沖浦対樋田法論を検証する 118 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月24日(水)23時23分6秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
ここでは沖浦君、大聖人様の御指南と全く逆の幼稚な我見を述べたてていて、実に嗤えます。 > ドッチでもいい選択基準が社会に満ちているのです。 > そこに絶対の法である大聖人様の仏法をどちらが流布させるか。 > これが勝劣ですよ。 > 法の勝劣はね、保つ人の勝劣です。 > > 『持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、』 > (持妙法華問答抄) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑実に、いよいよ支離滅裂・意味不明の駄文ですな。 1、その▼「ドッチでもいい選択基準」を▼「絶対の法である大聖人様の仏法」とに同列に準えて ▼「東芝とSONYの社訓・社是が違うのだから、お互いの社員に通用しない。 と同じように、大聖人の仏法も、各宗教も、それぞれ教義・本尊の規定が違うのだから、お互いに従う必要は無く、それぞれ別の道を行けばいい。」 と無理強引に主張して多くの嘲笑を買っているのが沖浦君の痴言である。 ―――――――――――――――――――――――――― 2、▼「> そこに絶対の法である大聖人様の仏法をどちらが流布させるか。> これが勝劣ですよ。」 つくづく 馬鹿 である。 その”絶対の法である大聖人様の仏法”とは、その体、何ものか? 三大秘法である。 沖浦君、反論は? その三大秘法は一大秘法に究境される。 沖浦君、反論は? ではその一大秘法とはその体何か。 本門戒壇の大御本尊様である。 はい、沖浦君、反論。どうぞ。 つまり、”絶対の法である大聖人様の仏法”とはその体、本門戒壇の大御本尊の御事であり、その法体を護持している宗派こそが、大聖人様の仏法を流布させることができる唯一の宗団である。 創価学会なぞ、三宝のうちの一宝もない、ただのエセ仏教系在家新興宗教団体である。 こういう判釈は「勝劣」などというものではなく「正邪」である。 創価学会はその「正邪」のうちの「邪」の方である。 つまり邪宗教である。 沖浦君はそのただの邪宗のただの邪信徒である。 ―――――――――――――――――――――――――― 3、▼ 法の勝劣はね、保つ人の勝劣です。 > 『持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、』 > (持妙法華問答抄) ↑またもや 馬鹿丸出し の痴言である。 自分の主張を引証しようとして引文したその御文に既にバッサリ切り倒されている。 沖浦説 ▼> そこ(※社会)に絶対の法である大聖人様の仏法をどちらが流布させるか。 > これが勝劣ですよ。 > 法の勝劣はね、保つ人の勝劣です。 これはつまり、 「社会に”大聖人の仏法”(これは沖浦君流の曖昧な概念であり、正確な法体を意味していない。2で破折済み)を流布させた宗派こそが「勝」であり、遅れをとった宗派が「劣」である。 だから、広く広めた宗派の法が「勝」であり、遅い方の「法」は「劣」である。 との主張ということになる。 引文の前文から。 ■同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持つ処の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり。爰(ここ)を以て経に云はく「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」と説き給へり。 この意義は、 「法華経こそが、一切経に比して勝れておるが故に、その法華経を持つ人は、他の人々に比して勝れている。 法華経に曰く、「この法華経を深く信じ行じる者は、一切衆生の中で第一に勝れている」と説かれている。」 ( ※ 末法今時において「法華経」=三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊 である。) であり、大聖人様は、上記の沖浦君の稚論と正反対の意義を御指南である。 沖浦君、ここまで教義的に徹底的に破折されてしまうと、自分のあまりの浅識が露呈するから、もはや迂闊に大聖人の御文は引文できないようですね。 なので、ウソを捏造したり、言いがかりを吹っかけるしか、いよいよ手がないようですな。 実にお可哀想。呵々大笑 |