●三類の強敵
「諸の無智の人、悪口罵詈(めり)等し及び刀杖(とうじょう)を加ふる者有らん。我等皆当(まさ)に忍ぶべし
「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)ひ我慢(がまん)の心充満せん
「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賎(きょうせん)するもの有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説き、世に恭敬(くぎょ)せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き、常に世俗の事を念(おも)ひ、名を阿練若に仮りて好んで我等が過(とが)を出ださん。而も是くの如き言(ことば)を作(な)さん、此の諸の比丘等は利養を貪るを為(もっ)ての故に外道の論議を説き、自ら此の教典を作りて世間の人を誑或(おうわく)す。名聞を求むるを為(もっ)ての故に分別して是の経を説く。常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって、誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて「是邪見の人、外道の論議を説く」と謂(い)はん(唱法華題目抄 222)
▲第三に或有阿練若(わくうあれんにゃ)より下の三偈(げ)は、即ち是出家の処に一切の悪人を摂(しょう)す」(開目抄上 文永九年二月 五一歳 564
▲持律に似像(じぞう)して少(すこ)しく経を読誦(どくじゅ)し、飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して其の身を長養(ちょうよう)し、袈裟(けさ)を著すと雖も、猶(なお)猟師の細視除行するが如く猫の鼠を伺(うかが)ふが如し。常に是の言(ことば)を唱へん、「我羅漢(われらかん)を得たり」と。外には賢善(けんぜん)を現じ内には貪嫉(とんしつ)を懐(いだ)く。唖法(あほう)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如し。実には沙門(しゃもん)に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗せん(立正安国論 文応元年七月一六日 三九歳
▲持律に似像(じぞう)して少(わず)かに経を読誦し、飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)し其の身を長養す。袈裟を服すと雖も、猶(なお)猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん。「我羅漢を得たり」と○外には賢善を現はし、内には貪嫉(とんしつ)を懐く。唖法(あほう)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如し。実に沙門に非ずして沙門の像(かたち)を現じ、邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗せん」(開目抄上 文永九年二月 五一歳 564
▲「一闡提有り、羅漢(らかん)の像を作(な)し空処(くうしょ)に住し、方等経典を誹謗す。諸の凡夫人(ぼんぷにん)見已(お)はって皆真(しん)の阿羅漢、是(これ)大菩薩なりと謂(い)はん」等云云。彼の法華経の文に第三の敵人を説いて云はく「或は阿蘭若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在て、乃至世に恭敬(くぎょう)せらるヽこと六通の羅漢の如き有らん」等云云。般泥?(はつないおん)経に云はく「羅漢に似たる一闡提有って而も悪業を行ず」等云云。(撰時抄 建治元年六月一〇日 五四歳871
▲三類の敵人を顕はさずんば法華経の行者に非ず。之を顕はすは法華経の行者なり。而れども必ず身命を喪(うしな)はんか。(教機時国抄 弘長二年二月一〇日 四一歳 273
▲26 撰時抄愚記
開目抄下の三十七に云く「無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始めの三類を見るべからず一分の仏眼を得るもの此れをしるべし」(569)文。三十三二十七に云く「三千年に一度花開くなる優曇華をば転輪聖王此れを見る。究竟円満の仏にならざらんより外は、法華経の御敵をば見しらざらんなり。一乗の敵を夢の如く勘え出して候」(1455)等云云。学者、意を留めてこれを案ずべきなり。
■勧持品に云はく「唯願はくは慮(うらおも)ひしたまふべからず。仏滅度の後、恐怖(くふ)悪世の中に於て、我等当に広く説くべし。諸の無智の人の、悪口罵詈(あっくめり)等し、及び刀杖を加ふるもの有らん、我等皆当に忍ぶべし。悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲(てんごく)に、未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)ひ、我慢の心充満せん。或は阿練若(あれんにゃ)(無事閑静所)に、納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って、自ら真の道を行ずと謂ひて、人間を軽賤(きょうせん)する者有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に、白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説いて、世に恭敬(くぎょう)せらるゝことを為(う)ること六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐き、常に世俗の事を念(おも)ひ、名を阿練若(あれんにゃ)に仮(か)りて、(お前たちこそ阿練若に住んでいるから三類だ)好んで我等が過(とが)を出ださん○常に大衆の中に在って我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士、及び余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて、是邪見の人、外道の論議を説くと謂はん○濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖(くふ)有らん。悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱(めりきにく)せん○濁世の悪比丘は、仏の方便随宜(ずいぎ)所説の法を知らず、悪口(あっく)して顰蹙(ひんじゅく)し、数々擯出(しばしばひんずい)せられん」等云云。記の八に云はく「文に三、初めに一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり。次の一行は道門増上慢の者を明かす。三に七行は僣聖(せんしょう)増上慢の者を明かす。此の三の中に、初めは忍ぶべし。次は前に過たり。第三最も甚だし。後々の者は転(うたた)識り難きを以ての故に」等云云。東春に智度法師云はく「初めに有諸より下の五行は○第一の一偈(げ)は三業の悪を忍ぶ、是外悪(げあく)の人なり。次に悪世の下の一偈は、是上慢出家の人なり。第三に或有阿練若(わくうあれんにゃ)(無事閑静所)より下の三偈(げ)は、即ち是出家の処に一切の悪人を摂(しょう)す」等云云。又云はく「常在大衆より下の両行は、公処に向かって法を毀(そし)り人を謗ず」等云云。涅槃経の九に云はく「善男子、一闡提(いっせんだい)有り。羅漢の像(かたち)を作(な)して空処(くうしょ)(静かな所。空いた場所)に住し、方等大乗経典を誹謗せん。諸の凡夫人見已はって、皆真の阿羅漢(あらかん)、是大菩薩なりと謂はん」等云云。又云はく「爾(そ)の時に是の経、閻浮提(えんぶだい)に於て当(まさ)に広く流布すべし。是の時に、当に諸の悪比丘有って、是の経を抄略し、分かって多分と作(な)し、能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も、如来の深密の要義を滅除して、世間の荘厳の文飾(もんじき)無義の語を安置す。前を抄して後に著け後を抄して前に著け、前後を中に著け中を前後に著く。当に知るべし、是くの如きの諸の悪比丘は、是れ魔の伴侶(はんりょ)なり」等云云。六巻の般泥・(はつないおん)経に云はく「阿羅漢(あらかん)に似たる一闡提(いっせんだい)有って悪業を行ず。一闡提に似たる阿羅漢あって慈心を作さん。羅漢に似たる一闡提有りとは、是の諸の衆生、方等を誹謗せるなり。一闡提に似たる阿羅漢とは、声聞を毀呰(きし)し広く方等を説くなり。衆生に語って言はく、我汝等(なんだち)と倶(とも)に是菩薩なり。所以(ゆえん)は何(いかん)。一切皆如来の性有る故に。然も彼の衆生一闡提なりと謂はん」等云云。涅槃経に云はく「我涅槃の後、乃至、正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像(じぞう)して少(わず)かに経を読誦し、飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)し其の身を長養す。袈裟を服すと雖も、猶(なお)猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん。我羅漢を得たりと○外には賢善を現はし、内には貪嫉(とんしつ)を懐く。唖法(あほう)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如し。実に沙門に非ずして沙門の像(かたち)を現じ、邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗せん 開目抄 564
■悪世の中に多くの比丘有って身には三衣(ね)一鉢(ぱち)を帯し、阿練若(あれんにゃ)に居(こ)して、行儀は大迦葉(かしょう)等の三明(みょう)六通の羅漢のごとく、在家の諸人にあふ(仰)がれて、一言を吐(は)けば如来の金言のごとくおもはれて、法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために、国王大臣等に向かひ奉りて、此の人は邪見の者なり、法門は邪法なりなんどいゐうとむ(疎)るなり。唱法華題目抄
文応元年五月二八日 三九歳