> 「日興上人を随一とする御歴代上人」が「この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に
> 宛てて唯授一人・血脈相承されている」などとどこにも書かれていない御聖訓
> 引っ張ってきて、それのどこが「文証」なのだね?(^o^)
>
> でだ、自分の主張など、引っ張り出した御聖訓にまったく書かれていないと
> 指摘してやると、「そのものズバリが云々」とまた泣き言だ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> あんまり嘲わせるな、就業時間にネット書き込みに没頭する50前のジャンキー坊や。
>
―――――――――――
→本当に 馬鹿で聞き分けのない犬を相手にすると骨が折れる。呵々
■日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
この御文から拝せられる事。
@ 大聖人が日興上人の「御身」へ戒壇の大御本尊を相伝された。
A 日興上人がそのまま戒壇の大御本尊を日目上人の「御身」へ相伝された。
B その戒壇の大御本尊は広宣流布の暁にには本門寺本堂(事相に於ける”事の戒壇”)へ御安置することを将来に厳命され託された。
C 戒壇の大御本尊は 日蓮大聖人→日興上人→日目上人の御身 へと相伝された基本が明確。
D この基本形は 御先師→御当代→次期御法主 という方程式である。
E 御先師が為された事をそのまま受け継ぎ後代へ伝持されるのが大聖人の仏法の本義である。
F であるから、次は 日興上人→日目上人→次の御法主 となり、その原型は永久に堅持されていくのである。
参考文証
■ 有師化儀抄註解 1-124
仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず(中略)師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、(中略)弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌(中略)師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、
以上の考察から、
●「日興上人を随一とする御歴代上人」が「この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されている」
との論は正当である。
もし、これが違うというのなら、何度も繰り返し言うが、臭犬こそ「蓮祖・興師の文証」を挙げて、これに反駁してみよ。
出来もしないで、ただ、いちゃもん・難癖をつけているだけだから 馬鹿 と呼ばれるのである。呵々大笑
文証云々については↓に完摧ずみである。
http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm