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第43回 全国教師講習会の砌
●平成六年八月二十四日
●於 総本山大講堂
御法主日顕上人猊下御講義(一)
今回の教師講習会において、何を申し上げようかと思っておりました。
近年は色々な問題が起こってきまして、『十不二門』は随分前に一回行っただけで途切れてしまっていましたが、昨年、一往、全部終了いたしました。そのかなり前に、『百六箇抄』を最初から拝読しておりましたので、今年はその続きを拝読しようとも思っていたのです。
しかし、今日の状況上、つまり、創価学会が謗法に謗法を重ねておる姿でありますが、その誤りについて正しくつかんでいただくことが、時に適っていると考えた次第であります。
前々から申しておるとおり、創価学会の謗法はますますはっきりと現れてきております。
明日の宗学研鑚発表大会で発表される課題論文にも、「創価学会による浄円寺所蔵の日寛上人の御本尊の複製授与の大罪を破折せよ」という論題が出されているように、こういったことまでしでかしている有り様です。
そのほか、思想的にも色々なことがあります。
今、創価学会は宗門から離れ、自分達がどのような形で独自の教義を立てていくかを必死で模索し、考えておりまして、こういった形からも謗法の姿がさらにはっきりと出てくると思います。
しかし、その謗法の一番の元は、あの池田大作という者の狂った考えにあるのです。
前から申しておりますが、現に昭和三十九年六月三十日の台東体育館における学生部の第七回総会で、
▼「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせ
になることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるし
として置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問
題と考えてさしつかえないわけで、ございます」
と、大聖人様の御仏意を「形式の形式」と言っているのです。
戒壇建立ということは、大聖人様の三大秘法の終窮究竟の御指南であります。
いくら▼「実質は全県衆が全大衆がしあわせになること」などと言ってみても、その民衆救済の根本の大法を▼「形式の形式」と下しているのです。
そういうところに根本的な仏法軽視、御仏意に対する軽視があり、これが今日、御本尊の問題、信仰的な問題等、色々な形で波及してきていおります。
そういった問題については、むしろ宗門の中堅クラスや若手の僧侶によって破折する準備が進んでおるので、一往、全体的には任せますが、最近、教師になった人もいることですから、法義の中心、綱格をどのように拝したらいいかということをまず申し上げて、次にそこを中心として、今日の様々な他宗の狂った考え方、あるいは創価学会の間違った考え方について申し上げたいと思っております。
これから創価学会を破折していく上において、必ず青年部等が洗脳された形で教義を新しく創り出してきます。
彼等を破折していく上には、そういった内容をある程度きちんとつかんで、どこが狂っており、誤っているかを的確に指摘しなければなりません。
そういった問題に対して対岸の火事のような感じでいることは、本宗の僧侶として慈悲がないと言わなければなりません。
本日は、そういう意味からも、多少そのようなことも含めてお話し申し上げたいと思う次第であります。
さて、先日、『平成新編日蓮大聖人御書』が発刊されました。
その特長については「発刊の辞」のなかにも書きましたが、一つは、現時点において最も信頼性の高い系年研究の成果が織り込まれた御書であるということであります。
もう一つは、御書の真偽についてであります。
身延で出している『昭和定本』では偽書とはっきり判っているものまで載せておりますが、この辺のけじめをつけるために検討していくと、どうしても真書と偽書、それから真偽未決という三つの御書が出てきます。
はっきりと真書や偽書と判るものは問題ありませんが、真偽未決の御書については委員の人達もたいへん苦労したと思うのです。
真偽未決のなかでも、限りなく偽書と思われるもの、逆に、ほぼ大聖人様の真書であると思われるけれどもわずかに疑点のあるもの、あるいは偽書であるけれども、宗史的な形から色々な面で載せておきたいというものもあったのです。
しかし、今回の編纂に当たっては、思い切って削っております。
例えば、大聖人様が善日麿といわれたお若い時のことが書かれている『本門宗要抄』などは載せたい意味もありましたが、そのほかの内容を見ると明らかに偽書ですので載せておりません。
このように色々な問題もあり、取捨選択の難しい面もあったようですが、委員の人達が長い間の労力をかけて検討し、最終的に決まったのであります。
結局、『平成新編御書』には、真偽未決はほとんど入れませんでした。
しかし、正規の漢文体の御書等も含んだ、僧侶が専門的に見るような御書、これは現に基礎は出来ていますので近いうちに出来ると思いますが、そのなかにはある程度は入ると思います。
とにかく、『平成新編御書』は真書を中心として編纂されておりますが、それでも、今までの『御書全集』から見ると七十数編多くなっております。
さらにもう一つの特長は、従来の所伝に任せきりにしないで、永栄師ほかの委員の人達が真翰や写本などを非常に丁寧に当たって、御書の文体等について細かく検討したということであります。
実は、これに関連して申しておきたいことがあります。
『日女御前御返事』という御書があります。
これは、古来の所伝から、今までのあらゆる御書で「建治三年」になっており、異論はありませんでした。
ただ、この御書は御本尊の相貌について、
■「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし
給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕は
し奉るなり(乃至)されば首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、
釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等座を屈し、日天
・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、
悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり云云」(平成新編御書一三八七n)
と示されており、妙法の左右に示されてある十界の内容からいきますと、おそらく弘安年間の御本尊についてのお示しではないかと拝せられるのです。
つまり、建治年間の御本尊にはすべて善徳仏と十方分身の諸仏が示されているのですが、ここにはそれが示されておりません。
前にも何回かお話ししたと思いますが、建治二年の『報恩抄』に、
■「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、
外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」(平成新編御書一〇三六n)
という文がありまして、この「外の諸仏」という表現は、まさしく建治年間の善徳仏と十方分身諸仏が入っておる御本尊の体相を表されております。
ところが、建治三年の御書とされている『日女御前御返事』の御文においては、それが示されておりません。
この御書のように、善徳仏、十方分身諸仏が御本尊の御当体からなくなるのは弘安以降なのです。
この大講堂の御本尊は、千葉県、房川の万年救護の御本尊のお形木ですから文永年間です。
したがって、善徳仏、十方分身諸仏が示されております。
ところが、弘安に入ると、それがぴったりとなくなります。
これが一つであります。
もう一つは、「悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり」と、提婆達多と竜女が示されていることです。
特に竜女は、現在、大聖人様の御真筆とされている百三十余幅の御本尊のなかでも、ただ一幅にしか示されていないのです。
その御本尊は、不思議なことに弘安二年二月の日目上人授与の御本尊なのです。
この一幅だけが、「竜王女」として、竜女が御本尊のなかに示されております。
それから、提婆達多が示されるのも、文永年間に一幅あるだけで、あとは先程の弘安二年の日目上人授与の御本尊に至るまで示されないのです。
それ以降はほとんど提婆達多をお示しになります。
そういう点からは、この■「悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり」という具体的な例証は、弘安二年の日目上人授与の御本尊のみなのです。
また、『日女御前御返事』が建治三年の御書であるという所信についても、実は根拠はないのです。
御真蹟がない御書については、おそらくこの頃であろうというようなあいまいな形で所伝が出来、特別な理由がない限りはそれがずっと伝承されているものなのです。
したがって、的確な理由がない所伝ならば、種々の検討の結果に正しい系年が判明することもあり、そのような意味から、今度の『平成新編御書』には系年の異動がたくさんあるわけです。
また、「日蓮花押」等の御花押の形からも系年が変更になった場合もあります。
そのほか、その理由は複雑かつ様々で一概には言えませんが、昔の所伝や『御書全集』所載の系年には納得できないものがたくさんあり、この『日女御前御返事』は思い切って弘安に移した次第であります。
これについては、今までにないことですから、あちらこちらから文句が出るかも知れません。
しかし、この御書の全体をよく拝してみても、建治三年に置かなければならない理由はなく、むしろ弘安二年が適当であると考えましたので、委員会の人達にも検討してもらい、結局、弘安二年に置きました。
ただし、従来の所伝が八月ですから、この八月をわざわざ動かすということも、これは冒険の感じもありますので、月日は従来どおりとし、年だけを弘安二年に移した次第です。
ほかにも適切な理由のもとに系年を変更した御書が色々とあるのであります。
次に、各宗の祖師が種々な宗旨を立てておる姿について、大聖人様が常に御指摘あそばされることは、仏様のお心や御指南に背いて、自分勝子に教えを解釈しているということであります。
つまり、自分勝手な考えのもとに教相判釈を行い、その内容から誤った教・行・人・理等の内容を創り上げ、宗旨を立てているのです。
それに対し、大聖人の経教に対する御姿勢は、仏教はあくまで釈尊の御指南であるが故に、釈尊のお言葉を一切の基準にしなければならないという在り方であります。
しかし、他宗他門の教義は、釈尊の御意、すなわち御仏意を無視し、自分の我見を中心にしているのです。
最近の新興宗教や創価学会の人間の考え方がすべてそうなのです。
真の仏様の教えや宗門の伝統の教えは、都合の悪い所はカットしたり、背いたり、適当に変な解釈をしたりして排除してしまっております。
我々は、そのけじめをきちんとつけ、誤った教えを打ち破り、真に正しい教えを顕していかなければなりません。
そういう点から、我々はどのような所を基準として大聖人様の御指南を拝さなければならないかといえば、無量義経に、
■「性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす」(開結八八n)
と説かれ、法華経に至って、
■「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(同一八九n)
と説かれているのですから、法華経が基準でなければならないのです。
すなわち権実相対であります。
それを、例えば、念仏の開祖は機ということを中心に考えて、
▼「法華経は理深解微であるから、末法の機には念仏が適当である」などと主張するのですが、これは当然、仏様のお心に背いているのです。
あくまで仏様のお心を中心とすることによって、権実相対の御法門を正しく拝することができるのです。
そして、さらに大聖人の御法門の基準がどこにあるかと拝するならば、これは佐渡以降において次第に顕されるところの本門の法体というところに存するのであります。
これは、上行菩薩様が御出現になって、釈尊の本門が開かれます。
そこから重々無尽の深義における本門の人法が顕されてくるのですが、この法は神力品の結要付嘱によって上行菩薩に譲り与えられます。
その上行菩薩の深い御自覚の上から大聖人が承けられた法は何かといえば、法華経には、
■「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の
一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」(同五八一n)
と説かれておりまして、これを妙名・妙体・妙宗・妙用・妙教、すなわち名体宗用教に釈されております。
これをことごとく束ねての、
■「其枢柄を最て而して之を授与す」(※疏の十 御書で「疏」とは法華文句を指される場合が多い。)
という地涌六万恒河沙のお示しはあるけれども、大聖人様が付嘱の法を承けられた形としてお示しになるお名前は上行菩薩です。
そして、上行菩薩が末法に出現するか、出現しないかということが非常に大事なことであると示されております。
佐渡以降において大聖人様が本門の法を次第にお示しになってくるなかにおいて、南無妙法蓮華経が地涌の菩薩の付嘱の法であり、その付嘱の法をお示しになるに当たってはきちんとした法の筋道があるということを御指南であります。
これは宗義上、五重相対や五重三段、あるいは三重秘伝という御指南があります。
すなわち『開目抄』の、
■「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(平成新編御書五二六n)
の御文、そして日寛上人の、
●「一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘沈」(学林版六巻抄一六八n)
という御指南における、権実相対・本迹相対・種脱相対の三重秘伝等でありまして、このような筋道がきちんと存するのです。
その筋道に従って、法門の従浅至深の段階を正しく立て分けられ、真の妙法蓮華経の大法は寿量品の文の底にあるということを種脱相対の御法門としてお示しになったのであります。
したがって、この相対の法門をお示しになるのが上行菩薩様でありますから、正しくはその法と人という両面から拝さなければならないのであります。
しかしながら、大聖人様は、御自身こそが末法に出現された上行菩薩であるということを通常の御書においては全くお示しになっておりません。
御相伝書である『百六箇抄』には、
■「上行日蓮」(平成新編御書一六九五n)
とお示しになっており、上行菩薩様が即日蓮大聖人様であるということを拝することができますが、通常の御書では、
■「日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり」(平成新編御書一四三五n)
というような表現をされて、はっきりとした御指南はされておりません。
この万年救護の御本尊には長い讃文がしたためられております。
このような讃文はこの御本尊様だけでありますが、このなかに、
■「上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」
という御文があります。
この御本尊は文永十一年ですから、まだ「日蓮」の御名を脇にお示しになっております。
それが弘安期に入ると南無妙法蓮華経の真下に「日蓮」の御名をお示しになるのです。
それはともかく、この万年救護の御本尊の讃文にはそのようにお示しになっているけれども、やはり、はっきりとお示しになっているわけではありません。
しかしながら、我々が信仰の上から拝するならば、■「上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」と示された御本尊を実際に弘宣されているのは大聖人様以外にいらっしゃいませんし、また、たとえ脇であっても「日蓮」というお示しがあるのですから、上行菩薩即日蓮ということは、当然のこととして拝することができるのであります。
これは本宗において当然のことでありますが、また、この上行菩薩様の拝し方においても他宗他門では様々な間違った筋道、立て分けをしております。
我々は、信仰の上からも布教の上からも、この上行菩薩様という方を正しい筋道の上から拝していかなければならないのでありますから、この際、お話ししておきたいと考えた次第であります。
まず、皆さんに再確認の意味で申しますと、大聖人様の御書、あるいは五重相対等の御法門のすべては、相対妙の上から付嘱の本法の内容をお示しになっております。
つまり、その一番中心肝要は南無妙法蓮華経の五字・七字であり、これを開けば一代仏教となりますから、開いた部分部分をことごとく本法全体と相対して整理決判されるのが相対妙の法門、いわゆる五重相対等の法門として存するのです。
ところが、その肝心の付嘱ということについて、他門ではほとんど説くことはありません。
昔、『日蓮宗読本』を読んでみたことがありますが、やはり肝心の付嘱のところに来ると、何かすっと逃げているのです。
あれは結局、付嘱の法をきちんと立て分けてくると、大聖人様のお立場が、どうも釈尊との関係においてどちらが主体か解らなくなり、都合悪いので、お釈迦様を本尊にしておけばよいというようないい加減な考えによると思いますが、そのような意味から付嘱ということに関して逃げているように感じます。
やはり、上行菩薩様の御出現が一切の宗義・宗旨の鍵を握っておるのですから、この辺を教相・観心、文上・文底にわたって、はっきりと拝すべき心要があると思います。
さて、上行菩薩様は、経文においては法華経の涌出品から嘱累品に至る八品以外にはどこにも出現されておりません。
■「但八品に限る」(平成新編御書六五四n)
■「但八品の間に来還せり」(平成新編御書六六一n)
と仰せの如く、小乗、大乗、五千・七千の経巻のすべてを探しても、ただ法華経の八品の間にだけ出現されております。
では、その釈尊在世の法華経の虚空会に出現された上行菩薩様は、どういうお立場であらせられるのか。
これは一往、教相上は明らかに決まっております。
すなわち、寿量品において釈尊が、
■「我久遠より来 是れ等の衆を教化せり」(開結四八八n)
と説いておりますように、釈尊の弟子としてのお立場であります。
また、地涌の菩薩は、あくまで釈尊を師匠として問訊しておられるのですから、その意味において不二でなく而二であります。
つまり、師匠と弟子、釈尊と上行、きちんと相対した形でお示しになっていらっしゃいます。
これは法華経の教相、経文がそのとおりなのです。
しかし、この立場において上行菩薩様の内証について考えると、複雑で実に難しいのです。
やはり、ここは大聖人様の御指南を中心に拝さなければ解りません。
皆さんも御承知のとおり、地涌の菩薩は四つの理由をもって出現されました。
まず聞命のため、つまり、釈尊の命を受けて出現された。
次に破執のため、一切衆生の執着を破るために出現された。
次に顕本のため、本を顕すためです。
最後が弘法のため、この四つの意味において出現されたということを天台大師も述べておりますが、考えてみると、この四つのすべてが文上の意味に当たると同時に、文底の意味にも当たっておると思うのです。
まず聞命についてですが、在世の衆生の執着を破して久遠の寿量品を説かれるために地涌の菩薩を呼び出したということ、もう一つは末法にこの妙法を弘通せしめんがためで、これについては大聖人様のお立場から『法華取要抄』等の色々な御書にお説きになっております。
この、在世の釈尊の顕本のためと末法の衆生のためとの両面において呼び出されたということが言えます。
それから、破執についても、釈尊は始成正覚の仏であるという在世の衆生の執着を破折するためと、末法の衆生は久遠元初の凡夫即極の仏様に対する眼が盲いている故に爾前迹門等の仏・菩薩、さらに迹中の本門の仏に執着しておりますので、その執着を破るため、この両面からの破執ということが考えられます。
顕本も、御承知のとおり、地涌の菩薩が出現しなかったならば寿量品における釈尊の顕本は絶対にできなかったのです。
もし、釈尊が簡単に言葉だけで久遠を説いたならば衆生の心には入らず、信じることができなかったと思います。
地涌の菩薩の出現があったからこそ動執生疑を起こし、驚天動地の大法門として衆生の迷妄の命を突き刺して、その仏法に対する考えを大転換することができたのです。
そういう面からも、釈尊の顕本のためであると同時に、また、末法の衆生に本有無作三身を顕示するための顕本でもあるわけです。
次の弘法についても、釈尊の一身即三身.三身即一身の如来秘密が、本果の上に示される法体を納得させるという在世の衆生に対する弘法と、末法の衆生のため結要付嘱の大法を弘めるという両面があると思うのです。
たしかに在世に出現した上行菩薩は釈尊の弟子としての姿です。
しかし、それをさらに根本から振り返って見るならば、それは垂迹の姿なのです。
それが本宗の教学の基本であります。
ところが、最近、天台大師が地涌の菩薩の住処について「法性の淵底・玄宗の極地」とまで言われているのだから、地涌の菩薩は在世の姿そのままが久遠の本地なのであるというような論を立てる者がおります。
そして、直ちに上行菩薩が釈尊より中心の九界即仏界の仏であるというような訳の解らないことを言っておりますが、これは結局、場の立て分けがきちんとしていないからなのです。
要するに、天台大師が「法性の淵底・玄宗の極地」と説いたのは、上行菩薩の深い本地を拝して説かれたことと思うのです。
すなわち、内証の上からの上行菩薩です。
外用と内証ということを立て分けなければなりません。
つまり、霊山出現の上行菩薩は外用の上行菩薩、それに対して内証の上行菩薩という意味での拝し方がなけれはならないのです。
大聖人様は『観心本尊抄』において、いわゆる「受持即観心」ということを観心段の結論としてお示しになります。
この観心を説かれる最後の所、本尊法体段に入る直前に、あの有名な、
■「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云。我等が己心の声聞界なり」(平成新編御書六五三n)
という御文があります。
これは、
■「問うて曰く、上の大難未だ其の会通を聞かず如何」(平成新編御書六五二n)
という問いに対する文でありますが、人界に仏界が具足するという、非常に難信難解のところを強いてお説きになってくるなかで、いわゆる受持に即して観心を示される意味で、釈尊の因行果徳の二法が妙法蓮華経の五字に具足する故に、法華経の信心修行にその一切の功徳が篭もるのであるということを示されております。
そして、この受持即観心の文を受けて、さらに
■「四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云。我等が己心の声聞界なり」
と、宗祖大聖人の観心として、御本尊と行者の一体を示される意味があるのですが、これに三つの文が説かれております。
一つは方便品の、
■「我が如く等しくして異なること無し、我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」(平成新編御書六五三n)
の文で、これについて、
■「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや」(同n)
とお示しになっております。
この■「妙覚の釈尊」とは、大聖人様の本門の観心は久遠元初におわしますので久遠元初の自受用身の上に約して、その師匠と弟子が一体であるということをお示しになっているのです。
これが、師弟不二を示される、いわゆる主師親三徳であります。
すべての仏様は主師親三徳をお持ちになっているのですから、その主師親の三徳と臣下・弟子・子供、これが全く一体であるというところに本尊と行者の一体がある、すなわち仏界の顕現があることを結論づけられているのであります。
第二番目は宝落品をお引きになって、
■「宝塔品に云はく『其れ能く此の経法を護ること有らん者は、則ちこれ我及び多宝を供養するなり。
乃至亦復諸の来たりたまへる化仏の諸の世界を荘厳し光飾したまふ者を供養するなり』等云云。
釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり、其の跡を継紹して其の功徳を受得す。
『須臾も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得』とは是なり」(同n)
と釈されております。
これは、■「我」 ■「及び多宝」と ■「亦復諸の来たりたまへる化仏」 は 報身・法身・応身の三身に当たりますから、無作三身に約して親子の一体を示されているのです。
ここまでが、自受用に約して師弟不二、それから無作三身に約して親子一体ということの法門であります。
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次の第三番目が問題でありまして、寿量品の文を示され、久遠元初に約しておることが明らかであります。
■「寿量品に云はく『然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり』等云云」(同n)(※←本果妙の文)
この次が有名な、
■「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」(同n)
の文で、他門においては大聖人様の観心の文であるということが解らず、教相に解釈している者もいます。
この■「五百塵点乃至所願の」 とある ■「乃至」 が問題なのです。
上から下へ向かって乃至するのか、下から上へ乃至するのか、最近では「これは時間を言ったのではない」というような暴論を述べる者までいるけれども、これは日寛上人が、五百塵点から久遠元初へ向かって、その中間を乃至するのであるということを御指南されております。
すなわち、ここに ■「無始の古仏なり」 という文がありますが、これは末法出現の大聖人様の、久遠の本仏という御内証の上からの観心をお示しになっておられる文と拝せられます。
つまり、今度は仏界を挙げられておるのです。
そして、次に、
■「『我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。
復上の数に倍せり』等云云。我等が己心の菩薩等なり」(同n)
と本因妙の文を挙げられます。
まず本果妙の文を挙げられて ■「無始の古仏」 と示されるとともに、今度は本因妙を挙げられたわけです。
本果妙の文では久遠元初を乃至しますので、この久遠元初の仏様は釈尊なのです。
ところが、■「我本行菩薩道」 のほうでは ■「我等が己心の菩薩」 とおっしゃっていますから、仏と菩薩であり、さらにその上から久遠元初に約して君臣の合体を顕すという意味と拝せられるのであります。
しかしながら、この ■「我本行菩薩道」 は経文から見てみると、直ちに ■「我本行菩薩道」 が上行菩薩であるとは説かれておりません。
寿量品の文における「我」とは、
■「我実成仏已来(我実に成仏してより已来)」(開結四九六n)
の文にしても、
■「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じ)」(同五〇〇n)
の文にしても、その「我」とは釈尊であり、上行菩薩ではありません。
寿量品における「我」はすべて、釈尊が御自分のことをおっしゃっているのです。
したがって、文面においては、 ■「我本行菩薩道」 は釈尊御自身が菩薩道を行じたということをおっしゃっている文なのです。
しかし、それにもかかわらず、大聖人様はそのあとに ■「我等が己心の菩薩等なり」 と示され、さらに ■「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」 と御指南あそばされているのです。ここが不思議なのです。
これはまさしく、 ■「我本行菩薩道」 とは釈尊が御自分のことをおっしゃっているようであるけれども、この文の真意は地涌の菩薩なのであるということを、ここで久遠元初の観心に約して大聖人様がおっしゃっていると、私は拝しております。
またさらに、続く文において、
■「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」(平成新編御書六五三n)
と示され、もう一度、念を押されているのです。
つまり、久遠元初の君臣合体は、久遠元初の釈尊の己心に具わる上行菩薩様であるということなのです。
その意味の大聖人様の久遠元初の観心なのであり、ここを拝さなければならないのです。
ここの所はどうしても本尊のほうに気をとられがちで、ついうっかりしてしまうのですが、この受持即観心の最後の括りの文が非常に大事な所なのです。
この御文において、つまり、寿量品の内証において久遠元初の釈尊の己心に具するところの上行菩薩様であるということが拝せられるのです。
すなわち、外用の形においては、あくまで釈尊の弟子として在世に現れた上行菩薩であるけれども、その内証は久遠元初の釈尊の己心所具であるのです。
これは『総勘文抄』の、
■「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」(平成新編御書一四一九n)
という御指南にも符合しております。
すなわち、上行菩薩様は火大上行、無辺行菩薩様は風大無辺行、浄行菩薩様は水大浄行、安立行菩薩様は地大安立行、また、その存在の全体が空という意味がありまして、空のなかに地水火風がすべて具わるのでありますから、
■「我が身は地水火風空なりと知しめし」 との文は、
『本尊抄』の ■「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」 の文にそのまま、久遠元初の釈尊の御当体に火大上行としておわしますということが拝せられるのであります。
すなわち、久遠元初の釈尊の己心所具の上行ということが拝せられるのであります。
そこに、釈尊と上行の一体不二という意味を久遠に遡って拝することができるのです。
また、大聖人様がそのように御指南なのであります。
次に、名異体同の上行菩薩ということは日応上人が『弁惑観心抄』にお示しになっていらっしゃるが、これは天台大師、妙楽大師等が上行菩薩様の御当体から久遠を拝して、その内証において上行菩薩様が仏様である、あるいは仏様と全く同体であるということを説いておるのです。
つまり、名前は、仏と菩薩、釈尊と上行というように異なるけれども、実際の体は一つなのであるということを述べておるという意味です。
すなわち、天台大師が地涌の出現した下方を ▲「法性の淵底・玄宗の極地」 と釈したのも、その意味からの標文なのであります。
また、『文句記』に釈尊が上行菩薩を下方より召す意義を述べられておるなかに、
▲「初めに此の仏菩薩に従って結縁し、還って此の仏菩薩に於て成就す」
と示されております。
この ▲「仏菩薩」 と言われておるところに、仏・菩薩ともに能化の立場ということがはっきりと説かれております。
また、『文句』の一番最初の四悉檀に約する所では、
▲「一月万影は孰(いず)れか能く思量せん」
という文がありまして、これを妙楽大師は、
▲「諸菩薩の実本は測り難きを明かす」
と釈しております。
つまり、これは仏・菩薩が全く同体であるという解釈であります。
そのような意味から、天台大師や妙楽大師は、釈尊と上行とは名前は異なっておるけれども体は同じであると拝していたことが推せられます。
さらに天台大師や妙楽大師は、上行菩薩が久遠の古い仏様であるということをはっきりと述べております。
涌出品において地涌の菩薩が出現し、お釈迦様の周りを三oしたあとに釈尊に問訊し奉ります。すなわち、
■「少病少悩にして、安楽に行じたもうや不や(開結四七七n)
■「教を受くること易しや不や」(同n)
という問訊でありますが、この経文について天台大師は、
▲「能開の者は皆是れ古仏なり(乃至)菩薩は其の迹(の化導の能所)を随喜し、如来は其の本(の能所)を称歎したまう」
と、釈尊に対して能く問い奉る者は「古仏なり」ということをはっきりと述べているのです。
それをさらに妙楽大師は、
▲「今菩薩は尚是れ古仏なりと歎ず。密かに今仏・今成に非ざることを表す」
と釈しております。
つまり、教相上の上行菩薩を観見して、久遠の内証の上行菩薩を久遠の古仏と拝しているのです。
こういう点から総合して、やはり我々は、内証の久遠の上行菩薩様を正しく拝さなければならないのであります。
これが第二番目でありまして、第一番目が在世出現の外用の上行、第二番は久遠の釈尊内証所具の上行菩薩、同体の上行菩薩ということになります。
最後の三つ目が大事なのです。
これは末法出現の上行菩薩であります。
大聖人様御自身は、謙譲の語をもって直ちにはお示しになっていない文も多いけれども、総合帰結する御指南を拝するときには、末法出現の上行菩薩様が大聖人様であるということは明らかであります。
特に私が不思議と思っておるのは、『開目抄』と『観心本尊抄』なのです。
まず『開目抄』においては教相の上行菩薩様をずっと述べていらっしゃるのです。
これは『開目抄』をきちんと読んだ人は判ると思いますが、末法出現の上行菩薩についてはひとことも触れておられないのです。
つまり、
■「法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(平成新編御書五三六n)
という有名な文や、
■「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はり」(同n)
という釈尊の本門の一念三千の法門をお説きになっている所もあるが、それらの元として、釈尊が久遠をお示しになれたのは上行菩薩の出現によるのであるという意味の教相がずっと示されているだけなのです。
それにもかかわらず、『開目抄』では「日蓮」という語が実にたくさん示されているのです。
長い御書ではありますが、三十数ヵ所も示されております。
このように「日蓮」とお示しになっていながら、上行菩薩様については釈尊の顕本にかかわる教相上の用きしかお示しになっていないのです。
そして、法門の内容としては有名な内外・権実・権迹・本迹・種脱という五重相対が説かれております。
これは、上行菩薩様が釈尊から付嘱された法体を最終的に解明あそばすところの段階において従浅至深して御指南されるところの法門であります。
ところが、『観心本尊抄』において示される上行菩薩は、ほとんどが末法に出現するという在り方なのです。
教相上の釈尊の顕本という面における上行の用きも少しは示されておりますが、御文のポイントに説かれておるのは、上行菩薩、地涌千界が末法に出現するということなのです。
ここが同じ時期でありながら、『開目抄』の在り方とはぐるっと変わっているのです。
したがって、在世の上行ではないのです。
しかも、『観心本尊抄』には、一代一経三段・法華経一経三段・迹門一経三段・本門一経三段、さらに文底下種三段の五重三段の法門が従浅至深した形で説かれてありまして、『開目抄』の五重相対と全く軌を一にする法門の在り方なのです。
これは、明らかに上行菩薩様が出現して説き顕される内容であります。
『開目抄』において五重相対の法門と主師親三徳の日蓮をお示しになり、同時に『観心本尊抄』において五重三段の法門と末法出現の上行菩薩様をお示しになるという、この二つが相まって、日蓮の御名において御出現あそばされる方が末法の上行菩薩様であることは明らかであります。
また、不思議なことに、『観心本尊抄』には、最初の一念三千の、
■「夫一心に十法界を具す」(平成新編御書六四四n)
の文から最後の、
■「一念三千を識らざる者には云云」(平成新編御書六六二n)
の文までの間、日蓮という御名が一ヵ所もないのです。
上行の出現は数ヵ所あるけれども、日蓮の御名はないのです。
ところが『開目抄』のほうは三十数ヵ所も「日蓮」の御名が示されているのです。
しかも、この『開目抄』には、
■「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。
此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。
みん人、いかにをぢぬらむ」(平成新編御書五六三n)
という、あの有名な相伝の御文が示されております。
この文については日寛上人が、久遠元初の自受用身として発迹顕本あそばされ、その自受用身の御魂が佐渡に至り、御本尊等を顕されたということであると御指南されておりますが、これが日蓮の御名をもって著された『開目抄』に示されておるのです。
また、
■「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」(平成新編御書一六八五n)
という『百六箇抄』の冒頭の御文について、日寛上人は、
●「若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり、若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり」(学林版六巻鈔二〇四n)
と再誕の語が二重にかかることを御指南であります。
すなわち、一往は上行菩薩の再誕日蓮、再往は久遠元初の自受用報身如来の再誕日蓮であるということです。
これは、今の『開目抄』の発迹顕本の御文を拝し、それが日蓮という御名のもとにお示しになっておることから拝せば明らかであると思います。
つまり、法体付嘱の手続きの上から来ると、釈尊在世においては日蓮という御名では出現されていないのですから、どうしても上行菩薩様の筋から末法に御出現になるのです。
それが結要付嘱の筋道なのです。
すなわち、上行菩薩様として付嘱を承けられている故に、
『観心本尊抄』においては、上行菩薩様が末法に出現され、その付嘱の法体を顕され弘められるとお示しになっているのです。
しかし、上行菩薩様は即日蓮大聖人様であらせられる故に、久遠元初の顕本をなさるのは日蓮の御名においてなさるのです。
ここに、『観心本尊抄』と『開目抄』の相互の在り方がよく拝せられると思うのです。
ですから、『百六箇抄』の「下種の法華経の教主の本迹」の項では、
■「自受用身は本、上行日蓮は迹なり」(平成新編御書一六九五n)
と、上行と日蓮とをはっきりと一緒にされております。
これは非常に珍しい文体であります。
上行は即日蓮であり、日蓮即上行であるとして「上行日蓮」と示されております。
これは自受用身から下ってきて、一往、上行日蓮が迹であります。
問題はその次の御文です。
■「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」(同n)
再往の自受用身についての顕本・再誕の意義を、内証という意味における本因妙の教主として御指南されておる点は、先程の
■「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」
と全く同じでありまして、結局、弘通の法体を最後的に示されるときには久遠元初の人法に帰るということなのです。
先程、『開目抄』と『観心本尊抄』が同じ佐渡において説かれ、しかも片方は五重相対、片方は五重三段、片方は日蓮の御名をもって法華経の行者として主師親三徳を顕され、片方は上行菩薩が末法に出現するということをお示しになっているということを申しましたが、これと同じ趣旨が、時期が少し離れるけれども、久遠元初の法体を顕される『当体義抄』の御文と、先程の『総勘文抄』の久遠元初の釈尊のところに仏法の根本をお示しになる文との二つにもはっきりと拝せられるのです。
『当休義抄』の、
■「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。
之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。
之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。
聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。
故に妙覚果満の如来と成り給ふなり」(平成新編御書六九五n)
については、『当体義抄文段』に、■「因果倶時・不思議の一法」 は九因一果を顕すということと十界各互の因果を顕すという二重の面からの御指南があり、『観心本尊抄文段』においても、
●「自受用身の一念の心法なり」(日寛上人文段集四五八n)
という御指南があります。
ところが、今、▼「『理を観じて』 ということは、久遠元初には妙法の理だけがあって、人はいなかった」 というような愚かなことを言い出している者がいるのです。
しかし、『総勘文抄』には、
■「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」(平成新編御書一四一九n)
と、 ■「五百塵点劫の当初」 という語をもって久遠元初をお示しになるとともに、はっきりと久遠元初の凡夫、人をお示しになっていらっしゃるのであります。
したがって、『当体義抄』の御文は理を中心として、 ■「因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す」 とあるから法が中心になっており、法だけであると思うのは全くの誤りなのです。
これは人に即する法ということ、つまり、法の存在覚知には必ず人があるということであり、『総勘文抄』のほうは人に必ず法が具わっておるということで、別々のものではな
く、表裏一体の御指南なのです。
また、この両方が久遠元初の一念の心法、久遠元初の一身の当体をそれぞれがお示しになっているということは明らかでありますし、同じように「開観両抄」において法と人を裏表にして御指南されておるというところに実に深い意義があると思うのであります。
結局、上行菩薩様は久遠元初の釈尊の己心所具の菩薩であります。
しかし、末法に出現する場合においては上行菩薩の再誕であり、再往は久遠元初の自受用報身の再誕なのです。
そうなると、久遠元初の釈尊と久遠元初の日蓮大聖人様と、御指南が両方あることになります。
特に『百六箇抄』においては、
■「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり」(平成新編御書一六九六n)
という御文がありますし、そのほかにも示されております。
しかし、釈尊という名称は、小乗の釈尊、三蔵教、通教、別教、円教、大乗、権大乗、実大乗、さらに迹門、本門、すべて釈尊であります。
この本果の釈尊のもう一つ奥の本因妙の元初の当体として、『総勘文抄』で久遠元初の釈尊とお示しになっているのです。
つまり、段階的に相対しているのです。
すなわち、相対した上からの久遠元初の仏身の御名がそこに示されているのです。
ところが、大聖人様は末法に御出現あそばされて直ちに久遠元初をお示しになるのです。
もう相対はないのです。
したがって、お釈迦様の久遠元初以来の化導もことごとく大聖人様の所持し給う絶待妙の妙法のところに具わるというように、私は拝しております。
また、『百大箇抄』に、
■「日蓮は脱の二妙を迹と為し、種の二妙を本と定む」(平成新編御書一七〇〇n)
という文があります。
「脱の二妙」というのは、釈尊の一代仏教における権実・本迹・種脱等それぞれの相待妙・絶待妙であります。
これは、迹門・本門の間においてはないという説もあるけれども、『籤』七にも、
▲「今此の本門は身に約し事に約す。身事を開すと雖も猶、須く理を開すべし」
と言うのでありますから、迹理と本理は同じであるという説は天台の方面のなかの一面であって、その内証では迹理と本理は異なり、本理は迹理より一重深いのです。
同じ妙法蓮華経だから、迹門の「諸法実相」と本門の「如来如実知見。三界之相」(開結四九九n)とは同じであるという説もあります。
皆さんのなかにも同じであると思っている人がいるかも知れませんが、それは誤りです。
経、すなわち妙法は同じであるけれども、さらに本迹の違いにおいて迹理・本理がおのずと開されてくるのであって、そこに当然、相待妙・絶待妙が存するのです。→
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(参考※日蓮正宗要義 相待・絶待の二つの開会があるが、その中の
●相待開会とは、従来四十余年の間の華厳・阿含・方等・般若等の経々の教法・修行・人位・真理は、すべて最高一仏乗の真実に至らしめるため、仮の法を用いたものであり、真実の教・行・人・理は法華経に初めて説き示すものとして、爾前経の不真実に対して、法華の真実を顕わすことをいう。すなわち諸経と相待し、比較して法華経の妙義を顕わすのである。
●次に絶待開会とは、法華経以前の各経々は、本来法華経から出たものであり、別体ではない。故に法華経が説かれたうえは、各々独立した存在ではなく、すべて法華経に帰一して、その体内の方便教であると決する。これを絶待開会という。)
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→ 迹の教と本の教、迹の行と本の行、迹の人と本の人、迹の理と本の理、すべてが違うのですから、当然、相待妙と絶待妙は存するのです。
それは文上と文底においてもそうです。
したがって、脱の二妙は釈尊の化導の範囲ですから、■「種の二妙を本と定む」 とあるのです。
■「種の二妙」 とは、大聖人様の下種仏法の御法門における相待妙と絶待妙です。
これは先に申しました付嘱の本法であります。
結要付嘱の妙法蓮華経の本体が絶待妙なのです。
そこから権実相対・本迹相対・種脱相対と顕れてくるのが、大聖人の御法門における相待妙の形なのです。
だから、下種の上からの相待妙があるけれども、そのすべては人法ともに絶待妙に開会されるのです。
したがって、
■「然して相待は迹、絶待は本なり」(平成新編御書一七〇〇n)
とおっしゃっているのです。
下種の相待妙と絶待妙という二妙においても、さらに下種の相待妙は迹で、絶待妙が本なのです。
それが先程申し上げた下種の久遠元初即末法の人法一箇の日蓮大聖人、南無妙法蓮華経の御本尊の当体としてはっきりとお示しになっております。
この大講堂の御本尊様は上行菩薩の末法出現を讃文に示されているけれども、「日蓮」の御名が脇にあるのです。
しかし、本門戒壇の御本尊様のところに開会され、その絶待のなかの御本尊と拝すれば、当然、戒壇の御本尊様と同じ御利益があるのです。
ですから、御利益がないと言っているのではありませんが、ただ一往、相対的に論ずれば、建治以前の御本尊、特に文永等の御本尊は未究竟であるということが、寛師の御指南からも拝せられるし、色々な意味において言えるのであります。
要するに、最終の三大秘法整足の本門戒壇の大御本尊様の人法一箇に一切を束ねたところに下種の絶待妙が拝せられるのであります。
色々と申しましたが、そのような意味から上行菩薩様の在り方は、
一つは釈尊在世の上行菩薩、
一つは久遠元初の内証の上行菩薩、
さらに末法出現の上行菩薩が存するのです。
そして、この末法出現の上行菩薩は、一往、付嘱の手続きの上から上行菩薩として御出現になって承けられた法を弘められるけれども、その弘められた法の内容を相待・絶待にかけて、その妙義を下種の本法として顕される上からは久遠元初の仏様として顕れるのです。
難しいかも知れませんが、その弘法の筋道は、きちんと立て分けていかなければなりません。
そのような意味から、『開目抄』や『本尊抄』、特に『開目抄』において五重相対を示されておるわけであります。
すなわち、有名な、
■「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(平成新編御書五二六n)
という文において申し上げれは、
■「但法華経」 というのは ●「一代諸経の中には但法華経」(日寛上人文段集四四三n)という意味で権実相対、
■「法華経二十八品の中には但本門寿量品」(同n) というのは本迹相対、
■「本門寿量品の中には但文底深秘の大法」(同n) というのは種脱相対というように、
「但」の字が三ヵ所にかかるということを寛師が御指南されております。
その上からの道筋に則って、きちんとした意味で法門を立て分けなければならないのです。
ところが、それをいい加減にする者が多くて困るのです。
権教の法相をもってきて、▼「自分はこの経典が気に入ったから、これが一代仏教のなかで一番勝れるのである」 というように考えるのが各宗の祖師であるし、今時の新興宗教の連中でもあります。
あるいは▼「般若経の『色即是空 空即是色』が最も尊い」 などと考えて、そのようなものを得たり腎しと喧伝している者達もおります。
そのほか、釈尊は様々な教えを説かれております。
しかし、それらは釈尊が応病与薬という意味から説かれ、また、
■「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす」(開結八八n)
と言われた方便の教えであって、
■「四十余年には未だ真実を顕さず」(同n)
と言われた経教なのです。
大聖人様が特にその筋道を厳格に御指南されているのが、『諸経と法華経と難易の事』です。
これは、諸経はことごとく易信易解であり、法華経は難信難解であることを説かれております。
なぜかといえば、法華経は随自意、諸経は随他意の教えだからです。
つまり、他意に随い、衆生の機根に応同して説くが故に信じ易く解し易いのであります。
それに対し、法華経は仏の意に随って悟りをそのまま説く故に信じ難く解し難いのであります。
その随自意の難信難解の教えを信仰していると口では言いながら、▼「ドイツ語を聞いているみたいで難しくて解らない」 というようなことを言った者がありましたが、難しいのは当然で、本当の法というものは易しく説けるものではないのです。
解り易く説こうとするならば、必ずそこに方便が入ってくるものなのです。
したがって、下手に民衆に応同して法を説く必要はないのです。
第一、民衆に応同しないのがお釈迦様の法華経なのです。
民衆に応同して色々な機根に合わせて説いた爾前経の一切を払拭して、仏自らの意に随って説かれたのが法華経です。
その意味では、「民衆、民衆」と言うことは本当の仏教が解っていない証拠でもあり、まさに池田大作の狂いの元はそこにあるのです。
このことはもっと皆さんも考えていただきたいと思います。
真の仏法は、仏様の意が中心になるのです。
したがって、大聖人様の三大秘法の場合は、大聖人様の御意を中心にして三大秘法を拝さなければならないのです。
初めに申しました戒壇に関する池田大作の発言を見れば、仏の意を無視した池田の心を中心にし、その狂った見解による民衆を中心にして大聖人様の三大秘法をとらえていることがよく解ると思います。
■「されば機に随って法を説くと申すは大なる僻見なり」(平成新編御書八四六n)
という御文にも当たるでしょう。
結局、摧尊入卑なのです。
ですから、創価学会の人達に対して、「あなた方の仏法は摧尊入卑です」ときちんと指摘していただきたい。
池田大作がこの摧尊入卑の元凶なのです。
創価学会の者達と話すときにはこれをきちんと言ってもらいたい。
謗法の者に対しては徹底して破折しなければいけません。
それを、宗教家として人格を疑われるというような考えから、尊称を付けて池田大作を呼ぶ人がいるようですが、正邪をはっきりと峻別する上からは呼び捨てでいいのです。
「池田大作はこのような誤りを言っているが、これは摧尊入卑なのです」と堂々と破折するべきなのです。
大聖人様がそうです。
■「民とも下し鬼畜なんどと下しても、其の過ち有らんやと意得て宗論すべし」(平成新編御書一一〇九n)
と仰せになって、権教を説いた釈尊については、
■「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず」(同n)
とまで仰せになっております。
我々は大聖人様の弟子として、このような高い気迫をもって、世間の小さな名聞などは気にせず、堂々と謗法を破折していこうではありませんか。
とにかく、今の池田大作や創価学会ほど、この摧尊入卑のはなはだしいものはないのです。
尊を摧いて卑に入れるということですが、先程の問題も御本尊様の問題も一切が摧尊入卑の現証なのです。
さて、最近、松戸某という者が非常に複雑晦渋な言い方でおかしなことを色々と言っているのですが、あまりにも狂っているために、正しい法門を勉強してきた人は、最初、何がなんだか解らないと思うのです。
柄のないところに柄をすげるというのか、恣意的に、わがままいっぱいに勝手なことを言っていながら、こじつけであっても色々な御書を引いているので、さらに複雑な面があるのです。
これについては、宗内の志ある人達が論破してくれると思いますが、やる以上、こういう大作の代弁的謗法教学は撤底的に破折してもらいたいと思います。
それで、これに関して少し申しておきますと、九界即仏界と仏界即九界、それから九界即十界、このようなことをやたらと言うのです。
至る所に出してくる。
しかし、この九界即仏界・仏界即九界というのは、一念三千を構成するための基本的な原理であります。
それを具体的な形で上行菩薩の在り方であるとか、釈尊の在り方とか、しまいには南無妙法蓮華経と日蓮大聖人を相対して、南無妙法蓮華経は仏界即九界、大聖人様は九界即仏界だというようなことまで言い出すのですが、このような狂った話はないでしょう。
仏法はそれぞれ、化導の上にきちんと成立するものであることを全く無視した支離滅裂の暴論と思います。
あまりに狂い過ぎているからピンと来ないと思いますが、九界即仏界・仏界即九界ということは、大聖人様は一念三千に帰結されているのです。
『開目抄』の御文でもそうです。
いわゆる、
■「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。
四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕はす。
此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如一念三千なるべし」(平成新編御書五三六n)
とおっしゃっているように、一念三千が最後の帰結なのです。
この文は本門の化導における一念三千を示された文で、つまり本門の法の上において、凡夫の一念三千も仏の一念三千のなかに摂せられる。
そして、久遠の悟りを一念三千として開く道程において、 ■「九界も無始の仏界に具し」 ■「仏界も無始の九界に備はる」 ということが本門の観心の化導の上に説かれるのであります。
それを、自分勝手に分けて法相・法理をいたずらに混乱するのは、我見・我意というほかありません。
それから、もう一つは化導の問題です。
我々が法門を拝する場合に、化導ということを考えないところに仏教の正しい筋道は何も成り立たないのです。
例えば、小乗仏教がなんだったのかといえば、釈尊と小乗の機との間の化導の形であります。
それは権大乗でもそうだし、法華経の迹門でも、本門でもそうなのです。
ただし、その法門の内容は従浅至深の立て分けがあるけれども、その一つひとつは、仏と衆生との化尊なのです。
つまり、この衆生に対してはこのように説くという意味の因縁関係があるのです。
それを外して法門はないのです。
ところが、仏様の化導には必ず衆生が存することを忘れて、何か浮いているような感じで、これがどうの、あれがどうのと言っているのが仏教家連中なのです。
創価学会の者達も、あの松戸とかいう者も内容的には同じです。
ですから、必ず化導の筋目の上から法門を論じなければいけないのです。
これを恣意的に、わがまま勝手に法門を自分中心の考えで論じているということが、既に根本的に狂っているということを見抜いて、法門の正しい立場をきちんと立て分けていくことが大切であります。
その意味において権実あり、本迹あり、種脱あって、大聖人様の下種の本法を顕される法体の相待妙の内容となっておるのです。(つづく)
最近、創価学会では、『ニセ本尊』もそうですが、色々な邪義を言い出しておりますので、我々はそれらの誤りの一つひとつを根本からきちんとつかみ、しっかりと破折してい
かなければならないと思います。
それで、それらのなかの一つとして、このような恐ろしいことを言っております。
聞いた方もあると思いますが、▼「御本尊は仏としての実体ではなく、象徴である」 というのです。
この「象徴」という語を辞書で引いてみると、
「ことばに表わしにくい事象、心象などに対して、それを想起、連想させるような具
体的な事物や感覚的なことばで置きかえて表わすこと。また、その表わしたもの」
(小学館 国語大辞典)
とあります。
つまり、本体は別にあって、それを解らせ、連想させるための具体的な言葉や事物が象徴ということであって、あくまで実体ではないということです。
すなわち、御本尊が象徴であるということは、御本尊は表すための道具であって、本体ともいうべきものがほかにあるということなのです。
では、それは何かというと、民衆の心に具わっておる、凡夫の心に具わっておる妙法蓮華経だというのです。
たしかに、心法妙・衆生法妙・仏法妙という三法妙が説かれ、心・仏・衆生の三つが説かれておりますが、朝から晩まで我見・我欲に執われ、六道を輪廻している凡夫の力でどうして妙法を悟ることができましょうか。
私どもは、大聖人様が御出現あそばされて、やっと妙法を信じさせていただいているのです。
自分の力で悟れる者は一人もいないのです。
まして一般世間の欲深い人間が、自分の力で自分の命が妙法であるなどと悟れるはずはないのです。
とにかく、仏の悟られた妙法が衆生にも具わっているということは説かれているけれども、衆生の妙法が中心本体であるなどとは説かれておりません。
先程、▼「民衆が中心であり、大事である」という、いかにも聞こえをよくして人々を欺く、池田大作の凡夫を中心とする誤った仏教観をお話ししましたが、この衆生の妙法が中心であるということも考え方は同じなのです。
そこに、仏法軽視、摧尊入卑の根本的な考えが存しているのです。
これについてはあとで触れますが、とにかく、御本尊様は象徴であって、我々のなかの仏界を開く道具であるというのです。
ここでまた、あの「仏界涌現」という語が出てくるのですが、これもあとで触れます。
それで、この象徴ということは、要するに抽象的なものを具体的な形象で譬えることですから、我々が覚知することのできないような仏性、妙法の当体を御本尊の形を借りて具象的に示したものが御本尊であり、ここに向かってお題目を唱えるところに我々のなかの本体を覚知できるのであるということを言い出しておるわけです。
これは大聖人様の御指南に照らしてどうですか。
■「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。
日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(平成新編御書六八五n)
との御文一つを取っても、御本尊を象徴であるなどと言うことはとんでもない邪義であることがお解りになると思います。
それから、
■「此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり」(平成新編御書六八九n)
という御文、あるいは、
■「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(平成新編御書五二三n)
そのほか、あらゆる御文において、御本尊様が象徴であるというような御指南はないのです。
第一、仏様を馬鹿にし、無視しております。
彼等にとって、かえって仏様の存在は困る意味もあるのでしょう。
最初は仏様の尊さや勝れた教えを利用しますが、それをどんどん薄めていって、結局、「一番偉いのは池田先生」と言いたいのです。
そのような形で多くの人がだまされ、狂っていくのです。
実に哀れな人達ではありませんか。
やはり、大慈悲の正法を持つ我々が、そのような人々を救っていかなければならないのですから、縁の触れたところ、また縁のないところには縁を結んで、破折して救っていくべきであります。
このように仏様の当体ということを忘れているけれども、草木成仏の原理に背いている面もあります。
『観心本尊抄』において、
■「草木の上に色心の因果を置かずんば云云」(平成新編御書六四五n)
の文等、『止観』や『金k論』その他を引かれて、十界互具と同時に一念三千の非情草木の仏性をお示しになっております。
これは、理具の一念三千から事の一念三千の大漫荼羅をお示しになるわけですが、この御本尊の当体は草木成仏の原理を振り濯ぎたてられているのです。
象徴論は、まさにこれに背くものです。
要するに、彼等は仏様を認めたくないのです。
仏たる実体を認めると、そこから正しい宗門の教学なり信仰に戻らざるをえなくなりますから、それをなるべく薄めて、▼「我々衆生が中心であり、我々衆生が妙法であり、御本尊もそれを表すための道具に過ぎない」と言いたいのです。
昔、▼「幸福製造機」と言っていた時期がありましたが、あのころは世間の人間に解り易く説明する意味で、一番根本のところには御本尊の尊厳を拝する意味があったと思うのです。
戸田城聖という人は、そこから外れたことはないと思っております。
しかし、池田大作は、その一番大事な基本的なところで狂い、自分の我見を中心にして、仏界を蔑ろにしております。
仏法無視、それから、日蓮正宗の仏法の在り方に対する反抗によるところの理論構築の一分とも考えられます。
それから、先程、上行菩薩様の御内証の上から久遠元初ということについて申し上げましたが、『当体義抄』の、
■「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り」(平成新編御書六九五n)
という文についても、▼「これは理を説かれたのであるから時間的な意味での久遠を示し、聖人の存在を想定したものではない」というような言い方をするのです。
また、そのようにしたいのです。
しかし、これは先程も申したとおり、『総勘文抄』の御文に、
■「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時」(平成新編御書一四一九n)
と、明らかに久遠元初における仏様の存在を大聖人様がお示しになっております。
それから、本門の法もそのとおりであります。
今日、特に科学的な実験や証明、また、そこからの推論等によって色々なことが言われております。
例えば、地球の寿命は何十億年であり、それ以前は地球は火の玉であったのだから、生物などいるわけがないという考え方もあります。
たしかに、一往、そのようなことが言えます。
けれども、ある本で、無機物のなかに生物の遺伝子が発見されたということも書いてありました。
そのようなことからすると、やっとその程度のことが解ってきた段階ですので今の科学では解明できない生命の存在というものがあっても不思議ではないわけです。
それはともかく、今の科学の解る範囲のなかで、地球は火の玉であったのだから久遠元初に生物がいるはずはないというような短絡的な結論を持つことは、科学という有限の考え方で真実の無限の仏法を測ることになり、それは誤った姿なのです。
やはり、聖者の広大無辺の悟りと、その上からの教法というものについて、あやふやな考えや疑うような考え方を持ってはならぬということを感じるのであります。
「ビッグ・バン」という語を皆さんも御存じと思います。
これは、何百億光年に広がっている広大な宇宙の一番元はマッチ箱ぐらいの大きさであり、それがこのビッグ・バンという大爆発によって、どんどんと膨張し、現在も膨張を続けているという説で、これも一つの推測に過ぎません。
それから、アインシュタインの相対性原理からいうと、時間も元に戻る可能性があるというのです。
空間であるならば、空間軸を地球として考えると、東へどこまでも行くと元の場所に戻ってくることになりますので解り易いと思いますが、同様に時間も座標軸を湾曲線で考えると元に戻るというように考えられるのです。
直線だと、無限の直線で絶対に元に戻ることはないということですが、どちらが真実であるかは解らないのです。
結局のところ、今の科学は解らぬことづくめであり、おそらくすべてが解明されるということはないでしょう。
したがって、単に今の人間が解っている科学的な事柄だけで、この宇宙法界の生命の一切を考えることはできないのです。
だからこそ、我々は自分の知恵のみでなく、妙法実相の不可思議の「具」の上からの法界の姿、その法界のなかに時間・空間がことごとく具わるという、寿量品の三世常住の仏様の御指南を、我々は信をもって拝すべきなのであります。
ところが、今時の思想にかぶれた松戸某という者は、『当体義抄』の「至理は名無し」の文の表面のみを取って、久遠元初に仏様はいなかったなどということを証明しようとしているのです。
これでは『総勘文抄』の御指南が全くおろそかになります。
それで、結局、日蓮正宗では超越神を信仰していると言って批判しております。
我々は、また、仏教や法華経において超越神などというものは立てておりません。
キリスト教やマホメット教では、我々人間では手の届かない超越神がいて、その神様が我々を創ったとか、天地を創造した等、因果の筋道が立たないことを色々と説いておりますが、当宗においては久遠元初の因が示されております。
さらに、天台大師についても、無始久遠を見ているなどと馬鹿なことを言っております。
しかし、天台大師は明らかに報身有始を取っています。
これはあらゆる所で示されておりますし、●「最初実成の仏」 ということも言われております。
それから、『玄義』の三世料簡段では、
●「三世の諸仏、皆、本を顕さば、最初の実成は若為れぞ本を顕さん」
という問いを構えております。
これは、三世の諸仏がすべて本を顕すのであれば、一番最初に仏になったという五百塵点劫の仏は何を顕本するのかという質問であります。
つまり、お釈迦様は出現されて以来、爾前経をずっと説かれ、最後に法華経の迹門と本門を説かれましたが、本門で説いたのは久遠の五百塵点劫の顕本であります。
この五百塵点劫の仏は、
●「最初始成の仏の若きは既に始めて本を得て、未だ迹を垂るることを論ぜざれば、久迹の発すべき無く、久本の顕すべき無し」
ということですから、この一番最初の五百塵点劫の仏は何を顕本するのかということについて問いを構えられたのです。
そこで天台は、
●「今、有の義を作さば、最初の妙覚は初住を指して本と為す(中略)初住の前は竪に指す所無きも、横に体用あれば即ち体を指すに、豈本に非ざらんや」
と、「横に体用」ということを示されます。
この「横」というところに、本果の仏様の化導のところまでが天台大師の解明すべき領域であるということが拝せられるのです。
ここから先の本因妙の解明は、地涌の菩薩としての付嘱を具体的に受けておりませんので、天台大師には説けないということなのです。
だから、「横に体用」というように曖昧に示して、体用を顕すというように考えれば、そこが本になるというような苦しい表現をしているのです。
それから、皆さんも御存じでしょうが、日寛上人は、迹の本果と本の本果という立て分けを御指南されております。
本果第一番の成道を本とした場合、中間もインド出現もすべてが迹であります。
つまり、これは迹の立場から本を顕したのだから、迹の本果であります。
この本果は、迹の因門を開いて本の果門を顕したのですから従因至果です。
ところが、本の本果というのは、この本果第一番のところを意味するのです。
すなわち、迹の本果をすべて開いて本の本因を顕す。
したがって、どちらも本果の上からの応仏昇進の自受用身であるという意味においては同じであるけれども、この所顕に従えば、この本果第一番の仏は、さらにその根本の上の本因を顕すから従果向因です。
このように本の本因を顕すが故に、本の本果は、迹の本果よりも勝れておるということが『末法相応抄』に説かれております。
そのような意味で、本門の色々な論議が説かれておるのでありますが、さらに大聖人様は、その一番奥の本因妙の上行菩薩の付嘱の法体の内容をお示しになっているのであり、この久遠元初の仏様を『総勘文抄』にもお示しであるし、『百六箇抄』等にも御指南されておる次第であります。
明日の宗学研鑚発表大会においても、「久遠元初と末法の、仏法について論ぜよ」という論題で三人が発表することになっておりますが、ここで気をつけなければならないことは、「始覚」という考え方であります。
私は、迹門の考え方で本門を考えてはいけないと思うのです。
つまり、始覚ということは始めて覚ったということで、何を覚ったかといえば、いわゆる三十二相八十種好等の意味における仏界を覚ったという考え方がありますが、しかし、その上に本門の談道という意味をもう少し考えていく必要があるのではないかと思うのです。
要するに、久遠元初の久遠ということについては色々な御指南があるけれども、有名なお言葉として、皆さんもよく御承知なのが『御義口伝』の■「寿量品 久遠の事」の、
■「久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの侭と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動かさゞるなり」(平成新編御書一七七二n)
という御指南であると思いますが、ここに ■「初めて成ぜず」 とあります。
つまり、久遠の無作三身は始成ではないのです。
無作三身であるが故に始成ではないのです。
たしかに因果の上の修行があり、当然、この因果の修行によって仏身仏体が顕れるということはあるのですが、無作三身の上からすると、無作であるが故に ■「初めて成ぜず」 なのです。
したがって、
■「三十二相八十種好を具足せず、是繕はざるなり。本有常住の仏なれば本の侭なり。是を久遠と云ふなり」(同n)
と、無作であるが故に改めて三十二相を作ることもなければ、そのための修行もなく、本来の常住の仏であると示されております。
しかし、ここで ■「本の侭」 ■「是を久遠と云ふなり」 と示されながら、今度は、
■「実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり」(同n)
という開覚を、また、お示しになるのです。
ここの所が、この本門本覚の上からの本地難思境智の妙法の不可思議なところなのです。
つまり、智の妙法蓮華経が境の妙法を覚るのであるから、本来、境妙法蓮華経は本有常住のはずであります。
さらに智妙法蓮華経も、境に具わる智であるとするならば本有常住であるし、開覚という意味からするならば久遠元初という意味がそこに示されてくるのです。
ここは実に難しいところであると思いますが、そこが本地難思境智で、少し法門をかじったぐらいで解るならば、本地難思境智ではありません。
そしてさらに、この境智冥合にきちんとした因果をお示しになるのです。
そこに仏法の久遠元初の法体本源があるのです。
考えようによっては、文底無作三身は、一身即三身・三身即一身ですから、三身に即する一身、すなわち一身を面とする上からは自受用報身如来であり、自受用報身如来の一身に即する三身が無作三身であります。
さて、大聖人様も衆生が仏であるということを、本有常住という語においておっしゃっております。
『船守弥三郎許御書』に、
■「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」(平成新編御書二六二n)
と示され、『教行証御書』には、
■「五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人々は思し召し候。
我等が如き凡夫、無始已来生死の苦底に沈淪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を無作本覚の三身と成し、実に一念三千の極理を説く」(平成新編御書一一〇七n)
という有名な御文もあります。
これは、我々迷いの凡夫の生死の苦底に沈淪しておる姿がそのまま寿量品の無作の仏様なのだという御指南ですから、ここの所を変に解釈して、衆生本仏を立てたい者もいるかも知れないけれども、それは間違いなのです。
大聖人様御自身が、釈尊といい、久遠元初の釈尊といい、仏の中心を明らかにお示しになっております。
つまり、これは三身相即の上の法身の内容のなかにおける衆生本仏をお示しになっているのです。
ですから、これを中心に取ると、どうしても法身だけになってしまい、報身・応身がどこかへ行ってしまうのです。
『開目抄』にも、
■「涌出・寿量の二品を除きては(中略)法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(平成新編御書五三六n)
と示されておりますように、寿量品の法門を説く以上は三身常住でなければならないのです。
したがって、久遠元初を説かれたのが『総勘文抄』『当体義抄』の御法門と拝することができるのです。
また、このような馬鹿げたことも言っているのです。大聖人様が、
■「日蓮が修行は久遠を移せり」(平成新編御書一六九四n)
と御指南であるから、久遠に仏様はいないというのです。
それで、久遠はなく、末法だけが存するというのです。
しかし、そうであるならば、大聖人様は本無今有の仏様になってしまい、迹門の仏と同じになってしまいます。
最近の創価学会の狂った考え方の中心は、先程の摧尊入卑と同時に、この本が無くして今が有るという本無今有なのです。
創価学会の存在自体がそうです。
七百年の間、宗門が大聖人様の正しい教えを伝持してきたからこそ、彼等がその教えに遭うことができ、その功徳を得て、あれほどの団体になったのです。
その本体である宗門を否定して、いかにも自分達が中心であるかのように言っておりますが、
「あなた達は、たしかに今は有るようだけれども、すべては日蓮正宗から出たのではないですか。
七百年の間、日蓮正宗が正しい教えを伝持してきたからこそ、今のあなた達があるのである。
だから、宗門を否定することは、あなた方自身をも否定することになるのですよ」と堂々と言っていただきたい。
また、「我々が広宣流布した」などと威張るのであれば、「その本は日蓮正宗における七百年の伝持であり、教えが勝れる故であるから、それは本末転倒である」と言っていただきたいと思います。
さらに、創価学会の「会則」の初めには、
「日蓮正宗の教義に基づき」
「日蓮正宗を外護し」
ということを謳っております。
それでいながら、日蓮正宗に背き、嘘や捏造やすり替えによって悪口誹謗をなし、様々な嫌がらせをしております。
これは名が有って実が無い、有名無実です。(※こういった破折に耐えかねて、その後学会は、会則を何度も改変してきている。)
これら摧尊入卑、本無今有、有名無実の一つひとつをきちんと頭に入れて、創価学会のなかで迷っている人達に指摘していただきたいと思います。
次に、今年の一月一日から唱題行をしましたが、この唱題行の功徳は当然のことでありますが、我々は唱題の在り方の基本を今一度きちんと肚に入れておくべきであると思うのです。
今までの宗門においては、御本尊の立て分けや身延派との相違、あるいは造仏雑乱など、本宗の御本尊が正しいということを中心として示してきた形があります。
今後もそれは大事であるけれども、それと同時に、これからは真の功徳を感じ、実証を得ていくための正しい唱題、そして間違ったお題目の唱え方をしている人間に対して、きちんとしたけじめをつけていかなければならないと思うのです。
そこで、私は、お題目の基本は「境智冥合」であるということを再確認しておきたいと思うのです。
それには、御本尊を真に仏様と拝することが一番の根本です。これは信です。
真の題目が大事なのです。
御本尊を仏様と拝さないで象徴だなどと考えていたら、結局、それは道具としてしか見ていないのですから、御本尊に対する信心が起こるはずがありません。
口ではもっともらしいことを言っていても、肝心の信心が全くなくなっているのが、今の創価学会の誤った姿の根本なのです。
御本尊を御本仏と拝し、大聖人様の御当体と拝さなければ、日蓮正宗の信心は成り立たないのです。
そして、仏様と拝する以上は、その仏様と我々とが境智冥合という上から一体となるところに成仏の基本があるのです。
そこで、「仏界涌現」という語が引っ掛かるのです。
この語自体が悪いということではないのですが、先程の象徴というような考えをもって、▼「我々の本体の妙法の仏界を現すのだ」というような意味で御本尊を道具と考えてお題目を唱え、「仏界涌現」と言うことは明らかな誤りであり、まさしく大謗法なのです。
摧尊入卑もいいところで、これは禅宗と同じなのです。
自分自身の妙法を御本尊という道具を借りて現すということは、妙法という語を使っているだけで、その本質は座禅を組んで精神統一したところが仏であるという禅宗と変わらないのです。
■「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂う」 という■「未得謂得 未証謂証」 であります。
むしろ、創価学会の者達は、どのような手段や方法を用いても創価学会の組織や池田大作を守るところに仏界涌現があるなどとたぶらかされておりますので、もっと悪いのです。
嘘や捏造や暴力によって人を陥れることをなんとも思わないで悪徳の限りを尽くすような心が仏界涌現ということになったら、実に大変なことです。
そこに、仏界涌現などということを軽々しく言うことがいかに恐ろしいことであるかを、我々は考えなければいけないと思うのです。
やはり、一番大事なことは大聖人様のお意の上から御本尊を仏様と拝して、我々は迷いの凡夫であるけれども、その迷いを信心の一途をもって打ち払い、仏界即九界、九界即仏界の修行のお題目を唱えて境智冥合し、不思議の一念三千において成就するということです。
また、日寛上人は『当流行事抄』に「唱題篇」をお示しになっておりますが、唱題の心地ということについて、『法華取要抄文段』に、
●「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。
口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。
境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具、百界千如、一念三千、事行の南無妙法蓮華経これなり」(日寛上人文段集六〇伍n)
という御指南をされております。
これは、非常にはっきりしております。
要するに、御本尊は仏界、我々は迷いの九界なのです。
そして、迷いの九界の我々が信をもって仏界である御本尊を拝して南無妙法蓮華経と唱えるところに、仏界の御本尊が迷いの我が心に染む、つまり、御本尊がこちらへお
いでくださるのです。
御本尊が我が心に深く染むから、仏界即九界の本因妙になるのです。
この本因妙と本果妙は一念の因果であるから、因のところに直ちに果がある。
信心があれば直ちに唱題があるから、
●「信心はこれ唱題の始めの故に本因妙なり。唱題はこれ信心の終りの故に本果妙なり。
これ則ち刹那始終一念の因果なり」(同四六一n)
ということも御指南であります。
また、伝教大師の文として『本因妙抄』に「刹那成道」ということが説かれてあります。
すなわち、
■「仏界の智は九界を境と為し、九界の智は仏界を境と為す。境智互ひに冥薫して凡聖常恒なる、是を刹那成道と謂い」(平成新編御書一六八三n)
という文です。
この ■「仏界の智は九界を境と為し」 というところに、今の信の題目の意味があると思うのです。
つまり、●「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり」 という文に当たります。
次の ■「九界の智は仏界を境と為す」 ということも、信が根本であることを示します。
この ■「九界の智」 というのは、『四信五品抄』に明らかなように、当然、末法に約すれば以信代慧ですから、我等が仏界の御本尊を信ずれば、すなわち、信心が我等九界の智であり、即、仏界を境となすのであるから、それで境智冥合になるわけです。
やはり私は、寛師の御指南といい、この刹那成道の御文といい、境智冥合のところが修行の本質であると思うのです。
つまり、御本尊を拝してお題目を唱えるということは、御本尊の仏界と我々の九界とが冥合して、九界即仏界、仏界即九界、十界互具・事の一念三千を成ずるのです。
これについても創価学会の者達はおかしなことを言い出しております。
十界互具ということは、仏界も十界互具なら、衆生も十界互具であり、仏は仏界即九界、衆生は九界即仏界で、本質的に仏界を具えていることに変わりはないというのです。
たしかに、我々にも十界互具しているということは理論的には当然のことであるけれども、我々凡夫はそれが判らないのです。
それを判らせていただくのは仏界を中心とした仏界所具の九界の意義における事の一念三千として顕れ給う御本尊であり、大聖人様の大慈大悲によるのです。
大聖人様が『観心本尊抄』に、
■「仏界計り現じ難し」(平成新編御書六四七n)
と御指南になり、仏界を現ずることが実に難しいということを示されているのはその意味なのです。
けれども、創価学会の者どもはこの御指南の意味が全く解らないのです。
また、だからこそ、先程申し上げた受持即観心の深い意義を、この『観心本尊抄』の観心段の最後にお示しになっているのです。
簡単に我々凡夫の仏界を現したり、悟ったりできるのであれば、末法の凡夫はすべて簡単に仏になっております。
しかし、世間の人間は欲に執われた三悪道の者ばかりではありませんか。
全く仏界は現じ難いのです。
この現じ難い仏界は、仏様を正しく現ずるところにこそ、成就できるのです。
ですから、境智冥合を忘れて仏界涌現はないのです。
あくまで御本尊と境智冥合したところに我々の仏界が存するのであります。
また、■「一心欲見仏 不自惜身命」 の文について日寛上人は、
●「一心欲見仏とは即ち是れ信心なり、不自惜身命とは即ち唱題の修行なり」(学林版六巻鈔二四五n)
と仰せであります。
この ■「一心に仏を見たてまつらんと欲す」 は、戒・定・慧のうちでは慧です。
一心というのは一つの心、信心の姿ですから、先程も申しました以信代慧の上から慧になります。
したがって、一代仏教の一切の慧のことごとくが一心欲見仏のところに凝集され、まとまっているのです。
さらに、『義浄房御書』の御指南にお示しでありますが、この一心欲見仏を、
■「心を一にして仏を見る」(平成新編御書六六九n)
と読みますと、心が一つになる、定まるのですから定であります。
すなわち定・慧が「一心欲見仏」の信心のなかにきちんと納まっているのです。
故に、その功徳として、
■「一心を見れば仏なり」(同n)
ということが示されているのであります。
そこに我々の仏界が現れるのです。
これを仏界涌現と言うのであれば間違いではありませんが、この境智冥合の一心欲見仏を忘れて、象徴の道具や通過点として御本尊を拝するところに我々の命の仏界が現れるということはとんでもない誤りであります。
そのような在り方においては、自分では仏界涌現と思っていても、三悪道や、せいぜい六道の涌現に過ぎないのです。
今の創価学会の者達がみんなそうでしょう。
他人の不幸を喜び、陥れ、どのような悪行も平気で行う、そのような生命境界になってしまうのであります。
この辺をよく肚に入れて、破折の時にはもちろん、御信者の方々を導くためにも、この信心の基本を話していただきたいと思います。
次に、●「不自惜身命とは即ち唱題の修行なり」 とおっしゃっております。
不自惜身命は、当然、身命を惜しまないということであります。
まれではありますが、身を惜しむ僧侶がいるということを耳にします。
疲れているなどという自分勝手な理由で御信徒の法事等を断ってしまうというのです。
これは不自惜身命ではありません。
どんなに疲れていても、少しくらい身体の調子が悪くても、「自分の身命などはどうでもいい、これが仏道修行なのだ」という気持ちで御奉公してごらんなさい。
不思議なもので、そのように思いきったとき、疲れなどどこかへ行ってしまって、本当の力が出てくるものなのです。
皆さんにもそのような経験があるでしょう。
私もそうです。凡夫ですから、身体のことや心のこと、悩みもあります。
けれども、不自惜身命であると思いきれば、身体も心も、また何を言われようとなんでもなくなるのです。
ですから、我々はこの不自惜身命の気持ちさえ持っていれば、何も恐れるものはないはずなのです。
このようなことを言うと、また創価学会から何か言われやしないだろうかなどというちっぽけな考えが起こるはずはないのです。
そのような考えを持つ者は、この不自惜身命の気持ちをしっかりと持っていただきたい。
自分は法のために身命を捨てるという覚悟でいれば、恐ろしいものは何もないのです。
この不自惜身命の気持ち、■「一心欲見仏 不自惜身命」の心で唱えていくお題目が大事であり、これこそが仏道を成就する道なのであります。
それで、『御本尊七箇之相承』のなかに、
■「真実の十界互具は如何。師の曰わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり」(日蓮正宗聖典三七八n)
という文があります。
御本尊は仏界、我々は九界であるという明らかな御指南があるのです。
創価学会のような思い付きや自分達の都合による法門ではなく、これが厳然たる真実の十界互具であります。
したがって、先程の日寛上人の御指南もこの御相伝に基づくところであり、御本尊に境智冥合していく唱題こそが、真の事の一念三千の唱題修行であることを再確認していただきたいと思います。
それから、彼等は「人間主義」ということも言っております。
これも現代の風潮に迎合してもっともらしく言っておりますが、結局は迷いの人間を中心とし、迷いの凡夫の考えから脱け出ておりません。
しかし、仏教を信ずるということの一番基本は、迷いの人間が仏を信ずるということなのです。
それは小乗仏教であろうと大乗であろうと、権教であろうと実教であろうと、この基本は変わらないのです。
ですから、人間主義という語自体が既に大聖人様の大慈大悲を否定しているのです。
要するに、自分達が人間主義の上から一人の人間を大切にするのに対して、宗門は権威主義で、僧侶ばかりが偉くなって信徒を馬鹿にしていると言いたいのです。
また、自分達の立場を立てる上で、言わなければ都合が悪いのでしょう。
しかし、日蓮正宗においては、大聖人様の仏法は絶対として拝し奉りますが、それ以外において、権威は存在しません。
皆さんが私に合掌礼をされるのも、これは私個人にではなく、ただただ大聖人様の法を受持するという立場に対して合掌されるのであって、本当のことを言えば、私みたいな不徳な人間に対して、たとえ私の弟子の所化小僧が合掌礼をしても、もったいないと思うのであります。
むしろ私は、皆さんの弘法に対して、また御信徒の尊い護法に対して、逆に合掌申し上げたいと感じております。
あの不軽菩薩があらゆる人に仏性を見て礼拝しましたが、私もそのような気持ちを持っております。
ですから、権威主義などという気持ちはさらさらないつもりです。
どのような人であろうと尊い仏性を持っており、その成仏の貴い命を敬うことは実に大切なことです。
けれども、我々はその尊い命と同時に三悪道の拙い命も持っております。
そして、たいていの人はその拙い命が表となっている故に、我々僧侶がそれを呵責し、教導するのです。
我々はそのような立場にあるというだけで、けっして権威を振りかざしているわけではありません。
けれども、人間主義という名のもとに、凡夫の三悪道等の考えを中心にすることは実に怖いことなのです。
今の創価学会のあらゆる面から社会的に顰蹙を買っておる姿、自分達の利得のためにはどのような悪行も辞さない姿を見ればお解りになると思います。
どのような美辞麗句を並べても、それは人を欺くためであり、裏では少しでも利得を取ろうと汚い悪行を行っております。
これは、皆さんが身にしみて感じられていることと思います。
大聖人様の仏法を信じているのであれば、その功徳が実にすごいということを信じているのであれば、裏で姑息なことをする必要などないはずです。
したがって、大聖人の仏法を信ずる我々は、まず正直でなければならないのです。
正直でないということは、御仏意を信じられないのですから、信心がないのです。
また、どのような損をしても正直を貫くことこそ、本当の人間としての正しい生き方であると思います。
正直に生きれば、一時的には損をしたようでも、まず徳が具わり、そして必ず物質的にも得が現れてきます。
世間にも、「損して得を取れ」という言葉がありますが、一時、損のように見えても、正直にやっていけば、世間的な商売においてもそうであると思います。
要するに、正法を真に信ずるということは、正直ということが大切であるということであります。
自我偈の、
■「以常見我故 而生}恣心 放逸著五欲 堕於悪道中(常に我を見るを以っての故に而も}恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん)」
(開結五〇九n)
は、実に怖い文です。
今の創価学会はこの文そのものです。
また、十四誹謗の一つひとつを考えてみても、すべて創価学会に当てはまっております。
池田大作は}慢そのものでありますし、それに連なる者達もそうです。
さらに、懈怠、計我、浅識、すべてが当たっております。
著欲にしてもそうです。
病人の布団をはがしてでも財務を出させようとするというような話も聞いておりますし、金銭にまつわる不正の話もあとを絶ちません。
不解についても、今の創価学会の者どもの、正しい道理を解ろうとしない考え方がまさにそうです。
不信、顰蹙、疑惑、誹謗等も、日精上人を大謗法と言ってみたり、日恭上人に対する実に不遜な誹謗、さらに我々正法の僧俗に対する謂れなき迫害等、残りの軽善、憎善、嫉善、恨善等にも見事に当たっているではありませんか。
このように創価学会に対する破折の材料はいくらでもあります。
「人間主義」等というような聞こえのよい言葉にだまされて執われている人々を一人でも多く救うべく、こういったこともしっかりと学んでいただきたいと思います。
それから、先程も少し申しましたが、「始覚即本覚」という語を松戸某などという者が使っております。
立正大学などに行った人は、そこの教授が、この始覚即本覚ということを大聖人様の仏法の在り方を示す正しい内容として話すのを聞いたことがあるのではないかと思います。
私は、この始覚即本覚という語にどうも違和感を覚えるのです。
つまり、始覚という形が果たして大聖人様の仏法の在り方に則するのだろうかと思うのです。
始覚・本覚ということは馬鳴菩薩の『大乗起信論』が一番最初だと思いますが、真如門と生滅門を立てるなかの生滅門において、初めて流転門と還滅門が開かれ、このうちの流転門において示されます。
本覚のなかから三細六麁というような形で煩悩の元が現れ、だんだんと八識のなかの煩悩の種子が生長して色々な形となって出てきます。
つまり、本覚のなかから始覚の作用が現れ、この煩悩が発心・修行を発こす。
この発心・修行によって、煩悩をだんだんと断尽していくというものです。
やはり、『大乗起信論』は法華経まで来ていませんから、断迷開悟、すなわち煩悩を断じる形で、結局、始覚門において修行し、だんだんと煩悩を断じていき、最後に断じきったところで元の本覚へ還るのです。
本覚へ還れば、もう始覚・本覚の差はなくなるから、もっと奥の真如門に立ち還るということになります。
それはともかく、この本覚・始覚という語の一番本は『大乗起信論』に存するわけですが、天台大師や妙楽大師には、始覚即本覚という言い方はないと思います。
だいたい日本天台宗において、始覚・本覚が論じられてくるのは、中古天台の恵心流などからです。
これは天台のほうの言い伝えとして、伝教大師が入唐した時に、道邃からは本覚門の従果向因の法門を伝授され、行満からは始覚門の従因至果の教相の法門を伝授されたというような言い方をします。
そして、それがのちに、特に中古天台の恵心流のなかで始覚・本覚が活用されてくるのです。
最初は、法華経迹門のほうは従因至果、つまり始成正覚で修行してくるのですから始覚、本門の顕本の内容は本覚というように、基本的に迹門と本門とを相対して始覚と本覚の考え方があったのです。
ところが、中古天台では、かつて妙楽大師が、
●「経に約すれば是本門なりと雖も、既に是今世迹中の本を指して名づけて本門と為す」
と言われておることから、故に迹中の利益に当たるということで、中間の本も釈尊の説かれた本も、久遠の本から見れば迹中の本となるから従因至果であり、始覚門であるという言い方をします。
それに対して本覚は、十界三千・万法常住の森羅万象を指して、この妙法を顕わすのが本覚であるとします。
すなわち、法身という法を顕わすことになり、そこにまた、無作三身を説き、さらに報中論三の無作三身というようなことも言うのです。
たしかに大聖人様も、『御義口伝』の「廿八品に一文充の大事」のなかで、
■「於無漏実相 心已得通達(無漏実相に於いて 心已に通達することを得たり)」
(開結一四九n)
という序品の文について、
■「此の文は我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云ふなり。所謂南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(平成新編御書一七九九n)
と書き入れをされて、始覚という語を使われております。
また、もう一ヵ所、そのような表現をされております。
しかし、これは相待妙の上の修行の意味においてお示しになっておることと、私は思うのです。
さらに、『当体義抄』の、
■「聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ」
(平成新編御書六九五n)
という御文からするならば、この ■「法を師と為して修行覚道し」 という表現においては相対妙の法門であります。
しかるに、『御義口伝』の、
■「久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの侭と云ふ義なり。無作の三身なれば初
めて成ぜず(中略)三十二相八十種好を具足せず、是繕はざるなり。本有常住の仏な
れば本の侭なり」(平成新編御書一七七二n)
の文は、人法体一の上の無作の色心を示し給うのであり、すなわち、本有常住であります。
続いて、
■「久遠とは南無妙法蓮華経なり。実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり」(同n)
は、本有常住に即する久遠元初の証得を示される文です。
すなわち、久遠元初名字の妙法蓮華経と、本地自行の真仏・久遠元初自受用身は、元初にしてしかも本有常住の尊体であり、その人法はあくまで体一であるということが絶対妙の法門であり、『百六箇抄』にも説かれておるけれども、法本人迹や師弟本迹は相対妙であるという立て分けを日応上人も示されております。
したがって、このような表現をされているのはごくわずかで、御本尊の内証は、法界即日蓮、日蓮即法界たる、本有の実相の上の絶対妙の人法一箇をお示しになっておるのであります。
本日は色々と話をしましたが、やはり大聖人様の御法門の一切は、法体の妙法蓮華経を三大秘法として仕立てられる上からの相対妙・絶対妙の段階において、あらゆる御指南を示されたのでありますから、前後の法門の勝劣・浅深の筋道をきちんと立て分け、その上から法相・法理を判釈すべきであります。
しかし、その筋道やけじめを全く解らないままに、異なる段階の法門をくっつけたり、語に執われて意義の違う御指南を混同したりしているのが、邪宗の者達や今の創価学会なのです。
これからは、さらにはっきりと謗法の姿を露呈してくると思います。
九界即仏界とか仏界即九界ということについても、そういう語を単独で遊離して勝手に論ずることは、化導の筋を外れております。
すなわち、迹門、本門、文底の法体・法理を正しく立て分けて、それぞれの化導に約した一念三千のところへ来なければなりません。
つまり、その一念三千にも、天台の説いた一念三千と、在世の衆生の化導の上の因・果・国に約しての一念三千、さらに、文底事行の一念三千の区別をなすべきです。
すなわち、諸法実相の一念三千は、天台大師が像法残機の衆生を対告衆として『摩訶止観』に説いたものであり、因・果・国の一念三千は、詳しく言えば本門十妙のすべてがそうなのです。
ただ、その主体を本因・本果・本国土と論じているのです。
その上に顕すところの一念三千は在世の衆生の始成正覚の執着を破して、本地の実相を説かれる上での一念三千なのです。
つまり、化導の目的と内容があり、それぞれのなかにおいてきちんと法門があるのです。
ところが、謗法の者達は、ごく一部分の文献を引いて、恣意的に理屈をくっつけるのです。
法門の狂いはだいたいがこのような形から起こるのでありますから、我々はそのけじめをきちんとつけて、法門を研鑚しつつ、邪宗邪義の破折をきちんとしていくことが大切であるということを最後に申し上げて、本日の話を終了いたします。
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