●> 4、『法華初心成仏抄』
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■「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(新編一三一四n)
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<@「檀那」=在家、以外に「よき師」があられて初めて祈りが成就する、との御心と拝するが、在家以外の「よき師」とは現時では誰か?
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(゜o゜)大聖人。君にとっては愚かな単なるハゲが師かい?
●ここもやはり、馬鹿丸出しの珍答である。思わず噴出したくらいである。
「大聖人!」と言って恬として恥じない姿は、やはり痴犬の痴犬たる所以である。
1、この御文の「師」とは、同時代におわす存在としての「師」である。
■「在々諸仏の土に、常に師と倶に生まれん」
■「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」
大聖人を「師」と立てた宗派が悉く異流儀となっていることが御相伝の「僧」を蔑ろにした何よりの現証である。
それは創価学会も全く同じである。
結局は大聖人=戒壇の大御本尊は富士大石寺に厳としておわしますのであり、この大御本尊へ身・口・意の三業を以って信行できないことは、いくら口先で大聖人を「師」と仰いでも、身が伴っていない証拠である。
2、大聖人は仏宝であらせられる。であるから、「必ず僧によて住す」のである。
3、大聖人は仏宝=火 であられるから、「薪なければ火無く」で、 必ず 薪=僧宝 の方の御内証におられるのである。←三宝一体義
であるから、「師」とは、御当代御法主上人(また御法主上人に純真な信行によって連なる御尊師方)である。