やまいぬ。君の駄問を完摧す。145  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:1222()111616 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

   引用

 

 

 

 

 

 駄犬、随分と”口数”が少なくなってきたではないのか?呵々大笑。

いよいよ道理・文証に則っての、論理的・教義的な反論不能状態が極まってきたな。

(と、書いておくと、またぞろ、自分が反論不能な箇所は黙殺し、触れないことに、見なかったこと(呵々)にして、既に破折されきっていることを、壊れたCDプレーヤーの如くに、何度もエンドレスに繰り返し騒ぎ出すから、これまた、見ものである。)

駄犬の投稿には、教義的に新しい反駁内容など全くなく、読む興味が実に湧かない。

それは、また、日に何百回とのアクセス回数を数える、読者の方々に於いても同様の感想でありましょう。

 

しかし、今回もまた、摩り替えの典型的なパターンを見せてくれる。

最近の駄犬の有様は、格闘技で言えば、コーナーに追い込まれて最早、”人間サンドバッグ状態”になっているのだが、時折、一瞬の間隙に、凶器をパンツから出してきては、チョロっと使おうとして、それをもまた、叩き落される・・・とでも言った光景が浮かんでくるほどの、無様さである。呵々。

そして、セコンドは、「やまいぬ。!まだまだいける!樋田は弱っているぞ!お前が勝ってる。ポイント稼いでいるぞ!」とか叫んで、”応援”しているのである。

実に楽しい光景である。呵々大笑。

 

では、この項の駄犬の姑息なすり替えを”叩き落し”ますか。

―――――――――――

> >更に、追撃すれば、「南無―― 日蓮在御判」とある本尊は、大聖人様御自筆いわゆる

> >「蓮祖御図顕」の御本尊には在り得ない。

> >大聖人様御自筆御本尊は「南無妙法蓮華経 日蓮 花押」であるからである。

> >(もちろん、全てがこの形ではないが、「在御判」 の意味するところは、歴代の御法主

> >上人が戒壇の大御本尊の御内証を「書写」される時に「戒壇の大御本尊にはこの箇所に

> >大聖人の御花押=御判が「在」られる。」という意義であるから、駄犬の言う「南無――

> >日蓮在御判」との本尊とは、大聖人以外の「書写」本尊のことであり、駄犬が口癖の

> >ようにほざいている「蓮祖御図顕の本尊」とは全く違う。呵々大笑。

> 

> 呵々大笑呵々大笑呵々大笑呵々大笑呵々大笑。(^o^)

> はい、今度は興師全否定。(^o^) 落ちぶれたな、樋田昌志くん。(^o^)

> 興師書写本尊の中には、「日蓮在御判」ではなく「日蓮聖人」と書かれているものが

> 

> あるのだよ。(^o^) 坊や、興師は蓮祖御図顕本尊に叛いて、オリジナル本尊を書いた

> とでも云うのかね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

―――――――――――

→人間、幾ら追い込まれたといったって、良くぞここまで姑息・卑劣・愚劣・下劣・老獪・醜悪・・・になれるものか、と感心する。

 

昔、中学時代、市中陸上 というイベントがあって、長野市内の全ての中学校の3年生から、各学校ごとに選手を選出して、競い合う競技会があり、当方は2000m.走へ出場したのだが、そのレースで、8周目まで二位に着けて置き、あと二周の時に一気に首位に出て、抜けきろうとしたそのコーナーで、なんと、そのそれまで首位を走っていた彼が、当方の腕を必死にもがき掴むのである。!

長野市中の中学3年生がほぼ全員注視している、その衆人環視のトラックで、である。(今考えれば、その行為自体「反則」であるから、審判に申告すれば、彼は「失格」であった、訳だ。)

その時のそのスポーツマンにあるまじき行為に(人生で汚れた今よりももちろん純粋で正義感が強かった当時の当方は(^_^;)驚愕し、激怒したことを思い出す。

駄犬のすり替えを見ていたら、この当時のことをふと、思い出した。・・全く同じだ・・と。

(この彼、その後高校で同じクラスになり、卒業後は、なんと、なんと、一浪してT大へ合格した・・・との、おまけの後日談までついてる(^_^;)

 

・・・年末、まっ、「忙中閑あり」・・で、少々、思い出に浸った。

 

さ、ほんとに、本題にいきますか。

―――――――――――

当方の破折の趣旨が飲み込めていないほどの、馬鹿 のようである。

駄犬は、かつてこう言った。↓

 

▼どの坊主が書写したものであれ、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」に変わりなし。

 

これに対して、当方は再三、「御図顕御本尊」と「書写御本尊」の違いに迷乱する駄犬を呵責してきた。

 

http://toyoda.tv/yamainu2.htm      29 87 98 113 115 118 124 128 129  等(読者の方々には再度参照されたし)

 

その最たる証拠は

 

※1 「蓮祖御図顕の南無妙法蓮華経 曼荼羅」には   「花押」

※2 「書写御本尊」には                    「在御判」

 

とあり、ここにはっきり、「蓮祖御図顕本尊」と「書写本尊」との相違点がある。

更に詳細に言えば、「花押」があられる御本尊こそが、「蓮祖御図顕本尊」である。※3

(ただし、御筆による御本尊は「書写」と「模写」とがあり、今回の論点は、「書写」と「図顕」の相違点である。)

 

であるから、書写本尊をそのまま蓮祖御図顕本尊と認識することは大なる過ち・妄想である。と指弾しているのである。

ましていわんや、日寛上人が「蓮祖御図顕本尊」を「書写」された「書写御本尊」を勝手に撮影・改竄・印刷・販売 している掛け軸に見せ掛けた、一枚多色刷りプリント柄の 物 など、「蓮祖御図顕本尊」とは程遠い、魔札 である。

 

さて、この論点に、今回の駄犬の反駁は?といえば、実に滑稽かつ、姑息である。

 

1、日興上人も、「花押」はお書きでない。つまり、日興上人が「蓮祖御図顕本尊」を書いていない。

(当たり前すぎるくらい当たり前である。何故なら、既に、破折し切っているが如く、

「蓮祖御図顕本尊」とはその字の通り、「大聖人が御図顕された御本尊」ということであり、そのまま、大聖人以外には顕し得ないことは、子供でも分かる道理である。)

であるから、今回の論点、※1※2※3 に於いては、駄犬は全く反論できていない。

 

その上で、

 

2、「聖人」とのお認めには、我々、御本尊書写の深義を知らぬ者には、知り得ない、深慮があられる。

 

文証

 

■此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

(因みに、この箇所は一線であり、義に於いて支吾無き箇所である。)

 

以下、後加文について

 

■日淳上人:

「相承書の後加は、これを受けた方が書かれたのであること。また、その受けた方の時代、正法を護るべき必要性から書かれたのだから、本趣旨、または、それに準ずべきものとして拝さねばならない。また、そこに法門相伝書たる特質もある。」

百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで

僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

 

▼【池田指導】(百六箇抄講義)

本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

 

更に、

 

■「辨惑観心抄」日応上人219

此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ、(中略)故に予は断言す汝等か山は不相伝なり無血脈なりと宜しく猛省すへし。

 

それこそ、駄犬、その姑息で醜怪な”顔を洗って出直すことです”呵々大笑。