■「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」
との御文を以って、「ただ仕事を懸命にこなすことをそのまま「法華経」の修行である。」と浅薄に捉えるところに錯誤があるのである。
もしそのように捉えると、以下の『参照』の御文の御心と大きな矛盾を生じてしまう。
この御書の全文をよくよく拝すれば、それは駄犬らが捉えるような軽薄な意味ではないことが知れるのである。
短い御書なのでまずは全文掲載させていただこう。
檀越某御返事 弘安元年四月一一日 五七歳
御文(おんふみ)うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。
日蓮流罪して先々(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば用ひて候はんには百千万億倍のさいわ(幸)いなり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山(せっせん)童子の跡ををひ、不軽(ふきょう)菩薩の身になり候はん。いたずらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。をいじに(老死)ヽや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はヾや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかひ、今度心み候ばや。事々さてをき候ぬ。各々の御身の事は此より申しはからうべし。さでをはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給ふにては候らめ。あなかしこあなかしこ。
御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背(いはい)せず」は此なり。かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。恐々謹言。
四月十一日 日 蓮 花押
まず、大聖人様へある俗弟子の方がお手紙を差し上げた。その御返答が当御書である。
このある檀越の方には何か、のっぴきならない、切羽詰った問題が発生していたことが御文から拝される。
そこで、ここでは大聖人様が御自らの御難について仰せになられ、法華経故の難に遭ってこそ生死の縛を離れられるのであり、このことこそが今生の人界に生を受けた者の本当の意義ある生き方である。と御身に準えて御教示下さるのである。
その御意は上掲の全ての御文と同義であらせられる。
その上で、そのような法華経流布の為に一身を投げ打って難に遭う姿そのものがそのまま四六時中法華経を行じている行体であることを仰せ下さり、ここに末法での法華経の信心の心構えを暗に御教示なされ、その決意を促されておられる、と拝するのである。
そのような決意、心構えを心中深く抱いて、その上で今の自分の仕事に取り組むとき、その仕事に拘束されている時間全部も法華経を修行していることに為るのである、とお示し下さっているのである。
であるから、その全体の流れを見ずにただ「仕事に精を出すのが法華経の修行だ」などと浅はかに怪釈することは全く御聖意に通じてない浅識なのである。
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『参照』
●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。
■「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」
との御文を以って、「ただ仕事を懸命にこなすことをそのまま「法華経」の修行である。」と浅薄に捉えると、では以下の御文との整合性はどうとるのか?
■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書
■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論
■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄
■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄
■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
持妙法華問答抄
■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。?利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。
■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。
■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。
■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。
■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事
■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。
■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを
もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。