さて、以下のゴミ掃除を続けましょう。
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ああ、73曰く、僣聖増上慢はいつからか「在家」になったんだそうだぜ。(^o^)
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本人は「その文証出せ」と繰り返し問われて、グゥの音も出ずにずっと触れることさえ
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出来ずにダンマリだが、さて坊や、どう説明するんだね?
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樋田昌志くんにしがみついておるパラノイアを助けてやりなさい。(^o^)(^o^)(^o^)
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まず、僣聖増上慢の衣文
『法華経勧持品』
「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賎(きょうせん)するもの有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説き、世に恭敬(くぎょう)せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き、常に世俗の事を念(おも)ひ、名を阿練若に仮りて好んで我等が過(とが)を出ださん。而も是くの如き言(ことば)を作(な)さん、此の諸の比丘等は利養を貪るを為(もっ)ての故に外道の論議を説き、自ら此の教典を作りて世間の人を誑或(おうわく)す。名聞を求むるを為(もっ)ての故に分別して是の経を説く。常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって、誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて「是邪見の人、外道の論議を説く」と謂(い)はん(唱法華題目抄 222)
この「僣聖増上慢」の件については、ある掲示板上での「戸田門下生」という方の論説が実に的確であると思うので、ここに転載させていただきます。(※は当方の加筆部分)
引用
「 この僣聖増上慢について、他の二種類の増上慢(俗衆増上慢と道門増上慢)と比較し、妙楽大師は
■「第三(※僣聖増上慢)最も甚はなはだし。後々の者は転うたた識り難がたきを以もっての故に」
と述べ、また日蓮大聖人は
■「三人の中に、第一の俗衆の毀そしりよりも、第二の比丘の毀りは猶なおしの忍びがたし。又、第二の比丘よりも、第三の大衣の阿練若の僧は甚はなはだし」(御書二二三頁)
と、非常に認識しがたいものである、と仰せられています。
すなわち、俗衆よりも道門、道門よりも僣聖の方が、より大きな権威や名声をもって人々からの信頼を集めているので、その正体も見破りにくくなり、また、より強大な力を有することとなる、というのであります。
以上のことから、僣聖増上慢とは、
「仏でもないのに周囲から仏のごとく思われている似非聖者が、衆生済度よりも栄誉・名声・財宝を得ることに執着し、大衆の中に入り込んで権力者や邪宗の僧俗と語らい、正法の行者を迫害してくること」
を指す、といえます。
釈尊の時代には提婆達多、日蓮大聖人の御在世には まやかしの戒律と慈善事業で「生き仏」のごとく装いながら、大聖人様を怨嫉して御命まで奪わんとした良観を、大聖人様は僣聖増上慢と断定あそばされています。
今述べてきたことを現代に当てはめてみると、まさに池田大作の振る舞いこそが、その文々句々の一々に当てはまっていることが明白になります。
すなわち、贅を尽くした閑静な所に籠もり( 空閑に在あって自ら眞の道を行ずと謂いて )、
金と権力と名声に異様に執着するが故に、自称一千七百万人という会員を前に滔々とスピーチをして仏のごとくに敬われ( 利養に貪若するが故ゆえに白衣の与に法を説いて)、
大衆の中に入り込んで、政権与党となった公明党やあらゆる権力・マスコミ等をフルに活用して、日蓮大聖人の血脈を承継する御法主上人はじめ日蓮正宗に
対する悪口誹謗の喧伝・攻撃に余念がないのが池田大作であり、
( 此の諸の比丘等は 利養を貪るを為っての故に 外道の論議を説き 自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑し名聞を求むるを為っての故に 分別して此の経を説くと 常に大衆の中に在って我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
)
これこそ、現時の僣聖増上慢である、と断ぜざるをえません。
しかるに、創価学会においては、「日蓮正宗、なかんずく日顕上人が僣聖増上慢」と言って憚らないのですが、その理由として挙げてくるのが、「経文には、僣聖増上慢は出家僧から出る、とある(池田は出家ではないので、僣聖増上慢にはなりえない)」という主張です。
このことについてですが、日蓮大聖人は
■「或有阿練若より下の三偈は、即ち出家の処に一切の悪人を摂うす」(御書五六四頁)
と仰せられ、「惑有阿練若より以下の文は、出家という言葉の中に、その他の一切の悪人まで含めているのである」とお示しくださっています。
ですから、逆に言えば、僣聖増上慢は出家僧侶に限らない、在家からも出る、ということが明らかであります。
(※また、池田さんを筆頭に、今の創価学会の職業幹部は 「在家」(=一般会員)からの「供養」(=財務、広布基金等)で生きている、自ら一般社会に対しての生産活動に従事していない状態であり、姿は有髪でもあれ、その生活実態は、「出家」との意義をも含んでいる。
まさにこの「法華経勧持品」を説かれた釈尊の御言葉■「義に依って語に依らざれ」の如く、ただ浅薄に「出家」という語に拘泥するのではなく、「僣聖増上慢」とはどのような振る舞い、行動をするのか、社会的にどのような立場の者なのか、という「義」を見て判断すべきことである。)
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