駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能一覧表

さあ、クズ犬が狂乱した今日も、↓

● 2014.9.3  『 言い訳の 根尽き 同じ ツイ繰り返し 』


また頑張って破折していきましょう!

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■故に天台は「一色一香無非中道」と云云、妙楽是をうけて釈に「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚か す」云云、 華厳の澄観が天台の一念三千をぬすみて華厳にさしいれ法華華厳ともに一念三千なり、但し華厳は頓頓・さきなれば法華は漸頓のちなれば華厳は根本 さきをしぬれば法華は枝葉等といふて我理をえたりとおもへる意山の如し・然りと雖も一念三千の肝心・草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり、今 の天台の学者等・我一念三千を得たりと思ふ、然りと雖も法華をもつて或は華厳に同じ或は大日経に同ず其の義を論ずるに澄観の見を出でず善無畏・不空に同ず■

「南無妙法蓮華経の御本尊の功徳は無量無辺であり、すべてを成仏させることができる」と言うことを認めながらも、いざとなると御本仏の「御本尊と唱題の無量無辺の功徳」(主意)との金言に違背し、こともあろうに「代々の法主が開眼したり許可を与えたりしなければ御本尊には功徳がない」(主意)と平気で主張するような者を「わらひ給へる事なり」と破折された御文である!
つまり、法華講の者達は、御本尊と唱題以外にも「法主の開眼」が必要と妄信し、御本尊も大聖人の金言も信じているようで、実際は信じ切ってはいないのである。
日蓮正宗の信者は、不信謗法者なのである。

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● は〜〜〜〜〜?

一体全体、クズ犬の怪釈はどこから出てくるんだ?

ここまで、跳訳 すれば、最早、御書 も、文証 も 必要ないではないか。

クズ犬が如何に、我見我意の塊であるか、正当な訳と照合して浮き彫りにしよう。



■ 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。故に天台は「一色一香無非中道」云云。
妙楽是をうけて釈するに「然るに亦倶(とも)に色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑(まど)はし心を驚かす」云云。華厳の澄観(ちょうかん)が天台の一念三千をぬす(盗)んで華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。但し華厳は頓々(とんとん)さき(先)なれば、法華は漸頓(ぜんとん)のち(後)なれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我れ理をえたりとおもへる意(こころ)山の如し。然りと雖も一念三千の肝心、草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり。今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。然りと雖も法華をも(以)て、或は華厳に同じ、或は大日経に同ず。其の義を論ずるに澄観の見(けん)を出でず。善無畏(ぜんむい)・不空(ふくう)に同ず。


訳 (当方)

「法華経を心法とさだめて」、
「三十一相の木絵の像に」  「印すれば」、 「木絵二像の全体」  「生身の仏なり」。  「草木成仏」  といへるは是なり。

この原理は、天台大師の一念三千の法門から来ている。
その意を表わしているのが 「一色一香無非中道」  一色 一香 中道に非ざること無し。
石くれのような、さもない物質、非情、 ほんの一瞬にして消え失せる香り(色法 非情) も全て中道実相の当体である。

中国天台宗第六祖・中興の祖 妙楽大師は、この天台大師の文を解釈して

「世人は共に、一つの石くれ、砂粒一つ、或いは、一瞬の香り、などがそれぞれ中道実相の当体であることは認めても、心がない無情(非情)に仏性を具えていることを明かす一念三千の法門には、耳を疑い、驚愕している。」

華厳宗の澄観は、天台大師の一念三千の教義を華厳経の教義体系に盗み入れて、

「法華も華厳も共に一念三千を説いておる。ただ、頓機に直ちに一番先に説く、頓中の円教である華厳が勝れており、法華経は、漸機も含む頓機に、後々説いた経であるから劣る。
華厳が根本であり、魁けであり、法華は華厳の枝葉である。」

と言って、自分こそ釈尊の真意を会得した、との慢心は山の如く高い。
しかし、一念三千の肝心である、非情の草木が成仏し、生身の仏となる原理・現証を知らないことを、妙楽大師が、嗤っておられる御文である。

今鎌倉時代の天台宗の学者達も、「我こそ一念三千の悟りを得た」と思っている。
しかし、実際は、法華と華厳を同等に配立したり、或いは、大日経とも同等と思っている。
その教義内容は、澄観の教義に堕ち、同じ判釈になってしまっている。
また、真言宗の善無畏・不空の邪義とも同じになってしまっている。



この御文を正確に訳すと、以上のようになる。

クズ犬の駄訳を再掲してみよう。

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▼ 「南無妙法蓮華経の御本尊の功徳は無量無辺であり、すべてを成仏させることができる」と言うことを認めながらも、いざとなると御本仏の「御本尊と唱題の無量無辺の功徳」(主意)との金言に違背し、こともあろうに「代々の法主が開眼したり許可を与えたりしなければ御本尊には功徳がない」(主意)と平気で主張するような者を「わらひ給へる事なり」と破折された御文である!
つまり、法華講の者達は、御本尊と唱題以外にも「法主の開眼」が必要と妄信し、御本尊も大聖人の金言も信じているようで、実際は信じ切ってはいないのである。
日蓮正宗の信者は、不信謗法者なのである。

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どうであろうか、如何にクズ犬が、広範かつ深遠な仏法の教義に暗いことが如実に分るではないか。

しかも、文意と全く違う自見をペラペラ並べているだけである。

このような浅薄な浅見でしかも文意にない邪見をしか吐けぬ バカ が偉そうに大聖人の仏法を語る資格など、1マイクロミクロンほどもない。

しかも、この「木絵二像開眼の事」は、文上には「南無妙法蓮華経」とは一言も仰せではない。
つまり、全て「法華経」を基軸にお説きである。
ということは、当抄は、「釈尊の法華経」を面にして、仏法の深義を説かれておられるのである。

クズ犬は、附文 元意 の縦分けを認めなかったのではないか?

● ▼「元意」を証明する「文証」がない▼ の馬鹿さ加減を叩く

● 「文証!文証!」と道理が分からず馬鹿の一つ覚えの駄犬「考える人」を躾ける。

では、クズ犬のこの段の駄文

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「南無妙法蓮華経の御本尊の功徳は無量無辺であり、すべてを成仏させることができる」と言うことを認めながらも、いざとなると御本仏の「御本尊と唱題の無量無辺の功徳」(主意)との金言に違背し、こともあろうに「代々の法主が開眼したり許可を与えたりしなければ御本尊には功徳がない」(主意)と平気で主張するような者を「わらひ給へる事なり」と破折された御文である!
つまり、法華講の者達は、御本尊と唱題以外にも「法主の開眼」が必要と妄信し、御本尊も大聖人の金言も信じているようで、実際は信じ切ってはいないのである。
日蓮正宗の信者は、不信謗法者なのである。

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このゴミのような幼稚な作文が正しいとする、「文証」 を 「木絵二像開眼の事」の中から出してみよ。

できっこないよな〜〜〜〜。

また、謝罪文だな。 

● 謝罪文 雛型        『 謝って また謝っても 尽きぬ過ち  』 


ほれ、これを雛形に
 謝罪しな。  そうしたら追求を赦してやらないでもない。  呵々大笑。

駄文書き 今となっては 赤っ恥    惨め〜〜。