■日俊・日寛・日東各上人の評価
【"生き証人"日俊上人の評価】
●既に法華経を以つて宗旨と仕り候上は一部読誦無間堕獄の業と申すべき筋目は御座無く候、但し富士五箇寺は開山已来法華一部の肝要方便品寿量品の二品を以つて三時の勤行作善等に執行致し来り候、御当地杯に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候(第22世日俊上人『富士宗学要集』第9巻32頁)
●駿州富士大石寺は開山日興上人已来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候(第22世日俊上人『富士宗学要集』第9巻32頁)
日俊上人は、日精上人御存命中に御登座された方
北山本門寺の文書「造仏堕獄」の「義を盛に申立」てた方
日精上人が「造立」したという仏像を「去却」したのも日俊上人だそうである。
日俊上人は造仏が謗法であることを知悉
堂々と造仏を破折されていた
◆下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山文書『本宗史綱下』671頁)
<『末法相応抄』>
2●春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に逮ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
●客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
―造仏―
3●問う、日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし、又堪えたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をも書き造り奉るべし已上、此文の意は両尊四菩薩を法華経の左右に或は書き或は作り立て奉るべしと見えたり云々此義如何、答う、此れは是れ佐渡已前文応元年の所述なり、故に題目を以って仍お或義と為す、本化の名目未だ曾って之れを出ださず、豈仏の爾前経に異ならんや。日辰若し此の文に依って本尊を造立せば須く本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁)
●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
―一部読誦書写―
4●化他の正意は但題目に在り、若し助証を論ずれば尚お一代に通ず、何に況んや一部をや。太田抄に云わく、此の大法を弘通せしむるの法は、必ず一代聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし等云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻154頁)
5●所謂宗祖自筆の一寸八分細字の御経一部一巻、又開山上人自筆の大字、細字の両部是れなり。此れ亦前の如く自他行業の御暇の時々或は二行三行五行七行之れを書写し、遂に以って巻軸を成ず。是れ滅後に留めんが為めなり。故に義化他に当たれり。曷んぞ必ずしも書写即読誦と云わんや。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻141頁)
<『当流行事抄』>
●開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人著『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
<『文底秘沈抄』>
●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(『六巻抄』65頁)
<日精上人に対する日寛上人の尊崇>
―総本山久成坊、寂日坊の常住御本尊はともに日精上人お認めの御本尊を日寛上人が板御本尊に造立し、開眼遊ばされている。―
久成坊の御本尊造立は亨保6年4月、寂日坊の御本尊造立は亨保7年5月のことであり、その時期は日寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。(『大白法』H16.3.16)
日寛上人出家縁起
日 寛 伝
釈日寛、字は覚真【初日如と云う】大弍阿闍梨堅樹院と号するなり、寛文五【乙巳】年八月八日卯の上刻に誕生す、俗姓は上野国舘林前城主酒井雅楽頭の家臣伊藤氏某の男なり、幼名を市之進と云う、志学の頃江戸に出で旗本の舘に勤仕す、天和三【癸亥】年十九才の夏納涼の為に門前に彳む時に六十六部の修行者来る、師彼に問うて云く口に弥陀の名号を唱え心に観音を念じ納る所の経典は法華経なり、若し爾らば身口意不相応に非ずや等と云云、行者忽閉口して去る【委細の問答別記の如くなり】、門番佐兵衛なる者有り当宗の信檀なり、之れを聞いて師を称歎して翌日佐兵衛同道して下谷常在寺に詣り精師の御説法聴聞し、宿善薫発し信伏渇仰して頻に出家とならんと欲す。
同年季冬自ら薙髪して常在寺に至り永師に師事す、(続家中抄・第四十八世日量上人)
十五歳の頃主君酒井忠峯の江戸屋敷に勤務する。天和三年(1683)十九歳の夏、(※門番佐兵衛(常在寺信徒)の案内によって上野下谷町の常在寺に日精上人(第十八世の法主、当時隠居して同寺に住す)を訪れ、その説法を聞いて出家を決意、主君に暇乞いをしたが許されず、同年十二月に至ってようやく願いが叶って出家する。この時すでに日精上人は遷化し、以後は日永上人(第二十四世の法主)の下で修行に励む。十五歳の頃主君酒井忠峯の江戸屋敷に勤務する。天和三年(1683)十九歳の夏、(※門番佐兵衛(常在寺信徒)の案内によって上野下谷町の常在寺に日精上人(第十八世の法主、当時隠居して同寺に住す)を訪れ、その説法を聞いて出家を決意、主君に暇乞いをしたが許されず、同年十二月に至ってようやく願いが叶って出家する。この時すでに日精上人は遷化し、以後は日永上人(第二十四世の法主)の下で修行に励む。
市之進の目にとまった六部は、所寺する経は法華経で、口に唱えるのは南無阿弥陀仏であり、心に念ずるのは観音であると語ったので、市之進が身口意が相応しないではないかと問うたところ、六部は閉口して立ち去ったといわれる。これを傍らで聞いていた門番の佐兵衛が市之進を下谷常在寺に案内し、そこで市之進は道理の正しい仏法を日精上人から聴いて感服し、出家の決意を固めたのである。(仏哲)