以下は慧妙誌の記事を元に多少の編集をしたものです。
当時の状況を知る上での資料となるのではないでしょうか。
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『新報』は、本宗が「国主辣暁」 「神礼受諾拒否」をなしえなかった理由は、日恭上人が大法よりも自らの身命を惜しんだゆえである、として、時局協議会文書より、
■「頑強に神札受諾を拒否すれば、日亨上人、日恭上人の投獄・獄死の危険があり、血脈断絶の危機に及ぶ。また大石寺が身延の支配下に入れば、戒壇の大御本尊が身延の支配下に置かれることになる。戒壇の大御本尊を他宗の支配下に置き、血脈断絶に至る以上の大謗法が、ほかにあろうか(趣意)」
との箇所を挙げて、これに反論する形で論を進めている。
すなわち、『新報』は「宗派合同問題」については、昭和十六年に解決済み(昭和十六年三月三十一日、日蓮正宗単独宗制認可)であり、身延の支配下に置かれる危険性はなかった−とし、「血脈断絶の危機」については、日恭上人・日亨上人が投獄・獄死という運命をたどろうとも、六十一世日隆上人が控えており、現に日恭上人御遷化後は、六十三世日満上人は日隆上人より血脈を受けている事実から考えても、なんらの後顧の憂いはなかったのだから、堂々と国主諫暁・神礼受諸拒否をすればよかったのだ−としている。
『新報』編集部には、本宗誹謗のための、都合のよい歴史しか見えないらしいが、歴史は『新報』が見るような単純なものではない。
まず、宗派合同問題は、日恭上人の、
■「たとい今首を切られてここに死すとも合同せず」(『人間革命』第一巻)
という御決意をもっての、政府役人との対決により、危機一髪のところで回避できたが、事態はそれで沈静化したわけではなく、その後も、本宗を根幹から揺るがす事件が続いていたのである。
まず、昭和十六年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた某師は、単独宗制許可後も、神本仏迹論をもって、通算五回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を「不敬罪」へと導こうとし昭和十七年にも、宗教新聞「中外日報」を使い、宗務当局に総辞職を迫るなど、日恭上人を悩まし奉っていた。
本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(慧妙紙第十三号参照)より拝される。
また、昭和十八年には、創価教育学会の不敬問題が摘発され、それが本山へも波及しそうになった。(結果的に、この時は御宗門の素早い対処により、未然に宗門本体への危難を避けることができたが)。これもまた、本宗の危機を招き寄せる一因となったのである。
昭和十六年から十八年にかけての本山は、合同は免れたといっても、このような内憂外患の状態にあり、強行に「国主諫暁」、を行ない、「神札拒否」を表明すれば、足並みも揃わないまま、御法主上人の投獄、そして宗門断絶へと進む危険性があったのである。
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次に、以下は宗門からの文書です。
創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――
宗門の謗法容認
神札の受諾と法主の焼死
昭和18年(1943年)6月、宗門は、当局から各家庭に配布されていた天照太神の神札を受けることを決断。牧口会長、戸田理事長らを本山に呼び、二上人立ち会いのもとで神札を受けるよう申し渡すが、牧口会長は断固として拒否。その直後、学会幹部の逮捕投獄となる。
一方、宗門は本山書院のほか全末寺の庫裏等に神札をまつる指示を出し、謗法の坂道を転げ落ちていった。仏法の因果は厳しく、昭和20年(1945年)6月17日、時の第62世法主・日恭が焼死するという厳罰が下ったのである。
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【創価学会に対する破折】
混乱の時代、正法を守り抜いた宗門
第二次世界大戦が始まる頃、日本は次第に戦時体制が強化され、軍部や政府の干渉によって、日蓮門下を一つの教団に統合するという「日蓮宗統合問題」が起こりました。
宗門は身延派日蓮宗などと合同するか、あるいは解散するかという窮地に陥りましたが、時の御法主日恭上人は、自ら断固として身延派との合同を拒否し、単立の認可を勝ち取りました。これによって本門戒壇の大御本尊と血脈の尊厳が守られたのです。
またこの頃、軍部主導の政府は、国家神道化を強力に推し進め、仏教各宗派に対しても神道の行事を国家行事として強制してきました。
宗門においても、言論統制の厳しい状況のもと、無用な混乱をさけるために強制的な当局の命令を形式的にそのまま宗内に伝達していました。このような異常な状況のなかで、神札問題が起きました。その神札問題とは、政府が国家統制のために国民に配布した「天照太神」と印刷された紙片を宗内の僧俗が受け取るか否かというものです。
この問題に対する宗門の対応について、日達上人は後に、次のような回顧談をされています。
■ 「このとき、宗門としても神札を祀るなんてことはできないからね、一応うけるだけうけ取って、住職の部屋のすみでも置いておこうという話になったわけです」(日達上人全集一―五―六四六n)
宗門は無用の軋れきによって国家権力が大御本尊と御法主上人におよぶことに配慮し、さらには信徒の身の安全を思い、信徒に対して、配られた神札は一応、受け取っておくよう指示しました。これは謗法厳誡の宗門として、苦慮の末、断腸の思いで下した結論でし
た。
当時、学会でも、各理事・各支部長宛に、戸田城外(城聖)理事長の名前をもって『通諜』という文書が出され、神札を粗末に扱わないよう指導したのです。
終戦直前の昭和二十年六月、大石寺の客殿は不慮の火災にあい、時の御法主日恭上人は一国謗法の責任と宗内僧俗の一切の最終的責任を一身に負われ、法衣をまとい御宝蔵にまします大御本尊を遥拝しつつ、火災のなかで覚悟のご遷化を遂げられました。
このご遷化について、後代の部外者が悪意をもって非難することもありましたが、一国の平和を願い、令法久住・広宣流布をご祈念されておられた日恭上人の深く尊いお心をも知らず、勝手な憶測をもって「厳罰」などと誹謗することは許されません。
【文 証】
【合同問題に関する文証】
『人間革命』池田大作
「猊下は、お一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の強圧の下に、実行に移されるばかりになっていた。猊下は、単身、当局に向かって『合同、不承知』をば厳然と宣言して帰られたのである。――日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断
じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ――と。その毅然たる態度、迫力に、役人は驚いた。なおも猊下は、――たとい今、頸を切られてここに死すとも合同せず――と叫ばれて、ここに正宗の法水を護り抜かれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである」(一―二六七n)
【神札問題に関する文証】
『日達上人全集』
「総本山において、天照大神のお札を貼ったことは一度もありません。(中略)別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中(※軍部が強制的に使用していた書院)へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは、事実無根であります。(中略)決して天照大神のお札を祭ったこともなければ、またそういう社を造ったこともない。また、間違ってそういうことをするのを、これを謗法といって、大聖人、日興上人、日目上人の歴代において少しもそういう謗法を、本宗においてはしたこともないし、もちろん信者にそういうことを勧めたこともない」(二―五―六〇七〜六〇九n)
【日恭上人御遷化に関する文証】
『日恭上人遺弟の追臆談』
「大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、『覚悟の死』と思われるお姿で御遷化されておいでになった。この時、私は『もし御前様が避難しようと思えば、寝室の隣の部屋(内仏様御安置)に行くことが出来たくらいなのだから、北側のベランダのある部屋に御宝蔵側はガラス戸と欄干があり、そこから空襲時の用意に常備してあった非常梯子を使って避難出来たのに』と思った。しかし、今にして思うと、上人は当時の幾つかの決意を覚悟するものがあった
と拝するのである」(大日蓮 平成六年九月号八五n)
【創価学会が主張していた文証】
『人間革命』池田大作
「焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔に自ら焼き、端座したままの姿であられたのである。しかも、正装であり、袈裟をかけた、お姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を、御安置した、御宝蔵の方に向かっていた。
猊下はお逃げになることは、いくらでも出来たのである。その証拠に、数百人の罹災者のなかで、負傷者は一名もなかった。客殿の、焼亡とともに、何故に、吾が身をみずからお焼きになったのか――凡庸の推察は、差し控えなければならない」(一―二六六n)
『大白蓮華』
「日蓮正宗の歴史をふりかえってみたとき、日目上人以後、大御本尊守護のきびしい時代に入ったと推察できる。六百余年の歳月の流れの中には、直接間接にわたって、さまざまな事件、問題が起こり世の遷り変わりに影響されたり、法統をゆするような嵐にまきこまれたこともある。しかし、いかなることがあったにもせよ、日蓮大聖人以来、六十六世の日達上人猊下にいたるまで、唯授一人の血脈相承によって、法統連綿と清浄に大御本尊が受け継がれてきたことは、不思議なことであり、大聖人の仏法の偉大さに胸うたれるばかりである」(昭和四〇年一〇月号五六n)
【参 考】
『通諜』戸田城外(城聖)
「学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと(中略)皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること」(昭和一八年六月二五日付)