいい、その教えが仏の教説である経典を根拠としているかどうかで正邪を判定することです。『涅槃経』には、
 「若し仏の所説に随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあり、大聖人は、
 「経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄 新編389)
  と文証の重要性を説かれ、文証のないものを用いてはならないと示されています。」

■2「@「理証とは、その宗教の教えや主張が道理に適っているかどうかを基準として正邪を判定することです。その宗教が自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻をきたします。」それとは逆に、正しい道理に基づく宗教は、いかなる力をもってしても崩すことはできないのであり、これについて大聖人は、
 ■「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事 新編1179)
と仰せです。A「正しい宗教は普遍妥当性を有するものでなければならず」、この一大道理に貫かれた教えこそ法華経であり、その根本の法が大聖人の仏法なのです。」

現証とは現実の証拠をいい、その宗教を信仰して現れる実証をもって正邪を判定することです。こ
の現証について大聖人は、
 「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」
と仰せられ、三証の中でも特に現証の大切さを説かれています。
正しい宗教には、因果の道理によって正しい現証があるのであり、邪な教えを信ずれば悪果を招くことになります。特に新興宗教などは現世利益を誇大に宣伝していますが、これらを理証も文証もない、その教祖の思いつきなどによるものであり、このような邪教を信ずれば、ついにはその身を滅ぼすことになります。これについて大聖人は、

 「法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(諫暁八幡抄 新編1531)

と仰せられ、邪宗教の現罰の相を教えられています。
これに対し、■3「大聖人の仏法でいう現証とは、正しい道理(理証)と経文(文証)に裏打ちされたもの」で、現実の身に成仏という最高の境界を得るという即身成仏に極まります。

■4「このように、文証・理証・現証の三証がともに整足していることが正しい宗教の証明となるのです。」」以上。
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@ この箇所は、読んでの通り、文証・理証・現証 の三証 について述べたところである。
A 臭犬はこの中の「文証」の項の説明のみを挙げている。
B しかし、■2には、理証の重要性を説いてある。
その中でも当方が常々主張してきた内容と全く同義が端的に示されている箇所。

@「理証とは、その宗教の教えや主張が道理に適っているかどうかを基準として正邪を判定することです。その宗教が自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻をきたします。」

■「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事 新編1179)

A「正しい宗教は普遍妥当性を有するものでなければならず」

C そしてこの宗教の正邪を判定する基準の「三証」の結論として、

■3「大聖人の仏法でいう現証とは、正しい道理(理証)と経文(文証)に裏打ちされたもの」
■4「このように、文証・理証・現証の三証がともに整足していることが正しい宗教の証明となるのです。」

と示され、まさに当方が常々懇切丁寧に臭犬に教訓してきた内容と全く同一である。

特に、
■「自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻をきたします。」
との指摘は、まさに臭犬の見苦しい醜態を的確に指し示しており、実に鮮やかである。

臭犬が慌て狼狽し、悪あがきをすればするほど、このように「切り文」の典型例を重ねて露呈することになり、見苦しい限りである。
その分、また創価学会を厭離し、忌避する良識ある方々が増えていくであろうから、総括的に考えれば喜ばしいことではあるが。
それにしても、やはり、見苦しい醜態である。

文証云々については↓に詳細に破折済み。

http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm