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Q麿の恥言を摧破する。2


001の後に、道郷問題に関連する痴言があるが、それは後にゆっくり切り刻むとして、今回、001からの流れに沿って以下の恥言を摧破しておこう。

善Q麿は▼「在家同士では法論は出来ない。お師匠に許されてない。」などと戯れ言を言っていたにもかかわらず、やはり当方の論証に焦りだしたのであろう、以下のような「法義」に関連した内容を書き込んできた。

▼ 善Q麿 20111008 07:27

この31世・日因ってのがまた偽装に余念のなかった法主ですわなあ。
『家中抄零編』においても日精の書いた文字を勝手に修正しちゃって、房州とか妙本寺とか勝手に消して 当山 って書いたの日因でしょう!日亨さんがちゃんと言っているじゃないですか。(研教六・362頁)

そしてここでも、トンデモ偽装に加担している。
というか樋田さんがそうこじつけているだけでしょうww
要するに、日顕が筆跡鑑定した通り、主題の文字と他の文字があまりに違うもんだから、「主題勧請」と言わざるをなかったわけで、それをまたああでもないこうでもないとこじつけなくていいんですよ!主題は直筆本尊(日禅授与本尊)から迎えた、でいいでしょうに。

>中央御首題の「南無妙法蓮華経」がどの御本尊とどう似ていようが 

って、さすがにお師匠さま・日顕の鑑定ってものを相当に気にしてるようですねえ!(大笑)そりゃそうでしょう、目は確かですもの、鑑定士・日顕さんねww

大体この日因って、弘安二年十月十三日(!!)って間違えた人でしょう!笑
お好きな偽装もまたテキトーな法主でしたねwww   (引用以上


このネタ元は001と同じ、金原の『日蓮と本尊伝承』からのそっくりパクリである。

やはり、善Q麿などのレベルは、こういった邪難者の痴論をネットで漁ってそれをそのまま何の検証もせずに真に受けて「戒壇本尊はニセモノだぁ〜〜!」と喚いているに過ぎないのである。

  金原君の主張とその破折

(今回も、大日蓮・第748号(平成20年6月号36〜43頁・長谷川信達師の論文を元に借文させていただき、当方の考察を加味して編集させていただいた。
よって、所によっては信達師の考察と異なるところもある)

  正本こそが御真意(←これ世の常識)

金原君は

▼「『日興跡条々事』が記す弘安二年に宗祖より日興が給わった御本尊とは如何なる御本尊であろうか(中略)これが保田妙本寺に伝来する通称、万年救護本尊ではないか」(日蓮と本尊伝承一五二頁)

と、御本尊こそ保田妙本寺蔵・文永十一年御図顕の通称「万年救護本尊」であると結論づけている。
この自らの描くシナリオを完成させるために悪用しているのが、次に挙げる日精上人の『富士門家中見聞稿本零編』(以下、『家中抄零編』と言う)である。

   カ テ ニ  ル   ト        板              当山一
「日興 宛 身 所給 等 者是万年救護御本尊事也、今在 房州妙本寺
                                     二
   ト   マシマス             ト マシマス
御堂 者  有 板御本尊 故也、墓所 者 有  大聖之御骨 故也」
       二    一         二      一

                                          (研教六−三六一頁)


日興が身に宛て給わる所等とは、是、万年救護(→板)御本尊の事也 今房州妙本寺(→当山)に在る也
御堂とは、板御本尊有す故なり。墓所とは大聖の御骨有す故なり。

 金原君は、右の記述に目をつけ、あたかも日精上人御自身が「弘安二年大御本尊」を「戒壇の大御本尊」ではなく、「万年救護本尊」と認識されていたかのように述べるのである。
この『家中抄零編』とは、『富士門家中見聞』(『家中抄』)の草稿本のことで、日亨上人が、

■「四囲の加註に捨つべからざる珠玉あり」(研教六−三四三頁)

と仰せのように、このなかには『家中抄』正本に記載されていない貴重な御指南が散見されるのは事実である。
しかしながら、これらの内容を拝する上で留意しなくてはならないのは、先と同様、いずれも真意は正本にあるということである。
この前提に背き、草案である『家中抄零編』の記述をもって正本の記述内容を打ち消すことは、日精上人の意を真に酌むことにはならない。
世間一般の通例から言っても、草稿はあくまで下書きであって、最終的な結論・真意は「正本」にあるのは常識中の常識である。
 ここで、右の記述に関する『家中抄』正本の当該箇所を挙げておこう。

■「日興が身に宛て給はる所等とは是れ板御本尊の事なり、今に当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有(ましま)す故なり」(歴全二−一九五頁)

 日精上人は最終的に『日興跡条々事』中の「弘安二年大御本尊」を「板御本尊」、すなわち戒壇の大御本尊であると明確に御指南されているのである。
 したがって、『家中抄零編』においても、当該箇所に続く記述に、「日興跡条々事』の「御堂」の語について、

■「御堂とは板御本尊有す故なり」(研教六−三六一頁)

と、「御堂」には「万年救護本尊」ではなく、「板御本尊」すなわち戒壇の大御本尊が御安置される旨が示されているのである。
つまり、日精上人は「御堂=本堂には板曼荼羅=戒壇の大御本尊が御安置されていた。」との御認識である。
仏教伽藍においては、本堂が中心を為すことは基本常識である。

であるから、草稿『家中抄零編』を執筆時に於いても、

中心=戒壇の大御本尊
傍事=万年救護本尊

との、順列との御認識で御記述されたことは、文に顕然である。

では、何故、万年救護本尊の記述をされたのか、以下に推考する。


 「万年救護本尊」の記述に関する真意拝考

 ここで、日精上人が草案とはいえ、なぜ

   カ テ ニ  ル   ト        板              当山一
「日興 宛 身 所給 等 者是万年救護御本尊事也、今在 房州妙本寺
                                     二

「日興が身に宛て給わる所 等とは、是れ万年救護御本尊の事也、今、房州妙本寺に在る也」との記述を示されたのであろうか。
たいへん恐れ多いが、その御真意について拝察する。

  本門戒壇の大御本尊が基軸

 日精上人が『家中抄』に、

■「弘安二年に三大秘法口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与したまふ万年救護の本尊と云ふは是なり」(歴全二−一四五頁)

と仰せのように、古来、大石寺には"万年救護本尊が弘安二年に日興上人に授与された"との伝承があり、『富士年表』にもそのように記されている。
ただし、日精上人が『家中抄』の草案執筆時とはいえ、『日興跡条々事』における「弘安二年大御本尊」を戒壇の大御本尊と切り離して、万年救護本尊と記されたのではないことは、上記に示したごとくである。

その傍証として、第十七世日精上人より以前の第十四世日主上人は『日興跡条々事示書』のなかで、御相承の形態について触れられ、

■「富士四ヶ寺の中に三ヶ寺は遺状を以て相承なされ候。是は惣付嘱分なり。大石寺は御本尊を以て遺状なされ候、是れ則ち別付嘱唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊法体御付嘱」(歴全一−四五九頁)

と記されているのである。

 すなわち、他の富士諸山では「遺状」をもって相承とするのに対し、大石寺では大聖人から日興上人へ授与された戒壇の大御本尊、日興上人から日目上人へ授与された譲座御本尊の授受が唯授一人血脈相承の本旨であることを御教示あそばされている。
この日主上人の『日興跡条々事示書』はその名称からも解るように、『日興跡条々事』の意義の上からお示しになられたものである。
当書に明らかな如く、大石寺では古来、『日興跡条々事』における「弘安二年大御本尊」は「戒壇の大御本尊」であり、かかる伝承は、血脈を受けられた御法主上人としては至極当然の御認識であったと拝察される。
十七世日精上人の少し前の十四世日主上人。
しかも日精上人が17才の時に寂された、いわば同時代を過ごされた時期もあられる日主上人の御指南を、日精上人が拝しておられない、御存知でない。などとは考えられない。

 その上から、『家中抄零編』における記述を拝するとき、考えられることは、
日精上人は、「戒壇の大御本尊」の御相承は血脈相承における最大事であることが当然至極であることを大前提とした上で、「遺状」である『日興跡条々事』に示された「弘安二年大御本尊」との記述が、同年に日興上人へ授与されたとの伝承を持つ「万年救護本尊」もこれに該当するとする傍説を、一時的に示そうとされたのであろうということである。
それは、以下の跋文のごとく、家中抄は伝承されてきた上代からの御伝記の取るべき全てを掲載される。という御著述意図があられることにも由来するであろう。

■ 今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす、(家中抄・跋文)

 しかし、また、後々推敲を重ねる過程で、この箇所が誤解を生じる危倶を勘案し、種々考慮され、正本では明確に「板御本尊」と書き改められたと拝察申し上げる。

いずれにせよ、草稿は下書き。あくまで未完の下絵である。
正本にこそ真意・本意が凝縮され、表示されてる。
これは、世の常識であり、道理である。

【補足】

  『家中抄零編』当時の史的背景

 また一方で、『家中抄零編』の記述には、当時の万年救護本尊をめぐる富士門下の複雑な状況との関連性も看過できない。
それは日精上人御在世当時、日郷師が大石寺から持ち出した保田妙本寺所蔵の大聖人御筆御本尊が売りに出されるといった事件が何度か起こった。
 のちに、日精上人が保田妙本寺に宛てて出された書状には、

「然れば、南条七郎二郎時光授与の御本尊売物に之れ出ず。二月八日拝見致し候。此の本尊は日目御相伝にて富士大石寺より外には之れ無き御本尊にて候(中略)是は貴寺の重宝たりと雖も、又大石寺の証文にて候故に是くの如き論議仕り候。貴寺の御霊宝御吟味になられ、御覧あるべく候(中略)ケ様の霊宝の売物に出し申し候は、偏えに興門の瑕瑾に候間、申し進らす所、此くの如くに候」(歴全二−三一九頁)

と記されている。
 すなわち日精上人は、唯一正統たる大石寺の唯授一人血脈相承をお受けになられたお立場より、「南条七郎二郎時光授与」(南条時光)の御本尊が外部に売りに出されている事実を深刻に受け止められ、このような不始末を繰り返す妙本寺に対し、妙本寺所蔵の御本尊が本来は「大石寺の証文」であることを主張されるとともに、御本尊を売り渡すことは「興門の瑕瑾(かきん)」であると仰せられている。

 万年救護本尊は、日興上人、日目上人御在世当時は大石寺に格護されていたが、東坊地をめぐる一連の問題において日郷師が持ち出し、以来、日郷師が開いた妙本寺に伝承されてきた経緯がある。しかし、日精上人の時代に、一時、妙本寺から外部に放出したことがあった。
 この事件に関して『家中抄』に、

「弘安二年に三大秘法口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与したまふ万年救護の本尊と云ふは是なり。日興より又日目に付属して今房州に在り、比西山に移り、うる故今は西山に在る也」(歴全二−一四五頁・傍線・長谷川御尊師)

とあるように、日精上人が『家中抄』の正本を述作された時点では、当本尊が西山本門寺にあったことが記されている。
 この万年救護本尊は、大聖人から日興上人に授与され、また日目上人が最後の天奏に随身されたとの伝承(歴全二−一九九頁)を持つ御本尊であり、富士門流にとっては法義的にも、歴史的にも非常に重要な意義を有する御本尊である。
日精上人は『家中抄零編』述作当時の万年救護本尊をめぐる妙本寺の不穏な動きを察知され、万年救護本尊の散逸を防ぐとともに、本来、万年救護本尊は大石寺の宝物であるとの意を込めて、改めて自らの著書である『家中抄』に「万年救護本尊」の深い意義を記し、このような憂慮すべき事態に警鐘を鳴らされたとも拝察できる。

 ともかく、日精上人が正本で記されたように、「弘安二年大御本尊」を「板御本尊」たる本門戒壇の大御本尊とされた記述を日精上人の最終決判、御本意と拝すべきであり、この事実は疑う余地がない。

   「見解の揺れ」 について

 金原君は、日亨上人が『家中抄零編』の当該箇所

   カ テ ニ  ル   ト        板              当山一
「日興 宛 身 所給 等 者是万年救護御本尊事也、今在 房州妙本寺
                                     二

の記述に関して述べられた、

「亨云板ノ字ハ精師ニ似タレドモ当山ノ二字ハ全ク因師ナリ又二所ノ消シ方精師ノ例ニアラズ又師ニ万年救護ノ説アルコト年譜ニハ弘安二年ニ態トカケタリ常在寺ニハ万年板本尊ヲ本堂ニ安シタリ」(研教六−三六二頁)

との説、また、『富士年表』の「弘安二年」の項の、

  「○ 日興に文永十一年十二月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う」

との記事を挙げて、

▼「当の大石寺においてさえ、『跡条々事』の『所給弘安二年大御本尊』について、見解に揺れを残しているのである」(日蓮と本尊伝承一五四頁)

などと、あたかも宗門には見解の揺れがあるかの如く述べている。

 先にも指摘したとおり、日精上人の御真意は正本に明らかであり、『日興跡条々事』の「弘安二年大御本尊」を本門戒壇の大御本尊と拝されていたのである。
したがって『家中抄零編』の記述を訂正されたのが、日精上人御自身であった場合は当然であるし、またそれが全て三十一世日因上人がされたことであったとしても、正本の「家中抄」に照らして、草稿『家中抄零編』を拝し、正本の日精上人の真意に沿って改められたことは、道理顕然であろう。

善Q麿君などのレベルでも、この道理は理解出来るかな?
あくまでも万年救護本尊に執着して、上記の道理が出来ない。のであれば、それもまた結構。
万年救護本尊を夢に抱きしめて永劫に三世を彷徨うがよかろう。

 さらに、『富士年表』の記述は、日興上人が大聖人より万年救護本尊を弘安二年に授与されたという事蹟を、『家中抄』を根拠として載せたものである。
その根拠となった「家中抄」の文は、

■「弘安二年に三大秘法口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与したまふ万年救護の本尊と云ふは是なり」(歴全二−一四五頁)

である。
一方その「家中抄」には

■「日興が身に宛て給はる所等とは是れ板御本尊の事なり、今に当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有(ましま)す故なり」(歴全二−一九五頁)

とあって、大聖人が日興上人へ相伝・授与されたのは弘安二年御建立の「板御本尊」=戒壇の大御本尊であることを明示されておられる。。
それを混交して「見解に揺れを残している」などと得意気にあげつらうこと自体が愚劣・幼稚・稚拙・・・であろう。
というより偏執者とでも言おうか。

このような痴論に化かされる善Q麿君や謗法退転者も、同類の愚昧な者達である。

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