謗法(←大聖人様出世の御本懐・本門戒壇の大御本尊とその御内証を相伝・伝持される富士大石寺の御歴代上人を信じない輩)の寺域に蔵される大聖人御真筆御本尊は、現時では正真の御本尊足りえないこと。

【理由】

1、■「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)

とあるがごとく、大聖人の御晩年には「謗法の地には御自分の御魂はお住まいにならない。」と弟子方に仰せでしたから、謗法にまみれた他宗他門に蔵される御真筆御本尊には、そもそも、大聖人の御魂はいらっしゃらないのですね。
その御魂が抜けられた御本尊は現時においては尊信の対象ではありません。


2、■仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事    弘安二年一〇月一日  五八歳)

と仰せの如く、戒壇の大御本尊こそが大聖人様御出世の本懐であらせられるのですから、戒壇の大御本尊以外の御本尊は大聖人一期の御施化の中で、一機一縁の御本尊であり、直接我々一切衆生を救済される御本尊ではなく、方便・未究竟であるといましょう。
ですから、そのような御本尊は大聖人様がお住まいの大石寺に返還され、大聖人様即本門戒壇の大御本尊の御内証を伝持される御法主上人が感得なされて、はじめて正真の御本尊となり得るのであります。

であるから、このような謗法の寺々が所蔵する大聖人御真筆御本尊を撮影し、

@ 曼荼羅本尊として表装したもの、
A ネット上にUPしてあるものを印刷したもの、
B などなど、それに類するもの、

も同様に、正真の本尊足り得ない。