優気氏へ 16 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月13日(火)19時15分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
> ▼樋田昌志さん言 > >『■草木成仏とは非情の成仏なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳) > > 草木成仏とはつまり、非情が成仏することである。 > しかし、ここで注意を要するのは、【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。”ということです。 > そこでここをまとめると、 > 【2】草木成仏は開眼供養に依って為されるが、それは非情の成仏ということである。非情が”仏と成る”ということである。』 > ――――――――――――――――――――――――― > ★優気言 > 「しかし、ここで注意を要するのは、【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。”ということです。」 > > これは、貴方の説ですか。「開眼供養」と言う儀式的なことでは無く、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」と仰せのように「魂入魂により」、非情の草木が”仏と成る”つまり、御本尊様となると言うことです。御本尊御図顕により、すでに、「魂入魂」は、されているのであります。よって、(後からの)御本尊様の「開眼」は必要ありません。 > ――――――――――――――――――――――――― ↑それはおかしいですね。 大聖人様御真筆御本尊なら、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」との御文の意義から、優気さんの言われることもある意味理解できますが、 今、法華講でも、創価学会も、顕正会でも、正信会・・・でも、大聖人御真筆御本尊を日常的に自宅で拝して修行している人はまず居ません。 つまり、それぞれ、大聖人以外の方のお手になる御曼荼羅を御安置して修行しているわけです。 ですから、大聖人が仰せになるような、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」との意義は直接にはありません。 もし、大聖人のお手にならない御本尊に「魂入魂」の意義がある!と強弁するとしたら、それはただ「相貌とか座配が似ている」ということだけでしょう。 そうであるならば、誰でも、大聖人御真筆御本尊に似せて書き写せばそのまま、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」ということになってしまうので、それは全くの痴論ですね。→ http://toyoda.tv/syosya.htm また、身延系日蓮宗などでは、大聖人御真筆御本尊を写真撮影して印刷して”御本尊”としているところもありますが、これなども「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」となって、正統な御本尊なのですか?→ http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/105.html これは、大いに矛盾しているところなので、再度、もう少し論理的に、文証を引いて御説明願います。 |
優気氏へ 17 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月13日(火)19時26分48秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
> ▼樋田昌志さん言 > >『此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。』 > ――――――――――――――――――――――――― > ★優気言 > と仰せのように、「開眼」云々ではなく、大御本尊様にはすでに、「魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)」は、すでにはいっているのであって、特別に「開眼」する必要はない。その、意義を留める御本尊様、勿論、日寛上人の御書写の御形木御本尊様においても、同じ事が言えます。 ――――――――――――――――――――――――― ↑前段同様ですね。 「日寛上人の御書写の御形木御本尊様において」 大聖人様が直接お書きになったわけではないのに、どうして、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」と断言できるのですか? 大聖人様と日寛上人は別人ですよね? 「日蓮(大聖人様)が魂」 を大聖人と全く別人の日寛上人が、大聖人滅後450年ほど後に、どうやって、「墨に染め流して書く」=魂入魂することができるのですか? 優気さんが重視する”普遍妥当性”を以って、万人が理解できるように説明してください。 よろしくお願いします。 |