一、日蓮宗

  一、成立の歴史

 日蓮宗では、その名のとおり、日蓮大聖人を宗祖と立てる(※ただし、日蓮宗における宗祖の尊称は、正式には「大聖人」ではなく「聖人」であり、寺院によっては「上人」や「大菩薩」あるいは「大上人」としているところもある)。

 日蓮大聖人は、御入滅を前にして、本弟子六人(六老僧)を定められたが、その中の日興上人にのみ、唯授一人の血脈相承を授けられ、日興上人を御入滅後の後継者と定められた。

 弘安五年(一二八二年)十月に大聖人が御入滅されると、日興上人は、第二祖として身延山久遠寺に住山された。

 本弟子六人のうちの他の五老僧(日昭・日朗・日向・日頂・日持)は、当初の頃は、日興上人のもとで定めた墓所輪番制(※むしょ ※ぼしょ 特定の人や家について言う場合の、墓場。※交替で大聖人の墓所を守るための制度)に従って身延にやってきたが、やがて各地の弘教を理由にして全く輪番制を守らなくなり、身延山から遠のいていった。

そして、それぞれがそれぞれの地で、「天台沙門」を名乗って布教活動を展開し、各門流を形成していったのである。

 その流れを、以下に大まかに述べる。

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▼ 日向

 日向は、大聖人の御入滅後は上総国(かずさのくに)(現在の千葉県の中央部)に赴いていたが、他の老僧が墓所輪番制を守らなくなった頃、身延に登山してきて、日興上人から身延の字頭職に任ぜられた。
しかし、大聖人の御教えを厳格に貫かれる日興上人に対して次第に反目するようになり、ついには地頭の波木井実長を唆(そそのか)して、釈尊像造立や神社参詣、念仏への布施等、四箇の諸法を犯させるに至った。
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殊(こと)に去る卯月朔日(※さくじつ 陰暦で、一日)より諸岡入道の門下に候小屋に篭居(ろうきょ)して、画工を招き寄せ、曼荼羅を書きて、同八日仏生日と号して、民部(※日向)、入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂の余り一声を挙げたる事、所従・眷属の嘲哢、口惜しとも申す計りなし、日蓮の御耻(※はじ)何事か之に過ぎんや。此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり、(日興上人 原殿御返事 正応元年十二月十六日 日興在判)
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第十一 乱行を重ねる日向
 特に去る四月一日から、日向は諸岡入道の邸内にある小家に閉じこもり、画師を招き寄せて曼荼羅を書かせ、四月八日には仏の誕生日と称して諸岡入道の室内において一日一夜の説法をして布施を出させて抱き取ったばかりか、酒を出させて興じたのである。この時、諸岡入道がその心を案じて妻子を呼び出して酌をさせたところ、酒に酔ったあまり大声を挙げるなど、諸岡入道の一族から嘲り笑われたことなど、実に情けないことこの上ない。師匠の日蓮大聖人の御恥として、これ以上のものはないではないか。
 このことは世間では隠れもなく、人々が皆、知っていることである。このことは、ただ波木井入道殿には隠し言わなかったけれども、このような事態が起こったからには、もはや、あの民部阿闍梨が大聖人の御法門を後継することなどできない事実は明らかであるから、日興が、あの民部阿闍梨日向を切り捨てたことを、原殿に知らせるために申したのである。
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 ことここに至り、日興上人は、「地頭不法ならん時は我も住むまじ」との大聖人の御遺言に従い、正応二年(一二八九年)大御本尊と大聖人の御聖骨(ごしょうこつ)をはじめとする宝物を奉持されて身延を離山し、翌年、富士の大石ケ原に総本山を創建されたのである。

 日向は、もぬけの殻となった身延山に居座り、久遠寺の住持となって、「身延門流(日向門流)」 の基礎を固めていった。(63歳没)

五代まで波木井出身
十四代日鏡 徳川家康の武運長久を祈願→徳川家の外護→絶大な権力と地位を確立 

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▼ 日昭

 次に、日昭は、鎌倉浜土(はまど)の法華寺と相模国名瀬(なせ)の妙法寺(後に越後に移転)の両寺を中心にして布教した。
この門流を「日昭門流(浜門流)」という。

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▼ 日朗

 また、日朗は、鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺に本拠を置き 池上本門寺(池上宗仲の邸跡)の住持を兼ねながら布教し、「日朗門流(比企谷門流)」を形成した。
後にこの門流は、鎌倉の衰退とともに池上本門寺を中心とするようになった。
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★ 日朗師、日興上人の御許へ

● 1310 延慶 3 聖滅後 29年  日朗富士に詣ず(聖634・4ー10)3.8 (富士年表)

 「但し日朗は大聖御入滅巳後二十九年目に日興上人ヘ御同心有って初て大聖の御影を拝し御在生の時を謂い悲歎し玉うと也、開山ヘ御対面定めて子細あるべし。」
  (五人所破抄見聞  釈日眼述ぶ)

● 1317 文保 1 聖滅後 36年  日朗再び重須に到り正御影を拝す(聖634)
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 なお、この日朗の弟子のうち、日印と日像は、後に日朗門流と袂(たもと)を分かって新しい門派を形成した。

 まず、日像であるが、京都・四条に妙顕寺を建立し、そこを本拠にしたことから、この門流は「四条門流」と呼ばれた。

 日印は、鎌倉(松葉ケ谷草庵跡)に寺院を建立したが、後に越後(新潟県)に寺院を建て、そこに移った。
その後、日印の建立した鎌倉の寺院を、弟子の日静(にちじょう)が京都・六条に移して、本国寺(後に本「囗+儿+方」(こく)寺と改称)と改め、この門流は「六条門流」と呼ばれるようになった。

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 次に、五老僧のうちの日頂であるが、日頂は、下総(しもうさ)(千葉県の北部)の富木常忍の養子であったことから、下総に住して布教にあたっていた。
大聖人滅後は、墓所輪番制も守らず、富木常忍からも勘当されたが、晩年は、富士重須に赴いて日興上人に帰伏し、そこで一生を終えている。

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乾元元年(1302)日頂、下総真間弘法寺を日揚に付し、重須に来たり日興に帰依す。
 ※日頂は六老僧の一人、永仁元年(1293)養父常忍と対立し、乾元元年(1302)故郷である駿河の日興のもとに赴き、重須本門寺に入る。墓所は本門寺の近くの正林寺にある。

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富木常忍

 この日頂の義父にあたる富木常忍は、大聖人より日常の法号を賜わり、文応元年(一二六〇年)には自邸に造立した法華堂を大聖人に寄進、この法華堂が、富木常忍の死後、中山法華経寺となった。
この門流を「中山門流」という。

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日持

 五老僧のうちの残る一人、日持は、松野(静岡県富士川町)に蓮永寺を建立するも、大聖人の十三回忌の後、海外布教を志して大陸に渡り、最期の消息は不明である。

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 以上に述べてきたように、六老僧の各門流は、それぞれ独自の体制を歩み、その後、中世にも分派を重ねるようになる。

 ところが、近世になって、江戸幕府が仏教界の組織化をはかり、寺院本末帳が作成される段階で、日蓮系教団は、「法華経の本門と迹門に勝劣はない」 とする一致派″と、「勝劣がある」とする勝劣派″の二つに大別され、前に挙げた「身延門流」「日昭門流」「日朗門流」「四条門流」「六条門流」「中山門流」等の各門流は、一致派として、身延山を中心に組織化され、幕府の統制を受けることになった。

 その後、明治政府は、宗教政策により、一致派と勝劣派を総称して日蓮宗と名乗らせ、管長を各派交代制として合同させようとしたが、このような合同には大きな無理があり、わずか二年後の明治七年には、再び各派独立の方向へと軌道修正せざるをえなくなった。

 この折り、日蓮宗一致派は、身延山久遠寺を総本山とし、池上本門寺・中山法華経寺・京都本?寺・京都妙顕寺を大本山として統合し、宗派名から「一致派」を削って「日蓮宗」と公称することを、政府に申請して、明治九年に許可された。

 その後、昭和十六年にも軍部の方針による大合同があり、この時、本来は日興上人の末流であったはずの北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、京都要法寺なども、日蓮宗に統合され、現在に至っている。

 こうして、江戸時代以来、都合三度に及ぶ合同で身を大きくした日蓮宗は、現在、寺院数が四千六百数十ケ寺、信者は約二百七十八万人と公称され、他の勝劣派の門流が細々と命脈をつないでいるのに比して、文字通り烏合の衆のごとき大勢力となっている。

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  二、教義と本尊

 日蓮宗においては、

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三宝を

 仏 − 久遠実成の釈迦牟尼仏
 法 − 南無妙法蓮華経
 僧 − 日蓮大菩薩

と立てている。

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 本尊としては、

一、首題本尊(題目のみを認めたもの)
二、釈迦一尊(釈尊の一体像)
三、漫荼羅本尊
四、一尊四師(釈尊像の脇に、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩像を配したもの)
五、両尊四師(釈尊像と多宝如来像を並べ、その脇に四菩薩像を配したもの)
六、一塔二尊四師
背面 十界漫荼羅 前面 一塔二尊四師 前面 日蓮像

などなど。

一尊四師の依文としては、『観心本尊抄』の

■ 「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書六五四)


■ 「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書六六一)

の文(ただし、後の文については「地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為り」と読んで、中央に釈尊像、そして左右に脇士として地涌の四菩薩像を配する根拠とする)

あるいは『報恩抄』の

■ 「其の形貌(ぎょうみょう)如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六)
の文を挙げる。

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 また、日蓮宗の教義的特徴は、本迹一致を立てるところにある。
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天台の玄義第七にある「本迹殊(こと)なりと雖(いえど)も不思議一なり」
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 すなわち、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と、後半十四品の本門は、緊密な相関関係があるのであるから、二分して後半のみを重視することば不当であり、本迹に勝劣はない、とする説である。

 この本迹一致説は、日興上人以外の五老僧が、一様に「天台沙門(天台の弟子)」を名乗り、迹面本裏で法華経を弘通した天台大師を師と仰いだところから生じたものである。

 それ故、日朗の著『本迹見聞』には、「迹門は体、本門ほ用」「(一念三千の法門は)寿量品に顕(あら)わならず、方便品に寿量の実相を説く」等と述べ、法華経の本門と迹門は本来は一体である、との 本迹未分″を立てている。

 また、日向の門流である身延山久遠寺の第十一代・行学院日朝も、「本迹未分の法体、妙法蓮華経」 「実相の極理は本迹一体なり」等と、本迹一致を強調しているのである。

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  三、破 折

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唯授一人・血脈相承に違背するが故に完全な異流儀

二箇相承

1675A
    日蓮一期弘法付嘱書    弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。
時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日                日蓮花押    
                    血脈の次第 日蓮日興     

1675B
    身延山付嘱書    弘安五年一〇月一三日  六一歳
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。
背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
  弘安五年壬午十月十三日           武州 池上       
                            日蓮花押   
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池上本門蔵 「身延山久遠寺番帳事」 明らかな偽書 → 貫主を輪番制で担う、など完全な妄説。

唯授一人・血脈相承を受けられた日興上人に背いた時点で他五老僧系は、全て邪教となった。

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    日蓮大菩薩と立てる誤り

 まず、日蓮宗の根本的な誤りは、日蓮大聖人を単なる釈尊の使いの大菩薩くらいに捉え、久遠実成の釈尊をもって本仏と立てるところにある。

 たしかに、大聖人は、御自らが釈尊の使い・地涌上行菩薩であることを指し示しておられるし、御化導の前段階では、権実相対の上から久遠実成の釈尊を顕彰しておられる。

 しかし、大聖人は、御自身が末法の大導師たることを経文上から証明すべく、一往は、付嘱を受けたる上行菩薩の振る舞いをなさったが、再往その本地は、久遠元初の御本仏であらせられ、末法の衆生を救済されるために再誕された末法の教主なのである。

 それ故、日蓮大聖人は、御自身を指して
  
■「主師親の釈尊」 (御書一三六四郎−)
■「日蓮は日本国の諸人に主師(しゅうし)父母なり」(五七七)
■「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭(こうべ)を打ち、(御真蹟 下山御消息 建治三年六月 五六歳 1159)」(一一五九)

■ 天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国(ふそうこく)をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相(ずいそう)なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝(まさ)れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵(ごうてき)充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。(諌暁八幡抄 御真蹟 弘安三年一二月 五九歳 1543)

と仰せられている。

また、
■「仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし」(一五四三)(諫暁八幡抄 大石寺蔵・身延曾存)

と仰せられて、釈尊は末法衆生を救う大導師たりえなことを示され、御自身こそが

■ 「五五百年の大導師にて御坐候聖人」(一一三一)であると仰せられている。

釈尊の力の及ばざる濁悪世を救済できる御方は、当然、釈尊よりも勝れる大功力を持たれているはずで、したがって末法の大導師たる日蓮大聖人は、本当は釈尊の弟子や使いなどではなく、むしろ釈尊の主師親にあたる、真の御本仏であられることが明らかである。

 しかるに、日興上人以外の五老僧らは、この深義を拝することができず、大聖人が権実相対の上から示された御金言や、御謙譲の立場から仰せられたお言葉を、表面的に浅く捉えて、久遠実成の釈尊を本仏と仰ぎ、御本仏である日蓮大聖人を「仏の使い」「大菩薩」と下して憚(はばか)らなかった。

 今日の日蓮宗も、それを受け継いでいるわけだが、そのような本末顛到の誤りを犯しているかぎり、いかに大聖人を宗祖として仰ごうとも、

■ 「かかる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(御書一〇六六)

と戒められているように、その大謗法は、国や家を滅ぼし、また、個人を頭破七分せしめて堕地獄の果報をもたらすのである。

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    釈尊像を本尊とする誤り

 次に、本尊についてであるが、現在の日蓮宗では、首題本尊と漫荼羅本尊を法本尊″と称し、釈尊像(釈迦一尊・一尊四師・両尊四師)を仏本尊″と称して、寺ごとに、あるいは堂ごとに、さまざまな本尊を並べている。

 このように、宗旨の根本となる本尊が確かに定まらないというのは、不相伝家だからであり、まさに、大聖人が

■ 「諸宗は本尊にまどえり」(五五四)

と喝被された姿に陥っているのである。

 まず、釈尊像を本尊として祀ることについてだが、大聖人は

■ 「法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」(御書一二七四)

と仰せられて、法華経の教主釈尊を本尊とすることは法華経の正意ではない、と示されている。

 したがって、釈尊一尊だろうが、一尊四師あるいは両尊四師だろうが、釈尊像を本尊とすることは大聖人の仰せに背くものである。

 では、日蓮宗が本尊の依文としている『観心本尊抄』『報恩抄』の御文(前掲)は、どのように拝するべきか。
 まず、『観心本尊抄』 の

■「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書六五四)

の文であるが、ここにいう「此の仏像」とは釈尊像のことではない。

 なぜならば、『親心本尊抄』には、この後、九カ所に
「出視」の語が用いられているが、それらはいずれも、南岳・天台等、現実の歴史上に生身の法師が「出現」することを述べられたものである。

 また、もし「此の仏像」が釈尊像であるなら、何故、

■「末法に来入して姶めて出現」

といわれ、前代未聞であると示されたのか。
釈尊像なら、それまでにも、造られ画かれているではないか。

 要するに、「此の仏像」とは、木絵に表わされた釈尊の像ではなく、末法に初めて出生される生身の寿量の「仏」を指しているのであり、その「寿量の仏」とは、御自らを

■ 「主師親の釈尊」(御書三六四)

とも仰せられている日蓮大聖人の御事であるのは、いうまでもない。

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次に『観心本尊抄』 の

■「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書六六一)

の文であるが、読み方が分かれる
■「地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す」の箇所は原文(漢文)では

■「地涌千界出現釈尊為脇士」
である。

日蓮宗では、これを

▼「地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為り」

と読むのだが、それなら、同じ『本尊抄』の上の文に、

■「小乗釈尊迦菓阿難為脇士」

■「法華経迹門等釈尊以文殊普覧等為脇士」

等とあるのは何と読むのか。

 これらについては日蓮宗も、争いなく、

●「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」
●「法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す」

と読むのであるから、当該箇所も同一の読み方で、

●「地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す」

と読まねばならない。
これが漢文の常識である。

 こうして、正しい読み方を明らかにしてみれば、この御文は、一尊四師の依文などではない。
本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊−すなわち、大聖人御建立の漫荼羅御本尊の相貌を指し示されているのである。

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 さて次に『報恩抄』の

■「其の形貌(ぎょうみょう)如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六)

の文だが、これとて、釈尊像を本尊とせよとの御教示ではない。
可故ならば、その御文の次下には、

■「所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外(そのほか)の諸仏並びに上行の四菩薩脇士となるべし」(同)

と続いており、法華経本門の教主釈尊は、すでに多宝如来や上行等の四菩薩と共に「脇士」となっているからである。

 したがって、もし「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の御文を字面だけ読んで釈尊像を本尊とせよ、と解釈するなら、本門の釈尊は本主と脇士を同時に二役する、という大矛盾を生ずることになって、そのような仏像の並べ方は不可能となる。

 では、正しい拝し方は如何、といえば、これも漫荼羅御本尊の相貌を明かされた御文なのである。

 すなわち、「本門の教主釈尊」は中央首題の「南無妙法蓮華経 日蓮」を指し示し、以下「所謂宝塔の内の釈迦・多宝…」は首題の左右の十界を示されている。
これ以外、理に適った拝し方はできないし、また事実、この御文に示された「其の形貌」に合致する本尊式は、漫荼羅御本尊以外に、存在しないのである。

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 さらに、もう一つ、大聖人が伊豆流罪の際に、地頭の伊東八郎左衛門より海から拾い上げた釈迦立像仏を献上され、以後それを随身ざれていた。
そのことも、日蓮宗では釈尊像を本尊とする根拠にするが、大聖人は、御入滅に際しその立像仏をして

■ 「墓所の傍らに立て置くべし」(『御遷化記録』西山本門寺蔵)

と御遺言されている。
もし、釈尊像が帰命依止の対象たる本尊なら、「墓所の傍らに立て置け」などと仰せられるはずがないでほないか。

 また、大聖人の御入滅に際しての御振舞いを、六老の記録を引いて、身延の第十一代・行学院日朝が『元祖化導記』 の中に次のように書いている。

 「十月十二酉刻、北に向いて座したまへり。
御前に机を立て花を供(く)し香を焼(た)き、年来御安置の立像の釈迦仏を立て参らせんと申しければ、目を挙げて御覧あって面(おもて)を振りたまふ。
ある御弟子、御自筆の大漫荼羅を懸け奉るべきやと伺い申されければ、最もと答えさせたまふ間、仏像を少し傍らへ押し寄せ参らせて、其の後、御直筆の
妙法蓮華経の漫荼羅を懸けたまふ」

 すなわち、釈尊の立像仏を、面を振って退けられ、漫荼羅本尊を御掛けして入滅を迎えられた、というのである。

 もし、釈尊像が本尊とすべきものなら、どうしてかかることがあろうか。
 この身延門流の書からいっても、釈尊像を本尊とするのが御正意でないことは明らかである。

 以上のように、釈尊像を本尊とする日蓮宗の立場は、大聖人の御意に背反しているのである。

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    首 題 本 尊 は 大 浅 識

 次に、日蓮宗では、『本尊問答抄』の冒頭に

■ 「末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書一二七四)

とある御文を依り処に、「首題本尊」といって、題目だけを書いた本尊も立てている。

 だが、ここで「法華経の題目をもって本尊とすべし」と言われているのは、中央首題の題目をもって漫荼羅御本尊の名にあてられているのである。

 すなわち同抄の末尾には、「法華経の題目をもって本尊と」する、その御本尊とは、同抄の対告衆に授与された大聖人御筆の漫荼羅御本尊であることを示して、
■ 「御本尊を書きをくりまいらせ候に、他事をすてゝ此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給ひ候へ」(一二八三)
と仰せられている。
また、実際に大聖人が書き顕わされた御本尊は、題目だけではなく、十界互具の相貌の漫荼羅御本尊なのである。

 したがって、首題本尊などというのは、御文を字面でしか読めない浅識謗法といわねばならない。

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漫荼羅も不相伝・法盗人

 なおまた、日蓮宗においても、十界互具の漫荼羅を本尊のなかに含めてはいる。

 しかしながら、彼ら日蓮宗には相伝なきが故に、ごの漫荼羅についても大きな誤りを犯しているのである。

 すなわち、前に述べたように、日興上人以外の五老僧は、大聖人を御本仏と拝することができなかった。
それ故に、漫荼羅御本尊を御本仏日蓮大聖人の当体と捉えることもできなかったのである。

 また、.彼らの意識においては、所詮、大聖人は自分達と同じ法華経の行者の兄貴分、くらいに思っていたから、法華経を弘め題目を唱えている自分も大聖人に列なり、漫荼羅を書くことができる、と考えた。

 かくして、五老僧(及びその門流)は、相伝もないまま漫荼羅を書き、中央首題の「南無妙法蓮華経」の直下に、大聖人ではなく自分の名を大書するーーなどの行為に及んだのであった。

 これは、彼ら五老僧が、

■「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書六八五)

■「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三)

■「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(御書一七六五)

等と示された、日蓮大聖人即漫荼羅御本尊という、人法一箇の深義を全く弁えていない証拠である。

 こうした五老僧の似非漫荼羅に対し、血脈付法の日興上人ただ御一人が、漫荼羅御本尊を御本仏日蓮大聖人の御当体と拝し、中央首題の直下に「日蓮在御判」と認められたのである。

 以上のことから、五老門流の日蓮宗で立てる漫荼羅本尊は、大聖人の御本意とは大きくかけ離れており、また、いかに近年になって相貌を真似たとしても、法盗人の謗りは免れないといえよう。

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 もう一点、日蓮宗の本尊について言えば、日蓮宗では、信仰の根本(三大秘法の中心)を題目に置いていることからであろう、本尊についてほ極めていいかげんで、なぜか一つの寺に、釈迦像・漫荼羅のほかに、鬼子母神や帝釈天等が祀られていたり、身延の売店には、ベニヤ製の板漫荼羅が三千円、紙幅の漫荼羅が二千円で売られていたりする。

 まさに、大聖人が、

■ 「諸宗は本尊にまどえり」 (御書五五四)

と指摘きれたとおりの姿を体現しているのである。

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    本迹一致は宗祖に違背

 次に本迹一致について破折する。

 日蓮大聖人は、

■「本迹の相違は水火・天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり」(御者一二三六)


■「本門と迹門とは教主すでに久始のかわりめ、百歳のおきな(翁)と一歳の幼子(おさなご)のごとし。弟子又水火なり。土(ど)の先後いうばかりなし。而るを本迹を混合すれば水火を弁へざる者なり」(同)

等々と仰せられ、本門と迹門には、天と地、水と火ほどの大きな差異があり、それを本迹一致というのは、水と火の違いがわからないような愚か者である、と喝破されている。
 大聖人が「本迹を混同すれば水火を弁へぎる者なり」
とまで言われているのに、それでも本迹一致論から離れられないでいる日蓮宗は、それだけでも、宗名に大聖人の御名を使う資格などないのである。

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    本物に似せた最悪の邪教

 以上、日蓮宗は、身延が大聖人の住まわれた地であることをもって、本流であるかのように言うが、今の身延には、大聖人の御法魂などカケラも残ってはいない。
それどころか、大聖人が唱え出だされた南無妙法蓮華経を旗印にして、まったくの偽物を作りだしてしまったのである。

 不幸の根本原因が邪宗謗法にあることは、大聖人が生涯を通じて御教えくださったことであるが、日蓮宗は、大聖人の真実の仏法に似せてあるだけ、とくに罪が重く、そういう意味で最悪の邪宗教の一つといえよう。

 現実に、代々熱心に日蓮宗を続けてきた家には、
▼ 不慮の災難で、死ななくてよいところで命を落としたり、
▼ 業病に罹り、苦しみぬいて臨終を迎えるといった、悲惨な末路となる例が多い。
また、成立の歴史が反映するのか、
▼ 一家離散の状態になるケースも多く、
▼ 性格的には、非常に頑固・頑迷であったり、
▼ 前と後で言うことが正反対であったり、といった事例も、日蓮宗の家に生まれた人に多く見られる。
▼ さらには、喘息になる人が多いのも、日蓮宗の家系に見られる特徴である。

 先祖代々の宗旨が日蓮宗であるという人は、こうした現実を直視し、一日も早く日蓮宗を捨てて、日蓮大聖人の正統門流に帰伏せられるべきである。