沖浦対樋田法論を検証する 106 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月22日(月)23時32分22秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
以下の駄言ももはや完全に仏法ではありませんね。 外道以下の痴言です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > 森羅万象あらゆることに勝劣があります。 > 貴方、先般法論でコテンパンにされたでしょう。 > で、貴方が劣、こちらが勝。 > 同じですよ、理屈はね。 > 勝劣はね現実の社会で争うべきなんです。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑これまた一読噴飯の浅識である。 幼稚極まりない理解である。 世間的な一時の「勝敗」と、仏法の教義の高低浅深のけじめを指して「勝劣」と仰せを、これまた混同している沖浦君である。呵々大笑 大聖人が仰せの意義は、 外道 劣 内道 勝 小乗 劣 大乗 勝 権大乗 劣 実大乗 勝 迹門 劣 本門 勝 本門 劣 文底独一 勝 という、末法においての即身成仏をなすことができる仏法を判釈する上の絶対不変の「勝劣」である。 その大前提において、森羅万象一切に「本=勝 迹=劣」が判ぜられる。という意義である。 例えば引用御文で言えば、 「吹く風=本=勝」 「立つ浪=迹=劣」 というように、である。 因みに沖浦君はこの「本迹」に迷うが故に、本迹が全く分からなくなっている狂視であるが故に ▼「本尊に我々が題目を唱えたら、そこで開眼する。(御本尊が完成する)(趣意)」 などという痴言が吐けるのである。 まことに仏法の初門すら理解できていない、うつけ者 である。 これは当然全くの邪見であって事実は、御本尊=本=勝 であり、その御本尊へ題目を唱える我々=迹=劣 である。 参照 沖浦対樋田法論を検証する 99 この「本=勝 迹=劣」の意味が全く理解できていないから、 ▼「勝劣はね現実の社会で争うべきなんです。」 などという、実に馬鹿げた痴言を吐くのである。 この沖浦君の痴言によれば、例えば、ボクシングで勝者はもちろん「勝」 敗者は「劣」ということになる。 これは一体何の価値基準による「勝」なのか「劣」なのか? 沖浦君はその選手の人間性を「勝」とか「劣」とは決め付けているのか? 「劣」ならそれが何だといいたいのか? そもそも仏法は一切衆生に平等ではなかったのか? ・・・・↑斯様に沖浦君の理解など全く仏法ではない。 また、沖浦君自身、沖浦君よりも収入のある人など世にごまんと居る。 その人たちは全部沖浦君にしてみれば「勝」であり、沖浦君は「劣」である。 沖浦君がスキーの世界王者ではないはずだから、沖浦君より早い人は「勝」であり、沖浦君は「劣」である。 沖浦君が売っているワックスより売れている会社はごまんとある。その会社は「勝」で沖浦君は「劣」である。・・・・ で、結果それだから何だと言うのか? このように沖浦君の書くこと全てただの狂人のたわ言に等しい。 およそ仏教とは程遠い駄言である。 さ、沖浦君、これにもきちんと反論できますかね? それとも、言いがかりをごり押しするか、何の根拠もない名誉毀損の証拠資料となる捏造話を執拗にぶち上げるか、それとも、悔し紛れに川柳でも連発するか? 沖浦説でいえば、教義的に論理だてて主張できることが「勝」であり、 それができない「劣」の沖浦君にできることはそんな程度であろう。呵々大笑。 |