因みに、この「当初」の意味であるが、
辞書では
そのことのはじめ。最初。また、その時期。
物事の初めの頃。最初のうち。
中国語としては
1(広く過去を指し)以前,昔.
2(物事の発生した段階)初め,
とある。
大聖人の御文からは二義を拝される。
1
■ 昔三千塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)大通智勝仏と申す仏います。其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします。(唱法華題目抄
文応元年五月二八日 三九歳 217)
この意義は 「そのことのはじめ。最初。」と拝する。
2
■ 問ふ、劫初より已来(このかた)、何人(なんぴと)か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々(せせばんばん)に成道を唱へ、能証所証(しょしょう)の本理を顕はし給へり。今日(こんにち)又中天竺(ちゅうてんじく)の摩訶陀国(まかだこく)に出世して、此の蓮華を顕はさんと欲(おぼ)すに機(き)無く時無し(当体義抄
文永一〇年 五二歳 )
■ 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如(し)かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初(そのかみ)より以来(このかた)、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。(三大秘法稟承事
弘安五年四月八日 六一歳 1594)
■ 実相証得の当初(そのかみ)修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1593)
釈尊が「実相証得」したのは「五百塵点劫の昔のある一点」である。
それ以前に「我本行菩薩道」として「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」を修行なされていた。
ということは、「当初」とは当然、実相証得された時点より以前の時期を指している。
つまり、「ある時点・時期より以前」という義として、「当初」と言われていると拝する。
この二義を詳らかにしないと、大聖人の御真意に達せられない。
■ 釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟(さと)りを開きたまひき。
後に化他(けた)の為に世々番々(せせばんばん)に出世成道し、在々処々(ざいざいしょしょ)に八相作仏(はっそうさぶつ)し、王宮に誕生し、樹下に成道(じょうどう)して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲(もう)け衆生を誘引(ゆういん)す。其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納(い)れて一仏乗と丸(がん)し、人(にん)一の法と名づく。一人の上の法なり。
多人の綺(いろ)へざる正しき文書を造る慥(たし)かなる御判の印あり。
三世の諸仏の手継(てつ)ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由他(まんのくなゆた)の国土の上の虚空(こくう)の中に満(み)ち塞(ふさ)がれる若干(そこばく)の菩薩達の頂(いただき)を摩(な)で尽(つ)くして、時を指して末法近来(このごろ)の我等衆生の為(ため)に慥かに此の由を説き聞かせて、仏の譲(ゆず)り状(じょう)を以て末代の衆生に慥かに授与すべしと慇懃(おんごん)に三度まで同じ御語に説き給ひしかば、若干の菩薩達各(おのおの)数を尽くして躬(み)を曲(ま)げ頭を低(た)れ、三度まで同じ言に各我も劣らずと事請(ことう)けを申し給ひしかば、仏心安(やす)く思(おぼ)し食(め)して本覚の都に還(かえ)りたまふ。
三世の諸仏の説法の儀式作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲(ゆず)り状(じょう)なれば、只(ただ)一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと譲り状の面(おもて)に載(の)せたる手継(てつぎ)の証文なり。
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