● 文証
● 天台は「若し深く所以(ゆえん)有りて、復修多羅(しゅたら)と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」と判じ給へり。又云はく「文証無きは悉(ことごと)く是邪謂(じゃい)なり」とも云へり。いかゞ心得べきや。(持妙法華問答抄 弘長三年 四二歳 294)
■ 若し証拠なくんば誰の人か信ずべきや。かゝる僻事(ひがごと)をのみ構へ申す間、邪教とは申すなり。(祈祷抄 文永九年 五一歳 634)
▲ 或は小(すこ)し自義に違(たが)ふ文有れば理を曲げて会通(えつう)を構(かま)へ、以て自身の義に叶はしむ。(127)
▲ 是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん。乃至前を抄(と)りて後に著(つ)け、後を抄(と)りて前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし、是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり。(守護国家論 125)
▲ 文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。(法華真言勝劣事 307)
▲ 証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332)
▲ 外道と申すは先仏の経々を見てよみそこ(読損)なひて候ひしより事を(起)これり。876
● 覚鑁(かくばん)の法華は真言の履取(はきものと)りに及ばずと舎利講(しゃりこう)の式に書かれたるは舌に任せたる言(ことば)なり。証拠無き故に専(もっぱ)ら謗法なるべし。(真言天台勝劣事 文永七年 四九歳 447)
● 「年来の本尊・弥陀・観音等の像を火に入れ水に流す」等云云。此の事慥(たし)かなる証人を指し出だして申すべし。若し証拠無くんば良観上人等自ら本尊を取り出だして火に入れ水に流し、科(とが)を日蓮に負はせんと欲するか。(行敏訴状御会通 文永八年七月 五〇歳 474)
● 諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明(ふんみょう)に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専(もっぱ)ら経文を詮とせん。(破良観等御書 建治二年 五五歳 1078)
▲ 邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108