● 2018/08/04 18:41

いや〜〜、以下の痴論、驚くべき暗愚さですな。びっくりです。

細かく切り刻んでいきますか。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼もちろん、日興上人の清き流れの化儀のままの歴代上人は【僧宝】であり【貫主】であり、仰ぐべきです。
顕正会は正しい歴代上人を【僧宝】として仰いでいます。
ですから顕正会には【信心の血脈】が通っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

● ↑ 全く論理が通っていないですね。

そもそも、「血脈における総別の二義」が全く分かってないからこのような痴言を吐けるんですね。
御書を拝してみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ ※1「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて」、※2「末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。」
是れ智慧の義なり。
※3「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。」※4「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。」
※5「又是には総別(そうべつ)の二義あり。」
※6「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん。」
(中略)
※7「譬へば大海の水を家内へく(汲)み来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。」

※8「然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案(びゃくあん)なり、大愚癡(ぐち)なり。」
※9「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。」
(曽谷殿御返事    建治二年八月二日  五五歳 1039)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この御文の意義が全く理解できてないから上記の如くの妄執に執り憑かれるんですね。


ここに、結要付嘱=血脈相承 そこから開いて総付嘱  との深義が示されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ ※1「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて」  

ここは

釈尊 → 上行菩薩へ 結要付嘱=血脈相承された(=別付嘱) 

との意義ですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次に ■ ※2「末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。」

ここは、その上行菩薩が末法出現して日蓮大聖人として衆生へ仏法の功徳を流れ通わす(=総付属)

という意義です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それをもう一度再説されます。

■※3「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。」=結要付嘱=血脈相承=別付嘱
■※4「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。」=総付嘱
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、

■※5「又是には総別(そうべつ)の二義あり。」

まさに、今解説したようにここに別付嘱と総付嘱の意義があるんだぞ。と仰せです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうして、

※6「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん。」

この別付嘱と総付嘱の筋目・縦分け・けじめ というものに少しでも背いたら、不幸の境界から永遠に這い出せない。
いつまでも不幸の境界をグルグル回り続けるぞ。と戒めです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
更に、

※7「譬へば大海の水を家内へく(汲)み来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。」


大海の水=仏法の大功徳 はそのままでは我が家の功徳としては活かすことはできない。

必ず家の中まで引き込んで来なければならない。
今で言えば、水源地→我が家の水道の蛇口 という意味ですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで、

※8「然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣(さしお)きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案(びゃくあん)なり、大愚癡(ぐち)なり。」

その水道の蛇口から出る水を差し置いて、他から水源地の水を求めてもそれは全く愚かであり曲がった考え方であり、大馬鹿者である。 と仰せです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうして

※9「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。」

つまり、水源地の功徳を伝えてくれる大元、そしてその大元から流れ通って現実に目の前にある水の元である蛇口を疎かに考えて、それ以外に水の出元を求めたらそれは結局六道輪廻するだけ、ひいては必ずや三悪道へ引き釣り込まれていく。。ということですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上を総合すると、自分たちにとって直接の別付嘱があってこそ初めて自分たちに総付嘱としての功徳が流れ通う。という原理です。

例えば温泉で言えば、源泉からパイプで引き込んできて、ホテルの浴槽にお湯を溜める。

そのお湯に漬かって心身の病気を癒したり、体を流したり、、と温泉の恩恵に預かる。

そういう次第ですね。
浴槽に温泉が溜まる入り口はその浴槽に直接接続された温泉口というか蛇口というか、温泉の出るところですよね。

例えが軽くて誠に申し訳ないが

日蓮大聖人はまさに仏宝・法宝の源泉
歴代御法主上人は源泉から今の時代まで続いているパイプ
そして今我々が恩恵を預かることができる浴槽に直接温泉を供給しているのが、現御法主上人

という原理ですね。

これが総別の二義のザックリした意義です。

これが分からないから、自分の教学未熟も省みず
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼顕正会は正しい歴代上人を【僧宝】として仰いでいます。
ですから顕正会には【信心の血脈】が通っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんば馬鹿なことが平気で恥ずかしくもなく言えるわけです。

この姿を例えれば、源泉からパイプにつながっているちゃんとした浴槽が現にあるのに、その浴槽を嫌い、馬鹿にして、それとは別のパイプがつながっていない全くお湯が入っていない空の浴槽に入って「ああ〜いい気持ちだ〜〜」って言っているに等しい。で風邪でもひくわけですよ。

実に惨めな姿ですね。

だから、顕正会30数年もやってるのに全く功徳がないんです。
だから、病気も治らない。貧乏も治らないんですね。

お分かりか?