やまいぬ。君の駄問を完摧す。203 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:2007年 5月 9日(水)17時52分55秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp
返信・引用
さて、駄論の続きにおつきあいしますか。
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▼> しかもここで、「法華経の行者」の在り様を描かれておる。
> 曰く、
> 「候法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ
> 申し尽くし難く候」
> つまり法華経に書かれている通りの「留難に値う」と仰せだわ。(^o^)
> さぁて、阿部日顕が、「ブクロの寛ちゃん」が、いったいどんな「留難に値う」たのかなぁ?
> どんな「三類の強敵」に遭うたのかなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
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→しかし、ここまで頭の中がぐしゃぐしゃに崩れていると、さぞや職場での勤務評定も悪かろうな。呵々
前段の続きの御文
■恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。是偏に法華経を信ずる事の、余人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、悪鬼其の身に入ってそねみをなすかとをぼえ候へば、是程の卑賤無智無戒の者の、二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、留難に値ふべしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ、申し尽くし難く候。
(駄犬、何を慌てたのか、「”候”法華経・・・」などと前文の結文から引文するとは。
このような杜撰な引文をしている無能者が大聖人の御文を正確に読める訳が無い。呵々大笑)
1、これまさに末法の御本仏日蓮大聖人御自らの事が、法華経への深い信仰の故に、多くの悪鬼入其身の謗法者からの迫害に遭い、留難に値う、と二千余年已前に既に明確に法華経に説かれてあることの有り難さを御述べになられたところである。
前段と今段での流れは、終始一貫大聖人様御自らの事についての御記述である。
この短い御文の一体どこに、
「後の大聖人門下の僧侶が大聖人と全く同じ留難に遭わなければならない」
と説かれているのか、明示してみよ。
2、当方は大聖人に続く修行者が難に遭うことを否定しているわけではない。
が、法難に遭う遭わないは、時・周辺の衆生の機根・当人の宿業等々によりまちまちであり、法難に遭う遭わないを以って正邪・善悪・信心の厚薄を論ずる基準の全てとはならない。ということである。
同抄
■是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有りがたくこそ候らめ。
との御文の如く、大聖人と全く同様の法難に遭うことは「有難い=非情に稀」である。と仰せなのである。
この御文からしても、末代の僧侶が大聖人と全く同じ法難に遭わなければならない。などということが暴論であること明白である。
3、その現証として日興上人御自らにしても、大聖人と全く同じ法難に遭われた訳ではない。
法難に遭われた大聖人へ”常髄給仕”されたのであって、鎌倉幕府からの法難を受けられた”主体者”ではない。
4、更に創価学会が販売しているニセ本尊の元になる御本尊は日寛上人のお手になる御本尊である。しかし、日寛上人は大聖人と全く同じ法難には遭われていない。
駄犬の言い分だと、日寛上人へ向かって、
> さぁて、【二十六世の日寛さん】が、いったいどんな「留難に値う」たのかなぁ?
> どんな「三類の強敵」に遭うたのかなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
と、嘲弄していることになる。
実に馬鹿である。
駄犬がどれほど日寛上人を愚弄し、嘲弄するのも駄犬の悪業を積むだけだから止めはしないが、笑えるのは、その自分が馬鹿に仕切っている日寛上人が書写された「御本尊」に日夜手を合わせている無様な格好である。呵々大笑
今までも何度も駄犬の馬鹿さ加減を哂ってきたところである。
(註 むろん、日寛上人の書写された御本尊を基にしたニセ掛け軸であるが。
更に馬鹿な頭に繰り返し教え諭してやるが、駄犬の家にあるニセ本尊は大聖人が御図顕された曼荼羅そのものではない。
当たり前である。
大聖人が御図顕された戒壇の大御本尊の御内証を日寛上人が書写された御本尊を元にして作ったニセモノである。
書写された日寛上人御本人がそのような意義を仰せであるのだから、駄犬の聞き分けの無い頑迷な妄執など一蹴されている。
また、その証拠に、大聖人”御図顕”の御本尊と御相貌が違うではないか。)
(因みに、駄犬が日寛上人の御指南を”内部規定で内部規定を斬る”だけに用いる、というような恥言を吐いているが、これも上記と同様の馬鹿全開の恥論である。当該箇所にきたら思いっきり哂って切り刻んであげましょう。呵々大笑)
5、その上で、駄犬が如何に大聖人の御心に背いているか更にえぐってあげましょう。
同抄
■仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。
大聖人は仏法修行者の基本的姿勢として、報恩の誠を尽くすように教戒されている。
その内の第四において三宝の恩をお示しである。
その中の仏宝・法宝については今は本題ではないので暫く置く。
ここに今回の本題の僧宝の恩について御説きである。
■次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。
駄犬の無信心を呵責する御文の意義
@衆生を成仏させる仏宝も法宝も僧がなくては存在しない。
→僧を否定したら、仏宝も法宝も存在しなくなる。
→駄犬のしていることは仏法ではない。
A「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」
この経文は
▼『>
さぁて、阿部日顕が、「ブクロの寛ちゃん」が、いったいどんな「留難に値う」たのかなぁ?
> どんな「三類の強敵」に遭うたのかなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)』
などと、下品で野卑な堕言を吐きつける駄犬の所業を弾呵している御文まさにそのものである。
B駄犬のような極悪因縁の者が末代にはウジャウジャ生まれてくるから■「然れば僧の恩を報じ難し。」なのである。
C日寛上人の御本尊を持ち出してその御本尊を元に掛け軸を作って「本尊」とみなして拝んでいるのに、その日寛上人に向かって、
▼寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?
「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を顕された蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。
などと嘯く駄犬は、まさに、■「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」と指摘される如く、成仏など思いの他である。(つまり堕地獄必定)
C更に今駄犬が日夜拝するその曼荼羅本尊・題目・数珠等々の所作などは元はといえば一体誰がそれを伝持してきたのか?
駄犬は大聖人から直接聴いたのか?
大聖人が御本仏であり、末法の教主である、と誰から教わったのだ?
身延の僧侶からか?立正佼成会の会員からか?呵々大笑
それら全て■「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」との御文の如くに、日興上人門流が正しく伝えてきたのであって、創価学会はその門流へ「入信」し、仏宝・法宝の御威徳に浴する事ができたのである。(今は勿論全くの似非日蓮仏法であるが)
大聖人の仰せでは、その大聖人の仏宝法宝を伝持されたきた僧宝への報恩が無いものは、つまりは大聖人の仏教徒ではない、と仰せである。
ここからしても、駄犬は大聖人の仏法から大きく逸脱した外道の謗法者であることは明白である。