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日達上人

「戒壇」に関する御説法集
                日蓮正宗宗務院

目次

一、訓諭

二、第33回創価学会本部総会での御講演

三、正本堂の意義について

四、戒壇についての補足

五、法華講青年部お目通りの際の御説法

六、戒壇について

七、寛師二百五十遠忌大法要での御説法

八、宗会議員決議書

九、創価学会副会長決議

十、法華講決議



一、訓諭

 さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はこゝに五箇年を経て、その壮大なる勇姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。
 日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代に誠証となす。
 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。
 宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成落慶に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。
 右訓諭す。

  昭和四十七年四月二十八日
                日蓮正宗管長 細井日達





二、第33回 創価学会本部総会での御講演
            昭和四五年五月三日 於 日大講堂

 本日、ここに池田会長の就任十周年を迎え、創価学会第三十三回本部総会が盛大に開かれまして、おめでとうございます。
 昭和三十五年の本日、この場所で、池田大作先生が創価学会第三代会長に就任せられてからの十年間に、わが日蓮正宗に尽くされた功績は非常に大なるものであります。
 今、ここで私が、わが宗の概況を数字をもってあげてみますと、今よりちょうど六百八十年の昔、正応三年十月十二日、大石寺が建立せられましたその当時、南条時光殿が御供養なされました土地、大石が原は、東西約五百メートル、南北約二キロにわたる広大なものであったといわれています。
 その後、時代の変遷により、寺領に消長がありましたけれども、昭和二十年、終戦当時の大石寺の所有地は、境内地を含めて三十一万八千余坪でありました。
 ところが農地解放により、そのうち二十六万六千余坪を解放いたしました。解放地の大きいことは、全国の各宗寺院を通じて最高でございました。解放後、残った土地は境内地を含めてわずか五万一千余坪となったのであります。
 そして、日昇上人、日淳上人の時、十一万五千余坪を購入して十六万六千坪となったのでありますが、昭和三十五年以降の十年間に、池田会長より百万二千余坪御供養があり、今では所有地総計百十七万余坪となっております。終戦当時からみると三倍の広さになっているのでございます。
 また、寺院数においては、昭和三十五年以前には百九十九箇寺でありました。現在では三百三十二箇寺となっており、池田会長御供養による寺院は百三十三箇寺でございます。 僧侶総数は、昭和三十五年当時は三百三十人でしたが、現在は九百人。したがって570人の増であります。
 正宗の信徒総数は800万世帯になんなんとするといわれております。かくのごとく、池田会長が就任されてから十年間の間のご努力は、わが正宗の広宣流布達成に非常に意義深いものがあると存じております。
 わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために「一閻浮提(えんぶだい)第一の本尊此の国に立つ可し」(御書全集二四五頁)と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
 日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その″国立″なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が″国立″という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、あたらないと思います。
 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることが最も大切であります。
 その本門の大御本尊は「日蓮が所行は霊鷲山の禀承(ぼんじょう)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(御書全集一〇二三頁)と仰せられる大聖人の一身のご当体でありますから、本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち、事の戒壇であります。
 今まさに、わが大石寺に正本堂が建立中であります。この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのでありますから、その時は正本堂は本門事の戒壇であります。
 その正本堂は、池田会長の発願と、全信徒八百万の純信なる日蓮正宗の信徒の浄財による、いわば八百万民衆の建立であります。
 ″八百万″という数は、実に奇しき数であります。″八百万″とは、昔の日本古来の読み方によりますと「やおよらず」であります。「やおよらず」とは″無数″を意味するのであります。
 今、わらわれ人間は、十界互具、一念三千の法門からすれば、一面、天界の神々であるともいえるし、また、仏界の仏でもあるといえるのであります。八百万民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に使えば「やおよろず」の神々、諸天善神の建立ともいえるし、また、十方三世の無数の仏の建立ともいえるのであります。
 まことに、正本堂こそ、意義深い建物であると信ずるのでございます。
 されば、わが日蓮正宗の信徒は、御相伝による「此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山なり、事の寂光土にして若し是の霊場に一度も(もう)でん人は無始の罪障速やかに消滅す」との御金言を深く信じなければならないのであります。
 今日、世間の多くの人々は、日蓮正宗の教義の本質を見極めず、また、創価学会の信心のあり方を曲解し、種々の非難を会長池田先生の一身の浴びせております。
 池田先生がこれらのいわれなき非難にひたすら耐えておる姿を見る時、私は仏道修行のためとはいいながら、実に気の毒でなりません。
 学会の皆さん、一致団結して、この会長を守り、更にきたるべき十年に向かって前進し、広宣流布の大願を成ぜんことにご精進願いたいのであります。このようにお願いして、本日の私のあいさつといたします。





三、正本堂意義についての
              昭和四十七年三月二十六日


 唯今、教学部長から「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時に於ける事の戒壇である」と、定義を公表致しました。これについて、もう少し詳しく私の見解を述べてみたいと思うのでございます。
 その解釈は、「正本堂は広宣流布の暁に、一期弘法抄に於ける本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。現在は未だ謗法の人が多い故に、安置の本門戒壇の大御本尊は、公開しない。この本門戒壇の大御本尊安置の処は即ち、事の戒壇である」
 これは先程、昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。
 このなかの「一期弘法抄の意義を含む」という事について、もう少し述べたいとおもうのでございます。
 先ず、この解釈に当って二方面から考えてみたいと思います。
 第一は、世間儀典的。第二は、出世間内感的。
 大体儀典的というのは、儀式礼典と考えて下さればいいんです。
 先ず、一期弘法抄に、
「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せになっており、
 また、三大秘法抄には、
「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、云云」と、こう説かれております。
 これを先ず、第一の世間的儀礼に考えますと、この国主とは誰を指すのかということが問題になってきておるのであります。
 勿論、大聖人様の時代、また大聖人様の御書において、国主とは京都の天皇も指しておりますし、或いはまた、鎌倉幕府の北条家を指しておる場合もございます。で、今、この国主と申して、三秘抄並びに一期弘法抄の国主或いは王という言葉は、直ちに日本の天皇陛下と断定することが出来るでありましょうか。なかなかそう断定できないはずであります。
 しかし、本来、この勅宣という言葉は日本だけの言葉でなく、即ち中国から来た言葉で、中国の皇帝に対して、皆、勅宣という言葉を使うのでありまして、この勅宣という言葉があるからして、日本の天皇だと断定することはできないのであります。
 また、大聖人様は「仏勅」とこう申します。仏の言葉を仏勅と申しております。或は開目抄に宝塔品の三箇の大衆唱慕のところに第一勅宣という言葉をお使いになっております。仏の言葉をもっても勅宣という。必ずしも勅宣という言葉は、日本の天皇陛下だけだと、こう断定するのは、ちょっと早すぎるのではないかと思います。
 又、三秘抄の王という言葉をもって、日本の天皇と断定しているのは、結局は明治時代、勿論大正、昭和の初めにかけてもですけれども、国立戒壇という考えの上から、こういう言葉が出たものと思います。
 ところが、我が宗では真実をいうと、古来から広宣流布の時の国主は転輪聖王である。しかも転輪聖王の内の最高の金輪聖王である。金の転輪聖王である。こう相伝しておるのでございます。
 皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔からそういうことを相伝しておる。しかし、明治時代以後、それを忘却しておる人が多くなったのでございます。それ故に、直ちに明治時代に於ては、国立という観念から、この一期弘法抄や三秘抄に於ける王は天皇だと、こう断定してしまったのであります。
 この考えは、日本が世界を統一するんだという考えのもとから天皇が転輪聖王だという考えが起ったものではないかと思われるのであります。ところが、御書を拝しますと、王というのは一国の王というのではなく、より高次元の意味で使われております。
 北条家に対しては、「僅か小島の主に恐れては閻魔法王の責めを如何せん」という御書もございます。
 で、この島の長がどうして一閻浮提広布の時の転輪聖王といえましょうか。なかなか簡単には云えないと思うのであります。
 これについて、先程さしあげたー堀猊下が、日恭上人伝補という、日恭上人の伝を少し書いております。それにこういうことが出ております。
 「印度の世界創造説は全世界中の各史に勝れて優大な結構であり、又其に伴ふて世界に間出す転輪聖王の時代と世界と徳力と威力宝力と眷属との説が又頗る雄大であって、其中に期待する大王は未だ吾等の知る世界の歴史には出現しておらぬ」
広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。
 「但僅に彼の阿育王が世界の四分の一を領せる鉄輪王に擬してあるばかりである。仏教では此の四輪王の徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ばぬ程の雄大さであるが小膽、躁急の吾人はこれを待ちかねて至って小規模に満足せんとしてをる。(乃至)金輪王には自然の大威徳あって往かず戦はず居ながらにして全須弥界四州の国王人民が信伏する。」
と、こう出ております。だから、実際に広宣流布した暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配者だと、即座に決定するということは難しい。もっと大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。
 で教行証御書の終りの方に、三行目に
 「已に地涌の大菩薩、上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漢土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の前兆の優曇華に値えるなるべし」
こう説かれております。大聖人様が出現して、いよいよ広宣流布になる時は、この金輪王が出現するんだ。その為に、大聖人様がこうしておられるのは、金輪聖王の主手右舷のためのお祝いの、優曇華の華に値えるが如くであるということをおっしゃっております。だからこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪女王が出現するのである。そして戒壇を建立する。その時には法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主日目上人の出現、ということは、本宗の伝統的相伝であります。これを皆な忘れて、簡単に三秘抄或いは一期弘法抄の時の王様は天皇だということをいわれ、それで又、国立戒壇ということをいっておる。それを今、そういう考えを改めて、昔の仏教の精神に返らなければならないと思うのであります。
 で、更にここで今度は第二番目の出世間の内感的に考えていくと王ということばはどうであるかと、こう考えていきます。
 そうすると御義口伝に、一番最後の厳王品のところには、この「王とは中道なり」と仰せになっております。ここに於て仏の言葉を仏勅と申し、勅宣と申されておる。仏を賢王と申される故であります。
 で、三秘抄・一期弘法抄の戒壇建立について、もし、世間儀典的な考えを以てするならば、広宣流布が完成した時には転輪聖王が出現して建立するという事になる訳で、その金輪聖王は誰かといえば、
 御義口伝に、化城喩品の処に、
 「御義口伝に云く、本地身の仏とは此文を習うなり、祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是を祖と云うなり、此の三如是より外に転輪聖王之れ無きなり、転輪とは生住異滅なり、聖王とは心法なり、此の三如是は三世の諸仏の父母なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三世の諸仏の父母にして、其祖転輪聖王なり。金銀銅鉄とは金は生・銀は白骨にして死なり、銅は老の相・鉄は病なり、此れ即ち開示悟入の四仏知見なり、三世常恒に生死・生死とめぐるを転輪聖王と云うなり。此の転輪聖王出現の時の輪宝とは我等が吐く所の言語音声なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経なり。爰を以て平等大慧とは云うなり。」
と、こう仰せになっております。即ち結局は金銀銅鉄の輪王は、我等大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経を唱え奉る者の当体である、というべきであります。
 故に出世間内感的に於ける戒壇建立の相を論ずるならば、三秘抄の王法仏法等のお言葉は、大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経の信心を離れて存在しないのであります。
 我等、弟子檀那の末法に南無妙法蓮華経と修行する行者の己心にある有徳王、覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を其のまま以て末法濁悪の未来に移さん時、と申されたと拝すべきであります。
 三秘抄に有徳王・覚徳比丘とあれば、じゃ有徳王か覚徳比丘という人物はいつ出て来たか、又そういう人があるのかといわれる時に、有徳王・覚徳比丘は涅槃経におけるところの釈尊己心の世界の人物である。しからば今、末法に於いて、我々大聖人の弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱える、我々の己心においての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己心にあると考えなければならないのであります。
 これ実に我々行者の昔の己心の姿を顕わされていると拝すべきであって、その己心の上に勅宣並に御教書がありうるのであります。
 即ち、広宣流布の流溢への展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきであります。
 故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法流布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すべきであります。
 又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一重加えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義に別けられて説かれておるのでありますが、詮ずるに六義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本門戒壇の大御本尊は六義の正主である。本門戒壇の大御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せられたのに過ぎない。たとえば、曽谷殿御返事(新定二〇〇一)に、「法華経は五味の主の如し」と仰せになっております。乳味、酪味、生蘇味等のその五味の主であると申されておる。これは、五味は一代聖教で一代聖教は法華経を説き表すので、一代聖教を説く主眼は法華経である。故に法華経は五味の主体であるとの意味でございます。
 今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の処を戒壇と申すは、六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇であるからであります。
 「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇である」と宣言する次第でございます。





四、戒壇についての補足
      学林研究科 昭和四十九年六月十八日 於 大講堂

 今迄、一時間にわたって、教学部長が、戒壇のことを縷々述べられまして、大体おわかりのことと思っております。
 以前二・三年、もう四年くらいになるでしょうけれども、戒壇のことはいろいろ論じて、そのつど述べてきましたから、それをまとめれば、全て皆様にもはっきりおわかりのことと思います。
 今、教学部長が述べられたことを、総括的に、私はもう一遍述べてみたいと思います。それはただ、従来、私が述べてきたことを、同じことを概略申すだけのことでございますが、これはわかり易く、今、この戒壇についての御書を引用して、皆様は今、ここに御書がないから、印刷して差上げたのでございます。
 先ず戒壇ということの出てくることの根本は、三大秘法抄にはっきり出ております。
 三大秘法抄に曰く、「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」(新定二二八三)
 即ち、みな先程の王法仏法ということに、また王臣一同、共に三秘密、三大秘法を信行し奉らなければだめなんだ。
 信行し奉って、そしてその姿が、王法は仏法を守り、仏法王法に冥ずると。で、涅槃経に説くところの有徳王覚徳比丘のその姿を末法の濁悪の未来に移す。さらに、また、これをのべて、広宣流布への姿に於いて、その時、
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」
 これについて、今迄のある一部の人も、国立戒壇ということを言っております。
 それは、ここに、戒壇堂という建物を造るということが頭にあるからであります。みな、そう思っちゃうのです。「戒壇を建立すべし」と、こうなっております故です。この建立という言葉が、建物を建てると、こう決まっているものではない。戒壇の御本尊を、安置することであります。最勝の地をえらんで。即ち、その前に、三大秘法を論ずるときに、本尊論に、「寿量品に建立する所の本尊は」と、説かれております。
 別に、寿量品を以って、本尊を建築的に建てるということではない。寿量品に説かれているという意味なのです。
 また、大聖人は、(新定九七五)
 「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ」と、仰しゃっている。じゃ、御本尊という建物を建てるのかというと、そうじゃないです。御本尊を書写し、ここに顕わすということなのです。我々が、常に言うでしょう。
 「御本尊建立遊ばさる」と、戒壇の御本尊建立というのは、決して建物を建てるという意味ではない。ここで言う、戒壇を説明せられておるのは、この戒壇は、やはり先程の教学部長の最後に述べられた、この戒壇の本尊の一体に於いて、三秘相即しておる、三秘が具わっているところの戒壇の御本尊である。
 それをいちいち取り出して、これは本尊で、この題目を唱えればいいんだ、と言うのではない。
 お題目即御本尊である。戒壇即御本尊である。が、故に一大法であり、一大事であり、一大秘法であります。
 これが、本宗の信仰の大切なところであります。御本尊中心である。一大秘法、その御本尊に依って題目も備わるのであります。
 御本尊の安置したところに於いて、三帰戒を受けようが、お題目を唱えようが、自授受戒であろうが、みんな御本尊のもとで行なわれるんです。
 これを、ただ、戒壇堂を建立するからして、広宣流布の時に、有徳王が来なくちゃいけない、天皇が来なくちゃいけないなどと、論ずべきではないと思います。
 先程、世間出世間の話もありましたが、その通りであって、世間的に言おうが、出世間的に言おうが、戒壇の御本尊を安置したところが、即、戒壇の霊地であります。それを考えなければならない。「時を待つべきのみ」(新定二六八七)
 そういうふうな広宣流布の、広宣流布と言っても、絶対の広宣流布とはいかなくても、その時代の広宣流布に於いて、そういう勝地をえらんで、戒壇の御本尊を安置して本門の題目を唱えることが事の戒法であります。
 本門戒壇の御本尊を信心して、成仏得脱の道を遂げる。これが、事の戒法であります。事の戒壇堂など書いてありません。事の戒法であります。「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪する戒法」であります。
 その戒壇の御本尊様に於いて、みな懺悔滅罪して、即身成仏の本懐を遂げるということが、最も大切なことであります。「大梵天王・帝釈等も来下して」これも、私の解釈では、出世間的に考えれば、我々の一心であるということを、前に述べたと思います。
 あるいは外相的に、姿を以って天上から大梵天王が、下がって来てもよろしい。「大梵天王・帝釈等も来下して」●み給う、即ち来て、「●給うべき戒壇」であります。ここにまた、意義があるでしょう。●給うだから戒壇堂を造って、そこへ行って、戒を受けなければならんというような考えだから、国立戒壇だとか、事とか、理とかの戒壇だとか、建物にばかり執着するのであります。
 この●ということは、足で踏むという意味だけではありません。参る、参詣するという意味があり、進むという意味があるのです。
 だから、大梵天王・帝釈等も来下して、参詣し奉る本門戒壇の御本尊であります。
 御本尊の本に参詣するという大きな心からお説きになった戒壇の意義であって戒壇堂を述べられているのではありません。
 だからここでは、その次ですね。
 この三大秘法に於いては、まず最勝の地と言われて、そのどこだと言うことを説かれていない。
 そこで、富士一跡門徒存知之事に、先師はまだ所を言わなかった。
 そこで日興上人が、(聖典五四二)
 「駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」
 この名勝の地に、本門寺をお建てになったらよろしゅうございましょうと、申し上げた。
 そこでですね、一期弘法抄ができたんでしょう。
 三大秘法抄は、弘安五年卯月八日、それに対して、弘安五年九月、大聖人は、一期弘法抄を説かれて、(新定二六八七)
 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大道師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
 本門寺を建立する。本門寺の中に戒壇の御本尊を安置するってことであります。
 この建立ということは、本門寺を建立するということで、別に国立戒壇という戒壇堂を建てるなど決して仰しゃっていない。
 本門寺を建立するので、その本門寺は何かというと、百六箇抄に(新定二七一三)
 「三箇の秘法建立の勝地は、富士山本門寺本堂なり」と、仰っています。
 これも、前々からさんざん申しておりますが、みんな忘れているかもしれませんから、申し上げるんだが、なにも、本門寺の本堂なりと、はっきり書いてあるのに、本門寺本堂の上に戒壇堂を造る必要がないでしょう。即ち、三大秘法建立と書いてあるでしょう。建立、即ち安置なんです。
 それは、本門寺、富士山本門寺の本堂であるのです、だから、富士山本門寺の本堂に本門戒壇の御本尊を安置奉ることが、事の戒壇であります。
 また、その日興上人は、日目上人への日興跡条条之事に、(聖典六五八)
 「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」即ち、戒壇の大御本尊、
 「日目に之れを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」とある。
 戒壇堂に建てろなんて仰っていません。
 本門寺に懸け奉るべし、これを、ある曲解者が、懸け奉ってあるんだから、それは、板ではいけないんだ。紙であるはずだ。
 どっかに紙の御本尊、戒壇の紙の御本尊があるだろう。
 北山本門寺にあるんじゃないかと言うけれども、言葉にとらわれて、くだらない解釈しちゃ大変なことであります。
 それならば、ある富士山を詠っておる詩に、
   白扇 逆しまにかかる 東海の天
という言葉がある。富士山が、逆さまに空にかかっていたら大変じゃないですか。大地にしっかり根をおろしてあるところの富士山は、これをかかると言っておる。
 今、戒壇の御本尊が、本門寺に懸け奉るというても即ち安置し奉る、建立し奉る。という意味で、少しも変わってないのであります。
 だからそれが、また、一跡門徒に於いて、(聖典五四二)
 「仍って広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時必ず富士山に立てらるべきなり」
 即ち、それは本門寺のことであります。
 その前に、
 「最も此の砌に於いて本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ」
 この本門寺を、広宣流布の時至り、国主この法を建てらるるの時、即ち一国の主権者が信心した時は、必ず富士山に本門寺を建立すべきなりと仰っている。
 今、大石寺がここにある。これ即ち、本門寺の前身であります。
 もし、もっと広宣流布して、みんな本門寺と称するならば、それが本門寺である。
 戒壇の御本尊のまします所はいずくいず方でも、事の戒壇であります。先程、教学部長が最後に述べられた通り、戒壇の御本尊、即ち日寛上人が、
 「戒壇の根元とは、この御本尊ましますが故なり」
と仰っておいる。
 この御本尊まします所は、事の戒壇である。
 それを忘れて、ただ天皇が建てるとか、誰が建てるとか言って論争をしても、それは不毛の論であります。よろしく我々は、今大石寺に安置し奉る所の戒壇の大御本尊こそ、事の戒壇の御本尊であり、即ち、事の戒壇であります。
 御相伝に、戒壇の御本尊まします所は、即ち、事の寂光土、事の戒壇であると。
 御相伝と言うと、みんな書き物がなくて、ただ聞いて教わると思っているかもしれないけれども、御開帳の説法であります。
 明らかに、戒壇の御本尊まします所は、事の戒壇、事の寂光土であります。
 ここに詣でる族は、全てみな久遠の昔からの罪障消滅し、即身成仏の本懐を遂げる所で、これこそ事の戒壇でなくて、なんでしょうか。
 じゃ、建物が国立っていう、誰か偉い人が、建ててくれなければ、そこへお参りしてもさっぱり御利益がないのか、と言うような考えでは、仕方がない。
 建物なんかどうでもいいんです。
 戒壇の大御本尊こそ我々の即身成仏の本懐の場所である。
 これが、正宗の信心である。正宗の皆帰である。我々のモットーである。
 どうぞ皆様、深く考えて、そういう論争にまよわされず、戒壇の御本尊まします所は、即ち、事の戒壇であるということを、深く心に留められて、行学に励まれんことをお願い致します。





五、法華講青年部お目通りの際の御説法
          昭和五十年七月五日


 法華講の皆さんが妙縁寺関係の方々を中心に団結して私を初め我が宗門を誹謗する元妙信講の者達と戦っておられることを聞いて本当にうれしく思います。
 この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快かつ迷惑なことは他にありません。又、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとしていく度か異流儀も出ましたが、しかし元妙信講ほど無体な、そして卑劣なものは例を見ないと思うのであります。
 およそ人たるもの、自分の信念を述べるに当って、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。宗門の公式見解はこうなっておるが、自分の意見はこうであるというように、正々堂々と述べるべきであります。ところが浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、”私が浅井親子だけに内意を打明けた”と宣伝しておるのであります。浅井個人の考えに、私の考えであるというレッテルを張られては、私としてはたまったものではありません。しかしその内容が私の公の席で、手続きをふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨と正反対であるというのですからなおさら許せません。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになってしまいます。そんなことがあるはずのないことは常識のある方々には、すぐわかってもらえると思います。仮に私が本心を打明けるにしても、よりによって講頭親子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置けない人物に打明けようはずのないことは自明の理でありましょう。
 しかしながら、元妙信講のなかで今なお浅井についておる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておるらしい。普段から寺院と切りはなされて浅井の言うことが私の言うことだときかされていたためか、今になっても正しいチャンネルの切りかえができないらしく、浅井の荒唐無稽な話しを信じてさわいでおるから困ったものであります。
 私も法主という立場上、総本山の種々のしきたりがあり、みだりに人と会うことも難しい地位にあります。そのことを利用して何も知らない人達を”国立戒壇こそ法主の内意である”などとあざむくことは卑劣この上ないやり方であり、宗門史上かつてない猊座に対する冒涜であると思うのであります。ことは私の名誉にもかかわることであり放置しておけば宗内のみならず世間までさわがせる結果に為りかねませんので私は断固たる措置をとります。とともに、今日、ここに見えられた皆さんは私から直接聞いたことの証人となって多くの人に今日の話しを伝えて下さい。
 浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講に人々にもはっきり伝えて下さい。それでもなお迷いからさめず、ぐずぐず云うなら、それは本人の自由で、もはやこちらの関与するところではありません。法主の指南がきけず、浅井の指南を聞こうというそういう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいりません。その旨、はっきり伝えていただきたいのであります。
 私には法主として、宗開両祖以来連綿たる法門を厳然と守り、かつ一千六百万信徒信仰を安穏ならしめる責務があります。その上で仏法のもとにあらゆる人々を平等に待遇し、一人残らず成仏することを毎日祈念いたしております。
 今、冷静に考えますとき、浅井昭衛という男も、迷える哀れな人物であるがさればといってその狂気じみた妄想のために清浄なる法灯と一千六百万信徒を犠牲にするわけには断じてまいりません。故に私は公平無私な立場で断固たる措置をとりました。だれはばかるところのない私自身の判断であり、それが正しかったことは時がたてばたつほど確信を持って来ております。浅井らはこれを怨んで私に対していろいろと云っておるようであります。私が信徒の圧力で云うことも云えない臆病な法主であるとか何とか、とにかく失礼千万なことを、こともあろうに”法主を守る”と称して云っているのであります。
 私は法主の座について以来の方針として、現在の時代性にかんがみ信心の道をふみはずさぬかぎり信徒の自主性を重んじ、伸び伸びと信行にはげまれるよう心がけてきました。信者の方々の意見にもできるかぎり耳をかたむけるよう努力してまいりました。ただし仏法にそむくと思われるときは、ささいなことでも一つ一つはっきりと指摘してきております。相手がだれであろうと、法主として云うべきこと、なすべきことは一つとしてゆるがせにしておらず、宗門の権威は少しもきずつけることなく次へゆずるつもりであります。
 とにかく宗門の混乱は、その立場・資格にないものが”相伝を受けた、内容を知っている”とか”法主から特別の使命を与えられた”と主張するところからおこり、何も知らない信者が付和雷同して大きくなっていくものであります。こういうことをいい出す人には、必ず何らかの野心か下心があることは、過去の実例が証明しております。
 とにかく宗門のことは、他の人をたのぬ必要は何もありません。私は、必要なことは全部自分でしますし、自分の意見は自分で云います。よけいなおっせっかいは無用であります。皆さん方には私がだれの指図でもない自分で云っていることはよくおわかりいただけると思います。又、一人の信者に差別して特別なことを云ったり、使命を与えるようなことをするはずがないではありませんか。

御遺命の戒壇について

 御遺命の戒壇について、浅井らは、執ように”国立戒壇”とくりかえしております。戒壇についての私ならびに本宗の見解は、訓諭をはじめとして既に何回も公にしたとおりであります。大聖人の仰せは本門事の戒壇である。本宗相伝の戒壇の御説法に「弘安二年の大御本尊とは即ち此の本門戒壇の大御本尊の御事なり−中略−本門戒壇建立の勝地は当地富士山なる事疑なし、又其の本堂に安置し奉る大御本尊は今眼前に在すことなれば此の所即ち是れ本門事の戒壇真の霊山、事の寂光土云云」と、常に説き示されて居る如く、本門事の戒壇の御本尊在す所が事の戒壇で誰が建てたからと云う理由で事の戒壇となるのではありません。このことは既に数年前から私が申し述べている所であります。
 右のことは日寛上人の三大秘法御説法を日相上人が科段に分けた御文を参考、ここに添付します。
 浅井らは何ら教義上の反ばくもなく、ただ先師がどうの、私が昔云ったのと云うだけであります。私は、昔云ったことはあるが、今は云わないと云っておるのであります。
 私の信念は不動であります。未来永遠にわたり、国立ということはなかろうと確信しておるからであります。
 浅井らは、人のやることに干渉せず、自分達の力で、やれるものならやってみればよいと思うのであります。但し、国立というのは本宗の教義ではないので、元妙信講が日蓮正宗と名乗ることだけは、今日限りやめてもらいたいのです。法律がどうのこうのという問題とは別の次元で、管長として、法主として、もはや日蓮正宗信徒でないものが、日蓮正宗という名称を使うことを止めよと命ずるのであります。

  松本日仁、八木直道について

 二人の僧侶が、浅井らに紛動され浅井に顎使されていることは誠に残念であります。松本、八木等が浅井の所に行かないように私をはじめ関係者で何回となく説得し、道を誤らせまいと思って忠告をかさねました。
 しかし結局彼らは「自分の信念で行動する」「元妙信講と運命を共にする」「擯斥覚悟である」と言うものですから、宗教に生きる身として自己の信念に殉ずるは止むを得ずと思い、彼らの望むとおり擯斥処分に付したのであります。彼らの言うことが本当ならむしろ本望であったろうと思うのであります。
 ところが二人とも今になって、擯斥処分が重すぎるとか、自分は元妙信講とは別である、などと卑怯未練ないつわりごとを申し立てて訴訟ざたに及んでいるのであります。
 八木ごときは最近では月一万円の衣鉢費がなければ食っていけない。などと泣きついておる始末です。まことに僧侶の風上におけぬはおろか、人間としてもどうかと思われるのであります。多勢の人で成立っておる宗門において、一時の気まぐれや、わがままは許されません。かりそめにも、法衣を身につけていた者であれば、もっと正々堂々と男らしい出処進退を心がけてもらいたいものであります。
 第一線で戦っておられる皆さんが確信をもって行動できますように以上の如く私の胸中をお話ししました。
 元妙信講らは、何かと云えば暴力をちらつかせ、正しいことを云っていさめる者に対しては集団で毎夜いやがらせに押しかけたり、個人攻撃をするということであります。大望を口にするにしては、まことにふさわしくない愚劣な手口でありますが、皆様におかれましては一歩もひくことなく、厳然と戦われんことを期待いたします。
 「百の言葉より一つの実行」という言葉があります。日頃、正義感を口にし、論議を盛んにする人も、いざというとき、日和見しては何もありません。いざというとき一身を挺して事に当る人こそ真の仏弟子であろうと思うのであります。その意味で、皆様の振舞いはまことに貴いものであります。
 私のもっとも信頼する法華講の皆さん、どうぞよろしくお願い致します。



六、戒壇について

 今日は、百六箇称の脱益並に種脱の戒壇について述べたいと思います。

 三十九 脱益の説所と戒壇の本迹

  「霊山は本・天台山は迹・久遠と末法とは事行の戒・事戒・理戒・今日と像法とは戒体なり」(御書全集八五九n)
 これは、霊山は事戒、叡山は理戒としております。この説所、説とは弘通なり、所とは三国に渡って名勝の地、これは昔から言われますね。方向は王城の丑寅のこと。
 即ち、上野抄に
  「仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり」(御書全集一五五八n)
ということが、弘安二年四月二十日の御書に出ております。
 だから、この脱益の説所、仏法を説く所、即ち、名勝はいいところ、場所はいいところ、名勝の地であり、ここで脱益であるから、弘通所である。
 この丑寅というところは、王城からみて、霊鷲山は丑寅。或は、天台山は丑寅。叡山も京都からみて丑寅。本山も丑寅。今、王城が東京にあれば、東京の裏鬼門ということになりますね。逆の鬼門。どちらにしても、こういう丑寅ということを方向ずけられておるのであります。
 これはもちろん脱益の方ですから、霊鷲山が事戒である。本である。叡山は迹である。理戒で迹。久遠と末法とは、事行の戒、事戒。理戒。これはもう決っていますね。釈尊時代と像法とは理の戒体である。

 四十三 下種の弘通の戒壇実勝の本迹

  三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。
  (上行院は祖師堂云云 弘通所は総じて院号なるべし云云)(御書全集八六七n)
『下種の弘通』即ち、総じては、三大秘法の弘通であり、別しては事行の戒体の戒壇である。ここでは、脱益の題には説所といっている。下種の題には弘通という。題に実勝という。
『戒壇の実勝の本迹』ここでは、説所に対して、この下種の題に弘通というのは、下種の大法を弘めるからこういうのであり、それだから、ここでは実勝というのである。
『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』三箇の秘法、即ち、三大秘法の本尊を安置するところは、富士山本門寺の本堂なりと。これが一番先に出てくる最も古い文献における場所ですね。戒壇の本尊の住所をお示しになっておるところです。
『上行院は祖師堂なるべし』これは迹ですね。本門寺本堂が本となり、上行院は迹となる。だからこれは祖師堂なり。

 それから、上行院はどうして祖師堂というのか。これが問題ですね。これは涌出品の
  「一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり。(大石寺版「妙法蓮華経並開結」四七六n)
 ここからくるわけですね。「上首唱導の師なり」故に、宗祖より代々を安置する堂を上行院というわけです。本堂と違うわけです。だからこれは迹にになる。
 本門寺の本堂には三大秘法の本尊、即ち、戒壇の本尊を安置するが故にこれを本とし、その宗祖以下代々を安置するところを祖師堂といい、これは迹である。
 次に『弘通所は総じて院号なるべし』この院号というのは、これをよく間違えて、「寺は皆何々院としなければならない」というようなことを言う人もあります。ここでいう院号というのは、本門寺以外の名前ならいいわけです。本門寺はいけないというのです。本門寺以外の名前は、例え寺といおうが、何といおうが差し支えない。だから、この弘通所とは、即ち、「三箇の秘法の弘通所は、総じて院号なるべし」本門寺以外の名称の寺である。故に本門寺本堂と上行院とは本となり、弘通所は迹となる。ここではそうなるわけです、二重に。本門寺本堂が本であり、上行院は迹である。ところが今度は、本門寺本堂と上行院は本であり、弘通所・末寺の弘通所は迹となる。こういうわけです。

 三大秘法抄に
  「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」(御書全集一〇二二n)
 この「勅宣並に御教書を申し下して」というところで、妙信講は、国立ということにこだわって、いくら言っても聞かない。即ちこれは、有徳王、覚徳比丘の涅槃経の故事を引かれておるので、前々もって、何回も、この問題を述べておりますが、ここで再び申しますれば、所謂釈尊である。「有徳王とは我が身これなり」と、はっきりおっしゃっておる。又、「覚徳比丘とは迦葉仏なり」とはっきりおっしゃっております。その仏たちが、再び姿を変えてこの仏法をお守りする、ということを、説き現わされております。唯ここでいうところの勅宣・御教書ということばにとらわれているのです。
 ところが大聖人は、勅宣は常に仏のことばにおいて勅宣とおっしゃっている。或は鳳詔ともおっしゃっております。もちろんその国の時の国主のことばを勅宣とも申しております。或は、幕府のことばを御教書とももうしておりますが、それだけではないもっと大きな意味の勅宣です。もちろんここで言えば有徳王覚徳比丘の其乃往の王、即ち、我が身これなりと、釈尊自らの心において建立するところの戒壇ということになってくるわけです。

 もちろんこの勅宣とか、御教書とかいうことばに対して、これは三大秘法抄に最も近い一期弘法抄において
  「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書全集一六〇〇n)
「此の法を立てらるれば」即ち信心をして、信心を立っていけばという意味です。何も戒壇を建立してやろう、国立において戒壇を建立するという意味ではない。三大秘法抄、一期弘法抄において、国立戒壇がはっきりしているなんていうけれども、少しもそういうことは説いていないのです。
「国主此の法を立てらるれば」即ち、この信心をしていく時、即ち、広宣流布の姿を説かれておるのであります。その時は、即ち、この百六箇抄において、『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』と、ここで、はっきりお示しになっておる。
 もしここに、三箇の秘法建立の勝地は国立の富士山本門寺だ、本堂だと書いてあるならば、それは仕方無いけれども、そんなことはちっとも無い。
 又、この次の時代では、富士一跡門徒存知事にお説きになっておる。
  「広宣流布の時至り此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり」(御書全集一六〇七n)
「此の法門を用いらるるの時」即ち、この法を信心せられた時は、戒壇を建立する。その戒壇は富士山に建てる。一跡門徒ですから。日興上人が御弟子に書かせたのですから、はっきりわかっておる。この時にも、決して国立ということばは、少しもお使いになっておりません。
 この戒壇を建立するということにおいて、国主の勅宣とか御教書を頂戴するということは、これは許可を得るということであります。
 なるほど平安朝時代においては、大きな寺は勅宣を得て建った。しかし、勅宣を得て建ったといっても、国立ではないのです。何回も何回も申し上げております。
 叡山の戒壇、即ち、今から言えば理の戒壇、これは伝教大師の本来からの心である。それが中々許可にならない。即ち、南都六宗とか、あらゆる謗法に対するために、叡山の戒壇も出来なかった。しかし伝教大師が亡くなられたその時に、僅か一週間ばかりの間に、今度は勅宣があったのである。義真の時に、嵯峨天皇の勅宣を得た。これは勅宣を得たと言っても、援助を与えられたのであって、必ずしも天皇が特別に国家として、国立戒壇をお造りになったという意味ではない。
 又、その後、この前も申し上げたけれども、後、三井寺、園城寺の方で、叡山の戒壇へ行くのがいやで、ずっと後になってから、戒壇を造っております。この時も勅宣を得て造っておる。決して国立等ということではない。
 太古においては、とこばは勅宣である。ところが幕府時代においては、今度は許可。幕府の許可を得る。大きな寺は皆そうです。徳川時代でも大きな寺を建てようとする時は、皆それぞれ幕府の許可を得て建てるのです。
 或は、現在においても建築というものは、建築許可を得なければならない。古今同一である。敢て国立でなければならんということは少しもないのでございます。
 これについて、戒法ということを、少々申し上げたいと思います。三大秘法抄において  「事の戒法と申すは是なリ、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うペき戒壇なり、(御書全集一O二二頁)
 この戒壇における戒法ですね。戒には四つあるわけでしょう。戒の四科といいましょうか。一に戒法。二に戒体。三に戒行。四に戒相。こうあるわけです。これが叡山と大聖人の戒壇とでは大きな異りがあります。伝教大師の時の比叡山の戒壇と、大聖人のそれとの違いにおいて、理と事の違いがあるわけですね。これは伝教大師は大乗菩薩戒。だから、即ち、これは梵網経によるわけです。戒法は梵網経の戒法。即ち、戒法というのは、今皆さんは御本尊を頭上に頂かして式をします。その法ですね。その戒法は、梵網経による。そして、その体は梵網菩薩戒、梵網の菩薩戒である。それから、行は大乗の菩薩行、菩薩のための修行である。菩薩行です。戒相は大乗の菩薩。

  一、戒法ー梵網経。
  二、戒体ー梵網菩薩戒。
  三、戒行ー大乗菩薩行。
  四、戒相ー大乗の菩薩。

 これに対して大聖人は、
  一、戒法ー久遠名字の本法の南無妙法蓮華経。
  二、戒体ー当体蓮華の南無妙法蓮華経。
  三、戒行ー寿量文底の南無妙法蓮華経。
  四、戒相ー名字凡夫の当体蓮華仏。

 こういうことになるわけですね。だから、伝教大師は大乗菩薩戒ですから、即ち、理戒。大聖人、所謂本門事の戒法。こういうことに、はっきり分かれるわけです。三大秘法に説くところの戒法ということばはですね。
 勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最紛の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり。(御書全集一〇二二頁)
 この事の戒壇において、南無妙法蓮華経と唱え、南無妙法蓮華経と唱えるということは修行ですから、唱えて、そして、当体蓮華を証得する。これが所謂事の戒壇である。
 伝教の方は、唯菩薩としての修行をする、だから大乗菩薩僧です。大乗の菩薩の僧となるわけです。この事の戒壇からいけば、即ち、当体蓮華仏、名字凡夫即当体蓮華仏、共に事と理の違いがはっきりとしているわけです。
 だから、その中心は、南無妙法蓮華経の本尊、即ち、戒壇の本尊を中心として、戒壇の本尊は即ち三大秘法の本尊であるから、本尊のまします所において、真実にそこにおいて南無妙法蓮華経を修行し、南無妙法蓮華経の修行によって、信心修行によって、当体蓮華仏となる。それが事の戒壇である。
 決して、建物を如何と論ずるのではない。そういう事の戒壇を生ずるためには、皆広宣流布をする。国主はじめ、全ての人が信心して、その戒壇を●たてまつる。それが事の戒法であり、その場所が事の戒壇であります。
 決して国立であるからどうというのではない。この国主ということについては、時代によって、考えが違ってきております。現代は、現代の国主において、考えていかなければならないわけであります。
 戒壇の大御本尊は、広宣流布の根元とも、本門戒壇の根元とも申し上げられるので、戒壇の御本尊まします所が、即ち、本門事の戒壇であります。
 今日は、今の時局的な問題に対する事柄を少々、申し上げました。





七、寛師二百五十遠忌大法要での御説法
            昭和五十年九月二十六日


 今回、日寛上人二百五十遠忌にあたりまして、宗門といたしまして大法要を執行いたしましたるところ、法華講総講頭、創価学会会長池田先生が参詣せられ、また学会代表者、法華講代表者、みな御参詣くださいまして日寛上人の御報恩御講ができましたことを厚くお礼申します。
 日寛上人は、本宗におきまして中興の祖と申し上げるお一人でございます。まず宗門では、日有上人(第九世)とこの日寛上人を中興の祖と昔からあがめておるのでございます。日有上人は信行学のうちの信と行を中心として、全国を布教せられた方でございます。その残された書物というものはほとんど見当たりませんけれども、この日有上人の述ベられたことは「化儀抄)百二十一ケ条ー。南条日住という人が書きとめられたのと、そのほか本是院日叶とかいう方々が、日有上人の説法を聞かれて書きとめられだのが残っておるのでございます。
 この日寛上人は信行学のうちの、もちろん信行は当然でありますが、学を中心とせられて宗門の行学の中心をなされ、富士の教学の復興をし大成をせられた上人として、我々はあがめ奉っておるのでございます。幸いにして今回、二百五十年、ちょうど一昨日の秋の彼岸の中日がこの日寛上人の御正当の当日にあたるのでありました。きょうは旧暦の八月二十一日でございますから、十九日が日寛上人の御正当の日でございます。
 幸いにして天気もよく大ぜい御参詣あって宗門もいよいよ学会の力を得、あるいは法華講の授助を得て、かくのごとく盛大になってきたことを私は常々、感謝をもってありがたく存じておる次第でございます。
 日寛上人のことにつきまして今回、教学郎で「日寛上人伝」を細かく作って、きょうの記念として、あす皆さまに差し上げることになっております。
 それにつきまして、今まで日寛上人は上州の館林に、八月八日のお生まれということになっておりますけれども、今回、日寛上人が御入滅なる十日ないし十五日ぐらい前にお書きになった「口上書」というものが学林の図書館から見つかりました。それはお弟子の日因上人がお写しになったのでございます。それによりますと、寛文五年乙巳八月七日ということでありまして、またお生まれになったのは、厩橋、今の前橋。前橋の酒井雅楽頭の 家中だということに、はっきり決定いたしました次第でございます。
それは「口上書」にお書きになっておることをもって、なおすのでございます。これは「口上書」では寛文六年となって乙巳となっていますが、乙巳は五年の間違いでございます。それは寛師が六年と書いたのは、この乙巳からいけば明らかに五年の間違いというこどははっきりしております。だから寛文五年八月七日にお生まれになっておるということは明らかでございます。
 日寛上人のことにつきまして、日寛上人がこの「報思抄文段」にこの富士天生原に戒壇を建立するということがございます。それをもって、ある人は日寛上人が国立戒壇を思っておるのだというふうに、考えておる人がございます。そういうことはちっともないのでございまして、富士山天生原というのは今日、あそこに見える天母山と違うのでございます。そのずっと前に第九世日有上人の末期になっで、本是院日叶という方が大石寺ヘまいりまして、日有上人のいろいろ説法を聞かれ近所を歩いたのでございます。この方がはじめて天生原、富士山のふもとの天生原に六万坊を建てるということを、理想とせられた言葉が残っております。
 そののち、またそれから百年ばかりのち、今から四百年以上前ですが、日寛上人よりも百五十年はど前になりますか、京都要法寺の出の日辰という人がこの富士ヘまいりまして、この方は北山の本門寺を中心として二回ぐらいきております。長い間、そこにおりまして、東の天母山に登って、ここが戒壇の霊地である。富士は戒壇の霊地ということは昔から富士系の人々は考えておりまして、ただその場所の選定ということにおいて、天生原である。あるいはこの日辰という人は天母山であるということの違いがあるのでございます。天母山と天生原とは大変意味が違うのでございまして、わが大石寺の派においては天生原で、向こうの北山系においては天母山という違いがございます。これは過日、昭和四十五年六月、この天生原について(大石ケ原と天生原についての)私の一考祭を発表しております。それをご覧になると分かると思います。これはもっとはっきりいえば、「富士一跡門徒存知の事」に「駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり」とございます。四神相応というのは、北は玄武、東は青竜、南は未雀、西は白虎という名前において、これはもと天の星からきたそうでございますが、こういう風景の地がなくてはならない。天母山にはそういう地がないのである。わずか小さな山であって、東には川が流れておりません。青竜は川を表わす。北・玄武というのはもちろん山でありますが、また西・白虎というのは道でございます。この相当した道もございませんが、この大石ケ原はきちっと合っているのでございます。東はお塔ケ原の川、西は白糸ヘ通ずるところの道、あるいは北は富士山のふもとから、あるいは天子一帯にかけての山々であります。南は、上野の南条家の南は湿地帯でこざいます。朱雀というのは湿地帯を表わしておるそうです。これらをもって、四神相応の地は、この大石ケ原であるという理想のもとに、歴代の法主が大石ケ原を天生原といっております。
 ただ、この広蔵日辰という人が天母山をもって景勝の地である、そこに六万坊を建てるということをいわれたことにおいて、あの天母山に国立戒壇を造るんだということをある人は言い出しております。
 この国立戒壇ということは、明治になって田中智学というー般的日蓮宗の学者がおりました。この方が本山ヘきたことがあるのでございまして、日霑上人の時に本山ヘまいられてお話をしております。しかし、彼はこの日霑上人の話に飽き足らなかったのか知りませんが、戒壇ということを知ったうえで、三保に、今の清水市の三保に最勝閣というものを建てて、そこに戒壇を造る。いわゆる富士の国立戒壇はここであるということを言ったのでございまして、私ども若い小学校四、五年の頃、その最勝閣ヘ、この辺でも評判になりそこヘ行った人もございます。
 しかし、それは、御本尊がない、何を、どの御本尊をもって国立戒壇にしようかというところに難しい問題があったのでございます。その当時、田中さんという人が非常に知恵者でございまして、たくさん本も出す。そのために、日本国中に田中さんの説が流布されました。わが宗においても、この田中さんの言葉を利用して`この三保に国立戒壇を建てるならば`こちらにとの戒壇の御本尊があるんだから、大石寺とそ、戒壇の御本尊の中心である。その言葉を借りて、国立戒壇という言葉を使いました。しかし、この田中さんのいう国立戒壇という意味と、大石寺の我々の方のいう意味と少し意味が違ってくると思います。それは本山はこの戒壇の御本尊を中心とした戒壇である。どこまでも。一応、国立といってもその根本は御本尊がなけれぱできない。末法総与の御本尊をもって戒壇の本尊、これが事の戒壇の本尊であるというところに、この国立というととを付加していったのでございます。
 しかし田中さんの方は本尊がない。ないけれども国立戒壇という名義をとって、天皇から建ててくださるという名義をとって、そこに今度は本尊をもってくれば国立戒壇の立派なものになるという考えであったのでございます。それもただ国立戒壇というのは、明治に、そういう一つの波に乗って申されたことは事実であります。これは過日、昭和四十五年に、私は今後、宗門として国立という言葉は使わない、国立戒壇ではないということを申し上げたのでございます。それは宗門の公けの決定によって決めた言葉でございまして、我々はどこまでも戒壇の御本尊を中心にし、戒壇の御本尊ましますところは、いずくいずかたでも事の戒壇であるというところから、申し上げておるのでございます。で、今、日寛上人のことをこの「報恩抄文段」にある「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に建立する戒壇堂なり、御相承を引いて云く日蓮一期の弘法(中略)富士山に本門寺の戒壇を建立せらるベきなり」といってこの御文を引いて戒壇は国立戒壇だと、日寛上人も国立戒壇を思っているんだという人もございます。しかし、これは違うのであると、その日寛上人の御入滅する前に、この御本尊の御供養のお金を貯めて、それで御宝蔵にお金を納めております。この金というのはただの金ではない。日寛上人は御本尊の冥加料を集めて、それをもって戒壇のために、戒壇を造るために納めた金である。
 日量上人がこのことを「日寛上人伝」にお書きになって「六月中句師在職中授与せしむる所の御本尊の冥加料金銀都合三百両なり、内二百両を金座後藤に遣し人手に渡らざる吹立の小粒金に両替し宮に入れ封印して御宝蔵に納め置き以って事の広布の時に戒壇を造営するの資糧に備ふ」とあります。
 それで二百両の金の粒八百粒を御宝蔵ヘ納めた。封印して納めた。すなわち事の戒壇の造立のためである。もし国立戒壇ならば、何も、貯める必要はないわけであります、やってくれるんですから。だけど自分たちがつくらなければならんというお考えがあったから貯めて、御本尊の御供養を貯めて、ここに戒壇をつくろうという厚い遺志があったのでございます。これを日亨上人が同じ「日寛上人全伝」に戒壇造立資金の準備であるとお書きになっております。「金座から吹立ての二百両の小粒とともに残し置かれたるに覚書に『水く寺附の金子と相定』とも『此の小がね変じて御本尊と成らせ給う時此金を遺うベし』と意味深幽になっておる、明らかに戒壇資金とはないが量師が伝にそれが書き給えるのは詳師以来の言い伝えであったろうと思う」と、はっきり掘猊下も戒壇を建てるための金であると、言い伝えにあるというふうにおときになっております。そうしてみると、国立戒壇ということか、明治以前の方々には少しもない。明治中の人も一応そういう言葉を使ったけれども、今でいう国立戒壇とは大分ニュアンス、心において違いがあると思うのでございます。また更に日量上人が「本困妙得意抄」にこう書いてあると、日量上人の「本因妙得意抄」を引いて事の戒壇は国立であるというようなことをいう人もございますが、それはまったく違うのである。
 事の戒壇とば、といって事の戒壇のことを述ベられておりますが、それもただ三大秘法の御書、一期弘法抄の御書を引いてあるのであって、最も大切なことはその最後に「法華本門宗要抄に云く我、日本無双の名山富士山に隠籠せんと欲すといえども壇那の請によって今この山に籠居す。我が弟子のうちにもし本門寺の戒壇の勅を申し請けて戒壇を建てんと欲せはすベからく富士山に築くベし」と「法華本門宗要抄」を引用されております。ではこの、法華本門宗要抄」という御書は、大聖人の御書と一応言われますけれども、それは大聖人の御書ではあリません。それは日興上人が富士ヘ移られてからの富士系の人の宗要抄ですからその宗が建ったとさのその要となるところの書さ物でございます。富士系の人が作ったということは明らかであります。しかも、日興上人御在世ごろに作られたということも想像することがでさます。それによりますと、今の「一期弘法抄」「三大秘法抄」の「勅宣並に御教書」は決して国立ではないということは明らかである。なんとなればそれにある通りに本門寺の戒壇の勅を申し請けて戒壇を建立せよとあります。お許しを頂戴して造れということでございます。伝教大師が比叡山に迹門の戒壇を造るうと思って、あの嵯峨天皇の時に再三お願いしたけれども、天皇から許可がなかった。伝教大師が入滅してわずか一週間のときに嵯峨夫皇がその弟子・義真に許された。許されたので直ちに国立とはいえない。天皇から援助は受けたけれども、やはり自分の力で建っている。これを見ると今の勅を申し請けてとは、今の言葉で申請です。明らかに申請とい言葉を使っております。これが「三大秘法抄」並びに「一期弘法抄」の「勅宣並に御教書」の解釈として最も古いと思われるのでございます。そうすると明らかに申請である。今日もそうである。今日も建築申請を出さなければ許可にならない。ここでは勅宣といっています。今でも同じことです。ちゃんと総理大臣の決まったところから許されなければ建築許可になりません。そこで本山の建物、みな建築許可、申請をして申し請けてそして建っている。してみると決して国立じゃない。どこに国立という言葉があるか。近ごろ、ある人は国立ということを国家的建築と書いておるようにも思われます。
 これは先代の日淳上人が国家的に建てるというようなことをおっしゃっております。だからそれをとって国家的ということはすなわち国立だ、ということをいっております。国立というのは国が建てて国によって管理する。これが国立である。国家的というのは、国にふさわしいという意昧である。日本国にふさわしいということで、すなわち国家的という意味である。それは九世日有上人が「化儀抄」に「法華宗の御堂は日本様に作るベし(日本の姿である)、唐様に作るベからず」ということをおっしゃっております。日本のお寺を建築するなら日本式に建てなさい。唐様というのはその当時、禅宗が盛んであった。禅宗の本堂の建て方、ああいうのじゃいかんということをおっしやっている。
 そうすると今の正本堂が外国式じゃないかという人があるかも知れません。それは違う。それは建築が進歩して日本の建築がそうなっている。そこに日本式の、形は洋式であっても日本式である。そこに重大な意昧がある。しかもそれが我々の力、総講頭・池田先生が皆さんの力を集結して、そしてつくった。どこに悪いところかあるか。これほど立派な荘重なるところの戒壇はない。そしてまた私は、戒壇の大御本尊は富士山本門寺の本堂ということを申したら、戒壇堂をすりかえて本堂にしているということを言っている人があります。それは違う。一番古い「百六箇抄」に三秘の本尊を安置する場所を示して「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とおっしゃっている。決して戒壇堂といっていない。それを後で利用して、今度は分かりやすく戒壇堂という方もありますが、その趣旨は本堂である。今、正本堂にこの本門事の戒壇の御本尊が安置まします、このところこそ事の戒壇であることは少しも聞違いない。みなさまが安心してお参りに行ってしかるベきと思うのである。
 また日寛上人が先程ゝ天生原ということを言われたということに殊に力を入れて国立だと言うならば、これは日寛上人の「寛師抜書雑々集」という本が残っています。これは主なことをちょいちょいとお書きになったんでございます。これには「相伝に云く富士山天生原において戒壇を建つ、岩本実相寺のところにおいて惣門を建つ云々。もししかれば戒壇の方面自ら分明なり、何ぞ地形に従うベしといわんや更に検する」とお書きになったものが残っております。
 これはもっと古い、日興上人御在世に三位日順というお方が「本門心底抄」にお書きになった。「戒壇の方面は地形に随ふベし、国主信伏し造立の時に至らば」国主が信伏するというのは国主が信心して、いよいよ建てるという時機がきたならば「智臣大徳宜しく群議を成すベし、兼日の治定後難を招くあり、尺寸高下注記する能はず」今、こういうふうに勝手に定めて言うことはできないけれども、これは地形によって智臣大徳みなが相談して建てなさい。それは富士山である。富士山といえば広い。広いからその一応天生原。天生原とは大石ケ原のことであります。というふうにはっきりお書き残されておって、少しも不思議はないのでございます。国立戒壇じゃなければいけないとか、いうようなことに惑わされないで、どこまでも戒壇の御本尊を中心にして信心に励まれんことをお願い致します。
 また、しょっ中、私のところに公開質問だとか、何だかだといってきます。私は今後、そういうものを相手にしないでおこうと思います。したってムダである。不毛の論争でありますから。
 昔、舎利弗という人は、釈尊教団において最も知恵の深い人であった。この人をやり込めようと思ってある外道が大ぜいの人々の前で論争をふきかけました。いろいろ難しい論争ばかりふきかける。しかし舎利弗は一言も答えなかった。なぜなれば仏法というものは、我々の生死の問題である。いかにして我々の苦を救い、悟を得て仏の世界に入るか。あるいは自ら仏になるかという重大なる問題である。それを単なる論争にふけって、論争のための論争、詭弁のための詭弁を繰り返して何の意味があるか、として舎利弗は一言もそれに対して反ばくもしなければ答えもしなかった。しかし周囲の人々は、それを見て舎利弗を決して馬鹿にしなかった。舎利弗が黙っておっても、舎利弗を馬鹿者とも思わない。舎利弗の偉大なることをみなともに知っておった故です。
 そういうふうな論争を今日もして、ー生懸命にふっかけても、不毛なる論争をいくらしても役に立たない。もし国立戒壇が正しい、大聖人の教えが国立戒壇であるというならば、その人は世間に向かって言えばいいのです。新しく宗旨を立って国立戒壇宗というものを建ったんだ、といって世間をどんどん折伏して広げてくだされば結構だと思います。
どうか、今後ともそれらのくだらない論争に惑わされず、本当の大聖人の教えに従い戒壇の御本尊を中心として信心に励まれんことを、きょう、日寛上人の御正当会にあたって、皆さまにお願いする次第でございます。よろしくお願いします。





八、宗会議員決議書


 御法主日達上人猊下は、昭和四十七年四月二十八日の訓諭、その他機会あるごとに、戒壇の意義を御説法遊ばされ、私共の進むベき道を御指南下されたのであります。
 御法主上人の御教示に絶対随従して信行学に励むのは、宗祖開山以来本宗の根本精神であり、私共は日達上人を中心として団結し、正法広布に精進しているのであります。
 然るに近来法主上人の再々の御指南にもかかわらず異義を唱える者がありますが、これこそ大謗法と断ぜざるを得ません。
 私共はますます法主上人に対する信伏随従の念を強くし、広宣流布に邁進することを決議いたします。

   昭和五十年十月四日

宗会議長  野 村 学 道
宗会副議長 阿 部 法 胤
宗会議員  早 瀬 義 舜
  仝   大 村 寿 顕
  仝   豊 田 広 栄
  仝   菅 野 慈 雲
  仝   早 瀬 義 寛
  仝   佐 藤 正 英
  仝   内 藤 寿 学
  仝   早 瀬 義 雄
  仝   細 井 珪 道
  仝   鈴 木 秀 喜
  仝   斉 藤 善 道
  仝   河 辺 慈 篤
  仝   向 島 秀 浩
  仝   佐 野 知 道





九、創価学会副会長室決議


 日蓮正宗第六十六世日達上人猊下は「戒壇」について、未来永遠に亘り誤つことなきよう、あらゆる機会を通じ、宗門全体に対して御説法遊ばされている。かくして「戒壇」の意義は、雲一点なき晴天の如く、瞭々として明白であり、我等創価学会は、猊下の御芳旨を仰ぎ奉り、広宣流布に、いやまして不惜身命の実践を貫く決意である。もはや、これほどまでに大慈大悲を垂れ給い、再三再四に亘り御指南遊ばされたにもかかわらず、これに背き、宗門を撹乱する徒輩は、師敵対の大謗法の者であることは疑う余地がない。●に創価学会を代表し、猊下の御決定を遵守し奉ることを誓い、決議とする。

   昭和五十年十月八日

法華講総講頭 創価学会会長 池田大作
   理事長 北 修    浩
   副会長 秋 谷  栄之助
       森 田 一 哉
       和 泉    覚
       辻   武  寿
       青 木    亨
       山 崎 尚 見
       福 島 源次郎
       柳 原 延 行
       上 田 雅 一





十、日蓮正宗法華講連合会役員会決議


 日蓮正宗第六十六世御法主日達上人猊下

昭和四十七年四月二十八日 御訓諭
昭和四十五年五月  三日 第三十三回創価学会での御講演
昭和四十七年三月二十六日 正本堂に関する御指南
昭和四十九年六月 十八日 戒壇についての補足学林研究科於大講堂
昭和 五十年七月  五日 法華講青年部お日通りの際の御説法
昭和 五十年八月二十九日 戒壇について
昭和 五十年九月二十六日 日寛上人二百五十遠忌大法要での御説法

 日蓮正宗第六十六世御法主日達上人猊下に於かせられましては「戒壇」に関しまして宗内僧俗に右表題の如く御説法を賜り全国法華講員一同感激致して居ります。
 私共法華講員は篤く三宝を敬い御法主上人猊下に信伏随従致しまして不自惜身命の実践を御誓い奉ります。
 御法主上人猊下再三に渉り御指南下さる大慈悲に背く輩は師敵対の大謗法者だと存じます。●に法華講連合会は御法主日達上人猊下の御決定を遵守致します事を決議致します。
    昭和五十年十月五日


日蓮正宗法華講連合会 委貝長 仕 藤 悦三郎
同理事  北海道地方部長   田 中 一 雄
同理事   東北地方部長   大 塚 万九郎
同理事   東海地方部長   村 松 堅 二
同理事   中部地方部長   清 水   賢
同理事   関西地方部長   中 野   功
同理事   九州地方部長   藤 野 与 平
同理事   四国地方部長   石 井   茂
同幹事  連合会総務部長   田 島 孝 之
同幹事 登山部長・渉外部長  小 島 富五郎
同幹事     庶務部長   渡 部 俊 雄
同幹事     会計部長   井 上 市 郎
同幹事     文化部長   平 沢 幹 男
同幹事     副登山部長  篠 田 泰 夫
同幹事 東京地方部総務部長  岩 瀬 正 勝
同幹事 関西地方部総務部長  住 中 信 和
同幹事     大白法主幹  松 島 晃 靖
同幹事 教学常任幹事室主任  西 山 幸 一


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