【異体同心事】(一四六三)
▲悪は多けれども一善にかつ事なし、譬えば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし。

【聖愚問答抄】(四九三)
▲世間出世、善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり、然れば何ぞ強ちに少きを、おろかにして多きを詮とするや、土沙は多けれども米穀は希なり木皮は充満すれども布絹は些少なり、汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ。

●人数
何ぞ多きを捨て少なきに付くと云ふ事、必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。(聖愚問答抄 401)

▲一、堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。有師談諸聞書 2−146