▼ 回答A 2018/08/08 21:18
貴方は…
『そもそも、「血脈における総別の二義」が全く分かってないからこのような痴言を吐けるんですね。 御書を拝してみましょう。』
と【建治二年の曽谷殿御返事 】
を引いて解説をしましたが…
●ここで、曽谷殿御返事の御文を改めて引用します。
『日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う、然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり、総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず、輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇て成仏せず。譬えば大海の水を家内へくみ来らんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいな?
?べし』
◆まずこの御文の意ですが、元々は貴方が述べた【血脈の総別の二義??】なるを示されたものでは無かったはずです。
◆本来の総別の二義とは…
大聖人様が【経・釈(天台・妙楽の三大部)】を通して、法華経本門に於ける、【釈尊の付嘱の儀式】に【総付嘱】と【別付嘱】がある事を示され…
この【総・別】を弁えず※1【根源の師】を間違えたら【成仏】は叶わず…
※2【生死輪廻】を繰り返す【因】となる事を示されているのでは無かったのですか?
※1【根源の師】
@総付嘱⇒今日(こんにち)の声聞(舎利弗等)にとっては、大通智勝仏の第十六王子である釈尊。
〈今日=釈尊在世の事を指します〉
A別付嘱⇒末法の衆生にとっては、上行菩薩。
文底顕本すれば久遠元初の自受用報身即ち大聖人様。
※2【生死輪廻】
業のままに生まれ業のままに死する、六道を輪廻する。
◆【釈尊の付嘱の儀式】
?別付嘱⇒神力品に於ける、本化上行菩薩への結要付嘱(本尊付嘱)の事。
★付嘱の法体⇒四句の要法に結ばれた、寿量品文底の本門の本尊
★時⇒末法
★機⇒末法の衆生の為
?総付嘱⇒嘱累品に於ける、本化・迹化・他方の無量の菩薩へ、爾前を含む一切経を付嘱した事。
★付嘱の法体⇒文上の法華経及び前後の
爾前経・涅槃経等を含む一切経
★時⇒正像ニ千年
★機⇒熟脱の衆生の為
貴方の解釈が、今の宗門公式なんですか?
お答え下さい。
◆『日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う、然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む』
↑
この段は…
大聖人様が【外用の御立場】の上から、御自身が【上行菩薩その人・或いは上行菩薩の御使い】でも無いが…
然れども【上行菩薩】に【別付嘱された法体】を【上行菩薩出現までの先序として】あらあら弘めているのである。と仰せになり…
智慧の枯れ果てた【末法の衆生】の為に、既に【上行菩薩】が【釈尊】より譲り与えられた※【妙法の智水】を【上行菩薩】が流れ通わして下さる。
然るに【この法門】=【御内証で云えば三大秘法】を大聖人様が弘めている。
と仰せになったのです。
※【妙法の智水】=境智のニ法の智慧の水=御内証より拝せば、久遠元初より已来(このかた)大聖人様が御所持になられている、寿量品の文底秘沈の大法。
つまり…
外用【上行菩薩】の御再誕が【大聖人様御自身】である事を間接的に示され、その御内証は【久遠元初の自受用身】である事をお示しになられている段です。
◆『又是には総別の二義あり、総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず、輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇て成仏せず。譬えば大海の水を家内へくみ来らんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり』
↑
この段は…
釈尊の付嘱に【総付嘱】と【別付嘱】の二義があり、これを弁えなければ成仏は思いもよらず【生死輪廻の因】となる。
例えば、三千塵点劫に於いて【大通仏の第十六王子】の【釈尊】に下種された【今日の声聞】は、阿弥陀如来や薬師如来に遇っても成仏出来ない。
釈尊在世【今日の声聞】にとっての【根源の師】である釈尊から、その種を熟され脱せられなければ、成仏はできない。
その種・熟・脱の因縁の理を【大海の水】の譬えを以て示されているのです。
◆『法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし』
↑
この段は…
法華経の【大海の智慧の水】を受け継いだ【根源の師】を忘れて、余所に心を移してしまったら、必ず【生死輪廻】禍(わざわい)を招く。
即ち【末法の本未有善の衆生】に於いては【根源の師】=【上行菩薩】顕本して【久遠元初の自受用身】の御再誕【日蓮大聖人様】を忘れて、他仏に心を移してはならない事を御示しです。
??????????????????
貴方の解説は【釈尊の付属の総別のニ義】を【歴代貫主絶対論】にすり替えたものではないでしょうか?
適当過ぎて、何回読んでも意味が分かりません!!
↓
■ ※1「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて」、※2「末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。」
是れ智慧の義なり。 ※3「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。」※4「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。」 ※5「又是には総別(そうべつ)の二義あり。」
※6「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん。」
(中略)
※7「譬へば大海の水を家内へく(汲)み来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。」
※8「然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案(びゃくあん)なり、大愚癡(ぐち)なり。」
※9「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。」
(曽谷殿御返事
建治二年八月二日 五五歳 1039)
この御文の意義が全く理解できてないから上記の如くの妄執に執り憑かれるんですね。
ここに、結要付嘱=血脈相承 そこから開いて総付嘱との深義が示されています。
■ ※1「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて」
ここは
釈尊 → 上行菩薩へ 結要付嘱=血脈相承された(=別付嘱)
との意義ですね。
次に ■ ※2「末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。」
ここは、その上行菩薩が末法出現して日蓮大聖人として衆生へ仏法の功徳を流れ通わす(=総付属)
という意義です。
それをもう一度再説されます。
■※3「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。」=結要付嘱=血脈相承=別付嘱
■※4「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。」=総付嘱
そして、
■※5「又是には総別(そうべつ)の二義あり。」
まさに、今解説したようにここに別付嘱と総付嘱の意義があるんだぞ。と仰せです。
そうして、
※6「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん。」
この別付嘱と総付嘱の筋目・縦分け・けじめ というものに少しでも背いたら、不幸の境界から永遠に這い出せない。
いつまでも不幸の境界をグルグル回り続けるぞ。と戒めです。
更に、
※7「譬へば大海の水を家内へく(汲)み来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。」
大海の水=仏法の大功徳 はそのままでは我が家の功徳としては活かすことはできない。
必ず家の中まで引き込んで来なければならない。
今で言えば、水源地→我が家の水道の蛇口 という意味ですね。
そこで、
※8「然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案(びゃくあん)なり、大愚癡(ぐち)なり。」
その水道の蛇口から出る水を差し置いて、他から水源地の水を求めてもそれは全く愚かであり曲がった考え方であり、大馬鹿者である。 と仰せです。
そうして
※9「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。」
つまり、水源地の功徳を伝えてくれる大元、そしてその大元から流れ通って現実に目の前にある水の元である蛇口を疎かに考えて、それ以外に水の出元を求めたらそれは結局六道輪廻するだけ、ひいては必ずや三悪道へ引き釣り込まれていく。。ということですね。
以上を総合すると、自分たちにとって直接の別付嘱があってこそ初めて自分たちに総付嘱としての功徳が流れ通う。という原理です。
例えば温泉で言えば、源泉からパイプで引き込んできて、ホテルの浴槽にお湯を溜める。
そのお湯に漬かって心身の病気を癒したり、体を流したり、、と温泉の恩恵に預かる。
そういう次第ですね。
浴槽に温泉が溜まる入り口はその浴槽に直接接続された温泉口というか蛇口というか、温泉の出るところですよね。
例えが軽くて誠に申し訳ないが
日蓮大聖人はまさに仏宝・法宝の源泉
歴代御法主上人は源泉から今の時代まで続いているパイプ
そして今我々が恩恵を預かることができる浴槽に直接温泉を供給しているのが、現御法主上人という原理ですね。
これが総別の二義のザックリした意義です。
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● 2018/08/09 11:46
上記の駄文、ざっと流し読みしたが、こんな痴見に詳細につきあってあげることもないか。
「狂人走って不狂人走る」 という愚を冒す必要もない。
御書は
一往 再往
文上 文底
当分 跨節
外用 内証
教相 観心
開 合
附文 元意
与 奪
隠 顕
仏意 機情
総 別
などの二重、三重。。。との拝し方があり、これは正統な御本尊への正しい信行がない者には絶対に得ることができない智見である。
簡単な例で言えば、
円錐形は上から見れば 円 横から見れば 三角
脳が未分化で三次元空間が認識できない者は この 円 か 三角 という二次元的側面しか理解できない。
しかし実際は、円錐形は 円の要素もあり しかして 三角の要素もあり その両様を併せ持って成り立つ三次元的物体である。
二次元的世界しか認識できない脳が未分化な者に、どう円錐形の実体を説明しても理解できないのである。
貴君もまさにそういうこと。
これ以上はその脳の未分化の者にどう説いてやっても無駄ということである。
■
親疎(しんそ)と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ。(報恩抄送文 建治二年七月二六日 五五歳
1037)
この御指南を忠実に守るのみである。
血脈相承に約して現時の我々の信仰に即して 総別の二義 の意を端的に言えば、
別付嘱=御法主上人への唯授一人・血脈相承
総付嘱=その御法主上人から流れ通うところの僧俗全般の信心の血脈により受ける功徳
であるから御法主上人を尊信しないで日蓮大聖人=戒壇の大御本尊の功徳は絶対に流れ通わない。
顕正会は現御法主上人を尊信していない。むしろ侮蔑・憎悪している。
が故に、貴君は30数年顕正会やっていても、人格は常軌を逸した変質的な超自己偏愛者となり、全く功徳のない50代を心身の病と貧困と孤独に喘ぎながら過ごしているのである。
で、上記の 総別の二義 の解釈が正統である文証をあげて、以って破折とする。
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文証
■ 仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)
この御文を貴君の”怪釈”で会通できますかね?
やってごらん?おそらく噴飯モノの”沈””怪”答が来ることであろう。
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■ 末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)
まさに貴君は仏・法・僧の三宝の恩を報じてない。なので、、、
■ 華厳経に云はく「恩を知らざる者は多く横死(おうし)に遭(あ)ふ」(四条金吾釈迦仏供養事
建治二年七月一五日 五五歳 994)
このように、横死に遭うぞ!と大聖人様はお叱りだぞ。
大事故・大怪我・大病に重々お気をつけ遊ばせ。
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■ 凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(真言見聞 文永九年七月 五一歳 608)
貴君は御法主上人を謗るが故に 謗法 である。
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■ 修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。(得受職人功徳法門抄 文永九年四月一五日 五一歳 589)
ここも意を拝すれば、唯授一人・血脈相承の御法主上人はその内証は仏の位と等しい。日蓮大聖人からのお使いである。
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■ 一 日蓮己証の事(1854)
仰せに云はく、寿量品の南無妙法蓮華経是なり。地涌(じゆ)千界の出現、末代当今の別付嘱の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提(えんぶだい)の一切衆生に取り次ぎ給ふべき仏の勅使上行菩薩なり云云。取り次ぎとは、取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り玉ふ。さて上行菩薩又末法当今の衆生に取り次ぎ玉へり。是を取り次ぐとは云ふなり。広くは末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり。是を無令(むりょう)断絶とは説かれたり。又結要(けっちょう)の五字とも申すなり云云。上行菩薩取り次ぎの秘法は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。(御講聞書
弘安三年五月
二八日 五九歳
この御文、まさに総別の二義を鮮明に御説きである。
「末代当今の別付嘱の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提(えんぶだい)の一切衆生に取り次ぎ給ふべき仏の勅使上行菩薩なり」
別付嘱 「釈尊より上行菩薩の手へ取り玉ふ」
総付嘱 「上行菩薩又末法当今の衆生に取り次ぎ玉へり。」
「広くは末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり。是を無令(むりょう)断絶とは説かれたり。又結要(けっちょう)の五字とも申すなり」
これまさに、日蓮大聖人→日興上人→日目上人・・・・と次第して 「取り次ぎ取り次ぎ」(=唯授一人・血脈相承)して 「無令(むりょう)断絶」 断絶せしむること無けん と未来永劫に繋がっていく。 という義である。
それまさに 結要付嘱=別付嘱=唯授一人・血脈相承 である。と。
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■ 「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(御本尊七箇之相承
聖典三七九n)
代代の聖人悉く日蓮なり これも百六箇抄の義と同義である。
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■ 本山の住持の当職(末寺も此に准ず)は三世諸仏高祖開山三祖の唯一の代表者なれば・仏祖も殊に現住を敬重し給ふが故に供養の一切の酒を当住持が始らるゝは勿論の事にて・即宗開三祖が自ら受け給ふ姿なり (日亨上人 富要1-145)
■ 先師先師は過去して残る所は当住持計なる故なり、住持の見玉ふ処が諸仏聖者の見玉ふ所なり。(同1-146)
■ 住持の上人は高開三祖等次第に過去し給へる後の現存者なるを以て・現住即高開三の代表にして・現住の見る(施物を)所は仏聖人の見給ふ処なる故云々 (同1-146)
まさに現御法主上人の御内証に日蓮大聖人・日興上人・日目上人の御内証が相伝・伝持されている。という文意ではないか。
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これらの文証により、今回の駄文における貴君の痴言は全く通用しない。
資格試験のための勉強にお忙しい中、まことにご苦労さん!