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    曽谷入道殿御書 文永一一年一一月二〇日  五三歳

 自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難(

二月騒動(にがつそうどう)は、鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で名越流北条氏名越時章教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。

北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。)

、他方侵逼(たほうしんぴつ)の難すで(既)にあ(合)ひ候ひ了んぬ。
これをもってをもうに
「多く他方の怨賊(おんぞく)有って国内を侵掠(しんりょう)し人民諸の苦悩を受く。土地に所楽の処有ること無けん」
と申す経文に合ひぬと覚え候。

当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり。
是偏(ひとえ)に仏法の邪見なるによる。
仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり。
禅宗と念仏宗とを責め候ひしは此の事を申し顕はさん料なり。


漢土には善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)・不空(ふくう)三蔵の誑惑(おうわく)の心、天台法華宗を真言の大日経に盗み入れて、還って法華経の肝心と天台大師の徳とを隠せし故に漢土滅するなり。(楊貴妃の色香に迷った玄宗皇帝のもとで楊氏一族が専横を振るい、安禄山の乱が起こって国内は混乱し、玄宗皇帝も退位のやむなきに至った)

日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂(こんごうちょう)経・蘇悉地(そしっじ)経を鎮護(ちんご)国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山(えいざん)に悪義出来して終(つい)に王法尽きにき。(平安中期以降、国内は次第に乱れ、源平の争いのなかで安徳天皇は西海に沈み、更に、承久の乱では真言の悪法で幕府調伏の祈?をした朝廷方の後鳥羽上皇(隠岐の法皇)が、鎌倉幕府の北条義時に敗れ、隠岐へ流罪されるというように、ついに王法の威光勢力は失墜してしまった)

此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。
弘法大師の邪義は中々顕然なれば、人もたぼらかされぬ者もあり。
慈覚大師(じかくだいし)の法華経・大日経等の理同事勝(りどうじしょう)の釈は智人既に許しぬ。
愚者争(いか)でか信ぜざるべき。
慈覚大師は法華経と大日経との勝劣を祈請(きしょう)せしに、箭(や)を以て日を射ると見しは此の事なるべし。(寛平親王の撰になる慈覚の別伝によると、慈覚は自分の著した法華経と大日経との勝劣論が仏意にかなうかどうかに迷い、仏像の前に安置し、七日七夜にわたり祈ったという。そして、五日目の夜明け方、夢を見た。その夢は、正午の太陽が輝いているのを仰ぎ見て、弓をもってこれを射ると、その矢が太陽に命中し、太陽は落ちたというものである。夢覚めて後、慈覚は自分の解釈が深く仏意に通達したと悟り、後世にこの疏を伝えるべしと決意した、という。)
是は慈覚大師の心中に修羅(しゅら)の入りて法華経の大日輪を射るにあらずや。
此の法門は当世叡山(えいざん)其の外日本国の人用ふべきや。
若し此の事、実事ならば日蓮豈(あに)須弥山(しゅみせん)を投ぐる者にあらずや。もしも慈覚が正しいとするならば、それを破折している日蓮大聖人は須弥山を投げるような、およそ分知らずなことをしていることになろう
我が弟子は用ふべきや如何。我が弟子は、慈覚の教えを正しいと認めることはできないはずであるがどうか、と問いかけられている。我が門弟だけは法門の邪正を誤って邪法を信じ、日本を亡国とするようなことがあってはならない、と厳父の慈悲をもって信を迫られている
最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。恐々謹言。
 十一月廿日             日  蓮 花押
曽谷入道殿