長野法論での惨敗者S君が法論終了後、その失態を何とか挽回せんと、当方へ纏わりメールを送付してきた。
それに対して当方も当然応酬し、激論が交わされたが、案に違わずやはりS君は敗走するに至った。
最近、S君はこの事実を忘れたのか、故意に隠蔽しているのか、自己の敗北を正当化するかのごとき言動を為していると聞く。
ここに、全文掲載し、以ってS君の卑劣極まりない欺瞞性を暴く。

長野法論後、S氏とのメール応酬

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03.8.31.21:46

▼樋田様 ← S

 

 本日は、堅実な法義論争を期待していましたが、大変残念なことに、ほとんど揚げ足取りのレベルの言い合いになってしまいました。大聖人の仏法を実践する者としては、不本意な結果です。
 ようやく最後に「相伝」の議論となり、「いまだ公開されざる別しての12箇条」について、こちらが証拠を示して阿部管長のウソを証明したのに対して、貴殿は一切反論のための根拠を示せず、完全に論に詰まりました。
 貴殿が今回の対論に際して合意していた条件である

 

●では「一切反論不可能に於いて勝敗が決したものとする」と言う概念で、
「          誓  約  書
○ ○ ○ 殿
 本日の公開対論において、一切反論不可能になり、私の主張が間違っていたことが確認されましたので、(日蓮正宗・創価学会)を(脱講・還俗・脱会)いたします。(以下略)」

 

に照らすならば、少なくとも「相伝」(血脈の重要な一部を構成する)について、貴殿が一切反論不可能になり、言を左右するばかりか、まだ会場使用時間が1時間半以上も余裕があったにも拘らず、私の制止を振り切って、ものも言わずに退出してしまいまいました。


 貴殿のその不誠実な対応には大変失望しましたが、もう一度チャンスを差し上げますので、今度は一対一で、じっくりと(貴殿は10時間でも大丈夫だとか)時間をかけて、法義に基づく対論を致しましょう。くれぐれもあげ足取りの子供のケンカのようなものではなく、中身のあるものにしたいですね。大聖人の仏法を学ぶ者として、私自身も自省の意味を込めて当然心がけたいことです。


 また、貴殿の置かれた状況は、脱講の条件に該当し得るにも拘らず(いや、だからこそか?)、不誠実な逃避をされたので、当初やるつもりだったネット法論は、貴殿の約束不履行と、それを確認するための事後の打ち合わせさえも拒否したことを根拠に、残念ですがやめておきましょう。

 なお、黄倉氏には、彼と私との新たな個人的関係が生じたので、出来れば直接お会いして、彼に迷惑がかかるのならばお詫びもしたいので、彼のご自宅の連絡先、または携帯でも結構ですので教えてください。なお、内容が個人的なものなので、どこかの団体の事務所とかは適切ではないのでその旨もよろしくお伝えください。
 当方の連絡先は、○○−○○ です。
 よろしくお願いします。

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03.09.02 2:09 

▼樋田様 ← S

 

 深夜にお送りしてすみません。

 先日の対論では、貴殿がまだ精師についてあまりご研鑚されていないことを感じましたので、次回お会いするまでに、是非とも家中抄や随宜論あたりは全篇を拝読しておいてくださるようにお願いいたします。そうすれば、小生の主張していたことが少しでも理解頂けることと思います。

 

 今週は、週末まで泊まりか、帰宅しても深夜になる予定ですので、メイルを頂いてもレスが出来ない可能性がありますがご容赦ください。

 ご参考までに、小生と宗務院法義研鑚委員会との文書でのやり取りを添付しますので、お時間をつくって読んでいただくと嬉しいです。

 

@最初に時局協議会あてに送付した論文は、ファイルが壊れてしまい、ただいま Under Construction です。しばらく時間がかかりそうですのですみません。

 

A宗務院の封筒に入って拙宅に送付された法義研鑚委員会からの回答文書

 

B法義研鑚委員会に対する小生からのH10.4.28及びH10.3.22付けの反論文書

 

CH10.11.1付け「大白法」に掲載された法義研鑚委員会の論文への小生からの督促文書

 

 少々不適切な表現等が混じっていますが、お見逃しいただければありがたいです。

 小生も懸命に真実を求めて学び続けている一人の凡夫ですので、是非とも貴殿と腹蔵なくゆっくりと語り合いたいと願っています。よろしくご理解ください。

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03.09.04 22:36

●早速のメールありがとうございます。

法論は大変楽しませていただきました。

 

終わった後の充実感、爽快感は、もう例え様もありませんでした。

それはまた、見学者の法論終了後の盛り上がり方の相違に歴然と表れ、法華講側の歓喜に溢れ猛然と貴殿等に対してなされた折伏、呵責の姿に対し、創価学会側の見学者のあの失望感、寂寥感、無力感は、今回の法論の勝敗の結果を物語って余りあるものがあります。

折角貴殿に応援に来ていただいてもこの惨憺たる結果ではさぞかし地元の学会員も落胆した事でしょう。

取り分けてN氏の無念さ、屈辱感、後悔、etc.はいかばかりであったことでしょう。

 

戦勝の将としては敗軍の将兵をねぎらうのは戦の習いと存じています。

ここで一言、言わせてください。

「ご苦労様!そして、本当にお気の毒様・・・・」

 

 帰宅後ダビングの為何度も双方の姿が映し出されているビデオを確認しましたが、当方が心の底から感じた勝利の実感は映像的にも間違いないものと確認いたしました。

この全編を見た概ね全ての人がそれを感じていただけることでしょう。

そこで、当方は快勝したこの法論の内容をできるだけ早く、またなるべく多くの方々に観て、読んでいただくための準備に入りました。

 

当分はこの作業に没頭したいので、貴殿から申し込まれた「貴殿の敗者復活を賭けた法論」は暫くお待ちいただきたい。

 

今回の「当方の法論完全勝利&貴殿の犯罪的行為」を収録したビデオを全国に頒布し、更に、対論に至った経過から、実際の法論の全容等を本として上梓したならば、またゆっくりと貴殿の「敗北感を拭う為の法論」にお付き合いいたしましょう。

 

また、ビデオ完成、もしくは勝利本の完成の折には記念パーティーなど催したいと考えていますが、その時には対論敗者として是非参加いただき、無念の感想などをいただけたら、これまた一興と存じます。

 

ではこの微意をお汲み取りいただき、しばらくお待ちいただくということで、御了承ください。

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 03.09.06 20:19

▼樋田様 ← S

 その後お返事がいただけなかったので、貴殿に何か起きたのかと心配していました
が、ようやく先日の法論の感想について、貴殿の思い入れを拝読させていただきまし
た。

 率直に申し上げて、貴殿はかなり強烈な思い込みをされる方のようですね。貴殿の
ような感想がどこから出て来るのか、かなり無理矢理にねじ曲げた心を感じました。
 そもそも法論とは、あくまでも法義に関する論争であって、先日の貴殿の主張のよ
うに、例えば「帰命」に関する切り文をして双方の概念と見解の相違に最後まで拘っ
て、本来の正当な法義論争を回避するようなものとは全く違っていると小生は考えて
います。

 これについては、事前のやり取りで貴殿の法論がレスリング等に譬えられて表現さ
れていたのが、まさに正鵠を得たものであったことが明らかになったようです。
 率直に言えば、大変にお粗末でした。今後はもう少し中身のあるものに改善される
ようご提案します。ビデオの内容を文章に起こせば、その辺りは一層明確になること
でしょう。

 しかし、小生としては、あくまでも貴殿及び後ろに座っておられた法華講の方々
に、貴殿らの明らかな認識の誤りを糺して差しあげることを目的としていたことか
ら、現宗門の邪義を破折するために準備しておいた資料を十二分に開示してあげるこ
とが出来なかったことは少々残念であったと感じてはいるものの、貴殿らが切り文に
終始する主張であったにも拘わらず、当方からは的確に貴殿らの認識の間違いを指摘
する証拠を提示し破折していたことは、ビデオを見れば明らかです。拒否しようにも
事実ですから、拒めないでしょう?

 したがって、貴殿が勝手に快勝だなどと思い込まれているらしいことなどは、法義
の正邪などとは全く関係の無い、一方的な宣言でしかありませんね。その証拠に、事
前に署名した脱講誓約書について、約束した条件を終了後に確認しようとしたのを、
一方的に無視して貴殿は帰ってしまったのですから。貴殿がスゴスゴと退場される時
の顔は、周囲の法華講たちが必死で「地獄に堕ちる」と叫んでおられたのとは対照的
に、大変暗い表情をされていました。この事実からも、貴殿の一方的な宣言は、実際
は全く逆であったことを証明しています。その結果、貴殿が勝った根拠としている内
容が、終了後の法華講の盛り上がりだとか言う、極めて定性的な雰囲気に逃げ込まざ
るを得ないことも、今回の対論の実態を的確に表現しています。ギャラリーの方々に
救われた気持ちなのかも知れませんが、これは法義論争なのだと言うことを忘れぬよ
うに。
 事前のやり取りを見ると、貴殿は最初から、
「僕としては、この際だから徹底的にきちんとしたい。どうせやるならね。君もその
ほうが良くないかい?なので、その日は体力、気力が続く限りやり切りたいね。5時間
でも10時間でもやりましょう!」
とか主張されていたのですから、当方が「残れ!」と言っているのを振り切って帰っ
てしまったこと自体、貴殿の敗北は貴殿の振る舞いによって見事に証明されているの
です。
 過去にも妙観講の面々が、勝手に「勝った勝った」と叫びながら逃げ出して行った
のと同じ轍を、貴殿が踏まれていることを謙虚に振り返るべきではありませんか?
いったい対論の中身はどうだったんですか?
 そして、貴殿が勝利したとでも本気で思っているのならば、速やかにウヤムヤにし
たままの法義論争の決着をつけるための作業を開始するべきでしょう。私との再会を
先送りにしようとしていること自体、貴殿が今回の法義論争に実質的に敗北したこと
を象徴しています。

 なお、貴殿は「犯罪的行為」という表現をしておられますが、あまりそのような表
現を何度も繰返すと、それ自体が「犯罪的行為」となって、構成要件に該当する可能
性が生まれますので、念のために十分ご注意されたい。
 それよりも、貴殿に関係の無い「電話のかけ方に関する小生と黄倉君とのやり取
り」について、なぜ貴殿は黄倉君の連絡先を小生に教えてくれないのでしょうか?
我々の接触を貴殿が意図的に妨害されているのであれば、その正当な理由を述べてい
ただきたいし、もしもそうでないならば、速やかに彼の連絡先を教えていただきた
い。因みに彼は小生の連絡先をすでにご存知なので、貴殿が拘る可能性のある公平性
等については貴殿の関知は一切無用です。

  では、確認も含めて貴殿らが今回の対論で反論不能となったポイントを挙げておき
ましょう。

(1)今回途中で終わった法論のエポックの一つは、未公開の相伝は無い、というも
のでした。

 学会側はすでに全ての相伝書を熟知しており、相伝書を最も正確に解説された寛尊
を尊敬しつつ、大聖人直結で「そもそも本来日蓮正宗とは別の宗教法人として」、世
界広布を進めている訳ですが、これに対する貴殿の疑問であった、血脈相伝は阿部管
長しか知らないのでは、という誤りについて、小生が破折を加えた訳です。
 要するに、阿部管長が自ら宣言した「未だ公開されざる別しての12箇条の法門が
ある」という大嘘を、小生が証拠を示して破折した訳です。
 これに対して、貴殿は少なくとも「未だ公開されざる別しての12箇条とやらは既
に公開されていた」という、証拠を挙げた主張に対して、全く何も反論出来ずに、し
かも終了後の勝敗の確認を行うべきである、という小生らの声を無視して、目を逸ら
し、ただただ黙って会場を退去してしまったではありませんか?あの姿が勝利だなど
と主張されるとは、貴殿は黒を白と言いくるめながら今までの人生を生きてこられた
のか、あるいは後ろにおられた法華講の方たちの手前、勝った格好だけでも作るしか
なかったのか、どちらにしろ真摯に大聖人の仏法を学ぼうとする者の振る舞いとして
は大いに問題ありでした。

(2)もう一つが、寛尊の形木本尊は書き加えをしたものだという嘘を破折した証拠
の提示です。

 現宗門が、慧妙等の御用機関紙を使って、寛尊の浄圓寺授与の本尊の形木本尊は手
を加えたニセ本尊である、という大嘘を、当方は実際の浄圓寺授与の本尊の写真を示
して、現宗門の明らかな改竄であることを証明しました。これについても、貴殿は言
を左右して、反証としての実物の写真等を提示することは愚か、実質的な反論は何も
出来なかったではありませんか。これについては、脇書きの削除、末寺での下付等、
過去に貴殿らが主張していた本尊の化儀に対する無知に対して、貴殿らの蒙を啓くた
めに、一つ一つの疑問を破折する資料を後日送付いたしましょう。要するに貴殿ら
は、単に現宗門の嘘をそのまま真に受けて、騙されている(あるいは意図して騙そう
としている)だけなのです。

 なお、貴殿は先日のビデオを意図的に編集されるようなので、当方としてもそれに
対して阿部管長が特別な相伝とかは何も持っていないこと、貴殿らが開示した寛尊の
本尊は、明らかな作為による改竄であること等を広く開示して行かざるを得ないよう
です。あまり一般向けに開示する内容では無いので、これまで内々にしていた資料類
が、貴殿のおかげで広く一般の方々にまで公開されることになりそうです。その結
果、阿部管長の相伝にまつわる嘘も益々明々白々になり、おまけに現宗門が寛尊の本
尊について嘘の資料に基づいて学会員の信仰を破壊しようとして来た事実まで周知さ
れることでしょう。現宗門にとってはかなりの痛手になりそうですが、彼らはただた
だ開き直るか無視するしか無いでしょう。

 また、この際ですから、貴殿がいろいろと書き込んでおられた主張の中にある、基
本的な錯誤の数々についても、明確な証拠に基づいて破折しておきたいと思いますの
で、楽しみにしていてください。それによって、貴殿は単に慧妙等による現宗門の間
違った主張を鵜呑みにして、学会を誹謗するための小理屈をこね回していただけで、
自分自身の地道な研鑽による真実の追究を十分にされていなかったことが理解できる
でしょう。

 貴殿が今後血を吐くような思いでどのように頑張ってみても、貴殿の信心が正しく
ない故に、学会による世界広布を妨害するような貴殿が期待するような結果には絶対
になり得ないことをここに宣言しておきます。小生としては、貴殿が正しく大聖人の
仏法を理解し、実践出来るようになる日まで、忍耐強く対話を続けていく決意ですの
で、楽しみにしていて下さい。

(ポイント1)
◎相伝はすべて公開されており、阿部管長が発表した「未だ公開されざる別しての1
2箇条の法門」とは、すでに公開されており、民衆はすべての相伝書を手にしてい
る。

 平成9年8月28日の全国教師講習会において、阿部管長は7時間半もかけて学会
の一地区幹事の個人的な資料に反論を企て、その後半において、
【日顕悩乱説法】:「これを挙げてみますと、「家中抄」、日道上人伝がある、ずい
ぶん昔の方ですけども、この伝についての終わりにですね、「御上洛の刻み、法を日
道に付(注=付嘱)す」。御上洛とは日目上人が、京都へ向かわれるね。そのとき
の、「法を日道に付(注=付嘱)す、所謂、形名種脱の相承、判摂名字の相承等な
り。総じて之れを謂えば、内用外用、金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇
条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法
門既に日道に付す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を
残す莫かれ」(聖典P.695)とあります。この中の、外用とは外に向かって仏法の筋
道を示す浅いところから深い、深いころまで至るところの一切の法門、だからこれを
法門相承。日寛上人の挙げた名目もこれに入る。内用とは真の唯授一人、七百年法灯
連綿をなす根幹の相承。実は一言一句も他に申し出すべからずと示されたるところ
の、別しての12箇条の法門とさらに法体であります。そこまでしか言えません。エ
ヘッ。ゆえに、堀上人といえどもまったくこれを公開せず、これ以外公開してない。
いろいろ全部、あの、文証出したけど、この所だけは、さすがの堀上人も公開してな
い。」(日顕講義録)
と宣言したのです。
 ところが、この阿部管長の主張が、数々の証拠によって完全に打ち砕かれてしまっ
た訳です。
 まず、阿部管長が引用した日蓮聖人聖典では、明示的になっていない精師の誤り
を、堀上人は研究教学書や講義等で明らかにしています。

@阿部管長の主張の根拠は、日蓮聖人聖典に掲載された「家中抄中」と述べている。
しかし、富士学林教科書である研究教学書には、この家中抄中の文について、
「惣じて之を謂はば内用外用金口の知識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あ
り」
に頭注を付けて、

・「用の字、証の誤りか」
・「本師の弁証は精義ならざる間付会を加えて益々誤れり 後生悲しむべし」

と、「精師の主張は正確でないために、いろいろと解説を加えて益々誤っている。後
の世まで悲しむべきことである。」とまで指摘されています。要するに、別しての十
二箇条の法門と呼んだ甚深の血脈の法門とやらは、日亨上人に言わせれば正しい主張
ではないばかりか、余計な解説を加えているので益々誤っているというのです。
 これがどういう意味を持っているのか、より詳しく示せば、そもそも「富士門家中
見聞中」は精師の正本が存在しないのです。このため、堀上人は、良師本、宥真本、
慈来本等から編集されたことを記録として残されています。
 しかし、研究教学書には、この家中抄中の「稿本零編」という精師の正本が掲載さ
れており、そこに書かれている内容は、後代の写本とは全く違う「十二箇条」につい
て書かれているのです。
 なお、「内証深秘・外用浅近」の言葉は誰でも知っていますが、未だかつて「内用
外用」とかの法門は聞いたことがありません。阿部管長が勿体ぶって言い出した「内
用外用」の法門は明らかに誤りなのです。もしも日亨上人が「内用の特別の12ケ条
の法門」だなどと考えていたら、絶対に「誤りか」などとは書かず、「甚深の法門な
り」とでも記されたはずです。
 逆に阿部管長は勿体ぶって「内用とは真の唯授一人、七百年法灯連綿をなす根幹の
相承」と吠えたのですが、要するに阿部管長は相承どころか「内証深秘・外用浅近」
という日蓮正宗の正依に定められた基礎教学さえも分かっていなかったことがバレて
しまったのです。おまけにこの際だとばかりに阿部管長は、「御書の全てが外用だ
!」という明らかな大聖人否定までも宣言したのです。

【日顕悩乱説法】:「これはひとつはね、御書のすべてが外用であるという、この非
常に深い意味が、あのー、法門には内用と外用があるということが、あとに出てきま
すけども。このー、挙げられておるのは、やっぱり一応すべて外用という形におい
て、すでに示されておる、外の、いうことがあるんであります。」

 ここまで来ると、バカにつける薬は無い、の世界ですね。御書を軽しめ、引いては
大聖人を否定するという点でも阿部管長は天魔であることを自ら証明しています。

 ところが別しての12箇条については、阿部管長のウソを明らかにする資料が他に
もあるのです。
A精師の正本が残っている「富士門家中見聞中稿本零編」には、

「想じて之を謂はば内用外用金口の知識なり、委細に之を論ぜば十二箇条の法門あ
り。又御書並びに血脈抄に於いて一大事相伝あり。所謂形名種脱の相承、判摂名字の
相承なり。此の二ケ相承当家一大事なる故に甚深の血脈なり」(富士門家中見聞中稿
本零編)
(通解:惣じてこれを言えば、内用外用金口の知識である。詳しくこれを論じるなら
ば、十二箇条の法門がある。また御書並びに血脈抄には一大事の相伝がある。いわゆ
る(本因妙抄に説かれる)形名種脱の相承、(百六箇抄に説かれる)判摂名字の相承
である。此の二箇の相承は当家一大事なので甚深の血脈である。)

と、この十二箇条とは血脈相伝について詳しく論じたものとして明かされており、こ
れ以外に当家一大事の二ケの相伝があり、この一大事相伝として「形名種脱の相承、
判摂名字の相承」が挙げられているのです。
 因みに、この個所での堀上人の頭注は、
「想の字惣の誤りなり」
のみであって、堀上人の手元にあった(すでに公開された)相伝の内容と相違無いこ
とが伺えます。
 つまり、家中抄中の別しての12箇条の下りについては、精師の正本である稿本が
正しく、後世の写本であるものは、明らかに間違っていることが、堀上人の頭注から
理解出来るのです。

 なお、この「当家一大事の相伝」である「形名種脱の相承、判摂名字の相承」と
は、精師が家中抄において、

「正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂
名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざ
る秘法なり」(通解:正和元年十月十三日に百六箇抄と本因妙抄の二巻の血脈抄を日
興上人から日尊に相伝された。この書の相承に「判摂名字の相承、形名種脱の相承」
がある。日目、日代、日順、日尊の他にはみだりには相伝されない秘法である。)

と、「日目上人が日道上人に付属した形名種脱の相承、判摂名字の相承」とは、実は
「百六箇抄」と「本因妙抄」の二巻の血脈抄のことであり、しかも日興上人から日目
上人に対してだけではなく、日代、日順、日尊にも相伝されていたことを記録してい
るのです。
 そうです。血脈相伝は「唯授四人」であったという証拠なのです。

 以上の内容だけならば、12箇条そのものが具体的に分からないのであれば、別の
可能性があるではないかと主張したがるのが阿部管長盲信派の者たちの常なので、さ
らにとどめを刺すと、堀上人の講義の聞き書きに、明確に他山の者が12箇条を書き
残していることを紹介しているのです。

B「房州日我は相承の文には二十四番と分けられてあるが、差し当たり自我に十二番
に分けても良いと言っている。此の自我の十二ケの関係を二十四番に拡げて詳しく話
する予定なり」(亨師聞き書き)
 つまり堀上人は、保田妙本寺の日我は相伝を24番ともこれを12箇条にしても良
いと言っており、堀上人としては相伝の十二か条を24番に広げて詳しく話す予定だ
と講義されたのである。こうした記録を丹念に研鑚していけば、阿部管長のウソは簡
単に見破ることが出来るのであろうに、邪宗化してしまった現宗門にはそのような慧
眼の士は少ないようです。
 なお保田妙本寺は、戦後の帰伏までは一貫して他山であった寺ですが、日因上人が
「日典上人御代に大坊焼失の砌り焼け失せたる者か、故に今御目録十七条のみ之れ有
り御相伝悉皆失ふ」(富要1-377)
「大石寺に伝わる日目上人の相伝は全て房州保田の妙本寺に有る故に」(富要
1-378)
と書かれているとおり、全ての相承書は既に焼失してしまったものを後世になって他
山である保田妙本寺から譲り受けて来たようなことを歴代が記録しているのですか
ら、房州日我が12箇条の法門について論じていても、それはやむを得ないことで
す。
(注:もしも浅智恵で、「この日因上人の文は袈裟と数珠の相承について述べている
だけだ」と反論したいのなら、
「残っているのは17ケ条の相承の目録だけだと書かれているではないか!」
「数珠の相伝3通として、日道伝には、@三衣の相伝、A三衣の口伝、B念珠の相
伝、があるではないか。」
「大石寺に伝わる相伝は全て保田妙本寺にある、と書かれているではないか!」
と言う質問に回答してからにしましょう。)

 ところが、この12箇条については、他にもいくつもの資料が発見されており、も
しも宗門が何かウソを主張したならば即座に打ち破られることは間違いないのです。
これらの資料については、生かすべき時が来るまで公開しませんが、阿部管長の口
走ってしまった「未だ公開されざる別しての12箇条の法門」とは、それほど致命的
でいい加減な代物だったのです。
 結論:阿部管長の血脈相伝は竹光であった!

 以下、おまけですが、少し家中抄日道伝の個所を紹介しておきましょう。表現等で
不適切な個所がある場合はご了承ください。
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【日顕悩乱説法】:「これを挙げてみますと、「家中抄」、日道上人伝がある、ずい
ぶん昔の方ですけども、この伝についての終わりにですね、「御上洛の刻み、法を日
道に付(注=付嘱)す」。御上洛とは日目上人が、京都へ向かわれるね。そのとき
の、「法を日道に付(注=付嘱)す、所謂、形名種脱の相承、判摂名字の相承等な
り。総じて之れを謂えば、内用外用、金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇
条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法
門既に日道に付す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を
残す莫かれ」(聖典P.695)とあります。この中の、外用とは外に向かって仏法の筋
道を示す浅いところから深い、深いころまで至るところの一切の法門、だからこれを
法門相承。日寛上人の挙げた名目もこれに入る。内用とは真の唯授一人、七百年法灯
連綿をなす根幹の相承。実は一言一句も他に申し出すべからずと示されたるところ
の、別しての12箇条の法門とさらに法体であります。そこまでしか言えません。エ
ヘッ。ゆえに、堀上人といえどもまったくこれを公開せず、これ以外公開してない。
いろいろ全部、あの、文証出したけど、この所だけは、さすがの堀上人も公開してな
い。」(日顕講義録)

(破折)
 さあいよいよ出ました!日顕が法主になって初めて言い出した、特別に隠し持って
いたとかいう別しての12ヶ条の秘伝の法門とやらについて、早速「富士宗学要集第
5巻」や「教学研究書」に掲載された、造仏読誦の謗法法主日精の書いた「家中抄」
に基づいて破折してみましょう。
 日顕が引用したのは「家中抄」の日道伝の最後の箇所であり、日精は日道上人を弁
護するために日目上人から日道上人に法を付属した根拠をいろいろ述べたうえで、

「日道は時光の後室妙法尼の養子なり上野皆南条の領内なり、何ぞ有縁の日道を閣き
無縁の日郷に付属せらるべき 是三、亦次に付属の状之無しと云ふ事亦以て謂れ無
し、右譲状新田の坊地を日道に譲り与ふるは下の坊の事なり、上新田講所たるべしと
は大石寺講所たるべしとなり、下之坊は時光建立にして高開両師経行の精舎なり、故
に本寺とも斉等とも云ふべけれども此の指南を以て興門の末寺頭とする者なり、何ぞ
付属状無しと云ふや、況や又御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、
判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜ
ば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事
の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを」
(通解:日道は南条時光の未亡人である@妙法尼の養子である。上野の郷は皆南条家
の領地の中である。Aどうして有縁の日道を差し置いて無縁の日郷に付属することが
あろうか。是が三つ目の理由。また次に日道に付属した文書が無いという事はその根
拠がない主張である。右の譲り状でB新田の坊地を日道に譲り与えたというのは下の
坊の事である。C上新田の講所であるのだ、というのは大石寺の講所であるのだ、と
いうことである。D下之坊は時光が建立したもので大聖人・日興上人が修行された精
舎である。だからこそ「根本の寺」とも「(霊鷲山と)同等」とも云うことが出来る
のであるが、この指南を根拠として日興門流の末寺のトップとするものである。どう
して付属状が無いと言うのであろうか。ましてや日目上人が京都に登られた時には、
法を日道に付属した、いわゆる「形名種脱の相承、判摂名字の相承」などである。総
じてこれを言えば「E内用外用(ないゆうげゆう)金口(こんく)の智識」である。
F別してこれを論ずれば十二箇条の法門がある。甚深の血脈であり、その器でなけれ
ば伝えない。このような当家の大事の法門を既に日道に付属している。ここに知るこ
とができる、大石寺を日道に付属したということを。)

と、日道上人に相承書が伝わっていることを証明するためにいろいろと説明していま
すが、これに対して日亨上人は「富士宗学要集」や「研究教学書」「研究教学書稿本
零編」の頭注において、丁寧に日精の誤りを破折されています。番号を付した部分に
ついて日亨上人が破折した言葉を、一つ一つ確認してみましょう。

@「妙法尼は誤りなり本拠を知らず」
 南条時光の未亡人が妙法尼というのは誤りである。妙法尼と呼ばれた人には、
(1)駿河の国・岡宮の妙法尼、(2)四条金吾の母、(3)佐渡中興入道の母、(4)日目上人
の父新田五郎重綱の母、の4人がいますが、どれも南条時光の未亡人ではないことは
明らかです。日目上人の母は南条時光の姉(新田重綱に嫁いだ)であり、日道上人
(新田重綱の弟・頼綱の子)は日目上人の甥に当たるために誤ったものと思われま
す。

A「此の論は俗といえども最も強し」
 上野村は南条家の領地であるから、血縁関係の日道を差し置いて血縁のない日郷に
付属するはずがない、というのが世間では最も強い根拠になったというもの。仏法の
後継者とは何の関係もない話ですが、これを付属の根拠にしていること自体が相承が
無かった現証と言えます。

B「新田坊地は奥州三迫にして下の坊にあらず」
 唯一の根拠とした譲り状の中の、新田の坊地を日道に譲り与えたというのは下の坊
のことではなく、東北の三迫という土地のことであって、全く大石寺を譲った根拠に
はなっていないのです。日道への譲り状に書かれている「新田の坊地」とは「大石
寺」のことではなく「奥州の三迫」という土地であり、したがって日道上人が持って
いた付属状は大石寺ではなく奥州の土地についてのものであると断言されています。

C「上新田「講所」とは「講師」の誤読にして道師を其主とするもの 但し大石寺本
山のにはあらざるなり」
 日精が上新田講所と言っているのは「講師」の誤読であって、日道上人を上新田の
講師とするものですが、大石寺本山の講師ではないのです。

D「論拠已に誤れりまた複数説又無益なり此一条全く抹殺すべきなり」
 下之坊は時光が建立したもので大聖人・日興上人が修行された精舎である等との主
張は、既にその根拠が間違っているので、この一ケ条は抹殺しなければならないほど
の明らかな誤りである、とまで日精のお粗末な見解を破折されているのです。

E「内用とは内証の誤りか」「用の字、証の誤りか」
 「内証深秘」の言葉は知っていますが、未だかつて「内用外用」とかの法門は聞い
たことがありません。日顕が勿体ぶって言い出した「内用外用」の法門はやはり誤り
だったのです。
 もしも日亨上人が内用の特別の「12ケ条の法門」を知っていたら、絶対に「誤り
か」などとは書かず、「甚深の法門なり」とでも記されたはずです。
 逆に日顕は勿体ぶって「内用とは真の唯授一人、七百年法灯連綿をなす根幹の相
承」とほざいたのですが、要するにミソもクソも(大聖人の正義も他山の邪義も)
ゴッタに書かれた「日蓮聖典」から引用したために、日顕は相承どころか「内証深秘
・外用浅近」という日蓮正宗の基礎教学さえも分かっていなかったことがバレてし
まったのです。元教学部長の分際で、学会の初級試験も不合格になるようなただのボ
ンクラジジイだということが青天白日のもとになったのです。相承の方は本当に大丈
夫でしょうか?

F「本師の弁証は精義ならざる間付会を加えて益々誤れり 後生悲しむべし」(資料
4−7)
 日精の主張は正確でないために、いろいろと解説を加えて益々誤っている。後の世
まで悲しむべきことである。要するに、別しての十二箇条の法門と呼んだ甚深の血脈
の法門とやらは、日亨上人に言わせれば正しい主張ではないばかりか、余計な解説を
加えているので益々誤っているというのです。いかに日精も日顕もお粗末な主張をし
ているかがこれでよく理解できたでしょう。

 これほど明確な相伝に対する破折も珍しいのですが、更に日顕の邪義を徹底して打
ち砕けば、「家中抄(中)」日興伝(富要5-170~171)には、

「正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂
名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざ
る秘法なり」
(通解:正和元年十月十三日に百六箇抄と本因妙抄の二巻の血脈抄を日興上人から日
尊に相伝された。この書の相承に「判摂名字の相承、形名種脱の相承」がある。日
目、日代、日順、日尊の他にはみだりには相伝されない秘法である。)

と、日精が家中抄の日道伝で主張した「日目上人が日道上人に付属した形名種脱の相
承、判摂名字の相承」とは、実は「百六箇抄」と「本因妙抄」の二巻の血脈抄のこと
であり、しかも日興上人から日目上人に対してだけではなく、日代、日順、日尊にも
相伝されていたのです。
 「家中抄」には「法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、
惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり」とある以上、「金口の相承」も惣じての
相承でしかないのかとも思いましたが、堀上人が「本師の弁証は精義ならざる間付会
を加えて益々誤れり 後生悲しむべし」と、とにかく日精の書いた内容は無茶苦茶で
あることを証明されているので、これ以上論じる必要はないでしょう。
 しかし、日精自身は家中抄上の末文で、

「今御筆(御書)を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に
順し、善ならざるは頗(すこぶ)るために改め易(かま)え次第前後をただす」(富
要5-180)
(通解:今御書を根本として、遺弟の文証の中で取るべきものはこれを記録し、諸伝
の正しい説にはこれに従い、正しくないものは少しばかり修正し、順序をただしてい
る。)

と、日精の出来る範囲で彼が正しいと考える内容を記載していることから、日精は明
らかに邪義に染まっていたことが確認されるのです。

◎別しての12箇条とやらがもしも日道上人に伝わっていたら、どうして70年もの
内部抗争が決着がつかないことがあるでしょうか。これを12箇条が存在していな
かった現証と呼ぶのです。

 更に、もしもこの「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり」
とやらが相承書として伝えられていたならば、どうして日道と日郷との一派による
延々70年にも及ぶ抗争が決着がつかないはずがあるでしょうか。これこそ現証と呼
ぶのです。
 要するに、日道の時代には大石寺のみに存在する相承書は存在していなかったとい
うことが、歴史上の悲しい事実を分析したときの当然の帰結なのです。
 もしも日道が何か特別の相承書を持っていたなら、絶対にそのことを根拠として日
郷門下に対して断固として示したはずであり、宗門内の抗争もあっと言う間に決着が
ついたはずです。しかし、日道が相承書の目録ぐらいしか示せなかったためか、歴史
上の事実はそれとは全く反対に何十年もの長きにわたって日蓮門下の分裂を生み、疲
弊の一途を辿ったのです。要するに日道の相伝を決定づける相伝書は少なくともその
当時には一切無かったのです。後世になって作られた可能性は否定しません(180
0年代の初めのことです)が、そのような「書」のことを世間では「偽書」と呼ぶの
です。
 これらの歴史的事実に基づけば、どうして家中抄に書かれた「12ケ条の法門」と
やらが日道の時代から存在したなどと言うことが出来るでしょうか。
 もしも日顕が特別に隠し持っている12箇条とやらが本物であると主張したいので
あれば、その全体の写真を公開し、専門家による考証・解析を行えば信じてあげま
しょう。そうすれば即座に1800年代の初めに作成されたものであると判明するこ
とでしょう。またその証拠も見つかっているのです。
 日亨上人は江戸時代以降に作成された文書、例えば「大坊棟札」などは正史料とし
ては公開されておられません。この12箇条も、それらと同じ代物なのです。

 それにしても、まさか家中抄に書かれているこの程度の文を根拠にして、日顕が特
別の相伝を主張してくるとは思いもよらなかったと、全国の心ある方々が心配し始め
ています。日顕は本当に相承を受けたのであろうか?やはり血脈断絶の不祥事が起き
たのではなかろうか、と。
  そもそも「家中抄」を書いた釈迦多宝像の造仏と法華経一巻読誦の邪義で有名な日
精は、この宗門の歴史書の中で、数限りない誤りを記載していることは、日蓮正宗の
教学を学んだ者ならば誰でも知っていることです。だからこそ富士宗学要集で日亨上
人が、頭注において100ケ所をはるかに超える箇所を「誤りなり」等と破折・訂正
しているのです。こんな誤りだらけの文書を根本に、日顕は自らの相伝の根拠を主張
したのです。もう少し血脈相承の内容は尊厳なものだとばっかり思っていた全国の法
華講員たちはガックリ来ています。もちろん坊主たちは始めっから信じていなかった
ようですが。
 竹光を腰にぶら下げた腰抜け侍が、愚かにもほんのちょっとだけ刀をちらつかせた
ら、そのあまりの光沢の無さに、即座に竹光だと見破られたようなものではありませ
んか!

◎相承書に総別があるなどというのは、単に新しいでっち上げです。

 相承書に別しての12箇条があるなどという主張は、未だかつてどの法主も言った
ことのない新しい邪義です。正依ではありませんが、参考までに14世日主上人の総
別の付属についての言葉を引用しましょう。

「富士四ケ寺の中に三ケ寺は遺状を以て相承成され候。是は惣付属分なり。大石寺は
御本尊を以て遺状成され候。是則ち別付唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本
尊、興師より正応の御本尊法体御付属」
(通解:富士四ケ寺の中で三ケ寺は遺状をもって相承をしている。これは惣付属の分
である。大石寺は御本尊をもって相承をしている。これはつまり別付属唯授一人の意
である。大聖人から本門戒壇御本尊を、日興上人から正応の譲座御本尊の法体を付
属。)

とあるのです。もしも大石寺だけが特別な相承書を持っていたのなら、そのことを匂
わしたはずです。しかし、この日主上人の言葉は、相承書での付属そのものを総付属
としており、戒壇の大御本尊こそが別付の当体なのです。そしてこのことは日応上人
の弁惑観心抄での見解とも全く同じなのです。
 日顕の言うような相承書の総別などは明らかな新義でしかありません。
 ただし、この日主上人の言葉が正依でない証拠に、日興上人の正応の御本尊(譲座
本尊)も別付属の法体としているのが正義でない箇所だと言うことが出来ます。この
ようにして、日蓮正宗の正依に基づいて厳格に依義判文していけば、日顕の主張が邪
義であることが明確になるのです。


 長くなったので、本日はここまで。また次回をお楽しみに。
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03.09.06 22:52

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▼樋田様 ← S

その後お返事がいただけなかったので、貴殿に何か起きたのかと心配していまし
たが、ようやく先日の法論の感想について、貴殿の思い入れを拝読させていただきま
した。」
●おかげさまで、先日申し上げたように、今貴殿等の大敗北をクローズアップしたビ
デオ製作と当方の完勝本の上梓に向けて準備作業で多忙です。
―――――――――――――――――――――――――――――
「▼直に申し上げて、貴殿はかなり強烈な思い込みをされる方のようですね。貴
殿のような感想がどこから出て来るのか、かなり無理矢理にねじ曲げた心を感じまし
た。」
●さてさて、それはどうでしょうか?
ビデオを一刻も早くできるだけ全国の大勢の方に観ていただきたいものです。
全てはそれで明らかになり、一言の解説も要らない事でしょう。
貴殿も是非購入され鑑賞されると宜しいかと存じます。
自らを客観的に冷静にご覧になることも大事な事かと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
「▼そもそも法論とは、あくまでも法義に関する論争であって、先日の貴殿の主張
のように、例えば「帰命」に関する切り文をして双方の概念と見解の相違に最後まで
拘って、本来の正当な法義論争を回避するようなものとは全く違っていると小生は考え
ています。」
●法門上に”見解の相違”などが出ること自体が問題です。
それこそ仏法が混乱、惑乱し衰退となる元。
が故に相伝に依らない我意我見を誡めなくてはならない。
誤った見解を持つ者は徹底的にその邪解を破さなくてはならないと考えます。

では、「帰命」から、一つ一つとことんやりましょう。

今日はもう遅いので、また後日。

また、楽しい毎日が始まりそうでありがたいことです。
N氏では話になりませんでしたから。
彼は精緻な文書対論からは完全に遁走ですね。(どんな理屈を捏ねようとも)

あ、それと、最近脱落僧M氏はお元気ですか?
メールに返信が来ないのですが、機会がありましたら、お伝えください。
「お逃げにならないでね。これから本格的に破折しますから。元僧侶の力量をとくと
拝見したい」と。
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03.09.07  23:32

▼樋田様 ← S

 小生の以下のメイルへのお返事が、恐らく時間が無かったためでしょうが、ごくご
く短い回答として届きました。

 貴殿は、自らの置かれている立場、即ち法義論争の責任を明確化すること、を忘れ
ているかあるいは少々怠っているのではないかと考えられます。したがって、貴殿が
まず最優先で為さねばならないことを確認する意味も込めて、先日のメイルを再度お
送りしますので、よろしくご検討ください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(省略)

―――――――――――――――――――――――――――――

そうそう、脱落僧M師は、貴殿と違って出家であり、それも同期でも優秀であったこと
から、阿部管長の奥番として常随給仕した経験があります。その際に、阿部管長が懐
中に持っていた木彫りの釈迦像について脱落僧M師は自らの目で確認したことから、これ
について非常に強い問題意識を持っています。今度お会いした時には、脱落僧M師の体験
について、より詳細に聞きましょう。そして、釈迦像をお守り御本尊の替わりに懐中
に忍ばせる化儀について、日蓮正宗の正依に基づいて論じ合いましょう。出来たら今
度一緒にお伺いしたいと希望していますので、その節はどうぞよろしく。再会の日を
楽しみにしています。
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03.09.07 23:37

● 
■「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。」

■「帰命と申すは天台釈して云はく「命を以て自ら帰す」等云云。命を法華経にまいらせ
て仏にはならせ給ふ。」

■「帰命に人法之(これ)有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉
るなり。」

さて、この御文の如くに、「帰命」とは仏(末法ではご本仏日蓮大聖人様即御戒壇
様)へしか使われない、使うべきでない言葉と思いますが、如何か?

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03.09.08 22:43

▼樋田様 ← S

 再度の確認のご連絡です。
 相伝はすべて公開されている、という当方が示した証拠に対して、貴殿は今回もな
お一言も回答して来ないということは、今回の対論において、血脈相伝に関して貴殿
は一切反論不可能であったということを認めたと結論を下して異論は無い訳ですね?

 小生からは、二度にわたって、しかも確認の意味で同じ指摘を送付し、それに対し
て未だに貴殿は一切何らの反論も出来ない故に、「帰命」に関する3種の御文を挙げ
て、牽強付会としか言い様の無い解釈論に逃げ込んだものと見なしますが、本当にそ
れでよろしいのですね?

 先日の対論のビデオにおいて、貴殿も黄倉君も相伝は全て公開されているという当
方の破折に対して、話を逸らすことだけで精一杯で、黄倉君などは漢文が読めずにチ
ンプンカンプンな発言を繰り返し、「君は漢字が読めてないの!」と厳しくクギを刺
されていた訳ですが、貴殿から今回の奇妙な問いを送ってきたことで、この期に及ん
でなお一切の反論が不可能だということを貴殿は黙認された訳なのですから。

 もしも貴殿からの次のお返事で、別しての12箇条の相伝に関する貴殿の反論が示
されない場合には、速やかに今回の対論の決着である脱講の手続きを開始することと
致しましょう。
 なお、貴殿が誠実に脱講届けを送付して来ない場合には、貴殿が会いたがっている
脱落僧M師と御一緒に、脱講の手続きを進めるため、あるいは貴殿のその他の間違いにつ
いてのご説明をするために貴殿宅をご訪問するのが宜しいのでしょうか?
 貴殿が法門に関する誠実さを示されるならば、こちらも貴殿の惑いを取り除くため
に、明快にお応えするように努力しますので、良きお返事をお待ちしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
「● ■「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。
■「帰命と申すは天台釈して云はく「命を以て自ら帰す」等云云。命を法華経にまいら
せて仏にはならせ給ふ。」
■「帰命に人法之(これ)有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し
奉るなり。」さて、この御文の如くに、「帰命」とは仏(末法ではご本仏日蓮大聖人様即御戒壇
> 様)へしか使われない、使うべきでない言葉と思いますが、如何か?」

―――――――――――――――――――――――――――――
▼小生の回答を期待される場合には、少なくとも以下の破折に対する反論を送付のこ
と。
 それにしても貴殿は、慧妙あたりから拾ってきた切り文教学しかやっていないと、
随宜論を読んだことも無いのに、如何にも知っているかのような振りをされて、富士
宗学要集にあるとか口走られたりする結果になります。教義についてはお互いに謙虚
に学び続けましょう。
---------------------------------------
(しつこく繰り返し引用してあるので省略)
**********************************************************

03.09.08 23:52

12か条については法論の中でも再三貴殿に対して問難し、貴殿は一言も答えられず大
声を張り上げて、喚いているだけでした。
その無慙な姿は一部始終公開されますから、後日自らの もの狂う姿をとくとご覧下
さい。

さて、ご理解が出来ないようなのでもう一度ここに文書で詰問します。

12か条が公開されているのなら、その文を示してください。
それが出来ないのにいくら「12か条は全て公開されている。日顕(猊下)は大嘘つき
だ!」と怒鳴られましても、論に破綻してます。うちの中学生の子供でも理解できま
したよ。この事は。そして、貴殿の絶叫を笑っていました。

くどくど12か条を云々をするのなら、まず中身を全部公開して見せなさい。
でなければ、猊下が仰せになった、未だ(内容は)公開されていない12か条 云々
は、正にそのままの何も問題の無い仰せではないですか。

さあ、内容の文証を挙げて下さい。
できなければ脱会の書類を郵送してください。

次に「帰命」について貴殿は反論不能とみなし、脱会の手続きを執行していただ
くと言う事で宜しいですな。

帰命に関連して更に一題。

▲「私(池田)から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約
束すること)を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益であ
る。」(『前進』昭和四十二年二月号)

記別 とは誰が誰にできる行為なのか。
一在家がこんなこと言ってしまっていいんでしょうか?
**********************************************************

03.09.10 5:01

▼樋田様 ← S

 貴殿は別しての12箇条についてはご自分では回答出来ないということを、自ら正
直に認めることが出来ず、逆切れして開き直るしか無くなったご様子。宜なるかな、
慧妙あたりの切り文教学に終始し、相伝のことについて学ぶ機会も求道心も無い様
は、書き込みの面に滲み出ておられる。
―――――――――――――――――――――――――――――
「●12か条が公開されているのなら、その文を示してください。それが出来ないのにいくら「12か条は全て公開されている。日顕(猊下)は大嘘つきだ!」と怒鳴られましても、論に破綻してます。うちの中学生の子供でも理解できましたよ。この事は。」

▼小生が示した証拠を、もしも貴殿が謙虚に研鑽されたならば、阿部管長の主張する
12箇条はまさしく文の面に厳然と顕れているのですが、貴殿が中学生の子供さんと
同じ知識で無道心の人生を送られている限りは、その内容を知ることは不可能でしょ
う。
 今回の貴殿の一言で完全に明確になったのです。貴殿は反論のつもりで書かれたよ
うですが、かえってご自分で墓穴を掘ってしまいました。要するに、貴殿には相伝に
ついて論じる能力も立場も全く無い、という当然過ぎるほどの事実が判明したので
す。

 可哀想ですが、貴殿では小生の相手にならないので、12箇条について論じること
が出来る者として、どなたかを出して頂くしか無さそうです。差詰め阿部管長が最適
任でしょう。しかし、貴殿には阿部管長にご出馬をお願いできるような立場も能力も
意思も無いでしょうから、本件に関する貴殿の対応によっては、例えば公開質問状の
ような形などを採用して、一般にも広く周知し、貴殿には一切関知不可能な相伝に関
して、誰の目にも理解できるような対応をすると言うことでよろしいでしょうか?よ
く考えてご回答下さい。
 なお、貴殿は血脈相伝の項目において、ご自分の無知故に完全に論に詰まったこと
で、脱講届けの提出を免れることは出来ないので、念のため。貴殿は自分が論に詰
まっていることを自覚できないほど、自らが法門に関して無知蒙昧だと言うことを天
下に曝してしまったのです。
 少し貴殿の無知を証明しておきましょう。貴殿がNさんに送った書き込みで、

「●「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」

と、意味も分からずに本因妙抄の後加文を引用していますね。
 貴殿は、堀上人が「西山本門寺あたりで書き加えたもの(趣旨)」と講義された内
容を根本にして、どこの山の血脈相承について云々されているのですか?
 貴殿は全くご存知無いようですが、昭和2年7月26日から28日に、堀上人が宗
門僧俗の代表を集めて、本因妙抄、百六箇抄、産湯相承、本尊七箇、教化弘教七箇、
文底口伝、引導口決、神天上、本因妙抄口決等の宗門古典の扱い方を決定した議事録
があります。
 対面所において、水谷、有元、阿部、小笠原、福重の5名に諮問された内容によれ
ば、
「又日文字の口伝」より以下三行、つまり貴殿が引用した後加文の箇所について、

「宜しく削除すべき歟。(削除)」

と、貴殿の引用した個所は後世の後加であることから、明確に宗門として削除するの
が正しいと決断を下しているのです。宗史の研鑚等の意義から、各種文献には残され
ていますが、その経緯についてはやはり堀上人が、

「ハ、其の他、くどくどしい辺は後人記入の註釈と見るべし。
ニ、その註釈が転写の砌り、本文に並び入り込んで遂に本文となってしまった。而る
に古来より信仰を以って固めた宗門なる故に、此等に就いて一々の批判を僭越的にせ
ずしてそのまま伝え来るなり
ホ、日辰、日我の写本、日時上人本も既にその以前に註書を本文に混入してしまった
らしい。日時上人の時代は既に宗祖滅後百年を過ぎている。
 以上のために相伝書としての意義を失してしまった。」

等と講義されているとおりです。後世の後加によって「相伝書としての意義を失して
しまった」とまで言われているのです。
 そもそも、本因妙抄と百六箇抄とは、「両巻抄」または「両巻の血脈抄」と呼ば
れ、宗門では古来より非公開の相伝書でした。しかし、これさえも堀上人が公開され
たのです。

「両巻抄は古来より法主の相伝書となっていて、一般には見せず、聞かせず、知らし
めなかったのである。故に此を日亨が此を公開すると云う事はまことに御先師方に対
して申し訳がない」

と、先師方には申し訳ないが公開する旨を宣言されています。これこそ、創価学会の
出現に時を合わせて、別体の本尊によって根源である総体の本尊に直結させるため、
流通広布の時を開くため等々の深い意義があったのだと今から振り返れば理解出来ま
す。貴殿は必死で拒否しようと空しい反発をされるだけでしょう。しかし哀しいほど
の無知蒙昧では、何の説得力もありません。
 もしも小生の予想どおりに反発したいのであれば、其の前にまず貴殿は自分が引用
した文章の意味を理解しているのか、と問い質しておきましょう。
 貴殿が引用したこの後加文が述べている「血脈」と「本尊」とは、「伝法の書」に
ついて述べたものであって、何か特殊な儀式等を指したものではないということで
す。それをいつものように悪意の「切り文」をして、勝手な己義を構えようとしてい
るのだということが、直前の文章も含めて正確に示せば全て明らかになるのです。

「又日文字の口伝・産湯の口決・二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面
の決に之を表す、教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈并に本尊の大
事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」

 ここで「日文字の口伝・産湯の口決」とは、相承書の一つである「産湯相承事」に
示されている内容であり、「二箇」とは「百六箇抄」と「本因妙抄」の両巻の血脈抄
のことです。
 また、「本尊七箇の口伝」とは相承書の一つである「御本尊七箇相承」のことを指
しています。これらを天台・伝教両大師の十重顕観や七面七重の口決等と対比させた
うえで、この「血脈抄」と「本尊抄」の大事は「日蓮嫡嫡座主伝法の<書>」である
ということを示し、「塔中相承の稟承唯授一人の血脈」とは、実は三種類の「文書」
であることを宣言しているのがこの後加文なのです。
 何か秘密めかしたものがあるかと思っていたら、ちゃんと読めばすでに誰もが承知
の、堀日亨上人が全世界に公開してしまった相承書のうちの本因妙抄と百六箇抄、そ
して本尊七箇相承について述べている箇所なのです。
 しかも、この二箇の血脈抄は、精師が家中抄で明らかにしているとおり、唯授四人
なのです。

「正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂
名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざ
る秘法なり」(通解:正和元年十月十三日に百六箇抄と本因妙抄の二巻の血脈抄を日
興上人から日尊に相伝された。この書の相承に「判摂名字の相承、形名種脱の相承」
がある。日目、日代、日順、日尊の他にはみだりには相伝されない秘法である。)

と、日精が家中抄の日道伝で主張した「日目上人が日道上人に付属した形名種脱の相
承、判摂名字の相承」とは、実は「本因妙抄」「百六箇抄」の二巻の血脈抄のことで
あり、しかも日興上人から日目上人に対してだけではなく、日代、日順、日尊にも相
伝されていたのです。
 貴殿は、この後加文を根拠にして、いったい何を主張しようとしているのでしょう
か?せめて大御本尊のことでも挙げたかったのではないのですか?しかし、残念なが
ら他山の書き込みなのです、残念でした。
 堀上人は、貴殿が邪宗の血脈を主張していることを明らかにされていますよ。

「右二十七行の文(注:本因妙抄の「若し末法に於て」以下の後加文。貴殿の引用し
た箇所も含む)は宗祖より開山へ相伝された本には無かったと思ふ、右此等の文は宗
祖の言はれる筈にあらざる文、后世でなくては言へない文が多い。開山巳后、西山等
に伝わってから記入せられたものと思う。」

と、貴殿の引用した後加文は、日興上人以降に、西山本門寺あたりに伝わってから記
入されたものだと言うことを講義されているのです。貴殿は宗史に関する愚かなほど
の無知蒙昧の故に、随所で同じような誤りを犯しているのです。無道心を捨て、真摯
に法門を研鑽するように基本姿勢を正さなければ、生涯大聖人の仏法を破壊し続ける
ことになるので、深く忠告しておきます。
 貴殿の誤りの根本の一つが、たかだか末法下種の僧宝に対する、狂信・盲信・邪信
の一念です。
―――――――――――――――――――――――――――――
「●> 御戒壇様の御内証の御法体をそのまま所持されている御方が御当代猊下様。猊下様に筋目正しく連なって、出来得る限り御登山をし、末寺の御本尊様、常住御本尊様、御形木御本尊様、に至心に唱題し、折伏に励む者全てが、「法華経を受持し奉らん人」であり、「必ず仏になるべし」である。」

▼現宗門の最大の狂いが、「仏法の二大事」と称して、御本仏の出世の御本懐である
大御本尊様を、悩乱した末法下種の僧宝でしかない法主が介在しなければ衆生は成仏
できない、などという未究竟の教えに堕さしめていることです。まるで大聖人の仏法
に儒教や神道の邪義を取り込んだ摧尊入卑の典型ですね。
 歴代貫主の使命は、大聖人の仏法を「正しく」後代に伝えることであり、自分が途
中に介在物(障害物)となって、自分に背く者は成仏出来ないなどと主張するような
貫主が出たら、速やかに捨てるのが正しい大聖人の仏法の実践です。先日の法論の際
に、女性信徒の敬台院が釈迦像を造立するような邪義を犯した精師を「大石寺から追
放した」歴史的事実を好例として説明したとおりです。
 小生が、先日の法義論争の最初に三宝論を講義して差し上げて、貴殿らが過ちに気
付くことを促したのは、信仰の対象ではない末法下種の僧宝に無条件に従ってはなら
ない、ということです。貴殿は、小生の話を全く無視しておられたようですが、再度
整理してお送りしましょう。そうすれば、貴殿が信じている教えは、世間でカルトと
称されるオウム真理教などと同じレベルの狂信の教えだと否定出来なくなるのではな
いでしょうか?それでも貴殿は拒否され続けるのでしょう。それが狂信的なカルトの
カルトたる所以です。大御本尊を後ろ盾にして正義ぶっているところだけが少々タチ
が悪いですね。

「 三 宝 論

○日蓮正宗宗規  第四条2 「本宗(注:日蓮正宗)は、大曼荼羅を法宝とし、(乃
至)、血脈付法の人日興上人を僧宝とする。」
 日蓮正宗では、宗教法人の憲法とも言える宗規において、日興上人のみを僧宝と定
めています。その教義的な根拠を、日蓮正宗の正依に基づき説明すれば以下のとお
り。
 ちなみに、管長は宗規第二章「宗務規程」に基づき、宗門内部の教義を裁定する権
限を持つが、あくまでも宗規第一章「宗綱」に規程する正依に基づかねばならない。
これに背いたのが阿部管長。またこれを正せないのが現宗門の僧俗。

@久遠元初の三宝 (依文:当流行事抄 P.224〜6)
 「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり」「若し之れを伝えずんば則ち末代今
時の我等衆生曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非
ずや・然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり」

 ・真言見聞「凡そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり」(P.142)
  現宗門が悪用するこの御書は、久遠元初の三宝に関して述べた御文。これを末法
下種の三宝にまで歪曲したために、宗門は三宝破壊を犯した。


 ・三宝抄「問う、三宝に勝劣有りや。答う、此れすべからく分別すべし、もし内体
に約せば実に是れ体一なり。いわゆる法宝の全体即是れ仏宝の故に一念三千即自受用
身と云い、又十界具足方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に寫す故に師弟また
体一なり、故に三宝一体なり。もし外相に約せば任運勝劣あり。いわゆる仏は法を以
て師と為し、僧は仏を以て師と為す故なり。故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を
以て左右に安置するなり。」
  これが寛尊が定めた別体三宝の勝劣。

●一体三宝 = 御本尊
  学会は、本来の化儀である一体三宝を採用。また、開いて僧宝を和合僧団と定
義。

●別体三宝 = 中央に御本尊。左右に大聖人と日興上人の御影(木像)を安置。

  日目上人以下の歴代は、末法下種の僧宝として「一閻浮提の座主」の席で民衆を
三宝に取り継ぐ存在。(大客殿で阿部管長は御本尊の横に座っていた?それとも一閻
浮提の座主の席?)

  ・譲座本尊に興師が目師の判形を残されたのは、金口相承(本尊書写権)は末法
下種の僧宝に該当する義を顕されたもの。「総体の受持とは五種の妙行を総じて受持
と名づくるなり」(文段集P.485)にある「受持読誦解説書写」の書写に該当。

  御本尊七箇相承「七、日蓮と御判を置き給ふ事如何云云。受持法華本門の四部の
衆を聖人の化身と思ふ可きか。」

    「本門下種の南無妙法蓮華経・日蓮聖人より外に全く一法もなし。依って南無妙
法蓮華経・日蓮聖人を以て本尊と為し、能引と為るが故に「所化以て同体なり」とは
遊ばされたり。」(文段集P.799)
    人法一箇の本尊である南無妙法蓮華経日蓮聖人(在御判)を根本に、全てが
仏界所倶の九界として御本尊を構成する「本有の尊形」の存在となる。

  「本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生
の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々
の本尊なるが故なり。」(文段集P.502)

  「一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(P.797)

  また、戒壇の大御本尊は総体の本尊として一閻浮提の一切衆生のための根源の本
尊であり、それ以外の本尊は面々各々の成仏のための本尊。宗門第一尊厳の化儀であ
る常住本尊書写の化儀ばかりか、形木本尊、守本尊、棟札、未来本尊(棺や骨壷に入
れるもの)等と仮本尊とされるものの化儀は極めて多様。こうした化儀の歴史も知ら
ず、戒壇の大御本尊にしがみ付いているのが現宗門僧俗。御書のどこに、「歴代法主
を介在しないと成仏出来ない」などという大聖人の出世の御本懐を未究竟の教えに堕
さしめる邪義が書かれているか?本尊は大聖人の正義に対する信心、の人法一箇の御
本尊に対する信心の一念に納まるのだ。

「御身は佐渡の国におはせども心は此の国に来たれり、仏になる道も此くの如し我等
は穢土に候へども心は霊山に住むべし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候
へ。」(P.1316)

「此の御本尊全く余処に求る事なかれ・只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経
と唱うる胸中の肉団におはしますなり乃至此の御本尊も只信心の二字にをさまれり乃
至日蓮が弟子檀那等の肝要是より外に求る事なかれ」(P.1244)

「法華経修行の者の所在の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや乃至法華涅
槃を信ずる行者は余処に求む可きに非ず此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土な
り」(P.72)

「我等が居住して一乗を修せん所は何れの処にても候へ 常寂光の都為るべし、我等
が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往
復し給ふ事うれしとも申す計り無し」(P.1343)

「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり乃至仏身を持つとは我が身の外に仏無
しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり」(御義口伝P.742)

「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に
授与せしめ給う」(P.250)

  これらの御金言を相伝に基づき会通されて、寛尊が多様に展開されているのであ
る。これらの御文のどこに、法主が途中に介在しなければならない、などと書かれて
いるのか?逆に、御本尊の前では、法主も一在家も全く差別無し、というのが大聖人
の仏法ではないか。こんな当然のことを狂って理解したのが現宗門である。これらに
ついては別の機会に存分に論じたい。

「上行菩薩より一切衆生に授与するなり」(文段P.743)

「この久遠元初の自受用身、末法に出現してこの本尊を授与す。故に「今者已満足」
というなり。この本尊を受持(注:観心)する衆生は皆久遠元初の仏道に入る。故に
「化一切衆生皆令入仏道」というなり。既に久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の
当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり。
故に「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳骨髄に非ずや」というなり。自受用
身はこれ師、我等はこれ弟子、既に「如我等無異」なり、豈師弟不二に非ずや。」
(文段集P.488)

「若し一念の信心あらば即ち本尊を具す」

「諸門流の曼陀羅には日蓮聖人の判なし云々。相伝あり。当流の弟子檀那は、御判た
しかにすわりたる手続の文書、本門の本尊を受持するが故に、決定して成仏すること
疑なし。」


A末法下種の三宝(依文:当家三衣抄 P.251〜2) 「数珠とは此れ乃ち下根を引接
して修業を牽課するの具なり」(P.251)に続けて、
 「南無仏・南無法・南無僧若当流意、
 南無本門寿量品肝心・・・南無日蓮大聖人師、
 南無本門寿量品肝心・・・南無本門戒壇の大本尊、
 南無本門弘通大導師・・・南無日興上人師、
 南無一閻浮提座主   ○○伝法日目上人師、
            ○○嫡々付法歴代諸師、如此三宝一心念之而唯当称南無妙
法蓮華経」云云(寛師直筆より)

 ・「南無」が冠せられているのは「一閻浮提座主」まで。歴代諸師は南無する対象
ではない。このことを間違えてはならない。

 ・堀上人は、この文意を正確に理解できる表現として当家三衣抄釈文で「南無日興
上人師、南無一閻浮提座主・伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師、如此三宝、一
心念之」(富要10-303)と句読点を配され、「南無一閻浮提座主伝法日目上人師。
嫡々付法歴代の諸師は、此くの如き三宝を、一心に之を念じ」と、歴代は三宝及び一
閻浮提の座主の座を守るべき立場であることを明確化。

 ・それ以下の文は「此の如き三宝を一心に之を念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え
乃ち一子を過すべし云云。行者謹んで次第を超越する勿れ勢至経の如くんば妄語の罪
に因って当に地獄に墜つべし亦復母珠を超ゆるの罪何ぞ諸罪に越ゆるや、今謂く蓋し
是れ名を忌むか」と、下根のための方便を述べていることからも、末法下種の三宝は
宗門統率のための化儀の教え。

 ・正しく受持信行する在家も末法下種の僧宝に分類される依文は、在家への付属で
ある「守護付属」(文段集P.246)等による。

  法衣供養談義「当宗の俗は他宗の僧に勝れたり、何となれば事相の髪を剃らずと
雖も已に内心の髪を剃る、法華経誹謗の黒心無きが故也、是の故に却って僧也、寧ろ
勝るに非ずや」(富要3-276)

○末法下種の僧宝に南無してはならない理由
 「但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし、世間・仏法の道
理によるべきなり乃至但正直にして小欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。」
(P.1055)

 「かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語
を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり」(P.1207)

 「元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還って失にて候と申す法門な
り」(原殿御返事 編年体P.1734)

 「補処(注:歴代のこと)と云うと雖も何ぞ必ずしも謬り無からん、例せば慈覚等
の如し云云」(末法相応抄P.155)

 「身命を惜しまずして須らく信行を励むべし、円頂方袍にして懶惰懈怠の者は是れ
我が弟子に非ず即外道の弟子なり云云」 (当流行事抄P.194)

  出家は大変な責務を担っている言葉が多いのを忘れたがっているのが現宗門。

●邪義の法主を在家が追放した事例:十七世精師の造仏容認(次回以降に詳細を説
明)

・正依でないものもあるため参考資料
「日興上人の常の御利口に仰せられけりとなん、予が老耄して念仏など申さば相構て
諫むべきなり、其も叶はずば捨つべきなり」(「大石記」 日時上人談 日亨上人)

「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦
の婬犯有りと雖も衆徒に差置く可き事」「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流
に有る可からず」(日興遺誡置文P.1618)

「破戒無智にして上位となすべからず」(化儀抄 富要1-146)

「三界恩愛の家を出て永く煩悩と別るる事が出家僧侶の義分なれば持戒清浄が本意な
り乃至末法無戒と示し給ふも、唯正像末の時の区別に従ふ大判にして・持破に超然た
れと云にあり、敢えて酒食婬事に耽溺(たんでき=おぼれること)して末法無戒と誇
れと云はしめんとにはあらざるなり「破戒無智にして上位となすべからず」とは此れ
末法無戒が宗門の誇にあらざることを顕し給へり(乃至)「上位」とは班 中の上首な
り本山にては貫首・末寺にては住職等なり」(有師化儀抄註解 富要1-148)

「開山上人がこの法度に『先師の如く予が化儀も聖僧たるべし』と定められ、先師大
聖人が無戒であるが、放埒破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもま
た放埒を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の僧行を認めたものでは
ない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、かえって身心相
応せぬ虚偽漢と罵(ののし)り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相
応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧と自負する者
があるやに聞く。このていの放埒ぶりを 標準とせば、この条目はいまは死んでお
る。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる。」(富士日興上人詳伝(下) P.272)
  」

 以上、先日小生が示した三宝論資料の修正版を再掲しました。詳細の解説は省略し
ましたが、貴殿らの挙げ足取りの議論とは異なり、当方は正確に全体像と主な依文と
を示して、現宗門の誤りを指摘しています。法義に対する誠実さは、このようにして
明らかになるのではないでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――――――

●ここも大馬鹿丸出し。猊下が仰せの12か条のその奥旨が公開されているなら、とっくの昔に文献になっている。ここに出して見せなさい。と法論では繰り返し詰問しているのに、出せなかったのは君らのほうではないか。当たり前だ。究極の秘伝は公開などされていないから。」

 Nさんに対して、こんな訳の分からない書き込みを送っているようですが、すで
に貴殿に送った破折文書において、12箇条は1800年代の初めに文書化されたの
だと示しておいたはずです。阿部管長の手元にある12箇条と、こちらの12箇条と
を比較してみれば、貴殿の惑いは全て消滅し、12箇条は究極の秘伝でも何でも無い
ことが明らかになります。阿部管長は、愚かなほど騙されやすい法華講たちを籠絡す
るために、

(日顕悩乱説法P.205)「「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一
人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示され
たる、別しての十二ケ条の法体法門であります。故に日亨上人といえども全く公開せ
ず、極秘伝の扱いのまま、今日に至っております。」

などとぶち上げた訳ですが、貴殿のおかげでそれが竹光であったと証明出来る機会が
得られたのです。別しての12箇条について、貴殿は何も知らずに、その立場でもな
いのに、とやかく言うことは出来ません。あるいは小生と阿部管長のやり取りを貴殿
は仲介出来るのですか?それならば大変ありがとうございます。くれぐれも楽しみに
しています。
 なお貴殿は、どうしても帰命について論じて欲しいそうなので、この別しての12
箇条の件が決着がついたならばお送りしたいと思いますので、誠実に対応して下さる
よう期待しています。
 週末まで再び多忙になるため、お返事が遅れるかも知れませんが、貴殿が@誠実に
反論すること、A黄倉君の連絡先を教えること、等の当然の作業をされない場合に
は、貴殿は対論から逃走し、しかも意図的に交渉を妨害したと見なしますので、その
旨をご承知おきください。
**********************************************************
03.09.10 22:21
●12箇条云々については、既に詰問した通り。
貴殿は、言を左右にしてその内実たる本体の文を出せずにいる。
依って、それは何等”公開”されたことにならず、御法主上人の仰せは正に、そのま
ま拝信すべきであり、貴殿が12か条の内容全てを明示できない限り、貴殿の主張も、
文証も、全て失当である。
このように”中学生でも分る道理と理屈”が貴殿には分りますか?まだ分りませんか?
分らなければ何度でもお教えいたしますよ。

次、今回の法論はN氏のたっての希望を当方が受け入れてあげて、三宝論から始め
たものである。
当方からの「学会の三宝は何か!」との詰問にあれほど狼狽ししどろもどろの対応し
か出来ず、剰え明確な回答すら得ていない。
特に、仏宝について、まず「帰命」の文義の解釈から始まったが、貴殿等から依然明
確な回答は得られていない。
依って、対論の筋目から言って、貴殿等はまずこの「帰命」から明確に回答をすべき
である。

が故にまずは、今まで貴殿に送付した内容に対し、貴殿等の主張を明示すべきであ
る。
貴殿がこの点について明確に返答できずに遁走するのであれば、それは明らかな、
「返答不能で脱会」の条件に適合する。
もう一度言うが、対論の筋目、順序として、貴殿等はまず「帰命」の文義について、
また、学会で用いられてきた「帰命」の文意について明確に返答する責を負ってい
る。

まずそこから詳らかにせよ。
返答できない場合は脱会誓約書を送付し、速やかに脱会の手続きをとりなさい。
その場合は妙相寺に参詣しニセ本尊を納付し所要の手続きを取る事。

次に、貴殿は以前、

「我々は末法で二人目の法華経の行者となった池田先生を師匠として「各々其師範よ
り法水を受けて信心を獲得決定し給ふ」のです。」

と論文で書いていますが、この「末法で二人目の法華経の行者」とはどういう意味
か、明確に回答いただきたい。
当方ではこれは「本仏再誕が池田」と言う意味と捉えますが?
となれば、貴殿等の仏宝は御本仏日蓮大聖人様と、池田と二人いるということになる
が。如何か?
12箇条について云々する前に、順序としてこちらを整理するのが筋ではないか?
それとも論じることが出来ない何か不都合でも御ありなのか?

しかも、まだ僧宝についても全く論じ合っていない。
これも宿題である。

**********************************************************

03.09.12 1:38

▼樋田様 ← S

 予想どおりに、貴殿はただ開き直るばかりで、別しての12箇条に関する対論を逃
げましたか。大変残念ですが、貴殿の能力では当然と言えば当然ということでしょ
う。

 当方としては、貴殿では相伝の内容に関する対論の相手にはなり得ないと判断せざ
るを得ません。相伝について論じる能力も、立場も、おまけに意志さえも無いこと
を、貴殿は今回の回答によって自ら黙認し、証明したのですから。

 当方としては、貴殿が会いたがっている脱落僧M師にお願いして、貴殿の手続の師匠で
あるはずのO住職に直接会っていただき、今回の対論の経緯や内容を説明して、残
念なことに貴殿が対論の責任を回避されたので、別しての12箇条に関して論じるこ
とが可能なおそらく唯一の人物である阿部管長との対論を成立させるように要求する
ことで今後の作業を進めたいと思います。今回の法義論争についても貴殿はO住職
に相談されていたようですので、事前にO住職にこの旨を報告されておいた方が良
いかも知れません。もちろん貴殿に異論は無いですよね?今更貴殿が何を言っても、
愚かな負け犬の遠吠えでしかありませんが。

 また、脱落僧M師が長野を訪問される際には、小生も是非とも同行して、貴殿との再会
を果たし、先日の法義論争において、血脈相伝は全て公開されているという当方の指
摘に対して、一切何の証拠も挙げることが出来ず、反論不可能であったことに関する
貴殿の責任を追求させていただくと共に、脱落僧M師が目撃された阿部管長が懐中に忍ば
せていた「木彫りの釈迦像の化儀」について、その正邪を決したいと思っていますの
で、期待していて下さい。

 出来るだけ早く、日程調整が可能ならば9月中には脱落僧M師と一緒にご訪問したいと
希望していますので、その節は拒まれたりせず、くれぐれもよろしくお願いします。
小生は土日祝日ぐらいしか都合がつきそうにないので、9月、10月で貴殿のご都合
のつきそうな日程を事前に教えて下さい。N氏とのやり取りでは、確か貴殿は、対
論は何時間でも大丈夫、体力・気力の続く限り、決着がつくまでやろう、という勇ま
しいお話だったそうですから、よもや拒むことは無いと信じています。
―――――――――――――――――――――――――――――
「●貴殿は、言を左右にしてその内実たる本体の文を出せずにいる。依って、それは何等”公開”されたことにならず、御法主上人の仰せは正に、そのまま拝信すべきであり、貴殿が12か条の内容全てを明示できない限り、貴殿の主張も、文証も、全て失当である。このように”中学生でも分る道理と理屈”が貴殿には分りますか?まだ分りませんか? 分らなければ何度でもお教えいたしますよ。

▼貴殿が血脈相伝について相談されている相手は、どうやら中学生のお嬢さんのよう
ですね?お嬢さんは優しそうなお顔をされていたので、可哀想なお父さんを見捨てる
ことは無いと思いますが、相伝についての相談をするのであればお嬢さんではダメで
しょう?宗門高僧方は相手をしてくれないのですか?それともお嬢さん以外からは見
捨てられてしまったのでしょうか?
 相伝についての貴殿の知識が中学生並みであることはやむを得ないとしても、せめ
て向学心も中学生並みに高めていただきたかったのですが、貴殿の無道心は老耄の域
に達しておられるようで、ただただ開き直るという着想しかないご様子。まるで相手
にならないレベルなので、残念至極です。
 N氏が指摘していたとおり、貴殿の考える対論とは、レスリングの足蹴りの回数
か何かのようなもので勝敗が決まるようですね。とても真っ当な信仰をされている方
の対応とは思えません。
―――――――――――――――――――――――――――――
「●この「末法で二人目の法華経の行者」とはどういう意味か、明確に回答いただきたい。当方ではこれは「本仏再誕が池田」と言う意味と捉えますが?となれば、貴殿等の仏宝はご本仏日蓮大聖人様と、池田と二人いるということになるが。如何か?」

▼いったい小生がいつ作成した誰に向けたどの文章を挙げて、そのようなことを指摘
されておられるのか、非常に不明朗で不可解な貴殿のご質問ですね。作成時期や説明
相手を明確にしてみてください。それからお答えしましょう。
 ちなみに、かつて小生が一ブロック長兼任の地区幹事兼任の時に、ある地域の男子
部たちのために日顕宗破折の初級編として個人的に作成した資料について、第46回
全国教師講習会で阿部管長が何をトチ狂ったか創価学会資料と称して7時間半の拷問
説法をして反論してくれて、おまけに2冊の講義録にまでしてくれたことがありまし
たが、その資料に基づくというのであれば「愚か者!」と一喝しておきましょう。中
級編にはさらに面白い内容を書いていますよ。
 ところで、もしも貴殿がちゃんと御書を読まれているのであれば、

「終に法華経の広宣流布顕れて天下一同に法華経の行者となる可きなり」
「涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生法華経の行者となるべきを涌出とは云う
なり」

等々と、広宣流布の時には地涌の菩薩が涌出して、全世界のすべての人々が法華経の
行者になる、というのが御本仏の御金言です。法華経の行者とは決して池田名誉会長
に限らず、すべての人々がなるべきものなのですが?したがって、四条金吾も法華経
の行者ですし、日妙聖人もそうなのではなかったですか?貴殿は生涯法華経の行者に
なれないのですか?
 貴殿はおそらく寛尊が天台宗の本覚思想を破折されるために述べられた言葉を切り
文して、間違った思い入れに偏執しておられるようですが、そんなことではとても対
論など烏滸がましいのではありませんか?敢て偏執すること勿れ敢て偏執すること勿
れ、です。
 貴殿にご説明しても、理解しようと言う心さえ無いようですので、求道心をお持ち
の別の方々に詳細をご説明することになるでしょう。

 このような状況で、貴殿が全く誠実な対応をされなかった結果、こちらも貴殿がそ
もそも法義論争を行う能力も、資格も、意志も無かったものと判断せざるを得ませ
ん。このメイルの内容は、O住職にも郵送等の形で送付させていただき、事前に貴
殿とのやり取りの内容をご理解しておいていただこうと考えています。
 また黄倉君とのコンタクトについても、貴殿が妨害していると言うことも明確に
なったようですので、今後はこのことも重要な事実として指摘させていただくことに
なります。かなり重い不作為に該当するのではないでしょうか?
 それでは、貴殿のご都合のつく日程を教えて下さい。再会を楽しみにしています。

 また、貴殿は法義論争の時以来今に至るまで、小生の相伝に関する破折に対して一
言も反論出来ない状態を続けておられる訳ですが、お会いした際には必ず指摘させて
いただきますので、しっかりと研鑚を続けておいてください。この程度の相手だった
とは、完全な期待外れですが、それでも貴殿が犯した仏法上の罪を追求し続けますの
でご了解ください。

―――――――――――――――――――――――――――――

(更にしつこく同一書面を引用しているので省略)

 貴殿は、どこの誰が書いたかも確認できない後加文ばかりを根本とせずに、大聖人
の言葉を根本にしなさい!ということです。そもそも御書根本とは、御書全集を根本
とするということではなく、「大聖人の言葉」を根本とするのだ、ということが現宗
門には理解出来ていないのです。現宗門の習い損ないの方々が血脈について出す文証
は、貴殿が引用した例の「百六箇抄の後加文」と言い、大聖人の経文の外にある後加
文ばかりなのです。百六箇抄などは、写本さえ大石寺に無かったことが研究教学書に
も「写本 保田妙本寺」と明確に示されていますが、他山で書き込まれたもっともら
しい怪しげな言葉を根本にする者は、御書に照らせば間違いなく「天魔、外道」なの
です。
 同じ「本因妙抄」の本文、すなわち「大聖人の相伝」をしっかり読んでみてくださ
い。

「釈の意は口唱首題に造作無し、今日熟脱の本迹二門を迹と為し久遠名字の本門を本
と為す、信心強盛にし唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を
天真独朗の即身成仏と名く」(通解:釈の意味は、題目を唱える実践に形式や作為は
いらないのである。今日熟脱の文上の本迹二門を迹とし、文底の久遠元初名字即の本
門=御本尊を本とするのである。信心強盛にただ余念無く、南無妙法蓮華経と唱えれ
ば、凡身がそのまま仏身となるのである。これを天真独朗の即身成仏と名づける。)

と、代々の法主など一切関係無く、御本尊への余念の無い題目で成仏することが断言
されているのです(御本尊の化儀については、別途貴殿の無知を破折しますので楽し
みに)。途中に誰かが介在しなければ題目を唱えても成仏できない、などという大聖
人の言葉があれば出してみなさい。大御本尊即大聖人様にお会い出来ない信徒への大
聖人のお手紙を紹介して、貴殿の反省を促しましょう。

「御身は佐渡の国におはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等
は穢土に候へども心は霊山に住むべし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」

 貴殿らの全ての悪意の策謀を、御本仏はこの言葉一つで完璧に打ち破っているので
す!
 おまけに法華経勧持品に「遠離塔寺」等の三類の強敵による受難を耐えて妙法を広
める菩薩たちの姿が説かれていますが、経文、御書に示されたとおりの最高の時を我
等学会員は享受しているのです。まるで境涯が違いますね。
 では、次のテーマはまた後日に。

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03.09.13 0:36

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▼樋田様 ← S
貴殿は別しての12箇条についてはご自分では回答出来ないということを、自ら
正直に認めることが出来ず、逆切れして開き直るしか無くなったご様子。宜なるか
な、慧妙あたりの切り文教学に終始し、相伝のことについて学ぶ機会も求道心も無い様は、書き込みの面に滲み出ておられる。」

●貴殿は自らの偏執的なモグラ法門の”研究成果”としてどうしても12箇条の「研
究発表」を認めた貰いたいのですね?ヨシヨシ。
オタク系の小学生が、誰も知らない知識を仕入れて、仲間に勿体ぶって言いふらし、
偉ぶって得意になっている姿とあまり相違ないようですね。
よろしい!
ここまで、偏執が深くては致し方ない。
貴殿の境涯まで降りて破折するのが菩薩界の修行なのだと意を決して、お相手しま
しょうか。

だが、その前に、「帰命」について、当方からの詰問に返答したまえ。
それが、順序と、筋道と、道理、そして礼節と言うものだ。

以下の当方からの問いに的確にお答えいただきたい。

「●法門上に”見解の相違”などが出ること自体が問題です。
それこそ仏法が混乱、惑乱し衰退となる元。
が故に相伝に依らない我意我見を誡めなくてはならない。
誤った見解を持つ者は徹底的にその邪解を破さなくてはならないと考えます。
では、「帰命」から、一つ一つとことんやりましょう。
■帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。
■帰命と申すは天台釈して云はく「命を以て自ら帰す」等云云。命を法華経にまいらせ
て仏にはならせ給ふ。
■帰命に人法之(これ)有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉
るなり。
さて、この御文の如くに、「帰命」とは仏(末法ではご本仏日蓮大聖人様即御戒壇
様)へしか使われない、使うべきでない言葉と思いますが、如何か?」

もし、この返答が出来ない場合は明らかに貴殿の(ついでにN氏も)脱会の条件に
適合する。よって誠意ある返答、もしくは脱会誓約書の送付を求む。印鑑証明も添付
する事。

この答えがあったならば貴殿の「夏休みの研究発表  12箇条についての狡猾 も
とい、考察」にお付き合いしましょう。
今日は、さわりだけ。

では、
貴殿が参考にした文献の原文は、以下で宜しいか?
「本師弁証不精美間加附会益誤後生可悲」(研教六―一九八)
「はい」か、「いいえ」でお答えいただきたい。
どちらのお答えでもいいですよ。どっちにしろ楽しい破折の砲火が待っているだけですから。

尚、以下の文に対する返答は、貴殿の今後の対応如何ですな。
ではよろしく邪智を巡らして見て下さい。
良い週末を。
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03.09.14 21:47

樋田殿 ← S

 

 今さらのように、ただの時間稼ぎとしか考えられない無意味で無内容なお返事をいただきました。
 貴殿から送られてくるメイルの内容の支離滅裂には、今回の公開法論で貴殿らが完敗であった事実が根底にあるようで、何とか嘘をついてでも誤魔化そうという魂胆が現われていて哀れを誘います。しかし所詮は、貴殿は血脈について論じる能力も立場も意思も無い人間でしかなかったことについては未だに全く反証出来ていないので、すでに対論の相手として失格です。お疲れ様でした。今後は、適切な相手との対論に入るので、くれぐれも妨害をしないように忠告しておきます。そして、当初の誓約どおりに、脱講届を提出すること。

 

「●特に、仏宝について、まず「帰命」の文義の解釈から始まったが、貴殿等から依然明確な回答は得られていない。依って、対論の筋目から言って、貴殿等はまずこの「帰命」から明確に回答をすべきである。が故にまずは、今まで貴殿に送付した内容に対し、貴殿等の主張を明示すべきである。貴殿がこの点について明確に返答できずに遁走するのであれば、それは明らかな、「返答不能で脱会」の条件に適合する。

 

▼当日のビデオを目を開けて何度も確認してみることです。終了時点で、対論の結果を確認して、脱講誓約書の決着について打ち合わせしようということを、当方は何度も強く主張していたにも拘らず、貴殿らは目を逸らし、全く無言で、当方が止めるのを無視し、逃げるように帰ってしまったではないですか。
 「待て!」というこちらの制止を強引に振り切ってまで逃げ出さねばならないほど、「返答不能で脱会」という条件を確認されるのを恐れたからこそ、あのようなビデオの記録が残されたのです。この事実には何の言い訳も無用。貴殿の得意なごまかしも一切通用せず。すでに権利を放棄した者が今頃になって何を言っているか。
 そんな貴殿が、今さら「帰命から明確に回答をすべきである」「「返答不能で脱会」の条件に適合する」ですと?抱腹絶倒、笑止千万、片腹痛いとは、まさにこのことです。返答不能だと主張したいのであれば、なぜモノも言わずに逃げ帰ったのかな?そのあたりの正確な根拠については、今度貴殿のお宅を訪問した際に詳しく問い詰めてあげましょう。

 

 貴殿の負け犬の遠吠えなどを相手しているほどこちらは暇ではありません。今回も貴殿はスケジュールについて全く返事をして来なかったので、貴殿が仲介の責務から逃げたものと見なします。近日中に脱落僧M師か小生か誰かから直接O住職にご連絡が行きますので、今回の対論の詳細の経緯を伝えておいてください。
 すでに貴殿は今回の法義論争での役割は終わりました。結果的には、役立たずの烙印を押された格好です。無様ですがそれも仕方が無いことでしょう。今頃になって、なお相伝に関する確認の質問をして来ているような状況なのですから。
 あまりのお粗末なレベルが、また記録として残りましたね。対論を逃走した人間が、今さら「帰命」云云とは!まさに「奇妙な男」ですね。貴殿のようなただの小競り合いしか出来ないような人物では、血脈相伝について論じることなど絶対に不可能だと断言しておきます。

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「●御法主上人の仰せは正に、そのまま拝信すべきであり、貴殿が12か条の内容全てを明示できない限り、貴殿の主張も、文証も、全て失当である。」

 

 貴殿からのこの主張に至っては、まさに失笑を禁じえません。要するに、ニセ坊主に向かっては伏せ拝して、「ウソでも信じます、おすがりいたします」と土下座して這いつくばりながら、ニセ坊主のウソを正そうとする人間に対しては、ふんぞり返って「ニセ坊主だという証拠を<100%全部>を示せていないからニセじゃないよ〜」と泣き付いている貴殿を彷彿させるのです。貴殿は完全にカルトの狂信者です。末法下種の僧宝でしかないただのニセ法主を、無条件に「拝信」したために、三宝を破壊していることに気がつくのはいつのことやら?
 ニセである証拠が「100%全部」示さなければ、ニセであるという証明は出来ない、などという論理的な必然性はありません。これよりも容易なのが、「未だ公開されざる別しての12箇条の法門がある」というウソを暴くことです。すでに小生が提示した資料だけで十分に「未だ公開されざる別しての12箇条」という主張はウソだ、と言うことが正常な思考能力を持った方々には理解出来ますが、貴殿らに示した以外にも、未だ公開していない数々の証拠があるのですから。
 どうすれば別しての12箇条に関して全てが明確になるかと言えば、別しての12箇条を持っていると主張する阿部管長と、それはすでに公開されている内容であると主張する小生たちとを対面させて確認すれば即座に事実確認が出来ること。今さら貴殿が関与する話ではなくなったのです。
 貴殿とこのような非生産的なやり取りを続けても、全く時間の無駄であり意味が無いので、貴殿を置き去りにしない程度に次に進みましょう。

 

 当方としては、O住職と直接会って、今回の対論の経緯や内容を説明して、貴殿が対論の責任を回避したので、別しての12箇条に関して論じることが可能な唯一の人物であるはずの阿部管長との対論を成立させるように要求することとします。今回の法義論争にはO住職の家族も参加されていたようですし、貴殿は事前に住職にも相談されていたようですので、当然内容は正しく伝わっていることでしょう。すでに負け犬となった貴殿に異論などあり得ませんね。

 

 また、繰返し確認しておきますが、脱落僧M師が長野を訪問される際には、小生も同行し、貴殿との再会を果たし、先日の法義論争において、血脈相伝は全て公開されているという当方の指摘に対して、一切何の証拠も挙げることが出来ず、反論不可能であったことに関する貴殿の責任を追求させていただくと共に、脱落僧M師が目撃された阿部管長が懐中に忍ばせていた「木彫りの釈迦像の化儀」について、その正邪を決したいと思っていますので、期待していて下さい。

 

 出来るだけ早く、日程調整が可能ならば9月中にも脱落僧M師と一緒にご訪問したいと計画しています。事前に調整しようと思って貴殿にスケジュールを確認しようとしたにも拘らず、またも貴殿は無視して逃げたので、脱落僧M師と調整がつき次第直接ご訪問します。くれぐれも、その節は拒まれたりせぬように。貴殿は、対論は何時間でも大丈夫、体力・気力の続く限り、決着がつくまでやろう、という勇ましい方だそうですから、どんな状況であっても絶対に拒むことは無いと信じています。
 では、再会の日を楽しみに。

 

 ところで、別しての12箇条が公開されているという指摘をする際に種々の資料を紹介しましたが、貴殿からは何度も無意味なメイルが来るので、相伝について何も学んでいない貴殿はもう敗北を認めるしかないな、と思っていたら、あの対論が終わって2週間も経っているのに、今頃になって、以下のような基本的な質問をして寄越すとは!

 

「●貴殿が参考にした文献の原文は、以下で宜しいか?「本師弁証不精美間加附会益誤後生可悲」(研教六―一九八)「はい」か、「いいえ」でお答えいただきたい。」

 

 完全に終わりましたね!こんな初歩的な情報について、今頃になってまだ確認したがっているようでは、この後に出てくる別しての12箇条関連の情報を見たら、貴殿はまたタコツボに逃げ込むことになるでしょう。無様で惨めな男だ!
 察するところ、貴殿はただの操り人形でしかなく、後ろで勉強不足のハゲ共がアタフタと貴殿を窓口にして質問させている状況が浮き彫りになりました。勉強不足のハゲ共は、小生が示した資料さえも十分に知らないのです。出家していったい何十年経っているのか?小生などは在家の仕事で多忙な中で、片手間に研鑚していると言うのに。おまけに貴殿を窓口にしておけば、ネット対論で負けても貴殿に責任を擦り付ければ済むし、勝てば貴殿はヤクザのようなハゲ共を後ろ盾にしてカッコをつけていられるし、悪の共生関係、世間の言葉で言えば「同じ穴の狢」でしかないのです。
 しかし、残念ながらすでに宗門のハゲ共は、一地区幹事でしかない小生との文書対論で無残に負けてしまい、今も小生の追求から逃げ続けているのです。その程度の宗門のレベルだったから、700年かけても一閻浮提広布など夢のまた夢だったのです。そのハゲ共に伝えなさい、速やかに以下の(続けて送付する第二弾、第三弾の)破折文書に対する回答を送付しておいで、と。
 以上、貴殿の使命は全て終了いたしました。ご苦労様!

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03.09.14 21:50

▼樋田殿 ← S

 

 先日の対論の時に、黄倉君がPCでいろいろバックのハゲ共からご指示を仰ぐはずだったのに、ベ共不足だったせいか全く機能しなかったようなので、その失敗の反省をしていただく意味も込めて、この文書を彼らに転送してあげてください。よろしく。

 

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大石寺教学部の度重なる欺瞞を暴く


一、はじめに
 大石寺第十七代貫主日精が、宗開両祖の教義に違背した造仏読誦論者であったことは周知の事実であった。戒壇の大御本尊を奉持し、宗祖の教義を正しく伝える唯一の正系教団を標榜する大石寺にとって、邪義謗法の法主を出したことは、由々しき出来事ではあったが、後年、日寛上人の出現によってその弊害は払拭され、法滅の悲惨は免れた。 そのため、この問題は、一方で令法久住・広宣流布を第一義と捉える善意によって、又一方では、自らの権威の失墜を恐れる保身によって、その後は殊更に取り沙汰されることは控えられては来たのであるが、近年、創価学会の出現に呼応して御書を編纂され、真実の宗史を明らかにすることこそ令法久住の基と判断された碩学日亨上人は、富士宗学要集等に率直にこれらを書き残され、さらに後学の者が過つことなきを期されて、頭注、註釈等の詳しきを以て指針に供されたのである。
 ところが、法滅の妖怪貫主阿部日顕は、広布実現の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会の破壊を謀り、その挙げ句、信・行・学のいずれにおいても敵わぬと見るや、遂に「法主本仏論」の邪義を唱え、殊更に代々相承の絶対性を誇示することで、信徒を隷属させ、教団の私物化を画策したのである。しかし、代々の相承が正義の絶対的根拠にならないことは、興師の御遺誡に既に明らかであり、殊に、日精に代表される謗法法主の出現という歴史的事実によって、異論の余地は全くないのである。
 悪知恵を絞った宗門中枢は、今回の問題勃発と同時に、彼等にとって唯一の命綱となった相承絶対論を弁護するために、詭弁を弄して日精擁護の虚構を捏造し、こともあろうに堀上人の記述まで否定して、宗史改竄の暴挙に出たのである。
 こうした宗門中枢の悪あがきによって、日精問題は期せずして法義上における正邪決着の争点となったのであるが、彼等が学会攻撃の材料とする御本尊問題や、僧俗問題、また広布推進における化儀等の諸問題も、詮ずるところは法主絶対論を依拠として発せられているところを鑑みれば、謗法の法主の存在の有無は、正邪の判断のための決定的な尺度であり、法主日精の謗法が証明されれば、自ずから日顕及び宗門中枢の主張が己義であったことが証明されるのである。

 

二、法義論争の経過
 さて、以上のような日精問題の本質を捉えた上で、これまでの日精の謗法に関する対論の経過を整理してみよう。
 宗門中枢が日精を庇う為に立てた当初の主張は、
「日精上人は登座以前は確かに造仏読誦の邪義を持っていたが、相承を受けると同時に 当宗の正義に目覚め、それ以降は一切造読思想を捨てている。これこそ当家の血脈相 承の威力であって、常人には思慮の及ばぬところである。また、「随宜論」は、登座 以前の自身の思想を、登座後に清書したものであった」
などという珍説であった。
 これに対して当方は、日精登座後の著である「家中抄」や「日蓮聖人年譜」等の、造読に関する記述及びそれに対する堀上人の批評、頭注を以て、日精の造読義が登座後にまで及んでいたことを論証し、「大白法」に掲載された第一回時局協議会文書の一切の主張が虚偽であることを証明し、破折した。
 呆れたことに、逃げ道の無くなった宗門中枢は、またしても時局協議会の名を使って、こともあろうに今は亡き堀上人に冤罪をなすり付けて、堀上人が日精に関する史実の検証を誤ったと主張し、堀上人の頭注は誤解であると決め付けた。そして、「聖人年譜」における造読義は、実は要法寺日辰の「三大秘法の記」を写したに過ぎないなどと、現存が確認されていない書まで持ち出して更なる虚構をデッチ上げた。しかし、堀上人を愚弄していることと言い、まるで素人の如き教義解釈と言い、とても宗門の公式見解とも思えない代物故、しばらく捨て置いたのである。
 ところがいったい何を考えたのか、去る平成九年八月二八日の全国教師講習会において、日顕自らこの愚論を支持する発言を行い、その上平成九年十一月号の「大日蓮」誌上に、再びこの作文(以下「時局文書」と呼ぶ)が掲載されるに及んで、これが法主の允可を得た、宗門の公式見解であることが明確となった。そこで、当方から時局協議会及び主な宗門末寺あてに、時局の駄文を破折した文書「時局文書の虚偽を暴く」(以下「破折文書」と呼ぶ)を送付したのである。
 その内容は、当然の事ながら、堀上人に誤りも誤解も無かった事を客観的資料をもとに論証し、さらに「聖人年譜」の記述が間違いなく日精自身の論であり、日辰の写しなどではないことを証明して、完膚無きまでに宗門中枢の虚偽を暴いてたのである。その上で、併せて「破折文書」に対する回答を要求したのであるが、その後3ケ月近く何の応答も無かったことから、二度の督促状を送付した結果、ようやく日蓮正宗宗務院の封筒に入った「法義研鑽委員会」からの文書が送付されてきた。
 しかし、この「法義研鑽委員会」からの回答(以下「回答文書」と呼ぶ)は、例によって不誠実極まりない、誤魔化しとスリ替えだらけの内容であった。当方の「破折文書」の本論には一切触れず、傍証として使用した「北山文書」に唯一の逃げ道を見付けたかのようにしがみついた上、これがあたかも当方の論の「決め手」であるかの如く装って、いかにも反論したかのように取り繕い、挙げ句の果てには、わずか数ヶ月前に公式に発表した「時局文書」において自ら断言した内容を全く否定し、恥も外聞もなく前言を撤回して遁走を謀ったのである。
 こうして在家によって宗門教学部の代表が文書対論によって完膚無きまでに敗北するという、日蓮正宗の七百有余年の歴史においても類い希な悲惨な事態に立ち至った訳であるが、既に七百年間で初めての法主の狂乱による広宣流布の切り捨てと先師日達上人の全ての御遺績の破壊が進められている現状を考えれば、現管長はやはり相承を正しく受けてはおらず、不二の尊体とか言う宗門中枢の主張が既に虚構となっていることの証明の一つのようなものであろう。
 当方の「破折文書」の主張は、前後の挨拶を除いて大きく七章に分かれていたが、「回答文書」では残念ながらそのうちの第七章についてしか回答していない(真っ向から反論できなかったためか、わずかに触れただけで誤魔化している箇所もある)ため、正味の六章の部分については既に反論不能であったと理解する。
 したがって、まず最初に「時局文書」を破折した当方の主張を再度確認して、法義研鑽委員会の「回答文書」がいかに欺瞞に満ちた姑息な迷走文書であるかを明らかにし、その上で、その迷走文書の論そのものに対しても逐一ご回答して、文書対論ではこのように誠実に対応し、回答するべきであるという範を示すこととする。

 

三、宗門が返答を逃げた「時局文書の虚偽を 暴く」の概要
  当方の「破折文書」においては、数々の資料を引用しながら、「時局文書」の邪義を暴いたが、これに対して法義研鑽委員会は、ほとんど返答不能の状態に陥っている。
 当方の反駁に勝ち目がないことを知った彼等は、論点をスリ替えることで何とか体裁を整えようと、当方が傍証資料として出したものの一つである「北山文書」に取り付いて、
「彼等が重視する北山文書は」
「この資料を決め手として日精上人を難じている」などと、当方の文書の内容を知らない法華講員の目を欺くことだけを目的とした、姑息極まりない手口で文書を作りあげている。
 そこで先ず、「破折文書」において当方が何をどう破折したか、その内容を再度掲げて、宗門中枢が既に敗北していることを知らしめておく。

 

(一)日精の造仏読誦について堀上人は正確に把握されていた
 「時局文書」では、日精の造仏を誤魔化すために堀上人に罪を被せ、勝手な日精正当論をでっち上げた。即ち「時局文書」は、堀上人の「家中抄」の頭注について、
┌─────────────────────────────────────┐
│ さて、結論を先に言おう。日亨上人には大変恐れ多いが、喜ぶべきことに、これは│
│日亨上人の誤解である。それを立証するに当たり、先に「家中抄」の日亨上人の頭注│
│について、拝考しておきたい。この内、「家中抄」下巻の頭注には、             │
│「本師造仏ノ底意ヲ顕ス」                                                   │
│とある。これは「日印伝」の、                                               │
│「日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故に故記録に背かざるなり」               │
│との記述についての頭注である。                                             │
│ しかし、これは日精上人が、「家中抄」下巻の傍線部に(日大伝の文末のこと)  │
│「日尊日印日大の三師の伝は全く日辰の祖師伝を書写する者なり」               │
│と、記されているように、「家中抄」の「日尊」「日印」「日大」の三師の伝は、日精││上人の述作された文章ではなく、要法寺の広蔵院日辰の「祖師伝」をそのまま写した││ものであって、日辰の文章なのである。                                        │
│ 日亨上人は、この部分が日辰の文章であることをつい失念されたために、批判の頭││注を加えてしまわれたのである。                                              │
└──────────────────────────────────────┘
などと、十分な考証もせずに一方的に断定し、主張していた。しかし、希代の碩学と言われた堀上人が、斯様な素人の如き間違いをするはずはなく、当方は堀上人が当然失念などされていなかったことを論証した。即ち、この三師の伝が、「祖師伝」の引用であることを承知されていた根拠として、同じ日亨上人御述作の「日興上人詳伝」に、家中抄のこの三師の伝について、

 

「家中抄の此下の記事の長句全く祖師伝の直写なれば、爰に重複を避けて贅記せず」(詳伝・五○七)
「長文は殆ど祖師伝の引文なれども多少の補修がある分だけを記しておく」
(同五一一)                                                          
「前後の文は全く祖師伝を引けども重複を恐れて省く」(同五一四)
「此等は文長けれども貴重の文献為れば掲げたが、祖師伝の文とは多少の相違がある」(同五一六)
「家中抄には日印を二カ所に「宰相阿」としてあるは誤りであろう。祖師伝の「三浦  阿」は俗姓を取ったようである」(同六四二)

 

等と、明らかに祖師伝の引用であることを承知されていた記述があり、失念どころか、両文に多少の相違があることまで熟知されていたことを明らかにした。だいたい臨写した本人がその文章内に、それも数枚も隔てぬ箇所にある記述を失念するはずは無いのである。
 そして、堀上人が何故引用文に頭注を加えられたかについては、造像家日精が、祖師伝のこの記述を正義正論(日精同意の文)として家中抄に引いている為であるとし、その証拠に家中抄日興伝の末文の、

 

「日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり、(中略)其の後御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相亦幾許ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」

 

との文を引いて、すでに日精は家中抄上述作にあたって、諸伝の善悪を選び、是とするもののみを取って記述していることを明示した。これは家中抄述作における日精の基本姿勢であり、この三師の伝の引用も当然日精自身が善説と判断したものであって、ただ漫然と写したというが如きものではないのである。祖師伝とは表現に多少の違いがあることからもそれを読みとることが出来る。堀上人は、これらのことを全て理解されていたからこそ、引用文であっても頭注を加えられて、日精の誤りを正されたのである。さらに、堀上人が頭注を打たれたもう一つの大きな理由として、

 

「日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故に故記録に背かざるなり」

 

との考え方が、日精自身に元々あったことを知っておられたからだとし、随宜論の、「随身仏も一体仏の故に小権迹本の不同明らめ難し、若し帰敬致さんと欲せば四菩薩を加えて久遠実成の自受用報身如来と成し奉って帰敬すべし、(中略)是即還って久遠の釈迦造立の明文にして敢えて不造の証文には非らざるなり。」(随宜論)
との文を示し、これによって、まさしく日尊の久成釈尊造立が日精の意に叶うところであったことを論証した。こうして見れば、家中抄の日印伝は祖師伝の写しとは言え、単なる転写ではなく、「諸伝の善説には之に順し」との考えのもとに、日精が自身の意に合する論として焼き直していることは明らかで、よって宗門の言う、
「家中抄も史伝書なるが故に、ご自分で創作するよりも先人の文を採用する方が穏当であろうと判断されたまでのことである」(時局文書)
などと言うのは浅知恵者のタチの悪い詭弁であって、堀上人は、日精がこの文を採用する底意を読み取っていたからこそ、かかる頭注を加えたというのが真実である、と結論したのである。しかし、この論駁に対して法義研鑽委員会は一切返答せず、堀上人を愚弄したまま頬被りを決め込んでいるのである。
 あくまで日精を庇おうと言うのであれば、先ず堀上人の見解を否定できる明確な論拠を示すべきであろう。それが出来なければ、即刻前言を撤回し、公式に誤りを認めた上で、堀上人の墓前に頭を垂れるべきである。参考までに、堀上人の日精に関する見解を列記しておく。

 

「本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ惑フナカレ」(富要五・一七六)
「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」(富要五・二一三)
「本師の正助の対判稍濫ルガ如シ注意スベシ」(富要五・一二九)
「此下助行又大ニ濫ル用ユベカラズ」(富要五・一三○)
「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」
(富要五・一三一)
「本師読誦ノ例トシテ故ニ之ヲ引クカ」(富要五・二一四)
「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊 せるが」(富要九・五九)
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読 誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(富要九・六九)
「猶精師の造仏は他寺にも及びし事次の日仁記の如し」(富要九・六九)
「随宜論 本文は造仏読誦の文証議論なり、猶此等の説は同師の大聖人年譜にも出づ」 (富要九・六九)
「十八世精師の伽藍復興に生気を盛ならしめたるも、反面化儀化法の一班を攪乱せられ、二十二世俊師に至りて此等の革正は著々と企てられ」(富要八・二五六)
「精師は造仏家の要山日辰の門より出でて、余仏不造の富士に慊焉であったから」(詳伝・四七○)
「精師の家中抄は、さらにこれに加上して、少しも当時の実情を顧みぬ形を呈しておるよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる」(詳伝・二一一)
「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入してお るより生じた誤謬である」
「また、同師の目師伝の下には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としてある。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云々の文が利用したさからである。」(詳伝・四五○)

 

 これらの決定的な記述には一切無視を決め込み、先の「日印伝」の如き屁理屈を付けられそうなごく一部分を取り上げては、都合のいい結論へ導く、その同じやり方で、同じ魂胆で、今回は「北山文書」に噛みついたに過ぎないのである。

 

(二)「日蓮聖人年譜」の示す事実に反論出来ない宗門教学部
 次に「時局文書」は、日蓮聖人年譜(以下「年譜」と呼ぶ)の中に述べられた日精の造仏の邪義に関する記述を意図的に読み違えて、これまた日辰の説の引用に過ぎないなどと虚偽を構えた。よって当方は、「破折文書」において論理的にそれが誤りであることを示し、さらに時局の論の矛盾点を指摘した上で、「年譜」の記述が間違いなく日精自身の説であることを論証した。
 つまり、時局は「年譜」の
「此の文(報恩抄)に本門の教主釈尊を本尊とすべし等と云へり常途の本尊に違せり、其ノ上或抄に本尊問答抄を引き法華経を以て本尊と為す可しと此ノ相違はいかんが心得可きや答て云く此ノ或抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其ノ上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり今便に因みて略して之を出さん」
との文について、「或抄」とは日辰の著書であるなどと主張し、故に「一偏にかける故に諸御書一貫せず・・」等の「或抄」への批判を日辰への批判であるとした。
 よって当方は先ず、日精が報恩抄の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」との文を造仏の依文としていたことを、他の日精の記述より論証し、「常途の本尊(曼陀羅本尊)に違せり」との解釈が既に謬義であり、続く「或抄」の引く本尊問答抄の「法華経を以て本尊と為す可し」が報恩抄の文と相違しているとするところに、日精の造仏思想が露呈していることを詳述した。これまさに、両文が共に人法一体の曼陀羅本尊を示していることを知らぬ為の邪義である。よって又、日精が造像の依文として掲げた報恩抄の文に相違しているとして引いている「或抄」が造像家の日辰の論であろう筈がなく、この時点で時局の説は論理破綻していることを明示したのである。したがって、「一偏にかける故に諸御書一貫せず」や、「三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」なども、日辰に対する批判ではなく、曼陀羅正意論に対する日精の批判なのであって、次下に述べられた長文の邪義はその解説なのであることを明らかにした。故に堀上人の、

 

「本師未ダ富士ノ正義ニ達セザルナリ本師ノ所論間々此底ノ故山ノ習情隠顕ス注意スベ シ」(富要五・一一八)
「此ノ下本師ノ取リ方誤レリ」(同右)
「此ノ下辰師の造釈迦仏ノ悪義露顕セリ迷フベカラズ」(同右)
「本師又謬義ヲ露ハス惑フベカラズ」(同・一一九)
「元初ト本果トヲ混合スル是本師ノ錯誤ナリ」(同・一二○)

 

等々の懇切な頭注は、間違いでも誤解でもなく、真に適切なる末学への指南であることを論じておいた。しかし、これにも法義研鑽委員会は返答を逃げ、触れることさえ恐れるかの如くである。
 また、「或る抄」が日精自身の主張であることを、一層簡単に理解出来るように図示すれば、左記のとおりである。即ち、「或る抄」の引用である筈の文中に、日精自らが本文で書いた報恩抄を指示した「右の報恩抄の文是なり」という言葉が含まれているのである。「或る抄」が日辰の著書であれば、このようなことは起こる筈がないのである。
┌─────────────────────────────────────┐
│(年譜の本文) ┌──────────────────┐                   │
│ 報恩抄に云く │本門の教主釈尊を本尊とすべし云云 文│ 此の文に本門の教主│
│               └──────────────────┘                   │
│釈尊を本尊とすべし等と云へり常途の本尊に違せり、其の上或抄に本尊問答抄を引│
│き法華経を以て本尊とす可しと此の相違はいかんが心得可きや、答へて云く此の或│
│る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇と│
│なるの失あり今便に因みて略して之を出さん、其の中に                        │
│─────────────────────────────────────┤
│(或る抄の引用???)                  ┌──────────┐          │
│初には本尊に二あり・・・初に人の本尊とは│右の報恩抄の文是なり│ 類文あり。│
│                                        └──────────┘          │
│観心本尊抄に云く、・・・。                                                 │
│本尊問答抄に云く問ふ末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定む可きや答へて云く法│
│華経の題目を以て本尊とすべき也文。                                        │
│ 但し三大秘法の時は久成の釈尊を以て本尊とするなり・・・                  │
└─────────────────────────────────────┘
 なお、「二箇となるの失あり」については、理解しにくい方もあると思われるので、今回の補足として、享保年中に当時要山末であった仙台仏眼寺の住職「日玄」の著した「得意之記」の一文を紹介しておく。内容が、日精の「年譜」の要約の如くで興味深い。「但し三大秘法の時は久遠の釈迦を以て本尊とするなり、法の本尊を以て事行の南無妙 法蓮華経と名るが故なり云々。報恩抄之を思へ、一向に法の本尊と計り屈する、則れ ば三大秘法の時は二箇に一箇を失するなり」
 「一向に法の本尊と計り屈する」とは「一偏にかける故に諸御書一貫せず」の同義語であり、「三大秘法の時は二箇に一箇を失するなり」は「三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」そのままである。易訳すれば、
「三大秘法建立の時は、久成釈尊の仏像を立てて本尊とするのである。南無妙法蓮華経は法の本尊であるが故である。報恩抄に「本門の教主釈尊」とあるのを考えなさい。それを一向に法の本尊ばかりに執してしまえば、本尊と題目とは別ではなく一箇となってしまうから二箇に一箇を失って、三大秘法の時には唯二箇となるのである」
 これこそが要山流造像論なのである。

 

 続いて「時局文書」は、虚言の筆をさらに滑らせて、後段の「或る抄」までも日辰の「三大秘法の記」であるなどと戯言を述べている。「或る抄」の云う「本門の題目とあるを見て寿量品に限ると思はば誤りの甚だしきなるべし」との説が日辰にあったかどうか調べておくようにと、前回宿題を出しておいたが、これも一切返答不能のようである。
 次の文を穴の開くほど読むがいい。
「正業必ず寿量品の名字証得の南無妙法蓮華経なり、然を或は本迹一念経と云い、或は八品所顕の妙法と云う、皆誤りなり」
「問う、本門十四品の中に何れの品に於いて常住の身土を説く乎、答う、寿量品の一品に之を説く也」
「問う、初めには本門の肝心と云い、終には八品付属也と云う。何ぞ寿量の妙経と云う乎。答う、若し上行付属の妙経に約する時は寿量の妙法也。余品の妙経を以て上行に付属すとは云う可からざる也」
「問う、寿量品に本有の三因を明かさざる乎。答う、然也」
「一義には内証の寿量品とは寿量品の妙経也。一義には涌出品の時、仏未だ寿量の妙経を説かず、但仏意内証に有るが故に内証の寿量品と云う也。両義異なれども寿量品を指すは決定也」
 これらは皆、紛れもない日辰の記述である。故に「或る抄」が日辰の論である筈が無いのだ。それを日辰の「三大秘法の記」だなどと現存しない文書を引っ張り出して惚けていたが、「三大秘法の記」は見つかったのであろうか。時局の論は最初から最後までこの調子で、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の作り話でしかないと厳しく指摘しておいたが、それに対する回答はどうしたのか。
 こうした前回の追求に対して、一切責任ある回答もせぬまま次へ進もうなどとは虫がよすぎるというものだ。堀上人まで愚弄しておいて、今更「北山文書」がどうのこうの言う問題ではないのである。
 「家中抄」や「日蓮聖人年譜」について反論が出来ない以上、本対論の決着は既に着いたと言うべきであろう。

 

四、法義研鑽委員会の「回答文書」を破す

 

(一)「北山文書」に関する的外れな疑難を嗤う
 法義研鑽委員会諸氏は、当方が「破折文書」において、日精の造仏読誦を論証するにあたって示した幾多の根拠のうち、傍証の一つとして「北山文書」たった一つ、わずか五行を取り上げて、当方の主張が全てこれに基づいているかの如くスリ替えた上、長々と意味不明な反論を試みている。
 しかもその内容たるや、大石寺に対して悪意を抱いている「北山」の言い分は信用できない、同じく「寿円日仁」の記述は信用できない、という希望的推測の域を出ない、何とも情けない多言にして空疎な代物であった。
 その上、何を考えたのか長々と訴状を史料として掲載したにも拘わらず、その内容に関しては何の論証もしていない。大石寺の恥にこそなれ、何の得も益もない文書であることから無理もないが、どうせ引用するなら古文の読解力に極めて乏しい坊主や信者たちのために現代語訳も付けておくのが親切と言うものである。そうすれば、日精が造仏読誦を始めとする数々の謗法を犯したことも、日俊上人が御公儀の御威光を恐れ憚るあまり、せっかく始めた「日精の邪義に対する破折」を投げ捨てて、「日精流の謗法路線」の容認に転じたことも、また端無くも法義研鑽委員会が認めたように「寿円日仁の記述と北山文書の記述が当時の状況を述べて一致する」理由も容易に理解できよう。
 穿って考えれば、彼等は北山文書の全文を紹介することで、日俊上人等をも誹謗する意図があると推測される。謗法法主日精を庇うためにいったい何人の御歴代を貶めるつもりなのであろうか。当方としては日精の謗法を明らかにすることを目的としているので、あえてそれ以外の法主の過ちを指摘することは考えていなかったが、どうやら彼等は御歴代の過悪を次々に露わにしたいようなので、念のために釘を刺しておく。
 当方は、法義研鑽委員会諸氏が「非公式」であることを根拠として無視したがっている一部北山文書が有ろうが無かろうが、日精の造読の邪義の証明は可能であるので、読者諸氏の理解の便宜のために、まず「回答文書」がどのような主張をしたかを整理しておく。

 

        富士宗学要集                  │          本宗史考                  
@元禄二年十一月十六日 北山本門寺    │                                    
    三月六日〜八日の経緯の箇条書き    │                                    
A元禄二年七月五日 本門寺判、日要判  │E元禄二年七月五日 本門寺判、日要判
  大石寺の件の訴訟の文              │    大石寺の件の訴訟の文            
                                      │F元禄二年十一月十六日 北山本門寺  
                                      │    寺社奉行にあてた北山の教義の主張
B元禄三年二月十八日 大石寺印、日俊印│G元禄三年二月十八日 大石寺印、日俊印
  寺社奉行あて返答書                │  寺社奉行あて返答書              
C元禄三年三月二十七日  本門寺、日要判│H元禄三年三月二十七日  本門寺、日要判
  寺社奉行あての和解文              │  寺社奉行あての和解文            
D元禄三年三月二十七日 大石寺印、    │I元禄三年三月二十七日 大石寺印、  
 日啓判、日俊判                      │ 日啓判、日俊判                    
  寺社奉行あての和解文              │  寺社奉行あての和解文            
                                      │                                    
 こうした比較を行った末に、法義研鑽委員会の「回答文書」では、当方が引用したFの訴状が、正式には奉行所に提出されなかった非公式書類であるから、内容は信用できないとしてFを棄却し、@も正式な訴状ではないとして、「日亨上人のこの事件に対する御見解は、富谷日震や創価学会とは違うのである」と、具体的な内容をいっさい論ずることなく不可解な結論を導いた。
 そもそも堀上人が富士宗学要集において繰り返して断言されていることを、耳を塞ぎ、目を閉じて、頭から「堀上人の誤解である」と主張する輩が、根拠も何も示さずに、突然殊勝なことに、堀上人が後注で

 

「七月五日は「六月」とも「十一月」とも在る本あり、但し十一月なるべきか」

 

と、推量の「か」の文字を使って示されたのを取り上げて、この言葉が絶対に正しいと主張するのだから、やはり堀上人は宗門中枢の悩乱を霊山で苦笑いをされて見ておられることは間違いない。
 しかも、Fを棄却した理由が、「奉行所の目安糺の際に、内容の吟味を受けて、不適当とされ、書き直して最終的に訴状として落ち着いたのがAEの文書である」として、Fが正式でないことを否定の根拠としているのだが、宗門教学部諸氏はエイズ問題での厚生省の内部資料が非公式だからと言って、事実ではなく、証拠にもならなかったと思っているのであろうか。逆に、非公式資料の中にこそ、双方の本音が露わになるのではないか。
 また、法義研鑽委員会諸氏もご承知のとおり、当時の幕府の基本方針は、和談を奨励しており、それを慮った係の役人が、煩雑な検証を必要とする具体的な法義や、過去の事実の論証を嫌ったための決着なのである
 問題の北山の訴状には、「大石寺の自讃毀他」を訴えるに止まらず、訴えに乗じての新たな「北山の自讃毀他」を含む内容があったことが、取り下げられた理由であろう。つまり、日精の仏像造立及び日俊の仏像撤廃の事実を以て大石寺を責めることは、かえって不造不読批判即ち自讃毀他になってしまう虞れがあったのである。大石寺の返答書にしても、日俊上人が「辨破日要義」(歴全三・二三九)等で述べた造読批判等の「四箇条」の教義的正当性を主張すれば、それがまた自讃毀他となってしまい、到底北山側は納得しない。もしも和談が成立せず、寺社奉行所の手を再三煩わせて双方が何らかの罪状に問われることは、北山本門寺・大石寺にとって不利益であるのみならず、触頭の丸山本妙寺の落ち度ともなり、寺社奉行所にとっても不本意なことである。したがって、大石寺・北山本門寺がそれぞれ事を荒立てずに自山に有利な方向に進めたいという思惑と打算を盛り込んだ結果が、AEの北山の訴状と、BGの大石寺の返答書、そしてCH及びDIの両山の和解文書なのである。

 

 妥協の産物である公式文書よりも、非公式の私文書的なものの中にこそ、歴史の真実を垣間見ることが出来るということは、歴史を学ぶ者にとっては説明も不要の常識である。非公式文書であるからその内容が虚偽であると決め付ける法義研鑽委員会の主張には、それ以外に全く言い訳が思い付かなかった内心の苦衷が偲ばれるではないか。
 そもそも日精自身が堂々と胸を張って御公儀に対して造仏読誦を主張しているにも拘わらず、末代の法義研鑽委員会ごときがそれを否定しようとすること自体に無理があるのだ。日精が造仏読誦の邪義を捨てることが無かったという事実を否定したいのならば、当方が「破折文書」で論証した家中抄・聖人年譜の日精自身の記述について、ちゃんとまともな反論をしてからにしなさい。
 当方としては、法義研鑽委員会の「回答文書」が懸命に否定した非公式資料を一切使用せずとも、完璧に日精の造読の事実を証明して見せよう。こんなことは、少し北山文書の本文を読めばすぐにでも理解できることである。
 それにしても、「現行の『富士年表』は訂正すべきである」等と、法義研鑽委員会の基礎学力の無い者達が、たいした分析もせずに勝手に歴史を改竄しようとしているが、富士年表は日顕の肝入りで長期間をかけて作成したはずである。驕慢謗法もいいところだが、法主の允可はちゃんと得られているのであろうか。

 

 さて、それでは法義研鑽委員会が正式な訴訟文書と認めた元禄二年七月五日付けの北山本門寺の訴状AE、元禄三年二月十八日付けの大石寺の返答書BG、並びに元禄三年三月二十七日付けの双方の和解文書CH及びDIに基づいて元禄出入を検証してみよう。

 

 大石寺同様に、北山本門寺も寺運衰退の危機打開のために、京都で羽振りの良かった要法寺との通用を図った。その結果、要法寺流の造仏読誦の邪義に堕していったのも、日精存命中の大石寺と同様であった。
 天和三年、ようやく日精の死を待って、二十二世日俊上人(当時は隠居)と二十三世日啓上人は、大石寺門流から日精の邪義を払拭するため、不造不読の主張を始める。この主張が北山本門寺信徒の耳に入り、怒った北山日要は大石寺に対論を迫るが、この時は小泉久遠寺の調停により騒動は避けられた。
 しかし、その後も両者は互いに批判を繰り返し、元禄二年三月六日に日俊上人が客殿において北山批判と取れる説法を行ったことにより、ついに北山は大石寺を寺社奉行に訴える挙に出たのである。
 北山日要により悪口・自讃毀他であると訴えられた日俊上人の主張は、元禄二年の客殿に於ける談義「辨破日要義」(歴全三・二三九)からも伺えるが、主に下記の四項目である。
 一、法華経一部読誦は謗法堕獄
 二、鬼子母神、仏像造立安置は謗法堕獄
 三、本尊書写は、題目の下に筆者の名判を書き日蓮と天台伝教を並べて書くは師敵対
 四、素絹五条薄墨色以外の袈裟衣は謗法の所作
 これらは日興門流としては至極当然の内容である。しかし、悪口そのものが罪に問われる当時の法制の中で、さらに「朱印寺である北山本門寺を誹謗することは、朱印を授けた幕府を呪詛する逆心である」という、からっきし権威権力に弱い大石寺の弱点をうまく突いた北山日要の主張とともに、何よりも先代日精が造読家であり、去る寛文八年三月十七日に造仏読誦色袈裟着用等を認めた「大石寺の法式」を幕府に提出しているという既成事実を北山に突きつけられたことによって、日俊上人・日啓上人は窮地に立たされることとなったのである。そこで、裁判において勝てる見込みのない大石寺は、当時の幕府の訴訟における基本方針が和談(和解)推奨であったことを利用し、教義上の対決を避けて、「北山に対する悪口」の事実そのものを否定する戦術を取った。これが元禄出入の経緯の概要なのである。

 

 大石寺の返答書BGの主な部分を分かり易く見てみよう。
「法華経一部読誦は無間堕獄とは申しておりません。富士五箇寺は方便品寿量品を以て勤行仏事作善等に読経しております。御当地(江戸)などの寺では大名高家の下にある寺においては、大旦那の望みに任せて一部頓写千部等も行います。先年、隠居日精が下谷常在寺在住のおり、江戸末寺代表として御公儀へ大石寺の法式を書き上げ申した中にその詳細がございます。」
「素絹五条の袈裟以外は謗法売僧であるとは申しておりません。富士五山においては古来より薄墨の衣・薄墨又は白五条の袈裟を着けます。貴人への出仕の時は色袈裟もまれに着けます。」
「曼陀羅の書き方は、題目の下に日蓮在判と書きます。もし本門寺において違背すれば師敵対になりますが、大石寺から(本門寺の本尊を)確かめたことはありません。」
「鬼子母神造立は富士五箇寺では行いません。大石寺はこの法式を守ってきました。しかし他寺での造立はかまいません。」
「御朱印寺である本門寺を誹謗したことは、御公儀への呪詛逆心になるということは、(大石寺は本門寺を誹謗しておらず)以ての外であり、勿体ないことであります。国恩は報じ難く、その上代々御朱印を下されたのですから言うまでもなく(大石寺のみならず)諸末寺に至るまで、いよいよ天下安全のご祈祷を余念なく行っております。
「去る寛文八年大石寺の法式を書き上げました。先段に申し上げたとおり少しも違背しておりません。」
「造仏堕獄ということは無実です。当方より堕獄と申したことはありません。よって京都要法寺は造仏読誦を行っておりますが、大石寺より堕獄と申したことはありません。その証拠に当住まで九代の住職は要法寺より来ておりますし、未だに通用が絶えておりません。」

 

 以上が寺社奉行所への返答書の主な内容である。つまり、「四箇条」の義は今まで北山に対して述べたことはない、と言うのである。その上造仏読誦色袈裟着用も容認しており、造読家日精が幕府に提出した「大石寺法式」を一部読誦色袈裟着用の証拠として持ち出しているのである。また、造読を行っている要法寺との通用を造仏容認の証拠とするなど、保身のためにはなりふり構わぬ大石寺の臆病ぶりが現れていて悲哀を感じさせる。
 法義研鑽委員会諸氏は何を思ったか、「当時の要法寺は曼陀羅正意が主流であった」「(当時の要法寺は)信仰上からは大石寺門流であった」等と図々しいウソを並べ立てているが、何よりもこの返答書の日俊上人の言葉が、当時の要法寺が紛れもない造読主義であったことを証明している。
 要法寺流の日精の邪義を破し大石寺に正義を復活させようとした日俊上人が、そのために北山により訴えられて窮地に立たされ、今度はその要法寺と日精の邪義によってその場を凌いだという事実は、何とも皮肉なものであるが、太平洋戦争中に宗門が戦争礼賛に努め、神札をも唯々諾々と受け入れたばかりか、保身のために法華経の行者たちを切ったことを思えば、何の不思議もない話ではある。宗門存続のため(と言うよりは我が身可愛さのため)には謗法容認もやむなしとするのが宗門の伝統なのであろうか。しかし、それはいったい誰の教えなのであろうか。
 宗祖大聖人曰く
「過去遠遠劫より巳来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし、国主の責め・なををそろし・いわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし・裸にて入るとをもへ」

 

 法義研鑽委員会諸氏は、自らの主張が史実に背いていることにわずかばかりは気が付いたのか、それでも法主の意向に沿わねばならないので、内心忸怩たる思いがあったためか、『百六箇対見記』の
「日俊上は予が法兄なれども曽て其の所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々」
を引用して、この「記述は、日精上人に造読があったとする根拠の一つであるが、この記述と北山文書の記述は当時の状況を述べて一致するかの如くである。」と、意外に素直に北山の主張と要法寺の主張とが一致していることを認めているが、「当時の状況を述べて一致するかの如く」どころか、事実はたった一つしか無かったのである。

 

 だからこそ「回答文書」でも「AEとBGを対照すれば歴然としている。AEの北山日要の訴状に対し、日俊上人がBGで反論されておられるが、その内容が逐一符合する。」と正直に認めているとおりなのである。
 対立する二つの勢力どころか、大石寺から公儀への正式な文書にまで、共通して日精の造仏読誦を認めているのであるからには、どうひっくり返っても否定できないことに気が付いたのであろうか。

 

 それでも信じようとしない精神的文盲の方の為に、繰り返して説明すれば、法義研鑽委員会の「回答文書」が正式な文書であると認めた北山から寺社奉行への文書AEには、

 

「去る寛文八年(一六六八年)申の三月十七日、御奉行所より仰せ出され候諸宗の寺法御尋ねの節、大石寺より壱部頓写千部読誦等執行仕り候儀、又僧階に依りて色々の袈裟衣を着用致し候儀又御免許に於ては色衣香衣を着用申し候儀証文差し上げ候」

 

と記録されている。
 寛文八年(一六六八)とは、要法寺日恩を師僧とした日典上人の代ではあるが、日精が隠尊として厳然と君臨していた頃である。奉行所に対して自ら謗法の化儀を行っている旨の証文まで提出したということは、名実ともに要法寺の化儀が定着していたことの証明である。
 ここで注目されるのは、寛文八年に大石寺が幕府に提出した「寺法」の内容である。なんと、一部頓写も、千部読誦も、色袈裟も、何でもありだというのである。俄には信じられない方も多かろうが、これが、大石寺憎さから北山日要がでっち上げたものではないことは、他ならぬ大石寺の返答書BGの中にも全く同じ内容が記録されているのである。

 

「御当地抔に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事」
「若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候」
「去る寛文八年大石寺の寺法書き上げ候事先段に申し上げ候如く少しも相違仕らず候」
(富要九・三二)
 隠居日精(この時の法主は日典上人)が江戸末寺代として幕府に提出した「大石寺の法式」、現代で言えば「宗制宗規」は、日興上人の御制誡に真っ向から反するものだったのである。

 

「一、衣の墨黒くす可からざる事」(日興遺誡置文)
「一、直綴を着す可からざる事」(日興遺誡置文)
「一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す仍て在在所所に法華三昧又は一日経を行ず。日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ず可からず、之に依て日興と五人と堅く持って不和なり」(富士一跡門徒存知事)

 

 これらの日興上人の御制誡は、いやしくも日興門流を名乗る者ならば破ること能わざる条々である。日精は仏像造立だけではなく、色袈裟の着用、一部頓写千部読誦の執行等も行い、日蓮大聖人日興上人の正義を破壊し続けたのである。
 「回答文書」では、敬台院の手紙から推測して、「・・との記述から伺うことができる」「ここから読み取れることは、日精上人は敬台院がせっかく供養した色袈裟を着用せず、紛失したなどの言い訳をしたらしきことである」等と、またまた得意技である推測に推測を重ねて(この章だけでも推測の言葉が十二カ所もある)「日精上人が色袈裟を着用したかのように言うが、全く逆である」と、無理矢理の断定をしているが、その日精が公儀に提出した「法式」を前提に日俊上人が寺社奉行に提出した文書に、明確に
「若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候」
と記載している以上、たとえ稀ではあっても色袈裟を着用していたことに対する否定は出来ないであろう。
 また、一部頓写、千部読誦についての反論が無いということは、日精の謗法の化儀を認めたということで良いのであろうか。これだけでも「相承の威力」など無かったことが証明され、宗門中枢の従来の主張などは木っ端微塵ではないか。
 もしも反論をしたいのであれば、色袈裟のみに限らず、全ての化儀が正しいものであったことを証明してはいかがか。日精がどのような化儀を実践しており、どの程度京風の化儀に流れていたかは、日精自身の家中抄にも明確に書かれているであろう。

 

「当門徒に諷誦を読まざる事(中略)祖師称嘆の言を加ふ敢えて制止せざる故に当家に於て諷誦を読むべきなり」
「頓写の事、如説修行の一なり最修行せらるべきなり」
「声明の事、凡そ四箇の法事は仏家の通用なり習って修行せらるべきなり」
「過去帳位牌等の事(中略)速に位牌を立て過去帳を立てらるべきなり」
「日待月待の事(中略)富士諸寺に諸天堂を建立すること、本尊の如きは諸天を寺内に勧請する為め、況や日待月待を制する事は全くなきなり」(富要五・二六五)

 

 ところが何を考えたか法義研鑽委員会諸氏は、日要と日舒が同年代であって、たまたま同じ年に死んでいることを根拠に
「(日要と日舒が)意外と親密であったのかも知れない」「あるいは日舒が悪知恵を貸して、裏で糸を引いていた可能性もなきにしもあらずである。ならば記述が似ているのは当然である。」
と、全く推測に推測を重ねて「あるいは・・ならば・・当然である」と言う結論を導こうとしているのには呆れた。これをこじつけと呼ばないで何と呼ぶのか。実際に起きた事実を、当時の関係者が記載すれば、同じような内容になるのは当然であるにも拘わらず、たまたま同じ年に死んだら、裏で糸を引いていたと言われては、邪宗日蓮宗の坊主とは言え恨んで出てくるのではないかな?宗門教学部の論理で言うならば、大石寺の寺社奉行へ宛てた文書も日要や日舒の主張と同じ内容であったということは、「(大石寺と北山や要山も)意外と親密であったのかも知れない」「あるいは大石寺が悪知恵を貸して、裏で糸を引いていた可能性もなきにしもあらずである。ならば記述が似ているのは当然である」とでも推測出来るのであろうか?

 

 おまけを言えば、日舒が日精のことを悪く言っているという文書を根拠に、
「日精上人や大石寺を快く思っていないのである。」「所詮は日舒の血脈に対する不遜なその信心を、日精上人に見抜かれていたことによるのであろう。」
と訳の分からない見解を述べているが、日精の家中抄を読んでからそのような愚かなことを主張しているのであろうか?日精は家中抄において、日道伝では相承の中に日興上人の作った釈迦像があったということや、日影上人が相承を伝えることが円滑に出来ずに、在家に預けた、というようなことを繰り返して記録しているが、これも
「要法寺から来た日精上人が日影上人や大石寺を快く思っていないのである。」
「所詮は日精の血脈相承に対する不遜なその信心を、日興上人に見抜かれていたことによるのであろう。」
ということなのであろう。

 

「相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云はく 日興御さくの釈迦一そん一ふく」(富要五・二一三)
「影公大衆に語って云く血脈を伝ふべき機なき是我が悲嘆なり、終に応永廿六年己亥病気の時柚野浄蓮に血脈を授けて云く」(富要五・二五五))

 

 こんな日精だからこそ、堀上人が頭注で
「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」
と日精の造像家の本質を暴かれ、破折を加えられているのである。
 法義研鑽委員会の主張は、論理ではなく、ただのこじつけでしかないことが、こうした分析からも少しはご理解いただけるであろう。

 

 堀上人が歴史的証拠として正式に採用されたというAの北山の文書の中には、
「種々遠慮御座候故六箇年の間堪忍罷り在り候」
と、日精が死んだ天和三年(一八六三年)から元禄二年(一六八九年)まで六年間も本門寺としては我慢に我慢を重ねていたことを記録している。このことは、当方の「破折文書」でも指摘しておいた「日精は隠居してからも隠然たる権力を持っていたこと」「日精が死んでから仏像の撤去が始まったこと」の傍証としているのだが、「回答文書」が何も反論出来ていないのは、堀上人もこの事件について我々と共通の御見解を持っていたことを、宗門教学部も認めたと言うことなのであろうか。

 

 以上のとおり日精が、
「大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事」
の如き謗法の化儀を実践していたことは明らかなのであるが、「回答文書」では事もあろうに
「摂受的側面を含む、大石寺と要法寺の全体的見解として述べられたものである」などと、したり顔で謗法容認の邪義を認めているのである。日興上人の御指南として、
「此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず」
(門徒存知事)
「今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か」(五人所破抄)
との五老僧に対する破折は、すでに宗門中枢からは全く消え失せてしまったということなのである。やはり彼等は五老僧の末裔なのであろうか。

 

(二)石山教学部の造読論に対する無認識を嗤う
 法義研鑽委員会の「回答文書」では、当方が「破折文書」で示した日精の造仏読誦の事実の証明に対して真っ向から反論できないために、論をすり替えて「実は日精の言う読誦とは唱題のことであるかも知れない」という悪質な誤魔化しを企てている。
 日精の年譜の中の
「一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるる御書に背く」(富要五・一〇三)
との文を挙げて、法華経一部とは「日精上人も自我偈と唱題一万遍であったかも知れない」と恐る恐る推測しているのだ。
 しかし、これこそ要法寺日辰の邪義を知らないままで、希望的観測を述べているに過ぎないもので、早とちりもいいところである。この文は日精が正行について一部読誦を否定しているだけであって、その点では要山日辰とて何ら変わらぬ「正行は題目」という化儀なのである。日辰の記述には、

 

「当門徒の有智無智皆一同に正業正行の一辺は寿量本因の題目なり」(読誦論議)
「正業必ず寿量品の名字証得の南無妙法蓮華経なり、然を或は本迹一念妙経と云い、或 は八品所顕の妙法と云う、皆誤りなり」(開迹顕本法華二論義)

 

と、日辰も正行には題目を挙げているのだ。だからといって日辰が読誦論者でないなどとどうして言えようか。法義研鑽委員会諸氏は根本的に読誦論の意味が判っていないようだ。要山流読誦論とは、正行に題目を立てながらも、助行として二品読誦のみならず広く法華経一部読誦を認めてしまうことである。この助行を広くして一部読誦を行うことが問題なのであり、日精の過ちもまさにここにあるのだ。即ち「年譜」に、

 

「南無妙法蓮華経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり、一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり。所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり」(富要五・一二八)

 

とあるとおりで、これ全く日辰流読誦義である。さらに詳しく「年譜」には、

 

「直専持此経とは一経を指すに非ず専ら題目を持って余文を雑えずと云ふ文なり、尚一経の読誦を許さず何に況や五度をや、此の文の意唯妙経五字七字の題目を持って方便寿量の余文を雑えず、なほ方便寿量を雑へず況や一部読誦をや」(富要五・一二九)

 

と、正行題目を立て、方便寿量の読誦さえも、

 

「亦難行道となるなり、故に名字即の正業正行は唯題目の五字にして、方便寿量に非ず、亦一部八巻に非ざるなり」(同)

 

としておきながら、次下には、

 

「是逆縁に約しての正行なり、助行にいたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす。七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり」(同一三〇)

 

と、明らかに助行に一部読誦を許しているのである。これこそまさに師敵対の邪義であり、何ら弁解の余地はない。だからこそ堀上人が日精の「年譜」の頭注で、

 

「此下助行亦大に濫る用ゆべからず」
「助行を広くして遂に一部読誦に及ぶ 正く開山上人の特戒に背く 用ふべからず」

 

と厳しく破折されているのだが、法義研鑽委員会諸氏は未だにその意味さえも理解できていないようである。出家相手に講義をしてやるつもりなど毛頭無いが、彼等の勉強不足にはほとほと呆れるばかりだ。論議が噛み合わないのも原因は偏にそこにある。

 

 同じように造仏義においても、曼陀羅さえ認めておれば造像家ではないかのような言い草であるが、日辰も曼陀羅を否定していなかったことは、法義研鑽委員会諸氏や忠正寺住職のM某以外は周知のことであるはずだ。広略の別、人法の別を立てて、造像と曼陀羅とを使い分けたのが、日辰に続く造仏論者連中である。いくら日精書写の本尊を並べてみても、造像否定の根拠にならぬことは、前回詳しく述べたのでここでの詳述は避けるが、

 

「予法詔寺建立の翌年仏像を造立す」(随宜論)

 

と、日精自身が造像した寺に、そうした仏像と共に日精自身の曼陀羅が掛かっていたことは「敬台院状」等で明らかな事実である。

 

(三)「随宜論」についての言い逃れを嗤う
 日精の随宜論については、当方が「破折文書」において全文の略解を掲載して、日精の造仏に関する登座前後の見解を理解しやすく示しておいたにも拘わらず、法義研鑽委員会諸氏はほとんど耳と目を塞いでやり過ごそうという魂胆が見え見えである。
 「回答文書」では、わざわざ「随宜論について」という章立てをしておきながら、「随宜論の述作と敬台院との関係を考え直してみたい」と、最初っから随宜論に関して論じることから逃げてしまったのである。この辺に彼等のレベルの低さが如実に現れていると言っても過言ではなかろう。
 「回答文書」が随宜論について唯一反論らしきことを企てたのは、随宜論の最後の箇所の、
「日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符号す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先んじて仏像を造立し給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云(ママ:者)はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非ず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ」(随宜論)

 

についてだけであるが、これについて法義研鑽委員会諸氏は明らかに解釈を誤っているので正しておく。
 まずこの文を通解すれば、
「日代上人の日印への書状には、『仏像造立の事は本門寺建立の時である。未だ勅裁は無い。国主御帰依の時に三箇の大事を一度に成就するべきであるというのが宗祖の御本意である。御本尊の図は其の為である』と記されている。此の文は日尊実録の中の日興上人の御義に符号している。であるならば富士山の立義は、国主が帰依するまでは釈迦像を造らずに、戒壇の勅許を待ってから三箇の大事を一度に成就するべきである。もしこの義に基づけば、日尊が本門寺建立の時に先んじて仏像を造立したのは一箇の相違である。誤りであると言うべきかどうか、まだ本門寺建立の時が来ていないのに本門寺と号するのも又一箇の相違であるが、誤りであると言うべきだろうか。このような内容は時の問題であり、ここで論ずることではない。後世の学者が造不造の二義を調和して理解すれば、造不造を間違えることはなく、永く謗法を停止して自他共に成仏を期することを願うのみである。」
となるのであるが、「回答文書」ではいくつもの取り違えをしている。
「仏像を造立するのは国主が帰依し本門寺を建立する時である、というのが@西山日代の本意であり、また、それはA日興上人の義にも符合する。富山の立義は仏像を造らないで、戒壇の勅許を待って、三箇の大事を一度に成就すべきである。ならば本門寺建立の時が至っていないのであるから、B要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している。Cこの本門寺ということと、仏像造立することの二つを和会するところに、造・不造の相違は起こらなくなり、謗法は停止されて成仏がかなうのである」
と解説し、「ここに述べられることは、要するに未来の本門寺建立の時に仏像を建立するのが正しいと言われているのである。すなわち、未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる」と、文意が全く理解できぬままに、明らかな邪論を述べているのである。
  項目ごとに少々破折を加えれば、
@まず「西山日代の本意」などという解釈は、全く日本語が理解できていない証拠である。要するに随宜論に書かれた内容がさっぱり分かっていないのである。西山日代の書状の中に書かれている文章であるのに、自分の「御本意」などと書く者がどこの世界にいるであろうか?祖師伝にしろ家中抄の日印伝にしろ、直前に「大聖日興上人の御意」等と記されて、大聖人日興上人の御本意がどこにあるかを論じている箇所なのである。これを「西山日代の本意」だとは、ヘソが茶を沸かす類の解説である。これだけでも法義研鑽委員会の「回答文書」が如何にお粗末な代物であるかが理解できよう。

 

A次に、「日尊実録の中の日興上人の義」がどういう内容なのかが分かって「日興上人の義にも符合する」というような解説を行っているのであろうか?「回答文書」の論理では「西山日代の本意」=「日興上人の義」であり、そうすると「日興上人の義」と「富山の立義」とは違うとでもいうことなのであろうか、それとも「西山日代の本意」=「富山の立義」となってしまったのであろうか。どちらに転がっても、ため息の出そうなお粗末さである。
 実録の第三には、
「日興上人仰せに云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之有り、尓らば木像等の色相荘厳 の仏は崇敬するに憚り有り。乃至広宣流布の時分まで大曼陀羅を安置し奉る可し」
「予が門弟相構えて上行等の四菩薩を相添え給へる久成の釈迦略本尊資縁の檀越の助否 に随って之を造立し奉り広宣流布の裁断相待ち奉る可きなり」
と、日興上人の言葉として一見造像を正当化するが如き論を述べているのだが、どうやら宗門は未来造仏を正義とする本門寺や要法寺と同じ異流儀に身を委ねたか、あるいは日興上人とは異なる流儀であると決定したようである。
 正しく富士の正義を示せば、「西山日代の本意」と「日興上人の義」とは異なるのである。更に正確に示せば、「西山日代の本意」ではなく「大聖人の本意を取り違えた西山日代の書の意」であり、その内容は、国主帰依の時の造像である。「日興上人の義」とは一宗弘通当初における像法残機の強執の者のための暫用還廃論としての造像容認であり、その御本意は大曼陀羅正意であることは明白なのである。
 法義研鑽委員会諸氏は、日興上人が像法残機の強執の者のための暫用還廃論として述べられていることを完全に取り違えて、数百年も下った江戸時代にまで造像容認を適用することとしたようだが、これらの邪義を日寛上人が必死に破折されて、富士の正義を蘇らされた戦いをすでに完全に忘れてしまったのか。日寛上人は末法相応抄で、

 

「是れ宗門最初なる故に宜しく信者を将護すべき故なり」
「猶是れ宗門草創の時なり設い信心の輩も未だ是れ一轍ならず、是の故に容預之を誘引 し故(ことさら)に事を子孫の中に寄せて意は実に造立を制止するなり」
「四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に 日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり」
「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」

 

と、日興上人以後の造像思想は正義ではないとして明確に破折されているではないか。
 日精が随宜論で三箇の秘法建立の姿を具体的に述べているのを理解してこのような邪論を述べているのであろうか?随宜論の日精の主張によれば、

 

「本門心底抄に云く、戒壇其れ豈に立たざらんや。仏像を安置すること本尊の図の如し 文。此の文を以て推するに戒壇成就の日は仏像を造立するは分明なり」
「本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照 八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本 尊を安置し奉る」

 

等とあるように、日精の義に依るならば未来広布の時に釈迦像を建立することは明らかではないか。「回答文書」はどうにかして日精の造像の邪義を誤魔化そうと、
「さらに推測すれば・・・大石寺で仏像と言えば、御影様であることを周知徹底するために造立されたのかも知れない」
と、釈迦像を消し去るための無駄な努力を試みているが、如何せん随宜論には明確に「本堂に仏像」「祖師堂に日蓮聖人の御影」と立て分けている以上、徒労に終わってしまったようだ。「さらに推測すれば・・かも知れない」という弱気の表現が、彼等の本音を示していてなかなか可愛いではないか。

 

Bさらに「回答文書」では「要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している」とさっぱり訳の分からぬちんぷんかんぷんな解説をしているが、少しは原文に沿って正しく理解しようと努力してはいかがか。それとも宗門の所有する随宜論とやらは、本物とは異なる内容でも書かれているのであろうか?当方の「随宜論」には、
「若依此義者 日尊先本門寺建立時造立仏像者 一箇相違也 可属罪過者 未到本門寺 建立時号本門寺者 又一箇相違也 可属罪過乎 如此段非今所論」
とあり、これに基づいて正しく分かりやすく通解すれば、
「もしこの義によれば、日尊が本門寺建立の時に先んじて仏像を造立したのは一箇の相 違である。誤りであると言うべきかどうかは、まだ本門寺建立の時が来ていないのに 本門寺と号するのも又一箇の相違であるが、誤りであると言うべきだろうか。このよ うな内容は(時の問題であり)、ここで論ずることではない。」
となるのであろう。要するに日精は、日尊の造仏を一旦否定しておきながら、本門寺建立の時が来ていないのに本門寺と読んでいることを間違いであるとは言わず、「乎」という疑問又は反語の係助詞を使用して肯定し、併せて日尊の造仏をも受容しているのである。そして、これは「時」についての議論なので今は論じない、と逃げを打っているのである。これらのどこをどう読めば「要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している」などと言う珍妙な解釈が出来るのか、もう一度法義研鑽委員会諸氏は頭を冷やして考え直しては如何か?

 

C「この本門寺ということと、仏像造立することの二つを和会するところに、造・不造の相違は起こらなくなり」という解説も噴飯もののご都合主義である。要するに、勅許が下りたら三箇の秘法を建立し、本門寺と号すると言いたいのであろうが、日精の称する富士の正義に基づくならば、併せて本堂には仏像も造立し、祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像を、其の上戒壇堂を建立して、その中に法華経一部を納めて戒壇を築き板本尊を安置し奉るというのだから、いったい宗門はいつから造仏を正義とするような邪義に陥ってしまったのであろうか?
 その証拠に「回答文書」では、「未来の本門寺建立の時に仏像を建立するのが正しいと言われているのである。すなわち、未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる」
と、いよいよ完全な邪義に陥ったことを白状した。日寛上人の末法相応抄における
「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
との御宣言も無視し、
「開山上人・御弟子衆に対するの日・仍容預進退有り、是れ宗門最初なる故に宜しく信者を将護すべき故なり」
との、日興上人の像法残機の強執の一機の為のやむを得ざる説法も省みず、その後三百年もの時間の過ぎた江戸時代にまで適用して、ついには未来造像をも容認してしまおうとは、日寛上人がこれらの邪義を破折された意義を日顕宗の輩は全く灰燼に帰すつもりなのであろうか?
 日精が日代の文を利用して、広布の時に約して造仏を肯定することに本意があることは明らかで、ただ、日代の義によれば、勅裁以前の造仏は一箇の相違となるために、それについては、
「此の如きの段今の所論に非ず」
と逃げているのである。もしも「現在制止に本意がある」のであれば、「此の如きの段今の所論に非ず」と誤魔化す必要はなかろう。法義研鑽委員会諸氏もそこに気が付いたのか、ご丁寧な現代語訳を載せておきながら、この部分だけは意図的に省略しているのだから何をか言わんやである。

 

 また、日因上人も日寛上人の言葉を踏まえて、日精の随宜論に対して全く同じ指摘をしているのである。

 

「精師御所存は当家実義と大相違なり、具に二十六代日寛上人造仏読誦論返答抄末法相応抄に分明なり」
「開山広布を待ち造立を許すは是実義に非ず」

 

 そもそも、随宜論が残された経緯を考えれば一目瞭然であろう。日精が法詔寺を建立し、釈迦像を現在に造立したことに対して、門徒からの轟々の疑難が沸き起こったため、これに応えて書いたものだと言うことが全く理解できていないようである。「回答文書」の言うような、「未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる」などと言い訳できる状況ではなく、現在造像した者が僧俗に非難されて未来造像に基づいて正当化を企てたのが随宜論であることを忘れてはならない。つまり、日精の随宜論の場合は、「本来造像を誤魔化すための未来造像に本意があると拝さねばならない」のである。
 そもそもこの日代状を利用して造仏を正当化しようとした最初の人物は、かの造仏家要法寺日辰であり、その書「祖師伝」には、すでにこの日代状を引いて、
「仏像造立の事、本門寺建立の時なり文、然るを日尊本門寺建立の時に先つて仏像を造立し玉ふ是れ一箇条の相違なり、過罪に属すべきや不やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦像供養抄、骨目抄唱法華題目抄等を以て之を決すべきか」
と記しており、日精は随宜論でこれを猿真似したに過ぎないのである。文章が酷似しているのは偶然ではないのだ。堀上人はこの記述について、

 

「日代より日印への返状をも引いて仏像造立等の底意を香わせてある」(詳伝・五二四)

 

と、明確にその真意を見抜かれており、しかもその日代状そのものに対してさえ、

 

「代師は、すでに本迹論で失脚したのみならず、国立戒壇の本尊は叡山式のごとく仏像たるべしとの秘念があった」(詳伝・二八一)

 

と明言されている。だからこそ、この日辰の意を再び掲載した日精の家中抄にも

 

「本師造仏の底意を顕す」

 

と頭注を加えられたことは「破折文書」に詳述したとおりである。上代のことにおいてさえ「現在制止が本意」などと許してはいないのである。

 

 また、「回答文書」では、随宜論を著す契機となった「日精上人に疑難を呈した門徒の真俗の中心者は、西山本門寺十八代の日順であろうと思われる。当時の富士の五山は、現在からは想像もつかない相互の通用交流があった。日順の弟子の日衆は日顕と改めて江戸上行寺から本宗の常泉寺の七代に栄転した人物であり、その弟子が総本山二十五世の日宥上人である。これより前には、西山の十六代として要法寺の日性の弟子の日映が就任している。」と、したり顔で宗史を騙っている。
 宗門人であるならば、もう少し正確に宗史を研鑽しておくべきではないのか?
 例えば、要法寺の日性の弟子の日映が、西山の十六代として就任した、などという記録がこの世に存在するとでも言うのであろうか?いったい何を考えてこのような誰にも見破られるウソ八百を書き散らしているのであろうか?西山十六代の日映は、没年が慶安五年六月九日であり、一方要山日映の没年は寛文八年七月一日なのである。どうしてこれら全くの別人が、「西山の十六代として要法寺の日性の弟子の日映が就任」するようなことが出来ようか?完全に誤った事実認識に基づいて勝手な推論をして、不可解な結論を引き出しても、誰も信じてはくれないのである。
 西山日順にしても、大石寺を本寺と仰ぐどころか、弟子の日衆が江戸上行寺の第十代であった時に、天英院という大スポンサーを盗んで常泉寺に移ってしまったから、栄転どころか上行寺の第十代としては除歴されているのではないのか?日順が天英院に対する未練たらたらの長文の手紙を寺社奉行に対して書いているのはご存知のとおりであろう。自分の師僧に後足で砂を引っかけるようなことをするのは、日顕という名前の坊主の宿命であろうと思われる。日順も大変な苦渋を味わったし、日達上人の霊山での苦衷を心ある宗門人であるならば生命に感じるべきである。
 このように「回答文書」では、誤りに誤りを重ねた推論をして「西山には十八代日順や日顕のように、大石寺を本寺と仰ぐ僧侶がいたことを知るべきである」と盲蛇に怖じずの断定をしているが、もう少し客観的で科学的な解析をするべきであろう。

 

 それにしても、当方としては、宗門が随宜論に関する反論を少しは試みることを期待していたが、尊大ぶって「随宜論について」という章をわざわざ起こしておきながら、特に随宜論についての論を展開するのでもなく、全く対論を避けてしまったことには、肩すかしを食らったような気分である。仕方がないから、わずかに回答文書が触れた箇所について、以上のとおり完膚無きまでに破折し、打ち砕いておいた。
 法義研鑽委員会の稚拙極まりない言い逃れに万が一にも翻弄されないためには、随宜論を読むことをお勧めする。一読さえすれば、三十一世日因上人が、随宜論について、

 

「精師御所存は当家実義と大相違なり、具に二十六代日寛上人造仏読誦論返答抄末法相 応抄に分明なり」
「当家造仏を許さず蓮祖開山已来已に五百年なり 精師一人之を許す」
「不造の現証文証之を会すに恐らく曲会なるべし」
「又精師関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す 今漸く之在り寺々皆之を取除くなり」
「久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず恐らく教相判を存し観心の旨叶わざる哉」

 

と厳しく破折をされておられる理由がよくよくご理解いただけるであろう。

 

(四)謗法の罪を信者に押しつける卑劣を嗤う
 「回答文書」では謗法法主日精の罪を全て敬台院に押しつけて、「敬台院の仏像に対する強い執着が改まることはなかった」ので、「暫時、摂受の方便として仏像を許容されたのである」と開き直ったばかりか、その根拠として「五人所破抄」を引いて、
「執する者は尚強いて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし云云」
と、日興上人が、一宗弘通当初における強執の一機のために一時の容認をされたことを、三百年も後の江戸時代にまで持ち込んだ挙げ句に、
「機の判定は時の御法主上人の深意によるのであり」
と強弁して、日精の造像そのものを正当化しようとしたのである。
 そもそも「回答文書」の論理では、
「法詔寺の造仏は登座以前である」
「登座以前より当家の正義に立たれていた」
「機の判定は時の御法主上人の深意による」
等と主張しているので、これらをもしも受け入れたならば、そこから出て来る答えは、
「日精は、登座以前から当家の正義に立っていたにも拘わらず、法主でもない時に、勝手に機の判定をして、造仏を許した」
という結論になるのである。話の辻褄ぐらい合わせておくようにと前回あれほど注意しておいてあげたのに、少しも懲りていないようだ。

 

 すでに破折したとおり、日興上人の像法残機の強執の一機の為のやむを得ざる説法は、その後三百年も下った江戸時代にまで許されたものではないことを肝に銘じるべきである。「回答文書」では、何を考えたか、造像を肯定するのに日寛上人の末法相応抄まで引き合いに出して、「強執の一機の為なり」との文を乱用して必死の弁解を企てているが、

 

「一には猶是れ一宗弘通の初めなり」
「是れ宗門最初なる故に宜しく信者を将護すべき故なり」

 

と、日寛上人は許容の時を明確に宗門最初に限定しておられる。それを「時の法主さえ許せばいつでも造像を容認してよい」などとするのは、明らかに師敵対の大謗法である。宗規に背いてでも「正依」を「時の法主の言葉」とする現宗門らしい結論である。
 このようにまともに六巻抄も読めない連中が、「法義研鑽委員会」などと大層な名前で、平気でウソ八百のご都合教学を公式文書として発表するが故に、堀上人も

 

「興師容与摂受 却為永世禍 可悲」(研教六・四九)

 

と、末代の馬鹿共の早とちりを嘆かれているのだ。この分では、あの京かぶれの新客殿に仏像が建ち並ぶ日もそう遠くないかも知れない。日寛上人の
「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
との御文をくれぐれも忘れないことだ。

 

 それにしても、法義研鑽委員会諸氏は敬台院に全ての責任をおっかぶせて、日精は造仏家ではなかったが敬台院が仏像を供養したという論理を騙っているが、よくよく考えても見よ。誰が相手の坊主の合意も無しに仏像を供養できるか。一升瓶や米俵を供養するのとは訳が違うのである。日興上人の正義も教えず、仏像の替わりに御影にするという代替措置もとらず、日精は間違いなく仏像を建立したのだ、ということを彼等も不承不承ながら認めたのである。そして、仏像容認こそが「当家の正義に立たれていた」者の化儀だと宣言したのだ。
 「回答文書」は、敬台院が色袈裟を供養し、それを日精が「紛失したなどの言い訳をしたらしい」と、得意の推測で全ての日精の責任を回避しようとしているが、そのすぐ後に「指示された色でなければ用意しませんよ」と強く念を押しているのを見落としてはいないか?それは大石寺が要望していたことになりはしないか?そんなに悪い敬台院から多大な供養を受け続けたのは何故か?
 また、立派なはずの日精を追い出した張本人の敬台院が大石寺の後任法主日舜を任命したのであれば、大石寺は何故そのような法主日舜を受け入れたのか?
 しかも、後釜の日舜は相承も受けていないのに、要山僧顕寿院日感によって「相承を受けた人は、学不学によらず生身の釈迦日蓮」という大法螺の応援演説を受けて普山したのではなかったのか?あまつさえ、この顕寿院日感の手紙を「立派な文書」と褒めちぎった日顕が、七時間半の全国教師講習会の終了間際のドサクサに紛れて、参加者の疲労困憊のスキを突いて、この手紙を唯一の根拠に、
「私は、日顕が、に、に、に、日蓮大聖人様なんて、一遍も言ったことない。ないけども、やはりそういう意味でのですね、あのー、この、しっ、信仰が富士門流の信仰としてあることが、あー、伝わっておるという意味であります。」つまり「日顕が生身の釈迦日蓮と信じるのが富士の信仰じゃ」
と宣言したのではなかったのか?
 その時の日顕の本音の言葉は、
「まー、あのー、もー、その、池田さんから見れば、本当に愚者かも知れない、愚者でしょう!愚者である!」
と、完全に狂人の如く開き直って叫んでいた訳だが、このような嫉妬で我が身を焼き焦がし続ける老醜の愚者を、生身の釈迦日蓮と仰げと言うことが大聖人の教えであるなどと、いったい御書のどこに書かれているのか教えていただきたいものである。

 

 話を元に戻せば、後任法主の日舜は、日精に対する訴訟を敬台院から受け継いで、相当長期にわたって日精と争った訳であるが、法義研鑽委員会の皆さんはいったいどちらの味方をするつもりであろうか。ひょっとして日舜は仏像を返せとでも主張していたのであろうか。どちらに転んでも逃げ道は無さそうである。この日舜日精の訴訟沙汰は、色々と楽しいテーマを含んでいるので、今後の楽しみに取っておこう。

 

 さらに法義研鑽委員会諸氏は何をトチ狂ったのか、「時局文書」で大見得を切って述べていたウソ八百である
「造仏思想をお持ちであった日精上人が、血脈相承を受けられたことにより、その迷い から覚め、当家の深意に至られたという、当家の血脈相承の威力を証明する文書なの である」とか、
「日精上人の展開された御化導の前半は、造読であられた。そのために、大石寺の血脈を嗣ぎ、宗祖の正意に至った後、日精上人は敬台院を教導し、仏像の執着を取り除きまた仏像を撤去されるのに大変苦労せられたのである」
などといった、彼等のこれまでの主張の根幹部分を、「回答文書」では正直に全てが大ウソであったと認め、何の恥ずかしげもなく撤回したばかりか、こともあろうに
「これは誤りであったので、日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた、と訂正する。」
と、推論に推論を重ねた上で、無茶苦茶なホラを臆面もなく吹きまくって、恥の上塗りを行ったのである。要するに、信者に全ての罪をおっかぶせてはみたが、やはり論理破綻は目を覆うばかりなので、勢い余ってつい数ヶ月まで胸を張って主張してきた「相承の威力」論を全面的に放棄した結果、「日精はもともと正しく、何の間違いも犯していない」という完全な論理崩壊へと突き進んでしまったのである。あら面白や、日顕宗がものに狂うを見よ!

 

 彼等は完全に要法寺の化儀に染まってしまったようで、「回答文書」では、「暫時、摂受の方便として仏像を許容されたのである」との謗法容認に続けて、「ただし、大曼陀羅が撤去されたのではなく、大曼陀羅の左右に釈迦・多宝・四菩薩が置かれたのであろう」と珍解釈をしているが、御本尊と釈迦・多宝・四菩薩の像を安置することこそが要法寺の化儀ではないか。これこそ造仏と呼ぶのである。日精が随宜論に示した造仏の化儀そのものではないか。
 ところが法義研鑽委員会諸氏は、このことを根拠として「日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた」と悦に入っているのであるから、やはり法詔寺は要法寺の化儀によって汚染されていたばかりか、登座後の日精によって宗門末寺にまでその悪弊が及んだのは、堀上人のご指摘のとおりなのである。
 曼陀羅を書いた要法寺法主たちは「宗祖本仏・大曼陀羅正意」であったと言う彼等の愚論は次章で破折するが、日精が随宜論で、
「予法詔寺建立の翌年仏像を造立す」
と証言したとおり、日精が造像した寺に、他の要法寺系の寺の化儀と同じく、そうした仏像とともに、日精自身の書いた曼陀羅が掛かっていたことは「敬台院状」等で明らかな事実なのである。
 もっとも敬台院は、日精の本尊については気色が悪いので突き返し、日興上人の御本尊を安置した旨を記録しており、「回答文書」の論理に基づけば、敬台院が日興上人の曼陀羅を安置していたから造仏義ではないということになるのだが?宗門の論理が如何に破綻しているかがここでもご理解いただけたであろう。

 

「我等持仏堂には開山様の曼陀羅を掛け置き申し候此、此(精師筆)曼陀羅は見申す度に悪心も増し候まま衆中の内に帰し申し候」(富要八・五八)

 

 この「強執の一機」であった敬台院の墓は、今も御影堂の後ろの三烈士の墓の隣にあることからも、謗法の法主に対しては徹底的に攻撃しなければ、大檀那としては認められないのであろう。

 

 このような法義研鑽委員会諸氏だから、日精が信徒に褒美として与えた本尊が仏像でなく曼陀羅であったことや、常在寺の本堂、持仏堂ともに曼陀羅本尊を安置していたこと等を根拠にして、日精は造仏家ではなく「当家の正義そのもの」などと、強行突破の結論を出そうと焦っているが、要法寺の化儀が曼陀羅と仏像との両方を安置するものであり、「破折文書」で証拠を示したとおり、日精が造読家であって仏像を安置したという実績がある以上、日精自身が曼陀羅を撤去した事実が確認出来なければ、いくら曼陀羅を書いたり安置した実績を挙げても、何の反論にもなっていないのである。
 すでに示したとおり、随宜論には、
「本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る」
と、曼陀羅も御影も久成釈尊像も安置することを明確に示しているではないか。いったいこれが「御登座以前から当家の正義に立たれていた」者の主張であるなどと、どこをどうひっくり返したら言えるのか、委細に教えていただきたいものである。
 こうして、いよいよ大石寺も再び造仏の邪義を受け入れるのであろうか。日顕の懐中の絣の袋に入った木彫りの釈迦像こそ、全ての邪義の大本であるに違いない。そして、木彫りの随身仏の化儀も「時の御法主上人の深意による」のであるから、おいおい日蓮正宗の正義(?)となるのであろうか。

 

(五)要法寺法主に与同する愚行を嗤う
 さて、最後に彼らは「回答文書」の中で、何を考えたか「要法寺出身の御法主上人」の章まで設けて、大石寺がスカウトした要山からの法主が無罪であることを証明するために、愚かなウソを重ねている。その内容を簡単に整理すれば、
「日昌上人が要法寺十四代日◎(貝へんに周。以下同じ)によって選ばれ、日就上人は日◎の直弟であること。また、日精は要法寺二十代日瑶の弟子であり、日盈上人は日◎の甥であること。以上のことと、日◎及び日瑶が曼陀羅を書写していることから、要法寺系の歴代は大曼陀羅正意の者と縁がある」というのである。「回答文書」では、
「通用開始の当事者であった要法寺十四代の日◎と二十代日瑶は、要法寺安置の大曼陀 羅本尊を書写している。このことは、両師が大曼陀羅正意であったことを示すのである」
「日◎に正しい信心と得行が備わっていたからなのである」
として、曼陀羅を書写した要法寺の坊主は正しい曼陀羅本尊の宗派だったと結論しているのである。宗門教学部が完全に発狂したことを証明する大傑作の作文ではないか!「宗門第一尊厳の化儀」であったはずの法主の本尊書写権とやらはいったいどこに雲散霧消してしまったのか?
 常日頃「法主一人の他、書写することあたわず」とか「法主の許可なくして本尊下付するは大謗法」などと言っているのはいったい何処の何奴か。それを「正しい信心と得行が備わっていた」とは、自語相違も甚だしいとはこのことである。
 まして、当時の要山が造像思想に染まっていたことは、先に自分たちが公式文書として認めた日俊の寺社奉行あての文書にも、
「仍て京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代 の住持要法より罷り越候」
とあり、就中、正しい信心と徳行が備わっていたとかいう日◎は、
「仏体にて当寺十四代日◎の時造立仕り候」(富要九・三五五)
「文禄二年 要法寺日◎本堂安置諸尊造立」(日宗年表)
とあって、造仏家であることは否定しようがない。
日顕宗の手に掛かれば、ヒットラーは善人となり、ガンジーを殺人鬼と呼ぶことも容易なことであろうが、それで世の中に通用すると思ったら大きな間違いである。

 

 と、まあ普通ならこんな具合で話は終わるのであろうが、実は彼等はこの程度で許してはならない極悪人たちなのだ、という事実を示そう。彼らが単なるバカならまだ罪は軽いのだが、連中の腹黒さはそんな単純なものではないのだ。
 実は法義研鑽委員会諸氏は、当時の要山が造像思想であったことも、日◎等が造像していたことも百も承知で「大日蓮」の読者である法華講員を欺こうとしたのである。「回答文書」をもう一度引いてみよう。
「通用開始の当事者であった要法寺十四代の日◎と二十代日瑤は、要法寺の本堂安置の大曼陀羅本尊を書写している。このことは、両師が大曼陀羅正意であったことを示すのである」
とあるが、では要法寺日◎と日瑤が要法寺本堂の大曼陀羅を書写したことを、彼らが何処から見つけてきたかと言うに、要法寺の歡學寮から発行された「夏期講習録」という書物の中からなのである。彼等は、この書が非売品であり、あまり世間に出回っていないことをいいことに、出典を隠した上で、自らに都合の良い箇所だけを切り文にして、法華講員を騙すための自論につなぎ合わせたのである。
 要法寺の書の原文を紹介しよう。
「降て我中興辰尊時代以後彼の天文厄難後假本堂出来の際は一時文字式本尊を正境とし造像奉安迄の過渡期を経過した、其実例は本山寶庫に所蔵の暦世本尊部の中に要法寺本堂安置と銘記の十四代◎師の御筆及び二十代瑤師の要法寺本堂常什の銘記有るものが残されてある、文禄年間に及び諸堂稍や完成の域に達せしかば一塔二尊四士の造立が為された、彼の中央寶塔の七字は◎師の御筆跡である即ち◎師時代に(現在の分は)造立されたのである」(本山歡學寮第三回講習録・五一)
 通解すれば、「中興日辰以後、かの天文法難によって焼き討ちにあって本堂を焼失したために、その後は仮本堂を作ったときに、造像安置までの一時凌ぎのために、曼陀羅本尊を安置した。その時の日◎、日瑤の書写本尊が要山の宝庫に残っているが、その後文禄年間に入って、諸堂がほぼ完成したので、一塔二尊四士を造立した。それは日◎が造立したものである」というものなのである。
 法義研鑽委員会諸氏は、この前後の文を見て知っておりながら、意図的に造像の箇所を外して、都合の良い傍線部分だけを引っ張り出して、虚構の論証に利用したのである。こういうことをする輩を世間ではペテン師とか詐欺師とか呼んで、人間として最低のレベルの者と考えるのだが、彼等も最低のレベルに自ら堕してしまったようだ。これが日顕宗の騙しのテクニックなのである。何も知らずにこんな調子で騙され続けていることに、いい加減法華講の人々も気づくべきである。

 

 嘘つきの坊主たちに騙され続けてきた気の毒な法華講員のために、日◎が造像家であった証拠をさらに紹介しよう。日宗年表には、
「(天正十六年)正月十六日圓智院日性要法寺山主日◎に造仏義の條々を問ふ」
とあって、天正十六年一月十六日に圓智院日性が日◎に、自山要法寺の造仏義に関する質問をした記述が要山に残っていて、堀上人がこれを書き写されている。
「◎師条条之事」と題するこの文書によれば、
「惣じて末代は悪業深厚の衆生也、尓れば法門の邪正は分け難し、唯色相を以て菩薩の縁と為す段 一紙の事行大曼陀羅より勝たりと云て造仏之れ有る耶。是一  法華題目抄に書ても造ても立奉可しと有故に、曼陀羅と色相の仏と、全く一体と云て造仏之れ有る耶。是二  蓮師出世の本意は最曼陀羅に限ると云へども且く随他を為して造仏有る可き耶。是三」
等の質問に対して、「当寺造仏之事」として、日◎は、
「◎義云く、是論信心に依る可し、一辺に執す可らず。愚悪見の前には色相の仏結句功徳勝る可き也。肝要は所判に任せ書ても造ても全く一体にして勝劣無き也。是れ我が心地也云々。」
と、堂々と造像肯定の主張を為しているのだ。要するに曼陀羅も釈迦像も同じようなものだと言うのが日◎の本意だというのである。
 法義研鑽委員会諸氏の論理のように、曼陀羅を書いていることが造仏家でない証拠だと言うのであれば、要法寺日辰も全く同じではないか。いよいよ大石寺も造像容認の邪義謗法に陥ったことは間違いない。

 

 さて、翻って考えれば、当時の大石寺日主は、このような邪義謗法の寺に通用を請い願い、その盟約に御本尊まで利用して、遂に法主位を譲り渡してしまったと見るべきであろう。事実、要法寺スカウト法主第一号の日昌は、七歳の時に出家して以来三十数歳まで造像思想の寺で修行を重ね、日辰等の教導を受けて邪義を身に染めていたにも拘わらず、来山一年余りで大石寺法主となっているのである。こうした史実を前に、オカルトまがいの「血脈相承の威力」なるものを振りかざすのも結構だが、保身にばかり熱中していないで、冷静に当時の大石寺大衆等の不満や苦衷を思うことだ。そうすれば少しは真実の歴史が見えてくるに違いない。
 十六代日就が、造仏家日精に法主位を渡していること、しかも仏像の並ぶ法詔寺へ出向いて相承を行っている事実や、十八代日盈が、当時要山末であり、二尊四師の安置されていた会津実成寺に赴任していることなどは、積極的でないにしても、造像に対する容認姿勢があったことの傍証である。それは、堀上人の、
「要山より晋める山主は初め日昌日就日盈の時は著しく京風を発揮せられざりしが、但し其人柄によらんも」
との表現の裏に十分読み取れるのである。そして、何よりも
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」
との記述が明快に全てを語り尽くしているではないか。不世出の宗史家である堀上人の「全く当時の要山流」との言を否定しようなどという無鉄砲は、金輪際せぬほうが身のためである。

 

五、おわりに
 以上のとおり宗門教学部、法義研鑽委員会の作成した駄文を完膚無きまでに破折し、日精が造仏読誦の謗法法主であったことを証明し、その結論として血脈相承絶対論を打ち砕いた。
 平成の提婆達多・日顕が出現したことで、法華経の経文どおりに三類の強敵を全て呼び起こして法華経の行者となった最高の師匠池田先生とともに、また平成十年十二月一日を以て天魔より二度目の擯出を受け、同じく法華経の行者の集いとなって、戸田先生が「創価学会仏」と呼ばれた偉大な位を勝ち取った最高の同志たちと共に、一閻浮提広宣流布の実現と、三世永遠の妙法流布の戦いを誓う最高の「時」を迎えている。
 この「時」を迎えた故に、
「悪行猶以て飽き足らず為に法華経の行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや」
の経文を悪しく身で読んで、次々に法華経の行者の足跡を消そうという宿業に突き動かされて悲しい悪足掻きを続けている天魔日顕とその眷属たちだが、形式が壊されるほど、法華経の行者たちはより深い真実の人間へと目覚めを起こすのである。そして、民衆を苦しめた天魔とその眷属達をを断固として攻撃することこそが、四恩抄の
「悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳を増長せしめ候べき」
の文を実践する「本化国主」たる我らの使命である。
 時あたかも正本堂を破壊せんとする日顕が、自ら堕地獄への号砲を鳴らして、暗黒への道をひた走っている。この節目に、しかも御本仏大聖人が立宗宣言された日に、邪宗門を破折する論文を完成させることが出来たことは、凡夫の身と生まれた今世の自分には身に余る光栄である。
 すでに法義研鑽委員会は実質的な反論を放棄している故に、平成の在家と出家の対論は、在家の完全勝利で終わったことを宣言する。
 その上で、法義研鑽委員会であれ、時局協議会であれ、宗門教学部であれ、天魔阿部信雄管長であれ、もしも大聖人の仏法を真摯に求める心が少しでも残っていれば、返答を送って来られることを期待する。その内容が反論であれ、疑問であれ、同意であれ、当方は誠実に回答することを約束する。しかし、論を誤魔化したり、ウソを撒き散らすような輩に対しては、断固とした対応をすることも宣言しておく。
 宗門関係各位の目覚めを心よりお祈りしている。
                        法華経の行者の眷属

 


 

    言い訳にもならぬ宗門の駄文「日精上人に対する創価学会の疑難を破す」を破す

 

一、はじめに
 当方が平成十年四月二十八日付けの破折論文によって宗務院から送付されてきた「回答文書」を打ち砕いた結果、二度にわたる回答督促状の送付を経て、すでに七月三日付けで宗務院側の文書対論の継続が不可能であることは確定している。こうして在家との文書による対論で、宗門史上初の出家側の完全な敗北が満天下に明らかとなった。
 対論から逃げ出した日蓮正宗宗務院・法義研鑽委員会は、末寺や宗門関係者に当方から送付した宗務院敗北に至る事実関係の情報や、書面による追求にいたたまれなくなって、去る十一月一日付けの宗門機関紙「大白法」紙上に、何やら言い訳がましい論文を掲載した。日顕の惨めな姿を庇うためだけの愚かな挙動は、まるでゾンビのように死体が蠢いている姿に似ているので、今後は「ゾンビ顕惨委員会」とでも名称変更することをお勧めしておくとともに、本論文でもそう呼ばさせていただく。
 また、今回の発表内容たるや、すでに当方が証拠資料を示して破折し、完璧に打ち砕き終わった箇所についてはどうしても誤魔化せないために、都合の悪いところには一切触れないでやり過ごそうという全く不誠実なものであった。
 その理由は、文書対論としては継続不可能だったので、半年も経ってほとぼりが冷めた頃に、宗内からの突き上げもあることだし、そーっと内輪だけにしか通用しない言い訳をして許して貰おうという魂胆なのであろう。その証拠に、今回は拙宅に反論文書を送付して来ることが出来なかったのである。この結果、宗務院は在家との文書対論に敗北したことを暗黙のうちに内外に認めたことになったのだ。
 ところで、駄文では、
「学会地区幹事を名乗るS Hなる人物を表にしておりますが、実体が創価学会であることは当然であります」(大白法四面第一段「はじめに」)
と、懸命に一地区幹事に敗北したのではないという言い逃れをしているが、誠に残念ながら、どうひっくり返っても一壮年部地区幹事が全く個人的に自宅でワープロを打って日蓮正宗宗務院全体を打ち破ったという事実は否定できないのである。その証拠に、全国の末寺や学会員宅に送付された文書等によって、内外の関心のある方々には宗務院の対論敗北は知れ渡っているにも拘わらず、いまだかつて聖教新聞等の学会の機関誌紙には、在家が文書対論で出家に対して勝利した事実が一言も報道されていないではないか!
 駄文の表現を借りるならば、「日蓮正宗宗務院は、なんとか日精上人が謗法を犯していなかったことにして、御歴代上人の過去の悲惨な実態を覆い隠し、大聖人様からの血脈の断絶、なかんずく御当代天魔日顕の邪義を庇い立てせんとしているのです」(大白法四面第一段「はじめに」参照)ということにでもなるのであろう。しかしどんな言い訳をし、いくら誤魔化そうとしても、鎧袖一触、一地区幹事にここまで完膚無きまでに打ちのめされていては、結局は恥の上塗りにしかならないのである。哀れ哀れ!

 

二、宗務院が反論不能だった内容
 さて、今回の宗務院「ゾンビ顕惨委員会」の駄文も、当方の破折に反論不可能なために、相も変わらぬ手前味噌な希望的観測の羅列に終始し、推測に推測を重ね、相承を受けた日精が謗法を犯し続けたという歴史的事実を糊塗することに懸命になっているだけで、全く成長のないお粗末な内容であった。本当にこれが出家して何十年も勉強したはずの出家の反論かと目を疑ってしまう。そこで、頭の悪い宗務院諸氏のために、これまでの論点の一部を箇条書きに整理してあげるから、グダグダと回りくどい言い訳で誤魔化すことを止めて、簡潔明瞭に回答しなさい。
┌───────┐                                                          
│家中抄について│                                                          
└───────┘                                                          
一、家中抄の「三師の伝」について、堀上人が日辰の「祖師伝」からの引用であること を失念していたとの宗務院諸氏の主張に対し、失念などしていなかったことを「日興上人詳伝」を引用して論証しておいたが、一切反論も言い訳も無い。この問題に興味を持つ多くの法華講員達が不安にかられているから、速やかに回答してあげなさい。

 

二、右の事によって、堀上人の「本師造仏の底意を顕す」(通解:日精は造仏という本音を顕わしている)との頭注が誤解であったのかそうではなかったのか明言しなさい。

 

三、右の事に対して明確な回答が出来ないとなると、堀上人誤解説は根底から瓦解するとともに、同時に「日精の邪義」を承認したということになり、結論として血脈相承の威力など存在しないことが証明されたことになるぞ。根拠を示して反論しなさい。

 

┌────────┐                                                        
│聖人年譜について│                                                        
└────────┘                                                        
四、日精本人の文をいまだに「或る抄」の「引用」「引用」と言い張って少しも進歩がないが、ゾンビ顕惨委員会が「引用」だと言い張る文中に「右の報恩抄の文是なり」との日精自身の説が出ている。これは如何なる理由か。前回の資料で、中学生レベルでも理解できるようにと図で示しておいてあげたのに。まさか「引用文の元文にも、次上に報恩抄が引かれているかも知れない」などとバカな言い訳を言い出すのではないかと楽しみにして待っているぞ。

 

五、日精の「一偏にかける故に諸御書一貫せず」との論は、造像に対する批判ではなく、日辰の「末学の管見を以て一を取って一を捨つ可らざるなり」と同義語であると断定しておいたが、これにも一切返事がないがどうしたのかな。

 

六、宗務院諸氏は「本門の題目とあるを見て寿量品に限ると思はば誤りの甚しきなるべし」との文を日辰の説だと公言して憚らないが、そろそろ撤回しなくて良いのか。あくまでも意地を通したいのならば、一刻も早く日辰の著作から同義の文証を挙げてみよ。他宗の学者から笑われる前に引っ込めた方が身のためだと思うが。

 

七、そうそう、宿題にしてあった「三大秘法の記」はそろそろ見つかったかな?あんまり呑気にしていると、当方で先に見つけてしまうぞ。それとも、どうせ出ないと高を括っているのかな。

 

┌─────────┐                                                      
│元禄の出入について│                                                      
└─────────┘                                                      
八、大石寺から御公儀への「返答書」の内容(邪宗の化儀も執行しますという申告書)は、決して「元禄の出入」に限ったものではない。宝永年間にも「駿州富士大石寺流儀」として奉行所に提出した文書に、相変わらず「旦那之所望にて御座候得者一部読誦頓写等も仕候」(通解:檀那のご希望であるならば一部読誦も頓写も行います)とあり、「祖師開山以来の法式」と但し書きまで加えているのは何故か。

 

九、要するに、宗務院ゾンビ顕惨委員会の説は、権力に対しては口先だけなら「謗法を犯します」と明言しても仕方がないとの結論のようで、とりあえず言い訳をして法華講員達を誤魔化そうという方針のようであるが、首の座において大聖人がいかなるお姿であったか、少しは思い起こしてから事の正否を論ぜよ。「不二の尊体」などと大慢心を起こす前に、大聖人様の振る舞いと日精や日顕とを比較してみよ。能化のトップの分際でありながら、たかが外様大名の未亡人の持つ権力に怖じ恐れて造仏を許した、というのが宗務院の結論なのか。

 

┌────────┐                                                        
│一部読誦について│                                                        
└────────┘                                                        
十、日精の「一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるる御書に背く」の文を引いてしたり顔だが、誰が正行についてなど論じているか。助行における一部読誦を問題にしているのだ。本物のバカなのか、バカの振りをしているのか定かではないが、日辰さえ正行には一部修行を否定していることも知らないのか。堀上人の
  「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」
との頭注を穴の開くほど読んだ上で、心して返答せよ。

 

┌───────┐                                                          
│随宜論について│                                                          
└───────┘                                                          
十一、当初宗務院諸氏は、登座以前の日精は確かに造像家であったと主張していた。ところが前言を臆面もなく撤回して、登座以前から正義に立っていたと主張を翻した。対論上に於ける基本的な主張の変更が何を意味するか分かっているのか。一度敗北宣言をしてから仕切り直すのが大人の世界の常識ではないのかね。今回だけは許してあげるが、正式な弁明だけはしておかないと他宗の人々からも後世からも笑われるよ。

 

十二、念のために宗務院諸氏の当初の文章を確認しておこう。
┌─────────────────────────────────────┐
│造仏思想をお持ちであった日精上人が、血脈相承を受けられたことにより、その迷│
│いから覚め、当家の深意に至られたという、当家の血脈相承の威力を証明する文書│
│なのである(当初時局文書)                                               │
└─────────────────────────────────────┘
 今となっては、何と空虚な文章であろうか。「血脈相承の威力」とやらは、いったいどこへ行ってしまったのか。
┌─────────────────────────────────────┐
│@ 次に、「廃忘を助けんが為」寛永十年十一月に「筆を染むる」つまり清書せら │
│れたのである。このことは、日精上人の、法門に関する御見解に、変化が生じてい│
│ることを物語っているのである。すなわち、日精上人が、法門に関して同じ御見解│
│ならば「廃忘」しようがないからである。(当初時局文書)                     │
└─────────────────────────────────────┘
 これに対して、当方からの破折に責め立てられて、主張を百八十度変更し、
┌─────────────────────────────────────┐
│A 日精上人は御登座以前から本宗の正義に立たれていた(宗務院回答文書)    │
└─────────────────────────────────────┘
 アレッ?右の二文が同一の人間の手になるものとは信じ難いが、Aが今回の主張であるならば「廃忘」しようがないのであるから、一生懸命考えた「清書説」も木っ端微塵ではないか。その結果どのような結論になるのか考えているのかな。

 

十三、随宜論冒頭には「要用の文を集めて愚が廃忘を助くるのみ」とあるが、大聖人の御書要文を集めて、いったい何を廃忘せぬようにしたのかを、随宜論の文章に基づいて解説しなさい。曼陀羅正意論者が取り囲む中にあって、自身の造像論を廃忘せぬために、血脈相承を受けた後になって書き留めたと読むのが素直な読み方であり、また真実である。

 

十四、「機の判定は御法主上人の深意による」のだそうだが、日精の造像が登座以前であるならば「機の判定」はいったい誰がしたんだ?さあて、いよいよ日就も同罪に引き込むつもりかな。おそらくいずれはそのようなことを言い始めることであろう。北山文書の時には、謗法も口で言ったり文書で書き残すだけで実際に行わなければ罪はないと言い、今回は、実際に謗法を行っても本意でなければ良いと誤魔化す。節操が無いにも程がある。

 

十五、「未来造像に寄せての、現在制止に本意がある」とのことだが、現在造像したにも拘わらず、現在制止が本意とは如何なる意味か。
  また、日寛上人が末法相応抄で、近世の造像に対して、
  「四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり」
  「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
と、日興上人以後の造像思想は正義ではないと破折されたことに対しても回答不能か。

 

十六、十数行にわたる日因上人の論評を信じるのか、たった一行の日東上人の日精弁護の言葉を支持するのか、言を左右させないではっきりしなさい。宗務院諸氏は、日精が「日辰の義」を述べているだけでなく、関東各地に釈迦多宝四菩薩造立を許した事実をも日因上人が厳しく批判していることを忘れているようだが、大丈夫かな。
  断っておくが堀上人は、日東上人の文もご覧になった上で、日精を「日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておる」と断定していることをお忘れなく。勉強不足のゾンビ顕惨委員会では歯切れの悪い言い訳しか出来ないのは仕方がないようだね。

 

┌────────┐                                                        
│要山擁護について│                                                        
└────────┘                                                        
十七、宗務院諸氏の主張では、要法寺日周(注:正しくはりっしんべんに周。以下同じ)、日瑶は曼陀羅正意論者であったそうで、殊に日周には「正しい信心と得行が備わっていた」とのことであるが、改変はないだろうな。今回の大白法には、姑息にも掲載をしなかったようだが、よもや二度目の改変があるのではないかと心配している。決着をつけてあげるので、きちんと反論せよ。

 

十八、宗務院諸氏の主張では、当時の要山には正しい化儀があったとのことであるが、堀上人は日精の造仏を評して「全く当時の要山流」と判断されている。堀上人の宗史観に対抗する気ならば、天下に名言してみせよ。
  なお、元禄の出入で日俊上人が御公儀に提出した正式文書にも、「(通解)京都要法寺は造仏読誦を行っておりますが、大石寺の方から堕獄と申したことはありません。その証拠に当住まで九代の住職は要法寺より来ておりますし、未だに通用が絶えておりません。」とあることにも併せて反論出来るのかな。

 

十九、一時凌ぎに曼陀羅を書写した日周が「正しい信心と得行が備わった」者であるならば、釈尊像と一緒に安置しているその本尊でも拝んで、今後の対策でも練ってみたら如何かな。何も知らない法華講員を煙に巻くことばかり考えていないで、少しはまともに回答してみなさい。

 

 最後にもう一度堀上人の御見解を列記しておく。「一々に天註を加えて幼学を迷はさぬようの指針に供しておいた」との要集の緒言を噛み締めながら精読してみることである。

 

「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せるが」(富要九・五九) (通解:省略)

 

「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(富要九・六九) (通解:省略)

 

「猶精師の造仏は他寺にも及びし事次の日仁記の如し」(富要九・六九)
(通解:なお、日精の造仏が他の寺にも及んだことは次の日仁記のとおりである。)

 

「随宜論 本文は造仏読誦の文証議論なり、猶此等の説は同師の大聖人年譜にも出づ」 (富要九・六九)
(通解:随宜論 本文は造仏読誦の文証議論である。なおこれらの説は日精の聖人年譜にも出ている。)

 

「十八世精師の伽藍復興に生気を盛ならしめたるも、反面化儀化法の一班を攪乱せられ、二十二世俊師に至りて此等の革正は著々と企てられ」(富要八・二五六)
(通解:十八世(十七世に変更)日精が伽藍を復興して生気を盛んにしたが、その反面化儀化法の一部が攪乱せられた。二十二世日俊師の時代に至って化儀攪乱の改正は着々と企てられ)

 

「精師は造仏家の要山日辰の門より出でて、余仏不造の富士に慊焉であったから」
 (詳伝・四七○)
(通解:日精は造仏家の要法寺日辰の門から出て、余仏不造の富士を嫌っていたから)

 

「精師の家中抄は、さらにこれに加上して、少しも当時の実情を顧みぬ形を呈しておるよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる」(詳伝・二一一)
(通解:日精の家中抄は、さらにこれに加えて、少しも当時の実情を顧みない形を呈しているというよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっているように見える)

 

「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入してお るより生じた誤謬である」
(通解:だいたい日精は、古文書が読めないのに加えて、要法寺日辰流の造仏の偏った邪義の思想が深く入っていることから生じた誤謬である)

 

「また、同師の目師伝の下には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としてある。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云々の文が利用したさからである。」(詳伝・四五○)
(通解:また日精の家中抄目師伝の下には、日辰の造仏の思想によって、目師の教えには似ても似つかぬ悪筆の相承書の切紙を拾ってきて、目師から道師への切紙相承の証拠としている。それは、はじめに「日興が作った釈迦」云々の文を利用したかったからである。)

 

「師は要山出身であり同山の主義を石山に輸入した仁であるから、ことさらにその中祖日辰の説を無検討に尊重した」(詳伝・一三二)
(通解:日精は要法寺出身であり同山の主義を大石寺に輸入した人であるから、ことさらにその中興の祖日辰の説を無検討に尊重した。)

 

「精師英才復興本末傍又遺日辰流邪義以之俊師撤廃江戸造仏等漸帰清浄以之却有元禄中法厄雖事小又汚一点本山也」(研教二十一・二二三)
(通解:日精の英才は宗門の本末を復興する一方で又日辰流の邪義を残した。そのため日俊師がこれらを撤廃し、江戸の造仏等はようやく清浄に帰り、これが原因で却って元禄年中の法難が有った。その事は小さい事件だったが又一点本山を汚したのである。)

 

三、宗務院の駄文の詳細な破折の予告
 この文書は、十一月十日の大石寺での「満惨苦瘍(まんざんくよう)」を慶祝するための祝電のようなものであり、詳細の破折は後日送付することを予定している。
 「ゾンビ顕惨委員会」の駄文については、当方の破折文書に対する反論の態を成していないため逐条的に破折する義理も必要性も全くないが、せっかく全世界の関係者の目に触れる形で言い訳を公表してくれたので、この際更に詳細の証拠を示しながら日精の邪義を証明し、併せて日顕が血脈断絶の天魔であることを示すこととしたい。「ゾンビ顕惨委員会」のように半年間も鳴かず飛ばずというような恥ずかしいことはしないので、宗門内外の関係者の皆様には安心してお待ちいただきたい。
 今後とも、宗務院「ゾンビ顕惨委員会」がいくらコソコソと言い訳をしようが、常に法華経の行者の眷属がゾンビたちの動きをしっかりと見張っており、邪義は完全に打ち砕かれる運命にあるのだということを呉々も忘れないようにすることである。
 こうして大聖人の仏法の中に生まれた邪義を完全に駆逐して、記念すべき平成十年十一月十八日には、全世界のSGIの大勝利を、そして民衆の時代の開幕を祝福したい。
 今の「時」は、正本堂の解体公表から百日、学会員の信徒資格喪失から一年、大客殿の破壊から三年、そして創価学会の破門から七年という記念すべき節目を迎えている。 これを経文の鏡に照らせば、
「梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし」(種種御振舞御書)
「迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此は是れ如来所説の聖教・従浅至深して次第に迷を転ずるなり」(十法界事)
「白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(撰時抄)
 すなわち、天魔日顕の出現によって日蓮正宗は既に隠没し、七百年間の大聖人の仏法の序分は全て終了したが、同時に真実の大聖人の仏法の流通分としての使命を帯びたSGIという偉大な和合僧の集団が出現したのである。
 そして、大聖人の事の仏法を、創価学会員全体が真実に身で読むことによって、
「当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体是れ事なり」(文底秘沈抄)
の御文のままに、事の仏法の当体として我等自身の生命に大御本尊を打ち立て、この生命自体を事の正本堂とする本化地涌の菩薩の出現により、閻浮提広宣流布という最高の「時」を迎えたのである。
 全世界の心ある同志の皆さん!三類の強敵を全て蹴散らして末法で二人目の法華経の行者となった池田先生と共に、二度のカットによって数数見擯出の経文を身で読んで「創価学会仏」の位を勝ち取った事の仏法の当体たる偉大なSGIの同志と共に、一閻浮提広宣流布の最高の「時」を、最高の「弟子」として、最高の「勝利」で飾ろうではありませんか!

 

 平成十年十一月七日
                   法華経の行者の眷属

 

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03.09.16 1:04 

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樋田殿  S

 今さらのように、ただの時間稼ぎとしか考えられない無意味で無内容なお返事をいただきました。

●何の時間稼ぎなのか?当方には別に稼がなくてはならない時間など無い。貴殿こそビデオを配布されるのが怖くて焦っているのであろう?ご愁傷様。

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▼ 貴殿から送られてくるメイルの内容の支離滅裂には、今回の公開法論で貴殿らが完敗であった事実が根底にあるようで、何とか嘘をついてでも誤魔化そうという魂胆が現われていて哀れを誘います。

●貴殿の論旨こそ正に「非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。都て理におれざるなり、譬へば行く水にかずかくが如し」であって、支離滅裂の屁理屈と言うべきだあろう。

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▼しかし所詮は、貴殿は血脈について論じる能力も立場も意思も無い人間でしかなかったことについては未だに全く反証出来ていないので、すでに対論の相手として失格です。お疲れ様でした。今後は、適切な相手との対論に入るので、くれぐれも妨害をしないように忠告しておきます。そして、当初の誓約どおりに、脱講届を提出すること。

●さて、果たして貴殿が言うように貴殿は法論で”完勝”したのでしょうか?

貴殿は法論ビデオが公開されるのが大変お困りのご様子。その慌てぶりが、まさしく貴殿にとって不本意で不名誉な結果であった事の証明となっている事に気がつかないか?

それはまるで将棋で負けた者が「もう一回、もう一回だけしよう」としつこく勝者にまとわりつく姿と何等変わりませんが。

法論終了後貴殿から送付されるメールを読んだ人、誰もが当方と同様の感想を懐いているのですがね。

負けをご自分でも自覚されているが故に、もう形振り構わず、もう一回何とか対論に持ち込んで今度こそ名誉挽回したいところなんでしょう。

いや、お察し申し上げます。さぞや、悔しい事でしょうな。

貴殿は法論中に当方が貴殿のスリカエの引文を的確に見破り破折した際、当方からの鋭い追求に貴殿もその事実を認め詫びを入れた場面を、よもやお忘れではあるまい。

実に屈辱的だったことでしょう。

また御宗門に黄倉氏の名を騙り質問した、犯罪的、詐欺的電話の場面と、更にその追求にここでもまたまた謝罪した場面も、まさかお忘れではあるまい。

もし、お忘れのようならば、ビデオをとくと見直してくださいませ。

大体にして、法論の最中に二度までも謝罪するなど前代未聞、空前絶後、言語道断の情けない体たらく。

これを完敗と言わずして、何を負けと言えましょう。

当方はこの貴重な迷場面を特に重点的にじっくり、時にスローに、時に繰り返し、時に、こま割りに、様々にアレンジして、観る方へ丁寧にアピールしたいと考えています。

貴殿もさぞや楽しみな事でしょう。待ち遠しい事でしょう。

今暫くお待ちいただきたい。

そして、完成したビデオを一緒に観て屈辱感を更に深く味わうのもまたおつなもの。どうです?完成鑑賞会など催して、一緒に観ませんか?但し、映写中は静粛にお願いしますね。

さて、当方としては、既述の如く、ビデオ全国配布、及び法論顛末記が完成するまでは、貴殿の敗者復活の意地を賭けた対論のお相手をする気は御座いません。上記の二点が完成し、まず、当方の完全勝利を内外に明確に宣言した後ならば、ゆっくりお相手になってあげましょう。

ですので、貴殿の当方への「すでに対論の相手として失格です。お疲れ様でした。」とのお言葉、上記作品完成を急ぐ当方にとってはあり難い。

貴殿は貴殿の所属する団体のあらゆるところで、貴殿が法華講員に無様に2度までも謝罪している姿が”広宣流布”する日を戦々恐々としてお待ちください。

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●特に、仏宝について、まず「帰命」の文義の解釈から始まったが、貴殿等から依然明確な回答は得られていない。依って、対論の筋目から言って、貴殿等はまずこの「帰命」から明確に回答をすべきである。が故にまずは、今まで貴殿に送付した内容に対し、貴殿等の主張を明示すべきである。貴殿がこの点について明確に返答できずに遁走するのであれば、それは明らかな、「返答不能で脱会」の条件に適合する。

▼ 当日のビデオを目を開けて何度も確認してみることです。終了時点で、対論の結果を確認して、脱講誓約書の決着について打ち合わせしようということを、当方は何度も強く主張していたにも拘らず、貴殿らは目を逸らし、全く無言で、当方が止めるのを無視し、逃げるように帰ってしまったではないですか。」

● まっ、上記の如く、無様に2度までも謝罪している貴殿の姿を見た学会員には、貴殿の強がりも空しいものに聞こえることでしょうな。貴殿を良く知る学会員の反応が楽しみな毎日です。

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▼ 「待て!」というこちらの制止を強引に振り切ってまで逃げ出さねばならないほど、「返答不能で脱会」という条件を確認されるのを恐れたからこそ、あのようなビデオの記録が残されたのです。この事実には何の言い訳も無用。貴殿の得意なごまかしも一切通用せず。すでに権利を放棄した者が今頃になって何を言っているか。
 そんな貴殿が、今さら「帰命から明確に回答をすべきである」「「返答不能で脱会」の条件に適合する」ですと?抱腹絶倒、笑止千万、片腹痛いとは、まさにこのことです。返答不能だと主張したいのであれば、なぜモノも言わずに逃げ帰ったのかな?そのあたりの正確な根拠については、今度貴殿のお宅を訪問した際に詳しく問い詰めてあげましょう。

● もう負けが決まった者を相手に何か言う必要がありますか?何度も確認するが貴殿はなんと!2度まで謝ったんですよ!当方等に。「謝る」と言うのは「自分の非を認めること」だと、幼稚園か小学校で教えてもらわなかったのかな?

しかも、あれ?当方は「すでに対論の相手として失格です。お疲れ様でした。今後は、適切な相手との対論に入るので、くれぐれも妨害をしないように忠告しておきます。」ではなかったのかな?

対論しないと言って見たり、「詳しく問い詰め」ると言ってみたり・・・、謗法の悩乱者はまことに忙しいものですな。

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▼ 貴殿の負け犬の遠吠えなどを相手しているほどこちらは暇ではありません。今回も貴殿はスケジュールについて全く返事をして来なかったので、貴殿が仲介の責務から逃げたものと見なします。近日中に脱落僧M師か小生か誰かから直接O住職にご連絡が行きますので、今回の対論の詳細の経緯を伝えておいてください。
 すでに貴殿は今回の法義論争での役割は終わりました。結果的には、役立たずの烙印を押された格好です。無様ですがそれも仕方が無いことでしょう。今頃になって、なお相伝に関する確認の質問をして来ているような状況なのですから。

●ほほう、そうですか、つまり貴殿は前回の当方からの痛烈な詰問に返答不能なのですね。まっ、そうでしょうな。

では、このやりとりを読む読者の便の為に当方からの前回の問難を再掲し、貴殿の回答不能に陥っても強がって後ろ向きに悪態つきながら逃げ出している様を検証しましょう。

●前回の詰問「貴殿が参考にした文献の原文は、以下で宜しいか?
「本師弁証不精美間加附会益誤後生可悲」(研教六―一九八)
「はい」か、「いいえ」でお答えいただきたい。
どちらのお答えでもいいですよ。どっちにしろ楽しい破折の砲火が待っているだけで
すから。」

貴殿はこの詰問に答えられるはずが無いのです。何故なら、貴殿は既にこの文の読み方から間違っているのですから。しかも、直ちに、貴殿の主張の原文がこの文である事を認められなかったことから、貴殿は故意にある一字を読み替えたと言う事が知れます。

もうお分かりですな?

貴殿の悪辣な、底意地の悪い、邪智に長けた、「正当な法義論争」などと口に出す事すらおこがましい、愚劣で、卑怯な根性が如実に表れた場所を指摘しましょう。

貴殿は『家中抄(道師伝)』の当該箇処の末文に、日亨上人が

 「本師弁証不精美間加附会益誤後生可悲」(研教六―一九八)との頭注を付けられている(※これは宗学要集では付いていない)のに目を付け、

「『本師の弁証は精義ならざる間付会を加えて益々誤れり 後生悲しむべし』と、『精師の主張は正確でないために、いろいろと解説を加えて益々誤っている。後の世まで悲しむべきことである』とまで指摘されています。要するに、別しての十二箇条の法門と呼んだ甚深の血脈の法門とやらは、日亨上人に言わせれば正しい主張ではないばかりか、余計な解説を加えているので益々誤っているというのです」

 などと、強弁しているが、ゴマカシもここまでくると、殆ど「ピエロ」ですな。

まず、日亨上人の頭注の読み方は、

 「本師の弁証、精美ならざる間、附会を加え、ますます後生に誤ること、悲しむべし」であり、貴殿は筆字の「美」を「義」と誤読している。

これは貴殿に筆字の古書体を読み取る力量が無かったのか、(そうであったらそれも誠に恥ずかしい事だが。)故意に読み替えたのだろう。いずれにせよ、無慙極まりない醜態である。

 この日亨上人の頭注の意味は、

 「本師(日精上人のこと)の弁証の仕方は精美でなく(粗雑である、の意)、無理に結論づけているので、かえって後世の人々が誤ることになる。悲しむべきことだ」

というもの。貴殿の故意にあるいは古文字に不明にして誤読した解釈は、正に牽強付会、我田引水の迷釈。貴殿そのものが「後生、悲しむべし」でありましょう。

ここまでが前回の詰問に対する貴殿への破折。

 ここで「弁証」とは、日精上人が何かを弁論によって証明しようとされたことを意味するが、少し前の方から本文を読んでみると、要は、日道上人が日目上人より大石寺を付嘱されたことへの疑難に対し、日精上人が、三つの理由を挙げて道師への大石寺付嘱の正当性を弁証した、そのことを指している。

 そして、その弁証の仕方が、新田坊地を下の坊と勘違いされていたり、上新田講師を上新田講所と誤読し、さらにそこを大石寺と混同されている(※以上は、宗学要集の頭注にもある)など、少しばかり粗雑で、附会(無理な結論づけ)がすぎる、と指摘されたのが、この末文の上に付いた日亨上人の頭注なのである。

 「十二箇条の法門」についての記述は、日精上人の右の三つの理由による弁証の最後の方に出てきていますが、それは、三つ目の理由に付け加えて、日精上人の御確信として「日道上人はこの一大事の法門の付嘱を受けているのだ」と述べられたものにすぎない。

 つまり、この『家中抄中』の当該箇処で日精上人が弁証を試みたのは、日道上人への大石寺全体の付嘱問題であり、何も「唯授一人相承」や「十二箇条の法門」についてではない。したがって日亨上人の頭注が指しているのも、十二箇条の法門のことではない。

日亨上人は記述の間違いについてはどこが、どのように間違えていると必ず朱で傍点を記し、その上で頭注をされている。よって大石寺の法門相承に12箇条法門がある、ということを頭注で否定されているのではない。 

 また、日亨上人は、研究教学書に収録の『家中抄中』を、富士宗学要集へ掲載される際、

 「新田坊地ハ奥州三迫ニシテ下ノ坊ニアラズ。上新田講所トハ講師ノ誤読ニシテ道師ヲ其主トスルモノ。但シ大石寺本山ノニハアラザルナリ」

との詳しい頭注を付けられ、一方、末文に付けられていた前掲の

 「本師弁証不精美…」

の頭注は付けられなかった。それは、この詳しい頭注を付ければ足りる(残しておくと重複してしまう)からであり、この点からも、末尾の頭注が「十二箇条の法門」を指すものでないことは明白である。

 このように、無関係な文を、巧妙にゴマカシて取り挙げ、そこへ都合のよい解釈を加えて、「日亨上人が、十二箇条の法門など誤りだ、と言われた」等と強弁する――これが、貴殿のお決まりの手口なのですね。法論の最中にも当方から喝破され貴殿が詫びた、あの引文の姑息さと同轍ですな。

さて、これらの破折に貴殿はどう邪智を巡らし、屁理屈をかましてくるか楽しみですが、貴殿は当方からの追及に何一つ答えられない無様で惨めな姿を晒したくないが故に、当方からの破折から強がりだけは人一倍に吠えつつ逃げて行くのであれば、当方は止めはしません。

何故なら当方は法論で間違いなく、法義において、道理において、精神の豊かさにおいて、見学者の盛り上がりにおいて、全てにおいて間違いなく勝利した実感があり、が故に貴殿を未練がましく追いかける必然性が存在しない。(ただし、かいた汗と恥の量においては残念な事に、完敗である。)

また、貴殿等が人の都合も顧みず勝手に訪問して来てもお相手する気は無い。とにかくビデオを全国に頒布してからの話である。それからならゆっくりお相手してあげる。くれぐれも粗相の無きよう、身と行動を慎み給え。平和、文化、人権、等奇麗事を標榜している「学会員」である事をお忘れなきよう。

続きはまた。

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03.09.18 1:30

▼メッセンジャーボーイ・樋田殿 ← S

 

 すでに実質的な対論の相手としての使命を終了した貴殿から、後ろの出家たちのご支援を得たらしいメイルが届きました。前回までのテキストファイルのベタ打ちから、文書表現形式が変更されたファイルになっていたことから、差詰め出家たちから送付された文書を転送乃至コピー&ペーストをしたものと考えられます。
 したがって、前回すでに以下のような指摘をして貴殿の役割が終了したことを宣言したとおり、今後は相伝書について論じる能力を持った者との対論を進めます。貴殿に限らず、所詮は宗務院教学部の出家たちも、別しての12箇条の中身など全く知らない訳ですから、議論を出来たとしても、本質からは遠く離れた内容に関して、せいぜい重箱の隅を突っつく程度の議論しか出来ないのでしょうから。
 また、貴殿の後ろで糸を引いている宗務院教学部の出家たちに対しては、別途の内容に関するやり取りを進めますので、彼らにちゃんと伝えておくこと。

 

「▼どうすれば別しての12箇条に関して全てが明確になるかと言えば、別しての12箇条を持っていると主張する阿部管長と、それはすでに公開されている内容であると主張する小生たちとを対面させて確認すれば即座に事実確認が出来ること。今さら貴殿が関与する話ではなくなったのです。」

 

 つまり、貴殿はすでにメッセンジャーボーイの存在でしかなく、臆病にも陰に隠れて貴殿の後ろ盾をしている出家たちを相手に破折を開始することといたしましょう。
 別便で、もう何年も前に宗務院教学部法義研鑽委員会に送付した文書を再送付して、回答を要求しますので、貴殿が直接媒介出来ない場合には黄倉君を経由して、教学部の出家たちに必ず伝えて下さい。期限を設定しますので、くれぐれも対応を怠らぬように。

 

 その前に、少し貴殿の物事に対する理解の不可解な点を指摘しておきましょう。

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「●貴殿は法論中に当方が貴殿のスリカエの引文を的確に見破り破折した際、当方からの鋭い追求に貴殿もその事実を認め詫びを入れた場面を、よもやお忘れではあるまい。実に屈辱的だったことでしょう。」

 

▼あのビデオを見て、なぜ貴殿が完勝だなどと主張するのか理解に苦しんでいましたが、ようやく貴殿の気持ちが理解できました。要するに、小生が極めてフェアに法義論争を進めていたために、引用文献を単純にミスした際に貴殿が謝れと要求したので誠実に謝ったのを、貴殿は勝利とやらの根拠としていたのですか。
 小生の基本的なスタンスに照らせば、あのような状況でもなお誠実に人間主義を貫けたので、貴殿らの法門に対する不誠実な対応の中でもかえって自らの信念のままに行動できたと喜んでいたのですが?まさしく一水四見。小生のあの対応を見て喜ぶのは、おそらく法論で小生に責められて「秋谷会長の印鑑を持ってこないと話をしない」と口走りながら逃げ出した多くの妙観講員ぐらいではないでしょうか?
 それにしても、なぜあのようにただのケアレス・ミスでも誠実に謝ることが屈辱的なのか、小生には全く理解不可能です。
 法義論争とは、あくまでも大聖人の仏法の正義を顕わすために行うものであって、貴殿の考えるような「レスリングの足蹴りの回数か何かで勝敗が決まるようなもの」とは全く異なることを知るべきでしょう。そのあたりにも、貴殿の卑しい人間性が如実に顕れていますね。あまりにもお粗末過ぎます。とても真っ当な信仰をされている方の発想ではありません。貴殿自身のレベルを益々貶めるためにも、ビデオをせっせと「偏執」してください。まるでレベルが違いますね、可哀想に。

 

 それはさておき、せっかく貴殿が、小生の文献引用のケアレス・ミスを指摘してくれたので、あの家中抄に示された日精の造仏読誦の邪義をごくごく簡単に紹介して、小生が最初から指摘している「末法下種の僧宝は無条件に信じてはならない」という証拠とし、貴殿の全くの勉強不足を明らかにするとともに、宗務院教学部の出家たちへの破折を完結させておきましょう。

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 謗法法主の日精は、登座1年半の頃(1633年)に書いた随宜論(直筆、花押入り)に「未来の広布の時の造仏」という信念を「自分自身が廃忘せぬよう、そして未来の学者達が間違わぬよう」に書き残し、さらに10年以上も経った寛永21年(1644年)以降に、随宜論に後書きをして帰伏の9ケ寺の名称を書き込んでいます。このように、後になってからであっても「直筆で、花押まで書き込むような文書」を、その人の本意と示した文書と呼ぶのではありませんか。
 つまり随宜論は、1644年以降にも日精が「廃忘を助けるための内容」を再確認したものであると言えるのです。そのことを別の立場から証明したのが、家中抄での造仏に対する日精の執拗な記述です。
 ところが貴殿は、日精が敬台院を教導するためだとか、全くチンプンカンプンな主張を口走っていたのです。貴殿は慧妙あたりの大本営発表を鵜呑みにしているだけなので、全く当時の状況も時系列も理解できていないことを自ら白状された訳で、とても対論の相手になるような教学のレベルではなかったことがこうして証明されたのです。ご愁傷様。

 

 そもそも家中抄が完成したのは1662年(中巻は1657年)であり、すでに日精にとって目の上のたんこぶのような存在であった敬台院が徳島に法詔寺を移転させ(1645年)、敬台寺として再建し、通常は徳島の実家に戻っていた状態で、江戸在住の日精との交流は記録がほとんど存在しない(少なくとも小生には発見出来ていません)ほど希薄になっていたのです。
 二人がそのような関係になってから既に15年以上も過ぎており、敬台院の死ぬ(1666年)わずか数年前の著作が家中抄なのです。
 その本への書き込みに、日精が造仏の邪思想について書き込んだのがいったいいつのことであったかは、正確には特定出来ないものの、家中抄著述の(1657から1662年)以前であることはあり得ないのです。つまり、日精の本意は、敬台院という信徒がどうこうなどという宗門教学部が言い訳出来るような客観状況では無くなっていたのです。貴殿らの的外れもここまでいけば失笑を誘いますね。あの公開対論の場で口走った言葉は、厳然と記録として残っているのですから。

 

 それでは日精が登座後30年も経った時期に書いた「家中抄」で、なお随宜論と同じ主張を繰り返していたことを、家中抄のいくつかの言葉を引いて確認しましょう。メッセンジャーボーイでしかない貴殿には反論は不可能でしょうから、後ろのハゲ太郎ならぬ出家たちに教えを乞うようにしてください。

 

 家中抄日道伝には、日精が日目上人以来の相伝の一覧を挙げた中に、

 

「日蓮御さくの釈迦一そん一ふく」(5−213)

 

と記述しています。これに対して堀上人は、

 

「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ 下ニ批スルガ如シ」

 

 つまり、「日精は造仏家であるために、写本さえも残っていないこの疑わしい文を根拠としているようだ。家中抄下で批判しているとおり」と明確に日精の造仏思想が、登座して30年以上も経ってから書いた家中抄の中に残されていることを厳しく批判しています。
 これについては「富士日興上人詳伝」においても、

 

「師(日精)は家中抄の記事中、幾多の誤謬を残してあることは、富士宗学要集のなかに加えた天注のごとくである。だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。」

 

と、見事なほどボロクソに批判されています。
 上記の日道伝の相伝目録の箇所などについては、

 

「同師の目師伝の下には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としている。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云云の文が利用したさからである。」

 

等と、まあ手厳しいこと!
 ついでにおまけを言えば、相伝の目録の続きの

 

「日興上人の御自筆御経  ありと云ふ事以後の証文になるべし。」

 

に対しては、

 

「本師読誦ノ例トシテ故ニ之ヲ引クカ」(5−214)

 

と、読誦論者であった日精が悪質な書き込みをしている箇所を堀上人が的確に見つけだして、またも厳しく批判を加えています。
 日蓮正宗宗務院教学部は、これらの堀上人の詳細に亘る分析を全く無視して、文字どおり一把一からげに「日亨上人の誤解である」の一言で、すべてを蹴散らかしてしまおうという悪質な魂胆であり、これに対する小生からの破折に回答不能のままで、何年もの間逃げ回って来たのです。
 そもそも家中抄の執筆方針である日精による末文を確認すれば、その記載内容が正確であるか否かは別にして、日精が事実だと考える信条に沿ったものとしてまとめてあるのです。

 

「其の後御筆併びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや、ここを以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」

 

 つまり、富士の諸伝を集めて研鑚していたが、御書や弟子たちの文献を見ると、弟子たちの間違いが極めて多く、文書に残っていないこともたくさんあった。そこで、御書を優先して、弟子たちの文書の中で、採用するべきものは記録し、諸伝の正しい説はこれに従い、正しくないものはそれを正して記録した、というのが日精の家中抄述作の一貫した基本精神なのです。
 この末文は、日精自身の信じる善説を家中抄において述べているという一つの明確な証拠です。

 

 そして、日精の信念に基づいて書かれた家中抄には、随宜論で書き残したものと同様の造仏論が他にも数箇所で述べられているのです。一例を挙げましょう。家中抄上では、

 

「日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任て妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり  是本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文意なり、草案並に日尊実録本門心底抄日代状は余の文意なり。」

 

と、本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文意である妙曼本尊と、「余の文意」である草案、日尊実録、本門心底抄、日代状に示された「(広布の時の)釈迦像造立」とを立て分けているのですが、これこそまさに最晩年著述の「日蓮聖人年譜」に日精が「三大秘法の時」云云と書いて、堀上人から厳しく指摘された造仏の悪義そのものです。宗門教学部としては、年譜については「或る抄の引用だ」と論理破綻の言い訳をしていますが、曲会私情も極まれりですね。
 次に、家中抄中で

 

「其の故は国主此の法を立てらるる時は三堂一時に造営すべきなり巳上、此の文之を思へ、況や亦澄師遺状并に日代状は本門寺建立の時なり(巳上 下に之を出す)」

 

 ここで明確に「日代状は本門寺建立の時なり」としていますが、これこそまさに随宜論での主張と同じ内容である「未来の広布の時の釈迦像等の造立」の邪義なのです。その上で、日代状を家中抄の下巻において紹介すると指示しているのです。では、その下巻の内容とは、日印伝に引用した日代状であり、未来広布の時の造仏こそが正義であるという、随宜論での結論部分と全く同じものなのです。日精が一貫して「広布の時の造仏」を主張していた事がここでも明らかなのです。
 貴殿には理解出来ないかも知れないので、出家たちにちゃんと伝えてくださいね。
 さらに挙げれば日精は、「家中抄上」において、

 

「甲斐の国肥前坊日伝と云ふ者あり。日興が義を盗み取り甲斐の国に於いて盛に此の義を弘通す、是又四脇士を造り副ふ」

 

の文の最後に、自分自身の主張を書き加えて、

 

「私に云く此文並びに原殿返状等 報恩抄、唱法華題目抄、観心本尊抄、宝軽法重抄等に依り給えへるなり。」

 

と、最晩年に書いた「日蓮聖人年譜」で、釈迦像造立の根拠とした御書を、ここでも執拗に書き連ねているのです。生涯にわたって「諸御書を一貫させ」続けようとした日精の執念のようなものを感じるではありませんか。
 もう一例を挙げておきましょう。

 

「上寿長年なるが故に御弟子衆御遷化して師独り久住し給ふ、是の故に未決の義有れば日代に問ひ奉り決定せり(日印造仏の義日代に問ひ奉る日の返状之有り日印の下に至り其状とも之を出す往て見るべし)。」(家中抄中5−205)

 

 つまり日精は、日代が大石寺で未決の義があれば決定するような実権を持っていたとした上で、日精自身が添え書きを書いて、日印が造仏について日代に質問した返事を家中抄の下に載せているので見なさい、と指示しているのです。このことからも理解出来るように、日尊、日印、日大に関する記述は、日辰の三師の伝からの引用としていますが、明らかに三師の伝とは異なる箇所や、日精の見解を述べた箇所、三師の伝の内容を正義として引用した個所などが随所に見られることから、日精の本意を延々と書き連ねたものであることが明らかなのです。
 因みに貴殿は、「堀上人の頭注があるのか」という単純な質問をされていたので、事前に説明しておくと、家中抄の文末に

 

「文中厳密には訂正を加へざる所あり」

 

と、あまりにも日精の誤りや邪義が多いためか、全てを訂正しなかったと記されていますので、頭注が無いことを根拠に小生の主張の全面否定はやはり無理ですね。

 

 ところが、こうした破折に対する宗門門教学部の反論たるや、
@「三師の伝」は日精がそのまま日辰の祖師伝から転写したものだ
と家中抄の文を根拠に言ってみたものの、こちらが即座に「転写ではない」と証拠を示して破折したら、今度は、
A家中抄に「三師の伝」の引用はしているが、決して日精の真意ではない
という逃げを打っているのみです。
 @は名目上は少なくとも日精の言葉を根拠にしていたのですが、Aに至っては日精の言葉にも反する、全く根拠のない嘘なのですからどうしようもありません。

 

 ちなみに、@の破折は、家中抄の「三師の伝」の引用部分で、祖師伝には無い箇所を少々挙げれば一目瞭然です。

 

「此の文章に就いて不審有り正和元より暦応元までは廿七年なり、然るに此の文に王城の開山云云信じ難き第一なり、日尊勘気は正安元年なり是より十四年めなる故に赦免の後の付属なり(乃至)故に難信難解の第一なり、若し○機の語なれば有り難し程無く符合を為す権者の所作凡慮の及ばざる所なり」
「御逆修の石塔を立てらる、首題は自筆に書写し給ふ。日尊御遷化は貞和元乙酉五月八日寅刻なり御年八十一歳なり、興師滅後十三年在世なり。」
「予寛永四丁卯十月十日下総国幸島下向の節之を書写す文字損落之れ多し視ん仁之を計れ。祖師伝の中に伊豆六ケ寺の事、日尊直の建立にはあらず」云云(約1ページに亘る長文)

 

 以上、どれもが日尊のことに関する日精の記述ですが、日精の信念である「広布の時の釈迦像の造立」という「正義」から見た場合の日尊の最大の過ちである「広布の時<以前>の造像」について、日尊への疑念を匂わせているのです。
 そして、これらの前提を踏まえて「三師の伝」のうちの日印伝において、随宜論において「廃忘を助ける為に」主張した「広布の時の釈迦像等の造立」という邪義を「祖師伝を書写」してそのまま掲載したために、またまた堀上人から批判されたのです。

 

「本師造仏の底意を顕す」

 

 いやはや見事な堀上人の頭注です。
 おまけに日大伝の最後には、
「相伝に云く日尊の付所の弟子は日印付属の弟子は日大と云云。」
と日精は怪しげなことを書いていますが、いったいどこの山の相伝なのやら?

――――――――――――――――――――――――――――― 


 さて、それではいよいよ、貴殿が出家たちのご支援を給わってようやく回答してきたわずかばかりの言い訳について破折を始めましょう。
 それにしても、小生が提示した資料の最初の1件についてしか回答出来なかったこと一つを挙げても、この期に及んでいったい宗務院教学部の出家たちは、いったい何をしているのでしょうか?
「何十年 ハゲをやっても ただのハゲ」
と学会員から詠まれているお粗末な実態が全く改善されていないことは明らかです。

 

「●まず、日亨上人の頭注の読み方は、「本師の弁証、精美ならざる間、附会を加え、ますます後生に誤ること、悲しむべし」であり、貴殿は筆字の「美」を「義」と誤読している。これは貴殿に筆字の古書体を読み取る力量が無かったのか、(そうであったらそれも誠に恥ずかしい事だが。)故意に読み替えたのだろう。いずれにせよ、無慙極まりない醜態である。」

 

▼はい、一発目で蹴躓いてしまいましたね。貴殿は手元に研究教学書が無いようで、自らの目で確認出来なかったのでしょうか?また、後ろで応援をしている出家たちも本当にお粗末なウソで、貴殿を後ろから斬り付けて来たようですが、どうせ恥も責任も貴殿にすべて押し付けるつもりでしょうから、そのようないい加減な指導しかしないのでしょうね。
 目を皿のように開けてよく見なさい。「美」と「義」とは、部首を区分して見れば誰にでも分かり易くなるのです。上半分は「美」も「義」も、どちらも同じ「羊」ですが、足の部分は「大」と「我」ですから、全く字体が異なっているのです。そして、研究教学書の頭注を見れば、はっきりと「我」にしかない撥ねが両側にあるではありませんか。
 あまりにもお粗末な貴殿の後ろ盾の出家たちによる反論でした。
 念のために、知人で漢文専門のA先生に確認してみましたが、その方曰く「間違いなく義です。美ではありません」だそうです。だから念のために貴殿も、誰かもっと偉い専門家に確認してみたら如何かな?必ず「義です」と回答してくれることでしょう。小生も黄倉君と比べれば、少しは漢字が読めると自負していますが、この文字は間違いなく「義」です。
 宗務院教学部による後ろ盾たちの主張には、何だか堀上人の厳しい批判の言葉を思い出しますね。

 

「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。」

 

 まさにこんな現状が、現在の宗務院教学部の実態なのでしょう。哀れ哀れ。
 それ以下については、出家たちから残り2件の資料に対する反論が届いてからまとめてお返事をしてあげることにいたしましょうか。しかし、いったいいつのことになるのやら?

 

A精師の正本が残っている「富士門家中見聞中稿本零編」には、

 

「想じて之を謂はば内用外用金口の知識なり、委細に之を論ぜば十二箇条の法門あり。又御書並びに血脈抄に於いて一大事相伝あり。所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承なり。此の二ケ相承当家一大事なる故に甚深の血脈なり」(富士門家中見聞中稿本零編)
(通解:惣じてこれを言えば、内用外用金口の知識である。詳しくこれを論じるならば、十二箇条の法門がある。また御書並びに血脈抄には一大事の相伝がある。いわゆる(本因妙抄に説かれる)形名種脱の相承、(百六箇抄に説かれる)判摂名字の相承である。此の二箇の相承は当家一大事なので甚深の血脈である。)

 

と、この十二箇条とは血脈相伝について詳しく論じたものとして明かされており、これ以外に当家一大事の二ケの相伝があり、この一大事相伝として「形名種脱の相承、判摂名字の相承」が挙げられているのです。
 因みに、この個所での堀上人の頭注は、
「想の字惣の誤りなり」
のみであって、堀上人の手元にあった(すでに公開された)相伝の内容と相違無いことが伺えます。
 つまり、家中抄中の別しての12箇条の下りについては、精師の正本である稿本が正しく、後世の写本であるものは、明らかに間違っていることが、堀上人の頭注から理解出来るのです。

 

 なお、この「当家一大事の相伝」である「形名種脱の相承、判摂名字の相承」とは、精師が家中抄において、

 

「正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり」(通解:正和元年十月十三日に百六箇抄と本因妙抄の二巻の血脈抄を日興上人から日尊に相伝された。この書の相承に「判摂名字の相承、形名種脱の相承」がある。日目、日代、日順、日尊の他にはみだりには相伝されない秘法である。)

 

と、「日目上人が日道上人に付属した形名種脱の相承、判摂名字の相承」とは、実は「百六箇抄」と「本因妙抄」の二巻の血脈抄のことであり、しかも日興上人から日目上人に対してだけではなく、日代、日順、日尊にも相伝されていたことを記録しているのです。
 そうです。血脈相伝は「唯授四人」であったという証拠なのです。

 

 以上の内容だけならば、12箇条そのものが具体的に分からないのであれば、別の可能性があるではないかと主張したがるのが阿部管長盲信派の者たちの常なので、さらにとどめを刺すと、堀上人の講義の聞き書きに、明確に他山の者が12箇条を書き残していることを紹介しているのです。

 

B「房州日我は相承の文には二十四番と分けられてあるが、差し当たり自我に十二番に分けても良いと言っている。此の自我の十二ケの関係を二十四番に拡げて詳しく話する予定なり」(亨師聞き書き)
 つまり堀上人は、保田妙本寺の日我は相伝を24番ともこれを12箇条にしても良いと言っており、堀上人としては相伝の十二か条を24番に広げて詳しく話す予定だと講義されたのである。こうした記録を丹念に研鑚していけば、阿部管長のウソは簡単に見破ることが出来るのであろうに、邪宗化してしまった現宗門にはそのような慧眼の士は少ないようです。
 なお保田妙本寺は、戦後の帰伏までは一貫して他山であった寺ですが、日因上人が
「日典上人御代に大坊焼失の砌り焼け失せたる者か、故に今御目録十七条のみ之れ有り御相伝悉皆失ふ」(富要1-377)
「大石寺に伝わる日目上人の相伝は全て房州保田の妙本寺に有る故に」(富要1-378)
と書かれているとおり、全ての相承書は既に焼失してしまったものを後世になって他山である保田妙本寺から譲り受けて来たようなことを歴代が記録しているのですから、房州日我が12箇条の法門について論じていても、それはやむを得ないことです。
(注:もしも浅智恵で、「この日因上人の文は袈裟と数珠の相承について述べているだけだ」と反論したいのなら、
「残っているのは17ケ条の相承の目録だけだと書かれているではないか!」
「数珠の相伝3通として、日道伝には、@三衣の相伝、A三衣の口伝、B念珠の相伝、があるではないか。」
「大石寺に伝わる相伝は全て保田妙本寺にある、と書かれているではないか!」
と言う質問に回答してからにしましょう。)        以上

 


 ところで貴殿も出家たちも、小生から9月6日付けで送付した以下の文章を読んでいないのでしょうか?貴殿は研究教学書を持っていないようなので、問題外の蚊帳の外におられるのでやむを得ませんが、出家たちには小生からの破折の全てを理解して全てに反論していただきたいものです。

 

(またもやくどい引用文なので省略) 

――――――――――――――――――――――――――――― 


「●また、貴殿等が人の都合も顧みず勝手に訪問して来てもお相手する気は無い。とにかくビデオを全国に頒布してからの話である。それからならゆっくりお相手してあげる。くれぐれも粗相の無きよう、身と行動を慎み給え。平和、文化、人権、等奇麗事を標榜している「学会員」である事をお忘れなきよう。」

 

▼そう言えば、拙宅に年末の早朝から何の事前の連絡も無しに徒党を組んで押し掛けて来た妙観講の講員たちでも、小生の職場に子分を連れて突然押し掛けて来たエセ同和の支部長だとか称する法華講員たちでも、小生はちゃんとお相手して差し上げましたよ。また、相手がそういう卑怯なことをしないならば、小生は至ってソフトな人間ですのでご安心あれ。怖がらなくても大丈夫ですよ。
 しかし、貴殿が会いたがっていた脱落僧M師は出家僧侶のはずなんですが、学会員でしたっけ?彼は何か奇麗事を標榜されていましたか?おまけに貴殿は5時間でも10時間でも決着がつくまで対論をされる方だそうではないですか。ご自分から会おうと言ってられた方に、相手をしない、などと口が裂けても言うはずは無いですよね?
 再会の日を楽しみにしています。貴殿が誠実にメッセンジャーボーイの使命を果たされんことを。

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03・09・19 0:08

● 当方は由緒正しい日蓮正宗の布教活動に法論以後毎日精励しているので、貴殿が綿々と訴え続ける負け惜しみの繰言に一々付き合っていられないので、要点だけ。

 ―――――――――――――――――――――――――――――

「▼ その前に、少し貴殿の物事に対する理解の不可解な点を指摘しておきましょう。

 あのビデオを見て、なぜ貴殿が完勝だなどと主張するのか理解に苦しんでいましたが、ようやく貴殿の気持ちが理解できました。要するに、小生が極めてフェアに法義論争を進めていたために、引用文献を単純にミスした際に貴殿が謝れと要求したので誠実に謝ったのを、貴殿は勝利とやらの根拠としていたのですか。
 小生の基本的なスタンスに照らせば、あのような状況でもなお誠実に人間主義を貫けたので、貴殿らの法門に対する不誠実な対応の中でもかえって自らの信念のままに行動できたと喜んでいたのですが?まさしく一水四見。小生のあの対応を見て喜ぶのは、おそらく法論で小生に責められて「秋谷会長の印鑑を持ってこないと話をしない」と口走りながら逃げ出した多くの妙観講員ぐらいではないでしょうか?
 それにしても、なぜあのようにただのケアレス・ミスでも誠実に謝ることが屈辱的なのか、小生には全く理解不可能です。
 法義論争とは、あくまでも大聖人の仏法の正義を顕わすために行うものであって、貴殿の考えるような「レスリングの足蹴りの回数か何かで勝敗が決まるようなもの」とは全く異なることを知るべきでしょう。そのあたりにも、貴殿の卑しい人間性が如実に顕れていますね。あまりにもお粗末過ぎます。とても真っ当な信仰をされている方の発想ではありません。貴殿自身のレベルを益々貶めるためにも、ビデオをせっせと「偏執」してください。まるでレベルが違いますね、可哀想に。」

 

●「帰命」一つにも明確な回答も出来ない低劣な教学力(信心の無さは勿論の事)で、どんなに強がりを言って見せても駄目駄目。

”男が女に命を捨てる事を以って”帰命”だ”とか、”恥に命を捨てることを”帰命”という”だとか、貴殿は一体どこで習ってきたのか?

情けないですな。所詮、相伝の無い盲法門は。

全てはビデオで明かされます。貴殿だってはっきりと覚えているでしょう?こんな恥ずかしい事を平然と(否、汗をかきかきだったか)口走っていいた事を。

全国の名だたる学会員がこの部分を観たらさぞかし拳を震わせて情けなく思うことでしょう。

「ここまで落ちたのか?学会教学は・・・・」と。

 

日精上人についての義難は、貴殿の根暗な”研究発表”としてどうしても認めてもらいたくて執拗に何度も貼り付けてきますが、今回の法義論争の論題「三法論」の本質からは離れているので、後ほど徹底的に解剖してあげます。その前に順序を正して答えたまえ。

―――――――――――――――――――――――――――――  

▼ はい、一発目で蹴躓いてしまいましたね。貴殿は手元に研究教学書が無いようで、自らの目で確認出来なかったのでしょうか?また、後ろで応援をしている出家たちも本当にお粗末なウソで、貴殿を後ろから斬り付けて来たようですが、どうせ恥も責任も貴殿にすべて押し付けるつもりでしょうから、そのようないい加減な指導しかしないのでしょうね。
 目を皿のように開けてよく見なさい。「美」と「義」とは、部首を区分して見れば誰にでも分かり易くなるのです。上半分は「美」も「義」も、どちらも同じ「羊」ですが、足の部分は「大」と「我」ですから、全く字体が異なっているのです。そして、研究教学書の頭注を見れば、はっきりと「我」にしかない撥ねが両側にあるではありませんか。
 あまりにもお粗末な貴殿の後ろ盾の出家たちによる反論でした。
 念のために、知人で漢文専門のA先生に確認してみましたが、その方曰く「間違いなく義です。美ではありません」だそうです。だから念のために貴殿も、誰かもっと偉い専門家に確認してみたら如何かな?必ず「義です」と回答してくれることでしょう。小生も黄倉君と比べれば、少しは漢字が読めると自負していますが、この文字は間違いなく「義」です。
 宗務院教学部による後ろ盾たちの主張には、何だか堀上人の厳しい批判の言葉を思い出しますね。

 

「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。」

 

 まさにこんな現状が、現在の宗務院教学部の実態なのでしょう。哀れ哀れ。
 それ以下については、出家たちから残り2件の資料に対する反論が届いてからまとめてお返事をしてあげることにいたしましょうか。しかし、いったいいつのことになるのやら?」

 

●さて、面白い事を言ってきますね。

貴殿は本当にこんな事を言い張っていいのですか?当日の法論で惨敗してそれで充分かと思うのに、まだ更に恥をかきたいのですか?

まっ、いいでしょう。それを望むなら。

 1、

@講談社の新大辞典(上田万年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田伝一 共編)には

「美」の項に俗字として明らかに当該文字が、しかも活字で掲載されているのだが、これについて貴殿はどう釈明するのか。

”フェアに法義論争を進めて”いる、”誠実に人間主義を貫”く貴殿として、正に「誠実な」返答をお願いしたい。

 

A家中抄 研究教学書第6巻 の本文に日亨上人の御筆で、「義」の御文字があるが、明らかに通常使われる「義」の字体である。貴殿の説だと、同一人が本文と頭注とで別の字体を使い分けるという事になるが、その理由を明確に説明していただきたい。

どう説明されても、その字は明らかに「美」の俗字だが。

 

B貴殿の「知人で漢文専門のA先生」の本名を是非明かしていただきたい。当方が直接質問します。

もし、貴殿がその方の名の公表を拒むのなら(間違いなく貴殿は公表できないだろうが)そのA先生の主張は明らかに「講談社の新大辞典(上田万年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田伝一 共編)」の定説に反する訳だから、そのA先生にお伺いして、その根拠を明示されたい。

 

以上、3点、再度言うが、貴殿が”フェアに法義論争を進めて”いる、”誠実に人間主義を貫”く人間ならば、明確に返答すべきであろう。

また、法論の最中と同じように、もし、貴殿が自らの非を認めるのなら、屁理屈をごねて恥の上塗りをするより、潔く謝ったほうが賢明であろう事を付言しておく。

かつて戸田先生は「謝る時は、サバっと謝ったほうがいいぜ」と仰って、大勢の前で一学会員に「いや〜、これは、いかんかった。あいすまん。」と謝られておられた。当方は実に感動したものだ。(勿論レコードで聞いた事)

貴殿の中にもその清い精神がまだ少しでも流れているのなら、大師匠に従ってそうしたまえ。

――――――――――――――――――――――――――――― 

2、次に当方からの以下の破折について貴殿は今回のメールでまるで触れていない。

返答不能なのか、返答を失念したのか。

 

再掲するので次回のメールでは必ず反論する事。

もし出来ない場合は謝罪したまえ。

一言詫びを入れ、けじめをつけてからそれから、遁走したまえ。よろしいな。

 

「●ここで「弁証」とは、日精上人が何かを弁論によって証明しようとされたことを意味するが、少し前の方から本文を読んでみると、要は、日道上人が日目上人より大石寺を付嘱されたことへの疑難に対し、日精上人が、三つの理由を挙げて道師への大石寺付嘱の正当性を弁証した、そのことを指している。

 そして、その弁証の仕方が、新田坊地を下の坊と勘違いされていたり、上新田講師を上新田講所と誤読し、さらにそこを大石寺と混同されている(※以上は、宗学要集の頭注にもある)など、少しばかり粗雑で、附会(無理な結論づけ)がすぎる、と指摘されたのが、この末文の上に付いた日亨上人の頭注なのである。

 「十二箇条の法門」についての記述は、日精上人の右の三つの理由による弁証の最後の方に出てきていますが、それは、三つ目の理由に付け加えて、日精上人の御確信として「日道上人はこの一大事の法門の付嘱を受けているのだ」と述べられたものにすぎない。

 つまり、この『家中抄中』の当該箇処で日精上人が弁証を試みたのは、日道上人への大石寺全体の付嘱問題であり、何も「唯授一人相承」や「十二箇条の法門」についてではない。したがって日亨上人の頭注が指しているのも、十二箇条の法門のことではない。

日亨上人は記述の間違いについてはどこが、どのように間違えていると必ず朱で傍点を記し、その上で頭注をされている。よって大石寺の法門相承に12箇条法門がある、ということを頭注で否定されているのではない。 

 また、日亨上人は、研究教学書に収録の『家中抄中』を、富士宗学要集へ掲載される際、

 「新田坊地ハ奥州三迫ニシテ下ノ坊ニアラズ。上新田講所トハ講師ノ誤読ニシテ道師ヲ其主トスルモノ。但シ大石寺本山ノニハアラザルナリ」

との詳しい頭注を付けられ、一方、末文に付けられていた前掲の

 「本師弁証不精美…」

の頭注は付けられなかった。それは、この詳しい頭注を付ければ足りる(残しておくと重複してしまう)からであり、この点からも、末尾の頭注が「十二箇条の法門」を指すものでないことは明白である。

 このように、無関係な文を、巧妙にゴマカシて取り挙げ、そこへ都合のよい解釈を加えて、「日亨上人が、十二箇条の法門など誤りだ、と言われた」等と強弁する――これが、貴殿のお決まりの手口なのですね。法論の最中にも当方から喝破され貴殿が詫びた、あの引文の姑息さと同轍ですな。

さて、これらの破折に貴殿はどう邪智を巡らし、屁理屈をかましてくるか楽しみですが、貴殿は当方からの追及に何一つ答えられない無様で惨めな姿を晒したくないが故に、当方からの破折から強がりだけは人一倍に吠えつつ逃げて行くのであれば、当方は止めはしません。

何故なら当方は法論で間違いなく、法義において、道理において、精神の豊かさにおいて、見学者の盛り上がりにおいて、全てにおいて間違いなく勝利した実感があり、が故に貴殿を未練がましく追いかける必然性が存在しない。(ただし、かいた汗と恥の量においては残念な事に、完敗である。)」

―――――――――――――――――――――――――――――

3、貴殿は未だに「帰命」についてのなんら明快な回答をしていない。

この件も、もし返答できないのなら素直に自らの非を認め、謝罪しなさい。

貴殿は、この段階で既に大きな「恥」をかいてきた。貴殿の論からすれば、「恥」にも「帰命」が成り立つのであるから、貴殿はこのまま恥をかき続ければ、その無慙な我が身を恥じ、自らの命を絶たなければ示しがつかないと考えるが如何か?

以下の邪難については当方にはもう既に破折の準備は出来上がっている。

が、貴殿の性格からして、一つ一つに明確なけじめをつけずに次に進む事は、貴殿に対しての躾上甚だよろしくない。思うに貴殿は幼少から親からそのようなきちんとした教育を受けてこなかったと見受けられる。依って、当方が貴殿を呵責しつつ将来の為に貴殿を躾ていく。が故に、以上の点を明確にしないうちは他の問題に逃げ場を作る事は許さないので、粛々と、今回の破折に答えなさい。

誤字の修正

 

義難→疑難

三法→三宝

 

**********************************************************                                       

▼ 平成15年9月21日
メッセンジャーボーイ・樋田殿 ← S

 

 数日ぶりにPCを開けると、貴殿から相変わらず重箱の隅を突っついては悦に入っている文書が届いていましたが、後ろの出家たちの操り人形の存在を相手にしているほど小生は暇でもお人好しでもないので、貴殿に対しては、背後霊のような出家たちに対しての戦いにすでに転換していることを申しつけておきます。

 

 先日ご連絡しておいたとおり、貴殿の後ろにコソコソと隠れている卑怯者の出家たちに、小生が何年も前から宗務院教学部法義研鑽委員会との文書対論で反論不能にまで追い詰めた文書を転送してください。

 

 すでに平成10年11月7日付けで送付して以来、ほぼ5年間にわたって何度も何度も同じ内容の文書を送付し督促していることから、もしも反論準備をしていたのであれば即座に回答可能でしょうから、出家たちからの回答期限については、平成15年9月30日中(厳守)といたします。準備不足の場合でも、回答する意思の有無を表明をすること。

 

 なお、もしも期限までに回答する意志の有無さえも表明しなかった場合には、宗務院は在家との文書対論を放棄して5年にわたって逃げ続けているということが再確認されたことで、またまた宗門関係者に広くその恥を知らしめることになりますので、その旨ご承知おき下さるよう併せて伝えてください。

 


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@(平成10年3月19日付け宗務院文書に対する3月22日付け挨拶文書)

 

宗門関係各位

 

 前略
 回答を待つこと丸々三ヶ月、督促状を送付すること二度、そろそろ仏の顔も三度と世間でも言われるように堪忍ならない状態に差し掛かる一歩手前で、ようやく時局協議会ならぬ「法義研鑽委員会」とか称する宗門教学部からの総力を挙げた反論が「日蓮正宗宗務院」の封筒に入れられて三月十九日に私の手元に届いた。
 一読して呆気にとられた!当方から送付した時局文書のウソを暴いた破折に対して、反論不可能であったためか、あるいは理解不可能だったのか、ごくごく一部の内容に対しての回答はしてきたつもりのようではあるが、肝心の「随宜論」に基づく日精の邪義の証拠や、堀上人の御指南(日精破折)の正しさを証明した当方の主張に対しては、完全に話を逸らして、一切回答不能のままで終わっているではないか!
 しかも、その内容たるや、全く自信がないことを証明するかのように、「かも知れない」「と考えられる」「らしきことである」「のようである」「と思われる」「推察できるのである」「推定される」「可能性も、なきにしもあらずである」「おそらく・・であろう」等々の弱々しげな推量の表現が、三十数カ所も使用されているのである。
 一応B4で二十一ページの分量ということで、褒めてあげたいところではあるが、そのうち半分近いページを割いて「富士宗学要集」と「本宗史考」に掲載された北山文書の全文を引用して、本質的意味のない比較を延々と行っている。しかも、それは当方からの破折論文のわずか五行の部分に対しての回答でしかないのである。にも拘わらず「この資料(北山文書)を決め手として日精上人を難じている」とピンボケの解説をしているのだから、抱腹絶倒とはまさにこのことであろう。この法義研鑽委員会の駄文の大半を占める北山文書に関する主張を破折するのは極めて容易である。一例を挙げれば
「造仏を正義と信じている輩は、日精が造仏者ならそのことを強く主張するのは当然」
「正式な文書でなくとも証拠となる。例えばエイズ問題での厚生省の資料を見ろ!」
 世間の道理に基づいても、この程度の切り口で簡単に切れるではないか。まさに「ほうろく千につち一つなるべし」のままに、邪義は正義によって簡単に崩壊し去ることが、ここでも明らかになってしまったようである。
 当方と宗務院(時局協議会)とのやり取りをご存じない方々のために、こちらが最初に送付した「時局文書の虚偽を暴く」という、堀上人を悪者に仕立てて日精の邪義を庇った時局文書を破折した論文と、今回の宗務院法義研鑽委員会の「日精上人に対する創価学会の再々度の疑難を破す」とをご送付する。一行一行丁寧に比較して読んでいただければ、これが本当に出家して数十年の大の男たちが総力を挙げて三ヶ月もの時間をかけて書いた論文なのであろうかと疑いたくなる駄文である。本格的に研鑽を初めてわずか数年の在家にも劣るお粗末な内容であることは十分にご理解いただけるであろう。
 当方は在家で、しかも通産省で連日深夜まで、時には泊まり込んで国民のための職務に専念しており、破折論文をワープロで打つ時間は土曜と日曜しか確保できない状況であるため、次の論文の作成には最低一ヶ月はかかるだろうが、信徒の大御本尊への供養を横領して二十四時間フル活用できる出家どもよりもはるかに速やかに完璧な破折資料をお送りするつもりである。要するに止暇断眠の戦いを自らに課し、地球と人類の未来のために身命を捨てる決意をしているか否かが全てを決するのである。四弘誓願の実践こそが究極の生き方であることは、御書をひもとけばご理解いただけよう。

 

 双方の文章の構成と内容とを比較対比させたので、関係各位のご理解の参考とされたい。
         当方の文書                  │           宗務院の文書            
@はじめに(1/3ページ)                  │@はじめに(1.5ページ)            
 文書作成の背景説明                  │  Sに対する一連の誹謗             
A宗門の疑難(1ページ強)               │                                     
 時局文書の堀上人への誹謗を破折する証│                                     
 拠を提示し、時局の嘘を指摘          │                                     
B堀上人に対する疑難の真相(2/3ページ)  │                                     
 Aに引き続き堀上人の正義を証明する証│                                     
 拠を示し、時局の結論を覆す          │                                     
C家中抄の頭注について(1.5ページ強)    │                                     
 家中抄の頭注について、各種文証により│                                     
 時局の誤りを証明し、破折            │                                     
D日精の造仏論(6ページ弱)             │                                     
 日精の随宜論の略解を初めて示し、日精│                                     
 の登座直後の要法寺譲りの造像の信念を│                                     
 確認した                            │                                     
E日蓮聖人年譜の正しい読み方(2ページ弱)│                                     
  年譜において日精が主張した邪義の内容│                                     
 を逐語的に解説                      │                                     
F時局文書の稚拙な言い逃れを破す(4ペー│                                     
ジ強)                                 │                                     
 年譜に関する時局のスリ替えを明確にし│                                     
 破折して、堀上人の正義を証明        │                                     
G日精造仏の歴史的事実(8ページ強)     │A北山文書(12ページ)                  
 各種資料にもとづき日精の造仏読誦や一│ ほとんどが引用文献と読み方の説明。 
 部頓写を証明。この中に北山文書も含ま│ 正式文書でないので不採用、日要等の言
 れる。                              │ 葉は信用できない、と主張しただけ。 
                                      │B史実によって北山文書等の記述が疑わし
                                      │いことを論証す(1.5ページ強)           
                                      │ 一部とは題目一万遍のことと主張。西山
                                      │ と要法寺の主張の一致は裏関係ありと推
                                      │ 測。証拠なし。                     
                                      │C随宜論について(3ページ弱)           
                                      │ 法詔寺造仏の理由は要法寺系の化導のた
                                      │ めの方便。日精は登座前から正義、と主
                                      │ 張を訂正した。                     
                                      │D敬台院との確執(1.5ページ)           
                                      │ 日精の色袈裟の着用は無かった。一部頓
                                     │ 写は説明不能。                     
                                      │E要法寺出身の御法主上人(0.5ページ)   
                                      │ 要法寺出身法主は曼陀羅正意だった。 
Hおわりに(1/2ページ弱)                │Fおわりに(1ページ)                   
  ごあいさつ                          │ ごあいさつ                         

 

 要するに、当方の破折論文に対して、ほとんど反論が不可能であったことがご理解いただけるであろう。当方論文Gのごくごく一部について、AからBで反論しただけで、他はほとんどカニのあぶくのような、言い逃れにもならないすれ違い答弁なのだから、この時点ですでに宗務院は対論に完敗した!と宣言することが出来る。反論しなかった言い訳が「いちいち付き合ってはいられない」では、あまりにもお粗末過ぎるではないか。「鎧袖一触」とはまさにこのような状況を言うのであろう。在家にチャンチャラ可笑しいと笑われるようでどうすのか?
 あまつさえ駄文の中で、日精が最初は造読家であった事実を従来は認めていたのに、
「これは誤りであったので、日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた、と訂正する。」
と居直るに至っては、全く何をか言わんやである。自分で自分の首を締め上げて快感にひたっているのであろうか?長い出家稼業で完全に倒錯してしまっているようだ。
 もしも日精のことを弁護したいのであれば、以下のような造仏読誦及び頓写の明確な証拠に対して真っ向から逐語的に反論するべきなのではないか?少しは精神的文盲を治癒出来るように努力されてはいかがであろうか。

 

「戒壇成就の日は仏像造立すること分明なり乃至本堂には本尊の如く仏像を安置すべし。祖師堂には日蓮聖人御影、垂迹堂には天照八幡像これあるべし。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め、戒壇を築き板本尊を安置し奉る。乃至板本尊を以て不造仏の現証とするは甚だ非なり」(随宜論 日精)・・登座以前から邪義を抱いていた証拠!
「助行を広くして遂に一部に及ぶ正く開山上人の特戒に背く 用ふべからず」(富要「日蓮聖人年譜」 堀上人頭注)・・晩年まで邪義を抱いていた証拠!
「頓写の事、如説修行の一なり最修行すべきなり」(家中抄下 日精)  等々

 

 宗門教学部長が責任者の一員でもある法義研鑽委員会が、創価学会の一壮年部地区幹事との文書対論でこのように悲惨な敗北を喫した以上、その責任はいったいどのようにとるつもりなのであろうか?かつて日顕の父親日開が誌上対論で完膚無きまでに敗北し、降格人事の憂き目にあった歴史があるが、彼ら法義研鑽委員会メンバーも全員が平僧にでもした方が宗門のためになるのではないかと提案したい。
 ともあれ、法義論争の結果として法主が終生邪義を持ち続けていたことが明らかにされたならば、狂乱法主日顕もその手のバカボン(日顕宗では「生身の釈迦日蓮」(法詔寺日感の状を日顕が引用して指南した)と呼ぶそうだが)であることも証明されよう。
 偉大な大聖人の仏法を形ばかり持っていようとも、エゴイストは絶対に成仏できないことを謙虚に大聖人の御書を拝して気が付いて欲しいものである。
 宗門関係者においては、今こそ一世一代の危機感を持って行動されるよう強く期待したい。生涯を民衆に奉仕する道を我が学会とともに進むか、大聖人の御心に背いて阿鼻地獄の底に沈むかを決定する時はすぐそこまで来ていること知るべきである。
                   草々
 平成十年三月二十二日
                          法華経の行者の眷属

 

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A(平成10年3月19日付け宗務院文書への4月28日付け詳細破折文書)

 


日蓮正宗宗務院御中
時局協議会御中
法義研鑽委員会御中
その他宗門関係各位

 

 日蓮正宗宗務院の封筒に入った「法義研鑽委員会」とやら称する者たちからの反論文書が平成十年三月十九日に学会の一地区幹事である拙宅に届いた。
 どうやら昨年十二月十四日付けで時局協議会あてに送付し、併せて全国の主要末寺や創価学会有志にも送付した「時局文書の虚偽を暴く」という文書に対する回答のつもりのようである。
 そもそも平成九年十一月度の宗門機関誌「大日蓮」に謗法法主日精の冒した邪義を庇い立てし、堀上人に全責任をなすり付けたお粗末な文書が掲載されたので、この駄文を破折し、相承を受けても結局は生涯にわたって邪義を改めることのなかった法主が存在した歴史的事実を証明することで、相承そのものには何の特殊な力も無いことを当方の時局文書の虚偽を暴く」において明らかにしておいた。
 これに対して、在家の法義による攻撃によって時局協議会は消滅してしまったようで、今回の「法義研鑽委員会」と称する者たちからの回答は、すでに平成十年三月二十二日付け文書で粗々破折したとおり、歪曲、逃げ口上、すり替え、言い訳、誤魔化しばかりであり、そのあまりの教学レベルの低さに、これが本当に宗門の教学に関する専門の出家たちの作成した文書であろうか、本当に宗門としての正式な文書なのであろうかと疑わざるを得ないものであった。
 念のために、既に送付した平成十年三月二十二日付け文書の中に示しておいた、当方の文書で破折した項目に対する法義研鑽委員会の文書が回答できた項目の比較表を再掲して、宗門の敗北の姿を明らかにしておく。今回の対論の状況は一目瞭然であろう。

 

         当方の文書                   │         法義研鑽委員会の文書        
@はじめに(1/3ページ)                  │@はじめに(1.5ページ)            
 文書作成の背景説明                  │  Sに対する一連の誹謗             
A宗門の疑難(1ページ強)               │                                     
 時局文書の堀上人への誹謗を破折する証│                                     
 拠を提示し、時局の嘘を指摘          │                                     
B堀上人に対する疑難の真相(2/3ページ)  │                                     
 Aに引き続き堀上人の正義を証明する証│                                     
 拠を示し、時局の結論を覆す          │                                     
C家中抄の頭注について(1.5ページ強)    │                                     
 家中抄の頭注について、各種文証により│                                     
 時局の誤りを証明し、破折            │                                     
D日精の造仏論(6ページ弱)             │                                     
 日精の随宜論の略解を初めて示し、日精│                                     
 の登座直後の要法寺譲りの造像の信念を│                                     
 確認                                │                                     
E日蓮聖人年譜の正しい読み方(2ページ弱)│                                     
  年譜において日精が主張した邪義の内容│                                     
 を逐語的に解説                      │                                     
F時局文書の稚拙な言い逃れを破す(4ペー│                                     
ジ強)                                 │                                     
 年譜に関する時局のスリ替えを明確にし│                                     
 破折して、堀上人の正義を証明        │                                     
G日精造仏の歴史的事実(8ページ強)     │A北山文書(12ページ)                  
 各種資料にもとづき日精の造仏読誦や一│ ほとんどが引用文献と読み方の説明。 
 部頓写を証明。この中に北山文書も含ま│ 正式文書でないので不採用、日要等の言
 れる。                              │ 葉は信用できない、と主張しただけ。 
                                      │B史実によって北山文書等の記述が疑わし
                                      │いことを論証す(1.5ページ強)           
                                      │ 一部とは題目一万遍のことと主張。西山
                                      │ と要法寺の主張の一致は裏関係ありと推
                                      │ 測。ただし確証なし。               
                                      │C随宜論について(3ページ弱)           
                                      │ 法詔寺造仏の理由は要法寺系の化導のた
                                      │ めの方便と主張。日精は登座前から正 
                                      │ 義、と従来の主張を訂正した。       
                                      │D敬台院との確執(1.5ページ)           
                                      │ 日精の色袈裟の着用は無かったと主張。
                                     │ 一部頓写等は説明不能。             
                                      │E要法寺出身の御法主上人(0.5ページ)   
                                      │ 要法寺出身法主は曼陀羅正意だったと主
                                      │ 張。                               
Hおわりに(1/2ページ弱)                │Fおわりに(1ページ)                   
  ごあいさつ                          │ ごあいさつ                         

 

 要するに、当方の破折論文に対して、ほとんど反論が不可能であったことがご理解いただけるであろう。
 当方論文Gのごくごく一部、わずか五行ほどの北山文書の引用に対して、A及びBで延々と資料を並べて解説しただけで、その北山文書の内容(日精の造像容認の証拠)にはほとんど触れずに、カニのあぶくのような、言い逃れにもならない答弁なのだから、この時点ですでに宗務院は対論に完敗した!と宣言する。反論しなかった(出来なかった)言い訳が「いちいち付き合ってはいられない」では、あまりにもお粗末過ぎるではないか。「鎧袖一触」とはまさにこのような状況を言うのである。在家に教学で完璧に打ち負かされてチャンチャラ可笑しいと笑われるようでどうするのか?

 

 ところが、何を血迷ったか、このお粗末な回答文書がそのまま宗門機関誌「大日蓮」四月号に正式に掲載されたことから、間違いなく法主の允可も受けた宗門の公式見解であると判断せざるを得ず、このような駄文を作成した宗門教学部及びこれを指導した管長の責任問題についても問い糺すこととする。
 当方が「時局協議会文書作成班」あてに送付した文書に対する回答が宗務院の封筒に入って「法義研鑽委員会」名で届いた以上、その責任が宗務院教学部及び時局協議会の双方にあることは明白であり、教学部長以下次の者たちが作成又は了解した文書であるものとみなし、このお粗末な駄文の作成責任を問うものである。
  宗務院庶務部長    藤本日潤
   同 教学部長        大村寿顕
  文書作成第一班長    同右
   同  同 班員   藁科鑑道
   同     同    原田輝道
   同     同    森岡雄樹
   同  第二班長   尾林広徳
   同  第三班長   藤原広行
   同  第四班長   阿部信彰
   同  第五班長   漆畑行雄
    管長         阿部信雄
 以上の者たちは、「法義研鑽委員会」の作成したお粗末な駄文公表の責任を取って、速やかに降格人事に処されるべきである。
 原田輝道の証言によれば、そもそもの時局文書を書いたのは自分ではない、手伝っただけだとのことらしいので、一連の駄文はどうやら森岡雄樹の作品のようだが、日顕が昨年八月の七時間半の狂乱説法の際に訳も分からぬままに允可を与えていたように、宗門教学部でこれらの論文を読みこなせる者は皆無に等しいようである。とりわけ藁科鑑道などは大日蓮四月号の編集後記において、法義研鑽委員会文書に全く眼を通さなかったのか、あるいは全く理解できていないのか、「読みこなすのはなかなか容易でない」「そこに展開される内容は、霊山にまします日精上人の深く御嘉納あそばされるところと信ずるものである」と間の抜けたコメントを書いているが、日精が生涯造読の謗法を冒していたという事実をただただ何としても誤魔化そうとするだけでは、霊山にまします日亨上人も、あるいは草葉の陰で懺悔の日々を送っているだろう日精自身もさぞかし呆れ返っていることであろう。
 就任二十年近くにもなるのにまともな宗義論文一つ完成させることも出来ない無能な教学部長に至っては、おそらく理解することなど想像もつかず、相も変わらず蚊帳の外にいるのに違いない。

 

 在家の一地区幹事に文書対論で鎧袖一触、全く回答不能の状態になってしまって、折伏だけではなく、教学においても在家に完全に打ち負かされているようでは、いくら日顕を「生身の釈迦日蓮」(日顕の八時間狂乱説法・・依文は要法寺系造像坊主の顕寿院日感の書状)と崇め奉ろうとも、その主張が邪義であることを認めたようなものである。いい加減に正しい信仰に戻って、広宣流布に身命を捨てる誓いを確認し、すでに法華経の行者となった池田先生と創価学会の、弟子・眷属として戦う決意をするべきであろう。さもなくば、出家とも坊主とも呼ぶべき者たちの存在価値は完全に消滅すると断言せざるを得ない。大聖人の真似をして袈裟衣を被っただけの畜生の者たちの未来を思うと哀れでならない。
 大御本尊を事の戒壇堂たるべき正本堂から急造りのあばら屋に遷座したことで、混迷を深める日本が今後さらに急速に衰退することは一定ではあるが、すでに大聖人の魂が完全に消滅した宗門がそれ以上の破滅的な速度で崩壊することも、火を見るよりも明らかであり、大聖人の弟子たらんと願う者は深刻な決意で根本的な宗門改革に立つべきである。
 今回は「法義研鑽委員会」の駄文を全面的に破折した文書を同封する。熟読していただければ、宗門の主張が如何にお粗末な逃げ口上と歪曲とであるかがご理解いただけることであろう。
 これまでの経緯をご存じ無い方々のために、宗門教学部と創価学会の一地区幹事との対論に至る経緯を以下に示しておく。

 

平成三年一月三日   S地区幹事(当時B長)、御書に基づき池田先生が三類の強敵           を全て呼び起こして法華経の行者となったことを自覚。僣聖増上慢・日顕及       び邪宗日顕宗の破折を開始
平成七年二月二十六日     S、妙観講原進理事との文書対論開始
平成七年九月十八日、二十九日   妙観講大草講頭、Sと原進との文書対論を横から           応援したために、Sから文書で追求・破折され敵前逃亡
平成七年十二月二十七日   S、妙観講原進理事との文書対論に大勝利。原進も大草           同様に敵前逃亡
平成八年一月   S、妙観講との対論をもとに「日顕宗の邪義を破す」を作成。また           併せて「日寛上人の御本尊下付の正義の証明」を作成し今後の対論に備える
平成八年一月十四日       九州末寺の副講頭、Sに完膚無きまでに破折される
 (その後も各地の末寺で出家の分際でありながら坊主が在家のSから破折される)
平成九年八月二十八日    全国教師講習会で日顕がS個人の資料を学会資料と偽って            八時間の狂乱説法。要法寺系坊主の言葉を根拠に自分が生身の釈迦日蓮と主張
平成九年十一月十八日    Sから日顕に、約三百五十頁の狂乱説法の破折文書を送付
平成九年十一月     大日蓮誌上に時局の日精擁護文書が再度掲載される
平成九年十二月十四日  Sから時局・主要末寺等あてに、日精の謗法を明らかに示し          た「時局文書の虚偽を暴く」を送付
平成十年一月十五日   Sから時局他の宗門関係者に督促状送付
平成十年二月二十二日    Sから時局他の宗門関係者に再度の督促状送付
平成十年三月十九日   法義研鑽委員会からSあての回答文書が到着。対論開始
平成十年三月二十二日  S、時局がすでに対論に敗北している旨の文書送付
                                               以上

 

 平成十年四月二十八日
                             法華経の行者の眷属

 


「大石寺教学部の度重なる欺瞞を暴く」

 

一、はじめに
 大石寺第十七代貫主日精が、宗開両祖の教義に違背した造仏読誦論者であったことは周知の事実である。戒壇の大御本尊を奉持し、宗祖の教義を正しく伝える唯一の正系教団を標榜する大石寺にとって、邪義謗法の貫主を出したことは、由々しき出来事ではあったが、後年、日寛上人の出現によってその弊害は払拭され、法滅の悲惨は免れた。 そのため、この問題は、一方で令法久住・広宣流布を第一義と捉える善意によって、又一方では、自らの権威の失墜を恐れる保身によって、その後は殊更に取り沙汰されることは控えられては来たが、近年、創価学会の出現に呼応して御書を編纂され、真実の宗史を明らかにすることこそ令法久住の基と判断された碩学日亨上人は、富士宗学要集等に率直にこれらを書き残され、さらに後学の者が過つことなきを期されて、頭注、註釈等の詳しきを以て指針に供されたのである。
 ところが、法滅の妖怪貫主阿部日顕は、広布実現の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会の破壊を謀り、その挙げ句、信・行・学のいずれにおいても敵わぬと見るや、遂に「法主本仏論」の邪義を唱え、殊更に代々相承の絶対性を誇示することで、信徒を隷属させ、教団の私物化を画策したのである。しかし、代々の相承が正義の絶対的根拠にならないことは、興師の御遺誡に既に明らかであり、殊に、日精に代表される謗法貫主の出現という歴史的事実によって、異論の余地は全くないのである。
 悪知恵を絞った日顕宗は、今回の問題勃発と同時に、彼等にとって唯一の命綱となった相承絶対論を弁護するために、詭弁を弄して日精擁護の虚構を捏造し、こともあろうに堀上人の記述まで否定して、宗史改竄の暴挙に出たのである。
 こうした日顕宗の悪あがきによって、日精問題は期せずして法義上における正邪決着の争点となったのであるが、彼等が学会攻撃の材料とする御本尊問題や、僧俗問題、また広布推進における化儀等の諸問題も、詮ずるところは法主絶対論を依拠として発せられているところを鑑みれば、謗法の貫主の存在の有無は、正邪の判断のための決定的な尺度であり、貫主日精の謗法が証明されれば、自ずから日顕宗の主張が己義であったことが証明されるのである。

 

二、法義論争の経過
 さて、以上のような日精問題の本質を捉えた上で、これまでの日精の謗法に関する対論の経過を整理してみよう。
 宗門が日精を庇う為に時局協議会の名を使って最初に立てた主張は、
「日精上人は登座以前は確かに造仏読誦の邪義を持っていたが、相承を受けると同時に当宗の正義に目覚め、それ以降は一切造読思想を捨てている。これこそ当家の血脈相承の威力であって、常人には思慮の及ばぬところである。また、「随宜論」は、登座以前の自身の思想を、登座後に清書したものであった」
などという珍説であった。
 これに対して当方は、日精登座後の著である「家中抄」や「日蓮聖人年譜」等の、造読に関する記述及びそれに対する堀上人の批評、頭注を以て、日精の造読義が登座後にまで及んでいたことを論証し、第一回時局協議会文書の一切の主張が虚偽であることを証明し、破折した。
 呆れたことに、逃げ道の無くなった宗門側は、またしても時局協議会の名を使って、こともあろうに今は亡き堀上人に冤罪をなすり付けて、堀上人が日精に関する史実の検証を誤ったと主張し、堀上人の頭注は誤解であると決め付けた。そして、「聖人年譜」における造読義は、実は要法寺日辰の「三大秘法之記」を写したに過ぎない等と、現存しない書を持ち出しては更なる虚構をデッチ上げた。しかし、堀上人を愚弄していることと言い、まるで素人の如き教義解釈と言い、とても宗門の公式見解とも思えない代物であったのでしばらく捨て置いたのである。
 ところがいったい何を考えたのか、去る平成九年八月二八日の全国教師講習会において、日顕自らこの愚論を支持する発言を行い、その上平成九年十一月号の「大日蓮」誌上に、再びこの作文(以下「時局文書」と呼ぶ)が掲載されるに及んで、これが法主の允可を得た、宗門の公式見解であることが明確となった。そこで、当方から時局協議会及び主な宗門末寺あてに、時局の駄文を破折した文書「時局文書の虚偽を暴く」(以下「破折文書」と呼ぶ)を送付したのである。
 その内容は、当然の事ながら、堀上人に誤りも誤解も無かった事を客観的資料をもとに論証し、さらに「聖人年譜」の記述が間違いなく日精自身の論であり、日辰の写しなどではないことを証明して、完膚無きまでに宗門の虚偽を暴いておいた。その上で、併せて「破折文書」に対する回答を要求したのであるが、その後3ケ月近く何の応答も無かったことから、二度の督促状を送付した結果、ようやく日蓮正宗宗務院の封筒に入った「法義研鑽委員会」からの文書が送付されてきたのである。
 しかし、この「法義研鑽委員会」からの回答(以下「回答文書」と呼ぶ)は、例によって不誠実極まりない、誤魔化しとスリ替えだらけの内容であった。当方の「破折文書」の本論には一切触れず、傍証として使用した「北山文書」に唯一の逃げ道を見付けたかのようにこれにしがみついた上、これがあたかも当方の論の決め手であるかの如く装って、いかにも反論したかのように取り繕い、挙げ句の果てには、わずか数ヶ月前に公式に発表した「時局文書」において自ら断言した内容を全く否定し、恥も外聞もなく前言を撤回して遁走を謀ったのである。
 こうして一在家によって宗門教学部の代表が文書対論によって完膚無きまでに敗北するという、日蓮正宗の七百有余年の歴史においても類い希な悲惨な事態に立ち至った訳であるが、既に七百年間で初めての法主の狂乱による広宣流布の切り捨てと先師日達上人の全ての御遺績の破壊が進められている現状を考えれば、現管長はやはり相承を正しく受けてはおらず、既に宗門には大聖人の御魂が存在していないことの証明の一つのようなものである。
 当方の「破折文書」の主張は、前後の挨拶を除いて大きく七章に分かれていたが、「回答文書」では残念ながらそのうちの第七章についてしか回答していない(真っ向から反論できなかったためか、わずかに触れただけで誤魔化している箇所もある)ため、正味の六章の部分については既に反論不能であったと理解する。したがって、当方からの平成十年三月二十二日付け文書で宣言したとおり、学会の一地区幹事と日蓮正宗宗務院、時局協議会及び法義研鑽委員会との文書対論は、九分九厘宗門側の敗北が確定した。後は、残り滓のような内容について、今回の文書で決着をつければ、宗門の主張するウソや邪義が明らかにされることとなる。
 したがって、「時局文書」を破折した当方の主張を再度確認して、法義研鑽委員会の「回答文書」がいかに欺瞞に満ちた姑息な迷走文書であるかを明らかにし、その上で、その迷走文書の論そのものに対しても逐一ご回答して、文書対論ではこのように誠実に対応し、回答するべきであるという範を示すこととする。

 

三、宗門が返答を逃げた当方の破折論
  当方の「破折文書」においては、数々の資料を引用しながら、「時局文書」の邪義を暴いたが、いったい何を考えたのか、あるいは何も考えることが出来なくなってしまったのか、宗門教学部は「回答文書」において、ほとんど返答不能の状態に陥っている。
 そもそも「北山文書」は、「破折文書」の種々の史料のうちのごくごく一部でしかない。このわずかな箇所にしがみついて、「回答文書」ではムキになって、富士宗学要集と本宗史考の北山文書に関連した史料を大量のページを割いて比較検討しているのである。
 当方としては、宗門教学部が「回答文書」において、「破折文書」の攻撃に対するスリ替えの手口として、北山文書にのみ重点を置いたような誤魔化しのための逃げ口上を述べていることをまず指摘しておく。
「「S文書」は、この資料を決め手として日精上人を難じている」
「この文書に資料的価値がないことが判れば、おのずから「S文書」の論拠は崩れ去るからである」
「彼等が重視する北山文書は本宗史考という要法寺の富谷日震の著になる宗史書に資料として掲載されている」
 「破折文書」において当方が展開した論理を読んでいただければ、いかに宗門教学部がウソと誤魔化しに躍起になっているかが青天白日のもとに明らかになるであろう。

 

 ところが「回答文書」では、単に「北山文書」を延々と紹介しただけで、何故かその中に示された内容にまではいっさい論及していないのである。要するに、北山文書に記載されている記録は、日精が終生造読家であった事実ばかりか、日精以後の法主さえも寺社奉行を恐れて正義を主張しなかったという歴史的事実をも騙っているのである。したがって、当方としては、宗門教学部は結局「北山文書」に記録された史実を論じることが不可能であった、即ち日精の造仏読誦の事実を認めざるを得なかったものと断定する。
 穿って考えれば、宗門教学部は北山文書の全文を紹介することで、日俊上人等をも誹謗する意図があると推測される。謗法法主日精を庇うためにいったい何人の歴代を貶めるつもりなのであろうか。当方としては日精の謗法を明らかにすることを目的としているので、あえてそれ以外の法主の過ちを指摘することは考えていなかったが、どうやら宗門としては歴代の過悪を次々に露わにしたいようなので、念のために釘を刺しておく。
 その上で、「回答文書」が実際にどれだけスリ替えに終始したかを明らかにするために、まず宗門教学部がいっさい回答できなかった箇所を再度整理して掲載する。

 

(一)日精の造仏読誦について堀上人は正確に把握されていた
 「時局文書」では、日精の造仏を誤魔化すために堀上人に罪を被せ、勝手な日精正当論をでっち上げた。その言い草は
「さて、結論を先に言おう。日亨上人には大変恐れ多いが、喜ぶべきことに、これは日亨上人の誤解である。」(時局文書)
などと、十分な考証もせずに一方的に断定し、その根拠として家中抄日印伝の頭注を引いて、これは日辰の祖師伝の引用であることを堀上人が忘れた為に打ったのだと言い、故に堀上人の日精に対する非難は全て誤解だと強引に結論づけてしまっている。
 ところが、家中抄における堀上人による日精の造仏読誦に対する頭注は、この日印伝以外にも、
「見者深思精師辰師短見惑想誤後人可悲」(研教六・四一)
「本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ惑フナカレ」(富要五・一七六)
「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」(富要五・二一三)
等とあるにも拘わらず、「時局文書」も「回答文書」も一切これらには言及出来ていないのである。これは、日印伝が祖師伝の引用であることのみをとらえて、殊更に強調し、いかにも堀上人が誤解したかの如き印象を与え、後の「日蓮聖人年譜」に対する推論でも騙そうという宗門教学部の魂胆が見え見えなのである。
 ところが「回答文書」では、これに真っ向から回答することが不可能であるために、「既に平成五年に静岡県三島市在住の学会男子部K某が、時局文書班の一人から情報を聞き出そうとして接触した際に持参した文書そのままであり」とすり替えて、「破折文書」が平成九年十一月号の大日蓮に掲載された「時局文書」を破折したものであることをも誤魔化している。当方の「破折文書」の冒頭にも書いたとおり「とても本気で書いているとは思われない代物であり、又、まさか宗門の公式な文書でも無かろうと思い、そのまま捨て置いた。ところが去る八月二十八日の教師講習会において、日顕自らこの論を支持する発言をし、その上、十一月度の「大日蓮」誌上に再びこの作文が掲載されるに至って、これが法主の允可を得た、宗門の公式見解である事が明確となった」ので「破折文書」を作成したのであって、時局協議会の作成した「時局文書」は、当方の「破折文書」によって既に打ち砕かれた内容ばかりなのであることを忘れてはならない。

 

 さらに読誦義に至っては、堀上人は日精の日蓮聖人年譜において繰り返し頭注によって破折を加えられている。しかし、これについても「時局文書」「回答文書」ともに一切触れることさえ出来ていない。要するに堀上人の誤解ではなく時局の勉強不足である、という当方の指摘に対して宗門教学部は全く反論不能なのである。
「本師の正助の対判稍濫ルガ如シ注意スベシ」(富要五・一二九)
「此下助行又大ニ濫ル用ユベカラズ」(富要五・一三○)
「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」
(富要五・一三一)
「本師読誦ノ例トシテ故ニ之ヲ引クカ」(富要五・二一四)
 これらの堀上人の厳しい頭注に対して、宗門は口を固く閉じて語らず、なのである。
 極めて多岐にわたって宗史を研究され、希代の碩学と謳われた堀上人が、全く足下にも及ばぬ不勉強な末弟共に、「うっかり見落として、先師誹謗をなした」(時局文書)などと素人の初歩的な過ちのように吹聴されたのでは、霊山にてさぞかしお嘆きのことであろう。

 

(二)宗門は日精の祖師伝引用の意味が全く理解できていない
 当方の「破折文書」においては、時局の基本的な勉強不足を指摘しておいた。要するに堀上人は、家中抄の中に記された日尊日印日代の三師の伝の箇所を誤解などされたのではなく、当然のことであるが三師の伝が日辰の祖師伝の引用であることをご承知であったことを証明したのである。
 堀上人述作の日興上人詳伝には、家中抄のこの三師の伝について、
「家中抄の此下の記事の長句全く祖師伝の直写なれば、爰に重複を避けて贅記せず」
「長文は殆ど祖師伝の引文なれども多少の補修がある分だけを記しておく」
「前後の文は全く祖師伝を引けども重複を恐れて省く」
「此等は文長けれども貴重の文献為れば掲げたが、祖師伝の文とは多少の相違がある」
等と、明らかに祖師伝の引用であることを承知しており、そればかりでなく、両文に多少の相違があることまで熟知されている。だいたい臨写した本人がその文章内に、それも数枚も隔てぬ箇所にある記述を失念するはずは無いのである。
 では、堀上人は何故引用文に頭注を加えられたのであろうか。それは、造像家日精が、祖師伝のこの記述を正義正論(日精同意の文)として家中抄に引いているからである。その証拠に、家中抄日興伝の末文には、
「日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり、(中略)其の後御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相亦幾許ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」
とあって、すでに日精は家中抄述作にあたって、諸伝の善悪を選び、是とするもののみを取って記述していることが理解できるのである。これは家中抄述作における日精の基本姿勢であり、故にこの三師の伝の引用も当然日精自身が善説と判断したものであって、ただ漫然と写したというが如きものではない。祖師伝とは表現に多少の違いがあることからもそれを読みとることが出来る。堀上人は、これらのことを全て理解されていたからこそ、引用文であっても頭注を加えられて、日精の誤りを正されたのである。
 「時局文書」がこれらを全く理解出来ていなかったことは、考察のお粗末さからも明らかなのであるが、もし万が一、分かっていて書いたのであれば、宗門教学部は教義を歪曲する魔の眷属であると断定することが出来よう。

 

 さて、問題の家中抄の頭注部だが、理解の便宜の為に、日印伝について簡単に解説すると、日尊の弟子であった日印は、康永二年の秋頃東国会津実成寺にいたが、師の日尊から使いがあり京都上行院へ戻ったところ、上行院の本堂に十大弟子の造像本尊が安置されているのを見て驚く。そして早々に会津に引き返した日印は、西山日代に書状を送って事の正否について質問をした。これに対し日代は、「大聖人や日興上人の御意は御書等に明白だ」と言っておきながら、「仏像造立の事は本門寺建立の時なり」と、国主帰依の時は造像もあるかの如きことを言い、最後に御遷化記録を引いて、やはり造像はまずいとも受け取れる、誠に中途半端な返答をする。こうした日代の曖昧な造不造論議に対し、日辰の祖師伝並びに日精の家中抄は、日尊の造像を擁護する為、「日尊実録」の、
「予が門弟相構えて上行等の四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随って之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり」
との文を引き、
「然らば則ち日大、立像は是れ日尊の本意に非ずと覚知す(中略)日代未だ日尊の本意を知らず蓮祖遺言の故事を挙げ以て日尊の一旦の義を破するなり」
と云って、日尊の十大弟子立像は本意でないとこれを庇った上、日尊が後日、十大弟子を除いて四菩薩を造立したことを以て、ついに
「日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故に故記録に背かざるなり」
と、日尊の造像を肯定してしまうのである。日亨上人はこの考え方が日精自身に元々あったことを知っておられた故に、
「本師造仏の底意を顕す」
と、頭注を打たれたのである。「記録」とは御遷化記録を指し、「記録に背かざるなり」とは、日尊の造像は、御遷化記録の「一体仏は墓所の傍らに立て置け」と御制止された一体仏ではなく、四菩薩を副えた久成釈尊であるから「記録」に背いていないという意味である。これがまさしく日精自身の考え方であることは、「随宜論」にこれと全く同じ論が展開されていることによって明らかなのである。即ち「随宜論」には、この御遷化記録の一体仏について、
「立像釈迦に四菩薩を加えられざること、是又宗祖の本意に非ず、故に若し遺告無くんば誤りて立像の釈迦を以て末代の本尊と為し聖人出世の本懐三箇の秘法の本尊を棄て置く可し、故に預て墓所の傍に立て置くべしと示す云云」
とあり、また、
「随身仏も一体仏の故に小権迹本の不同明らめ難し、若し帰敬致さんと欲せば四菩薩を加えて久遠実成の自受用報身如来と成し奉って帰敬すべし、(中略)是即還って久遠の釈迦造立の明文にして敢えて不造の証文には非ざるなり」(随宜論)
とあって、日尊の久成釈尊造立が誤りでなかったとする論拠が示されている。さらには
「日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録(日尊実録)の内に興師の御義に符号す」(随宜論)
と、日代の返状までも造像肯定の文証に引いており、まさしく日尊の造仏は日精の意に叶うところであったことが分かるのである。こうして見れば、家中抄の日印伝は祖師伝の写しとは言え、単なる転写ではない。「諸伝の善説には之に順し」との考えのもとに、日精が自身の意に合する論として焼き直していることは明らかではないか。よって「時局文書」の言う「家中抄も史伝書なるが故に、ご自分で創作するよりも先人の文を採用する方が穏当であろうと判断されたまでのことである」などと言うのは浅知恵者のタチの悪い詭弁であって、堀上人は、日精がこの文を採用する底意を読み取っていたからこそ、かかる頭注を加えたというのが真実である。故に家中抄稿本零編にも同じ箇所に
 「本師又田家の鋒鋩を顕す憂う可し」
と、真に辛辣な頭注を加えられている。「田家」とは日精の故郷要法寺を意味していることは容易に理解できるところだ。「又」の字も安易に看過すべきではない。「鋒鋩」が何を意味しているか、堀上人は他でも使っておられるから時局諸氏、法義研鑽委員会他教学部諸氏一同は手分けして探してみることだ。

 

 日印伝が祖師伝の引用であることだけを唯一の足掛かりとして、宗門はいかにも堀上人が誤ったような印象を作りあげようと姦策を弄し、それだけで全てを蹴散らかそうとするが、先にも述べた如く、それが為に家中抄の他の頭注には頬っかむりをして一切論及できていない。引用であることを失念されたために堀上人が間違ったと言うのであれば、
 「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」(富要五・二一三)
 「本師読誦ノ例トシテ故ニ之ヲ引クカ」(富要五・二一四)
等の家中抄の頭注は、いったい何を失念されたと言い訳するのであろう。具体的に説明してから堀上人のことを語るべきである。先師誹謗も甚だしいではないか。とても真摯に法を探求する者の論ではない。
 「回答文書」では「彼等が謗法の念慮を絶しないかぎり、宗門誹謗も尽きることはないのである。「狂人走れば不狂人も走る」の愚を思えば、そんな連中のたわごとにいちいち付き合ってはいられない」などと口汚く誹謗するだけで何とか誤魔化そうとしているが、堀上人を根拠もなく愚弄する宗門教学部自身のことを書いているのであろうか。とりわけ「いちいち付き合ってはいられない」という箇所に、「破折文書」に対して反論不能である、という本音が見え隠れしているではないか。どちらにしろ、この章については宗門側の完敗である!

 

(三)「日蓮聖人年譜」の示す事実に反論出来ない法義研鑽委員会
 「時局文書」の主張が、日蓮聖人年譜(以下「年譜」と呼ぶ)の中に述べられた日精の造仏の邪義を庇うことを目的としていた以上、当方の「破折文書」のポイントの一つが、この「年譜」の解釈にあることは当然のことである。ところが、「回答文書」ではこれに対する反論が一切不可能だったようで、「その内容のほとんどは、既に平成五年に静岡県三島市在住の学会男子部K某が、時局文書班の一人から情報を聞き出そうとして接触した際に持参した文書そのままで」と逃げを打っているが、当方は平成九年十一月の「時局文書」を破折したのであって、どうやら「破折文書」の内容を理解できないままで現在に至っていることが明らかになった。自分たちの首が切れて落ちているのに、そのことにも気がつかず、フラフラと亡霊の如く、ゾンビの如く彷徨っているようなので、その首が落ちてしまっていることを気づかせてあげることとしよう。
 そのためにも、まずは年譜の内容を正確に理解していただくために、読者各位には富士宗学要集第八巻をじっくりと読んでいただくことをお勧めする。宗門教学部の日本語の理解能力に根本的な問題があることがご承知いただけることであろう。

 

 「時局文書」の解釈が明らかに誤っていることが誰にでもすぐに理解できる端的な証拠は、「或る抄」の二行目にある「右の報恩抄の文是なり」である。
 「年譜」において日精は、報恩抄の文を引いて本門の教主釈尊を本尊とするという解釈と、本尊問答抄の法華経を以て本尊とす可しとの文との相違を論じ、或る抄の不完全さを説明している。ところが、「時局文書」では、日辰が書いたと称する「或る抄」を引用して日精が破折をしているというおかしな解釈を詐出して、
「其の中に初には本尊に二あり先ずは総体の本尊、謂く一幅の大曼陀羅なり、次には別体の本尊なり、別体に付いて又二つあり人の本尊と法の本尊となり、初に人の本尊とは右の報恩抄の文是なり類文あり。」
の文は「初には本尊に二あり」以降が「或る抄」の引用なのだと断言している。
 しかし、よくよく文章を読むべきである。「或る抄」が日辰の文の引用だとすれば、日辰はどうして本文の中にある日精が引用した「右の」報恩抄の文を指し示すようなことが出来ようか?「右の報恩抄の文」と言う言葉は、日辰ではなく日精の言葉であることは誰が見ても明らかなのである。
 それ故に「年譜」のこの箇所に対して堀上人が、日精の造像義を破折するために、
「本師未ダ富士ノ正義ニ達セザルナリ本師ノ所論間々此底ノ故山ノ習情隠顕ス注意スベシ」
と厳しく頭注を加えられているのは当然と言えば当然の事なのである。
 要するに「時局文書」は、基本的な日本語の読解力が欠如しているということを満天下に明らかにしたということである。この程度の理解力しかない無知蒙昧の分際で希代の碩学たる堀上人に対して「喜ぶべきことに、これは堀上人の誤解である」(時局文書)と身の程も知らずに、全て堀上人の誤解に貶めようとしたのである。まさに
「蛍火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり鳥鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし」
と大聖人に破折された愚かな弟子どもの姿ではないか。

 

┌──────────────────────────────────────┐
│(年譜の本文) ┌──────────────────┐                     │
│ 報恩抄に云く │本門の教主釈尊を本尊とすべし云云 文│ 此の文に本門の教主釈│
│               └──────────────────┘                     │
│尊を本尊とすべし等と云へり常途の本尊に違せり、其の上或抄に本尊問答抄を引き法│
│華経を以て本尊とす可しと此の相違はいかんが心得可きや、答へて云く此の或る抄を│
│見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失│
│あり今便に因みて略して之を出さん、其の中に                                  │
│┌────────────────────────────────────┐│
││(或る抄の引用???)                    ┌──────────┐       ││
││初には本尊に二あり・・・初に人の本尊とは│右の報恩抄の文是なり│類文あり││
││                                        └──────────┘        ││
││。観心本尊抄に云く、・・・。                                     ││
││本尊問答抄に云く問ふ末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定む可きや答へて云く││
││法華経の題目を以て本尊とすべき也文。                                    ││││但し三大秘法の時は久成の釈尊を以て本尊とするなり・・・                  ││
│└────────────────────────────────────┘│
└──────────────────────────────────────┘
 理解力の不足した宗門教学部の面々のために、簡単な図を示した。こんな中学生レベルでも分かるようなことさえも理解できない者たちに、それ以上の理論や解釈を説明しても、子供に高等数学でも教えているようなもので、何の意味もなく時間の無駄かも知れないが、全国の心ある方々には当方の主張はご理解いただけるはずなので、再度主要な論点を示しておくこととしよう。

 

 富士宗学要集第五巻一一七頁後段以降の、日精の問題提起は、佐渡の国より内々に申す法門とは何かとの論題を設けて「報恩抄」の三秘の文を引き、この文に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とあるが、これは常途の本尊(曼陀羅本尊)とは違うと言う、その上「或抄」には「本尊問答抄」を引いて法華経を以て本尊とすべきだと言っているが、この相違はどう解釈すべきだろうかとして、これに答えようというものである。
 まずここではっきりしている事は、「或抄」が本尊問答抄に則って法華経を本尊とすべしと主張している事、と同時に日精はこの「或抄」を、報恩抄の「教主釈尊を本尊とすべし」との文に相違対立した論として挙げていることだ。単に報恩抄に本尊問答抄の文を相対させるだけなら、わざわざ「或抄」を引く必要が無い。よって、もし時局の言う如く「初には・・・・」以降の文が「或抄」だとしたら、報恩抄に相違した論であるはずの「或抄」が「人の本尊とは右の報恩抄の文なり」と、報恩抄を引いて会通をしているのはどういう訳か。「或抄」が報恩抄に相違した論でなくなるではないか。
 さらに、続く文の中に(「時局文書」が「或抄」と決めつけた文中)「本尊問答抄に云く」と、まさに本尊問答抄を引いているが、次下に「但し三大秘法の時は久成釈尊を以て本尊とするなり」とあって、これも又冒頭の「或抄」を挙げた意図に矛盾している。
 次に、「時局文書」では「或抄」を唐突に日辰の著述だと決めつけるが、これは問題の文章が「或抄」の引用であるとの仮定が成り立った上に初めて成立する話であって、仮定に仮定を積み上げて、都合のいい結論を出そうとする子供だましの手口である。日精の論が日辰のそれに似ている事を利用してスリカエようというのであろうが、両者の論が酷似しているのは、日精が日辰の邪義を踏襲している為で、何の不思議も無い。「或抄の引用」との説が崩れれば、全て明らかになるのである。先に見てきたように、本尊問答抄と報恩抄を挙げておいて、「一を取って一を捨つ可らざるなり」と、「報恩抄」を造仏の依文に引く日辰が、その「報恩抄」に相違すると反論するために「本尊問答抄」を引くはずがない。それを、
「此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり」
との日精の「或抄」への批判までも、日辰に対する批判であるなどと強引にスリカエているのだ。
 理解を促すために繰り返すが、本尊問答抄を依文とした「或る抄」に対して、日精が「一偏にかける故に諸御書一貫せず」と批判している以上、この「或る抄」とは明らかに妙経本尊説であり、逆に報恩抄を引用して久成釈尊本尊説を説く後文が「或る抄」である筈はないのである。いくら精神的文盲の法華講員でも、これだけくどく説明されれば納得せざるを得ないであろう。
 また、「一偏にかける故に諸御書一貫せず」との文が、総体別体の本尊義への批判としてあてはまるだろうか。一偏にかけるどころか多偏に亘って諸御書を解釈し、一見相違するかに見える諸文に会通を加えて一貫させようとしたのが、まさに日辰の総体別体の本尊義であり、日精のこの「年譜」の文ではないか。日精にとって「一偏にかける」とは、報恩抄や本尊問答抄のように相違する諸御書の一偏に執してしまうと諸御書は一貫しないとの謂いなのだ。よって「或抄」は本尊問答抄のみで本尊を立てようとする故に、報恩抄等の諸御書に一貫しないと言うのである。「時局文書」の論では、この「一偏にかける」の説明が何らなされておらず、ただ「偏義」の一語に置き換えて誤魔化しているだけなのである。

 

 また、「三大秘法の時は唯二箇となるの失」について「時局文書」では、
「人本尊と法本尊とは体一であり一箇であるから、日辰の三大秘法の義を当家の実義で照らせば二箇になってしまうというものである」
と言うが、これには最早開いた口が塞がらない。「時局文書」の言い分によれば、
「当家の実義に照らせば、日辰のいう本尊と題目は別々ではなく一箇であってただ本尊である」
のだそうだが、いったい何時から当家は造像肯定論者になったのだろうか。日辰のいう三大秘法の本尊とは久成釈尊であり、それが題目と一箇となれば、造像仏をもって人法一体の本尊を認めることとなりはしないか。又、戒壇についても
「似て非なるものではありますが、富士を事とするために、一往与えて一箇とする」
などと、苦し紛れの解釈をしているが、いったいどこが似ているのであろうか。富士に立てれば仏像でも良いと言う事か、偏頗な自論に無理矢理筋を通そうとするからこんな珍説を生むのである。宗門教学部がどんな珍教義を唱えようとも、大聖人の説く三大秘法義とは、あくまで曼陀羅本尊を根本として、戒壇、題目と開かれるのであって、曼陀羅本尊を外しては戒壇も題目も無いのである。一大秘法の本尊によって初めて開かれる題目義、戒壇義であり、一即三、三即一の三大秘法ではないか。故に日寛上人は、日辰を批判するにあたり、「日辰の説く別体人法の本尊は人法体一の本尊なり」(これ即ち宗門教学部の説)などと日辰の久成釈尊義を受容した論理は一切言われず、
「日辰所引の諸抄の意は並びにこれ人法体一の本尊なり」(本尊抄文段)
と、大曼陀羅即蓮祖聖人の正義を説かれるのである。こうしてみれば「唯二箇となるの失」も、日辰への批判として甚だ的外れなものである事がよくわかるであろう。少なくとも造像に対する批判でないことだけは確かである。だいたい「時局文書」のこんな理屈が通るとすれば、それこそ日寛上人の三大秘法義も「唯一箇となる」と批判されかねない。宗門教学部は文の理解が転倒しており、それを無理にこじつけようとするため、かかる珍説を作るのである。おそらく彼等は日辰著述の「二論義」の中に、
「三大秘法は二大秘法也、人法一体の故也」
との文を見つけて、これを大石寺からの論難とでも思い込んだのだろうが、これは日辰自身の仮説反駁であって、人法体一論者の主張によれば三大秘法は二大秘法になってしまうぞと、反駁をなすための論である。その証拠に、
「妙経の外に本尊まします事を、観心抄に事行の南無妙法蓮華経並びに本尊文、若し妙経即本尊ならば並の字剰れる也、本尊、戒壇、妙経と別別に之を判ずる故に三大秘法の義分明なる者也」
と、妙経即本尊説に対し、それでは妙経と本尊が一箇であるから、別に本尊を立てねば二大秘法になるぞと誤った批判をしているのである。
 実は、これと全く同じ論が要法寺系では度々主張されている。享保年中に、要法寺末であった仙台仏眼寺の住持日玄の得意之記の文を紹介しておこう。
「但し三大秘法の時は久遠の釈尊を以て本尊とする也、法の本尊を以て事行の南無妙法蓮華経と名るが故也云々、報恩抄之を思へ、一向法の本尊と計り屈する、則れば三大秘法の時は二箇に一箇を失する也」
 ここにも「二箇となるの失」の意は明白である。一向法の本尊と計り屈するとは、まさしく大石寺に対する批判ではないか。
 これこそ日精の言う「唯二箇となるの失あり」の真意であって、題目義が無くなって二箇だなどというのは、文章の読めない天魔の一族の戯言である。わざわざ「当家」の実義に照らさずとも、曼陀羅本尊正意を知らぬ日辰には、元より信行の題目義も、正しい事理の戒壇義も無いのである。一事が万事この調子なので、「時局文書」は「年譜」の結論部分の、
「然に三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此の故に今之を挙げて以て支証とするなり」
についても都合よく読み違えるのだ。これには説明もいるまい。「然に」や「支証」といった日本語の使い方を知らぬのは、おそらく宗門教学部諸氏だけであろうから。

 

 さて次に、これに続く「年譜」の文中に、再び「或る抄」が出てくるが、またしても「時局文書」はこれをも日辰の論だと言い張っている。ウソもここまで来ると反論をする気力さえ失せてくるが、初めて読まれる方たちのためにもあえて放置せず、再掲することとする。
 この「或る抄」について日精は、
「此文を見るに当家に於て本門寿量品の南無妙法蓮華経と勧進するは誤なるべきか」
「此の三義を作ること皆一経三段を正と為る故か」
「既に相違と云ふ何の処にか同致を述せるや」
との批判を加えており、これによれば、この「或る抄」は本迹一致の論であることが分かる。いったい日辰は本迹一致論者であったのだろうか?否である。「二論義」や「観心本尊抄見聞」を一度でも目を通したことのある者であれば異論の無いことであるが、宗門教学部諸氏はそれも知らずにこんな珍説を恥ずかしげも無く並べ立てているのだ。これでは無知な法華講員を騙すことは出来ても、学会員を欺くことは到底出来ない。いったい「或る抄」の言う
「本門題目とあるを見て寿量品に限ると思はば誤の甚しきなるべし」
との説が日辰にあったかどうか、一度要法寺へでも行って教えを請うて来るがいい。日辰は終生、勝劣論者であって、しかも寿量一品正意を以て八品派等を攻めたことは周知の事実である。故にどう間違っても、この「或る抄」が日辰の論である筈が無い。それを「時局文書」は、
「此の三義を出せるは祖師大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり」
という「或る抄」への日精の批判を、日辰に対する批判であると力説して、鬼の首でも取ったかのようであるが、全くのお笑い種である。それどころか、この「或る抄」に対する日精の批判もまた、日辰の意である一品勝劣論の踏襲なのである。「年譜」では下山抄、観心本尊抄、撰時抄から四つの文証を引いて「或る抄」に反駁を加え、
「四文を引く繁きが故に自余之を略す」
と述べているが、これと全く同じように「四文」を引いて、八品要付の説を破し、寿量品正意を述べた論が日辰の「本尊抄見聞」にあるから、宗門教学部諸氏は目を皿にして読んでみることだ。いくら血の巡りが悪くても、「或る抄」が日辰の論で無いことぐらいは理解出来るであろう。
 そもそも「時局文書」が日辰の論だと決め付けた前段の文には、
「蓮祖所具の妙法蓮華経は偏に本門の妙法是れ正意なり」
と、明らかに勝劣論を立て、
「神力品に於て寿量の妙法を以て上行等に附属したまふ其の証文は観心本尊抄に云く」
として
「寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を閻浮の衆生に授与せしめたまふ」
を引いているのだから、後段の「或る抄」と明らかに矛盾していることに気づかぬのがおかしいのである。又、ここに引かれた本尊抄の文がそのまま「或る抄」への反論に引かれているのはどうした訳か。前段の文は「或る抄」の引用などではないということだ。
 このように「時局文書」の説は、最初から最後まで辻褄の合わぬご都合解釈であり、その論の立て方はまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の作り話でしかない。その極めつけが、「或る抄」は「三大秘法の記」だとの説だ。現存しない文書を引っ張り出して、そこへ逃げ込もうとするのは、今は亡き堀上人に罪を被せる手口と同じで、卑劣な宗門の体質をよく象徴している。ともあれ「三大秘法の記」なるものの中に「或る抄」と同じ記述などある筈が無いのだから、いずれどこからか発見されることを心ある関係者も
教学部諸氏以上に楽しみにしている。万が一発見されたら、是非隠さないようにお願いしておく。
 以上、この章でも宗門教学部が「時局文書」において如何にお粗末な論を展開したかが十分にご理解いただけたことと思う。また当方からの「破折文書」に対して宗門教学部の「回答文書」において、全く反論が出来なかったのは当然であり、またも出家の御用教学が在家によって完膚無きまでに打ち砕かれたのである。

 

(四)日精造仏の歴史的事実について
 登座後の書である「家中抄」「聖人年譜」に対する考察によって、日精が終生造仏家であったことが確認された訳だが、これらの事実に基づいて、日精造仏に関する歴史的側面からの検証を付記しておく。これはそのまま時局一班の日精問題第一弾、「創価学会の日精上人に対する疑難を破す」への破折になっているので参考にされたい。

 

 広蔵院日辰の信奉者であった日精は、敬台院の庇護の下、積極的に造仏を行っている。それは、「随宜論」の末文に明確である。
「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難を致す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり
    寛永十戌年霜月吉旦               日精花押
第一浅草鏡台山法詔寺、第二牛島常泉寺是は帰伏の寺なり、第三藤原青柳寺、四半野妙経本成の両寺、五赤坂久成寺浅草安立院長安寺、六豆州久成寺本源寺是は帰伏の寺なり」(富要九・六九)
 「時局文書」ではこの末文によって、「随宜論」は、相承を受けたことにより、突然正義に目覚めた日精が、かつての誤りを「廃忘」しない為に記録として「寛永十戌年霜月」に清書したものであるなどとしていた。もっとも、わずか数ヶ月後の「回答文書」では、
「これは誤りであったので、日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた、と訂正する。」
と全面的にウソだったことを認めているが、どちらにしろ、言った本人達も顔を赤らめそうな苦しい言い逃れではないか。ひょっとすると宗門教学部には、法門に対する理解力より以前に、日本語の理解力の欠如という根本的な問題があるのかも知れない。この末文は、造像に対する門徒の非難を雲散霧消させ、同時にまた、そのような非難の中でも決して自身の造像論を「廃忘」せぬとの決意をこめた由緒書きである。その証拠に「随宜論」本文の冒頭にも、以下に造読義を述べる前書きとして、
「他の侮りを禦がんと欲して文を賭るに心盲く、義を聴くに性聾にして其の器に非ずと雖も、要用の文を集めて愚が廃忘を助くるのみ」(随宜論)
としている。日精が大石寺門流による「侮り」に対抗して、廃忘を助けんとして集めた「要用の文」とは、まさに造仏の依文ではなかったのか。どこをどう読めば「かつての誤りを忘れないために」などと解釈できるのであろうか。「随宜論」は登座後の寛永十年に自分の造像義を再確認した書であり、さらに寛永十年という時を鑑みれば、将来に亘って大石寺僧俗が「不造不読」を主張することがないようにとの、法主としての指南なのであり、そのことは
「願わくは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期するのみ」(随宜論)
との記述にも明白である。この文に関して「回答文書」の主張した邪義については、次章で詳細に述べる。
 この末文の追記に、日精が造像を為したと思われる各寺名が列挙されているのであるが、これに対しては堀上人が、
「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せるが」(富要九・五九)
とある通りである。確かにこれらの造像が何時為されたかは不明であるが、先述のとおりの検証により、日精に終生変わらぬ造像思想が残ったことが明らかな以上、問題はこうした仏像がいったい何時誰によって撤去されたかということである。造像が登座以前であれ、以後であれ、また、宗門がいくら「相承によって改変した、改変した」と力んでみても、あるいは「元々正義に立っていた」とホラを吹いてみても、日精自身の手による撤廃の事実が無ければ、何の根拠も説得力も無いことになる。
 もしも富士の流儀に目覚めていたのであれば、何を差し置いても真っ先に為されねばならぬことであるはずだ。それを「時局文書」では、敬台院を始めとする信者の造読義を改めさせるのに苦労して、四十年程もかかってしまったなどと詭弁を弄していたが、「回答文書」ではあろうことか、
「暫時、摂受の方便として仏像を許容されたのである。ただし、大曼陀羅が撤去されたのではなく、大曼陀羅の左右に釈迦・多宝・四菩薩が置かれたのであろう」
と、宗門最初の頃でもないのに、要法寺の邪義を受け入れて造仏をあっさり認めてしまったばかりか、「登座以前から当家の正義に立たれていた」などとして、全く噴飯ものの邪義を主張し始めたのである。
 ましてや日精自身が仏像を撤去したという根拠は何一つ示していないのである。完全に頭破作七分となった阿梨樹の枝のような脳髄でなければ、このような論理破綻を平気で書けるはずがない。恥悶狂愕部と名称変更しては如何か。哀願に等しい推論など早々に撤回するべきである。登座以前(宗門によれば)に周囲の反発の中で、いとも簡単に造像を為した日精が、登座後にその撤去が出来ないのは全く理解出来ない話ではないか。敬台院のせいにするのもいいが、そんなに怖い敬台院の後ろ盾で造像を為したのであれば、門徒の真俗が疑難を為したのは何故か、後述するように敬台院が亡くなってから仏像撤去までに十七年もかかったのは何故か、せめて話の辻褄くらいは合わせておいてもらいたい。
 それではこれらの仏像を撤去したのはいったい誰で、それは何時頃なのかについて検証しておこう。寿円日仁の「百六対見記」によれば、
「付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住持は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京都要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくしたり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々。」(富要九・七〇)
とあり、日俊上人の代であるから延宝八年(一六八〇年)以降であることが分かる。  「日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し」
とあることから、日精が常在寺の住職を日永に付して降りたのが天和三年(一六八三年)でその年に死んでいること、法主の過ちを正すのは法主又は隠尊しかないであろうことから、この頃の法主・隠尊である日啓上人・日俊上人によるものであると考えるのが妥当である。それは、堀上人の
「日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し」
との記述にも符合する。
 なお、「寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり」「法詔寺の住持は日精上人」とあることから、「回答文書」の「登座以前から当家の正義に立たれていた」というのはウソ八百であることが早速証明されてしまった。まさか法主でも無かった者が「機の判定を行って造仏をした」などという辻褄の合わない話をするとは、法義研鑽委員会諸氏の悩乱も極まれりと言ったところである。
 これらを裏付ける別の史料として、後述する北山文書が存在するのである。

 

 元禄二年(一六八九年)に北山本門寺の日要が大石寺を寺社奉行に訴え出た訴状がある。これは、日俊上人が北山本門寺等の仏像造立・一部読誦・色袈裟・本尊書写・謗施納受等を高座において批判したことに対して、自讃毀他であり、幕府への逆心であると北山が訴えたものである。
 「回答文書」は、当方の「破折文書」でこの北山文書について引用した二十行ほどのうち、わずか五行の部分について反論を企てたものであり、如何にわずかな部分について勿体ぶって書いているかが理解できよう。この北山文書に関する破折は後述することとし、「破折文書」の主張を続ける。

 

 「随宜論」そのものの真意を素直に見て、「百六対見記」「北山本門寺の訴状」等の史料を合わせて考えれば、日精が造読家であったこと、それを改めたのは日俊上人であり、それも四十年後の日精の死を待たねばならなかったことは、誰にでも容易に理解できる。
 そこに浮かび上がる事実は、要法寺の造読思想を身につけた日精が、血脈相承を受けても大聖人の仏法の深義に達することもなく、造読思想を改めることもなく、宗祖本仏・大曼陀羅正意に立つこともなかったと言うことである。こう言っても納得出来ない方のために、日因上人が随宜論について述べた言葉を参考までに示しておこう。
「精師御年譜中にも亦日辰所立の三大秘法を述ぶ 依用し難きなり」
「久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず恐らく教相判を存し観心の旨叶わざる哉」

 

 そしてついには有縁の檀信徒をも悪道に導き、富士の正義を破壊したということである。まさに仏の予言どおりの、六師外道・五老僧の再誕とも言える、時代の妖怪出現の不思議な現証であり、「凡慮の窺うあたわざるところの、法水血脈相承という当家の秘義にまします、御仏智の絶大威力」を完全に否定して余りある悲劇的な法滅の姿である。
 日精に関連する事項を年表にしてみよう。

 

寛永 八年    一六三一      日精 牛島常泉寺造仏
寛永 九年    一六三二      日精 登座
                 日精 江戸法詔寺に造仏千部あり
寛永 十年    一六三三       日精 随宜論を著作
寛永十五年    一六三八      日精 下谷常在寺の再建並びに造仏
正保 二年    一六四五      日精 法を日舜に付す
承応 二年    一六五三      法詔寺日感 寂
寛文 六年  一六六六      敬台院 卒
延宝 八年    一六八〇      日俊 登座
天和 二年    一六八二      日啓 登座
天和 三年    一六八三      日精 下谷常在寺を日永に付す
                                  日精 死す
                 この頃より日俊造読批判を始める
元禄 二年    一六八九      北山日要 大石寺を批判
             三月  日俊 北山日要を批判
             七月  北山日要 大石寺を寺社奉行に訴える
            十一月  北山本門寺 大石寺を寺社奉行に訴える
元禄 三年    一六九〇  二月  日俊 寺社奉行に返答
             三月  大石寺本門寺 双方和解

 

 ここで寛永十五年(一六三八年)下谷常在寺の再建並びに造仏を例にとって日精が登座後にも造仏を行っていた事実を、「時局文書」の言い訳とあわせて検証しよう。
 宗門教学部の言い分をまとめてみれば、以下のとおりである。

 

一、下谷常在寺の再建は寛永十五年であり日精登座後であるから造仏は考えられない
二、仮に仏像があったとしたら、日精が住職をしている常在寺から後輩の日俊上人が仏像 を取り除くことは出来ない
三、故に仏像の撤去は日精の死後となる
四、常在寺後住は日永上人であり、日俊上人に仏像の撤去が可能なら、日永上人にも出来 たはずである
五、仏像撤去の最大の難関である敬台院はすでに死去している
六、「百六対見記」は寿円日仁が大石寺を批判するために不確かな伝聞に基づいて書いた ものであり、信用できない
七、故に日精の造読思想は登座までであり、登座後には無かった

 

 何とも情けない言い分であるというだけでなく、完全な論理破綻であることに気が付いたのか、すでに「回答文書」において最も基本的な前提を自ら撤回したため、現在の宗門教学部の見解がこれらについてどのように変更したのかを確認したいものである。とりあえず「時局文書」の言い訳について、一つずつ検証しておこう。宗門の邪義がこのように正義によって打ち砕かれた現証として、「回答文書」が前言を撤回したことが理解できるであろう。

 

 一は、下谷常在寺の再建並びに造仏が、寛永十五年であり日精登座後であることを宗門が認めたと言うことである。日精登座後であるから造仏は考えられないというのは単なる宗門の悲しい希望に過ぎない。
 二は、その通りである。
 三も、その通りである。だからこそ仏像撤廃が四十年後になってしまったのである。
 四もその通りであるが、日永上人が下谷常在寺の住職になったのは天和三年(一六八三年)の日精が死ぬ直前なのである。したがって造読家の日精が生きている間は仏像撤去が不可能だったのである。また、法主であった日精の過ちはやはり法主であった日俊上人が正すのが筋であろう。日永上人は単なる末寺の住職に過ぎない。
 五は、これこそが日精が造読家であったことの何よりの証である。この頃の宗内で、造読思想を持っていたと思われる有力者は三人いた。法詔寺日感、敬台院、そして日精である。しかし、法詔寺日感は承応二年(一六五三年)に、また敬台院は寛文六年(一六六六年)に、それぞれ亡くなっている。元禄年間まで生き残っていたのは日精ただ一人なのである。仏像撤去の最大の難関とは、日精その人のことなのだ。
 六は、「百六対見記」は寿円日仁が寛文十二年(一六七二年)に著したもので、今問題になっている箇所は後年の付け足しの部分である。この「日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず」との「百六対見記」の文について宗門は、「(仏像撤去に対して)日俊上人から、その話を伺っておらず、未確認であることも記している。だから、(百六対見記の記述は)不確かな伝聞に基づく事実確認のないものである」としている。日本語の理解力の欠如があまりにもひど過ぎるではないか。「其所以を聞かず」とは、「仏像撤去の理由を聞いていない」と言う意味である。「その話を伺っていない」などとは、どこをどう読めば解釈できるのか。しかも、この箇所は、日仁が要法寺以外の大石・北山・西山の化儀が造仏読誦であった証拠を列記しているところであり、未確認のままで要法寺に敵対する化儀の記録を残すことはあり得ない。もしも対立する行動があれば「元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々」とあるように、一くさり批判をするのは当然であろう。つまり、常在寺、常泉寺の仏像等の撤去の事実は日俊上人の時に間違いなくあったのである。まして寿円日仁は、同時代人で、しかも日興門流各本山と頻繁に交流のあった人物なのであり、そのような事実を誤認することはあり得ないではないか。
 七は、もう言うまでもあるまい。日精の造仏は登座後にも及んだのである。のみならず、日精は一生涯造仏読誦の邪義を捨てることがなかったのである。

 

 宗門教学部は「時局文書」において、「日亨上人は、日精上人の造仏が、御登座以後に及んだなどとは、どこにも述べておられず、ましてや謗法などとは一切仰せになってはおられないのである」と主張している。
 では宗門教学部にお尋ねしよう。日亨上人は「日精上人の造仏は、御登座以後には一切なかった」「日精に登座以後謗法など一切なかった」と仰せになられたことが一度でもあるのだろうか。万が一存在するのであれば、是非公表してもらいたいものである。
 日亨上人は、
「日昌より日啓まで大石九代の山主は要山出身たりと雖も初には大僧来り後には小僧を教養せし傾向あり、兎も角多少の新儀を輸入し、殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊」
「要山より晋める山主は始め日昌日就日盈の時は著しく京風を発揮せざりしが、但し其人柄に依らんも日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」
と述べられたのであって、登座以後日精自身がこれを改めたなどとは、それこそ「一切仰せになってはおられない」ではないか。
 日精の時代は、日昌上人が要法寺より招かれたことにより始まる「大石寺の要法寺化」の絶頂期であったのだ。「殊に」「著しく」「遂に」「全く」との堀上人の指摘を
軽々に看過してはならない。要法寺と通用のあった時代の日精以外の法主達も多かれ少なかれ「京風」と言われる要法寺の影響を受け、さらにそれが大石寺門流全体に影響を与えていったのである。
 日精の造仏読誦の邪義を改めたのは、日俊上人以降の僧俗である。それは日亨上人の
「其れも四十年ならずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し富士の古風を発揚せる」
「日俊已来此を撤廃して粛清に努めたるのみならず日寛の出世に依りて富士の宗義は一層の鮮明を加へたる」
との仰せにも明らかではないか。
 これで、日精は造仏読誦の邪義を終生改めることがなかったということが、頑迷な宗門の諸氏にも理解できたことと思う。

 

 日昌上人より日啓上人までの要法寺出身法主によって汚染された「富士の濁流」は、日寛上人によってかなり浄化されたのだが、除去しきれない汚染が大石寺門流に染み付いてしまい現在に至るのである。
 しかし、本稿に於いては日精が造読家であったことを証明することが主眼であるから、この「暗黒の石要通用史」全体に関する考察は次の機会にしておこう。それが明らかになった時には、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の御本尊と不二の尊体にまします」「(御本尊と法主という)根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」「唯授一人の血脈法水は、まさに人法一箇の御法体です」(いわゆる「能化文書」)などという戯言は、いくら恥を知らない日顕宗宗門といえど取り下げざるを得まい。
 当方は、なにも恥辱と汚猥にまみれた日蓮正宗・大石寺数百年の歴史をいたずらに暴露することを目的とするものではない。懐中に木彫りの釈迦像を潜ませているばかりか、先師の御事績を悉く破壊し、法華経の行者たちをカットして広宣流布を破壊せんとする悩乱管長阿部信雄に対して、正義によって諫めることすら出来ないで、狂信的盲目的法主信仰に陥った日顕宗僧俗の臆病な信心を嘆き、一日も早く日蓮大聖人の弟子としての正しい信仰に目覚めることを切に希望するのみである。

 

 以上が、「回答文書」が「この資料を決め手として日精上人を難じている」と決め付けた北山文書を抜きにした「破折文書」の概要である。いったい「回答文書」はこの中のどれだけについて回答又は反論が出来たというのか。ここまで読まなくとも、誰の目にも宗門教学部の対論敗北は明らかである!
 しかし、邪義は徹して責めねばならないので、いよいよ「回答文書」がわずかばかりの反論を企てた内容に関しての破折を開始する。

 

四、法義研鑽委員会の「回答文書」を破す

 

(一)「北山文書」に関する的外れな疑難を嗤う
 当方が「破折文書」において、日精の造仏読誦を論証する多数の破折の根拠のうち、傍証の一つとして「本宗史考」からの引用を行ったところ、このわずか五行の文書を、当方の全ての主張が「本宗史考」に基づいているかの如くスリ替えの論を構え、長々と意味不明な反論を試みたのが宗門教学部諸氏による「回答文書」である。

 

 その「回答文書」の内容たるや、大石寺に対して悪意を抱いている「北山」の言い分は信用できない、同じく「寿円日仁」の記述は信用できない、という希望的観測の域を出ない、何とも情けない空疎な代物であった。
 その上、何を考えたのか長々と訴状を史料として掲載したにも拘わらず、訴状の内容に関しては何の論証もしていない。大石寺の恥にこそなれ、何の得も益もない文書であることから無理もないが、どうせ引用するなら古文の読解力に極めて乏しい坊主や信者たちのために現代語訳も付けておくのが親切と言うものである。そうすれば、日精が造仏読誦を始めとする数々の謗法を犯したことも、日俊上人が御公儀の御威光を恐れて「日精の謗法路線」容認に転じたことも、また端無くも「回答文書」が認めたように「寿円日仁の記述と北山文書の記述が当時の状況を述べて一致する」ことも容易に理解できよう。

 

 まず、宗門教学部に対しては、全く的外れな論理展開を改めて、もう少し詳細の分析をしてみては如何かとアドバイスをしておく。
 当方は、宗門教学部が「非公式」であることを根拠として無視したがっている一部北山文書が有ろうが無かろうが、日精の造読の邪義の証明は可能であるので、読者諸氏の理解の便宜のために、まず「回答文書」がどのような主張をしたかを整理してみよう。

 

        富士宗学要集                  │          本宗史考                  
@元禄二年十一月十六日 北山本門寺    │                                    
    三月六日〜八日の経緯の箇条書き    │                                    
A元禄二年七月五日 本門寺判、日要判  │E元禄二年七月五日 本門寺判、日要判
  大石寺の件の訴訟の文              │    大石寺の件の訴訟の文            
                                      │F元禄二年十一月十六日 北山本門寺  
                                      │    寺社奉行にあてた北山の教義の主張
B元禄三年二月十八日 大石寺印、日俊印│G元禄三年二月十八日 大石寺印、日俊印
  寺社奉行あて返答書                │  寺社奉行あて返答書              
C元禄三年三月二十七日  本門寺、日要判│H元禄三年三月二十七日  本門寺、日要判
  寺社奉行あての和解文              │  寺社奉行あての和解文            
D元禄三年三月二十七日 大石寺印、    │I元禄三年三月二十七日 大石寺印、  
 日啓判、日俊判                      │ 日啓判、日俊判                    
  寺社奉行あての和解文              │  寺社奉行あての和解文            

 

 こうした比較を行った末に、「回答文書」では、当方が引用したFの訴状が、正式には奉行所に提出されなかった非公式書類であるから、内容は信用できないとしてFを棄却し、@も正式な訴状ではないとして、「日亨上人のこの事件に対する御見解は、富谷日震や創価学会とは違うのである」と、具体的な内容をいっさい論ずることなく不可解な結論を導いた。
 そもそも堀上人が富士宗学要集において繰り返して断言されていることを、耳を塞ぎ、目を閉じて、頭から「堀上人の誤解である」と主張する輩が、根拠も何も示さずに、突然殊勝なことに、堀上人が後注で
「七月五日は「六月」とも「十一月」とも在る本あり、但し十一月なるべきか」
と、推量の「か」の文字を使って示されたのを取り上げて、この言葉が絶対に正しいと主張するのだから、やはり堀上人は宗門教学部の悩乱を霊山で苦笑いをされて見ておられることは間違いない。
 しかも、Fを棄却した理由が、「奉行所の目安糺の際に、内容の吟味を受けて、不適当とされ、書き直して最終的に訴状として落ち着いたのがAEの文書である」として、Fが正式でないことを否定の根拠としているのだが、宗門教学部諸氏はエイズ問題での厚生省の内部資料が非公式だからと言って、事実ではなく、証拠にもならなかったと思っているのであろうか。逆に、非公式資料の中にこそ、双方の本音が露わになるのではないか。このような世間の道理に疎いのも、蛸壺の中で信徒の供養を貪るだけの人生を歩んできた法罰の現証であると言うことも出来よう。哀れな者たちである。
 また、法義研鑽委員会諸氏もご承知のとおり、当時の幕府の基本方針は、和談を奨励しており、それを慮った係の役人が、煩雑な検証を必要とする具体的な法義や、過去の事実の論証を嫌ったための決着なのである
 問題の北山の訴状には、「大石寺の自讃毀他」を訴えるに止まらず、訴えに乗じての新たな「北山の自讃毀他」を含む内容があったことが、取り下げられた理由であろう。つまり、日精の仏像造立及び日俊の仏像撤廃の事実を以て大石寺を責めることは、かえって不造不読批判即ち自讃毀他になってしまう虞れがあったのである。大石寺の返答書にしても、日俊上人が「辨破日要義」(歴全三・二三九)等で述べた造読批判等の「四箇条」の教義的正当性を主張すれば、それがまた自讃毀他となってしまい、到底北山側は納得しない。もしも和談が成立せず、寺社奉行所の手を再三煩わせて双方が何らかの罪状に問われることは、北山本門寺・大石寺にとって不利益であるのみならず、触頭の丸山本妙寺の落ち度ともなり、寺社奉行所にとっても不本意なことである。したがって、大石寺・北山本門寺がそれぞれ事を荒立てずに自山に有利な方向に進めたいという思惑と打算を盛り込んだ結果が、AEの北山の訴状と、BGの大石寺の返答書、そしてCH及びDIの両山の和解文書なのである。

 

 妥協の産物である公式文書よりも、非公式の私文書的なものの中にこそ、歴史の真実を垣間見ることが出来るということは、歴史を学ぶ者にとっては説明も不要の常識である。非公式文書であるからその内容が虚偽であると決め付ける宗門教学部の主張には、それ以外に全く言い訳が思い付かなかった内心の苦衷が偲ばれて可愛いものではないか。 そもそも日精自身が堂々と胸を張って御公儀に対して造仏読誦を主張しているにも拘わらず、末代の法義研鑽委員会ごときがそれを否定しようとすること自体に無理があるのだ。日精が造仏読誦の邪義を捨てることが無かったという事実を否定したいのならば、当方が「破折文書」で論証した家中抄・聖人年譜の日精自身の記述について、ちゃんとまともな反論をしてからにしなさい。

 

 当方としては、「回答文書」が懸命に否定した非公式資料を一切使用せずとも、完璧に日精の造読の事実を証明して見せよう。少し北山文書の本文を読めばすぐにでも理解できることであるにも拘わらず、宗門教学部の日本語音痴にはほとんど判読できなかったようである。もう一度中学校ぐらいからやり直してはいかがであろうか。
 それにしても、「現行の『富士年表』は訂正すべきである」等と、基礎学力の無い連中が、たいした分析もせずに勝手に歴史を改竄しようとしているが、富士年表は日顕の肝入りで長期間をかけて作成したはずである。驕慢謗法もいいところで、いったい何様のつもりで勝手に歴史を改竄することを決定したのかな?法主の允可はちゃんと得られているのか?さすが先師の御事績を全て抹殺しようとする日顕の眷属たちだけのことはある。ここに示された歴史的事実に対してキチンと回答してから口を開けないと、また後で痛い目を見ることになるぞ、と忠告しておこう。

 

 さて、宗門教学部が正式な訴訟文書と認めた元禄二年七月五日付けの北山本門寺の訴状AE、元禄三年二月十八日付けの大石寺の返答書BG、並びに元禄三年三月二十七日付けの双方の和解文書CH及びDIに基づいて元禄出入を検証してみよう。

 

 大石寺同様に、北山本門寺も寺運衰退の危機打開のために、京都で羽振りの良かった要法寺との通用を図った。その結果、要法寺流の造仏読誦の邪義に堕していったのも、日精存命中の大石寺と同様であった。
 天和三年、ようやく日精の死を待って、二十二世日俊上人(当時は隠居)と二十三世日啓上人は、大石寺門流から日精の邪義を払拭するため、不造不読の主張を始める。この主張が北山本門寺信徒の耳に入り、怒った北山日要は大石寺に対論を迫るが、この時は小泉久遠寺の調停により騒動は避けられた。
 しかし、その後も両者は互いに批判を繰り返し、元禄二年三月六日に日俊上人が客殿において北山批判と取れる説法を行ったことにより、ついに北山は大石寺を寺社奉行に訴える挙に出たのである。
 北山日要により悪口・自讃毀他であると訴えられた日俊上人の主張は、元禄二年の客殿に於ける談義「辨破日要義」(歴全三・二三九)からも伺えるが、主に下記の四項目である。
 一、法華経一部読誦は謗法堕獄
 二、鬼子母神、仏像造立安置は謗法堕獄
 三、本尊書写は、題目の下に筆者の名判を書き日蓮と天台伝教を並べて書くは師敵対
 四、素絹五条薄墨色以外の袈裟衣は謗法の所作
 これらは日興門流としては至極当然の内容である。しかし、悪口そのものが罪に問われる当時の法制の中で、さらに「朱印寺である北山本門寺を誹謗することは、朱印を授けた幕府を呪詛する逆心である」という、からっきし権威権力に弱い大石寺の弱点をうまく突いた北山日要の主張とともに、何よりも先代日精が造読家であり、去る寛文八年三月十七日に造仏読誦色袈裟着用等を認めた「大石寺の法式」を幕府に提出しているという既成事実を北山に突きつけられたことによって、日俊上人・日啓上人は窮地に立たされることとなったのである。そこで、裁判において勝てる見込みのない大石寺は、当時の幕府の訴訟における基本方針が和談(和解)推奨であったことを利用し、教義上の対決を避けて、「北山に対する悪口」の事実そのものを否定する戦術を取った。これが元禄出入りの経緯の概要なのである。

 

 大石寺の返答書BGの主な部分を分かり易く見てみよう。
「法華経一部読誦は無間堕獄とは申しておりません。富士五箇寺は方便品寿量品を以て勤行仏事作善等に読経しております。御当地(江戸)などの寺では大名高家の下にある寺においては、大旦那の望みに任せて一部頓写千部等も行います。先年、隠居日精が下谷常在寺在住のおり、江戸末寺代表として御公儀へ大石寺の法式を書き上げ申した中にその詳細がございます。」
「素絹五条の袈裟以外は謗法売僧であるとは申しておりません。富士五山においては古来より薄墨の衣・薄墨又は白五条の袈裟を着けます。貴人への出仕の時は色袈裟もまれに着けます。」
「曼陀羅の書き方は、題目の下に日蓮在判と書きます。もし本門寺において違背すれば師敵対になりますが、大石寺から(本門寺の本尊を)確かめたことはありません。」
「鬼子母神造立は富士五箇寺では行いません。大石寺はこの法式を守ってきました。しかし他寺での造立はかまいません。」
「御朱印寺である本門寺を誹謗したことは、御公儀への呪詛逆心になるということは、(大石寺は本門寺を誹謗しておらず)以ての外であり、勿体ないことであります。国恩は報じ難く、その上代々御朱印を下されたのですから言うまでもなく(大石寺のみならず)諸末寺に至るまで、いよいよ天下安全のご祈祷を余念なく行っております。」
「去る寛文八年大石寺の法式を書き上げました。先段に申し上げたとおり少しも違背しておりません。」
「造仏堕獄ということは無実です。当方より堕獄と申したことはありません。よって京都要法寺は造仏読誦を行っておりますが、大石寺より堕獄と申したことはありません。その証拠に当住まで九代の住職は要法寺より来ておりますし、未だに通用が絶えておりません。」
 以上が寺社奉行所への返答書の主な内容である。つまり、「四箇条」の義は今まで北山に対して述べたことはない、と言うのである。その上造仏読誦色袈裟着用も容認しており、造読家日精が幕府に提出した「大石寺法式」を一部読誦色袈裟着用の証拠として持ち出しているのである。また、造読を行っている要法寺との通用を造仏容認の証拠とするなど、保身のためにはなりふり構わぬ大石寺の臆病ぶりが現れていて悲哀を感じさせる。
 宗門教学部は何を思ったか、「当時の要法寺は曼陀羅正意が主流であった」「(当時の要法寺は)信仰上からは大石寺門流であった」等と図々しいウソを並べ立てているが、何よりもこの返答書の日俊上人の言葉が、当時の要法寺が紛れもない造読主義であったことを証明している。
 要法寺流の日精の邪義を破し大石寺に正義を復活させようとした日俊上人が、そのために北山により訴えられて窮地に立たされ、今度はその要法寺と日精の邪義によってその場を凌いだという事実は、何とも皮肉なものであるが、太平洋戦争中に宗門が戦争礼賛に努め、神札をも唯々諾々と受け入れたばかりか、保身のために法華経の行者たちを切ったことを思えば、何の不思議もない話ではある。宗門存続のため(と言うよりは我が身可愛さのため)には謗法容認もやむなしとするのが宗門の伝統なのであろうか。しかし、それはいったい誰の教えなのであろうか。
 宗祖大聖人曰く
「過去遠遠劫より巳来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし、国主の責め・なををそろし・いわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし・裸にて入るとをもへ」

 

 法義研鑽委員会諸氏は、自らの主張が史実に背いていることにわずかばかりは気が付いたのか、それでも法主の意向に沿わねばならないので、内心忸怩たる思いがあったためか、『百六箇対見記』の
「日俊上は予が法兄なれども曽て其の所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々」
を引用して、この「記述は、日精上人に造読があったとする根拠の一つであるが、この記述と北山文書の記述は当時の状況を述べて一致するかの如くである。」と、意外に素直に北山の主張と要法寺の主張とが一致していることを認めているが、「当時の状況を述べて一致するかの如く」どころか、事実はたった一つしか無かったのである。
 だからこそ「回答文書」でも「AEとBGを対照すれば歴然としている。AEの北山日要の訴状に対し、日俊上人がBGで反論されておられるが、その内容が逐一符合する。」と正直に認めているとおりなのである。
 対立する二つの勢力どころか、大石寺から公儀への正式な文書にまで、共通して日精の造仏読誦を認めているのであるからには、どうひっくり返っても否定できないことに気が付いたのであろうか。

 

 それでも信じようとしない精神的文盲の方に、繰り返し説明して理解を深めると、宗門の「回答文書」が正式な文書であると認めた北山から寺社奉行への文書AEには、
「去る寛文八年(一六六八年)申の三月十七日、御奉行所より仰せ出され候諸宗の寺法御尋ねの節、大石寺より壱部頓写千部読誦等執行仕り候儀、又僧階に依りて色々の袈裟衣を着用致し候儀又御免許に於ては色衣香衣を着用申し候儀証文差し上げ候」
と記録されている。
 寛文八年(一六六八)とは、要法寺日恩を師僧とした日典上人の代ではあるが、日精が隠尊として厳然と君臨していた頃である。奉行所に対して自ら謗法の化儀を行っている旨の証文まで提出したということは、名実ともに要法寺の化儀が定着していたことの証明である。
 ここで注目されるのは、寛文八年に大石寺が幕府に提出した「寺法」の内容である。なんと、一部頓写も、千部読誦も、色袈裟も、何でもありだというのである。俄には信じられない方も多かろうが、これが、大石寺憎さから北山日要がでっち上げたものではないことは、他ならぬ大石寺の返答書BGの中にも全く同じ内容が記録されているのである。
「御当地抔に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事」
「若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候」
「去る寛文八年大石寺の寺法書き上げ候事先段に申し上げ候如く少しも相違仕らず候」(以上 富要九・三二)
 隠居日精(この時の法主は日典上人)が江戸末寺代として幕府に提出した「大石寺の法式」、現代で言えば「宗制宗規」は、日興上人の御制誡に真っ向から反するものだったのである。

 

「一、衣の墨黒くす可からざる事」(日興遺誡置文)
「一、直綴を着す可からざる事」(日興遺誡置文)
「一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す仍て在在所所に法華三昧又は一日経を行ず。日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ず可からず、之に依て日興と五人と堅く持って不和なり」
(富士一跡門徒存知事)

 

 これらの日興上人の御制誡は、いやしくも日興門流を名乗る者ならば破ること能わざる条々である。日精は仏像造立だけではなく、色袈裟の着用、一部頓写千部読誦の執行等も行い、日蓮大聖人日興上人の正義を破壊し続けたのである。
 「回答文書」では、敬台院の手紙から推測して、「・・との記述から伺うことができる」「ここから読み取れることは、日精上人は敬台院がせっかく供養した色袈裟を着用せず、紛失したなどの言い訳をしたらしきことである」等と、またまた得意技である推測に推測を重ねて(この章だけでも推測の言葉が十二カ所もある)「日精上人が色袈裟を着用したかのように言うが、全く逆である」と、無理矢理の断定をしているが、その日精が公儀に提出した「法式」を前提に日俊上人が寺社奉行に提出した文書に、明確に
「若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候」
と記載している以上、たとえ稀ではあっても色袈裟を着用していたことに対する否定は出来ないであろう。
 また、一部頓写、千部読誦についての反論が無いということは、日精の謗法の化儀を認めたということで良いのだな?これだけでも「相承の威力」など無かったことが証明され、宗門教学部の主張などは木っ端微塵ではないか。
 もしも反論をしたいのであれば、色袈裟のみに限らず、全ての化儀が正しいものであったことを証明してはいかがか。日精がどのような化儀を実践しており、どの程度京風の化儀に流れていたかは、日精自身の家中抄にも明確に書かれているではないか。
「当門徒に諷誦を読まざる事(中略)祖師称嘆の言を加ふ敢えて制止せざる故に当家に於て諷誦を読むべきなり」
「頓写の事、如説修行の一なり最修行せらるべきなり」
「声明の事、凡そ四箇の法事は仏家の通用なり習って修行せらるべきなり」
「過去帳位牌等の事(中略)速に位牌を立て過去帳を立てらるべきなり」
「日待月待の事(中略)富士諸寺に諸天堂を建立すること、本尊の如きは諸天を寺内に勧請する為め、況や日待月待を制する事は全くなきなり」
(以上 富要五・二六五)

 

 ところが何を考えたか宗門教学部諸氏は、日要と日舒が同年代であって、たまたま同じ年に死んでいることを根拠に
「(日要と日舒が)意外と親密であったのかも知れない」「あるいは日舒が悪知恵を貸して、裏で糸を引いていた可能性もなきにしもあらずである。ならば記述が似ているのは当然である。」
と、全く推測に推測を重ねて「あるいは・・ならば・・当然である」と言う結論を導こうとしているのには呆れた。これをこじつけと呼ばないで何と呼ぼうか?実際に起きた事実を、当時の関係者が記載すれば、同じような内容になるのは当然であるにも拘わらず、たまたま同じ年に死んだら、裏で糸を引いていたと言われては、邪宗日蓮宗の坊主とは言え恨んで出てくるのではないかな?宗門教学部の論理で言うならば、大石寺から寺社奉行へ宛てた文書も日要や日舒の主張と同じ内容であったということは、「(大石寺と北山や要山も)意外と親密であったのかも知れない」「あるいは大石寺が悪知恵を貸して、裏で糸を引いていた可能性もなきにしもあらずである。ならば記述が似ているのは当然である」とでも推測出来るのであろうか?このような愚かな論理を主張する輩が正常な思考回路を持っていないことは誰にでも理解できることであろう。

 

 おまけを言えば、日舒が日精のことを悪く言っているという文書を根拠に、
「日精上人や大石寺を快く思っていないのである。」「所詮は日舒の血脈に対する不遜なその信心を、日精上人に見抜かれていたことによるのであろう。」
と訳の分からない見解を述べているが、日精の家中抄を読んでからそのようなアホなことを主張しているのであろうか?日精は家中抄において、日道伝では相承の中に日興上人の作った釈迦像があったということや、日影上人が相承を伝えることが円滑に出来ずに、在家に預けた、というようなことを繰り返して記録しているが、これも
「要法寺から来た日精上人が日影上人や大石寺を快く思っていないのである。」
「所詮は日精の血脈相承に対する不遜なその信心を、日興上人に見抜かれていたことに よるのであろう。」
ということなのであろう。
「相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云はく 日興御さくの釈迦一そん一ふく」(富要五・二一三)
「影公大衆に語って云く血脈を伝ふべき機なき是我が悲嘆なり、終に応永廿六年己亥病気の時柚野浄蓮に血脈を授けて云く」(富要五・二五五))
 こんな日精だからこそ、堀上人が頭注で
「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」
と日精の造像家の本質を暴かれ、破折を加えられているのである。
 宗門教学部の主張は、論理ではなく、ただのこじつけでしかないことが、こうした分析からも少しはご理解いただけるであろう。あまりお粗末な推測で歴史を改竄しないよう忠告しておく。

 

 堀上人が歴史的証拠として正式に採用されたというAの北山の文書の中には、
「種々遠慮御座候故六箇年の間堪忍罷り在り候」
と、日精が死んだ天和三年(一八六三年)から元禄二年(一六八九年)まで六年間も本門寺としては我慢に我慢を重ねていたことを記録している。このことは、当方の「破折文書」でも指摘しておいた「日精は隠居してからも隠然たる権力を持っていたこと」「日精が死んでから仏像の撤去が始まったこと」の傍証としているのだが、「回答文書」が何も反論出来ていないのは、堀上人もこの事件について我々と共通の御見解を持っていたことを、宗門教学部も認めたと言うことなのであろうか。

 

 以上のとおり日精が、
「大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事」
の如き謗法の化儀を実践していたことは明らかなのであるが、「回答文書」では事もあろうに「摂受的側面を含む、大石寺と要法寺の全体的見解として述べられたものである」などと、したり顔で謗法容認の邪義を認めているのである。日興上人の御指南として、
「此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず」(門徒存知事)
「今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か」(五人所破抄)
との五老僧に対する破折は、すでに宗門からは全く消え失せてしまったということなのである。五老僧の末裔たちにはやはり日興上人の正義は耳が痛いのではないかな。

 

(二)造読論に対する宗門教学部の無認識を嗤う
 宗門教学部の「回答文書」では、当方が「破折文書」で示した日精の造仏読誦の事実の証明に対して真っ向から反論できないために、論をすり替えて「実は日精の言う読誦とは唱題のことであるかも知れない」という悪質な誤魔化しを企てている。
 日精の年譜の中の
「一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるる御書に背く」(富要五・一〇三)
との文を挙げて、法華経一部とは「日精上人も自我偈と唱題一万遍であったかも知れない」と恐る恐る推測しているのだ。
 しかし、これこそ要法寺日辰の邪義を知らないままで、希望的観測を述べているに過ぎないもので、早とちりもいいところである。この文は日精が正行について一部読誦を否定しているだけであって、その点では日辰とて何ら変わらぬ「正行は題目」という化儀なのである。日辰の記述には、
「当門徒の有智無智皆一同に正業正行の一辺は寿量本因の題目なり」(読誦論議)
「正業必ず寿量品の名字証得の南無妙法蓮華経なり、然を或は本迹一念妙経と云い、或は八品所顕の妙法と云う、皆誤りなり」(開迹顕本法華二論義)
と、日辰も正行には題目を挙げているのだ。だからといって日辰が読誦論者でないなどとどうして言えようか。宗門教学部諸氏は根本的に読誦論の意味が判っていないようである。要山流読誦論とは、正行に題目を立てながらも、助行として二品読誦のみならず広く法華経一部読誦を認めてしまうことである。このような基本も知らずに誤魔化しばかりに逃げているのが宗門教学部の「回答文書」なのである。
 この助行を広くして一部読誦を行うことが問題なのであり、日精の過ちもまさにここにあるのだ。即ち「年譜」に、
「南無妙法蓮華経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり、一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり。所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり」(富要五・一二八)
とあるとおりで、これ全く日辰流読誦義である。さらに詳しく年譜には、
「直専持此経とは一経を指すに非ず専ら題目を持って余文を雑えずと云ふ文なり、尚一経の読誦を許さず何に況や五度をや、此の文の意唯妙経五字七字の題目を持って方便寿量の余文を雑えず、なほ方便寿量を雑へず況や一部読誦をや」(富要五・一二九)
と、正行題目を立て、方便寿量の読誦さえも、
「亦難行道となるなり、故に名字即の正業正行は唯題目の五字にして、方便寿量に非ず、亦一部八巻に非ざるなり」(同)
としておきながら、
「是逆縁に約しての正行なり、助行にいたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす。七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり」(同一三〇)
と、明らかに助行に一部読誦を許しているのである。是まさに師敵対の邪義であり、何ら弁解の余地はない。だからこそ堀上人が日精の年譜の頭注で、
「此下助行亦大に濫る用ゆべからず」
「助行を広くして遂に一部読誦に及ぶ 正く開山上人の特戒に背く 用ふべからず」
と厳しく破折されているのだが、宗門教学部諸氏は未だにその意味さえも理解できていないようである。坊主相手に講義をしてやるつもりなど毛頭無いが、彼等の勉強不足にはほとほと呆れるばかりだ。論議が噛み合わないのも原因は偏にそこにある。

 

(三)「随宜論」についての新たな言い逃れを嗤う
 日精の随宜論については、当方が「破折文書」において全文の略解を掲載して、日精の造仏に関する登座前後の見解を理解しやすく示しておいたにも拘わらず、「回答文書」ではほとんど耳と目を塞いでやり過ごそうという魂胆が見え見えである。
 「回答文書」では、わざわざ「随宜論について」という章立てをしておきながら、
「随宜論の述作と敬台院との関係を考え直してみたい」と、最初っから随宜論に関して論じることから逃げてしまったのである。この辺に宗門教学部のレベルの低さが如実に現れていると言っても過言ではなかろう。
 宗門の「回答文書」が随宜論について唯一反論らしきことを企てたのは、随宜論の最後の箇所の
「日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符号す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先んじて仏像を造立し給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云(ママ:者)はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非ず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ」(随宜論)
についてだけであるが、これについて宗門教学部は明らかに解釈を誤っているので正しておく。
 まずこの文を通解すれば、
「日代上人の日印への書状には、『仏像造立の事は本門寺建立の時である。未だ勅裁は無い。国主御帰依の時に三箇の大事を一度に成就するべきであるというのが宗祖の御本意である。御本尊の図は其の為である』と記されている。此の文は日尊実録の中の日興上人の御義に符号している。であるならば富士山の立義は、国主が帰依するまでは釈迦像を造らずに、戒壇の勅許を待ってから三箇の大事を一度に成就するべきである。もしこの義に基づけば、日尊が本門寺建立の時に先んじて仏像を造立したのは一箇の相違である。誤りであると言うべきかどうか、まだ本門寺建立の時が来ていないのに本門寺と号するのも又一箇の相違であるが、誤りであると言うべきだろうか。このような内容は時の問題であり、ここで論ずることではない。後世の学者が造不造の二義を調和して理解すれば、造不造を間違えることはなく、永く謗法を停止して自他共に成仏を期することを願うのみである。」
となるのであるが、「回答文書」ではいくつもの取り違えをしている。
「仏像を造立するのは国主が帰依し本門寺を建立する時である、というのが@西山日代の本意であり、また、それはA日興上人の義にも符合する。富山の立義は仏像を造らないで、戒壇の勅許を待って、三箇の大事を一度に成就すべきである。ならば本門寺建立の時が至っていないのであるから、B要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している。Cこの本門寺ということと、仏像造立することの二つを和会するところに、造・不造の相違は起こらなくなり、謗法は停止されて成仏がかなうのである」
(─線部は明らかな誤り)と解説し、「ここに述べられることは、要するに未来の本門
寺建立の時に仏像を建立するのが正しいと言われているのである。すなわち、未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる」と、文意が全く理解できぬままに、誤魔化しの愚論どころか明らかな邪論を述べているのである。

 

  項目ごとに少々破折を加えれば、
@まず「西山日代の本意」などという解釈は、全く日本語が理解できていない証拠である。要するに随宜論に書かれた内容がさっぱり分かっていないのである。西山日代の書状の中に書かれている文章であるのに、自分の「御本意」などと書く者がどこの世界にいるであろうか?祖師伝にしろ家中抄の日印伝にしろ、直前に「大聖日興上人の御意」等と記されて、大聖人日興上人の御本意がどこにあるかを論じている箇所なのである。これを「西山日代の本意」だとは、ヘソが茶を沸かす類の解説である。これだけでも宗門の回答文書が如何にお粗末な代物であるかが理解できよう。

 

A次に、「日尊実録の中の日興上人の義」がどういう内容なのかが分かって「日興上人の義にも符合する」というような解説を行っているのであろうか?「回答文書」の論理では「西山日代の本意」=「日興上人の義」であり、そうすると「日興上人の義」と「富山の立義」とは違うとでもいうことなのであろうか、それとも「西山日代の本意」=「富山の立義」となってしまったのであろうか。どちらに転がっても、ため息の出そうなお粗末さである。
 実録の第三には、
「日興上人仰せに云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之有り、尓らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬するに憚り有り。乃至広宣流布の時分まで大曼陀羅を安置し奉る可し」
「予が門弟相構えて上行等の四菩薩を相添え給へる久成の釈迦略本尊資縁の檀越の助否に随って之を造立し奉り広宣流布の裁断相待ち奉る可きなり」
と、日興上人の言葉として一見造像を正当化するが如き論を述べているのだが、どうやら宗門は未来造仏を正義とする本門寺や要法寺と同じ異流儀に身を委ねたか、あるいは日興上人とは異なる流儀であると決定したようである。
 正しく富士の正義を示せば、「西山日代の本意」と「日興上人の義」とは異なるのである。更に正確に示せば、「西山日代の本意」ではなく「大聖人の本意を取り違えた西山日代の書の意」であり、その内容は、国主帰依の時の造像である。「日興上人の義」とは一宗弘通当初における像法残機の強執の者のための暫用還廃論としての造像容認であり、その御本意は大曼陀羅正意であることは明白なのである。
 宗門教学部は、日興上人が像法残機の強執の者のための暫用還廃論として述べられていることを完全に取り違えて、数百年も下った江戸時代にまで造像容認を適用することとしたようだが、これらの邪義を日寛上人が必死に破折されて、富士の正義を蘇らされた戦いをすでに完全に忘れてしまったのか。日寛上人は末法相応抄で、
「是れ宗門最初なる故に宜しく信者を将護すべき故なり」
「猶是れ宗門草創の時なり設い信心の輩も未だ是れ一轍ならず、是の故に容預之を誘引し故(ことさら)に事を子孫の中に寄せて意は実に造立を制止するなり」
「四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり」
「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
と、日興上人以後の造像思想は正義ではないとして明確に破折されているではないか。
 日精が随宜論で三箇の秘法建立の姿を具体的に述べているのを理解してこのような邪論を述べているのであろうか?随宜論の日精の主張によれば、
「本門心底抄に云く、戒壇其れ豈に立たざらんや。仏像を安置すること本尊の図の如し文。此の文を以て推するに戒壇成就の日は仏像を造立するは分明なり」
「本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る」
等とあるように、日精の義に依るならば未来広布の時に釈迦像を建立することは明らかではないか。「回答文書」はどうにかして日精の造像の邪義を誤魔化そうと
「さらに推測すれば・・・大石寺で仏像と言えば、御影様であることを周知徹底するために造立されたのかも知れない」
と、釈迦像を消し去るための無駄な努力を試みているが、如何せん随宜論には明確に「本堂に仏像」「祖師堂に日蓮聖人の御影」と立て分けている以上、徒労に終わってしまったようだ。「さらに推測すれば・・かも知れない」という弱気の表現が、宗門の本音を示していて、その無様な姿に似ずなかなか可愛いではないか。

 

Bさらに「回答文書」では「要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している」とさっぱり訳の分からぬちんぷんかんぷんな解説をしているが、少しは原文に沿って正しく理解しようと努力してはいかがか。それとも宗門の所有する随宜論とやらは、本物とは異なる内容でも書かれているのであろうか?当方の「随宜論」には、
「若依此義者 日尊先本門寺建立時造立仏像者 一箇相違也 可属罪過者 未到本門寺 建立時号本門寺者 又一箇相違也 可属罪過乎 如此段非今所論」
とあり、これに基づいて正しく分かりやすく通解すれば、
「もしこの義によれば、日尊が本門寺建立の時に先んじて仏像を造立したのは一箇の相違である。誤りであると言うべきかどうかは、まだ本門寺建立の時が来ていないのに本門寺と号するのも又一箇の相違であるが、誤りであると言うべきだろうか。このような内容は(時の問題であり)、ここで論ずることではない。」
となるのであろう。要するに日精は、日尊の造仏を一旦否定しておきながら、本門寺建立の時が来ていないのに本門寺と読んでいることを間違いであるとは言わず、「乎」という疑問又は反語の係助詞を使用して肯定し、併せて日尊の造仏をも受容しているのである。そして、これは「時」についての議論なので今は論じない、と逃げを打っているのである。これらのどこをどう読めば「要法寺日尊が仏像を造立するのも、西山が本門寺と号するのも、相違している」などと言う珍妙な解釈が出来るのか、もう一度宗門の坊主どもは頭を冷やして考え直しては如何か?春が来て日差しも強くなり、また温暖化も進んで来たので、直射日光と両方で完全に脳味噌が蒸発してしまったのではなかろうかと心配している。

 

C「この本門寺ということと、仏像造立することの二つを和会するところに、造・不造の相違は起こらなくなり」という解説も噴飯もののご都合主義である。要するに、勅許が下りたら三箇の秘法を建立し、本門寺と号すると言いたいのであろうが、日精の称する富士の正義に基づくならば、併せて本堂には仏像も造立し、祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像を、其の上戒壇堂を建立して、その中に法華経一部を納めて戒壇を築き板本尊を安置し奉るのだから、いったい要法寺が富士に引っ越して来たのか、それとも北山と合体したのかと、笑いを堪えるのに苦労している。いったい宗門はいつから造仏を正義とするような邪義に陥ってしまったのであろうか?
 その証拠に「回答文書」では、「未来の本門寺建立の時に仏像を建立するのが正しいと言われているのである。すなわち、未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる」
と、いよいよ完全な邪義に陥ったことを白状した。日寛上人の末法相応抄における
「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
との御宣言も無視し、
「開山上人・御弟子衆に対するの日・仍容預進退有り、是れ宗門最初なる故に宜しく信者を将護すべき故なり」
との、日興上人の像法残機の強執の一機の為のやむを得ざる説法も省みず、その後三百年もの時間の過ぎた江戸時代にまで適用して、ついには未来造像をも容認してしまおうとは、日寛上人がこれらの邪義を破折された意義を日顕宗の輩は全く灰燼に帰すつもりなのであろうか?
 日精が日代の文を利用して、広布の時に約して造仏を肯定することに本意があることは明らかで、ただ、日代の義によれば、勅裁以前の造仏は一箇の相違となるために、それについては、
「此の如きの段今の所論に非ず」
と逃げているのである。もしも「現在制止に本意がある」のであれば、「此の如きの段今の所論に非ず」と誤魔化す必要はなかろう。宗門教学部諸氏もそこに気が付いたのか、ご丁寧な現代語訳を載せておきながら、この部分だけは意図的に省略しているのだから何をか言わんやである。

 

 また、日因上人も日寛上人の言葉を踏まえて、日精の随宜論に対して全く同じ指摘をしているのである。
「精師御所存は当家実義と大相違なり、具に二十六代日寛上人造仏読誦論返答抄末法相応抄に分明なり」
「開山広布を待ち造立を許すは是実義に非ず」
 そもそも、随宜論が残された経緯を考えれば一目瞭然であろう。日精が法詔寺を建立し、釈迦像を現在に造立したことに対して、門徒からの轟々の疑難が沸き起こったため、これに応えて書いたものだと言うことが全く理解できていないようである。「回答文書」の言うような、「未来造像に寄せての、現在制止に本意があると拝せられる」などと言い訳できる状況ではなく、現在造像した者が僧俗に非難されて未来造像に基づいて正当化を企てたのが随宜論であることを忘れてはならない。つまり、日精の随宜論の場合は、「本来造像を誤魔化すための未来造像に本意があると拝さねばならない」のである。
 そもそもこの日代状を利用して造仏を正当化しようとした最初の人物は、かの造仏家要法寺日辰であり、その書「祖師伝」には、すでにこの日代状を引いて、
「仏像造立の事、本門寺建立の時なり文、然るを日尊本門寺建立の時に先つて仏像を造立し玉ふ是れ一箇条の相違なり、過罪に属すべきや不やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦像供養抄、骨目抄唱法華題目抄等を以て之を決すべきか」
と記しており、日精は随宜論でこれを猿真似したに過ぎないのである。文章が酷似しているのは偶然ではないのだ。堀上人はこの記述について、
「日代より日印への返状をも引いて仏像造立等の底意を香わせてある」(詳伝・五二四)
と、明確にその真意を見抜かれており、しかもその日代状そのものに対してさえ、
「代師は、すでに本迹論で失脚したのみならず、国立戒壇の本尊は叡山式のごとく仏像たるべしとの秘念があった」(詳伝・二八一)
と明言されている。だからこそ、この日辰の意を再び掲載した日精の家中抄にも
「本師造仏の底意を顕す」
と頭注を加えられたことは「破折文書」に詳述したとおりである。上代のことにおいてさえ「現在制止が本意」などと許してはいないのである。宗門教学部の狂いが如何に大きいかが十分にご理解いただけたであろう。

 

 また、「回答文書」では、随宜論を著す契機となった「日精上人に疑難を呈した門徒の真俗の中心者は、西山本門寺十八代の日順であろうと思われる。当時の富士の五山は、現在からは想像もつかない相互の通用交流があった。日順の弟子の日衆は日顕と改めて江戸上行寺から本宗の常泉寺の七代に栄転した人物であり、その弟子が総本山二十五世の日宥上人である。これより前には、西山の十六代として要法寺の日性の弟子の日映が就任している。」と、したり顔で宗史を騙っている。
 宗門人であるならば、もう少し正確に宗史を研鑽しておくべきではないのか?
 例えば、要法寺の日性の弟子の日映が、西山の十六代として就任した、などという記録がこの世に存在するとでも言うのであろうか?いったい何を考えてこのような誰にも見破られるウソ八百を書き散らしているのであろうか?西山十六代の日映は、没年が慶安五年六月九日であり、一方要山日映の没年は寛文八年七月一日なのである。どうしてこれら全くの別人が、「西山の十六代として要法寺の日性の弟子の日映が就任」するようなことが出来ようか?完全に誤った事実認識に基づいて勝手な推論をして、不可解な結論を引き出しても、誰も信じてはくれないのである。
 西山日順にしても、大石寺を本寺と仰ぐどころか、弟子の日衆が江戸上行寺の第十代であった時に、天英院という大スポンサーを盗んで常泉寺に移ってしまったから、栄転どころか上行寺の第十代としては除歴されているのではないのか?日順が天英院に対する未練たらたらの長文の手紙を寺社奉行に対して書いているのはご存知のとおりであろう。自分の師僧に後足で砂を引っかけるようなことをするのは、日顕という名前の坊主の宿命であろうと思われる。日順も大変な苦渋を味わったし、日達上人の霊山での苦衷を心ある宗門人であるならば生命に感じるべきである。
 このように「回答文書」では、誤りに誤りを重ねた推論をして「西山には十八代日順や日顕のように、大石寺を本寺と仰ぐ僧侶がいたことを知るべきである」と盲蛇に怖じずの断定をするとは、チャンチャラ可笑しいとはまさしくこのことである。

 

 それにしても、当方としては、宗門が随宜論に関する反論を少しは試みることを期待していたが、尊大ぶって「随宜論について」という章をわざわざ起こしておきながら、特に随宜論についての論を展開するのでもなく、全く対論を避けてしまったことには、肩すかしを食らったような気分である。仕方がないから、わずかに回答文書が触れた箇所について、以上のとおり完膚無きまでに破折し、打ち砕いておいた。
 宗門教学部の稚拙極まりない言い逃れに万が一にも翻弄されないためには、随宜論を読むことをお勧めする。一読さえすれば、三十一世日因上人が、随宜論について、
「精師御所存は当家実義と大相違なり、具に二十六代日寛上人造仏読誦論返答抄末法相応抄に分明なり」
「当家造仏を許さず蓮祖開山已来已に五百年なり 精師一人之を許す」
「不造の現証文証之を会すに恐らく曲会なるべし」
「又精師関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す 今漸く之在り寺々皆之を取除くなり」
「久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず恐らく教相判を存し観心の旨叶わざる哉」
と厳しく破折をされている方が、日蓮正宗誤用教学部の愚か者共の戯言よりもはるかに正しいということも、よくよくご理解いただけるであろう。

 

(四)謗法の罪を信者に押しつける卑劣を嗤う
 「回答文書」では謗法法主日精の罪を全て敬台院に押しつけて、「敬台院の仏像に対する強い執着が改まることはなかった」ので、「暫時、摂受の方便として仏像を許容されたのである」と開き直ったばかりか、その根拠として「五人所破抄」を引いて、
「執する者は尚強いて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし云云」
と、日興上人が、一宗弘通当初における強執の一機のために一時の容認をされたことを、三百年も後の江戸時代にまで持ち込んだ挙げ句に、
「機の判定は時の御法主上人の深意によるのであり」
と強弁して、日精の造像そのものを正当化しようとしたのである。
 そもそも「回答文書」の論理では、
「法詔寺の造仏は登座以前である」
「登座以前より当家の正義に立たれていた」
「機の判定は時の御法主上人の深意による」
等と主張しているので、これらをもしも受け入れたならば、そこから出て来る答えは、
「日精は、登座以前から当家の正義に立っていたにも拘わらず、法主でもない時に、勝手に機の判定をして、造仏を許した」
という結論になるのである。話の辻褄ぐらい合わせておくようにと前回あれほど注意しておいてあげたのに、少しも懲りていないようだ。この頃は猿でも反省すると言うのに。

 

 すでに破折したとおり、日興上人の像法残機の強執の一機の為のやむを得ざる説法は、その後三百年も下った江戸時代にまで許されたものではないことを肝に銘じるべきである。「回答文書」では、何を考えたか、造像を肯定するのに日寛上人の末法相応抄まで引き合いに出して、「強執の一機の為なり」との文を乱用して必死の弁解を企てているが、
「一には猶是れ一宗弘通の初めなり」
「是れ宗門最初なる故に宜しく信者を将護すべき故なり」
と、日寛上人は許容の時を明確に宗門最初に限定しておられる。それを「時の法主さえ許せばいつでも造像を容認してよい」などとするのは、明らかに師敵対の大謗法である。宗規にまで背いて「正依」を時の法主の言葉とする邪宗門らしい結論ではないか。
 このようにまともに六巻抄も読めない連中が、「法義研鑽委員会」などと大層な名前で、平気でウソ八百のご都合教学を公式文書として発表するが故に、堀上人も
「興師容与摂受 却為永世禍 可悲」(研教六・四九)
と、末代の馬鹿共の早とちりを嘆かれているのだ。この分では、あの京かぶれの新客殿に仏像が建ち並ぶ日もそう遠くないかも知れない。日寛上人の
「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
との御文をくれぐれも忘れないことだ。

 

 それにしても、宗門教学部は敬台院に全ての責任をおっかぶせて、日精は造仏家ではなかったが敬台院が仏像を供養したという論理を騙っているが、よくよく考えても見よ。誰が相手の坊主の合意も無しに仏像を供養できるか。一升瓶や米俵を供養するのとは訳が違うであろう。日興上人の正義も教えず、仏像の替わりに御影にするという代替措置もとらず、日精は間違いなく仏像を建立したのだ、ということを宗門教学部も不承不承ながら認めたのである。そして、仏像容認こそが「当家の正義に立たれていた」者の化儀だと宣言したのだ。

 

 さらに宗門教学部諸氏は何をトチ狂ったのか、「時局文書」で大見得を切って述べていたウソ八百である
「造仏思想をお持ちであった日精上人が、血脈相承を受けられたことにより、その迷いから覚め、当家の深意に至られたという、当家の血脈相承の威力を証明する文書なのである」とか、
「日精上人の展開された御化導の前半は、造読であられた。そのために、大石寺の血脈を嗣ぎ、宗祖の正意に至った後、日精上人は敬台院を教導し、仏像の執着を取り除きまた仏像を撤去されるのに大変苦労せられたのである」
などといった、宗門教学部のこれまでの主張の根幹部分を、「回答文書」では正直に全てが大ウソであったと認め、何の恥ずかしげもなく撤回したばかりか、こともあろうに
「これは誤りであったので、日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた、と訂正する。」
と、推論に推論を重ねた上で、無茶苦茶なホラを臆面もなく吹きまくって、大恥の上塗りを行ったのである。少しは随宜論に対しての反論を試みてから方針変更をすれば良かったものを、またまた宗門教学部はウソ八百のホラばかりを吹いていると言うことが、誰の目にも明らかになってしまったではないか。要するに信者に罪をおっかぶせてはみたが、やはり論理破綻は目を覆うばかりなので、勢い余ってつい数ヶ月まで胸を張って主張してきた「相承の威力」論を全面的に放棄した結果、もともと正しく、何の間違いも犯していないという完全な論理崩壊へと突き進んでしまったのである。あら面白や、日顕宗がものに狂うを見よ!

 

 宗門教学部は完全に要法寺の化儀に染まったようで、「回答文書」では、「暫時、摂受の方便として仏像を許容されたのである」との謗法容認に続けて、「ただし、大曼陀羅が撤去されたのではなく、大曼陀羅の左右に釈迦・多宝・四菩薩が置かれたのであろう」と珍解釈をしているが、御本尊と釈迦・多宝・四菩薩の像を安置することこそが要法寺の化儀ではないか。これこそ造仏と呼ぶのである!日精が随宜論に示した造仏の化儀そのものではないか。
 ところが宗門は、このことを根拠として「日精上人は御登座以前から当家の正義に立たれていた」と悦に入っているのであるから、やはり法詔寺は要法寺の化儀によって汚染されていたばかりか、登座後の日精によって宗門末寺にまでその悪弊が及んだのは、堀上人のご指摘のとおりなのである。
 曼陀羅を書いた要法寺法主たちは「宗祖本仏・大曼陀羅正意」であったと言う宗門教学部の愚論は次章で破折するが、日精が随宜論で、
「予法詔寺建立の翌年仏像を造立す」
と証言したとおり、日精が造像した寺に、他の要法寺系の寺の化儀と同じく、そうした仏像とともに、日精自身の書いた曼陀羅が掛かっていたことは「敬台院状」等で明らかな事実なのである。
 もっとも敬台院は、日精の本尊については気色が悪いので突き返し、日興上人の御本尊を安置した旨を記録しており、「回答文書」の論理に基づけば、敬台院が日興上人の曼陀羅を安置していたから造仏義ではないということになるのだが?宗門の論理が如何に破綻しているかがここでもご理解いただけたであろう。
「我等持仏堂には開山様の曼陀羅を掛け置き申し候此、此(精師筆)曼陀羅は見申す度に悪心も増し候まま衆中の内に帰し申し候」(富要八・五八)
 この「強執の一機」であった敬台院の墓は、今も御影堂の後ろの三烈士の墓の隣にあることから、学会員ももっともっと徹底的に邪宗門を攻撃しなければ、後世の者たちから馬鹿にされるのではなかろうか。

 

 このような宗門教学部だから、日精が信徒に褒美として与えた本尊が仏像でなく曼陀羅であったことや、常在寺の本堂、持仏堂ともに曼陀羅本尊を安置していたこと等を根拠にして、日精は造仏家ではなく「当家の正義そのもの」などと、強行突破の結論を出そうと焦っているが、要法寺の化儀が曼陀羅と仏像との両方を安置するものであり、「破折文書」で証拠を示したとおり、日精が造読家であって仏像を安置したという実績がある以上、日精自身が曼陀羅を撤去した事実が確認出来なければ、いくら曼陀羅を書いたり安置した実績を挙げても、何の反論にもならないことぐらい理解できないのであろうか?
 すでに示したとおり、随宜論には、
「本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る」
と、曼陀羅も御影も久成釈尊像も安置することを明確に示しているではないか。いったいこれが「御登座以前から当家の正義に立たれていた」者の主張であるなどと、どこをどうひっくり返したら言えるのか、委細に教えていただきたいものである。
 こうして、いよいよ大石寺も再び造仏の邪義を受け入れるのであろう。日顕の懐中の絣の袋に入った木彫りの釈迦像こそ、全ての邪義の大本であるに違いない。そして、木彫りの随身仏の化儀も「時の御法主上人の深意による」のであるから、現在の日蓮正宗の正義(?)となるのであろうか。もしもこれについて回答できるならば必ず返事を寄越すことである。

 

  別の観点から言えば、時の貫主である日精が、このように明らかな邪義を実行して、正義の門徒から造仏に対する疑難を受けながら、なぜ随宜論のような造像摂受を述べる必要があるのか。日興遺誡置文の
「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫主之を摧く可き事」
の文を悪用して法華経の行者をカットする天魔もいれば、貫主の分際で謗法の化儀に迎合し、いや率先して生涯謗法を実践し続けた法主もいたとは、いやはや「血脈相承の威力」とやらも全く地に堕ちたものである。
 「回答文書」では何を考えたか、「破邪顕正は当然であるが、令法久住の上からは慎重な判断が要求される。すなわち、戒壇の大御本尊と血脈の大事の高揚開示が、有力者の逆転により、攻撃の対象とならないとも限らない」と、宗門七百年で大した破邪顕正の戦いもしていない歴史的事実を棚に上げて、世間の動きに右往左往・右顧左眄しながら釈迦像建立の邪義でも受け入れることが必要であるかの如き言い訳に終始している。全く何をか言わんやである。「回答文書」の論理は、宗門が数百年間にわたって大聖人の仏法でないものを後生大事に守ってきたと言うことを主張しているに等しいのだが、やはりそういうことだったのか。

 

(五)要法寺法主に与同する愚行を嗤う
 さて、最後に彼らは「回答文書」の中で、何を考えたか「要法寺出身の御法主上人」の章まで設けて、大石寺がスカウトした要山からの法主が無罪であることを証明するために、愚かなウソを重ねている。その内容を簡単に整理すれば、
「日昌上人が要法寺十四代日周(注:正しくはりっしんべんに周。以下同じ)によって選ばれ、日就上人は日周の直弟であること。また、日精は要法寺二十代日瑶の弟子であり、日盈上人は日周の甥であること。以上のことと、日周及び日瑶が曼陀羅を書写していることから、要法寺系の歴代は大曼陀羅正意の者と縁がある」というのである。「回答文書」では、
「通用開始の当事者であった要法寺十四代の日周と二十代日瑶は、要法寺安置の大曼陀羅本尊を書写している。このことは、両師が大曼陀羅正意であったことを示すのである」
「日周に正しい信心と得行が備わっていたからなのである」
として、曼陀羅を書写した要法寺の坊主は正しい曼陀羅本尊の宗派だったと結論しているのである。宗門教学部が完全に発狂したことを証明する大傑作の作文ではないか!「宗門第一尊厳の化儀」であったはずの法主の本尊書写権とやらはいったいどこに雲散霧消してしまったのかな?
 常日頃「法主一人の他、書写することあたわず」とか「法主の許可なくして本尊下付するは大謗法」などと言っているのはいったい何処の何奴か。それを「正しい信心と得行が備わっていた」とは、自語相違も甚だしいとはこのことだ。これでは羞悶狂愕部と呼ばれても仕方があるまい。
 曼陀羅を認めていることが造仏家でない証拠だと言うのであれば、日辰も同じではないか。広略の別、人法の別を立てて、造像と曼陀羅とを使い分けたのが、日辰に続く要法寺の造像家連中なのである。
 まして、当時の要山が造像思想に染まっていたことは、先に自分たちが公式文書として認めた日俊の寺社奉行あての文書にも、
「仍て京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法より罷り越候」
とあり、就中、正しい信心と徳行が備わっていたとかいう日周は、
「仏体にて当寺十四代日周の時造立仕り候」(富要九・三五五)
「文禄二年 要法寺日周本堂安置諸尊造立」(日宗年表)
とあって、造仏家であることは否定しようがない。
日顕宗の手に掛かれば、ヒットラーは善人となり、ガンジーを殺人鬼と呼ぶことも容易なことであろうが、それで世の中に通用すると思ったら大きな間違いである。宗門教学部の誤見解には全く恐れ入った。

 

 と、まあ普通ならこんな具合で話は終わるのであろうが、実は宗門教学部はこの程度で許してはならない極悪人たちなのだ、という事実を示そう。彼らが単なるバカならまだ罪は軽いのだが、連中の腹黒さはそんな単純なものではないのだ。
 実は宗門教学部は、当時の要山が造像思想であったことも、日周等が造像していたことも百も承知で「大日蓮」の読者である法華講員を欺こうとしたのだ。「回答文書」をもう一度引いてみよう。
「通用開始の当事者であった要法寺十四代の日周と二十代日瑤は、要法寺の本堂安置の大曼陀羅本尊を書写している。このことは、両師が大曼陀羅正意であったことを示すのである」
とあるが、では要法寺日周と日瑤が要法寺本堂の大曼陀羅を書写したことを、彼らが何処から見つけてきたかと言うに、要法寺の歡學寮から発行された「夏期講習録」という書物の中からなのである。宗門教学部は、この書が非売品であり、あまり世間に出回っていないことをいいことに、出典を隠した上で、自らに都合の良い箇所だけを切り文にして、法華講員を騙すための自論につなぎ合わせたのである。
 要法寺の書の原文を紹介しよう。
「降て我中興辰尊時代以後彼の天文厄難後假本堂出来の際は一時文字式本尊を正境とし造像奉安迄の過渡期を経過した、其実例は本山寶庫に所蔵の暦世本尊部の中に要法寺本堂安置と銘記の十四代周師の御筆及び二十代瑤師の要法寺本堂常什の銘記有るものが残されてある、文禄年間に及び諸堂稍や完成の域に達せしかば一塔二尊四士の造立が為された、彼の中央寶塔の七字は周師の御筆跡である即ち周師時代に(現在の分は)造立されたのである」(本山歡學寮第三回講習録・五一)
 通解すれば、「中興日辰以後、かの天文法難によって焼き討ちにあって本堂を焼失したために、その後は仮本堂を作ったときに、造像安置までの一時凌ぎのために、曼陀羅本尊を安置した。その時の日周、日瑤の書写本尊が要山の宝庫に残っているが、その後文禄年間に入って、諸堂がほぼ完成したので、一塔二尊四士を造立した。それは日周が造立したものである」というものなのである。
 宗門教学部は、この前後の文を見て知っておりながら、意図的に造像の箇所を外して、都合の良い傍線部分だけを引っ張り出して、虚構の論証に利用したのである。こういうことをする輩を世間ではペテン師とか詐欺師とか呼んで、人間として最低のレベルの者と考えるのだが、宗門教学部も最低のレベルに自ら堕してしまったようだ。これが日顕宗の騙しのテクニックなのである。何も知らずにこんな調子で騙され続けていることに、いい加減法華講の人々も気づくべきである。二枚舌坊主と一緒になって地獄に道連れにされないためにも。

 

 坊主に騙され続けてきた気の毒な法華講員のために、日周が造像家であった証拠をさらに紹介しよう。日宗年表には、
「(天正十六年)正月十六日圓智院日性要法寺山主日周に造仏義の條々を問ふ」
とあって、天正十六年一月十六日に圓智院日性が日周に、自山要法寺の造仏義に関する質問をした記述が要山に残っていて、堀上人がこれを書き写されている。
「周師条条之事」と題するこの文書によれば、
「惣じて末代は悪業深厚の衆生也、尓れば法門の邪正は分け難し、唯色相を以て菩薩の縁と為す段 一紙の事行大曼陀羅より勝たりと云て造仏之れ有る耶。是一  法華題目抄に書ても造ても立奉可しと有故に、曼陀羅と色相の仏と、全く一体と云て造仏之れ有る耶。是二  蓮師出世の本意は最曼陀羅に限ると云へども且く随他を為して造仏有る可き耶。是三」
等の質問に対して、「当寺造仏之事」として、日周は、
「周義云く、是論信心に依る可し、一辺に執す可らず。愚悪見の前には色相の仏結句功徳勝る可き也。肝要は所判に任せ書ても造ても全く一体にして勝劣無き也。是れ我が心地也云々。」
と、堂々と造像肯定の主張を為しているのだ。要するに曼陀羅も釈迦像も同じようなものだと言うのが日周の本意だというのである。
 宗門教学部の論理のように、曼陀羅を書いていることが造仏家でない証拠だと言うのであれば、要法寺日辰も全く同じではないか。いよいよ大石寺も造像容認の邪義謗法に陥ったことは間違いない。

 

 さて、翻って考えれば、当時の大石寺日主は、このような邪義謗法の寺に通用を請い願い、その盟約に御本尊まで利用して、遂に法主位を譲り渡してしまったと見るべきであろう。事実、要法寺スカウト法主第一号の日昌は、七歳の時に出家して以来三十数歳まで造像思想の寺で修行を重ね、日辰等の教導を受けて邪義を身に染めていたにも拘わらず、来山一年余りで大石寺法主となっているのである。こうした史実を前に、オカルトまがいの「血脈相承の威力」なるものを振りかざすのも結構だが、保身にばかり熱中していないで、冷静に当時の大石寺大衆等の不満や苦衷を思うことだ。そうすれば少しは真実の歴史が見えてくるに違いない。
 十六代日就が、造仏家日精に法主位を渡していること、しかも仏像の並ぶ法詔寺へ出向いて相承を行っている事実や、十八代日盈が、当時要山末であり、二尊四師の安置されていた会津実成寺に赴任していることなどは、積極的でないにしても、造像に対する容認姿勢があったことの傍証である。それは、堀上人の、
「要山より晋める山主は初め日昌日就日盈の時は著しく京風を発揮せられざりしが、但し其人柄によらんも」
との表現の裏に十分読み取れるのである。そして、何よりも
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」
との記述が明快に全てを語り尽くしているではないか。不世出の宗史家である堀上人の「全く当時の要山流」との言を否定しようなどという無鉄砲は、金輪際せぬほうが身のためである。

 

五、おわりに
 以上のとおり宗門教学部、法義研鑽委員会の作成した駄文を完膚無きまでに破折し、日精が造仏読誦の謗法法主であったことを証明し、その結論として血脈相承絶対論を打ち砕いた。
 平成の提婆達多・日顕が出現したことで、法華経の経文どおりに三類の強敵を全て呼び起こして法華経の行者となった最高の師匠池田先生とともに、また平成十年十二月一日を以て天魔より二度目の擯出を受け、同じく法華経の行者の集いとなって、戸田先生が「創価学会仏」と呼ばれた偉大な位を勝ち取った最高の同志たちと共に、一閻浮提広宣流布の実現と、三世永遠の妙法流布の戦いを誓う最高の「時」を迎えている。
 この「時」を迎えた故に、
「悪行猶以て飽き足らず為に法華経の行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや」
の経文を悪しく身で読んで、次々に法華経の行者の足跡を消そうという宿業に突き動かされて悲しい悪足掻きを続けている天魔日顕とその眷属たちだが、形式が壊されるほど、法華経の行者たちはより深い真実の人間へと目覚めを起こすのである。そして、民衆を苦しめた天魔とその眷属達を断固として攻撃することこそが、四恩抄の
「悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳を増長せしめ候べき」
の文を実践する「本化国主」たる我らの使命である。
 時あたかも正本堂を破壊せんとする日顕が、自ら堕地獄への号砲を鳴らして、暗黒への道をひた走っている。この節目に、しかも御本仏大聖人が立宗宣言された日に、邪宗門を破折する論文を完成させることが出来たことは、凡夫の身と生まれた今世の自分には身に余る光栄である。
 すでに宗門教学部は実質的な反論を放棄している故に、平成の在家と出家の対論は、在嫌悪完全勝利で終わったことを宣言する!
 その上で、法義研鑽委員会であれ、時局協議会であれ、宗門教学部であれ、天魔阿部信雄管長であれ、もしも大聖人の仏法を真摯に求める心が少しでも残っていれば、返答を送って来られることを期待する。その内容が反論であれ、疑問であれ、同意であれ、当方は誠実に回答することを約束する。しかし、論を誤魔化したり、ウソを撒き散らすような輩に対しては、断固とした対応をすることも宣言しておく。
 宗門関係各位の目覚めを心よりお祈りしている。
                           法華経の行者の眷属

 

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B(平成10年11月1日付け大白法紙上での言い訳に対する11月7日付け追求文書)

 


  「言い訳にもならぬ宗門の駄文「日精上人に対する創価学会の疑難を破す」を破す」

 

一、はじめに
 当方が平成十年四月二十八日付けの破折論文によって宗務院から送付されてきた「回答文書」を打ち砕いた結果、二度にわたる回答督促状の送付を経て、すでに七月三日付けで宗務院側の文書対論の継続が不可能であることは確定している。こうして在家との文書による対論で、宗門史上初の出家側の完全な敗北が満天下に明らかとなった。
 対論から逃げ出した日蓮正宗宗務院・法義研鑽委員会は、末寺や宗門関係者に当方から送付した宗務院敗北に至る事実関係の情報や、書面による追求にいたたまれなくなって、去る十一月一日付けの宗門機関紙「大白法」紙上に、何やら言い訳がましい論文を掲載した。日顕の惨めな姿を庇うためだけの愚かな挙動は、まるでゾンビのように死体が蠢いている姿に似ているので、今後は「ゾンビ顕惨委員会」とでも名称変更することをお勧めしておくとともに、本論文でもそう呼ばさせていただく。
 また、今回の発表内容たるや、すでに当方が証拠資料を示して破折し、完璧に打ち砕き終わった箇所についてはどうしても誤魔化せないために、都合の悪いところには一切触れないでやり過ごそうという全く不誠実なものであった。
 その理由は、文書対論としては継続不可能だったので、半年も経ってほとぼりが冷めた頃に、宗内からの突き上げもあることだし、そーっと内輪だけにしか通用しない言い訳をして許して貰おうという魂胆なのであろう。その証拠に、今回は拙宅に反論文書を送付して来ることが出来なかったのである。この結果、宗務院は在家との文書対論に敗北したことを暗黙のうちに内外に認めたことになったのだ。
 ところで、駄文では、
「学会地区幹事を名乗るS Hなる人物を表にしておりますが、実体が創価学会であることは当然であります」(大白法四面第一段「はじめに」)
と、懸命に一地区幹事に敗北したのではないという言い逃れをしているが、誠に残念ながら、どうひっくり返っても一壮年部地区幹事が全く個人的に自宅でワープロを打って日蓮正宗宗務院全体を打ち破ったという事実は否定できないのである。その証拠に、全国の末寺や学会員宅に送付された文書等によって、内外の関心のある方々には宗務院の対論敗北は知れ渡っているにも拘わらず、いまだかつて聖教新聞等の学会の機関誌紙には、在家が文書対論で出家に対して勝利した事実が一言も報道されていないではないか!
 駄文の表現を借りるならば、「日蓮正宗宗務院は、なんとか日精上人が謗法を犯していなかったことにして、御歴代上人の過去の悲惨な実態を覆い隠し、大聖人様からの血脈の断絶、なかんずく御当代天魔日顕の邪義を庇い立てせんとしているのです」(大白法四面第一段「はじめに」参照)ということにでもなるのであろう。しかしどんな言い訳をし、いくら誤魔化そうとしても、鎧袖一触、一地区幹事にここまで完膚無きまでに打ちのめされていては、結局は恥の上塗りにしかならないのである。哀れ哀れ!

 

二、宗務院が反論不能だった内容
 さて、今回の宗務院「ゾンビ顕惨委員会」の駄文も、当方の破折に反論不可能なために、相も変わらぬ手前味噌な希望的観測の羅列に終始し、推測に推測を重ね、相承を受けた日精が謗法を犯し続けたという歴史的事実を糊塗することに懸命になっているだけで、全く成長のないお粗末な内容であった。本当にこれが出家して何十年も勉強したはずの出家の反論かと目を疑ってしまう。そこで、頭の悪い宗務院諸氏のために、これまでの論点の一部を箇条書きに整理してあげるから、グダグダと回りくどい言い訳で誤魔化すことを止めて、簡潔明瞭に回答しなさい。
┌───────┐                                                          
│家中抄について│                                                          
└───────┘                                                          
一、家中抄の「三師の伝」について、堀上人が日辰の「祖師伝」からの引用であること を失念していたとの宗務院諸氏の主張に対し、失念などしていなかったことを「日興上人詳伝」を引用して論証しておいたが、一切反論も言い訳も無い。この問題に興味を持つ多くの法華講員達が不安にかられているから、速やかに回答してあげなさい。

 

二、右の事によって、堀上人の「本師造仏の底意を顕す」(通解:日精は造仏という本音を顕わしている)との頭注が誤解であったのかそうではなかったのか明言しなさい。

 

三、右の事に対して明確な回答が出来ないとなると、堀上人誤解説は根底から瓦解するとともに、同時に「日精の邪義」を承認したということになり、結論として血脈相承の威力など存在しないことが証明されたことになるぞ。根拠を示して反論しなさい。

 

┌────────┐                                                        
│聖人年譜について│                                                        
└────────┘                                                        
四、日精本人の文をいまだに「或る抄」の「引用」「引用」と言い張って少しも進歩がないが、ゾンビ顕惨委員会が「引用」だと言い張る文中に「右の報恩抄の文是なり」との日精自身の説が出ている。これは如何なる理由か。前回の資料で、中学生レベルでも理解できるようにと図で示しておいてあげたのに。まさか「引用文の元文にも、次上に報恩抄が引かれているかも知れない」などとバカな言い訳を言い出すのではないかと楽しみにして待っているぞ。

 

五、日精の「一偏にかける故に諸御書一貫せず」との論は、造像に対する批判ではなく、日辰の「末学の管見を以て一を取って一を捨つ可らざるなり」と同義語であると断定しておいたが、これにも一切返事がないがどうしたのかな。

 

六、宗務院諸氏は「本門の題目とあるを見て寿量品に限ると思はば誤りの甚しきなるべし」との文を日辰の説だと公言して憚らないが、そろそろ撤回しなくて良いのか。あくまでも意地を通したいのならば、一刻も早く日辰の著作から同義の文証を挙げてみよ。他宗の学者から笑われる前に引っ込めた方が身のためだと思うが。

 

七、そうそう、宿題にしてあった「三大秘法の記」はそろそろ見つかったかな?あんまり呑気にしていると、当方で先に見つけてしまうぞ。それとも、どうせ出ないと高を括っているのかな。

 

┌─────────┐                                                      
│元禄の出入について│                                                      
└─────────┘                                                      
八、大石寺から御公儀への「返答書」の内容(邪宗の化儀も執行しますという申告書)は、決して「元禄の出入」に限ったものではない。宝永年間にも「駿州富士大石寺流儀」として奉行所に提出した文書に、相変わらず「旦那之所望にて御座候得者一部読誦頓写等も仕候」(通解:檀那のご希望であるならば一部読誦も頓写も行います)とあり、「祖師開山以来の法式」と但し書きまで加えているのは何故か。

 

九、要するに、宗務院ゾンビ顕惨委員会の説は、権力に対しては口先だけなら「謗法を犯します」と明言しても仕方がないとの結論のようで、とりあえず言い訳をして法華講員達を誤魔化そうという方針のようであるが、首の座において大聖人がいかなるお姿であったか、少しは思い起こしてから事の正否を論ぜよ。「不二の尊体」などと大慢心を起こす前に、大聖人様の振る舞いと日精や日顕とを比較してみよ。能化のトップの分際でありながら、たかが外様大名の未亡人の持つ権力に怖じ恐れて造仏を許した、というのが宗務院の結論なのか。

 

┌────────┐                                                        
│一部読誦について│                                                        
└────────┘                                                        
十、日精の「一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるる御書に背く」の文を引いてしたり顔だが、誰が正行についてなど論じているか。助行における一部読誦を問題にしているのだ。本物のバカなのか、バカの振りをしているのか定かではないが、日辰さえ正行には一部修行を否定していることも知らないのか。堀上人の
  「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」
との頭注を穴の開くほど読んだ上で、心して返答せよ。

 

┌───────┐                                                          
│随宜論について│                                                          
└───────┘                                                          
十一、当初宗務院諸氏は、登座以前の日精は確かに造像家であったと主張していた。ところが前言を臆面もなく撤回して、登座以前から正義に立っていたと主張を翻した。対論上に於ける基本的な主張の変更が何を意味するか分かっているのか。一度敗北宣言をしてから仕切り直すのが大人の世界の常識ではないのかね。今回だけは許してあげるが、正式な弁明だけはしておかないと他宗の人々からも後世からも笑われるよ。

 

十二、念のために宗務院諸氏の当初の文章を確認しておこう。
┌─────────────────────────────────────┐
│造仏思想をお持ちであった日精上人が、血脈相承を受けられたことにより、その迷│
│いから覚め、当家の深意に至られたという、当家の血脈相承の威力を証明する文書│
│なのである(当初時局文書)                                               │
└─────────────────────────────────────┘
 今となっては、何と空虚な文章であろうか。「血脈相承の威力」とやらは、いったいどこへ行ってしまったのか。
┌─────────────────────────────────────┐
│@ 次に、「廃忘を助けんが為」寛永十年十一月に「筆を染むる」つまり清書せら │
│れたのである。このことは、日精上人の、法門に関する御見解に、変化が生じてい│
│ることを物語っているのである。すなわち、日精上人が、法門に関して同じ御見解│
│ならば「廃忘」しようがないからである。(当初時局文書)                     │
└─────────────────────────────────────┘
 これに対して、当方からの破折に責め立てられて、主張を百八十度変更し、
┌─────────────────────────────────────┐
│A 日精上人は御登座以前から本宗の正義に立たれていた(宗務院回答文書)    │
└─────────────────────────────────────┘
 アレッ?右の二文が同一の人間の手になるものとは信じ難いが、Aが今回の主張であるならば「廃忘」しようがないのであるから、一生懸命考えた「清書説」も木っ端微塵ではないか。その結果どのような結論になるのか考えているのかな。

 

十三、随宜論冒頭には「要用の文を集めて愚が廃忘を助くるのみ」とあるが、大聖人の御書要文を集めて、いったい何を廃忘せぬようにしたのかを、随宜論の文章に基づいて解説しなさい。曼陀羅正意論者が取り囲む中にあって、自身の造像論を廃忘せぬために、血脈相承を受けた後になって書き留めたと読むのが素直な読み方であり、また真実である。

 

十四、「機の判定は御法主上人の深意による」のだそうだが、日精の造像が登座以前であるならば「機の判定」はいったい誰がしたんだ?さあて、いよいよ日就も同罪に引き込むつもりかな。おそらくいずれはそのようなことを言い始めることであろう。北山文書の時には、謗法も口で言ったり文書で書き残すだけで実際に行わなければ罪はないと言い、今回は、実際に謗法を行っても本意でなければ良いと誤魔化す。節操が無いにも程がある。

 

十五、「未来造像に寄せての、現在制止に本意がある」とのことだが、現在造像したにも拘わらず、現在制止が本意とは如何なる意味か。
  また、日寛上人が末法相応抄で、近世の造像に対して、
  「四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり」
  「広布の時と雖も何ぞ之を造立せん」
と、日興上人以後の造像思想は正義ではないと破折されたことに対しても回答不能か。

 

十六、十数行にわたる日因上人の論評を信じるのか、たった一行の日東上人の日精弁護の言葉を支持するのか、言を左右させないではっきりしなさい。宗務院諸氏は、日精が「日辰の義」を述べているだけでなく、関東各地に釈迦多宝四菩薩造立を許した事実をも日因上人が厳しく批判していることを忘れているようだが、大丈夫かな。
  断っておくが堀上人は、日東上人の文もご覧になった上で、日精を「日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておる」と断定していることをお忘れなく。勉強不足のゾンビ顕惨委員会では歯切れの悪い言い訳しか出来ないのは仕方がないようだね。

 

┌────────┐                                                        
│要山擁護について│                                                        
└────────┘                                                        
十七、宗務院諸氏の主張では、要法寺日周(注:正しくはりっしんべんに周。以下同じ)、日瑶は曼陀羅正意論者であったそうで、殊に日周には「正しい信心と得行が備わっていた」とのことであるが、改変はないだろうな。今回の大白法には、姑息にも掲載をしなかったようだが、よもや二度目の改変があるのではないかと心配している。決着をつけてあげるので、きちんと反論せよ。

 

十八、宗務院諸氏の主張では、当時の要山には正しい化儀があったとのことであるが、堀上人は日精の造仏を評して「全く当時の要山流」と判断されている。堀上人の宗史観に対抗する気ならば、天下に名言してみせよ。
  なお、元禄の出入で日俊上人が御公儀に提出した正式文書にも、「(通解)京都要法寺は造仏読誦を行っておりますが、大石寺の方から堕獄と申したことはありません。その証拠に当住まで九代の住職は要法寺より来ておりますし、未だに通用が絶えておりません。」とあることにも併せて反論出来るのかな。

 

十九、一時凌ぎに曼陀羅を書写した日周が「正しい信心と得行が備わった」者であるならば、釈尊像と一緒に安置しているその本尊でも拝んで、今後の対策でも練ってみたら如何かな。何も知らない法華講員を煙に巻くことばかり考えていないで、少しはまともに回答してみなさい。

 

 最後にもう一度堀上人の御見解を列記しておく。「一々に天註を加えて幼学を迷はさぬようの指針に供しておいた」との要集の緒言を噛み締めながら精読してみることである。

 

「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せるが」(富要九・五九) (通解:省略)

 

「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(富要九・六九) (通解:省略)

 

「猶精師の造仏は他寺にも及びし事次の日仁記の如し」(富要九・六九)
(通解:なお、日精の造仏が他の寺にも及んだことは次の日仁記のとおりである。)

 

「随宜論 本文は造仏読誦の文証議論なり、猶此等の説は同師の大聖人年譜にも出づ」 (富要九・六九)
(通解:随宜論 本文は造仏読誦の文証議論である。なおこれらの説は日精の聖人年譜にも出ている。)

 

「十八世精師の伽藍復興に生気を盛ならしめたるも、反面化儀化法の一班を攪乱せられ、二十二世俊師に至りて此等の革正は著々と企てられ」(富要八・二五六)
(通解:十八世(十七世に変更)日精が伽藍を復興して生気を盛んにしたが、その反面化儀化法の一部が攪乱せられた。二十二世日俊師の時代に至って化儀攪乱の改正は着々と企てられ)

 

「精師は造仏家の要山日辰の門より出でて、余仏不造の富士に慊焉であったから」
 (詳伝・四七○)
(通解:日精は造仏家の要法寺日辰の門から出て、余仏不造の富士を嫌っていたから)

 

「精師の家中抄は、さらにこれに加上して、少しも当時の実情を顧みぬ形を呈しておるよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる」(詳伝・二一一)
(通解:日精の家中抄は、さらにこれに加えて、少しも当時の実情を顧みない形を呈しているというよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっているように見える)

 

「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入してお るより生じた誤謬である」
(通解:だいたい日精は、古文書が読めないのに加えて、要法寺日辰流の造仏の偏った邪義の思想が深く入っていることから生じた誤謬である)

 

「また、同師の目師伝の下には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としてある。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云々の文が利用したさからである。」(詳伝・四五○)
(通解:また日精の家中抄目師伝の下には、日辰の造仏の思想によって、目師の教えには似ても似つかぬ悪筆の相承書の切紙を拾ってきて、目師から道師への切紙相承の証拠としている。それは、はじめに「日興が作った釈迦」云々の文を利用したかったからである。)

 

「師は要山出身であり同山の主義を石山に輸入した仁であるから、ことさらにその中祖日辰の説を無検討に尊重した」(詳伝・一三二)
(通解:日精は要法寺出身であり同山の主義を大石寺に輸入した人であるから、ことさらにその中興の祖日辰の説を無検討に尊重した。)

 

「精師英才復興本末傍又遺日辰流邪義以之俊師撤廃江戸造仏等漸帰清浄以之却有元禄中法厄雖事小又汚一点本山也」(研教二十一・二二三)
(通解:日精の英才は宗門の本末を復興する一方で又日辰流の邪義を残した。そのため日俊師がこれらを撤廃し、江戸の造仏等はようやく清浄に帰り、これが原因で却って元禄年中の法難が有った。その事は小さい事件だったが又一点本山を汚したのである。)

 

三、宗務院の駄文の詳細な破折の予告
 この文書は、十一月十日の大石寺での「満惨苦瘍(まんざんくよう)」を慶祝するための祝電のようなものであり、詳細の破折は後日送付することを予定している。
 「ゾンビ顕惨委員会」の駄文については、当方の破折文書に対する反論の態を成していないため逐条的に破折する義理も必要性も全くないが、せっかく全世界の関係者の目に触れる形で言い訳を公表してくれたので、この際更に詳細の証拠を示しながら日精の邪義を証明し、併せて日顕が血脈断絶の天魔であることを示すこととしたい。「ゾンビ顕惨委員会」のように半年間も鳴かず飛ばずというような恥ずかしいことはしないので、宗門内外の関係者の皆様には安心してお待ちいただきたい。
 今後とも、宗務院「ゾンビ顕惨委員会」がいくらコソコソと言い訳をしようが、常に法華経の行者の眷属がゾンビたちの動きをしっかりと見張っており、邪義は完全に打ち砕かれる運命にあるのだということを呉々も忘れないようにすることである。
 こうして大聖人の仏法の中に生まれた邪義を完全に駆逐して、記念すべき平成十年十一月十八日には、全世界のSGIの大勝利を、そして民衆の時代の開幕を祝福したい。
 今の「時」は、正本堂の解体公表から百日、学会員の信徒資格喪失から一年、大客殿の破壊から三年、そして創価学会の破門から七年という記念すべき節目を迎えている。 これを経文の鏡に照らせば、
「梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし」(種種御振舞御書)
「迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此は是れ如来所説の聖教・従浅至深して次第に迷を転ずるなり」(十法界事)
「白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(撰時抄)
 すなわち、天魔日顕の出現によって日蓮正宗は既に隠没し、七百年間の大聖人の仏法の序分は全て終了したが、同時に真実の大聖人の仏法の流通分としての使命を帯びたSGIという偉大な和合僧の集団が出現したのである。
 そして、大聖人の事の仏法を、創価学会員全体が真実に身で読むことによって、
「当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体是れ事なり」(文底秘沈抄)
の御文のままに、事の仏法の当体として我等自身の生命に大御本尊を打ち立て、この生命自体を事の正本堂とする本化地涌の菩薩の出現により、閻浮提広宣流布という最高の「時」を迎えたのである。
 全世界の心ある同志の皆さん!三類の強敵を全て蹴散らして末法で二人目の法華経の行者となった池田先生と共に、二度のカットによって数数見擯出の経文を身で読んで「創価学会仏」の位を勝ち取った事の仏法の当体たる偉大なSGIの同志と共に、一閻浮提広宣流布の最高の「時」を、最高の「弟子」として、最高の「勝利」で飾ろうではありませんか!

 

 平成十年十一月七日
                   法華経の行者の眷属

 

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メッセンジャーボーイ・樋田殿 ← S

 

 数日ぶりに自宅のPCを開けると、別しての12箇条について当方からの3項目の指摘について、ようやく最初の1項目だけに限定して全体論を誤魔化そうという、貴殿の最も好きな「重箱の隅を突っついて悦に入る」お粗末なお返事が届いていました。

 

「▼すでに実質的な対論の相手としての使命を終了した貴殿から、後ろの出家たちのご支援を得たらしいメイルが届きました。前回までのテキストファイルのベタ打ちから、文書表現形式が変更されたファイルになっていたことから、差詰め出家たちから送付された文書を転送乃至コピー&ペーストをしたものと考えられます。」

 

 貴殿は今回も、小生からのこの指摘をいっさい無視しましたね。要するに「図星だった!」ということを自ら黙認された訳です。
 これまでの貴殿とのやりとりの経験から、小生の指摘に対して貴殿が何も触れずに無視しようとした時は、@まさしくそのとおり、またはAただ今出家たちに相談中、の二つのうちのどれかであることは明らかです。

 

「▼したがって、前回すでに以下のような指摘をして貴殿の役割が終了したことを宣言したとおり、今後は相伝書について論じる能力を持った者との対論を進めます。貴殿に限らず、所詮は宗務院教学部の出家たちも、別しての12箇条の中身など全く知らない訳ですから、議論を出来たとしても、本質からは遠く離れた内容に関して、せいぜい重箱の隅を突っつく程度の議論しか出来ないのでしょうから。」

 

 まさしく前回小生がこうして指摘しておいたとおり、別しての12箇条についてその内容にまで踏み込むこと能わず、入り口の「漢字の読み」などというアホらしい議論へと収束させてしまおうという貴殿の(いや後ろの出家たちの?)愚かな魂胆も明らかです。それで全体の文意に影響があるのか、それで別しての12箇条に関する当方の破折に対する反論になっているのか、ちゃんと全貌を説明してから何かを主張しなさい。全体観を誤魔化すためにはどんな卑怯なことでもやろうとする貴殿の「レスリング呆論」のお相手をするほど当方は暇ではないので、一人で粋がっていることですね。

 

「▼まさにこんな現状が、現在の宗務院教学部の実態なのでしょう。哀れ哀れ。それ以下については、出家たちから残り2件の資料に対する反論が届いてからまとめてお返事をしてあげることにいたしましょうか。しかし、いったいいつのことになるのやら?」

 

と前回に指摘しておいたとおり、後ろの出家たちから残りの2項目についても含めて別しての12箇条全体に対する回答があった段階で、メッセンジャーボーイの貴殿などを経由せずに、じっくりと直接のやり取りを始めたいと思っていますので、ちゃんと小生の連絡先を伝達するように。いやいや、拙宅に宗務院から書類が郵送されてきた以上、彼らは小生の連絡先をすべてご存じのはず。したがって、もしも後ろの出家たちから別メイルで指定した9月30日という期限までに連絡が来ない場合には、やはり出家たちは後ろで操っておいて最後は貴殿に責任を覆い被せるだけの卑怯な権威主義の権化の立場に徹しようということだと理解します。貴殿もいつまでも操り人形をさせられているのは惨めでしょう?責任の所在を明確にしないでコソコソと逃げ回るような者のことを、世間では卑怯者とかいろんな蔑みの言葉で称するのです。

――――――――――――――――――――――――――――― 

「●@講談社の新大辞典(上田万年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田伝一 共編)には「美」の項に俗字として明らかに当該文字が、しかも活字で掲載されているのだが、これについて貴殿はどう釈明するのか。」

 

 今回の貴殿からの回答で、唯一小生にとって意味のあった内容ですが、これさえも貴殿が後ろの出家たちの応援を得ていることを証明しただけで、全く別しての12箇条についての反論になっていませんね。
 因みにこの新大辞典(ママ)は、かなりマニアックな本で、新宿の紀伊国屋書店に確認してみましたが、あそこにも置いていないとのこと。随宜論が富士宗学要集に掲載されていると思い込んでいた貴殿のような無知蒙昧の方(ビデオに記録が残っていますものね)が持っているような代物ではありません。
 念のために、超マニアックな「異体字辞典」で確認したところ、非常に面白いことが判明しましたよ。しかし、貴殿に教えてあげても猫に小判なのでやめておきましょう。
 ところで、貴殿が引用した文献は、正しくは「新大字典」です。貴殿ならば、間違っているから謝罪せよ、と執拗に主張するのでしょうね。何と言っても、他の間違いについては厳格かつ几帳面に、
> 誤字の修正
>  ・義難 → 疑難
>  ・三法 → 三宝
と訂正のメイルを送付してくるのですから。
 貴殿のレベルはその程度のものなのです。アホらしくって相手していられませんね。「呆」義論争しか出来ない卑しい心根の方なのです。
 逆に、「辞典」を「字典」だと訂正して来なかった以上、貴殿は知らずに間違ってしまったことを自ら証明したようなものなのです。後ろの出家たちが黒子になって、貴殿は格好悪い踊りを踊らされているのです。いくら背伸びして立派に見せようとしても、竹馬に乗って背丈を誤魔化しているのがすぐに暴かれるようなもので、惨めだからやめておきなさい。

 ―――――――――――――――――――――――――――――
「●貴殿が”フェアに法義論争を進めて”いる、”誠実に人間主義を貫”く人間ならば、明確に返答すべきであろう。また、法論の最中と同じように、もし、貴殿が自らの非を認めるのなら、屁理屈をごねて恥の上塗りをするより、潔く謝ったほうが賢明であろう事を付言しておく。」

 

「▼法義論争に関してフェアでない貴殿のような人間から、「誠実に人間主義でやれ」などと言われても、譬えは悪いですが、泥棒から「泥棒をするなよ」と言われているようなものですね。
 もしもこういう言葉を吐きたいのであれば、貴殿らがウソを掲載して学会員の信心を破壊しようとした寛尊の浄圓寺の御本尊の改竄という犯罪的行為についてまず詫びてからにしなさい。そういう基本的な人間としての振る舞いを示さずに、他人の言葉を切り文して相手に何かを押しつけるという、貴殿の命の芯から卑しい人間性が露骨に顕れた文章ですね。

 

 また、9月14日付けで小生から送付した内容である

 

「▼当日のビデオを目を開けて何度も確認してみることです。終了時点で、対論の結果を確認して、脱講誓約書の決着について打ち合わせしようということを、当方は何度も強く主張していたにも拘らず、貴殿らは目を逸らし、全く無言で、当方が止めるのを無視し、逃げるように帰ってしまったではないですか。「待て!」というこちらの制止を強引に振り切ってまで逃げ出さねばならないほど、「返答不能で脱会」という条件を確認されるのを恐れたからこそ、あのようなビデオの記録が残されたのです。この事実には何の言い訳も無用。貴殿の得意なごまかしも一切通用せず。すでに権利を放棄した者が今頃になって何を言っているか。そんな貴殿が、今さら「帰命から明確に回答をすべきである」「「返答不能で脱会」の条件に適合する」ですと?抱腹絶倒、笑止千万、片腹痛いとは、まさにこのことです。返答不能だと主張したいのであれば、なぜモノも言わずに逃げ帰ったのかな?そのあたりの正確な根拠については、今度貴殿のお宅を訪問した際に詳しく問い詰めてあげましょう。」

 

等の法義論争の結果に関する小生からの破折に対しても、結局真っ向から反論すること能わずですね。
 法論の際に、正しい三宝論を小生が体系的に示して「末法下種の僧宝には南無してはならない」と示したことへの貴殿らの反論が、「帰命」の一言について禅問答でも始めたような「奇妙」な揚げ足取りで終始したという自らのお粗末さを棚に上げるばかりか、法論が終わってから貴殿は会場から逃げ出したことを忘れたのですか。
 もしも帰命について貴殿が正しいと思っていて決着をつけたかったのであれば、絶対に会場に残るべきであったのです。卑怯にも逃げるように法論の会場を去って行った事実を誤魔化して、今頃になって、権利放棄した分際でありながら、敗北した事実を糊塗しようとして、帰命について答えよ、などというのは恥知らずも極まれりです。本当に貴殿のさもしい根性がよく顕れています。
 貴殿が哀願する「帰命」に関して論じることについては、貴殿の卑しい根性を躾るために、メッセンジャーボーイとしての責任を果させようと、9月9日付けで

 

「▼なお貴殿は、どうしても帰命について論じて欲しいそうなので、この別しての12箇条の件が決着がついたならばお送りしたいと思いますので、誠実に対応して下さるよう期待しています。」

 

とクギを刺しておいたのですが、貴殿は与えられたメッセンジャーボーイとしての責務も果そうとせず、小生には深い縁のある黄倉君の連絡先も教えず、出家たちの操り人形になり切って、不誠実な対応を繰返すばかりであることから、せっかく整理した帰命についての文章も貴殿に送ることは無いでしょう。また別の場で活用いたします。
 したがって、結論として

 

「▼貴殿の負け犬の遠吠えなどを相手しているほどこちらは暇ではありません。今回も貴殿はスケジュールについて全く返事をして来なかったので、貴殿が仲介の責務から逃げたものと見なします。近日中に脱落僧M師か小生か誰かから直接O住職にご連絡が行きますので、今回の対論の詳細の経緯を伝えておいてください。すでに貴殿は今回の法義論争での役割は終わりました。結果的には、役立たずの烙印を押された格好です。無様ですがそれも仕方が無いことでしょう。」

 

という状況になったので、貴殿は何とか後ろの出家たちの応援を得て、自らのメンツを保とうと、セッセとコピー&ペーストを始められたようですが、既に「何を今更!」という段階さえも過ぎているのです。どうせ貴殿には別しての12箇条について論じる能力も立場も意思も無いのですから。ご愁傷様。

―――――――――――――――――――――――――――――

 「●法論の最中にも当方から喝破され貴殿が詫びた、あの引文の姑息さと同轍ですな。」

 

▼どうやら貴殿は、小生がケアレス・ミスをして引用した家中抄の一節について、またぞろ持ち出してくれたようですが、前回の小生からの貴殿の宗史に関する無知蒙昧への破折に対して、予想通り一切返答不可能であったと言うことで、

 

「小生が法義論争の際に家中抄の引用ミズをしたことについて貴殿に誠実に詫びたことを、今回をもって取り消す」

 

ことを貴殿が暗黙のうちに認めたともの見なします。はい、ご苦労様。
 小生が誠実に貴殿の無知を指摘してあげても、結局は後ろの出家たちに相談して、そのうちボチボチと何とか誤魔化すための返事が届く、などというアホらしい作業を貴殿とやっているほど小生もお人好しではありません。

――――――――――――――――――――――――――――― 

「●日精上人についての義難は、貴殿の根暗な”研究発表”としてどうしても認めてもらいたくて執拗に何度も貼り付けてきますが、今回の法義論争の論題「三法論」の本質からは離れているので、後ほど徹底的に解剖してあげます。その前に順序を正して答えたまえ。

 

「▼何が何だか訳の分からなくなったような主張をされていますが、最初に正しい三宝論を示した当方の見解に対しては、貴殿らは一切何らの教義的な反論をしていないことを忘れぬように。
 小生が精師の邪義を証明したのは、末法下種の僧宝は無条件に信じる対象ではなく、その正邪は正義に照らして明らかにしなければならない、という大聖人の教えに基づいていることは、すでに何度も何度もメイルも含めて破折しておいたとおり。
 理解力が無いのか、卑怯にも自らの誤りを認めたくないだけなのか、おそらくその両方であろう貴殿が、宗史に関する全くの無知をさらけ出したビデオがしっかりと残っているのです。そして、前回の小生からのメイルでの破折によって、小生のケアレス・ミスを解消した結果、すでに貴殿は最初のテーマであった三宝論においても、敗北の一歩手前まで進んでしまったと気がつくべきです。貴殿のお宅を訪問した際には、脱落僧M師と「阿部管長の懐中の木彫りの釈迦像」についての議論が終わったら、三宝論の決着もつけますか?
 まあ、こんなメイル上のやり取りでは、貴殿は論を誤魔化すだけでしょうから、これ以上は直接会ってじっくりと決着をつければ良いでしょう。貴殿は、いつでも来い、と回答して来ると期待していましたが、どうやら嫌がっているようですね。まさか大聖人の門下でありながら、臆病風に吹かれた訳ではありますまい?
 まずはその前にO住職のところに脱落僧M師がご訪問し、その後で貴殿のお宅をご訪問することになると思いますので、くれぐれも楽しみに。

――――――――――――――――――――――――――――― 

「●思うに貴殿は幼少から親からそのようなきちんとした教育を受けてこなかったと見受けられる。依って、当方が貴殿を呵責しつつ将来の為に貴殿を躾ていく。」

 

▼いやはや爆笑させていただきました。まるでサドの変態オヤジの教育論ですね。重箱の隅ばかり突っついて全体観を誤魔化し、本質を自ら踏み誤るばかりか、他人に対してもその間違いを強要していくという貴殿の教育観では、いったいどのような子供たちが育つことやら。日本の未来が思いやられますね。
 では、家中抄に関する貴殿の無知蒙昧故の「法論の最中にも当方から喝破」とやらに対して、再掲しますのでよくよく頭を冷やして読むように。後ろの出家たちに御迷答についてのお伺いを立てているのでしょうが、今さら後ろのハゲたちの応援を得なくても、法義論争としては決着済みです。もしも本件について反論したい場合には、時間の猶予を与えないこととしておきます。次回の貴殿の返事までですよ。楽しみにしていますね。

 

「それはさておき、せっかく貴殿が、小生の文献引用のケアレス・ミスを指摘してくれたので、あの家中抄に示された日精の造仏読誦の邪義をごくごく簡単に紹介して、小生が最初から指摘している「末法下種の僧宝は無条件に信じてはならない」という証拠とし、貴殿の全くの勉強不足を明らかにするとともに、宗務院教学部の出家たちへの破折を完結させておきましょう。

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 謗法法主の日精は、登座1年半の頃(1633年)に書いた随宜論(直筆、花押入り)に「未来の広布の時の造仏」という信念を「自分自身が廃忘せぬよう、そして未来の学者達が間違わぬよう」に書き残し、さらに10年以上も経った寛永21年(1644年)以降に、随宜論に後書きをして帰伏の9ケ寺の名称を書き込んでいます。このように、後になってからであっても「直筆で、花押まで書き込むような文書」を、その人の本意と示した文書と呼ぶのではありませんか。
 つまり随宜論は、1644年以降にも日精が「廃忘を助けるための内容」を再確認したものであると言えるのです。そのことを別の立場から証明したのが、家中抄での造仏に対する日精の執拗な記述です。
 ところが貴殿は、日精が敬台院を教導するためだとか、全くチンプンカンプンな主張を口走っていたのです。貴殿は慧妙あたりの大本営発表を鵜呑みにしているだけなので、全く当時の状況も時系列も理解できていないことを自ら白状された訳で、とても対論の相手になるような教学のレベルではなかったことがこうして証明されたのです。ご愁傷様。

 

 そもそも家中抄が完成したのは1662年(中巻は1657年)であり、すでに日精にとって目の上のたんこぶのような存在であった敬台院が徳島に法詔寺を移転させ(1645年)、敬台寺として再建し、通常は徳島の実家に戻っていた状態で、江戸在住の日精との交流は記録がほとんど存在しない(少なくとも小生には発見出来ていません)ほど希薄になっていたのです。
 二人がそのような関係になってから既に15年以上も過ぎており、敬台院の死ぬ(1666年)わずか数年前の著作が家中抄なのです。
 その本への書き込みに、日精が造仏の邪思想について書き込んだのがいったいいつのことであったかは、正確には特定出来ないものの、家中抄著述の(1657から1662年)以前であることはあり得ないのです。つまり、日精の本意は、敬台院という信徒がどうこうなどという宗門教学部が言い訳出来るような客観状況では無くなっていたのです。貴殿らの的外れもここまでいけば失笑を誘いますね。あの公開対論の場で口走った言葉は、厳然と記録として残っているのですから。

 

 それでは日精が登座後30年も経った時期に書いた「家中抄」で、なお随宜論と同じ主張を繰り返していたことを、家中抄のいくつかの言葉を引いて確認しましょう。メッセンジャーボーイでしかない貴殿には反論は不可能でしょうから、後ろのハゲ太郎ならぬ出家たちに教えを乞うようにしてください。

 

 家中抄日道伝には、日精が日目上人以来の相伝の一覧を挙げた中に、

 

「日蓮御さくの釈迦一そん一ふく」(5−213)

 

と記述しています。これに対して堀上人は、

 

「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ 下ニ批スルガ如シ」

 

 つまり、「日精は造仏家であるために、写本さえも残っていないこの疑わしい文を根拠としているようだ。家中抄下で批判しているとおり」と明確に日精の造仏思想が、登座して30年以上も経ってから書いた家中抄の中に残されていることを厳しく批判しています。
 これについては「富士日興上人詳伝」においても、

 

「師(日精)は家中抄の記事中、幾多の誤謬を残してあることは、富士宗学要集のなかに加えた天注のごとくである。だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。」

 

と、見事なほどボロクソに批判されています。
 上記の日道伝の相伝目録の箇所などについては、

 

「同師の目師伝の下には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としている。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云云の文が利用したさからである。」

 

等と、まあ手厳しいこと!
 ついでにおまけを言えば、相伝の目録の続きの

 

「日興上人の御自筆御経  ありと云ふ事以後の証文になるべし。」

 

に対しては、

 

「本師読誦ノ例トシテ故ニ之ヲ引クカ」(5−214)

 

と、読誦論者であった日精が悪質な書き込みをしている箇所を堀上人が的確に見つけだして、またも厳しく批判を加えています。
 日蓮正宗宗務院教学部は、これらの堀上人の詳細に亘る分析を全く無視して、文字どおり一把一からげに「日亨上人の誤解である」の一言で、すべてを蹴散らかしてしまおうという悪質な魂胆であり、これに対する小生からの破折に回答不能のままで、何年もの間逃げ回って来たのです。
 そもそも家中抄の執筆方針である日精による末文を確認すれば、その記載内容が正確であるか否かは別にして、日精が事実だと考える信条に沿ったものとしてまとめてあるのです。

 

「其の後御筆併びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや、ここを以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」

 

 つまり、富士の諸伝を集めて研鑚していたが、御書や弟子たちの文献を見ると、弟子  たちの間違いが極めて多く、文書に残っていないこともたくさんあった。そこで、御書を優先して、弟子たちの文書の中で、採用するべきものは記録し、諸伝の正しい説はこれに従い、正しくないものはそれを正して記録した、というのが日精の家中抄述作の一貫した基本精神なのです。
 この末文は、日精自身の信じる善説を家中抄において述べているという一つの明確な証拠です。

 

 そして、日精の信念に基づいて書かれた家中抄には、随宜論で書き残したものと同様の造仏論が他にも数箇所で述べられているのです。一例を挙げましょう。家中抄上では、

 

「日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任て妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり  是本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文意なり、草案並に日尊実録本門心底抄日代状は余の文意なり。」

 

と、本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文意である妙曼本尊と、「余の文意」である草案、日尊実録、本門心底抄、日代状に示された「(広布の時の)釈迦像造立」とを立て分けているのですが、これこそまさに最晩年著述の「日蓮聖人年譜」に日精が「三大秘法の時」云云と書いて、堀上人から厳しく指摘された造仏の悪義そのものです。宗門教学部としては、年譜については「或る抄の引用だ」と論理破綻の言い訳をしていますが、曲会私情も極まれりですね。
 次に、家中抄中で

 

「其の故は国主此の法を立てらるる時は三堂一時に造営すべきなり巳上、此の文之を思へ、況や亦澄師遺状并に日代状は本門寺建立の時なり(巳上 下に之を出す)」

 

 ここで明確に「日代状は本門寺建立の時なり」としていますが、これこそまさに随宜論での主張と同じ内容である「未来の広布の時の釈迦像等の造立」の邪義なのです。その上で、日代状を家中抄の下巻において紹介すると指示しているのです。では、その下巻の内容とは、日印伝に引用した日代状であり、未来広布の時の造仏こそが正義であるという、随宜論での結論部分と全く同じものなのです。日精が一貫して「広布の時の造仏」を主張していた事がここでも明らかなのです。
 貴殿には理解出来ないかも知れないので、出家たちにちゃんと伝えてくださいね。
 さらに挙げれば日精は、「家中抄上」において、

 

「甲斐の国肥前坊日伝と云ふ者あり。日興が義を盗み取り甲斐の国に於いて盛に此の義を弘通す、是又四脇士を造り副ふ」

 

の文の最後に、自分自身の主張を書き加えて、

 

「私に云く此文並びに原殿返状等 報恩抄、唱法華題目抄、観心本尊抄、宝軽法重抄等に依り給えへるなり。」

 

と、最晩年に書いた「日蓮聖人年譜」で、釈迦像造立の根拠とした御書を、ここでも執拗に書き連ねているのです。生涯にわたって「諸御書を一貫させ」続けようとした日精の執念のようなものを感じるではありませんか。
 もう一例を挙げておきましょう。

 

「上寿長年なるが故に御弟子衆御遷化して師独り久住し給ふ、是の故に未決の義有れば日代に問ひ奉り決定せり(日印造仏の義日代に問ひ奉る日の返状之有り日印の下に至り其状とも之を出す往て見るべし)。」(家中抄中5−205)

 

 つまり日精は、日代が大石寺で未決の義があれば決定するような実権を持っていたとした上で、日精自身が添え書きを書いて、日印が造仏について日代に質問した返事を家中抄の下に載せているので見なさい、と指示しているのです。このことからも理解出来るように、日尊、日印、日大に関する記述は、日辰の三師の伝からの引用としていますが、明らかに三師の伝とは異なる箇所や、日精の見解を述べた箇所、三師の伝の内容を正義として引用した個所などが随所に見られることから、日精の本意を延々と書き連ねたものであることが明らかなのです。
 因みに貴殿は、「堀上人の頭注があるのか」という単純な質問をされていたので、事前に説明しておくと、家中抄の文末に

 

「文中厳密には訂正を加へざる所あり」

 

と、あまりにも日精の誤りや邪義が多いためか、全てを訂正しなかったと記されていますので、頭注が無いことを根拠に小生の主張の全面否定はやはり無理ですね。

 

 ところが、こうした破折に対する宗門門教学部の反論たるや、
@「三師の伝」は日精がそのまま日辰の祖師伝から転写したものだ
と家中抄の文を根拠に言ってみたものの、こちらが即座に「転写ではない」と証拠を示して破折したら、今度は、
A家中抄に「三師の伝」の引用はしているが、決して日精の真意ではない
という逃げを打っているのみです。
 @は名目上は少なくとも日精の言葉を根拠にしていたのですが、Aに至っては日精の言葉にも反する、全く根拠のない嘘なのですからどうしようもありません。

 

 ちなみに、@の破折は、家中抄の「三師の伝」の引用部分で、祖師伝には無い箇所を少々挙げれば一目瞭然です。

 

「此の文章に就いて不審有り正和元より暦応元までは廿七年なり、然るに此の文に王城の開山云云信じ難き第一なり、日尊勘気は正安元年なり是より十四年めなる故に赦免の後の付属なり(乃至)故に難信難解の第一なり、若し○機の語なれば有り難し程無く符合を為す権者の所作凡慮の及ばざる所なり」
「御逆修の石塔を立てらる、首題は自筆に書写し給ふ。日尊御遷化は貞和元乙酉五月八日寅刻なり御年八十一歳なり、興師滅後十三年在世なり。」
「予寛永四丁卯十月十日下総国幸島下向の節之を書写す文字損落之れ多し視ん仁之を計れ。祖師伝の中に伊豆六ケ寺の事、日尊直の建立にはあらず」云云(約1ページに亘る長文)

 

 以上、どれもが日尊のことに関する日精の記述ですが、日精の信念である「広布の時の釈迦像の造立」という「正義」から見た場合の日尊の最大の過ちである「広布の時<以前>の造像」について、日尊への疑念を匂わせているのです。
 そして、これらの前提を踏まえて「三師の伝」のうちの日印伝において、随宜論において「廃忘を助ける為に」主張した「広布の時の釈迦像等の造立」という邪義を「祖師伝を書写」してそのまま掲載したために、またまた堀上人から批判されたのです。

 

「本師造仏の底意を顕す」

 

 いやはや見事な堀上人の頭注です。
 おまけに日大伝の最後には、
「相伝に云く日尊の付所の弟子は日印付属の弟子は日大と云云。」
と日精は怪しげなことを書いていますが、いったいどこの山の相伝なのやら?」

 

 以上、法義論争の場で貴殿の願望に応えて謝罪してあげた件については、これを以って一切解消した。

―――――――――――――――――――――――――――――

▼最後に貴殿は、自分は小生からの破折に対して回答出来なくても誤魔化して逃げ回るくせに、小生に対しては愚かにも「謝罪せよ」「詫びを入れよ」とまるで子供のように駄々を捏ねているので、少し頭の体操をさせてあげましょう。

――――――――――――――――――――――――――――― 

「●2、次に当方からの以下の破折について貴殿は今回のメールでまるで触れていない。返答不能なのか、返答を失念したのか。再掲するので次回のメールでは必ず反論する事。もし出来ない場合は謝罪したまえ。一言詫びを入れ、けじめをつけてからそれから、遁走したまえ。よろしいな。」

 

▼すでに9月18日付けで送付した小生からの文書において、貴殿の断片的な家中抄解釈などではなく、別しての12箇条に至るまでの日道伝についての詳細な指摘をしておいたのですが、どうやら貴殿は心が千々に乱れて読めなかったようですね。何か反論をしたいのであれば、まずこちらの全体的な指摘についてコメントしてから進めるべきなのでしょうが、如何せん後ろにいる出家たちの黒子のご支援のままに操り人形をやっている貴殿には、黒子が書いてくれなかったことは書けよう筈が無いのです。
 この点も、貴殿が全く当事者能力を失ってしまった証拠ですね。例えば、

 

A「此の論は俗といえども最も強し」
 上野村は南条家の領地であるから、血縁関係の日道を差し置いて血縁のない日郷に付属するはずがない、というのが世間では最も強い根拠になったというもの。仏法の後継者とは何の関係もない話ですが、これを付属の根拠にしていること自体が相承が無かった現証と言えます。」

 

について、別しての12箇条とか称する特別の相承があれば、このような事態にはならなかったであろうことも、傍証とした論理を展開しているのですが、これらについて貴殿は何か反論出来たのでしょうか?
 その上で、正本の無い家中抄中を根拠に論を展開することの無意味さを、既に最初から小生は指摘しているのに、貴殿は未だにそれについて一言も触れること能わず。まるで子供のお遊びなので、とても付き合っていられませんね。レベルが違い過ぎます。
 後ろの黒子たちが表に出て来ない限りは、別しての12箇条に関してすでに破折しておいたA、Bについても、貴殿とでは論じる意味が無さそうです。速やかに退場しなさい。そして、卑怯な後ろのハゲ共に、サッサと表に出て来い!と指示しなさい。期限は9月30日。

――――――――――――――――――――――――――――― 

「▼ところで貴殿も出家たちも、小生から9月6日付けで送付した以下の文章を読んでいないのでしょうか?貴殿は研究教学書を持っていないようなので、問題外の外におられるのでやむを得ませんが、出家たちには小生からの破折の全てを理解して全てに反論していただきたいものです。」

 

(またしてもくどい繰り返しなので省略)

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03.09.23 17:17 

●やっと少し時間が取れたので少しお相手してあげましょうか。

勝負に負けた者に纏わりつかれる事自体が、言ってみれば誉れですな。

負け犬の如く纏わりついてる貴殿は恥ずかしくないですか?

まっ、そんな恥を知る心があればもう既に何度も自決しているか・・・・・

 ―――――――――――――――――――――――――――――                                       

平成15年9月21日

▼メッセンジャーボーイ・樋田殿 ← S

 数日ぶりにPCを開けると、貴殿から相変わらず重箱の隅を突っついては悦に入っている文書が届いていましたが、後ろの出家たちの操り人形の存在を相手にしているほど小生は暇でもお人好しでもないので、貴殿に対しては、背後霊のような出家たちに対しての戦いにすでに転換していることを申しつけておきます。」

 

●貴殿は何か誤解しているようなのではっきり”申しつけておきます。”当方の背中には”出家者という背後霊”は取り付いていないようなのでおあいにくさま。貴殿の七つに割れた頭の中にこそ”第二の法華経の行者”等という魔物が取り付いているのでは?と、心配です。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ 先日ご連絡しておいたとおり、貴殿の後ろにコソコソと隠れている卑怯者の出家たちに、小生が何年も前から宗務院教学部法義研鑽委員会との文書対論で反論不能にまで追い詰めた文書を転送してください。

 

すでに平成10年11月7日付けで送付して以来、ほぼ5年間にわたって何度も何度も同じ内容の文書を送付し督促していることから、もしも反論準備をしていたのであれば即座に回答可能でしょうから、出家たちからの回答期限については、平成15年9月30日中(厳守)といたします。準備不足の場合でも、回答する意思の有無を表明をすること。

 

 なお、もしも期限までに回答する意志の有無さえも表明しなかった場合には、宗務院は在家との文書対論を放棄して5年にわたって逃げ続けているということが再確認されたことで、またまた宗門関係者に広くその恥を知らしめることになりますので、その旨ご承知おき下さるよう併せて伝えてください。」

 

●上述の如く、宗務院関係者への文書を当方に転送せよと言われましても、転送先が分りません。悪しからず。自分で勝手にやってください。当方とはまるで無関係な事です。

 

(ここも繰り返しなので省略)

―――――――――――――――――――――――――――――

 ▼ 数日ぶりに自宅のPCを開けると、別しての12箇条について当方からの3項目の指摘について、ようやく最初の1項目だけに限定して全体論を誤魔化そうという、貴殿の最も好きな「重箱の隅を突っついて悦に入る」お粗末なお返事が届いていました。」

 

●さて、当方からの指摘に何も反論できない惨めさ悔しさが良く表現できている、なかなか正直な文ですな。

正直でよしよし。

 

だが、当方からの破折の肝要、以下の箇所について明確なる反論をしてからこのような生意気な口をききなさい。

 

再々掲する。今度こそ返答せよ。もし出来なければ謝罪して脱会。よろしいな。

――――――――――――――――――――――――――――― 

●●2、次に当方からの以下の破折について貴殿は今回のメールでまるで触れていない。

返答不能なのか、返答を失念したのか。

 

再掲するので次回のメールでは必ず反論する事。

もし出来ない場合は謝罪したまえ。

一言詫びを入れ、けじめをつけてからそれから、遁走したまえ。よろしいな。

 

「 ここで「弁証」とは、日精上人が何かを弁論によって証明しようとされたことを意味するが、少し前の方から本文を読んでみると、要は、日道上人が日目上人より大石寺を付嘱されたことへの疑難に対し、日精上人が、三つの理由を挙げて道師への大石寺付嘱の正当性を弁証した、そのことを指している。

 そして、その弁証の仕方が、新田坊地を下の坊と勘違いされていたり、上新田講師を上新田講所と誤読し、さらにそこを大石寺と混同されている(※以上は、宗学要集の頭注にもある)など、少しばかり粗雑で、附会(無理な結論づけ)がすぎる、と指摘されたのが、この末文の上に付いた日亨上人の頭注なのである。

 「十二箇条の法門」についての記述は、日精上人の右の三つの理由による弁証の最後の方に出てきていますが、それは、三つ目の理由に付け加えて、日精上人の御確信として「日道上人はこの一大事の法門の付嘱を受けているのだ」と述べられたものにすぎない。

 つまり、この『家中抄中』の当該箇処で日精上人が弁証を試みたのは、日道上人への大石寺全体の付嘱問題であり、何も「唯授一人相承」や「十二箇条の法門」についてではない。したがって日亨上人の頭注が指しているのも、十二箇条の法門のことではない。

日亨上人は記述の間違いについてはどこが、どのように間違えていると必ず朱で傍点を記し、その上で頭注をされている。よって大石寺の法門相承に12箇条法門がある、ということを頭注で否定されているのではない。 

 また、日亨上人は、研究教学書に収録の『家中抄中』を、富士宗学要集へ掲載される際、

 「新田坊地ハ奥州三迫ニシテ下ノ坊ニアラズ。上新田講所トハ講師ノ誤読ニシテ道師ヲ其主トスルモノ。但シ大石寺本山ノニハアラザルナリ」

との詳しい頭注を付けられ、一方、末文に付けられていた前掲の

 「本師弁証不精美…」

の頭注は付けられなかった。それは、この詳しい頭注を付ければ足りる(残しておくと重複してしまう)からであり、この点からも、末尾の頭注が「十二箇条の法門」を指すものでないことは明白である。

 このように、無関係な文を、巧妙にゴマカシて取り挙げ、そこへ都合のよい解釈を加えて、「日亨上人が、十二箇条の法門など誤りだ、と言われた」等と強弁する――これが、貴殿のお決まりの手口なのですね。法論の最中にも当方から喝破され貴殿が詫びた、あの引文の姑息さと同轍ですな。

さて、これらの破折に貴殿はどう邪智を巡らし、屁理屈をかましてくるか楽しみですが、貴殿は当方からの追及に何一つ答えられない無様で惨めな姿を晒したくないが故に、当方からの破折から強がりだけは人一倍に吠えつつ逃げて行くのであれば、当方は止めはしません。

何故なら当方は法論で間違いなく、法義において、道理において、精神の豊かさにおいて、見学者の盛り上がりにおいて、全てにおいて間違いなく勝利した実感があり、が故に貴殿を未練がましく追いかける必然性が存在しない。(ただし、かいた汗と恥の量においては残念な事に、完敗である。)」

3、貴殿は未だに「帰命」についてのなんら明快な回答をしていない。

この件も、もし返答できないのなら素直に自らの非を認め、謝罪しなさい。

貴殿は、この段階で既に大きな「恥」をかいてきた。貴殿の論からすれば、「恥」にも「帰命」が成り立つのであるから、貴殿はこのまま恥をかき続ければ、その無慙な我が身を恥じ、自らの命を絶たなければ示しがつかないと考えるが如何か?

以下の邪難については当方にはもう既に破折の準備は出来上がっている。

が、貴殿の性格からして、一つ一つに明確なけじめをつけずに次に進む事は、貴殿に対しての躾上甚だよろしくない。思うに貴殿は幼少から親からそのようなきちんとした教育を受けてこなかったと見受けられる。依って、当方が貴殿を呵責しつつ将来の為に貴殿を躾ていく。が故に、以上の点を明確にしないうちは他の問題に逃げ場を作る事は許さないので、粛々と、今回の破折に答えなさい。」●●

―――――――――――――――――――――――――――――

▼すでに実質的な対論の相手としての使命を終了した貴殿から、後ろの出家たちのご支援を得たらしいメイルが届きました。前回までのテキストファイルのベタ打ちから、文書表現形式が変更されたファイルになっていたことから、差詰め出家たちから送付された文書を転送乃至コピー&ペーストをしたものと考えられます。

 

 貴殿は今回も、小生からのこの指摘をいっさい無視しましたね。要するに「図星だった!」ということを自ら黙認された訳です。
 これまでの貴殿とのやりとりの経験から、小生の指摘に対して貴殿が何も触れずに無視しようとした時は、@まさしくそのとおり、またはAただ今出家たちに相談中、の二つのうちのどれかであることは明らかです。」

 

●ここも、本題とは全く別な話題に摩り替えて、遠吠えをしているという、敗者に典型的な箇所。(このメールを読まれる読者の便の為に、貴殿の屈折した心理を解説していきましょう。)

ちょうどあれですな、「あんたの(言っている内容では歯が立たないから)言い方が気に入らないのよ!」などと絶叫している、興奮気味のご婦人などのそれと同類ですかね。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼したがって、前回すでに以下のような指摘をして貴殿の役割が終了したことを宣言したとおり、今後は相伝書について論じる能力を持った者との対論を進めます。貴殿に限らず、所詮は宗務院教学部の出家たちも、別しての12箇条の中身など全く知らない訳ですから、議論を出来たとしても、本質からは遠く離れた内容に関して、せいぜい重箱の隅を突っつく程度の議論しか出来ないのでしょうから。

 

 まさしく前回小生がこうして指摘しておいたとおり、別しての12箇条についてその内容にまで踏み込むこと能わず、入り口の「漢字の読み」などというアホらしい議論へと収束させてしまおうという貴殿の(いや後ろの出家たちの?)愚かな魂胆も明らかです。それで全体の文意に影響があるのか、それで別しての12箇条に関する当方の破折に対する反論になっているのか、ちゃんと全貌を説明してから何かを主張しなさい。全体観を誤魔化すためにはどんな卑怯なことでもやろうとする貴殿の「レスリング呆論」のお相手をするほど当方は暇ではないので、一人で粋がっていることですね。」

 

●さあ、ここでは少し本題に触れてきました。こういう我慢の者は自分が痛いところを突かれた時にほぼ決まって吐く言葉があります。曰く、”アホらしい”です。

これは論理的には返答できず、悔し紛れに強がる時の常套句です。

親が子供に、男が彼女に、上司が部下に、教師が生徒に、鋭く欺瞞などを突かれたときなどにも吐きますね。

注意深く観ていくと実に面白い箇所です。

 

さて、ここでS氏は漢字の間違いを認めたことになりますね。間違いを前提としなければ、「それで全体の文意に影響があるのか、それで別しての12箇条に関する当方の破折に対する反論になっているのか、ちゃんと全貌を説明してから何かを主張しなさい。」このような言葉は出てこないからです。

 

ではここでいう漢字の間違いは、ただの間違いで済まされるような程度の軽い問題なのでしょうか?

答えは否。なのです。ヒステリックに絶叫するS氏には大変お気の毒ですが。

 

興奮気味のS氏に理解できるように、当該箇所を再掲しましょう。

――――――――――――――――――――――――――――― 

※●前回の詰問

「貴殿が参考にした文献の原文は、以下で宜しいか?

「本師弁証不精美間加附会益誤後生可悲」(研教六―一九八)

「はい」か、「いいえ」でお答えいただきたい。

どちらのお答えでもいいですよ。どっちにしろ楽しい破折の砲火が待っているだけで
すから。」

 

貴殿はこの詰問に答えられるはずが無いのです。何故なら、貴殿は既にこの文の読み方から間違っているのですから。しかも、直ちに、貴殿の主張の原文がこの文である事を認められなかったことから、貴殿は故意にある一字を読み替えたと言う事が知れます。

もうお分かりですな?

貴殿の悪辣な、底意地の悪い、邪智に長けた、「正当な法義論争」などと口に出す事すらおこがましい、愚劣で、卑怯な根性が如実に表れた場所を指摘しましょう。

 

貴殿は『家中抄(道師伝)』の当該箇処の末文に、日亨上人が

 「本師弁証不精美間加附会益誤後生可悲」(研教六―一九八)

との頭注を付けられている(※これは宗学要集では付いていない)のに目を付け、

 「『本師の弁証は精義ならざる間付会を加えて益々誤れり 後生悲しむべし』

と、『精師の主張は正確でないために、いろいろと解説を加えて益々誤っている。後の世まで悲しむべきことである』とまで指摘されています。要するに、別しての十二箇条の法門と呼んだ甚深の血脈の法門とやらは、日亨上人に言わせれば正しい主張ではないばかりか、余計な解説を加えているので益々誤っているというのです」

 などと、強弁しているが、ゴマカシもここまでくると、殆ど「ピエロ」ですな。

 

まず、日亨上人の頭注の読み方は、

 「本師の弁証、精美ならざる間、附会を加え、ますます後生に誤ること、悲しむべし」

であり、貴殿は筆字の「美」を「義」と誤読している。

 

これは貴殿に筆字の古書体を読み取る力量が無かったのか、(そうであったらそれも誠に恥ずかしい事だが。)故意に読み替えたのだろう。いずれにせよ、無慙極まりない醜態である。

 

 この日亨上人の頭注の意味は、

 「本師(日精上人のこと)の弁証の仕方は精美でなく(粗雑である、の意)、無理に結論づけているので、かえって後世の人々が誤ることになる。悲しむべきことだ」

というもの。貴殿の故意にあるいは古文字に不明にして誤読した解釈は、正に牽強付会、我田引水の迷釈。貴殿そのものが「後生、悲しむべし」でありましょう。※

 ――――――――――――――――――――――――――――― 

●さて、少しく日本語の語感に感性が鋭い方にはお分かりでしょう?

 

@精義 正確な意義。

A精美 精巧で美しいこと。純粋で美しいこと。また、そのさま

 

これが否定形となると、

@は 義(内容や本義)に於いて不正確であると言う意味。

Aは 完璧ではない。完全とはいえない。と言う意味。

 

となり、@とAの意味の違いは歴然です。

つまり、

@は述べられている内容や本義に於いて、主張している論そのものに対して、不正確であると言う意味になり、

Aは内容や本義に於いては概ね齟齬は無いけれども、既述などが完全ではない、となるので、否定している対象や否定の度合いにおいて明らかに差があるのです。

 

とすれば、@で解釈すると、日精上人の当該箇所の義そのものが間違いであることとなり、(事実S氏はそのように解釈している)Aでは、日精上人が仰せの概ねは問題は無いけれども、細かく見れば完璧ではない。となり、当該箇所の解釈の仕方に大きな差異が生じてくるのです。

 

屁理屈で塗り固められたS氏の脳味噌にはこの違いは理解できないでしょうが、先入観の無い素直な読者にはよく理解していただけるところと思います。

 ―――――――――――――――――――――――――――――

▼まさにこんな現状が、現在の宗務院教学部の実態なのでしょう。哀れ哀れ。それ以下については、出家たちから残り2件の資料に対する反論が届いてからまとめてお返事をしてあげることにいたしましょうか。しかし、いったいいつのことになるのやら?

 

と前回に指摘しておいたとおり、後ろの出家たちから残りの2項目についても含めて別しての12箇条全体に対する回答があった段階で、メッセンジャーボーイの貴殿などを経由せずに、じっくりと直接のやり取りを始めたいと思っていますので、ちゃんと小生の連絡先を伝達するように。いやいや、拙宅に宗務院から書類が郵送されてきた以上、彼らは小生の連絡先をすべてご存じのはず。したがって、もしも後ろの出家たちから別メイルで指定した9月30日という期限までに連絡が来ない場合には、やはり出家たちは後ろで操っておいて最後は貴殿に責任を覆い被せるだけの卑怯な権威主義の権化の立場に徹しようということだと理解します。貴殿もいつまでも操り人形をさせられているのは惨めでしょう?責任の所在を明確にしないでコソコソと逃げ回るような者のことを、世間では卑怯者とかいろんな蔑みの言葉で称するのです。」

 

●何か一人で妄想逞しくして、盛り上がっているようですが、前回のメールで既述の如く当方は宗務院の御僧侶方とは何の連絡もとっていないので、勝手に吠えていればいいですね。こう言うのを世間では”一人相撲”というんですね。

何か的外れで喚きたてていて実に滑稽ですな。

柳の木に向かってそれを幽霊と思い込んでムキになって挑みかかる侍の図、もしくは、昔ながらの郵便ポストを警官だと勘違いして喧嘩売っている、酔っ払いのオヤジの図、そんなところでしょうか。いやいや、哀れです。割れた頭の方は。

――――――――――――――――――――――――――――― 

●@講談社の新大辞典(上田万年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田伝一 共編)には「美」の項に俗字として明らかに当該文字が、しかも活字で掲載されているのだが、これについて貴殿はどう釈明するのか。

 「▼今回の貴殿からの回答で、唯一小生にとって意味のあった内容ですが、これさえも貴殿が後ろの出家たちの応援を得ていることを証明しただけで、全く別しての12箇条についての反論になっていませんね。
 因みにこの新大辞典(ママ)は、かなりマニアックな本で、新宿の紀伊国屋書店に確認してみましたが、あそこにも置いていないとのこと。随宜論が富士宗学要集に掲載されていると思い込んでいた貴殿のような無知蒙昧の方(ビデオに記録が残っていますものね)が持っているような代物ではありません。」

 

●どんなに強がってみても、義と美を(おそらく故意に)読み違えた(本当に間違えたとしても充分に恥ずかしい事だが)姑息さや、惨めさには変わりない。

法論中、随宜論と年譜を勘違いした当方の単純なケアレスミスを殊更に持ち出してくるところなどから、義と美の指摘がよほど悔しかったのだろう。ご愁傷様、今後気をつけなさい。それと、義と美の読み違え、ケアレスミスなら許してあげてもいいが、故意にだったら、謝罪しなさい。親にどういう躾をされてきたのか。「親の顔が見たい」等と言われて親の顔に泥を塗りたくなかったら、きちんとけじめをつけなさい。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼念のために、超マニアックな「異体字辞典」で確認したところ、非常に面白いことが判明しましたよ。しかし、貴殿に教えてあげても猫に小判なのでやめておきましょう。」

 

●勿体ぶってみても駄目駄目。貴殿も男の端くれなら、潔く謝ったらどうか。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ところで、貴殿が引用した文献は、正しくは「新大字典」です。貴殿ならば、間違っているから謝罪せよ、と執拗に主張するのでしょうね。何と言っても、他の間違いについては厳格かつ几帳面に、
> 誤字の修正
>  ・義難 → 疑難
>  ・三法 → 三宝
と訂正のメイルを送付してくるのですから。」

 

●おお、これは正しく打ち間違いだな。ご指摘ありがとう。ケアレスミスだ。

が大した問題ではないな。事実貴殿は紀伊国屋書店で正確な書名で理解しているのだから。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ 貴殿のレベルはその程度のものなのです。アホらしくって相手していられませんね。「呆」義論争しか出来ない卑しい心根の方なのです。」

 

●出た!ここです。”アホらしい”と言うフレーズ。 読者の皆様、如何にS氏が誤字の指摘で反論不能に陥ったことを根に持って悔しがっているかが分るでしょう?

正しく、S氏の”レベルはその程度のものなのです。”幼稚園児級のレベルでしょうか。小学生低学年級でしょうか。

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「▼逆に、「辞典」を「字典」だと訂正して来なかった以上、貴殿は知らずに間違ってしまったことを自ら証明したようなものなのです。後ろの出家たちが黒子になって、貴殿は格好悪い踊りを踊らされているのです。いくら背伸びして立派に見せようとしても、竹馬に乗って背丈を誤魔化しているのがすぐに暴かれるようなもので、惨めだからやめておきなさい。」

 

●前段の続きですな。彼の苛立ちは収まりそうにありません。でも、これでいいのです。こうして苛ついているうちに、現証が出てきて自分の間違いに気がついていくのですから。もう少し様子を見ていきましょう。

――――――――――――――――――――――――――――― 

 「▼法義論争に関してフェアでない貴殿のような人間から、「誠実に人間主義でやれ」などと言われても、譬えは悪いですが、泥棒から「泥棒をするなよ」と言われているようなものですね。」

 

●さて、何を以って当方が”法義論争に関してフェアでない”と言われるのか。実に興味深い発言です。法論の最中に対論者の名を騙って宗務院に電話をかける卑劣漢の分際で「良くぞ言った!」と言う言葉ですな。

 正に、「自科を顧みざる者にして嫉妬するの間、自眼を回転して大山を眩ると観るか。」だな。

 恥ずべし。慎むべし。恐るべし。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ もしもこういう言葉を吐きたいのであれば、貴殿らがウソを掲載して学会員の信心を破壊しようとした寛尊の浄圓寺の御本尊の改竄という犯罪的行為についてまず詫びてからにしなさい。そういう基本的な人間としての振る舞いを示さずに、他人の言葉を切り文して相手に何かを押しつけるという、貴殿の命の芯から卑しい人間性が露骨に顕れた文章ですね。」

 

●では、その証拠写真とやらの詳細画像を添付したまえ。画像不鮮明では不可。当方で画像分析に耐え得る解析度の画像を送付したまえ。それを専門機関で分析の後、当方から回答をしてあげよう。

裁判でも相手側が提示した証拠物件の科学的な分析なくしてそのまま証拠として採用される道理は無い。が故に、貴殿等が提示したコピー画像は当方で分析する必要がある。是々非々はその解析の後である。

勝手に自分たちの証拠物件らしきものを振りかざして相手方を攻め立てても根本的に失当である。ご苦労さん。

画像送って来れるかな?どうせ無理だろうね。もし、それが出来ないのなら、二度と生意気な口を開くではない。

 ―――――――――――――――――――――――――――――

▼ また、9月14日付けで小生から送付した内容である

 

「▼当日のビデオを目を開けて何度も確認してみることです。終了時点で、対論の結果を確認して、脱講誓約書の決着について打ち合わせしようということを、当方は何度も強く主張していたにも拘らず、貴殿らは目を逸らし、全く無言で、当方が止めるのを無視し、逃げるように帰ってしまったではないですか。「待て!」というこちらの制止を強引に振り切ってまで逃げ出さねばならないほど、「返答不能で脱会」という条件を確認されるのを恐れたからこそ、あのようなビデオの記録が残されたのです。この事実には何の言い訳も無用。貴殿の得意なごまかしも一切通用せず。すでに権利を放棄した者が今頃になって何を言っているか。そんな貴殿が、今さら「帰命から明確に回答をすべきである」「「返答不能で脱会」の条件に適合する」ですと?抱腹絶倒、笑止千万、片腹痛いとは、まさにこのことです。返答不能だと主張したいのであれば、なぜモノも言わずに逃げ帰ったのかな?そのあたりの正確な根拠については、今度貴殿のお宅を訪問した際に詳しく問い詰めてあげましょう。」

 

▼等の法義論争の結果に関する小生からの破折に対しても、結局真っ向から反論すること能わずですね。」

 

●既に、一言で破折済みだが?自分が切り捨てられている事に気がつかないのか?嗚呼惨め。

「北斗の拳」ではないが、貴殿は既に死んでいる。だが?

 

曰く

●●「● もう負けが決まった者を相手に何か言う必要がありますか?何度も確認するが貴殿はなんと!2度まで謝ったんですよ!当方等に。「謝る」と言うのは「自分の非を認めること」だと、幼稚園か小学校で教えてもらわなかったのかな?」

 

●これで気がつかないのなら、最初からきちんと躾ていきますか。全く世話のかかる人ですな。

 貴殿は当方からの当初のメールに対し一言も反論不能ですね。貴殿にとっては誠に不名誉なこの文言に対し何か反論してみたら如何か?

――――――――――――――――――――――――――――― 

「●※「早速のメールありがとうございます。法論は大変楽しませていただきました。

 

終わった後の充実感、爽快感は、もう例え様もありませんでした。

それはまた、見学者の法論終了後の盛り上がり方の相違に歴然と表れ、法華講側の歓喜に溢れ猛然と貴殿等に対してなされた折伏、呵責の姿に対し、創価学会側の見学者のあの失望感、寂寥感、無力感は、今回の法論の勝敗の結果を物語って余りあるものがあります。

折角貴殿に応援に来ていただいてもこの惨憺たる結果ではさぞかし地元の学会員も落胆した事でしょう。取り分けてN氏の無念さ、屈辱感、後悔、etc.はいかばかりであったことでしょう。

 

戦勝の将としては敗軍の将兵をねぎらうのは戦の習いと存じています。

ここで一言、言わせてください。「ご苦労様!そして、本当にお気の毒様・・・・」

 

 帰宅後ダビングの為何度も双方の姿が映し出されているビデオを確認しましたが、当方が心の底から感じた勝利の実感は映像的にも間違いないものと確認いたしました。

この全編を見た概ね全ての人がそれを感じていただけることでしょう。

そこで、当方は快勝したこの法論の内容をできるだけ早く、またなるべく多くの方々に観て、読んでいただくための準備に入りました。

 当分はこの作業に没頭したいので、貴殿から申し込まれた「貴殿の敗者復活を賭けた法論」は暫くお待ちいただきたい。

 今回の「当方の法論完全勝利&貴殿の犯罪的行為」を収録したビデオを全国に頒布し、更に、対論に至った経過から、実際の法論の全容等を本として上梓したならば、またゆっくりと貴殿の「敗北感を拭う為の法論」にお付き合いいたしましょう。

 また、ビデオ完成、もしくは勝利本の完成の折には記念パーティーなど催したいと考えていますが、その時には対論敗者として是非参加いただき、無念の感想などをいただけたら、これまた一興と存じます。」※

―――――――――――――――――――――――――――――

▼ 法論の際に、正しい三宝論を小生が体系的に示して「末法下種の僧宝には南無してはならない」と示したことへの貴殿らの反論が、「帰命」の一言について禅問答でも始めたような「奇妙」な揚げ足取りで終始したという自らのお粗末さを棚に上げるばかりか、法論が終わってから貴殿は会場から逃げ出したことを忘れたのですか。」

 

●これはお笑いだ。貴殿は当方からの詰問により、論に窮し、「女に命を賭ける」ことも帰命だ。だの、「恥に命を捨てる」ことも帰命だの、もう、まともな教学の研鑚をした者ならば到底言い出せるはずも無い事を吐き散らしていた醜態を見て、貴殿には既に帰命の意義について論じる素養無しと断定されたのですよ。

貴殿に正しい相伝に依る文義解釈の機根無しと判断した当方が少しでも貴殿の境涯でも理解できるように仕草、身振りを交えて懇切丁寧に貴殿の妄説の矛盾点を示してあげたのを忘れましたか?

まっ、貴殿には、それが「禅問答でも始めたような「奇妙」な揚げ足取り」にしか見えなかったのも、相伝の無い者どもによる、開眼の無い、勝手に印刷ニセ本尊を拝んでいるが故に無理もないことか。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ もしも帰命について貴殿が正しいと思っていて決着をつけたかったのであれば、絶対に会場に残るべきであったのです。卑怯にも逃げるように法論の会場を去って行った事実を誤魔化して、今頃になって、権利放棄した分際でありながら、敗北した事実を糊塗しようとして、帰命について答えよ、などというのは恥知らずも極まれりです。本当に貴殿のさもしい根性がよく顕れています。」

 

●口角泡飛ばし偉そうに弁解している間に、もう一度「女に命を捨てることが帰命だ」だとか、「恥に命を捨てることが帰命だ」だとかいう類稀な愚論、痴論についてもう一度CHANCEを与えてあげるから弁解してみなさい。

 

■「南無とは帰命の義なり。帰命とは註釈に云く「帰とは帰奉、命とは出入の息なり。夫れ有心の衆生は命を以て宝と為す。一切の宝の中に命宝第一なり。今八万第一の命宝を以て、実相の仏に帰る故に帰命と云う」と文。凡そ一切有心の衆生は命宝を惜しむを以ての故に、諸の苦を生ず。既に命宝を以て妙法蓮華経の仏に帰奉し訖んぬ、更に楽のこれに過ぐるなし。故に南無を以て楽波羅蜜に配するなり。」

 

女だの、恥に帰命するのはちょっと違うんじゃないの?

 

■「私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其の身に入り替はりて、人をして自身ともに無間大城に墜つべきにて候。つたなしつたなし。」

 

あっ、貴殿のお友達脱落僧M氏は昔から女性問題がもの凄いから、女に帰命しているのか。なる程、なら分る。所詮脱落坊主だから、正しい下種三宝尊には帰命出来なかったんだな。貴殿も変な影響受けてはいけないなぁ。
―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ 貴殿が哀願する「帰命」に関して論じることについては、」

 

●「哀願」?貴殿は日本語の語感に対し極めて鈍感もしくは愚鈍ですな。当方からは「詰問もしくは破折」だが?もう一度熟読することをお勧めする。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼貴殿の卑しい根性を躾るために、メッセンジャーボーイとしての責任を果させようと、9月9日付けで

 

「▼なお貴殿は、どうしても帰命について論じて欲しいそうなので、この別しての12箇条の件が決着がついたならばお送りしたいと思いますので、誠実に対応して下さるよう期待しています。」

 

●貴殿は自分の滅裂で道理の通らぬ主張はぬけぬけと強引にするが人の言う事を聞けないのか?それとも理解できないのか?

以下当方からの貴殿へ送った詰問(貴殿は国語が不得手なようだから解説しておくがこれは間違っても”哀願”ではない。以下の文を読んで”哀願”と読み取る者がいたら高校入試で躓いた者だろう。ところで貴殿は通産省勤務と言う事だがそういう読解力で業務文書等を読み違えて上司から叱られていないか?心配だ。)を再度熟読し、いまだ貴殿から何の返答もなされていないが故に、速やかに返答されたし。出来なければ謝罪して、脱会届を送付もしくは当方に手渡しに来たまえ。

――――――――――――――――――――――――――――― 

●●破折

 ■「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。」
■「帰命と申すは天台釈して云はく「命を以て自ら帰す」等云云。命を法華経にまいらせ
て仏にはならせ給ふ。」
■「帰命に人法之(これ)有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉
るなり。」
さて、この御文の如くに、「帰命」とは仏(末法ではご本仏日蓮大聖人様即御戒壇様)へしか使われない、使うべきでない言葉と思いますが、如何か?

――――――――――――――――――――――――――――― 

●●帰命に関連して更に一題。
▲「私(池田)から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約
束すること)を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益であ
る。」(『前進』昭和四十二年二月号)
記別 とは誰が誰にできる行為なのか。一在家がこんなこと言ってしまっていいんでしょうか?


 

●●今回の法論はN氏のたっての希望を当方が受け入れてあげて、三宝論から始め
たものである。
当方からの「学会の三宝は何か!」との詰問にあれほど狼狽ししどろもどろの対応し
か出来ず、剰え明確な回答すら得ていない。
特に、仏宝について、まず「帰命」の文義の解釈から始まったが、貴殿等から依然明
確な回答は得られていない。
依って、対論の筋目から言って、貴殿等はまずこの「帰命」から明確に回答をすべき
である。

が故にまずは、今まで貴殿に送付した内容に対し、貴殿等の主張を明示すべきであ
る。
貴殿がこの点について明確に返答できずに遁走するのであれば、それは明らかな、
「返答不能で脱会」の条件に適合する。
もう一度言うが、対論の筋目、順序として、貴殿等はまず「帰命」の文義について、
また、学会で用いられてきた「帰命」の文意について明確に返答する責を負ってい
る。
まずそこから詳らかにせよ。
返答できない場合は脱会誓約書を送付し、速やかに脱会の手続きをとりなさい。
その場合は妙相寺に参詣しニセ本尊を納付し所要の手続きを取る事。
―――――――――――――――――――――――――――――
次に、貴殿は以前、
「我々は末法で二人目の法華経の行者となった池田先生を師匠として「各々其師範よ
り法水を受けて信心を獲得決定し給ふ」のです。」
と論文で書いていますが、この「末法で二人目の法華経の行者」とはどういう意味
か、明確に回答いただきたい。
当方ではこれは「本仏再誕が池田」と言う意味と捉えますが?
となれば、貴殿等の仏宝はご本仏日蓮大聖人様と、池田と二人いるということになる
が。如何か?
12箇条について云々する前に、順序としてこちらを整理するのが筋ではないか?
それとも論じることが出来ない何か不都合でも御ありなのか?
しかも、まだ僧宝についても全く論じ合っていない。
これも宿題である。」●●

――――――――――――――――――――――――――――― 

尚、直上の貴殿のかつての愚論について、反論ともいい訳ともつかない偏執的な怪文が来たが、当方としては明確な返答としては認められない。が故に更に重ねて詰問する。

 

池田が第二の法華経の行者ならば、彼以前には法華経の行者は大聖人お一人ということでよろしいか?

”第二”というからには当然理の指し示すところそうなるしかない。

 

一、では、池田はいつ”第二の法華経の行者”になったのか?誕生時においてか?

それとも生後何年につまり彼が何歳の時に第二の法華経の行者となったのか?

小平さんに論破されてしぶしぶ入信した時か?

雷の音が怖くて勤行をはじめた時か?

会長就任時か?

自分のお守りご本尊を模刻させた時か?

日達猊下に謝った時か?

次男が死んだ時か?

それとも信徒除名処分になった時か?

 

明確に返答されたし。

 

一、 池田が法華経の行者である根拠を挙げよ。但し、池田以前には大聖人以外に法華経の行者がいなかったと言う自らの論が破綻しない文証等の根拠である事は勿論である。さあ、明示せよ。

―――――――――――――――――――――――――――――

▼とクギを刺しておいたのですが、貴殿は与えられたメッセンジャーボーイとしての責務も果そうとせず、小生には深い縁のある黄倉君の連絡先も教えず、出家たちの操り人形になり切って、不誠実な対応を繰返すばかりであることから、せっかく整理した帰命についての文章も貴殿に送ることは無いでしょう。また別の場で活用いたします。」

 

●貴殿は姑息だから文証を挙げられないでいるだけ。挙げればたちどころに論破されてしまう事は、今までのやりとりで貴殿は痛打を浴びせられ、苦い思いをしている。ただ虚勢を張っている哀れな公務員。みえみえです。

――――――――――――――――――――――――――――― 

●黄倉氏の件は、黄倉氏に問い合わせたところ、「やりたいなら妙観講の本部に文書を送るなり、電話してこい」とのこと。以下のページを見れば明らか。貴殿は見たことがありますか?

貴殿の姑息な人間性が克明に表記されていて、大変面白い内容ですよ。


http://www.e-net.or.jp/user/mblu/ndb/skbk1/houron/victory.htm

このHPの以下の部分をよく見ましょう。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
・〜・
しかも、最後は、黄倉氏の住所電話番号を書けと言ってきたので、文書は本部にFAX
してくれというと、

S:「卑怯もの!自分の連絡先を教えない奴は相手しない!」
黄倉:「君から連絡してきて一回でも私が返答しなかったことがあったか!」
S:「何故電話が通じない、俺は何回も電話したぞ」
黄倉:「逃げたのは2回とも君の方からではないか!電話切替はこっちの都合、本当
に連絡とりたければ、妙観講本部に電話すればいいじゃないか、あれ以降、黄倉宛に
妙観講に電話したことがあったか?」
S:「・・・、君とはやらない!○○さん、別の人を立ててくれ!」


〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
・〜・
このHPで貴殿と黄倉氏とのやりとりを見る限り、逃げているのは、いつも貴殿ではないですか。自分から妙観講本部に連絡すればいいことを黄倉氏に責任をなすりつけるのはやめたまえ。
―――――――――――――――――――――――――――――
「▼したがって、結論として

 「▼貴殿の負け犬の遠吠えなどを相手しているほどこちらは暇ではありません。今回も貴殿はスケジュールについて全く返事をして来なかったので、貴殿が仲介の責務から逃げたものと見なします。近日中に脱落僧M師か小生か誰かから直接O住職にご連絡が行きますので、今回の対論の詳細の経緯を伝えておいてください。すでに貴殿は今回の法義論争での役割は終わりました。結果的には、役立たずの烙印を押された格好です。無様ですがそれも仕方が無いことでしょう。」

 という状況になったので、貴殿は何とか後ろの出家たちの応援を得て、自らのメンツを保とうと、セッセとコピー&ペーストを始められたようですが、既に「何を今更!」という段階さえも過ぎているのです。どうせ貴殿には別しての12箇条について論じる能力も立場も意思も無いのですから。ご愁傷様。」

 

●これまさに強がり言いながら後ろ向きに遁走するの図そのまま。よく法論に負けた者がやる仕草だな。哀れS氏、とうとう、このパターンを自ら演じる羽目になるか。そこまで落ちぶれたか。げにニセ本尊の恐ろしさよ。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼どうやら貴殿は、小生がケアレス・ミスをして引用した家中抄の一節について、またぞろ持ち出してくれたようですが、前回の小生からの貴殿の宗史に関する無知蒙昧への破折に対して、予想通り一切返答不可能であったと言うことで、

 「小生が法義論争の際に家中抄の引用ミズをしたことについて貴殿に誠実に詫びたことを、今回をもって取り消す」

 ことを貴殿が暗黙のうちに認めたともの見なします。はい、ご苦労様。

 

●なんですか?これは?全く論旨不明瞭。苦し紛れの言い訳か?浮気の現場にかみさんに踏み込まれて、しどろもどろに全く訳のわからない事を言い訳する、惨めな中年公務員の図か?

 

1、「ミズ」とは「ミス」の複数形か?してみると貴殿は何箇所も間違えたか、複数箇所を故意に妄引したことを”暗黙のうちに認めた”か?

2、”宗史に関する無知蒙昧への破折”とはもしかして日精上人の事か?ならば既に申し渡してある。

●●日精上人についての義難は、貴殿の根暗な”研究発表”としてどうしても認めてもらいたくて執拗に何度も貼り付けてきますが、今回の法義論争の論題「三宝論」の本質からは離れているので、後ほど徹底的に解剖してあげます。その前に順序を正して答えたまえ。●●」

 

上記の文が読めないとは、貴殿はよほど国語が苦手だったと見える。そんなんでよく国家公務員試験に受かったですな。いや不思議。

 

この文の如く貴殿は上記のまず三宝論を明確に完結する責を追う。その責任を果してから、自分の権利を主張したまえ。そういう世間並みの躾を親から教えてもらってこなかったのか?権利と義務のバランスを知らぬのか?貴殿はもしかしてゴミの選別とかきちんとしているか?夜中にしらばっくれて出していないか?

あっ、そうか、今はそういう不法行為は出来ないシステムになっているんだっけな。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼小生が誠実に貴殿の無知を指摘してあげても、結局は後ろの出家たちに相談して、そのうちボチボチと何とか誤魔化すための返事が届く、などというアホらしい作業を貴殿とやっているほど小生もお人好しではありません。」

 

●貴殿の振る舞いを見れば、始めから”お人好し”とは思っていないので余計な気苦労や弁解は無用です。ご愁傷様。

―――――――――――――――――――――――――――――

▼ 何が何だか訳の分からなくなったような主張をされていますが、最初に正しい三宝論を示した当方の見解に対しては、貴殿らは一切何らの教義的な反論をしていないことを忘れぬように。」

 

●やはり、先ほど指摘してあった通り貴殿はこの文が”読めない”ようですな。正にこのような無能の者が国家公務員で税金で暮らしていると思うと情けなくなりますな。

 

いつ、どこで貴殿が正しい(自分で思い込むのは勝手だが)三宝論を示しましたっけ?

そんな根拠の無い強がりを言う前に、まずこのメールの当方からの詰問に明快に回答したまえ。

貴殿がうわ言のように言っていた三宝論など、当方からすれば泡沫の如くの痴説で正論だなどとは全く認められない。が故に、更に詰問を発している。貴殿は全く回答不能に陥っている。速やかに返答せよ。さもなくば謝罪して脱会せよ。

それが出来ない、そんな女々しい男、女には好かれないよ。かみさんとうまくいってますか?子供たちぐれていない?ほんと心配だよ。貴殿が女に”帰命”しても女は貴殿に”帰命”してくれないこと必定。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼小生が精師の邪義を証明したのは、末法下種の僧宝は無条件に信じる対象ではなく、その正邪は正義に照らして明らかにしなければならない、という大聖人の教えに基づいていることは、すでに何度も何度もメイルも含めて破折しておいたとおり。」

 

●貴殿の引文など、法論の最中に一発目で喝破された如くの唾棄すべき姑息で老獪で醜悪な謗法者のモグラ法門である。第一に、法論において一番最初に提示する文などは最高に自信がある箇所であるはず。それがいきなり姑息な摩り替えによる御文の邪解であるとは!貴殿の精師に対しての邪難など、精緻に論及すれば悉く破折してしまえる狐疑である。が、物には順序がある。貴殿にはそのけじめを守る訓練が欠けている。おそらく貴殿は幼少期から自分の我侭だけを主張し、ゲームにしろ何事に於いての順番にしろ守れなかったのだろう。が故に、いつも人から疎まれ、表面上のお付き合いだけで、心底貴殿を好いてくれる者がいなかったであろう。それは女性関係でも同様で、最初は貴殿の熱弁にほだされた女性も貴殿の独り善がりな性格に愛想を尽かし多くの(って数は極めて少ないだろうが)女性が去っていった事だろう。貴殿はその度に復讐の誓いを立て、偏執的で歪曲した精神世界にのめりこんでいった事だろう・・・・・誠に哀れである。おそらく、子供にも人気が無いであろう。誠に惨めである。が故に当方が貴殿を躾直そうと言っているのだ。

もう一度言う。三宝論を明確にしてから後にじっくりと精師に対する邪難を破折する。一度言われた事は、一回で覚えなさい。よろしいな。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ 理解力が無いのか、卑怯にも自らの誤りを認めたくないだけなのか、おそらくその両方であろう貴殿が、宗史に関する全くの無知をさらけ出したビデオがしっかりと残っているのです。そして、前回の小生からのメイルでの破折によって、小生のケアレス・ミスを解消した結果、すでに貴殿は最初のテーマであった三宝論においても、敗北の一歩手前まで進んでしまったと気がつくべきです。」

 

●貴殿は今、正気なのか?酔っているのか?論旨不明。分る?

「前回の小生からのメイルでの破折によって、小生のケアレス・ミスを解消した結果、すでに貴殿は最初のテーマであった三宝論においても、敗北の一歩手前まで進んでしまったと気がつくべきです。」

 この滅裂な文、もう一度論旨明快に説明しなおしたまえ。

 1、”前回の小生からのメイルでの破折によって  ”で、

@まず、何をどのように破折したのか?

Aどのような道理で、”小生のケアレス・ミスを解消した”のか?(何が何でも消し去りたいほど、よほど悔しかったんだろうな?推察します。お気の毒様。)

B当方が”三宝論においても、敗北の一歩手前まで進んでしまった”とは具体的にどういうことか?

 以上三点、明証せよ。出来なければ謝罪せよ。勿論脱会届け添付。

 ―――――――――――――――――――――――――――――

 「▼貴殿のお宅を訪問した際には、脱落僧M師と「阿部管長の懐中の木彫りの釈迦像」についての議論が終わったら、三宝論の決着もつけますか?」

 

●貴殿は世間をよほど知らないと見える。

会社を辞めた者が後になって会社の社長の悪口を何遍吠え付こうが、誰も信用しない。裁判でも証拠として採用などされない。こんな簡単な道理がわからぬか?情けないこんな者が通産省で役人やっているなんて!

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ まあ、こんなメイル上のやり取りでは、貴殿は論を誤魔化すだけでしょうから、これ以上は直接会ってじっくりと決着をつければ良いでしょう。貴殿は、いつでも来い、と回答して来ると期待していましたが、どうやら嫌がっているようですね。まさか大聖人の門下でありながら、臆病風に吹かれた訳ではありますまい?
 まずはその前にO住職のところに脱落僧M師がご訪問し、その後で貴殿のお宅をご訪問することになると思いますので、くれぐれも楽しみに。」

 

●今日、Oご住職のところへ電話をしてきたそうですな。

よろしい、では、貴殿等に会いましょう。

但し、人の家を訪問する最低限の礼節だけは守りなさい。

 

@事前に訪問の日時を告げ当方の予定を伺う事。

A訪問時の人数を予め告げること。(その人数に対しての対応の仕方がある。その約定を違えた時は当方の指示に従順に従う事。つまり予定外の者は入室禁止。もし従わない時は残念ながら法論は実現しない。)

B写真、ビデオ等の撮影を行うが、後にその画像を大量に不特定多数に頒布する旨了承すること。約定文書を作成しておくから必ず書名捺印すること。印鑑証明書添付すること。もし添付出来なければ拇印でも押印すること。後に肖像権等を楯に法的に騒がぬ事。

C非常識極まりない行動に及んだ場合、速やかに警察を呼ぶ。その旨了承する事。

 

以上の決まりごとを守れるのなら大いに会いましょう。

貴殿の卑劣極まりないその謗法の悪心を徹底的に叩きのめすのみ。

お待ちしています。所詮正当な相伝の無い貴殿等など、物の数ではない。

チマチマした蚯蚓法門等たちどころに捻り潰して差し上げましょう。

そして貴殿等の懲りない惨めな臭面をビデオに撮り全国に更に普及しましょう。

いや、実に面白い!当方の日程を聞いてきたまえ。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

●●>思うに貴殿は幼少から親からそのようなきちんとした教育を受けてこなかったと
>見受けられる。依って、当方が貴殿を呵責しつつ将来の為に貴殿を躾ていく。

 

▼ いやはや爆笑させていただきました。」

 

●ここは痛かったな?大体が”爆笑”だなんて言葉を使う時は間違いなく動揺している時だ。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼まるでサドの変態オヤジの教育論ですね。」

 

●貴殿は”躾”られたことがないのか?可哀想に。人間としてきちんとした環境で育っていなかったんだな?嗚呼、これから少しづつ直してあげるからね。因みに貴殿のご両親は学会員なのか?

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼重箱の隅ばかり突っついて全体観を誤魔化し、本質を自ら踏み誤るばかりか、他人に対してもその間違いを強要していくという貴殿の教育観では、いったいどのような子供たちが育つことやら。日本の未来が思いやられますね。」

 

●まず言っておくが、当方は教員ではないので。”日本の将来”はご心配無用である。

むしろN氏が教壇に立っていることを当方は嘆き憂いている。貴殿からも忠告してあげてくれまいか。彼の資質や人間性では誠に日本の将来を危ぶむ。頼む!彼を辞職させてあげてくれ。あっ、そうか!法論の結果があまりに惨めだったんで、彼とは不仲かな?その後。いや、無理なお願いだったな。すまん、すまん。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ では、家中抄に関する貴殿の無知蒙昧故の「法論の最中にも当方から喝破」とやらに対して、再掲しますのでよくよく頭を冷やして読むように。後ろの出家たちに御迷答についてのお伺いを立てているのでしょうが、今さら後ろのハゲたちの応援を得なくても、法義論争としては決着済みです。もしも本件について反論したい場合には、時間の猶予を与えないこととしておきます。次回の貴殿の返事までですよ。楽しみにしていますね。」

 

●今回の破折を読んでいない貴殿には酷な言い方だが、一言 

 

くどい!

 

まず三宝論からきちんとしましょうね。いいでちゅか?分りまちたか?それが済んでから次に行きましょうね。

だいじょぶでちゅか?

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼「それはさておき、せっかく貴殿が、小生の文献引用のケアレス・ミスを指摘してくれたので、あの家中抄に示された日精の造仏読誦の邪義をごくごく簡単に紹介して、小生が最初から指摘している「末法下種の僧宝は無条件に信じてはならない」という証拠とし、貴殿の全くの勉強不足を明らかにするとともに、宗務院教学部の出家たちへの破折を完結させておきましょう。」

 

●よほど辛かったんだろうな。今までいきなり鼻っ柱を挫かれた事が無かったんだろうな。

いい経験したじゃないか。まっ、これに懲りずにせいぜい蚯蚓やる事だね。

とことん破折し尽くされたら、帰伏しましょうね。正しい日蓮正宗に。

今後も時間が取れたら今回のようにじっくりお相手してあげるからね。

 

では、三宝論。くれぐれも誤魔化さないように。

屁理屈いくら言ってきても、だめでちゅよ。

 

日精上人はそのあと幾らでもお相手してあげまちゅからね。

 

では、おやすみ。

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今日、Oご住職から以下の様な貴殿のFAX文書をいただきました。

 

元より御住職は、脱落僧M氏の先日妙相寺に来た時の無礼千万な狼藉に対し

相手にする価値なしと御判断されており、貴殿等ごときの一闡提の謗法者どもとお会いになる意志はありません。ご愁傷様でした。

「法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ」

貴殿の姑息で愚劣な魂胆による策謀には当方がお相手するよう御下命になられたので、喜んで木っ端微塵に破折させていただきます。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼2003年9月24日

O S 様


前略


昨日は、ご多忙のところにお電話して失礼しました。
 夕方にもお電話しましたがつながらなかったので、FAXで用件をお
伝えします。                
 小生からの連絡があることは、すでに樋田氏から伝わっていると思い
ますが、可能ならば今週28日(日)の午後にでも脱落僧MU師と貴寺を
ご訪問出来ればと思っており、O住職の日程を確認させていただきた
くご連絡しました。」

 ―――――――――――――――――――――――――――――

●上記の如くご住職は、貴殿等如き謗法の害毒によって頭破七分に頭の壊れた、姑息で卑劣、且つ無礼極まりない者どもとは取り合いません。

自らの醜面を恥じ、後生を畏れ、日蓮正宗に帰伏してから、頭を地面に擦り付け、深く反省懺悔してから来訪しなさい。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ 貴寺の樋田氏はこれまでに脱落僧M師に対して大変に非常識で失礼極まる
メイルを何度も送付しており、こうした不当な行為を改める気配が全く
見えません。」

 

●どこがどのように「大変に非常識で失礼極まる」のか具体的に例示せよ。

以下は脱落邪淫僧脱落僧M氏が当方に送付してきたメールの内容の一部である。

 

「明日、広島を始発で長野に行く!お前の仲間がお前のスキャンダルを教えてくれるからな。蛆虫野郎!無言電話は貴様だろう!会いたいなら時間を蛆虫始末の為に空けてやろう!いつでも連絡しろ!」


「蛆虫が忙しいのか!Oと二人でガン首そろえて寺で待ってろ!そうでなければ便壷の中に隠れてろ!」


「蛆虫野郎!どんどんやれよ、又、大好きな裁判を蛆虫相手にやれるからな!」

 

「どうした!蛆虫!お前の好きな婦人をたくさん連れて行くからでっち上げのデマを聞かせろよ!お前と裁判やりてー!Oも一緒にやるか!名誉をしっかり傷つけろよ!ゲス野郎!」


「蛆虫にしてはデカイ便所にすんでるな!腐った寺に参詣してやるから待ってろ!」


「蛆虫は二酸化炭素はくな!汚らわしい!蛆虫が泣き叫ぶ姿が目に浮かぶぞ。」


「お前みたいな蛆虫に都合などあるのか!仏敵は滅びるのみ!便壷にきえろ!」


「蛆虫よ、そのお前の今の言動そのものを、頭破七分と言う。恐怖に狂ったな。情けを賭けてやろう。七分に割れた頭が胴体から離れるよう、手を打ってやろう。」

 

世間ではこのような内容を「大変に非常識で失礼極まる」と称するのだが。

貴殿は脱落僧M氏の友人として気の利いた弁明をしてあげたら如何か?

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ また、先日彼と小生とが公開法論を行ったことはご存知だと思います
が、その際には、よせば良いのですが、彼はその立場でもなく能力も無
いのに「血脈相承論」や「本尊論」をテーマとしたために、阿部管長が
宣言した「未だ公開されざる別しての12箇条の相伝」について、小生
から責められて、その後の文書のやり取りの中でメッセンジャーボーイ
としての責務さえもまともに果せなくなり、とうとう小生の名誉を毀損
するようなメイルを送付してくるようになりました。」

 

●ここにも貴殿の姑息で卑劣な心根が露見している。

 

公開法論においてN氏のたっての希望を当方が受けてあげて、まず「三宝論」から始め、結局、論点の次の順位である、”「血脈相承論」や「本尊論」”には正式に論が進まなかったのではないか?

 

ここで何故貴殿は故意に「三宝論」を隠すのか?理由は明白だ。

 

貴殿は、当日、「法宝論」でまず初っ端から蹴躓き、しどろもどろの極めて恥ずかしい対応しか出来ず、当方からの核心を突く詰問に、法論開始よりさほど時間が経っていないのに、動揺の為か激しく噴出した汗をしきりに拭き拭き、辛うじて「富士大石寺奉安堂に御安置されている弘安2年10月12日御図顕の戒壇の大御本尊」を恐る恐る「学会の法宝」と認めた後(もし、今後、学会が他門流が所蔵していた大聖人御真筆ご本尊を担ぎ出してきた場合、または池田が本尊図顕をした場合のいずれも、貴殿の認定した法宝論は破綻する訳だから、その時点で即座に今までの謗法行為を謝罪し潔く脱会したまえよ。待ってるぞ。)当方からの「会長先生に帰命」という人間革命の一節から導き出される会長本仏論への鋭い指弾に、あろうことか「女に命を捨てることも帰命だ」だとか、「恥に命をかけることも帰命だ」などとの誠に低劣で無慙極まりない痴論を開陳し以って恥の上塗りをし、とうとう明確に返答できずに「帰命論」から遁走した、その拭い難い屈辱的な事実に触れられたくない為、故意にか或いは無意識に「三宝論」の名を隠蔽したのだ。所詮姑息な摩り替え、誤魔化しを主な生りあいとする貴殿の性根からはその行動様式は容易に推察できる。

「卑怯者!」と一喝しておこう。

 

また、12か条についても、貴殿が引用した日亨上人の頭注は貴殿の愚論を成立させるには全く別の箇所に対する注釈であり、貴殿の解釈は正に的外れ、見当違いである。(勿論貴殿はその事実を知っていながら姑息に知らぬふりをして自説に牽強付会しているのであろうが。仮にもし知らないでいるとしたらただの無知あるいは勉強不足、あるいは日本語の読解力の欠如である)この件に関しての、当方からの3度にわたる指摘に貴殿はいまだ返答できずにいる。このような明確な事実を覆い隠し、上記の様な当方を貶める表現をしている様は、正に「玼(きず)を蔵(かく)して徳を揚げ自ら省みること能はず。是無慙(むざん)の人なり。(中略)玼(きず)を蔵(かく)して徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省みること能はざるは我慢を釈し、無慙(むざん)の人とは不信を釈す。」であり、貴殿は上慢、我慢、不信の信仰者失格のただの無慙な謗法者に過ぎない。深く自らの歪んだ信仰観を反省すべきである。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼今後の推移によっては宗門教学部のみならず、阿部管長の立場にまで泥を塗るような事態
に発展する危険があります。」

 

●貴殿はもしかして心底愚鈍な者なのか?それともニセ本尊によって大脳組織が腐敗を始めたのか?

日蓮正宗の僧俗であるO御住職や当方が宗門教学部や御法主日顕上人に泥を塗るような事をする道理が無いではないか。

そういう行為をする可能性があるとするならばそれは貴殿等邪教創価学会の走狗である。

貴殿の言い草は、泥棒が「今後のお宅の息子さんの行動の状況によっては、お宅に泥棒が入る危険性がありますよ。」と被害者家族に責任を転嫁して以って自らを正当化し、自分の犯罪予告とも脅しともとれる言動をなしているのと同様であり、およそ正常な思考様式を所有している者の発言とは到底認められない。まさに、世間で言うところの「馬鹿」か「気違い」である。大丈夫か?と思わず肩を揺さぶり声をかけたくなるような悩乱振りである。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼ またこのままでは、O住職にまで彼の非常識な行為による迷惑が及
ぶ可能性も十分に考えられることもあり、」

 

●ここも前掲と同轍の痴言であり、もう一度言うが、世間で言うところの「馬鹿」か「気違い」の”それ”である。

当方が当方の手続ぎの師匠であるO御住職に「迷惑な行為」を故意に恣意的にすることがあろう筈もなく、その”迷惑行為”をする可能性があるとすれば貴殿等痴犬の者どもである。

現に脱落淫僧脱落僧M氏が先日妙相寺で行った非行、蛮行は、正に”非常識な行為による迷惑”であり、貴殿等の程度の低さを証明して余りある愚行であった。

その時の狂態を掲載してあげよう。

 

「おい!じじぃ!出て来い!馬鹿やろー!このヤロー!」と叫びながら、妙相寺のドアを蹴り飛ばしていた。

 

貴殿も男の端くれだったら、脱落僧M氏の斯様な狼藉の事実の有無を本人に確認し、諌めたら如何か?

この脱落僧M氏の狂態は正に学会に”泥を塗るような事態”であると断ずるが?如何か?

―――――――――――――――――――――――――――――

▼事前に脱落僧M師と小生とで今後の対応についてご相談に伺いたく、日程の調整をさせてください。迫っ
てお電話をしますのでよろしくお願いします。草々   S H」

 

●こんなもっともらしく結んでも所詮貴殿等の醜悪な魂胆は見え見えである。

再度申し渡すが、僧宝の一類にあられる尊貴なお立場のご住職には誠に申し訳ない事なので、貴殿等の如き、姑息、卑劣、愚悪、低劣、面妖、幼稚、邪悪、小心、臆病、醜悪、醜怪、低脳な大謗法者には、お会いになる必要は無い。

貴殿等が心底会いたいというのなら、その腐った性根を入れ替え邪教団創価学会と決別し、妙相寺門前で土下座して平伏し許しを請いに来る時にしたまえ。よろしいか。

 

**********************************************************
 貴殿はもう完璧な反論不能状態のようですな。

お労しい。

法論において態々遥々長野まで出向いてきて、貴殿も心底ご承知のとおりの醜態を晒し、しかも、よせばいいのにその後、法論惨敗の名誉挽回のつもりなのか、愚にもつかぬ痴論をメールにて展開し、当方からの激しく的確なピンポイントの反撃に遭い陳腐な応答に更に恥の上塗りをし、またまたよせばいいのに妙相寺のO御住職にまで、虚偽と、顛倒に終始した痴文を送りつけ、それも当方に木っ端微塵に切り刻まれ撃沈し、もう、いいとこなしですな。ご愁傷様です。

あれだけの破折のラッシュに遭いながら一言も反論できないなどと言う世にも情けない惨状は、「第二の法華経の行者 池田センセ〜〜〜」の弟子として、誠に不名誉な、学会の面汚しな、いやむしろ、学会の”恥部”程度の存在と成り果てたわけですな。全く、学会さんもとんだ者を会員として飼っているもんですな。ご苦労様。法華講にはこれほど愚昧な一人芝居を演じるピエロの大馬鹿者は今まで見ませんでしたね。

さて、貴殿の寒々とした一人相撲を際立たせる為に、当初の予定であった貴殿等惨敗ビデオが近々完成です。

貴殿も毎日針の筵状態でしょう。はい?その快感がまだ物足りない?そうですか、では、このビデオが発表されたら、もっと濃厚な被虐的快感が待っています。お楽しみにね。前々から告知していたように、発表の暁には貴殿や脱落僧M氏、N氏も招待しますから、パーティーを開きませんか?貴殿等のご都合よければ、是非その完成ビデオの鑑賞会を兼ねて開催しましょう。その折には是非敗者のコメントもいただきたいと考えておりますので、よろしくお願いします。

 

今回の貴殿への破折ついでに、切り倒しておいた脱落僧M氏も全く反論不能状態。まっ、脱落邪淫僧もどきの如き、お○なの尻を追っかけまわすのだけが生きがいだった不勉強な者に勿論まともな法門など理解できるわけも無いが故に、出家功徳抄の一文で絶句状態。あとは野卑で下卑た罵声を喚き散らすだけしか能が無かったようですな。彼の育ちの悪さがよく判りましたね。あれでは猊下に信順できないわけだ。嗚呼哀れ。

 

N君に至っては、当方からの、自分への破折の集中砲火が別の人物に移行したことで、反論不能状態の不名誉で惨めな立場などこの際お構いなしで、不用意に発言すればまたもや当方の破折で微塵切りに遭う恐れがあるので、息を殺しつつも、小心翼々として一息ついていることであろう。これも情けない限りですな。長野の学会のレベルなんて所詮こんなもんだったんですな。嗚呼。

 

ということでお三方ともみっともなく頬被りを決め込んで遁走!ということですな。本当にご苦労様でした!

 

では、貴殿等にお土産を差し上げましょう。

 

当方完全勝利のHPを立ち上げましたので、とくとご覧下さい。

 

http://w2.avis.ne.jp/~ichizu

 

もし、内容等で不服が御座いましたらどうぞ遠慮なくお申し出て下さい。

検討いたしましょう。

 

今後、このHPを軸に貴殿等の愚論を破折してきたメールなども大きく取り扱い、大勢に公開していきたいと存じております。

異議、異論など御座いましたら、これも遠慮なく申し出てください。

 

では、本日は当方等、「法華講側の完全なる勝利!」を宣言してお別れします。

 

なお、貴殿の帰命等三宝論についての誠実な回答を得てから徐に破折しようと考えていた、12カ条云々についてですが、貴殿は当方からの詰問事項の全てに於いて「反論不能」と判断せざるをえないので、未だ破折し尽くしていない内容については追って、破砕します。

 

では。ご機嫌よう。

********************************************************** 

最近貴殿から、以下の様な2通のFAX文書が妙相寺の御住職の元に届いた。

前回に続き誠に女々しい繰言の繰り返しで、取り合う価値も無い内容ではあるが、貴殿の謗法の害毒で腐れ切った性根を叩き直す為にも御住職のお手を煩わすのも汚らわしいので当方が代わりに破折する。

********************************************************** 

■1通目

 

2003 09/29 22:40  O S 様

2003年9月29日


 前略

 

 昨日は急用が入ったためにご訪問出来ず、失礼しました。
 事前に何度か日程確認の電話をしたのですが、どうしても連絡が取れ
ず、詳細のスケジュール調整が不調のままでしたので、28日中に貴寺
をご訪問出来ないことが決まった段階で念のために確認のお電話をした
ところ、そちらも所用でご不在とのことで一安心いたしました。
 樋田氏の件では、数日前から拙宅のPCのメイルサーバが故障のため、
その後誹諺中傷メイルが到着しているか否かは確認出来ていませんが、
彼のこれまでの振る舞いからして、今後も根拠の無い名誉毀損の言動が
続くと考えられるとともに、宗務院教学部の名前に泥を塗るような事態
が着々と進行しておりますことから、出来るだけ早めにお会いしてご相
談をしておきたいと考えています。

 

 可能ならば10月18日または19日にでも、脱落僧M師と一緒に貴寺を
ご訪問いたしたく、再度調整をさせてください.ご多用のところよろし
くお願いします。

 

                 草々 S H

 

破折

 

▼ 樋田氏の件では、数日前から拙宅のPCのメイルサーバが故障のため、
その後誹諺中傷メイルが到着しているか否かは確認出来ていませんが、」

 

●貴殿等学会の謗法者どもは反論不能に陥ると、どうもパソコンや契約しているメールサーバまで”不調”になるらしい。

前回N君とのメールのやりとりでも彼は同様の姑息で無様な醜態を晒した事があった。

また、脱落僧M君などは当方からの反論催促の追求に対して「切れ味の良い反論のメール届いてませんでしたか?舞台が広いので。飛行機の中からメールしたからかな?」等と、ぬけぬけと言っていたが、もしそれが本当なら、脱落僧M氏は飛行機内で携帯電話を使用していた事になり、航空法に抵触している事になる。まさに馬鹿丸出しの低脳な輩。「舞台が広いので」等と、自慢すらして。嗚呼、惨め。おお、恥ずかしい。(ああ、おお、の連発が”得意技”の貴殿等の師匠を真似て。)

貴殿も所詮「同じ穴の狢」。法論でろくに教義的な法門の議論など全くできず、ただ、喚く事と、冷や汗をかくためだけに出て来たようなN君や、飛行機内で平気で携帯電話をいじる無法者の脱落僧M君と同レベルと言う事か。嗚呼、惨め。おお、恥ずかしい。

―――――――――――――――――――――――――――――
「▼彼のこれまでの振る舞いからして、今後も根拠の無い名誉毀損の言動が
続くと考えられるとともに、宗務院教学部の名前に泥を塗るような事態
が着々と進行しておりますことから、出来るだけ早めにお会いしてご相
談をしておきたいと考えています。」

 

●さぁ、ここが貴殿が女々しい粘着質を覗わせる箇所。

@ 当方の言動が「根拠の無い名誉毀損の言動」というのなら、それこそ、その根拠を示せ。

出来なければ、この言自体が当方への「名誉毀損の言動」だから、謝罪せよ。

A 「宗務院教学部の名前に泥を塗るような事態が着々と進行しております」というが

1、一体誰が、

2、どのように進行させているのか。

 

前回の当方からのメールを見ていないようだから、再度この言の矛盾と低脳さ加減を確認しよう。

 

以下の引用は今回の「宗務院教学部の名前に泥を塗るような事態
が着々と進行しております」との貴殿の文意と同様である。

――――――――――――――――――――――――――――― 

※「▼今後の推移によっては宗門教学部のみならず、阿部管長の立場にまで泥を塗るような事態
に発展する危険があります。」

 

●貴殿はもしかして心底愚鈍な者なのか?それともニセ本尊によって大脳組織が腐敗を始めたのか?

日蓮正宗の僧俗であるO御住職や当方が宗門教学部や御法主日顕上人に泥を塗るような事をする道理が無いではないか。

そういう行為をする可能性があるとするならばそれは貴殿等邪教創価学会の走狗である。

貴殿の言い草は、泥棒が「今後のお宅の息子さんの行動の状況によっては、お宅に泥棒が入る危険性がありますよ。」と被害者家族に責任を転嫁して以って自らを正当化し、自分の犯罪予告とも脅しともとれる言動をなしているのと同様であり、およそ正常な思考様式を所有している者の発言とは到底認められない。まさに、世間で言うところの「馬鹿」か「気違い」である。大丈夫か?と思わず肩を揺さぶり声をかけたくなるような悩乱振りである。


▼ またこのままでは、O住職にまで彼の非常識な行為による迷惑が及
ぶ可能性も十分に考えられることもあり、

 

●ここも前掲と同轍の痴言であり、もう一度言うが、世間で言うところの「馬鹿」か「気違い」の”それ”である。

当方が当方の手続ぎの師匠であるO御住職に「迷惑な行為」を故意に恣意的にすることがあろう筈もなく、その”迷惑行為”をする可能性があるとすれば貴殿等痴犬の者どもである。」※

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ 可能ならば10月18日または19日にでも、脱落僧M師と一緒に貴寺を
ご訪問いたしたく、再度調整をさせてください.ご多用のところよろし
くお願いします。  草々   S H」

 

●その日はご住職は不在です。おあいにくさま。また別の日を指定して来て下さい。

ご住職がお出になる必要も無く、当方等法華講員が貴殿等を完膚なきまでに破折させていただきます。

その模様もビデオで撮り全国に頒布しましょう。

但し、法論開始前には約定書に書名捺印する事。それなくしては入室は不可。よろしいな?

 

********************************************************** 

■2通目

 

2003 09/30 23:40  
                             2003年9月27日
   宗務院教学部各位
   宗門関係各位

 

    去る8月31日に長野・妙相寺の元講頭T氏が学会の壮年部地区幹事
   との間で「血脈相承論」「本尊論」等についての公開法論を行い、T氏
   は回答不能の事態に陥ったために、脱講届の確認作業を拒んで法論の会
   場からものも言わずに逃げ出すはめになりました。

 

    そもそも相伝について論じる立場でも無ければ、当然そのような能力
   も無い者が、極秘の相伝であるとして阿部管長が宣言した「未だ公開さ
   れざる別しての12箇条」について語れるはずもなく、学会地区幹事か
   ら各種の証拠資料を挙げて追求された結果、一言も反論不可能だった訳
    です。

 

    その後、地区幹事からの文書での追求に対して元講頭のT氏は、漢字
   の読み方云々という本質を外した些未な議論に逃げ込もうとしたのです
   が、T氏が「虎の威を借る狐」の諺のように、後ろで宗門教学部が黒子
   となって応援してくれている実態を匂わしたために、とうとう宗務院教
   学部にまで責任が及ぶという大変な事態になってしまいました.

 

     詳細の経緯は割愛しますが、具体的には

 

   @日精師は釈迦像の造立を許すという邪義を生涯持ち続けていた。

 

   A阿部管長が発表した「別しての12箇条の法門Jは、堀上人がすでに
    紹介しており、他山でも知られていた。

 

   の少なくとも2点について、宗務院教学部として反論をせざるを得ない
    状況です。
    それぞれについての地区幹事から送付された文章は長文のため、追っ
   て郵送しますが、まずは宗務院教学部として「反論する意志の有無につ
   いて、本年9月30日までに回答すること」が要求されています.
    本回答は、FAX ○○−○○ までご送付ください.
                               S

――――――――――――――――――――――――――――― 

破折

▼「去る8月31日に長野・妙相寺の元講頭T氏が学会の壮年部地区幹事
   との間で「血脈相承論」「本尊論」等についての公開法論を行い、T氏
   は回答不能の事態に陥ったために、脱講届の確認作業を拒んで法論の会
   場からものも言わずに逃げ出すはめになりました。」

 

●ここでも貴殿は懲りずに姑息な摩り替えを行っている。この当方からの破折文書は全国の正宗末寺にも転送される可能性もあり、事情を伝えるためにも、前回貴殿を破砕した文書を再掲しておこう。貴殿も、読んでないそうだから、ちょうどいい。

――――――――――――――――――――――――――――― 

※「●ここにも貴殿の姑息で卑劣な心根が露見している。

 

公開法論においてN氏のたっての希望を当方が受けてあげて、まず「三宝論」から始め、結局、論点の次の順位である、”「血脈相承論」や「本尊論」”には正式に論が進まなかったのではないか?

 

ここで何故貴殿は故意に「三宝論」を隠すのか?

理由は明白だ。

 

貴殿は、当日、「法宝論」でまず初っ端から蹴躓き、しどろもどろの極めて恥ずかしい対応しか出来ず、当方からの核心を突く詰問に、法論開始よりさほど時間が経っていないのに、動揺の為か激しく噴出した汗をしきりに拭き拭き、辛うじて「富士大石寺奉安堂に御安置されている弘安2年10月12日御図顕の戒壇の大御本尊」を恐る恐る「学会の法宝」と認めた後(もし、今後、学会が他門流が所蔵していた大聖人御真筆ご本尊を担ぎ出してきた場合、または池田が本尊図顕をした場合のいずれも、貴殿の認定した法宝論は破綻する訳だから、その時点で即座に今までの謗法行為を謝罪し潔く脱会したまえよ。待ってるぞ。)当方からの「会長先生に帰命」という人間革命の一節から導き出される会長本仏論への鋭い指弾に、あろうことか「女に命を捨てることも帰命だ」だとか、「恥に命をかけることも帰命だ」などとの誠に低劣で無慙極まりない痴論を開陳し以って恥の上塗りをし、とうとう明確に返答できずに「帰命論」から遁走した、その拭い難い屈辱的な事実に触れられたくない為、故意にか或いは無意識に「三宝論」の名を隠蔽したのだ。所詮姑息な摩り替え、誤魔化しを主な生りあいとする貴殿の性根からはその行動様式は容易に推察できる。

「卑怯者!」と一喝しておこう。」

――――――――――――――――――――――――――――― 

 

 

   「 ▼そもそも相伝について論じる立場でも無ければ、当然そのような能力
   も無い者が、極秘の相伝であるとして阿部管長が宣言した「未だ公開さ
   れざる別しての12箇条」について語れるはずもなく、学会地区幹事か
   ら各種の証拠資料を挙げて追求された結果、一言も反論不可能だった訳
    です。

 

    その後、地区幹事からの文書での追求に対して元講頭のT氏は、漢字
   の読み方云々という本質を外した些未な議論に逃げ込もうとしたのです
   が、T氏が「虎の威を借る狐」の諺のように、後ろで宗門教学部が黒子
   となって応援してくれている実態を匂わしたために、とうとう宗務院教
   学部にまで責任が及ぶという大変な事態になってしまいました.」

 

●よくまあ、破折され尽くしたことをここまで綿々と書き連ねる事が出来るものだと貴殿の偏執性には驚嘆する。やはり、ニセ本尊の害毒による人格破壊か。”人間擱迷”の結果か。

ここも、今までの貴殿とのやりとりと、貴殿が読んでいないと言う前回の破折文を再掲すれば事足りる。

――――――――――――――――――――――――――――― 

※「●>まず、日亨上人の頭注の読み方は、「本師の弁証、精美ならざる間、附会を加え、ますます後生に誤ること、悲しむべし」であり、貴殿は筆字の「美」を「義」と誤読している。

これは貴殿に筆字の古書体を読み取る力量が無かったのか、(そうであったらそれも誠に恥ずかしい事だが。)故意に読み替えたのだろう。いずれにせよ、無慙極まりない醜態である。

 

▼ はい、一発目で蹴躓いてしまいましたね。貴殿は手元に研究教学書が無いようで、自らの目で確認出来なかったのでしょうか?また、後ろで応援をしている出家たちも本当にお粗末なウソで、貴殿を後ろから斬り付けて来たようですが、どうせ恥も責任も貴殿にすべて押し付けるつもりでしょうから、そのようないい加減な指導しかしないのでしょうね。
 目を皿のように開けてよく見なさい。「美」と「義」とは、部首を区分して見れば誰にでも分かり易くなるのです。上半分は「美」も「義」も、どちらも同じ「羊」ですが、足の部分は「大」と「我」ですから、全く字体が異なっているのです。そして、研究教学書の頭注を見れば、はっきりと「我」にしかない撥ねが両側にあるではありませんか。
 あまりにもお粗末な貴殿の後ろ盾の出家たちによる反論でした。
 念のために、知人で漢文専門のA先生に確認してみましたが、その方曰く「間違いなく義です。美ではありません」だそうです。だから念のために貴殿も、誰かもっと偉い専門家に確認してみたら如何かな?必ず「義です」と回答してくれることでしょう。小生も黄倉君と比べれば、少しは漢字が読めると自負していますが、この文字は間違いなく「義」です。
 宗務院教学部による後ろ盾たちの主張には、何だか堀上人の厳しい批判の言葉を思い出しますね。

 

「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。」

 

 まさにこんな現状が、現在の宗務院教学部の実態なのでしょう。哀れ哀れ。
 それ以下については、出家たちから残り2件の資料に対する反論が届いてからまとめてお返事をしてあげることにいたしましょうか。しかし、いったいいつのことになるのやら?

――――――――――――――――――――――――――――― 

●さて、面白い事を言ってきますね。

貴殿は本当にこんな事を言い張っていいのですか?当日の法論で惨敗してそれで充分かと思うのに、まだ更に恥をかきたいのですか?

まっ、いいでしょう。それを望むなら。

 

1、

@講談社の新大辞典(※ここは貴殿の指摘の通り打ち間違いであるので「字典」と訂正する。)(上田万年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田伝一 共編)には

「美」の項に俗字として明らかに当該文字が、しかも活字で掲載されているのだが、これについて貴殿はどう釈明するのか。

”フェアに法義論争を進めて”いる、”誠実に人間主義を貫”く貴殿として、正に「誠実な」返答をお願いしたい。

 

A家中抄 研究教学書第6巻 の本文に日亨上人の御筆で、「義」の御文字があるが、明らかに通常使われる「義」の字体である。貴殿の説だと、同一人が本文と頭注とで別の字体を使い分けるという事になるが、その理由を明確に説明していただきたい。

どう説明されても、その字は明らかに「美」の俗字だが。

 

B貴殿の「知人で漢文専門のA先生」の本名を是非明かしていただきたい。当方が直接質問します。

もし、貴殿がその方の名の公表を拒むのなら(間違いなく貴殿は公表できないだろうが)そのA先生の主張は明らかに「講談社の新大字典(上田万年 岡田正之 飯島忠夫 栄田猛猪 飯田伝一 共編)」の定説に反する訳だから、そのA先生にお伺いして、その根拠を明示されたい。

 

以上、3点、再度言うが、貴殿が”フェアに法義論争を進めて”いる、”誠実に人間主義を貫”く人間ならば、明確に返答すべきであろう。

また、法論の最中と同じように、もし、貴殿が自らの非を認めるのなら、屁理屈をごねて恥の上塗りをするより、潔く謝ったほうが賢明であろう事を付言しておく。

かつて戸田先生は「謝る時は、サバっと謝ったほうがいいぜ」と仰って、大勢の前で一学会員に「いや〜、これは、いかんかった。あいすまん。」と謝られておられた。当方は実に感動したものだ。(勿論レコードで聞いた事)

貴殿の中にもその清い精神がまだ少しでも流れているのなら、大師匠に従ってそうしたまえ。

――――――――――――――――――――――――――――― 

 

※●さて、少しく日本語の語感に感性が鋭い方にはお分かりでしょう?

 

@精義 正確な意義。

A精美 精巧で美しいこと。純粋で美しいこと。また、そのさま

 

これが否定形となると、

@は 義(内容や本義)に於いて不正確であると言う意味。

Aは 完璧ではない。完全とはいえない。と言う意味。

 

となり、@とAの意味の違いは歴然です。

つまり、

@は述べられている内容や本義に於いて、主張している論そのものに対して、不正確であると言う意味になり、

Aは内容や本義に於いては概ね齟齬は無いけれども、既述などが完全ではない、となるので、否定している対象や否定の度合いにおいて明らかに差があるのです。

 

とすれば、@で解釈すると、日精上人の当該箇所の義そのものが間違いであることとなり、(事実S氏はそのように解釈している)Aでは、日精上人が仰せの概ねは問題は無いけれども、細かく見れば完璧ではない。となり、当該箇所の解釈の仕方に大きな差異が生じてくるのです。

 

屁理屈で塗り固められたS 氏の脳味噌にはこの違いは理解できないでしょうが、先入観の無い素直な読者にはよく理解していただけるところと思います。

 

 

2、次に当方からの以下の破折について貴殿は今回のメールでまるで触れていない。

返答不能なのか、返答を失念したのか。

 

再掲するので次回のメールでは必ず反論する事。

もし出来ない場合は謝罪したまえ。

一言詫びを入れ、けじめをつけてからそれから、遁走したまえ。よろしいな。

――――――――――――――――――――――――――――― 

※※●「 ここで「弁証」とは、日精上人が何かを弁論によって証明しようとされたことを意味するが、少し前の方から本文を読んでみると、要は、日道上人が日目上人より大石寺を付嘱されたことへの疑難に対し、日精上人が、三つの理由を挙げて道師への大石寺付嘱の正当性を弁証した、そのことを指している。

 そして、その弁証の仕方が、新田坊地を下の坊と勘違いされていたり、上新田講師を上新田講所と誤読し、さらにそこを大石寺と混同されている(※以上は、宗学要集の頭注にもある)など、少しばかり粗雑で、附会(無理な結論づけ)がすぎる、と指摘されたのが、この末文の上に付いた日亨上人の頭注なのである。

 「十二箇条の法門」についての記述は、日精上人の右の三つの理由による弁証の最後の方に出てきていますが、それは、三つ目の理由に付け加えて、日精上人の御確信として「日道上人はこの一大事の法門の付嘱を受けているのだ」と述べられたものにすぎない。

 つまり、この『家中抄中』の当該箇処で日精上人が弁証を試みたのは、日道上人への大石寺全体の付嘱問題であり、何も「唯授一人相承」や「十二箇条の法門」についてではない。したがって日亨上人の頭注が指しているのも、十二箇条の法門のことではない。

日亨上人は記述の間違いについてはどこが、どのように間違えていると必ず朱で傍点を記し、その上で頭注をされている。よって大石寺の法門相承に12箇条法門がある、ということを頭注で否定されているのではない。 

 また、日亨上人は、研究教学書に収録の『家中抄中』を、富士宗学要集へ掲載される際、

 「新田坊地ハ奥州三迫ニシテ下ノ坊ニアラズ。上新田講所トハ講師ノ誤読ニシテ道師ヲ其主トスルモノ。但シ大石寺本山ノニハアラザルナリ」

との詳しい頭注を付けられ、一方、末文に付けられていた前掲の

 「本師弁証不精美…」

の頭注は付けられなかった。それは、この詳しい頭注を付ければ足りる(残しておくと重複してしまう)からであり、この点からも、末尾の頭注が「十二箇条の法門」を指すものでないことは明白である。

 このように、無関係な文を、巧妙にゴマカシて取り挙げ、そこへ都合のよい解釈を加えて、「日亨上人が、十二箇条の法門など誤りだ、と言われた」等と強弁する――これが、貴殿のお決まりの手口なのですね。法論の最中にも当方から喝破され貴殿が詫びた、あの引文の姑息さと同轍ですな。

さて、これらの破折に貴殿はどう邪智を巡らし、屁理屈をかましてくるか楽しみですが、貴殿は当方からの追及に何一つ答えられない無様で惨めな姿を晒したくないが故に、当方からの破折から強がりだけは人一倍に吠えつつ逃げて行くのであれば、当方は止めはしません。

何故なら当方は法論で間違いなく、法義において、道理において、精神の豊かさにおいて、見学者の盛り上がりにおいて、全てにおいて間違いなく勝利した実感があり、が故に貴殿を未練がましく追いかける必然性が存在しない。(ただし、かいた汗と恥の量においては残念な事に、完敗である。)」

――――――――――――――――――――――――――――― 

 

※●また、12か条についても、貴殿が引用した日亨上人の頭注(※上記の如く)は貴殿の愚論を成立させるには全く別の箇所に対する注釈であり、貴殿の解釈は正に的外れ、見当違いである。(勿論貴殿はその事実を知っていながら姑息に知らぬふりをして自説に牽強付会しているのであろうが。仮にもし知らないでいるとしたらただの無知あるいは勉強不足、あるいは日本語の読解力の欠如である)この件に関しての、当方からの3度にわたる指摘に貴殿はいまだ返答できずにいる。このような明確な事実を覆い隠し、上記の様な当方を貶める表現をしている様は、正に「玼(きず)を蔵(かく)して徳を揚げ自ら省みること能はず。是無慙(むざん)の人なり。(中略)玼(きず)を蔵(かく)して徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省みること能はざるは我慢を釈し、無慙(むざん)の人とは不信を釈す。」であり、貴殿は上慢、我慢、不信の信仰者失格のただの無慙な謗法者に過ぎない。深く自らの歪んだ信仰観を反省すべきである。」※

 ―――――――――――――――――――――――――――――

 

 「▼詳細の経緯は割愛しますが、具体的には

 

   @日精師は釈迦像の造立を許すという邪義を生涯持ち続けていた。」

 

●これについては再三言っているが、貴殿の三宝論を破折し尽くしたら、後々じっくりお相手してあげましょう。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼A阿部管長が発表した「別しての12箇条の法門」は、堀上人がすでに
    紹介しており、他山でも知られていた。」

 

●さあ、今日の本題です。貴殿は当方からの何か条に亘る詰問に対し一言半句も反論出来ず、「サーバーが不調」などと白を切り逃げ回っているからしょうがない。当方から12か条についての貴殿の欺瞞をさらに暴いてあげましょう。

  

貴殿は、

「▼より詳しく示せば、そもそも『富士門家中見聞中』は精師の正本が存在しないのです。このため、堀上人は、良師本、宥真本、慈来本等から編集されたことを記録として残されています。

しかし、研究教学書には、この家中抄中の『稿本零編』という精師の正本が掲載されており、そこに書かれている内容は、後代の写本とは全く違う『十二箇条』について書かれているのです」

「▼精師の正本が残っている『富士門家中見聞中稿本零編』には、『想じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、委細に之を論ぜば十二箇条の法門あり。又御書並びに血脈抄に於いて一大事相伝あり。所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承なり。此の二ケ相承当家一大事なる故に甚深の血脈なり』(通解:惣じてこれを言えば、内用外用金口の智識である。詳しくこれを論じるならば、十二箇条の法門がある。また御書並びに血脈抄には一大事の相伝がある。いわゆる(本因妙抄に説かれる)形名種脱の相承、(百六箇抄に説かれる)判摂名字の相承である。此の二箇の相承は当家一大事なので甚深の血脈である)と、この十二箇条とは血脈相伝について詳しく論じたものとして明かされており、これ以外に当家一大事の二ケの相伝があり、この一大事相伝として『形名種脱の相承、判摂名字の相承』が挙げられているのです」などと言い、自分勝手に妄想をたくましくしている。

 

 しかし、『冨士門家中見聞中稿本零編』とは、その表題から明らかなように、「冨士門家中見聞中」の稿本、すなわち日精上人が『家中抄中』を執筆された際の、下書き、草稿である。

草稿であればこそ、文章・表現の筋道に整っていない部分もあり、公に発表すべきものではない(無学の人が誤解する場合もある)から、日亨上人はこれを宗学要集には収録されなかった。

 それを、わざわざ未選別の宗学全集ともいうべき研究教学書の中から見つけ出し、「これこそが正本」と自慢げに叫ぶ貴殿は、学問研究などと呼ぶに値しない、もぐら法門に耽る単なる姑息な妄弁者である。

 

 なお、この「十二箇条の法門」に関連する記述につき、稿本と正本(※むろん正本とは、草稿の後に清書された、宗学要集所載の『家中抄中』のこと)とを以下に比較してみる。

 

 まず稿本。

 「想じて之を謂はば内用外用金口智識なり、委細に之を論ずれば十二箇条の法門有り。また御書並びに血脈抄において一大事の相伝あり。謂わゆる形名種脱相承、判摂名字の相承なり。此の二ケ相承当は当家一大事なる故、甚深の血脈なり」(研教六―四三八)

 (通解:総じていえば、内用外用・金口の智識である。委細にこれを述べるならば十二箇条の法門がある。また、御書と血脈抄〈※両巻血脈のことで、『本因妙抄』と『百六箇抄』をさす〉において、一大事の相伝がある。いわゆる形名種脱の相承、判摂名字の相承である。この二ヶの相承は当家の一大事である故、甚深の血脈である。)

 

 次に正本。

 「法を日道に付嘱す。所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之を謂はば内用外用金口の智識なり。別して之を論ぜば十二箇条の法門あり。甚深の血脈なり」(研教六―一九八)

 (通解:法を日道上人に付嘱した。いわゆる形名種脱の相承と判摂名字の相承等である。総じてこれをいえば、内用外用・金口の智識である。別してこれをいえば十二箇条の法門がある。甚深の血脈である。)

 

 ここにいうところの、「形名種脱の相承」とは、正確には「形貌種脱の相承」と書き、下種仏法と脱益仏法の形貌の違い、勝劣を明かしたもので、『百六箇抄』のことを指す。また「判摂名字の相承」とは、教相判釈された熟脱の法を、全て本因名字の妙法に摂し入れてしまう見方を示したもので、『本因妙抄』のことを指す。

 

 この言葉の意味を理解した上で、前の稿本と正本を比べて拝すれば、よく分かるのが、やはり稿本の方は、表現が未整理であり、意味が明瞭でない。

 つまり、稿本は、相承とは、総じていえば内用外用・金口の智識である。これを委細にいえば十二箇条の法門である。また、御書と百六箇抄・本因妙抄に一大事の相伝があり、それは形名種脱の相承と判摂名字の相承である≠ニ述べられているわけで、これでは、前節の「内用外用・金口の智識」「十二箇条の法門」と、後節の「御書」「百六箇抄と本因妙抄」との関係に、まったく整合性がない。

また、「御書と百六箇抄・本因妙抄に形名種脱の相承と判摂名字の相承がある」というのも、適確な文章表現ではないと思われる。

 

 これに対し、正本は、さすがに推敲を重ねてまとめられたものであるから、文章も整理され、極めて明瞭で適確な表現となっている。

 つまり、正本では、日道上人へ付嘱された法とは、形名種脱の相承(百六箇抄)と判摂名字の相承(本因妙抄)等である。総じてこれをいえば、内用(貴殿はここでも貴殿の言い方を借りれば、「漢字の読み方云々という本質を外した些未な議論に逃げ込」んで、「内用」と「内証」という”文字”に拘っていたが、まさに”義に依って文に依らざれ”という仏法信仰の基本中の基本が未だ理解できていない未熟者である。結論としては別に「内証」と表現されても一向にかまわない)の法門・外用の法門の全てを伝える金口の智識であり、別してこれをいえば、十二箇条の法門がある。これは甚深の血脈である≠ニ述べられ、歴代上人に御相承されてきた法とは、広く(総じて)論ずれば大聖人の内証・外用を述べられた全ての法門であり、それらの核心をなすのが百六箇抄と本因妙抄、それをさらに深く立ち入って(別して)示されたのが十二箇条の法門である、とされている。感想を述べるのも恐れ多い事だが、法門の筋道が、じつに明瞭にして、理路整然と示されている。

 

 したがって、貴殿あたりが、大学匠・堀日亨上人も採られた正本を捨てて、自らに都合のよい稿本の一部を取り上げ、「十二箇条とは血脈相伝について詳しく述べられたもので、これ以外に一大事の相伝として二ヶの相伝があり」云々と、訳もわからず得意気に理屈をこね回している姿は、逆路伽耶陀の堕獄の業である。

 

 なお、貴殿は、この稿本について

 「▼因みに、この個所での堀上人の頭注は、『想の字惣の誤りなり』のみであって、堀上人の手元にあった(すでに公開された)相伝の内容と相違無いことが伺えます。つまり、家中抄中の別しての十二箇条の下りについては、精師の正本である稿本が正しく、後世の写本であるものは、明らかに間違っていることが、堀上人の頭注から理解出来るのです」

とも言っている。要するに、稿本の「十二箇条の法門」等について書かれた箇所では、日亨上人の頭注は「怱」の字の誤りを訂正されているだけだが、正本の方では、前述のように「本師の弁証、精美ならず…」と強く否定されているから、後者が間違っていることは明らかだ、と主張している。

 これも、前述した、正本の頭注についてのゴマカシを前提とする主張だから、すでに、根こそぎ総崩れになっている。※

――――――――――――――――――――――――――――― 

 「▼の少なくとも2点について、宗務院教学部として反論をせざるを得ない状況です。」

 

●今日はこの位にしておくが、まだまだ貴殿が言い散らかした「12カ条」についての邪難の全ては今度こちらに来た時にそっくり破折し尽くしてあげましょう。それとも、貴殿が恐れをなして来れなくなった場合は、文書で追い詰めて差し上げましょう。が故に、宗門教学部が反論される必要など全く無い。御法務繁多な御僧侶方を煩わせる事は忍びない、貴殿など一講員の当方で充分である。

 

▼それぞれについての地区幹事から送付された文章は長文のため、追っ
   て郵送しますが、まずは宗務院教学部として「反論する意志の有無につ
   いて、本年9月30日までに回答すること」が要求されています.
    本回答は、FAX ○○−○○ までご送付ください.
                               S」

 

●どこまで読んでみてもやはり、言いたくなってしまう。

貴殿はやっぱり「馬鹿か?」

 

2003 09/30 23:40」  に送ってきたファックスに 「2003年9月27日」 の日付があって、※「反論する意志の有無について、本年9月30日までに回答すること」が要求されています.※

だって?

 

本当に貴殿の脳内は大丈夫か?時系列の前後の認識が出来なくなっているのか?

嗚呼、おお、うう、マッハロ〜〜。げに、頭破七分の現証の恐ろしさよ。

********************************************************** 

●10月6日付けで貴殿から下記の如くのFAXが妙相寺に届きました。

――――――――――――――――――――――――――――― 

200310/06 23:12  2003年10月6日


O S 殿

 前略
 昨日のお電話では、小生と二人だけでお会いすることについて何某かのご理解を頂きあ

りがとうございました.

 

 樋田氏のように人格的な問題を持つ者を信徒として抱え込んでおられることのご苦労も

お察しいたします.現実は、O住職が法務多忙のため細かいところまで指導が行き届か

ないのではなく、樋田氏が意図的に歪めた報告をしているために、実態が正確に把握出来

ていないだけでしょう.
                                                           1
 しかし、今後の事態の進展を考えた時に、住職としての監督責任を問われるような状況

になることは決して望んでおられないと思う故に、このように提案しているということも

ご理解いただけたと思います。

 

 樋田氏がどのような問題人格であるかについては、すでに講頭という役職を罷免したば

かりか、彼を一信徒の立場に貶めておられる事実からも、すでにO住職は完全に彼の本

質を見抜いておられることは理解できました。

 

 実は小生も、メイルでの真摯な法義に関するやり取りの途中に、突然錯乱したとしか思

えないような内容が彼から送られて来て呆気に取られました.それも何の脈絡もなく、し

かも小生の家族や人間関係についての一切の予備的情報無しに、です.以下がその一例で

す。


「●さもなくば謝罪して脱会せよ.それが出来ない、そんな女々しい男、女には好かれない

よ.かみさんとうまくいってますか?子供たちぐれていない?ほんと心配だよ.貴殿が女

”帰命”しても女は貴殿に”帰命”してくれないこと必定.」

 

「●おそらく貴殿は幼少期からゲームにしろ何事に於いての順番にしろ自分の我侭だけを主

張し守れなかったのだろう.が故に、いつも人から疎まれ、表面上のお付き合いだけで、
心底貴殿を好いてくれる者がいなかったであろう・それは女性関係でも同様で、最初は貴
殿の雄弁にほだされた女性も貴殿の独り善がりな性格に愛想を尽かし多くの(って数は極
めて少ないだろうが)女性が去っていった事だろう.貴殿はその度に復讐の誓いを立て、
偏執的で歪曲した精神世界にのめりこんでいった事だろう‥‥・誠に哀れである・お

そらく、子供にも人気が無いであろう.」


 このような文章を、法義論争の途中に書き込んでくる者の精神状態は、絶対に正常とは

言えません。完全に狂っています.

 

 せいぜい弁護してあげるならば、喧嘩に負けた子供が、「お前の母ちやん出べソj」と喚
いて中傷するしか相手に対する反撃の手段が無くなった時そのものの姿です。しかも、蟹

が自らの甲羅に似せて穴を掘るように、「女性関係云々」とは、ただただ呆れるばかりで

す.このような狂った精神状態の人格破綻者などを相手に「別しての12箇条の未公開の

相伝」について論じることが如何に馬鹿げたことか、宗門内外の誰に聞くまでも無いこと

です.

 

 このメイルを受信した後にサーバが不調となり、大変な不便を託っていますが、おそら

T氏からはその後も誹誘中傷メイルが繰り返し送られていることでしょうから、なんと

か復旧させて証拠物件を入手しようと、今も努力中です.

 

 なお、10月3日9:04付けで、送信元不明の11枚のFAXが、真っ白い紙のまま

で送られてきました.もしもこれが樋田氏からのものであるならば、裏表を間違えて送る

ところなど、かなり気が動転している証拠です.おそらく彼は毎日天地がひっくり返った

ような精神状態なのだろうと哀れに思われます.本人からのものかどうか、近日中に確認

出来ることでしょう.

 

 以上のように精神を病んだ方を相手にしても詮無いことであり、小生としては樋田氏の

後ろで糸を引いていたらしい宗務院教学部に対して、法義論争の決着をつけるための督促

を行っていることろです.その後の展開については、お会いした時にでも詳しくご報告さ
せていただこうと考えています.


次に、O住職が学会に対する不信感を持たれた契機となったという「創価学会仏」と
いう考え方について、一言感想を申し述べさせていただきます。


1990年代後半あたりから、脳科学の研究は世界的にも急速な進展を見せております
が、MITの利根川進教授のような方々が人類の脳について、まるで地球と人類が新たな
生命の進化を遂げつつあることを証明しようとするかのような視点で研究を続けておられ
ます。脳化学総合研究センター(理研)や未来科学技術共同研究センター(東北大)の最
新の報告について小生も研鑚を続けていますが、読めば読むほど創価学会の存在について、
まるで新たな生命進化の最前線にあることを証明するかのような科学的知見が見受けられ
るのです。それは今まさにエゴイストの人類というガン細胞に冒されて危機に瀕した地球
の現実を前にして、ガイアという高次な生命体を更に新たな進化の高みに引き上げて、地
球の自然治癒力を強めることで蘇生させようとするかのような「生命の集合体」による不
可思義な現象です.具体的には大脳のシナプスの結合、DNA(シトシン)の脱メチル化
等によると考えられる劇的な変化が起きるようになり、末期ガンや精神病の極めて短期間
での完治等のみならず、不可能と思われた事態が見る見る克服されてしまうのです。そし
て、この激変には「ある共通した条件」があり、このネットワークのことを戸田先生が「2
00年後は創価学会仏の時代」と宣言されたのだと考えざるを得ないのです。
 まだ研究途上の仮説もあり、内容が内容ですし、文は言を尽くさず、言は意を尽くさず
ですので、具体的なデータ等についてはお会いした時にでもご紹介できれば幸甚です。
 それではお会いできる日を心待ちにしております。  草々

 

                                    S H」

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――

●これについてまた、貴殿の相変わらずの姑息な欺瞞を破し、貴殿の謗法の根性を徹底的に切り刻んで行きたいと考えます。

 

まず、大前提として、ご住職は貴殿等改心の見込みの無い大謗法者などとお会いにある意志は全く御座いません。

もし、貴殿等が心底御住職と会いたいのなら、既述の如く「自らの謗法の醜面を恥じ、後生を畏れ、日蓮正宗に帰伏してから、頭を地面に擦り付け、深く反省懺悔してから来訪しなさい。」

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ 樋田氏がどのような問題人格であるかについては、すでに講頭という役職を罷免したば

かりか、彼を一信徒の立場に貶めておられる事実からも、すでにO住職は完全に彼の本

質を見抜いておられることは理解できました。

 

●まず、講頭は御住職が”罷免”されたのではなく、役員改正にあたって当方が”辞退”しただけ。

因みに池田センセ〜〜〜は平成2年年末に総講頭を”罷免”されたのではなく、規約改正に伴い”資格喪失”しただけ。

勿論知っていますよね?

分っていない無知な学会員の中に、この事実を知らずに(っていうか故意に歪曲されて教えられ)ムキになって怒っている人もいるので、よく教えてやってくれたまえ。

 

次に、現時の当方の立場は、貴殿等の様な大謗法の無慙無愧の堕地獄必定の者どもを相手にする為には全く役職が無いほうが自由闊達に動けて実にありがたい。まさに御仏意と拝する。ご住職が当方を”一信徒の立場に貶めておられる”のではない事は、貴殿が幾ら無知蒙昧でも、貴殿の上記のようなFAXによる痴言に対しての破折をご住職が当方に依頼されている”事実からも、すでにO御住職は完全に当方の本質を見抜いておられることは理解でき”ることだろう。

次に綿々と書き連ねられた恨み言を見ると、当方が貴殿の生来の性癖を指摘してあげた事がよほど痛恨の極みであったと見える。

■「心地観経に云はく「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」等云云。」の御金言のままに貴殿の現在の行動から過去や現在の有様を言い当ててあげたまで。もし、何か違うというのなら、具体的に反論してみたら如何か?

因みに、最近入手した貴殿の「予備的情報」では、

@貴殿はかつてある種の”メンタルな分野を扱う病院”に入院していたというが本当ですか?

A貴殿はここ数年の間にかなりの量の吐血をしたと聞いたが事実ですか?

Bそれに関連して手術されたというのは事実ですか?

C職場でも、実質的な降格処遇されたというのも事実ですか?

 

もとより、噂など信用できない事が多いものですが、上記@〜Cで事実でないものがあったら明確に否定してください。

否定できなければ事実と認識し今後の貴殿への破折の”予備的知識”とします。

――――――――――――――――――――――――――――― 

12箇条」については、更に貴殿の欺瞞を暴いてあげましょう。

 

 貴殿は、

「▼この『当家一大事の相伝』である『形名種脱の相承、判摂名字の相承』とは、精師が家中抄において、

『正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり』(通解:正和元年十月十三日に百六箇抄と本因妙抄の二巻の血脈抄を日興上人から日尊に相伝された。この書の相承に『判摂名字の相承、形名種脱の相承』がある。日目、日代、日順、日尊の他にはみだりには相伝されない秘法であると、『日目上人が日道上人に付属した形名種脱の相承、判摂名字の相承』とは、実は『百六箇抄』と『本因妙抄』の二巻の血脈抄のことであり、しかも日興上人から日目上人に対してだけではなく、日代、日順、日尊にも相伝されていたことを記録していのです。そうです。血脈相伝は『唯授四人』であったという証拠なのです」などと、訳知り顔で言っている。

 

 しかし、『百六箇抄』『本因妙抄』が、ただ一人に宛てて相承されたものでなく、他の少数の法器の弟子にも与えられていた(※すなわち、真の唯授一人で法体の深義を伝える金口嫡々相承ではなく、総じて複数の弟子にも伝えられる法門相承であった)ことは、日応上人の『弁惑観心抄』にも明示される、昔からの本宗の常識である※。それを、「そうです。相伝は唯授四人であったのです!」などと得意になって持ち出す貴殿は不勉強の無知ここに極まったり、であり、貴殿のような者は正に”ただただ呆れるばかりです.このような狂った精神状態の人格破綻者などを相手に「別しての12箇条の未公開の相伝」について論じることが如何に馬鹿げたことか、宗門内外の誰に聞くまでも無いことです.”との自分の言葉が自分自身をそのまま切り捨てているという、誠に恥ずかしい結果となっている。

 

※■「夫本因血脈両抄は興師を対告衆として御弟子檀那一同に示されたるの御書なり故に本因妙抄には雖為閻浮第一秘事為万年救護記留之者也乃至宣予か随正義正義とは本迹勝劣深秘具騰本種の実理也一期の大事なれは弟子等にも朝夕教へ亦一期の所造等悉く此義也等と云々、依之観之当抄は宗祖朝夕御弟子檀那に示し玉ひ且つ御一期の御所造等此の抄の極意に外ならすとせは本抄は是れ御弟子旦那へ法門を総付せられたること顕然なり是一、次に又天台伝教等の秘し給奉顕正義生死一大事の秘法書事且有恐且有憚広宣流布之日於公庭応奉披覧之等と云々、是れ唯授一人別付相承に非ること明白なり、何となれは仮令広布の時といへとも別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非す、況や今日該抄を世上に伝播せしむるか如きは無論唯授一人の別付相承に非すして法門総付の相承なること顕然なり是二、又本因血脈両抄は開山上人常に大衆に対して講談し玉へり故に三位日順之を拝聴し本因血脈詮要抄を製作せり本書現に吾山に蔵す若し本因血脈の両抄をして唯授一人別付属とせは其相承を受けたるものは独尊師に限らす三位日順を始とし当時一会の大衆悉く唯授一人別付属を受けたりと云はさるを得す曷そ如是の理あらんや、是則法門総付の相承抄なること顕然なり是三、已上列挙せる道理文証を以て該両抄は法門総付の相承抄なること火を見るよりも明けし具眼の者誰れか之を疑はん。」

 

次に裏返しのFAX送信の件。

これは正に当方が予想した通りの対応で、貴殿の言い逃れなど既にとうに見切られている。ご愁傷様。

当該文書は妙相寺から発信されており、表裏間違いなく送信した。と御住職は断言しておられる。また、発信人番号は「通知」に設定されており、間違いなく送信者番号は表示されているはずである。

日頃FAX送信に練達している住職が当該文書だけ間違えよう筈もなく、更に、妙相寺のFAXは、貴殿の様に姑息に「発信人非通知」に設定してしていない事実から、貴殿の「白紙送信」の言は、全くの捏造言いがかりである。思うに貴殿のパソコンやFAXは「反論不能」になると俄かに”不調”になるらしい。飼い主に似て誠に頼りない道具である。ここで心機一転、新しいものを購入したら如何か?ついでに貴殿の謗法の害毒まみれの脳髄もサバっとRESETできたらどんなにかいいだろうに・・・・

 

最後の科学的研究論の、仏法への我田引水な解釈など、それを証明し得る仏法上の文証なくしてはてんで話にもならない外道義ゆえ、今日のところは捨て置く。正当な仏法上での反論に窮しての苦し紛れの足掻き。まっ、せいぜい絶対に成仏できない痴論を弄んでくれたまえ。

 

そんなことより、貴殿の”奇妙な帰命論”(読者に断っておきますが、これはS氏のオヤジギャグですからね。)の解釈、もしくは当方よりの破折に対する反論はどうした?

いつまで”メールサーバー不調”などと戯けた言い訳で逃げてるつもりだ?

しかも、自分のパソコン上のトラブルならばそれは”メールサーバー”とは言わない。正しくは”メールソフト”だ。

”メールサーバー”とは貴殿が契約しているNET上の機関である。

嘘をつくと、恥は更に上塗りされるから、よくよく気をつけ給えよ。

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●返信が遅くなりました。
貴殿から妙相寺に届いた下記の様なFAXについて前回に続き、また完膚なきまでに破折し尽くします。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼「O S 殿    2003年10月12日
(c c:宗門常備各位)
 
前略

 

 10月8日AM7:17付けで、「法見山 妙相寺」発の作成者不明のFA]5枚が拙宅に届きました。
あまりにもお粗末千万なFAX文書の内容から推測するに、貴寺の元講頭樋
田氏が作成したものだと思われますが、いよいよ貴殿の責任問題が回避出来な
くなったことを心配して確認のご連絡をいたします.

 

 今回の樋田氏作成と思われるFAX文書は、発信元が「法見山 妙相寺」と
なっており、これが虚偽であれば樋田氏が不法行為を問われるだけですが、も
しも貴寺から発信されたことが事実であれば、時間帯から考えても貴殿が了解
をしたものであると考えざるを得ず、当然のことですが文書の内容についても
貴殿が了解したものであると判断せざるを得なくなります.

 

 おまけに彼は、前回の真っ白な11枚のFAXの言い訳をするために、
「当該文書は妙相寺から発信されており、表裏間違いなく送信した.と御住職
は断言しておられる.また、発信人番号は「通知」に設定されており、間違い
なく発信者番号は表示されているはずである。」
と、虚偽を述べています.拙宅のFAXに残された受信記録である
「lO月3日 9:04 11ページ・A4 アイテサキデンワバンゴウソウ
シンサレテイマセン」
を知りもせずに、貴殿がFAXを送ったのだから自分は知らないことだと責任
転嫁までして、ウソを書いているのです.しかし機械は彼のようにウソはつき
ません.これで彼が人格破綻者である証拠がまた一つ増えました.」

 

●それほど11枚の内容が知りたいのであれば今回併せて送付してあげるから熟読したまえ。
それにしても貴殿の所属している“メールサーバー”は復旧に手間が掛かる所らしい。
貴殿の言う“11枚”の内容はメールで既に送付されているが。貴殿はまだ見ていないのか?
そのような機能回復に時間のかかる“サーバー”とは解約され、もう少し力のある“サーバー”と契約したら如何か?
老婆心ながら忠告しておく。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ しかし、今後樋田氏が各種の問題で法的な責めを問われる場合には、貴殿は
共同正犯乃至教唆の疑いが問われることもあり得ます。

 

●当方が“法的な責め”を受けるその根拠を挙げてみよ。出来なければ貴殿こそ無為に他者を誹謗している事になり、“法的な責め”を蒙る事になろう。もしそれを回避したいのならば正式にO御住職及び当方に正式に謝罪し、今後このような根拠の無い”脅し”まがいの空えばりは慎みたまえ。

―――――――――――――――――――――――――――――

▼人格破綻者を信徒として抱え込んでいるだけならいざ知らず、まるで番犬のように積極的に利用していたという証拠をこのような形で送付して来たのですから、貴殿が樋田氏に騙されているのでないならば、あまりにも不用心です.

 


@当方が人格破綻者であるという医学的な根拠を挙げよ。出来なければ、謝罪せよ。
A“番犬のように積極的に利用していたという証拠”とやらを法的根拠を挙げて証明せよ。出来なければご住職に謝罪せよ。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼最後は彼から責任転嫁されて、全ての法的責任を負わされるようなことにもなりかねませんのでご忠告としてお伝えします.
こうした懸念を前提としつつ、文書作成者名の無い、妙相寺に全責任を転嫁したFAX文書に対する感想を少々述べておきます.
 先日、発信元を明示しない11枚の真っ白な紙が届いた時にも、送った者は気が動転して裏表を間違えたのであろうと書きましたが、今回も作成者名を記載し忘れたところを見ると、おそらく心臓が止まるほど異常な動悸がしていたのでしょう。それともわざと責任をO住職こ擦り付けるためなのか.どちらにしろ正常な精神状態で書かれた内容ではありません。

 

●貴殿にとっては余程正鵠を得た内容であり、“おそらく心臓が止まるほど異常な動悸がし”たことであろう。それともその動機は怒りでか?
――――――――――――――――――――――――――――― 
▼ 前回の小生からのFAXで指摘したとおり、真摯なネット上の対論の真っ最
中に、樋田氏から突然何の脈絡もなく、「蟹は自らの甲羅に似せて穴を掘る」
の諺どおりの下衆な中傷文事が送られて来ました。
(樋田氏から小生への文書)
「●さもなくば謝罪して脱会せよ。それが出来ない、そんな女々しい男、女には
好かれないよ。かみさんとうまくいってますか?子供たちぐれていない?ほん
と心配だよ。貴殿が女に“帰命”しても女は貴殿に“帰命”してくれないこと
必定.」
「●おそらく貴殿は幼少期からゲームにしろ何事に於いての順番にしろ自分の我
侭だけを主張し守れなかったのだろう。が故に、いつも人から疎まれ、表面上
のお付き合いだけで、心底貴殿を好いてくれる者がいなかったであろう.それ
は女性関係でも同様で、最初は貴殿の熱弁にほだされた女性も貴殿の独り善が
りな性格に愛想を尽かし多くの(って数は極めて少ないだろうが)女性が去っ
ていった事だろう。貴殿はその度に復讐の誓いを立て、偏執的で歪曲した精神
世界にのめりこんでいった事だろう‥‥・誠に哀れである.おそらく、子
供にも人気が無いであろう.」
 何度読んでも、最低の境涯の人間が、自分のどん底の低い価値観で他者を誹謗しているという、相手にするのも汚らわしい根も葉もない中傷でしかありません.

 

●こうして何度も繰り返して転載するということは正確に貴殿の性癖を言い当てており、それが余程の通打だったとみえる。
と同時に貴殿の粘着質な性格も露に見え誠に興味深い。こういう性癖を一般的には「女々しい」と表現する。如何か?

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ 小生は前回のFAXで、以上のような樋田氏の人格的問題点を象徴する箇所
を貴殿に対して指摘しておいたところですが、彼は今回の文書でも以下のよう
な完全に発狂したとしか考えられない質問をして来ました.
「●最近入手した貴殿(注:小生のこと)の(注:「に関する」の意味)「予備
知識」では、
@貴殿はかつてある種の”メンタルな分野を扱う病院“(注:要するに精神病
院のことか?)に入院していたというが本当ですか?
A貴殿はここ数年の間にかなりの量の吐血をしたと聞いたが事実ですか?
Bそれに関連して手術されたというのは事実ですか?
C職場でも、実質的な降格処遇されたというのも事実ですか?
もとより、噂など信用できない事が多いものですが、上記@からCで事実でな
いものがあったら明確に否定してください。否定できなければ事実と認識し今
後の貴殿への破折の“予備的知識”とします。」
 いやはや、完全に狂気の沙汰です。@からCまでの全てが、全く事実無根の
捏造でしかないのですから。小生は正しい信仰実践の功徳のお陰で、僭聖増上
慢出現以来のこの10数年間で病院と言えば歯医者に行ったぐらいであり、そ
の逆に、激励した重い病の方々を仏法に縁させることで完治させた事例は数知
れません。

 

●当方は風評などで貴殿の「罰の現証」について云々したくないから、当人である貴殿にその真偽を問うたのであって、質問内容をそのまま事実である、などと断定は全くしていない事は文章を読んで理解できないのか?
やはり、“気が動転して”文意の“裏表”すら見分けられないほど、冷静な判断力を失ったようだ。

―――――――――――――――――――――――――――――

▼最近でも、@10年間の鬱病をわずか1週間で治癒して目出度く入
会した山梨のTさん。A数年間の心身の病で入院寸前だったのが仏法に日覚め
てわずかの間に医者が驚く健康体になり(某有名病院の精神科医が「学会によ
ろしくお願いします」と患者、家族に発言!)、早く入会したいと言っている
東京のJさん、B18年間の精紳病で一家が苦労していたのが、末寺破折にお
連れしたその日に劇的に治癒して大活躍を開始した東京のKさん、B(ママ)2ケ月後
の死を宣合された来期の肺ガンを2ケ月で消滅(胸水400tはわずか2週間で消滅)させた東京のYさん、C末期の肝臓ガン(十数カ所にガン病巣)を3ケ月で完治させた東京のUさん、D手術できない箇所にあった脳腫瘍を末寺破折から2週間ほどで消した千葉のTさん、等々等々、小生が激励した友の中に、会員であるなしに拘わらず、純真な仏法の実践で見事な功徳の現証が続出しています.
したがって、樋田氏のように根も葉もないデマに踊り狂う者の邪難など、吹
けば飛ぶような煙か、風の前の塵と同じです。一言のもとに否定し去っておき
ましょう。

 

●この@〜D(実際はCがダブっているのでE)など確認しようの無い事例の羅列であり、全く依るべき物は無い。
また,別に当方は“根も葉もないデマに踊り狂”ってもいないので、訂正まで。
更に“邪難”ではなく単なる「質問」だが?“おそらく心臓が止まるほど異常な動悸がし”て、当方からの単純な質問が、貴殿の身を切り裂く詰問に見えたのだろう。可哀想なことをした。
が、身に全く覚えの無い事であればそう動揺する事もあるまい。もっと悠然と構えたら如何か?

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼おまけに、このような狂気の沙汰の邪難の文書を小生のことを身近
に知る方々に見せていますが、樋田氏のみならず貴殿ら日蓮正宗の関係者が「風
聞を広めて社会に害悪をもたらす」ただのデマ集団、反社会的団体であること
を確信してくれているのです。昨日は、昨年来に入会したばかりの友が、「最
低。そんなバカと関わるのは時間の無駄です。貴方はもっと大事なことを優先
してください」と断固として宗門を拒否してくれたばかりか、価値的な生き方
を強くアドバイスしてくれましたし、他にも樋田氏の狂気の邪難を紹介した方
々が「それが日顕宗のウソつき体質だ」「そこまで悪人たちから嫌われるとは
素晴らしい」等々の率直な感想を聞かせてくれています。明確な証拠ですので、
今後もしっかりと関係者に伝えていきたいものです.

 

●ここも、貴殿が勝手にどうとでも言える内容であり、取り上げてみる必要も無い。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ 最近は、風評被害を発信した者は厳しく法的な制裁を受けるようになりまし
た。もしもこのようなウソ八首を聞いた場合には、日蓮正宗の関係者によるも
のと断じて良さそうです。重要な証拠資料を入手することが出来ました.あり
がとうございます.

 

●余程悔しいと見えるな。当方はただ質問しただけ。何も断定してないが?
これほどHYSTERICな過剰反応をされると貴殿には込入った事は何も質問できないな。残念だ。貴殿の生命力の限界点が良く分った。酷なことを聞いて悪かったな。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼小生が、樋田氏のみならず貴殿の仲間たちから呪詛され、噂と称しつつ全く
根も葉もないウソが日蓮正宗の僧俗・檀信徒の中で広まっているのだと思う
と、すぐに「還著於本人」の経文が心に浮かび、勧持品の二十行の偈もこの身
で読むことが叶い始めたのかと嬉しい限りです。本当にありがたいことです.

 

●ここは大笑いさせていただいた。池田狂の創価学会員ではあるまいし貴殿を当方等は“呪詛”などしていない。というより、申し訳ないが誰も貴殿をそれ程気にかけていない。
また、貴殿の事など“日蓮正宗の僧俗・檀信徒の中で”知っている者の方が数えるほどであり、貴殿の“噂”などどこにも広まっていない。
故に“「還著於本人」の経文が””心に浮か”ぶのは貴殿の勝手だが、誠に的を外しており失当な思い込みである。世間では「単なる自意識過剰の思い込み」とでも言うのだろうか。
“勧持品の二十行の偈もこの身で読むことが叶い始めたのか”のくだりに至っては、もはや噴飯物の法門未熟さあり、貴殿のあまりの恥ずかしい独り善がりな思い込みに人事ながら当方は正直赤面した。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ ところで、小生が貴寺を訪問することについて、樋田氏は「ご住職は貴殿等
改心の見込みの無い大謗法者などとお会いにあ(ママ)る意志は全く御座いま
せん」「日蓮正宗に帰伏してから、頭を地面に擦り付け、深く反省懺悔してか
ら来訪しなさい」と意味不明の不可解な主張をしていますが、貴殿は先日の
電話の際に小生に対して、
「脱落僧MU師(注:氏 間違っても“師”等とは言われない。電話では真意の聞き取りは無理だろうが。)は会いたくない。あなた一人だったらいいけど」
とはっきりと発言されましたし、小生が一言も勧誘のようなことは言っていな
いにも拘わらず、
「僕は宗門を離脱するつもりは無いですから」
と主張をされましたね。頭を地面に振り付けて来いと相手に要求する者が、そ
 の相手に対して「ぼくは離脱しない」などと発言するでしょうか?樋田氏はこ
 うやって貴殿を持ち上げるように見せて逆に貴殿の立場を貶めて、寝首を掻こ
 うとしているのがありありと窺えます.

 

●ご住職が善巧方便、慰撫教導を以って「貴殿だけならあっても」と言われたのであり、相伝の仏法から遠く離れた貴殿にはとても師の心中など理解できまい。
基本的には前々から言っているが如く、貴殿等にお会いになるお気持ちは無い。
次に、「当方が住職を持ち上げるように見せて逆に住職の立場を貶めて、寝首を掻こ
 うとしているのがありありと窺えます.」と貴殿は言うが、その明確な根拠を挙げよ。出来なければこれは明らかに推測による人権蹂躙であり、厳密には名誉毀損を成立させる。
貴殿の当方への誹謗の証拠を与えていただきありがとう。

――――――――――――――――――――――――――――― 

▼ そのことは、「FAXによる痴言に対しての破折をご住職が当方に依頼され
 ている事実からも、すでにO御住職は完全に当方の本質を見抜いておられる」
 という樋田氏の自己弁護の主張からも推察出来ます。要するに、樋田氏は妙相
 寺の番犬として雇われているんだから、全ての責任は飼い主にある、という論
理です。このようなFAXを妙相寺を発信元として送って来ているのですから、
 呉々も飼い犬に手を噛まれることのないよう貴殿にご忠告いたします.

 

●粘着性癖の妄想で正しい法華経の信行者を誹謗していると、世法上でも、仏法上でも良からぬ結果になるから、充分気をつけた方が良いぞ。

 

さてこの次の箇所から貴殿の法門上の欺瞞を暴く事とする。

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 ▼ところで、樋田氏は、相伝に関して論じる能力も立場も無い存在であるとい
うことを、今回もお粗末な相伝論を展開して馬脚を顕してしまいました.
 盲滅法に「弁惑観心抄」を引用して、「本因妙抄」「百六箇抄」は唯授一人
の相伝書ではなく、他の複数の弟子たちにも与えちれたとい歴史的事実は渋々
認めたのですが、「弁惑観心抄」で日応師が主張したことが、「法門総付・法
体別付」という見解であることを誤魔化そうとしたために、樋田氏は「別して
の12箇条」まで否定する論理を展開してしまったのです。相伝について無知
な者が口を開けると、こうやって即座に恥を晒すばかりか、宗門の教学にまで
泥を塗るという結果になる典型です.
 そもそも、本因妙抄と百六箇抄とは、「両巻抄」または「両巻の血脈抄」と
呼ばれ、宗門では古来より非公開の相伝書でしたが、これらも堀上人が公開さ
れたことは堀上人自らの言葉で明らかです.
「両巻抄は古来より法主の相伝書となっていて、一般には見せず、聞かせず、
知らしめなかったのである。故に此を日亨が此を公開すると云う事はまことに
御先師方に対して申し訳がない」(亨師御講聞書)
と、先師方には申し訳ないが公開する旨を宣言されています。その上で、十二
箇条の法門についても、堀上人は随所で一般大衆に対しての講義の際に、口の
端に掛けておられます。一例を挙げれば、
「房州日我は相承の文には二十四番と分けられてあるが、差し当たり自我に十
二番に分けても良いと育っている。此の自我の十ニケの関係を二十四番に拡げ
て詳しく話する予定なり」(亨師御講聞書)
 つまり堀上人は、「保田妙本寺の日我は相伝を24項目に分類しでいるが、
天台家と当家の浅深を対比させて、これを12箇条に分類しても良いと言って
おり、堀上人としては相伝の十二か粂の関係を24項目に広げて詳しく話す予
定である」と説明されているのです。それ以外の御講の記録こは、さらに驚く
べき内容も示されています。

 

●今回の箇所が貴殿が、「本邦初公開」とか「とどめを刺す」とか大見得を切った、”笑い話”の部分である。
 貴殿は「▼堀上人の講義の聞き書きに、明確に他山の者が十二箇条を書き残していることを紹介しているのです。
 『房州日我は相承の文には二十四番と分けられてあるが、差し当たり自我に十二番に分けても良いと言っている。此の自我の十二ヶの関係を二十四番に拡げて詳しく話する予定なり』(亨師聞き書き)
 つまり堀上人は、保田妙本寺の日我は相伝を二十四番ともこれを十二箇条にしても良いと言っており、堀上人としては相伝の十二か条を二十四番に広げて詳しく話す予定だと講義されたのである。こうした記録を丹念に研鑚していけば、阿部管長のウソは簡単に見破ることが出来るのであろうに、邪宗化してしまった現宗門にはそのような慧眼の士は少ないようです」
 ここに貴殿が持ち出してきた『亨師聞き書き』(亨師御講聞書)とは、昭和二十一年に日亨上人が講ぜられたものを筆記した『両巻抄聴講記(本因妙抄)』のことである(※貴殿はこれを故意に隠している。)。
 貴殿は、この中に「相承の文には二十四番」「十二番に分けても良い」とあるのを利用し、これが「相伝の十二箇条」である、などと嘯いているが、これは全くの切り文によるスリカエ、ゴマカシである。
 すなわち、『両巻抄聴講記(本因妙抄)』中、貴殿の挙げた文の次上に、日亨上人は
 「天台の七面口決を仮に二十四番に分けたのであって、勝劣の番数を必ずしも分けなくても良い」
と仰せられている。このことからも判るように、日我のいう「相承の文には二十四番」というのは、『本因妙抄』の文中にある、天台の七面口決についての二十四番勝劣(御書1682ページを参照)を指している。
 そして、この二十四番の勝劣を、日我は「二つずつまとめて、十二番に分けてもよい」と述べている、ただ、それだけのことである。
 「十二箇条の法門」とは何の関係もない。ただ「十二」とある数字を、「十二箇条の法門」に見せかけようとして、これが『本因妙抄』の聴講記であることを隠し、次上の「天台の七面口決を仮に二十四番…」等の文を削って、もっともらしく持ち出してきただけのこと。

そして、『本因妙抄』の文を指す「相承の文には二十四番」という言葉を利用し、勝手に「相伝の十二か条」などという文言を加えて解説している。
 まことに貴殿は、直ぐにばれる嘘をこうもぬけぬけと書き殴る確信犯ともいうべき、救いようのない悪人、一闡提人である。

 

 なお、この日我の「十二番」が「十二箇条の法門」でないことは、すでに次の点で明らかである。
 貴殿は前に、『家中抄中』稿本より、
 「惣じて之を謂はゞ内用外用金口智識なり。委細に之を論ぜば十二箇条の法門あり。又御書並びに血脈抄に於いて一大事相伝あり。所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承なり。此の二ヶ相承、当家の一大事…」
の文を引き、
 「十二箇条とは血脈相伝について詳しく論じたものとして明かされており、これ以外に当家一大事の二ヶの相伝があり、この一大事相伝として『形名種脱の相承、判摂名字の相承』が挙げられているのです」
と述べている。
 つまり、「十二箇条法門」と『百六箇抄』『本因妙抄』は別物であることを、稿本の文脈上、貴殿も認めている。
 しかるに、日我のいう「十二番」とは、『本因妙抄』の中に述べられた七面決の二十四番勝劣のことであるから、全く「十二箇条法門」などでないことになる。
 これを同一のものに見せかける貴殿のゴマカシは、じつに悪質で、無知な学会員らはひとたまりもなく騙すことができるだろうが、しかし、所詮、全ての法門書を蔵する大石寺に対峙して、そのようなゴマカシが通用するはずがない。
 貴殿は、こうしたゴマカシ論法の構築を、「丹念な研鑚」などと自讃しているが、なんたるデタラメ、何たる杜撰さかと、思わず笑いが出てしまう。
正に貴殿が言うがごとき、
※▼「相伝に関して論じる能力も立場も無い存在であるということを、今回もお粗末な相伝論を展開して馬脚を顕してしまいました.」

 

※▼「相伝について無知な者が口を開けると、こうやって即座に恥を晒すばかりか、”学会”の教学にまで泥を塗るという結果になる典型です.」
そのままの惨めな末路といえるだろう。これをまさしく「還著於本人」というのではないか?

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▼ 他にもいくつも12箇条の相伝に関する征拠が発見されていますが、こうし
た記録を研鑚したならば、阿部管長のウソは簡単に見破ることが出来るのです。
残念ながら、邪宗化してしまった現宗門にはそのような具眼の士は少ないよう
ですが.

 

●このように貴殿がいくら強がって見せても、今後貴殿が「相伝に関して論じる能力も立場も無い存在であるという」のに、訳知り顔に「12箇条」について邪難を吐き掛けて来そうな文献やその箇所については既に当方では掴んでおり、貴殿からの次なる具体的な痴論を心待ちにしている。
更に徹底的な鉄槌を下すので、速やかに「他にもいくつも12箇条の相伝に関する証拠」とやらを提示したまえ。

が、しかし、今以上に更に恥を上塗りして、明るいうちはもはや面を晒しては外を歩けなくなるぞ。一応忠告しておく。

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▼ 阿部管長は、相承箱の存在についても憂愁護法同盟から責められて、周章狼
狽を繰り返していますが、本人しか知らないことだと主張したいのであれば、
少し証拠を見せるだけで誰も黙らざるを得ないでしょうに、取り巻きに提灯記
事を書かせるだけでは、自らが相承を詐称したことを黙認しているようなもの
です.猊座を譲る最高のチャンスだった750遠忌も過ぎて、いったいいつま
で生き恥を曝すつもりなのでしようか。他人事ながら哀れを催します。

 

●相承箱については、そもそも御相承箱とは、その名が示すとおり、唯授一人の御相承という大事に拘(かか)るものであり、相承とは本来、「秘伝」である。「秘伝」であるから、公けに示す「物証」とは性質が全く違うし、事実、この御相承箱を「法主であることの何よりの『物証』」にした前例など、宗史に一つとしてない。
 こうした、御相承箱を「法主であることの物証」だなどという、珍無類な発想をして、それを根拠に邪難を吐き掛けて来るところが、やはり池田狂の走狗たる脱落僧である。このような御粗末な程度だから、日蓮正宗の僧道から転げ落ちたのだろう。貴殿も脱落僧M君にそのあまりにも法門未熟な無様な醜態を忠告してあげたら如何か?
 また、憂愁護法同盟の無知で貪欲な痴犬どもは、御相承箱が「日顕(上人)の手元にないという」などと、御相承箱の所在について、いいかげんな臆説(おくせつ)を伝聞の形で書いているが、これを称して流言蜚語(りゅうげんひご)という。
 六十五世日淳上人から六十六世日達上人への御相承の儀式の記録に
 「十五日午後六時十二分、日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の六名、大講堂横より出発(略)十六日午前六時 山門着、御大事御宝蔵へ納」(『大日蓮』昭和三十四年十二月号)
と記されているように、この時の儀式の終了後、御相承箱は再び大石寺御宝蔵へ収納され、以来、今日まで変わることなく厳護されてきている。
 この間、御相承箱を、たとえば「大宣寺」に移したとか、「預け」た、などという記録は全くないし、そのような証言も証拠も何一つないのである。
 そもそも、いったい何故、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けられる必要があろうか。御相承と一体不可分の関係にある戒壇大御本尊は大石寺に厳護されているのに、御相承箱については「かなり以前から大宣寺」に「預けていた」などという、たわけた話があるはずはないではないか。
 しかも、その根拠は、ただ「ある僧侶」とやら(おそらくは日蓮正宗から脱落した元僧侶であろうが、それは僧侶ではない)が、これまた伝聞の形で「預けていたといいます」と語った、というだけ。結局、この話、どこまでいっても、流言蜚語でしかないのである。
 むろん、これについて日蓮正宗側では、「何の根拠もない妄説である」として明確に否定され、一方の当事者とされた大宣寺・菅野尊能師も、「御相承箱を預かったなどという事実は全くない」旨、明言されている。
 このように、記録の上からも道理の上からも疑いがなく、また当事者双方も揃(そろ)って否定している以上、これにあくまでも疑義を挟(はさ)みたいなら、いつ、いかなる目的で、日達上人が御相承箱を大宣寺に預けたのか、明確な根拠を挙げて、自説を証明すべきであろう。言い掛かりを付けた側に、その証明責任があるのは当然である。

さあ、貴殿が言い出したことだ。恥かきついでに、明確に反論してもらおうか?

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▼それでは、貴殿の疑問を晴らすためにも、貴寺にご訪問させていただこうと
思いますので、その節にはスピッツのような飼い犬にキャンキャン吠えさせて
自らは庫裏に駆け込むようなことの無いよう、またお互いに礼を失せぬよう戒
め合って、呉々もよろしくお願いいたします.   S H

 


1、ご住職にはなんら“疑問”など無い。依って貴殿等如きに晴らしていただく事は何も無い。おあいにくさま。
2、何度も言うが貴殿等如きの者どもにご住職が会われる必然性は全く存在しない。
3、当方は貴殿等との関わりもあり、その因縁から応分にお相手しようと思う。
貴殿こそ、ビデオに克明に記録されている前回の法論時のように論に詰まって、非法行為を働いた挙句、自らの非を追及され二度までも当方等に詫びを入れ、終いにはもの狂って立ち上がり、隣室に迷惑なほど“キャンキャン吠え”まくるだけしか能の無い、惨めな醜態を晒しなさるな。
“礼を失せぬよう戒め”たまえ。  

では。                      

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その後、御返事なく、残念です。

慧妙12月1日号、御覧になりましたか?

初期原稿からは随分編集されましたが、貴殿の率直な感想をお伺いしたい。

 

貴殿には私は、不思議な親近感があるのです。

平易に言えば、どこか憎めないのです。

もっといえば好感を持っているのです。

 

今までの成り行き上、厳しく対応してきましたが

 

貴殿は貴殿の今までの経緯や、立場として、創価学会員として、精一杯真面目に真剣に取り組んでいることは十分に分ります。

 

が、しかし、やはり、どこからどう考えても、学会は間違っていると思うのです。

 

今日、4時間唱題して、貴殿に心底お伝えしたくメールします。

 

貴殿は、まだ、迷走している学会に在籍し、更に甚重の罪障を重ね、取り返しのつかない方向へと突き進むつもりですか?

阿鼻の炎に咽び喚く様な境涯に堕ちてから後悔しても、もう、遅いのですよ。(T_T)

 

貴殿は本当はいい人だと思っています。

 

もう一度、一対一で、雑音は一切いれず、お互い心を割って、記録も残さず、話し合いませんか?

 

貴殿を心から救いたいと思っております。

 

率直に傍目を気にせず、語り合いませんか?

 

貴殿の生の心からの意見が聞きたいです。