■ 「去(みまか)りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとば(卒都婆)をたてゝ、其(そ)の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕(あら)はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率(とそつ)の内院に生まれん。況(いわ)んやかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ侯(そうろう)人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並ぴに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つゞみ(鼓)をうてばびゞ(響)きのあるがごとしとをぼしめし侯へ等云云。此(これ)より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。」(御書一四三四頁)

 ▼「夫妻が、幼くして亡くした娘の十三年忌の回向のために、題目を記した卒塔婆を立てたことに関して、その法界万物へ回向される功徳の大きさを教え、喜ばれている。」
(『日蓮大聖人御書講義第二十九巻』昭和五十二年七月三日発行)
 
■ 「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」(御書五二二頁)

▼ 「(塔婆供養は形式ではないのか、との質問を受けて)形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。
 塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙の生命に溶けこみます。色心の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです。
 一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、自分の身に帰るのであります。生命論がわからなければ、この深い原理はなかなかわかりません。」(戸田城聖全集第四巻)

 
 ▼「NSB広布の途上で逝いた方々の追善法要で、塔婆供養がなされたが、塔婆供養の意義について述べておきたい。
 死後の生命は、宇宙に冥伏し、生前の因縁に応じて、十界のそれぞれの世界で、苦楽の果報を受けているのである。塔婆供養による唱題の回向によって、諸精霊に追善がなされ、生命の我を″悪夢″から″善夢″へと転換していけるのである。そして、本日の追善法要で、正しき仏法、正しき僧侶の唱題・回向によって諸精霊が苦悩を転じて仏果を得たということを確信してほしい。」
(池田大作『広布と人生を語る』第六巻・昭和五十九単二月二十八日)
 
 ▼「父親が邪宗教をやった方であれば、ねんごろに塔婆供養をして回向することが最大の親孝行になるのです。」
 (辻武寿著『私の個人指導』)
 
 ▼「正宗と他の宗派の彼岸は根本的に違い、生きている我々自身がまず成仏への善根を積み、これを先祖に回向すべきであり、日々の信仰実践が到彼岸の修行という意味をもっている。なかんずくお彼岸の日には、先祖の追善と自身の彼岸を真剣に願って正宗寺院に参詣し、御本尊に御供養申し上げ、塔婆を立てて回向し、広布への強き決意を新たにすることが望まれる。それが真実の報恩であり先祖も自身も福徳を得る道なのである。」
(『聖教新聞』昭和五十七年三月二十日付)
 
 ▼「いわゆる卒塔婆が、単に亡くなった当人の霊のためのみでなく、現実のこの世のあらゆる生命に功徳を及ぼし、今は亡きすべての人々への回向となるものであり、なかんずく、卒塔婆を建て供養した人自身にとって偉大な福運となっていくのだということである。仏法は、どこまでも、自己のみの幸せを願うのでなく、自己を取り巻く一切の存在の幸せを願い、かつ具現していくことがその根本精神である。この御文から、あらためてこの仏法の広大な慈悲の精神を知らなくてはならない。」
 (『日蓮大聖人御書講義・第二十九巻』昭和五十二年七月三日発行)