「新興宗教」破折の予備知識
2012-02-07 22:12:09
テーマ:学んだこと
大日蓮出版
妙教
24年1、2月号「折伏の手引き」【新興宗教編】より
「新興宗教」とは、どのような宗教なのかを知る上で、個々の教団を取り上げて破折ポイントを掲載する前に、まずその予備知識として、以下のようなことを知っておいていただきたいと思います。
一、既成宗教との大きな違いは何か
二、新興宗教はなぜ発生したのか
三、新興宗教各教団に共通するものは何か等です。
「一、既成宗教との大きな違いは何か」
日本における宗教といえば、おおまかにいって三種に分けることができます。
それは、
仏教系、
神道系、
キリスト教系
の三つです。
新興宗教は、これらの既成宗教を基盤に誕生したものでありながら、その教えや信仰の形態は大きく異なったものに変化しています。
本来の宗教は、「宗」となる教え、つまり教典や教義という根本となる教えが先にあって、それを基にして、具体的な人々の救済理念を掲げることで成立します。
一般に、既成宗教といわれる宗教は、(教えの正邪や、内容の高低は別として)一応、そのような経緯を踏まえています。
これに対し、新興宗教はその逆の形で成立したといえます。
つまり、教祖となる人物がいきなり神懸かり、何年か後になってようやく教義を作る。
そして教団組織を整えていくというのが新興宗教の一般的な形です。
この点が既成宗教との一番の違いではないでしょうか。
また占いだとか、おまじない、そして 物欲的現世利益 に重点を置き、奇跡 や 霊能、超能力 等を売りものにするのが、新興宗教にみる特異性だともいえます。
「二、新興宗教はなぜ発生したのか」
新興宗教がどのように発生するかを知るため、ある本の一節を引用してみます。
1、カリスマ的人間をつくる
2、人間心理の弱点を脅す
3、弱者の論理にあくまで迎合(なぐさめ)
4、現世利益をうたう
5、ファッション的、時流に乗る
6、超能力現象を見せる。手品でもよい
これは、近年ある教団の女性教祖が、教団を開設するに当たっての信条を、その本の著者に語ったものだそうです。
いずれにしても、新興宗教の発生理由は種々ありますが、新興宗教が群発した時代背景や社会情勢を考えれば、おおよその発生理由は見当がつきます。
新興宗教の発生時期については、いくつかの説がありますが、おおむねの説は、
幕末維新期から第二次大戦前までを第一次ブームとし、
第二次大戦後が第二次ブーム、
そして昭和四十八年のいわゆるオイルショック以降の宗教ブームを第三次ブームとするものです。
それぞれのブームに共通する点は、
政治上の動乱、
経済的な不安、
人心の荒廃などに伴う生活不安
が挙げられます。
つまり、「貧・病・争」という不安要因が個人的なレベルにとどまらず、
経済不安(貧)、
医療不備(病)、
人間不信(争)
といった形で、社会全体の不安として広がった時に、新興宗教を生む条件が備わってしまうということになります。
言い換えれば、苦しいときに救ってほしいと不安がる人たちにとって、それまで信じてきた既成宗教が何の役にも立たず、目先の物的利益に走る者を救う手立ては、既成宗教には期待できないとの感情が高まってきたことの表れともいえます。
結局、現世的欲望や情念から脱却して、実在しない架空の世界に幸せの拠り所を求めさせる既成宗教の救済観では、今日のあまりにも性急で現実的な、その人たちを救うことができなかったことを物語っているのです。
要は、既成宗教の殻を破るようにして、現世利益を訴える教祖たちが、新興宗教を誕生させていったといえます。
【「新宗教」「新・新宗教」の呼び名】
近ごろ世間では、新しく発生した宗教を「新興宗教」と呼ばないで、「新宗教」と表現するようになっています。
その理由は、新興宗教という悪いイメージを払拭するためだといわれています。
つまり、これまでの様々な事象のなかで新興宗教は、
「淫祠(いんし)邪教」
「エセ宗教」
「類似宗教」
などと呼ばれ、世に害を及ぼすいかがわしい宗教として、扱われていた悪いイメージを解消したいことにあるようです。
そのような背景から、近年では「新宗教」、ものによっては、「新・新宗教」 などと呼ばれることが多くなっています。
また新興宗教といっても、幕末期に発生した天理教などは、開教から既に百七十年も経っているとあって、新興宗教から外すべきだとする学者もいます。
さらに霊友会、立正佼成会等よりも新しく、第三次ブームになって教勢を延ばしたGLA、真如苑。
また七十年代に発生し、ノストラダムスの予言などをもとに世紀末の危機意識を不安材料とし、教団拡大を進めてきた
阿含宗
や
真光系、
幸福の科学などは、
「新・新宗教」
の名で呼ばれています。
【「新・新宗教」の発生】
新興宗教の発生を知る上で、「新・新宗教」がどのようにして生まれたかについて述べてみます。
ある教団が、社会の糾弾を浴びても、形振(なりふ)り構わずに布教を繰り返しているうちは教勢も衰えません。
しかし、それが大教団となり、ひとたび社会的適応や、教義の整理、組織の充実性等を考えはじめると、その時点で教団の前進は一段落するといわれます。
その時、大教団は、今まで掲げてきた教義でも、あっさり変更したり、呪術性の強い神秘主義や、迷信めいた呪いや占い、終末論(世紀末論)といった重荷になるものを捨てにかかります。
そんな事情で、大教団が捨てた遺物をあえて拾い集め、それを売りものに発生してくるのが、「新・新宗教」といえます。
このように、教団発生の時期や背景の違いから「新興宗教」と呼ばず、「新宗教」、あるいは「新・新宗教」などと、呼び名で区別している傾向にあります。
しかし、それらの宗教が、いかがわしく、胡散臭い存在であることは、昔も今も変わりありません。
また、たとえ「開教から百年以上の歴史がある」ような教団にしても、所詮、邪な宗教が正しい宗教へと変化することもありません。
よって、これから連載する中で、これらの範疇にある宗教を扱う場合には「新興宗教」の呼び名で統一して表現しながら破折していきます。
今日、「新興宗教」と聞くと、
創価学会、
幸福の科学、
オウム真理教、
立正佼成会、
PL教団、
天理教、
真如苑、
統一教会
…思い浮かぶ教団は人それぞれに違うかもしれません。
それほど世の中には、数え切れない程の教団が存在しています。
これらの教団は、表面では美辞麗句を並べて装い、無責任な救済論を振りかざして人心を洗脳し、私たちの日常生活に入り込む機会を虎視眈々と狙っています。
こうしている間にも「宗教詐欺」の被害に遭っている方がおられることを危惧します。
「三、新興宗教各教団に共通するものは何か」
「新興宗教」各教団が提唱している教義や信条は様々ですが、教団発生の背景を見てみると、それぞれの教団が相互に共通したところが多くあります。
その理由を二つばかり挙げてみましょう。
まず一つは分派です。
たくさんの教団が分派し、新しい教団が別の名称で誕生します。
そして、その子、その孫と、更に分派・分裂を繰り返します。
ただし、根は同じですから、結局は似たり寄ったりの教団になる訳です。
以下、いくつかの具体例を挙げてみます。
まず、デタラメな霊言や予言を振りまきながら、二十数年で一千万人の教団になったと自称する
「幸福の科学」
の場合をみてみましょう。
幸福の科学の教祖は、一応、大川隆法ということになっていますが、実際はその父・善川三朗の発想によるものです。
三朗は、高橋信次の「GLA」に入会していたため、霊言などはGLAの霊界通信を真似たものと言われます。
次に、手かざしを売りものにする
「崇教真光」
は、
「世界真光文明教団」
からの別れです。
また
「真光文明教団」
そのものは
「世界救世教」
を母胎としています。
さらに
「世界救世教」の教祖・岡田茂吉は、
「大本」の幹部だったため、大本の出口王仁三郎の薫陶をうけてきました。
王仁三郎は、大本の根本教典である「大本神論」や「霊界物語八十一巻」を著した人物です。
また王仁三郎に付いて著述の手伝いをしたのが
「生長の家」の谷口雅春です。
雅春は、大本の幹部が不敬罪で検挙された事件後に、大本の信仰に疑問をもち、教団を離れましたが、自らが悟ったと言って生長の家を開教する際には、大本がメディアを利用していたことにヒントを得て、出版を活かした布教を発想しました。
そして、自著「生命の實相」を読めば病気が治り、買うだけでも商売が繁盛するなどと教え、書籍販売宗教の先陣をなしたのです。
さらに「世界救世教」と「生長の家」の二宗に入信しながらも、これらの教義では現実問題を解決できないと感じて、終には独自に宗教を作ったのが
「白光真宏会」
の五井昌久です。
日本各地に「世界人類が平和でありますように」との看板や貼紙をさせた人といったほうが、判りやすいかも知れません。
以上のように、新興宗教は分派・分裂を繰り返しながらも、同じような手法を通して、互いに関係しています。
また、もう一つの共通点は、山岳信仰である「修験道」との関係です。
修験道といえば、日本のあらゆる民俗信仰にかかわっています。
自然崇拝、
太陽信仰、
動物信仰、
祖霊信仰、
観音、
稲荷、
不動、
鬼子母神
等々。
たくさんの民俗信仰が集まって「習合宗教」といいますが、これらの宗教と深くかかわってきたのが修験者たちです。
不幸をはらって、幸せを招き寄せるとする修験者の祈祷は、その時の人々にとっては、幸不幸を左右する生活そのものでした。
幕末から明治にかけて、近畿圏で立て続けに現れた三つの新しい神様である
奈良の天理教、
岡山の金光教、
京都の大本教
の各宗祖たち、
大正期に起こった
霊友会の久保角太郎
などは修験者と交流し、それに影響を受けて神懸かりとなっています。
修験道の目的は、あくまでも現世の利益です。
ですから、新興宗教の現世利益主義はごく自然のなりゆきだったのでしょう。
以上、新興宗教を破折する前に知っておきたい予備知識を挙げてみました。
次号は、新興宗教の総括的破折、次いで個々の教団に焦点を当てた破折と進めていきます。
概して新興宗教は、
病気治しを大々的に宣伝したり、
おかしな祈祷や怪しい修行の結果、たまたま起きた神秘的・奇跡的な話掲げて「御利益」と謳う教団や、
カリスマ教祖の霊能力やら超能力やらを喧伝して、人々の興味を引こうとする教団など、
人の幸せを求める心につけこんで色々な方法でせまってきます。
これらに心を奪われない心構えとして、
「宗教は神秘的・奇跡的なもの」
などと思わないことが重要です。
教祖の霊能力など、ほとんどウソ八百か妄想ですし、超能力なんて手品みせれば充分です。
もし百歩譲ってそれらの能力が実際のものだったとしても、人々の根本的な幸・不幸には、まったく関係ないものです。
ましてや、信仰の対象に値しないことは言うまでもありません。
実体不明な霊能力だの、超能力だの、神秘だの奇跡だの、道理を無視したものを迷信的に信じてはいけません。
日蓮大聖人は、
■「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力にはよるべからず」(唱法華題目抄)
と御教示されて、この末法の時代に通力(神通力)などを売り物にするのは「魔の所業」であると断じておられます。
物事はすべからく、原因があって結果が生じます。
原因もないのに結果だけが生ずる奇跡信仰などは、馬鹿げていると言って過言ではありません。
新興宗教に入って一時的に病気が治ることがあるかもしれません。
でも、これは仏法で言うところの「魔の通力」です。
つまり、それは最初だけの一時的な小利益であり、その後には御利益どころか大きな不幸が待っています。
何はともあれ「一利のあとに百害あり」。
それが新興宗教なのです。