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集団暴行事件を引き起こしたこと等で1974年(昭和49年)に破門された妙信講は、その後、冨士大石寺顕正会と名称を変遷、1998年(平成10年)の奉安殿完成に衝撃を受け、正本堂解体に賛意を示したが、会長の浅井は自派の寺院だった顕正寺の宗門への寄進、そしてその後の顕正会解散の約束を取り消して、「日顕上人の決定は一方的で独善的。未だに国立戒壇に対して怨嫉の心を持ち続けている」等と発言、国立戒壇への固執は改めず、暴力事件を伴う強引な勧誘で社会的批判を浴びる中[6]、単立宗教法人として独自路線を歩んで現在に至る。


概要[編集]

宗教法人格を所有していなかった顕正会は、顕正寺の信徒団体という位置づけを行っており、宗教法人格取得以前の顕正会本部職員は、「宗教法人顕正寺顕正新聞社」の団体職員となっていた。しかし、「宗教法人顕正寺顕正新聞社」の代表役員は顕正会会長・浅井昭衛であり、表立って在家教団志向を出せなかった時代のカモフラージュに過ぎなかった。1978年3月建立-2003年5月破却。かつての顕正会では、顕正寺を「御遺命守護の戦いの象徴」としてきた。1996年に宗教法人顕正寺顕正新聞社は宗教法人顕正会へと移行し、以後、顕正寺は名実共に顕正会の一付属施設となった。2003年、顕正会本部の方針転換にもとづき、顕正寺は廃止された。以下、建立に至る経緯から破却までの詳細を時系列に即して述べる。

松本日仁[編集]

顕正寺「開基」とされる松本日仁(まつもとにちじん)は、日蓮正宗妙縁寺の住職として、また、権僧正(ごんそうじょう)の位にある高僧であったが、正本堂の定義をめぐる論争で国立戒壇論堅持を主張する浅井甚兵衛・浅井昭衛父子らに徹夜で軟禁されて、浅井親子の説得に応じる形となった。当時の様子について浅井昭衛は、総本山から戻った松本から電話があり、妙縁寺を訪ねたと主張しているが、その時刻を夕方と言ってみたり、深夜と言ってみたり、一貫性を見ないが、徹夜で松本住職を軟禁したことは事実のようである。その結果、1974年12月25日に擯斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放すること)となった人物である。松本は、妙信講の後押しを受けて擯斥処分を不服とする訴訟を起こしたが、その訴訟の最中である1977年に至って、老衰で緊急入院し危篤状態となった(当時86歳)。妙信講顧問弁護士が委任権限を行使して「松本が妙縁寺に遺してきた銀行預金1億2500万円を、日蓮正宗側は、松本に引き渡すべく所定の口座に振り込む」との和解条件を受け入れ、この訴訟は取り下げられた。妙信講顧問弁護士が指定してきた口座は「顕正寺建立準備資金」名義の銀行口座であり、松本の死後、この1億2500万円が、顕正寺建設の資金等として使用された。松本の遺族らは抗議したが、すでに後の祭りであった(元創価学会顧問弁護士・山崎正友が『慧妙』紙に連載した手記による)。
なお、浅井昭衛は後年、「松本が臨終間際に新聞紙に包んで金子を自分に手渡した」と発言している(顕正新聞 平成十一年四月二十五日号)が、これは、銀行振込によって宗門から妙信講の手に渡ったという1億2500万円とは別の話で、数百万円だといい、当時赤字であった顕正新聞社の赤字補填に使用されたとのことである(下山正行こと下山正恕こと藤田実=本名・上原成宏、故人であるが顕正会壮年部員であるにもかかわらず日蓮正宗信徒と詐称して『冨士大石寺顕正会』なる礼賛本を執筆するなど、顕正会を擁護した人物の証言)。
顕正新聞平成十一年四月二十五日号における浅井の発言

八木直道[編集]

松本と同じく妙信講と行動を共にした八木直道(やぎじきどう)元・要行寺住職(静岡県富士宮市)も、日蓮宗富士派時代の1910年に出家得度した宗内最古参の僧侶の一人であったが、1974年10月15日に擯斥処分となった。擯斥処分当時は隠居の身であった。もっとも彼の場合は、創価学会のありかたに対する憂慮から正本堂に対し疑問の声をあげたのであって、必ずしも国立戒壇論そのものには固執していなかった。顕正寺の落成後、彼は妙信講を頼り、顕正寺住職に就任した。しかし、浅井昭衛にとってみれば、寺院住職を自らの指導教師として仰ぐなどという心情は全くなかった。結局、八木は間もなく顕正寺を退出した。なお、1985年には、自らの非を日蓮正宗法主に謝罪したことが認められ、日蓮正宗に復帰している。
その後、養子であった八木日照(元・大石寺主任理事、現・日蓮正宗総監)が住職をしていた大石寺妙泉坊で隠居、1995年9月、98歳で逝去。

村松禎道[編集]

八木が退出した後1980年の顕正寺に浅井昭衛の要請で入った。彼は、日蓮正宗で所化(しょけ=修行中で住職になる資格はない)の修行を退転して北海道の実家に戻っていたが、住職代行に就任した。さらに1984年には、住職の称号も浅井昭衛によって与えられた。
村松は当初、浅井昭衛の紹介で見合い結婚し、顕正会の法要でたびたび導師を務め、また唯一の葬儀・法要執行要員として全国を飛び回るなど、会になくてはならない存在となったかに見えた。
しかし元々が僧侶を見下している浅井の考えがあり、年々、過激な僧侶不要論へと傾くにつれて影が薄くなっていき、葬儀・法要の執行は、徐々に在家幹部に取って代わられていった。そして、冨士大石寺顕正会典礼院が建設された後も村松は顕正会本部職員の肩書きを有していたが、平成17年11月末日を以て、突然解雇された。その後の動向は不明である。

顕正寺御供養の約束履行されず[編集]

浅井昭衛は従来より、「御遺命守護完結のその日には、顕正寺を時の日蓮正宗の法主に御供養申し上げる」と公言していた。1998年、浅井は、日蓮正宗総本山大石寺における正本堂から奉安殿への本門戒壇大御本尊遷座に衝撃を受け、顕正会内部で「御遺命守護完結奉告式」を開いたが、顕正寺御供養の約束は実行しなかった。 これは「日蓮正宗現管長、阿部日顕管長が、今まで犯した罪に対して一分の改悔もなく、未だに国立戒壇を怨嫉の心を持ち続けているゆえ」となっている。

顕正寺の消滅[編集]

2002年、浅井は「顕正寺を改築する」と発表、翌2003年、改築の成った建物を「冨士大石寺顕正会典礼院」との名称で発表し、それは納骨堂と葬儀場の施設で、管理は顕正会の在家幹部が行うことも明らかにされた。しかし、「顕正寺」の時代から、住職が常駐するようにはなっておらず、僧侶が住むはずの庫裏には在家幹部が宿泊・滞在して管理を行ってきたのであり、このことに特別な意味はない。そもそも顕正寺自体が安普請であり、竣工直後に地盤沈下によって本堂が傾いた為に慌てて修復工事を行った結果、須弥壇の高さを縮小せざるを得なくなり、小幅の板曼荼羅すらもその3分の1程度が欄間に隠れてしまうといった有様であったので、この改築は後手であったと言わざるを得ない。また、村松は常に浅井の講義で勉強をしており、僧侶が教える側、在家が学ぶ側、という日蓮正宗のあり方とは異なる路線をとってきたのであるから、村松を追放したのも時のしからしむるところといえるであろう。

顕正寺の寄付計画(自動)消滅[編集]

そもそも「宗教法人顕正寺」の寺院規則には「この寺院は御遺命守護完結のその時に宗門に寄付する」(趣旨)と言う条項があった。しかしこの条項は、『宗教法人顕正寺』から『宗教法人顕正会』への「名称変更」に伴い消滅した。その後顕正会が「御遺命守護完結奉告式」が挙行されるにおよび、内外から「顕正寺の寄付計画」を何時実行するのかという物議を醸した。しかし顕正寺の消滅に伴い、実質的にこの計画も消滅した。


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