■諸の法身の大士、善財童子・文殊師利・舎利弗・目連も皆天竺の婆羅門の家に生まれて仏の化儀を助けんとて、皆人の形にて御座しましき。(7)
■国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉るべき者なり。(最蓮房御返事 文永一〇年一月二八日 五二歳 642)
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右衛門大夫殿御返事 弘安二年一二月三日 五八歳
抑(そもそも)久しく申し承らず候の処に御文(ふみ)到来候ひ畢(おわ)んぬ。殊にあを(青)きうら(裏)の小袖一(ひとつ)、ぼうし(帽子)一(ひとつ)、をび(帯)一すぢ、鵞目(がもく)一貫文、くり(栗)一篭(ひとこ)たしかにうけとりまいらせ候。
当今は末法の始めの五百年に当たりて候。かゝる時刻に上行菩薩御出現あつて、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづ(授)け給ふべきよし経文分明(ふんみょう)なり。又流罪死罪に行なはるべきよし明らかなり。日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品に云はく「日月の光明の能(よ)く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。此の経文に斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五(いつつ)の文字の中の人の文字をば誰とか思(おぼ)し食(め)す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。経に云はく「我が滅度の後に於て応(まさ)に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑ひ有ること無けん」云云。貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし。
十二月三日 日蓮花押
右衛門大夫殿御返事
■惣して当宗は化儀化法共事迷の所に宗旨を立るなり、化法化儀共押通し意得る事大切なり(富要1ー化儀抄註解・日亨上人)
■但し此は有師に始まりたるにあらず・宗祖開山已来の慣例として不文の化儀法度なりしを・茲に改めて有師の仰せられしを、日住が成文となしたるまでなり、他の文も亦之に準じて知るべし。
第六十八条【五十九条】、法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違へ化儀を違る事、一定弁へずして違へたらば罸文起請を以つて義理を違ると云はゞ免許有るべきなり云云。
○註解。
本条読了しがたき文あり、今平易に此を訳せば「法華宗の僧俗中に知らず知らず仏法の義理を違へ化儀を違ふることありたる時・若し真実に何の弁へもなくして違へたらば・罸文起請を上げて謝罪すれば赦免あるべきなり」と云ふ意なり「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓論せし不文の信条もあるべし、「一定」とは決定真実等の義全く慥にと云ふ意なり、「罸文起請」の事は上の第四十五条の下に委し、「免許有るべし」とは宗祖本仏の代官として時の貫首上人が・犯人の罪を免すとなり、是れ故意に為したる咎にあらざれば、已生の悪を悔ひ未生の悪をとどめて・以つて已生の善を増長し未生の善を起さしむる修道の本義に叶はしむるにあり。
開山目上已来、近くは要上の成さるゝ筋目斗り化儀法体共に仰ぐべき者なり、