DATE:  7月12日(水)22時22分54秒
TITLE: 通りすがりの者氏が提示した疑義を摧破す1
NAME: 管理人(樋田昌志)  MAIL: power@toyoda.tv

では、以下の疑義について摧破し尽くしましょう。
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樋田様  投稿者:通りすがりの者  投稿日: 6月29日(木)23時34分38秒 kv153.opt2.point.ne.jp   引用

  樋田様。催促するわけではありませんが、
私の質問が大分前のページにいってしまいましたので、
改めてまとめて投稿します。

1.戒壇の大御本尊の偽作説について
以下のサイトでは、戒壇の大御本尊を偽作といっています。
<A HREF="http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html">http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html</A>
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●そこで↑のHPへ行って見ました。
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  所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について

(この間は、ここは特筆すべき内容がないので略)

 ■安永が示す「経」の考証

 しかしそれでも「板本尊『経』の止筆は偽作の証拠」という1項には頷けるところがあった。
 安永は「経」の一時に着目する理由を以下のように説明する。
「立正安国会の山中喜八氏が大崎学報で述べているように、経の字の変遷は『聖筆ノ真偽ヲ判ジ、或ハ臨ぼ(リンボ=見て写すこと)作為(サクイ)ヲ弁別(ベンベツ)スル場合ハ、第一ニ考察スベキデアロウ』と述べているように、経の書体の年代的相違は決定的なものである」

 そのように紹介したうえで、弘安2年における日蓮の「經」の筆法は、旁の「工」の三画は止めずに細く伸ばしている点を挙げる。(これを日蓮門一般では「光明点」という)そして、安永は「光明点は先が、尖っている」が板漫荼羅ではそうなっておらず「規格に反して太く止められている」と指摘するのである。
 これは実に重要な鑑別識である。写真で見る限り、確かに經の最終画は止筆になっているように見える。仮に止筆ではないにしても、同時期の光明点のように細く長く伸ばして書かれていないことは動かない。
 この点を弘安2年11月御筆漫荼羅(No.69)で比較してみよう。上図、左が板漫荼羅の「經」、右が真筆の「經」である。たしかに同一書体とは見えない。筆法の差は歴然であり、板漫荼羅の字体は弘安2年という時代性を反映していない。このことから安永が言う如く、とても弘安2年の筆とは見えない。
 また、『「ツ」の字形の経は弘安二年のものではない』という1項も設けている。「板本尊の旁(つくり)は片仮名の「ツ」の字の如くに、筆が切られている」という。この安永の指摘もまた頷ける。真筆では一筆に流麗に書かれるが、板漫荼羅は「ツ」様に彫られている。(右図)
 こうして改めて板漫荼羅の相貌の全体を見直すと、御筆漫荼羅と比較して、全体的な構成に大らかさがない。日蓮御筆の特徴とも言える紙幅に縦横無尽に筆をふるった闊達さがない。全体的な構成も著しく相違し、中央題目と花押が大きく場所を取り、弘安2年当時の特徴を示していないのである。
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●一体に↑ここの管理者「犀角独歩」氏は昭和30年ころまでで思考が止まっているのであろうか。
既に完膚なきまでに破折され尽くされていることを、今更なんであろうか。
やはりこういう謗法者の脳内は随分と固着しているものである。
この段の破折は以下の論文で完摧され尽くしている。
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『悪書板本尊偽作論を粉砕す』

   十八、経字に就いての妄説を破す

第十八項は御本尊の中柱題目「経」の字を取り挙げての議論であって、即ち「経」の書体上よりみたる板本尊偽作の証拠という見出しである。
此の項に於て安永君は六節に分けて経の字を分析して論じている。
而して其の前提として「経」の字の書体は時代によって変遷してをつて此の変遷によって年代がわかると山中善八氏の説を引いている。
此の説に依って以下の議論を立てているのである。
 そこで先づ第一に此の説の当否を吟味して見る必要がある。
此の説の根底となる者は安国会刊行の現存御真筆御本尊集の百二十三幅によって種々の面から山中氏が分類して「経」の字の変遷を四期に分けたものに重点を置いて此の説を為しているのである。
 此処に其の変遷と時代に於て第三期として弘安元年三月−弘安三年三月の時代は「経」の字の旁(つくり)が一筆で御書き遊ばされてある時代として弘安元年三月から弘安三年三月の間を区切って居り、其の後は「経」の字の旁は「ツ」字形になっているとして発四期と称して弘安三年から弘安五年六月の期間を挙げている。
 此の説を見ると現存御真筆と称する百二十三幅によっている。此れ以外に御本尊がなければ此の説に一分の理がある。しかし若し他に何幅もあるとすれば其の御本尊が果して如何なる御書体であらせられるか、若し一幅でも此れに反するものがあれば、なり立たない説である。
然るに山中氏は石山関係の御本尊は全く含まれていないと言っている。
而して又第三期を弘安元年三月から弘安三年三月の間としているが此の間の「ッ」の字型が弘安元年八月にあるので、それを特例としている。
それは一筆の書体とツの字型との両者が存在するからであろう。
若し此の両者が存在するとなれば三月以前に於ても両様が存在する事も有り得る筈である。
然らば弘安二年の十月に於て両様の御本尊が存在しても不思議ではない。
とに角此に依って御書体の変遷は厳格に日時を区切って御変え遊ばされたのではない事が明白である。
畢畢(つまり)或る時期に於ては斯様な書体が多いということは言い得るが、絶対的なものとは言えないのである。
以上は山中氏の説に対する批判である。

 さて此れで安永君の第一節の説を見ると、戒旦の御本尊は其の題目の「経」の字はツの字型であるから弘安二年ではなく、三年三月以降のものであるというのであるが、此の説は何等確たる根拠あるものでない事は、上述の理由で明らかであろう。
而して第二節に於てツの字型の御本尊は建治二年の三幅と弘安四年三月と十月のものとの三幅あるだけで第四期に属する「経」の書体でツの字型に筆の切れたものは無いと言って、此れ板本尊が偽作である証拠であるというのであるが、此れは何か勘違いをして居るのではないか。
これでは「ツ」の字型の筆の切れたのが第四期であるとの説はどうするのか、此に至って安永君の説がシドロモドロであって、唯何んでも偽作だと云い切ろうとする曲説である事をハッキリと看取出来る。
更に第三節に於ては板本尊の「経」の字は肉太で大きいが、斯様な「経」の字は弘安三年四月以降であると云う。
然しそれにしても最も良く似ている妙海寺の本尊と比較して見ると糸扁の筆致が違い、点のうち方も、旁の光明点のハネ方も違うから偽作であると云う。
其の筆致がどう違うかは論じてないからわからないが、点の打ち方に就ては二つの脚点が上に突き抜けているが、斯様な本尊は絶対に他にはないといって、此に依って偽作と断定しても弁解はなかろうと言うのである。

 吾人に言はせると安永君の論議は此の一事だけでも全くの寝言であると断定出来ると言いたい。
前にも述べた通り不鮮明な写真を複写して、其れを御丁寧にも復刻しているが、写真が不鮮明なる為に勝手極まる文字にして了って居る。
戒旦の御本尊の御文字は安永君の考えて居る所とは全く違っている。
御気の毒なことには、脚点は上に突き抜けていない。
又次の第五節に安永君は「華」の字の下の二棒の間に「経」の字の旁の上の一棒が引かれてあると言っているが、此れ又御気の毒ながら安永君の妄見である。斯の様な妄見(花押にしてもそうである)の上に何とかかんとか理屈をコジツケて居るが全く御笑い草である。
 心顛ずる者眼顛ずるの如く、何んでも偽作にしようと云う浅ましい考えが眼を鬼畜の如くならしめるのである。
此れ迄言って了えば安永君を相手に論争することが実に馬鹿々々しくなってくる。
唯世間の識者の為に書くと言うことで筆を進める気になるのである。
 安永君は更に 「経」の字の旁の光明点に於て板本尊は筆を止めてあるが、此の止筆になっているのは建治三年二月迄で、其の三月後は細く流す様になって、弘安三年三月迄は全く先が尖っていると言って、唯其の間に二、三幅が止筆になっている。
而して弘安三年三月の三幅が止筆になって居り、其の後は亦細く尖っていると言って、だから板本尊は偽作であるというのである。
斯様な議論をよくもヌケヌケと言えたものである。
弘安三年三月前に二、三幅、三月に三幅あるならば弘安二年にあったとしでも一向差支えない訳で、苦し此の期間の止筆の本尊は皆偽作だというならば話は一往受け取れるが・他の場合は例外として真筆である事を肯定し、唯此の御本尊を偽作扱いするのは全くの偏見ではないか。(此処には戒員の御本尊の光明点が止筆であるか無いかは敢えて言はない。其れは安永君の愚論そのものを粉砕すれば足りるからである。)
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DATE:  8月 1日(火)14時54分59秒
TITLE: 久しぶりに再開します
NAME: 管理人(樋田昌志)  MAIL: power@toyoda.tv

さて、随分と時間が経ったが犀角氏の邪論の摧破を再開しよう。

犀角氏の論↓

 ■板漫荼羅と下付漫荼羅の相違

 さて、以下はわたし自身が懐く板漫荼羅への疑義である。
 その前提となる板漫荼羅を崇拝するそれぞれの集団のアナウンスを一々に列挙しないが、概ねまとめれば、日蓮は弘安2年10月12日、熱原法難に農民信徒3人が斬首に遭う殉教の姿を見て、いまこそ出世の本懐を遂げる時が来たと図示し、日蓮の弟子の一人である日法に彫刻させたのが板漫荼羅であるという。また、彼ら信徒各位に下付する印刷漫荼羅本尊は歴代の大石寺住職(彼らが言う御法主上人猊下)がこの板漫荼羅を書写したものであるともいう。
 まず先に述べておけば、創価学会を含む大石寺系集団の信徒は、各家庭に下付される印刷漫荼羅本尊は板漫荼羅と相貌が一緒であると信じ込まされているようであるが、実際には違っている。 (※1)
 最も大きな違いは二つある。一つは下付漫荼羅に記される「福過十号…」「頭破七分…」といった文言が板漫荼羅には記されていないこと。そして、もう一つ。各家庭の印刷漫荼羅本尊の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」となっているが、板漫荼羅では「二千二百二十余年」となっていることである。
 もちろん、その他、勧請の諸尊の相違も指摘できる。たとえば、板漫荼羅では「釈提桓因大王」となっているところが大石寺住職書写の印刷下付漫荼羅では「帝釈天王」となっている如くである。
 先にも記したとおり、板漫荼羅は、熱原法難で農民信徒の殉教を機縁にして日蓮が記したという。しかし、この伝説には矛盾がある。( ※2)
 というのは、この漫荼羅本尊に記される日付は先にも記したとおり弘安2年10月12日である。しかし、刑の執行は遅れること3日後の10月15日であり、日蓮が知ったのは17日のことだったというからだ。つまり、機縁としたはずの出来事の認知があととなっている。これでは時系列が合わない。
 なお、斬首刑は翌年という説もある。

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●実に不勉強・浅見の極みというべきである。

※1、御相貌

御歴代上人が唯授一人・血脈相承によって御相伝され、御書写されるのは、御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

日顕上人
■「当宗において歴代の法主が、かたじけなくも御本尊を書写申し上げるということは、まことに重々の大事が存するのでありますが、特に、本門戒壇の大御本尊の御内証を拝してお写し申し上げ奉るというところに、甚深の意義が存するのであります。」

■「戒壇の御本尊は御内証だけの御本尊ではなく、御内証即御化導の上の究竟の御本尊であり、そのように拝さなければならないのであります。」

であるから、「福過十号…」「頭破七分…」「仏滅後二千二百三十余年」「二千二百二十余年」「釈提桓因大王」「帝釈天王」等の御体相や座配・御相貌ついては、

■此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

とあるがごとく、御法主上人御一人の御所作に依られるのであり、犀角氏などの御相伝を全く知り得ない謗法者が云々できる領域ではないのである。

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※2、10月12日の時系列について。

これもまた、実に破折され尽くされてカビの生えた邪難である。
慧妙の記事から引用しよう。

 まず、熱原地方で起こった法難についてであるが、これは何の前触れもなく突発的に起きたものではなく、熱原郷に法華衆が急増していくのを怨嫉した謗法者達により、弘安2年(1278年)4月頃から迫害が始まり、8月の法華衆徒・弥四郎の斬首を経て、9月21日の神四郎ら20名の信徒拘引でピークに達したものである。
 しかして、『聖人御難事』の執筆された10月1日は、まさに熱原法難の真っ只中の時期であった。
 しかも、同御書に、
 ■「彼のあつわらの愚凝(ぐち)の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。彼等には、たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろしゝといわばたかにあへるきじ、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ」(御書1398)
と仰せられていることから判(わか)るように、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性はほとんどなく(■「よからんは不思議」)、逆に、極刑に処せられることは間違いない(■「わるからんは一定」)であろう、との見通しすらあったのである。
 この時にあたって、出世の本懐を遂げられるべき時機の到来を感ぜられた日蓮大聖人は、同御書に
 ■「余は二十七年なり」(御書1396)
と宣言あそばされた。
 そして、そのわずか11日後に、本門戒壇の大御本尊を顕わされたのである。
 されば、■「余は二十七年なり」の御文は、「立宗より27年目の今こそ、いよいよ本懐を遂げるであろう」との宣言であることはいうまでもない。
 しかるを、
▼「これは10月1日の書であり、戒壇本尊の10月12日の日付より以前であるから、おかしい」などと難クセを付ける輩は、すでに自分の頭の方が、そうとうおかしくなっていて、物事を正しく理解できなくなっているのである。
 重ねていうが、本懐成就の時機を感ぜられた大聖人は、10月1日にその旨を宣言され、それから諸々の準備をあそばされて、10月12日に大御本尊を御図顕あらせられた。そこに、何らの不合理もなければ、疑いを差し挟む余地もないのである。

 また、
▼「熱原三烈士の斬首は10月15日だから、これを機縁として12日に本尊を建立する、などということはありえない」との疑難も、まったく取るに足らない言い掛かりである。
 すなわち大聖人は、門下僧俗の強い信心によって熱原大法難が起きたことに時機を感ぜられたのであり、ただ3人が斬首されたかどうか、という1点を御覧になっていたわけではあるまい。
 また、”斬首”というなら、すでに8月には弥四郎が”斬首”されているし、10月1日の時点でも■「わるからんは一定」すなわち極刑は確実、という状況が眼前にあった。
 だが、こうした大法難の中にあっても、熱原の信徒達は、退転なく、題目を唱え続けていた。
 ここに、大聖人は時機を御感あって、10月12日に大御本尊を建立あそばされたのである。
 そして、その3日後の15日に至り、拘引された20名のうち3人が斬首されて、熱原の大法難は終息した。
 このことを後世、記述するときに、簡単に「熱原で法難が起こり、法華衆3人が首を斬られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく普通のことであろう。
また第4世日道上人の『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。
 しかるを、
▼「斬首は10月15日だから、これを機縁に10月12日の段階で本尊を建立することなどありえない」などと言って、これに拘泥するのは、まったくためにする疑難、笑うべき言い掛かりである。

 妄弁者、犀角氏は、歪んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。