■1507B
上野殿母尼御前御返事 弘安三年一〇月二四日 五九歳
南条故七郎五郎殿の四十九日御菩提(ぼだい)のために送り給ふ物の日記の事、鵞目(がもく)両ゆひ(結)・白米一駄(いちだ)・芋一駄・すりだうふ(摺豆腐)・こんにゃく・柿一篭(ひとこ)・ゆ(柚)五十等云云。御菩提の御ために法華経一部・自我偈(じがげ)数度・題目百千返唱へ奉り候ひ畢(おわ)んぬ。
■ かゝるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給ひて、今日は四十九日にならせ給へば、一切の諸仏霊山(りょうぜん)浄土に集まらせ給ひて、或は手にすへ、或は頂をなで、或はいだき、或は悦び、月の始めて出でたるが如く、花の始めてさけるが如く、いかに愛しまいらせ給ふらん。
■ 法蓮抄 建治元年四月 五四歳
彼の諷誦(ふじゅ)に云はく「慈父閉眼の朝(あした)より第十三年の忌辰(きしん)に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」(816)
(中略)
今の施主十三年の間、毎朝読誦せらるヽ自我偈(じがげ)の功徳は唯仏与仏乃能究尽なるべし。(818)
■ 其の上御消息に云はく、尼が父の十三年は来たる八月十一日。又云はく、ぜに一貫もん等云云。あまりの御心ざしの切に候へば、ありえて御はしますに随ひて法華経十巻をく(送)りまいらせ候。(千日尼御前御返事 弘安元年七月二八日 五七歳 1253)
■1503
刑部左衛門尉女房御返事 弘安三年一〇月二一日 五九歳
今月飛来の雁書(がんしょ)に云はく、此の十月三日、母にて候もの十三年に相当たれり。銭二十貫文等云云。
夫(それ)外典三千余巻には忠孝の二字を骨とし、内典五千余巻には孝養を眼とせり。(1503)
■父母は常に子を念(おも)へども、子は父母を念はず等云云。(中略)設(たと)ひ又今生には父母に孝養をいたす様なれども、後生のゆくへまで問ふ人はなし。母の生きてをはせしには、心には思はねども一月に一度、一年に一度は問ひしかども、死し給ひてより後は初七日より二七日乃至第三年までは人目の事なれば形の如く問ひ訪(とぶら)ひ候へども、十三年・四千余日が間の程はかきた(絶)え問ふ人はなし。生きてをはせし時は一日片時のわかれをば千万日とこそ思はれしかども、十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし。如何にき(聞)かまほしくましますらん。
(刑部左衛門尉女房御返事 弘安三年一〇月二一日 五九歳 1504)
■又在家の人々も、我が父母、地獄・餓鬼・畜生におちて苦患(くげん)をう(受)くるをばとぶ(弔)らはずして、我は衣服・飲食(おんじき)にあ(飽)きみ(満)ち、牛馬眷属充満して我が心に任せてたのしむ人をば、いかに父母のうらやましく恨み給ふらん。
僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。定めて天の日月・地の地神いかりいきど(憤)をり給ひて、不孝の者とおもはせ給ふらん。形は人にして畜生のごとし、人頭鹿(にんずろく)とも申すべきなり。(四条金吾殿御書 文永八年七月一二日 五〇歳 470)
■譬へば若き夫妻等が夫は女を愛し、女は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへ(行方)をし(知)らず。父母は衣薄(うす)けれども我はねや(閨)熱し。父母は食せざれども我は腹に飽(あ)きぬ。(一谷入道女房御書 建治元年五月八日 五四歳828)
■ いかにもいかにも追善供養を心のをよ(及)ぶほどはげみ給ふべし。(上野殿後家尼御返事 文永二年七月一一日 四四歳 338)
■ 何(いか)なる御志にてこれまで御使ひをつかはし、御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる事、両三日はうつゝともおぼへず。(四条金吾殿御返事 文永九年 五一歳 619)
■ 百箇日 平等王
「今頼む方とては娑婆の追善計(ばかり)也。相構へて相構て追善を營み、亡者の重苦を助くべし」「十王讃歎鈔」(※一応現時では真偽未決・日達上人は真書と仰せ)
■ 去ぬる文永十一年五月十二日相州鎌倉を出で、六月十七日より此の深山に居住して門(かど)一町を出でず、既に五箇年をへたり。本は房州の者にて候ひしが、地頭東条左衛門尉景信(かげのぶ)と申せしもの、極楽寺殿、藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて、度々の問註ありて結句は合戦起こりて候上、極楽寺殿の御方人(かたうど)理をまげられしかば、東条の郡ふせ(塞)がれて入る事なし。父母の墓を見ずして数年なり。