●唱題行の功徳
▲妙法蓮華経と唱ふる時心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇刧(あそぎこう)の罪を滅す。一念も随喜する時即身成仏す。縦(たと)ひ信ぜずとも種と成り熟と成り必ず之に依って成仏す。一念三千法門 正嘉二年 三七歳 109
▲只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。(406)
▲所有(あらゆる)一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。
されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕はれ出づる、是を成仏とは申すなり。例せば篭の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し。(406)
▲一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯(ただ)一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。譬へば篭(かご)の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば「若(も)し暫(しばら)くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給ふは此の心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏になり給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云ふは是なり。是等の趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢偏執(がまんへんしゅう)の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。法華初心成仏抄 弘安元年 五七歳 1320
▲題目を唱へ奉る音は十方世界にとづ(届)かずと云ふ処なし。我等小音なれども題目の大音に入れて唱へ奉る間、一大三千界に至らざる処なし。譬へば小音なれども貝(ばい)に入れて吹く時は遠く響くが如く、手の音纔(わず)かなれども鼓(つづみ)を打つに遠く響くが如し。一念三千の大事の法門とは是なり。(御講聞書 1819
▲但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はヾ全く妙法にあらず、麁(そ)法なり。麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門(ごんもん)なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫(たしょうこうごう)の修行を経て成仏すべき故に、一生成仏叶(かな)ひがたし。故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発(お)こすべきなり。都(すべ)て一代八万の聖教、三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは、ゆめゆめ思ふべからず。然れば仏教を習ふといへども、心性を観ぜざれば全く生死を離るゝ事なきなり。若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮(びんぐ)の人、日夜に隣の財(たから)を計(かぞ)へたれども、半銭の得分もなきが如し。然れば天台の釈の中には「若(も)し心を観ぜざれば重罪滅せず」とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥(はずか)しめられたり。爰(ここ)を以て止観(しかん)には「仏教を学すと雖も還って外見(げけん)に同ず」と釈せり。然る間(あいだ)仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり。(一生成仏抄 建長七年 三四歳 45)
▲闇鏡(あんきょう)も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性(ほっしょう)真如(しんにょ)の明鏡と成るべし。深く信心を発(お)こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。一生成仏抄 建長七年 三四歳 46
▲南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす。されば止観の四に云はく「仏法は海の如し、唯信のみ能く入る」と。 日女御前御返事 弘安二年八月二三日 五八歳 1388