やまいぬ。君の駄問を完摧す。70 祝 70回! 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:11月24日(金)19時10分33秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp
引用
通読してもいつまでも同様の妄執による駄言の繰り返しだからつまらんが、この辺↓は、また駄犬の別角度での馬鹿さ加減が露出しているので、少々面白いところでもあるから、”飯前に”一刺ししますか。
―――――――――――
●> >B計我(けいが)(自分勝手な考えで仏法を推(お)し量(はか)ること)
> >C浅識(せんしき)(自らの浅はかな知識で、深く広い仏法を判断しようとすること)
―――――――――――
> 「本門戒壇の大御本尊は法体の根幹にましますのであり、その御内証と御法主上人の
> 御内証が而二不二であるところに、人法一箇の御本尊の法体が存する」
> 「御法主上人の御内証の法体相承を否定することは、唯授一人血脈相承の人即法・法即人・
> 人法一箇の『一大事の秘法』たる法体を無視するもの」
> (日蓮正宗青年僧侶邪義破折班)
>
▼> どうやら当代法主なくんば人法一箇の御本尊は成立しないらしい。(^o^)(^o^)
> しかしすべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)
>
> 云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
> 「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
> 大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
> (寛師・「文底秘沈抄」)
> と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
→さあ、身延のみやげ掛け軸が”御本尊さま”に昇格してしまう、同じ創価学会員からも猛反発をかっている駄犬の愚論炸裂の態である。
まず総論
人即法・法即人の御法体 とは、仏宝と法宝のことである。
■次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。
との仰せの如く、仏宝・法宝は僧宝が護持・伝持なされなければ、存在し得ない。
以下、かつて京都の痴犬を呵責した破折文を編集を加え再掲する。
―――――――――――
2、仏宝・法宝は「僧」によって、永遠に存在できる。⇒「僧」がいなければ、存在し得ない。
3、その道理は、譬えで更に明確である。
@火=仏宝・法宝 は 薪=僧宝 があるからはじめて存在し得るのである。
火は何も無いところで、空中でいきなり燃えることはない。
言い換えれば、薪=僧宝 がおわさなければ、火=仏宝・法宝は存在し得ないのである。
であるから、例えば、「歴代の何々上人は僧宝ではない。」などという馬鹿者は、「仏宝・法宝も消えた。」と言っているに等しい愚かさなのである。
ここの意を「三宝一体」と言うのである。
だから、如何なる理由があれ「僧宝」であられる歴代上人を謗ることは「仏法の大灯明を滅する行為」であり、まさに「謗法」なのである。
A次の譬えでも更に更に明確である。
大地=僧宝 がなければ 草木=仏宝・法宝 も存在し得ない。まさに道理である。
■仏法と申すは道理なり
道理が分からない者を 癡(おろか)というのである。
ニセ本尊を拝んでる者は、この「癡」が増して、道理が全く分からなくなるのである。だから人間の皮かぶった畜生以下であるから、痴犬 と呼ぶのである。
4、であるから、末法今時に、「無智無戒なる沙門(=御歴代上人・更には御法主上人に連なる御尊師等)を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅」する大謗法行為である。
5、こういう道理が、痴犬のように見えなくなる者が多いから、「僧の恩を報じ難し」なのである。
6、そういう三宝一体義を分からず、僧宝を謗ればそれがそのまま仏宝・法宝を滅することになることも分からず、痴論を喚く痴犬どもがあまりに多いので、「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」との如く、成仏など思いの外、堕獄必定とお嘆きであり、お叱りなされているのである。
―――――――――――
→更に別箇所での破折文も再掲しよう。
―――――――――――
法華経=戒壇の大御本尊
戒壇の大御本尊=大聖人弘法の御本懐
その大聖人の仏法の全てが日興上人へ血脈相承
■日蓮一期弘法付嘱書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日 日蓮 花押 血脈の次第 日蓮日興
■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
この二箇の御相承書を拝すれば、大聖人が戒壇の大御本尊を究竟として全ての仏法を日興上人へ御相伝されたことは誰にでもわかる。が、そのことは
■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」この御文の御心とあわせよくよく拝すればただ日興上人のみにとどまらないことが拝せられる。
つまり、法華経=戒壇の大御本尊は■「僧によりて住す」のである。
次第=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」とお決めになる、万年の法規を大聖人はお定めになられたのである。
そこに
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」の御文のごとくの意義が拝せられ、
仏宝法宝を御所持される「僧」=歴代法主上人を謗ることは、大謗法であり、成仏は絶対に不可能。堕獄行きなのである。
つまり法華経=戒壇の大御本尊の御法魂は、歴代御法主上人とともにおわしますのである。
であるから、
■「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」
とは、御法主上人を離れては成し得ない御文であり、御内証が三宝一体であられる御法主上人に信伏随従することが、まさに大聖人=戒壇の大御本尊に御仕え申し上げる姿となるのである。
―――――――――――
以上の意義からしても邪義破折班の既述は全く正論であり、それは信心がない謗法者には理解できないだけのことである。
実際の”犬”が、人間の言葉が理解できないのと同様である。
狂人が正常な人間の会話を理解できないのとも同様である。
駄犬は最早、正しい信心の基にした言葉や文章が読めなくなった、ただそれだけのことである。
ただ自分が 無信心の謗法者丸出しの馬鹿 というだけのことである。