駄犬は、「法華」が何か、全く分かっていない。
「法華経」にも 釈尊 天台 日蓮大聖人 と三種あることを知らないのである。
ここに表にしてみよう。(天台は省略)
弘通の次第 | 方便 | 出世の本懐・真実 | 流通分 |
釈尊 | 爾前・権教 | 法華経 | 涅槃経 |
大聖人 | 「戒壇の大御本尊」以前の御本尊 | 三大秘法→一大秘法→戒壇の大御本尊・『本門戒壇』銘記 | 「戒壇の大御本尊」以後の御本尊 |
対告衆 | 一機一縁・個人の名前 | 一切衆生・『法華講衆敬白』 | 一機一縁・個人の名前 |
■ 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1594)
■ 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘す可し秘すべし。(1595)
末法の「法華経」とは、三大秘法
三大秘法とは 一大秘法 = 戒壇の大御本尊 である。
それ以前の御真筆御本尊は、爾前権教、のような存在。
以後は、涅槃経のような存在。
すべて、一機一縁の、暫時の御本尊である。
それは「文証」である、対告衆を拝すれば明瞭。
『本門戒壇』 『法華経講衆 敬白』 と、総じて一切衆生に対して下付された御本尊は、戒壇の大御本尊のみ。
その根本である戒壇の大御本尊から正統な血脈を離れての御本尊は、現時では尊信の対象ではない。
この筋目・筋道は全く「法華誹謗」などになるはずがない。
駄犬の言い分
「大聖人御真筆御本尊は全て等しく尊信する対境である(趣意)」 とは
釈迦仏教に約して言えば、
「釈尊が説かれた全ての御経は等しく尊いのだから、全部大事に尊仰しなければいけない。」
と言っているに等しい。
法華経以前の教えは、方便権教として、一往、捨て去り、再往、法華経から開いて会用するのである。
また、法華以後の涅槃経は、法華の 流通分として会用するのである。
全て、法華経を中心、根本に据えてこそ一切経に意義が生じる。
その原理は、大聖人においても全く同様。
出世の本懐中の御本懐である、戒壇の大御本尊が御出現されれば、それ以前の一機一縁の御本尊は、全て戒壇の大御本尊へ帰入せられてこそ生きるのである。
戒壇の大御本尊後の御本尊も、同様。
その戒壇の大御本尊の御許に残念ながら還帰せられない御本尊は、現時では大聖人の御魂魄がもぬけられておられるが故に、特に尊仰はしないが、かといって、特段に排斥もしておらぬ。
将来還帰せられることへの篤い希望を持って、今広宣流布へ邁進しているのである。
駄犬は、法華経の根本である、戒壇の大御本尊への信仰から退転し、さらにはその戒壇の大御本尊を中心にとして、現然と広宣流布を推進している日蓮正宗僧俗を悪口誹謗している。
まさに、駄犬こそ
『法華(末法の法華経である戒壇の大御本尊)誹謗の極大謗法を犯しながら、
それを正当化できる文証無き大悪魔の個人信仰者である!』