御法主日顕上人猊下お言葉
第4回非教師指導会の砌
昭和五十八年三月三十一日
於 大書院
宗門の古来の法≠フ立て方において、二筋の立場があるということであります。
つまり、もちろん根本は末法下種の御本仏・宗祖日蓮大聖人の御内証におわしますのであり、それを唯我与我の御境界において二祖日興上人がその仏法の本義をお承け継ぎあそばされて、さらに日目上人、日道上人と、一器の水を一器に移すかたちで今日に伝えられておるということが、宗門の古来からの信条であります。
それはそのとおりでありますが、そこに御本尊の御内証という立場と、それから代々の法主がその法を承けて色々な場合において宗門を指導・統率していくという意味からの様々の指南・指導等を行う立場と、その二筋においては一往、分けて考えなければならないと思っております。
(中略)
御本尊の書写、伝持といううえにおける歴代法主を、どのように君達が考えるかということでありますが、これが簡単なようで、なかなか混乱する場合があります。
混乱をいたしますと、過ぎたるは及ばざるが如し≠ニいう言葉があるとおり、例えば過ぎてしまうとかえって及ばないという結果が出てくるのです。
つまり、必要以上に崇めすぎると、その反動として悪い結果が出てくるというような意味もあります。
また、崇めなければならないところを軽蔑したり、あるいは軽く見たりすると、これはまたこれでいけません。
ですから、及ばないこともいけないし、過ぎたこともいけないという意味があるわけです。
(中略)
御法主は即、今の大聖人である≠ネどということを、やたらと言う人がおります。
しかし、この表現はやはり慎まなければならないと、私は以前から思っております。
それは、あくまでも御本尊の御内証に約する意味での『御本尊七箇之相承』の御文であり、唯授一人のうえの御本尊書写、またはその御相伝という意味において、これをもし他の方が言う場合に、御本尊の御内証は即、大聖人以来の唯授一人、そこに二にして不二の境界であるということならば、それは根本のところでありまするし、それでよいと思います。
歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております。
仏様という意味は、あくまで御本尊の御内証のうえにおいての、二にして不二の境地のみを申し上げていくのであって、それ以外に、例えば宗門を統率するうえにおいて色々な指導をするとか、その他色々な意味で振る舞い、行うことについて一々、仏果のところであるとか仏様のところであるとか、因に対する果であるとか、そういう難しいことをいう必要はないのです。
そのようなことを、のべつまくなしに言っていると、なんだか生き仏のようになってしまって、そこにはかえって過ぎたかたちで法が伝わるようなことになるのであります。
(中略)
私を含め、みんな凡夫なのです。
そういう立場からするならば、なにも大聖人の生まれ変わりだとか、今日における大聖人だとか、そういうふうな言い方での尊信の仕方は、尊信するようでいて、かえって逆の意味をもつ場合もありうるのです。
(中略)
要するに、日常のことや色々な指導とかにおいては、法主はあくまでも法主として考え、法主として指南があり指導がある、ということでよいのです。
それを、直ちに仏果であるとか仏様であるとかいうような証道の意味と混乱するような、あるいは読んだ人がそう取れるような表現は、むしろ慎んでもらいたいと思います。